12期の広場

12期の広場

我が故郷、海老江の話・あれこれ

8組   末廣 訂

 昨年3月は市岡高校を卒業して50年を迎えた。我々12期生は卒業50周年を記念して卒業式に招待され、酒井八郎君が代表して卒業生に祝辞を述べ、50年前の思い出話や後輩に激励のエールを送ってくれた。

 私が同窓会会長をしている母校の小学校から子供たちに戦争体験を語ってほしいとの要望があり、ここ数年12月初めに当時学童疎開を体験された先輩に学校で話をしてもらっている。丁度3年前、ある先輩が3月の卒業式を迎えるため、広島の疎開先から全員大阪に戻ってきたが、卒業式前日の空襲で学校も海老江の町も被害に遭い卒業式が出来なくなったままだと言う話をされた。 

 それを聞いた子供たちから一緒に卒業式をしましょうと話が出て、早速準備にとりかかった。 昔の名簿から呼びかけ、卒業証書の作成、式典の進行等々、学校と打ち合わせを重ね、63年ぶりの卒業式が実現した。

 75歳になる児童27名が出席され、感激と涙の卒業式となった。新聞、テレビで大きく報道されたのでご存知の方もおられるでしょう。

 子供の頃を思い返すと、4歳の頃は太平洋戦争の終盤で、家の前に1トン爆弾が落とされ、箒で掃いたように自宅も近所の家も無くなった。避難していた近所の防空壕から見た灰色の空は子供心に焼き付いて今も忘れることができない。そして、戦後はいつも腹をすかしていて、とかく「ひもじい」思い出だけが残っている。

 人生70年、自分が育ってきた地元のことをボチボチ振り返ってみるのも良いかなーと筆を持った。

 私が育った町「海老江」は子供の頃チャンバラごっこやかくれんぼをした原っぱにも家が建ち、町の様子は大きく変わってしまったが、大阪のド真ん中にありながら今でもどこか都会化の波に乗り遅れたような雰囲気と懐かしい風景を残す町である。

 海老江は大正の末頃まで村中に川(井路川)が流れていた。明治37年生まれの父が若い頃現在の自宅前が川で、小舟に牛を乗せて隣村(浦江)にあった田んぼに行ったという話を何度か聞いたことがある。また子供の頃、父親と一緒に町を歩いていて「この筋は川であった」とか、「この道は昔から村の地下(ジゲ)道や」とかを聞いた思い出がある。今や井路川はすっかり埋め立てられ車が通れない狭い路地となり、古い民家はそのまま残っている。
 

水郷の村 海老江 (写真説明)
この写真は海老江が水郷の村であったという証左の写真です。2年前たまたま近所の方がアルバムにあったのを自宅まで持ってきてくれました。昨年の大阪歴博の「淀川100年展」にも出しました。母親が来た時は、昭和初期でこの川は埋まっていたと考える。父が浦江村の田んぼに小舟に牛を乗せて野ら仕事に行った川です。

 海老江の横を流れる澱江(淀川)は明治18年の大風水害で大阪の大半が水につかる被害を出し、当時、蛇のように曲がっていた中津川を長柄からまっすぐ大阪湾に流す大工事が開始された。この工事で当時の海老江村の65%が川底に沈んでしまった。以後、海老江は大きく変わることになった。淀川の開削で出た土砂を捨てる為に淀川に沿って出来た運河(中津運河)がその役目を終えた後、運河沿いに次々と工場が建った。当時は道路や車が発達していなかったため、この運河が工場の資材や物品を運ぶ役目を果たしていた。やがて阪神電車が大正の初めに野田阪神から天六まで路面電車(阪神北大阪線)を走らせ、工場に働く人々を運び、そして海老江近辺にたくさんの長屋が建った。海老江の人口は明治中期まで1千人超であったのが、大正12年には1万4千人まで膨れ上がっており、この時代の成長がよくわかる。
 

国道2号線と淀川大橋 (写真説明)
広い国道2号線がほぼ出来上がり、淀川にはまだ西成大橋が架かっている。大正時代の海老江。この後、並行して淀川大橋ができる。(鷺洲町史から)

 戦前にいろんな工場が出揃って人口が増え大変にぎわった町となったが、先の大戦で戦災にあったり、疎開で他所に引っ越したりしてまたもや会社も町並みも大きく変わってしまった。かつて工場を支えてきた運河は埋め立てられ今は高速道路の候補地となっており、チンチン電車も昭和50年に廃線となって、路線をバスやトラックが走っている。
 

鉄西成線 (写真説明)
懐かしい写真です。国鉄西成線を市電が渡り、頂上に駅がありましたね。 上から松田君の琴屋の看板が見え、懐かしいです。

 海老江にJR東西線の駅ができますます便利になった。阪神電車の本社が移ってきたし、ジャスコ、ヤマダ電機等の大型店舗も進出し、工場跡には高層のマンションがつぎつぎと建築され、町の姿が変わってきている。

