12期の広場

12期の広場

トゥールポンロー みおつくし中学校


清水 誠治郎(3年3組)
 

 約5年ほど前に、北九州に本部があるCMC(カンボジア地雷撤去キャンペーン)代表の大谷賢二氏と会う機会を得て、色々と話を聞かせていただいているうちにカンボジアに中学校を造ろうとの夢を持つようになりました。

 地雷の被害に苦しむカンボジアの現状は、メディアを通じてある程度の事は理解してはいましたが、本当の実態は知りませんでした。カンボジアといえばアンコールワットに代表される遺跡群が余りにも有名ですが、これらから得られる利益は確かに国の一部を潤していますが全部ではありません。米作の農業以外これと言う産業はありません。

校舎前記念写真

 翌年(2007年)カンボジアの現状を見ようと、首都プノンペンを経由してシェムリアップ(アンコールワットやトムワット遺跡群を観る為の観光基地都市)から、北西部のバッタンバン州を訪ねました。確かにプノンペンやシェムリアップは先進国文明(?)を取り入れて、電気も水も形だけはありましたが、電気はよく停電するし水は絶対飲めません。 一歩辺境の地に入ると、それは凄まじいほどの貧困があります。殊にこのバッタンバン州から北へタイ国境の付近までは、ポル・ポトの活動拠点が多数あった場所であった為に当時は地雷被害が日常茶飯事のように多数出ていた所です。

 カンボジアの地雷の歴史は、1967年カンボジアの元首であったシアヌークから許可をもらった北ベトナム軍が、カンボジア東部にあった基地と補給路を守る為に、地雷を埋めたのが最初と考えられています。そしてベトナム戦争の激化と共にアメリカは、その補給路を破壊する為に空から大量の地雷をばら撒き、陸からもベトナム国境付近に埋設しました。 このようにしてカンボジアはまったく関係のない戦争によって国内に地雷が持ち込まれました。その後20年に亘る内戦が国を疲弊させていきます。

 1970年頃、独裁政権のシアヌークからロン・ノルが政権を樹立しましたが汚職が激しく ポル・ポト派やカンボジア共産党派など3派による内戦がカンボジア全土に広がりました。 その広がりと共に地雷の埋設量も増えていきます。対人地雷は非常に安価で3US弗から 10US弗位です。

 1975年、ポル・ポトが政権を奪いますが、これからカンボジアの暗黒がはじまります。 1975から1979年の4年間で、200万人とも言われる知識階級層の大虐殺がありました。 そして1979年ベトナムからのヘン・サムリン政権が誕生します。同じ頃、飢えが原因の難民や、ポル・ポト派もタイの国境付近に避難をしていました。そこでベトナム軍は国境を越えての流出を防ぐ為に、タイ国境からラオス国境までをK5障壁と呼ばれる大規模な地雷原で覆い、流出を阻止しようとしました。その時、この付近に100万個もの地雷が埋設されたのです。それから1992年に国連カンボジア暫定統治機関が入るまで内戦は続き、平和はありませんでした。

 対人地雷は相手を殺す為にあるのではなく相手の目や、手足など体の一部を傷つける事により、恐怖心や救助活動等の影響を与えて相手戦力を弱めるのが目的です。 対人地雷には50種以上の種類が確認されていますが、一番厄介なのは残存.残虐性と無差別性です。戦争が終わって平和になったからと言っても安心は出来ません。地雷は土の中で何十年も生き続けます。触雷しても即死する事は稀ですが、現実は2名に1人が致命傷となり命を落としています。カンボジアでは病院到達までの平均的所要時間は12時間と言われています。事故後6時間以内に治療を受けないと傷口から感染症が起きて破傷風になる危険性が高く落命する人が多いのが現状です。

 そこで私たちは地雷原で困っている地域に中学校を造ろう、辺境で光が余り届かない地域に中学校を造ろうと思いました。 人口の8割を占めるクメール人は殆どが農村部に住み農業を営む熱心な仏教徒で、どんな小さい村でもお寺があります。自分たちは粗末な草葺の家(家と言えるだろうか?)に住んでいても、お寺にはお金をかけて立派なお寺が建っています。 街のスラムの子供達は学校に行く事もなく、物売り、物貰い、単純労働者として働いています。