 一方、町の行事は子供の頃から少しも変わらず、氏神である八坂神社の祭礼を中心に大きくなってきたように思う。 海老江八坂神社は旧村時代から村中を東西南北の4つの町(チョウ)に分け、枕太鼓と3基の地車がある。毎年7月18日の夏祭りにはこの太鼓と地車が朝早く神社を出て、1日町中を練り歩く。
 

鉄西成線 (写真説明)
ダンジリ3基のうちの南之町の宮入りの風景です。狭い境内に意気込んで入って、若者が競って重い地車を担ぎあげんとしているところです。鐘、太鼓の囃子と若者の肩が合わなければ持ち上がりません。

 夜になると太鼓を先頭に次々に宮入りをし、境内で重い地車を担ぎ競演乱舞する姿は少しも変わることなく続いている。

 この夏祭りは町全体の雰囲気を盛り上げ、地方に転勤や就職した若者もこの日だけは、海老江に戻って祭りに参加している。

 私もその例外ではなく祭り前後はどんなに会社が忙しくても2-3日の有給休暇をとって祭りバカをしていた。

 私は平成3-4年の2年間、北之町太鼓の総代を務め、今は元老という大層な閑職ではあるが、それでも祭りの打ち合わせ、飲み会となると率先して出ている。

 もう1つは江戸時代から続いており、歴史書にも載っているにもかかわらず地元で余り知られていない「宮座神事」がある。

 昭和47年に大阪府の無形文化財に指定され、「大阪の祭り」にはいつも取り上げてもらっているが、現在は参加できる座衆が減ってきている。 たまたま私の家はその座衆でこの伝統行事を守っている1人であり、この伝統行事を守る責任と重みを感じている。

「宮座神事」について興味のある方は「福島区歴史研究会」のHPに記載しているのでご覧下さい。

 我が故郷海老江がさらに発展することを祈って筆をおく。
 

海老江展

6月30日まで 海老江展を福島図書館でしていますので、立ち寄って下さい。

また、6月19日(日)には午後2~4時福島区民センター3階会議室 (図書館横)にて、岩城卓二 氏の郷土史講演会があります。
入場無料(先着50名)ですのでどうぞこちらもご覧下さい。

⇒郷土史講演会案内PDF(281KB)

“我が故郷、海老江の話・あれこれ” への4件のフィードバック

  1. 川村 浩一 says:

    地域に奉仕する、うらやましい生活ですね。私はまだその心境になりません。元老という肩書きもうらやましい。
    12年前海老江の八坂さんのお祭りに招いていただきました。12期の仲間(夫婦連れで)総勢15人で押しかけご馳走になりました。ビデオを見直しましています。皆若かったですね。法被姿の娘さんもかわいいし、海老蔵君も愛嬌を振りまいていました。
    余生、いかに社会に貢献するか考え続けたいと思っています。

  2. 末廣 訂 says:

    川村さんー何時も何かと気にかけていただいており、ありがとうございます。この度、張さんからHPの投稿をたのまれ、重い手を挙げてずーと住んでいる海老江のことを書きました。
    5,6年前に貴殿からきき、その後、尼崎の道意新田、道意神社に訪問しました。昨年、「尼崎市制90年記念誌」に海老江と尼崎藩との関係を書いた記事を知り、新田開発の項を執筆された京都大学、岩城准教授に6月19日、福島区民センターで講演をする運びとなりました。
    貴殿の情報が実を結んでうれしく思います。内容に興味があれば聴きに来てください。

  3. 山西裕文 says:

    失礼いたします。
    戦前の国道の写真を拝見しまして、コメントさせていただきました。

    実は、私の父の出生地が戦前の住所で「海老江中3丁目37」とありましたが、現在は地名変更で現地にも再三産訪問しましたが、その場所が確認できません。
    (産婆さんは、阪神キネマ前 前田はるゑ とあります)

    2階建ての家で、1階は「せんべい屋 荒山商店」で昭和12~3年頃までありましたが、その2階を「山西」がお借りしていたそうです。(それ以前は市岡在住で高知県出身と聞いております。)

    当時のことを御存知の方がいらっしゃいましたら、是非教えてください。
    よろしくお願いします。

  4. 末廣 訂 says:

    山西裕文さんのコメントを拝見して、知っていること、その後調べたことをご報告します。
    福島区の町名は昭和50年頃大きく変わりました。只、海老江という名前は残りましたが、従来の上、中、下が1-8丁目になりました。当時の中3-37は現在6丁目6-21あたりになります。海老江八坂神社の近所で現在の海老江西コミュニティーセンターの隣辺りです。
    このあたりは戦時中、建物疎開地域となり、神社から野田阪神までの道と国道の間の家は強制的に取り潰され、戦前の建物は神社を除いてありません。私がお付き合いをしている龍田さんは丁度旧貴殿宅の向いで、当時の話を聞きに行きましたが、戦後まもなく引っ越してきたとのことで、戦前のことは知らないとのことでした。この一角はほとんどの方が戦後疎開地域に引っ越してこられ、残念ながら昔のことを知っている方は見当たりません。阪神松竹は映画館で子供の時によく行きました。昭和35年頃の住宅地図を持っており、いつでもコピーを送りますので、自宅6451-5485に連絡ください。

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