 農村部の生活はやっと平和が訪れて、落ち着いた生活をしているように思われますが田畑に埋まる対人地雷の恐怖と水害が農民を苦しめています。さらにマラリア、結核、エイズ等の感染症にさらされています。人口構成は50%が15歳未満の子供達で、カンボジアは“若者の国”であると言えます。しかし子供達の健康を維持する為の食料は自然の食物、野生の果物や草、小動物のねずみ、カエル、蛇、小鳥、蜘蛛、コオロギ、バッタ、タガメ、エビ、カニ、タニシや魚類に頼っていて何でも食べます。ある時、カンボジア滞在中の事です。アキ・ラーという天才的な地雷撤去の名人が言いました、“今日の昼のおかずは、サル汁で美味しいよ”って。それを聞いた私はえ・・・・っと思いましたが、一緒に食べました(小さいスプーンに少しだけ)。そういう国であり環境なのです。

 田舎の子供達の遊びは生活に密着した魚・虫・草・果物取りが主な遊びとなっていますが5歳以下の50%の子供たちが栄養不良で亡くなることが多いです。衛生的な飲料水の常時獲得が急務です。風呂もない、トイレもない、充分な寝具も無く同じ服を何日も着て蚊に刺されている生活の向上が急がれ、衛生的な水の確保、児童労働のストップ、医療施設の充実、衛生的な教育が本当に必要です。
又、子供の人権が無視されて人身売買が今も行われています。女の子は5百㌦位で売られて、一定期間特定の男性のおもちゃにされた後、置屋に売られて流れていきます。置屋では消耗品の如く朝早くから客をとらされ、寝る事も許されない。次第に弱り感染症に罹り若くして死んでいく。男の子は奴隷のような重労働と不道徳セックスの相手にされる。海外に売られる子供たちも少なくない。なんとも言いようのない思いがあるが貧困を無くして、文盲を無くさない限り、人身売買は続きエイズ患者はますます増えていく事だろうと思います。カンボジアは若者の国です。若者達への教育がこの国を支え、よき方向へと変えていくと思います。教育を普及させる為には学校が必要です。学校を造るのには、1校舎5教室ぐらいの規模で約50000ドルが必要です。私は当時(現在も)大阪西ワイズメンズクラブ(YMCAと共に働く国際組織の奉仕クラブです)に所属しておりました。畠平雅生君も同じクラブに所属しています。

 そのクラブのプロジェクト事業として取り上げていただく事が出来ました。それからは、クラブ挙げてのチャリティピアノコンサートや、チャリティ落語(森乃福郎師匠と桂文福師匠が出演料無料でそれはそれは大きな応援をしてくれました)、ワンワールドフェスティバルへの参加、各イベントでのお茶(お茶の“ますだ”からの多大な援助)の販売や、封筒(小林印刷からの援助)の販売、そして三重県伊勢市立五十鈴川中学校(西村先生の指導の下)の生徒さんからの大きな働き等々で、資金が集まり始めました。

 そして、一昨年の初めカンボジアのCMC現地駐在員から連絡が入り有力(?)な候補地があるので是非視察してもらえないかとの要望でした。早速準備にかかり、訪問する事にしました。そこはシェムリアップから350キロ離れたカンボジア北部のタイ国境に近いマライ県トゥールポンロー村という辺境の地でした。勿論、飛行機や汽車等はあるはずもなくシェムリアップからは4輪駆動車でないと行けないような所でした。

 日本からはタイのバンコック経由でシェムリアップに入りました。シェムリアップで宿泊し翌日のまだ明けきっていない早朝、シソポン市(北部カンボジアでは最大の田舎街)へとひた走りました。4輪駆動車で10時間の強行軍です。道路は想像を超えたものでした、口や文章では語れないほどの悪路です。4駆でもぬかるみにはまると自力では脱出できないぐらいです、やっとの思いでシソポンに到着、陽はトップリと暮れており、体はクタクタに疲れていました。夕食後シャワーを浴びたいと思って水を出すと、薄暗い電灯の灯の下でもハッキリと判る茶色く濁った水がでていました。私はシャワーを浴びるのを諦めました。

 翌日早朝、トゥールポンローへと出発です。国道から県道に入ると昨日の比ではない悪路が待ち受けていました。たった50キロの道程が5時間もかかっての到着です、村道はもっと悪く徒歩でしか行く事が出来ませんでした。ぬかるみに脚をとられながら2キロの道を1時間ぐらいかかってやっと現地に到着です。早速学校建設の予定地(カンボジア政府から300M×300M=90,000平方米が与えられていました)の視察ですが現地は余りにも地雷が多い為、近くの道からコワゴワ見る事しか出来ませんでした。そこは地雷が埋まっている為人が入る事ができない鬱蒼とした原生林でした。

 村の人達の教育に対する熱意を推し量るべく公聴会を開催して頂き、色々な形で村の人達との意見交換をする事にしました。私たちはそこで村民の教育に対する熱い熱情を感じる事が出来、村民と県の教育省の高官と村長に、2年以内に学校を造る約束をしました。 すぐにCMAC(カンボジア政府地雷撤去組織)が地雷撤去作戦を開始しました。が、余りにも多数の地雷がある為、遅々としてはかどりませんでした。整地途中で、約1/3の整地から250個の地雷を発見処理したとの報告を受けた事がありました。

 地元の要望もあり学校予定地の1/3の整地が終了した時から同時並行で、中学校建設が行われる事になりましたが、昨年はカンボジアも日本同様異常気象で大雨が降り大変だった様子でした。

 昨年11月の下旬、ついに中学校の第一校舎が完成しました。私は喜びと感激で体の震えが止まりませんでした。

 12月2日に落成式を行うから出席してくださいとの報があり式に参加する事にしました。今回は新しいルートのハノイからシェムリアップに入る事にしました。翌日のシソポンへの道は1年前の悪路とは違い、国道はほぼ完全に舗装されていましたので5時間ぐらいでシソポンに到着する事が出来ました。しかし翌日のシソポンから中学校の現地までの道は前回よりは幾分ましになってはいたがやはり大変でした。

 完成落成式は私の想像をはるかに超え800人の村民が集まる大規模で立派なものでした。
中央政府からは上級大臣や、州の高官がわざわざ列席され、国軍の憲兵隊による警備も、ものものしいものでした。

 この中学校の寄贈により、私はカンボジア国王より国家発展功労賞なる勲章を受勲しましたが、この受勲は私を支えてくれた妻や大阪西ワイズメンズクラブの人達が受勲したもの、いや、この運動を支え応援して頂いた人達全部が受勲したものと思っています。

 学校は平屋建て校舎で、鉄筋コンクリ-ト造レンガ帳壁構造の2棟10教室とトイレ棟1棟で、同時に校門、運動場、国旗掲揚台、フェンスの整備も行われました。

 椅子、机などの備品や教材も運びこまれ、うれしい事に、今年2月からすでに授業は始まっているとのことです。

 みおつくし=澪標。澪は水脈、標は道標、同時に「みおつくし」は古の難波江のシンボルです。また「みおつくし」は大阪ワイズメンズクラブのブリテン(会報名)でもあり、これがこの中学校の校名CMCトゥ-ルポンロ-「みおつくし中学校」の命名由来です。

 授業は始まりましたが、この運動は今スタートラインについたところです。これからこの学校を含め色々なプログラムやプロジェクトを私たちは持っています。たゆまず努力していきたいと考えています。

 ご支援、ご協力、宜しくお願いいたします。


“ハチドリのひとしずく”   今、私にできること


 森が燃えていました。   森の生き物たちは我先にと逃げて生きました。 でも、クリキンディという名のハチドリだけは、いったりきたりくちばしで水を、 一滴ずつ運んでは火の上に落としていきます。動物たちがそれを見て「そんな事をして一体何になるんだ」といって笑っています。クリキンディはこう答えました。

「私は、私に出来ることをしているだけ・・・」

(この物語は南アメリカの先住民の伝わる話です。クリキンディ・・現地語で金の鳥の意) 同窓生では畠平雅生君が同志として一緒に運動をしています。又古藤知代子さんが多額寄付者として登録されています。こころざしに感謝いたします。

地雷原
地雷原です。左下にドクロマークがあります。

地雷撤去作業
地雷撤去作業の写真です。

校舎完成
完成時の校舎二棟の全景写真。

“トゥールポンロー みおつくし中学校” への2件のフィードバック

  1. 金本美智子 says:

    清水様へ  素晴らしい 国際的な 大変なボランティアを なさってられるのですね。
    私も 地域のための ボランティアをすることがありますが、それでも 大変だと思うこと
    がありますのに、清水さまの ボランティアは なみたいていのことでないと。。。それだけによき結果が出ましたときは 自分しかわからない 感動がありますね。よかったですね。
    ただ 危険を伴うこともおありかと お体には十分お気をつけて がんばってくださいね。
    十二期の広場を通して 同窓生の 活躍ぶりを知ることができます。これも幹事の方々の熱意とご努力のたまものと 深く感謝申し上げます。 ネットを開きましたのはごく最近です。
    離れていましても また知る喜びを知ることができる 文明の力にも感謝です。

  2. 川合兵治 says:

    「え、あの清水が?いやぁーすごい」
    ボランティアである団体の交信物翻訳をしていて、書物で世界の僻地の状況を知ってはいますが、その解決に貴君が直接関わっておられるとは「敬服」の一言です。
    「川歩き」に興じているわが身が恥ずかしい。

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