12期の広場

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我が失敗と補欠人生:その後

6組  佐藤 裕久

 我々12期・剣道部では、前川君(主将)、山田君(副将)、吉田君(旧姓:周君:先鋒)が、対抗戦のキーパーソンズでした。この3人がいつも安定しているので、補欠として観戦している小生は、いつも、対北野対抗戦を除き、安心して見物していました。

 昨年古稀を迎え、今年、小生も70歳となります。これまでの人生目標はスポーツから教育・研究まで広範、かつ、失敗と補欠の人生だと思っていたのに、3.11後、変身しました。

(1)野球少年時代

 元々、小生は8-9歳から、野球大好き、10歳の頃には、帰宅=かばん投げ出し、の生活を送りました。雨が降ろうとも、ボールとグラブを1日として放すことのない暮しでした。

 小学校低学年の時には、宿題など、パッと切り上げ、外へ遊びに出かけていましたが、野球にのめり込んだ後、その短い勉強時間を省略し、野球に熱中していました。 3‐4名はすぐ集まるので、三角ベース方式からやり始めました。だから、毎朝のように、学校行に肝心の“かばん”がなく、母の「愛のムチ」、ならぬ、「かばん隠し」にあっていました。タンスの上とか、中とか、間とか、小生も「かばん探し」で対抗しました。

 雨の日は、怒られながら、整理ダンスの壁にボールを投げ、グラブで捕球していました。

 少年野球大会では、近鉄のフランチャイズとなる前の日生球場の本戦にも出場しました。

 歌島中学校では、生徒人数が多く、二部授業(午前授業と午後授業クラス)でしたから、野球部に所属していた小生は、午後授業では、子守唄の代わりに授業を聞く有様でした。

 しかし、中2になった時、小生の低身長はもとより、鈍足、弱肩でもあったので、部長先生から、マネージャーにどうかと、小生に話がありました。小生は「野球をやるために入部しているのに、スコアブックをつけろとは!」との迷セリフを残し、退部しました。ただ、同期の野球部生は、大部分が浪商に入学して野球を続け、甲子園出場を果たしましたが、中家君や桜井君など攻守に優れた選手たちは何故か夭逝しました。ピッチャーは、柏里小学校から来た、中学で180数センチの長身、100m走は常時11秒台の鹿谷君でした。

 10年位前ですが、市岡東京12期会に初めて出席した時、鹿谷さんという麗しい同期生がおられ(勿論、12期の女性は、本当に魅力的な人が多く、ボクには、内4~5名は最高レベルでした)、あの鹿谷君の奥さんだと勝手に考えて、確かめてみました。当初はそうかも知れないというようなことでしたが、後日、別人だということが分り、残念でありました。

(2)遅れて入部した市岡剣道部時代

 市岡への入学当初は、中学の補欠部活のあまり芳しくない思い出もあり、硬式野球をやる自信もなく、ただ黙って講義を聴いていました。勉強する習慣がなくなった身には、何をどうすれば良いのか高校でも不明のままでしたが、凄い講義をされる先生方(敬称略で、水野、玉田、戸川など)も多く、聴いているだけで、テスト勉強不用な楽しいものでした。

 夏休みに、座席がすぐ後ろであった周君から、剣道部の合宿に来いと云われ、何故か、断れなくて、結局、剣道部の合宿見学・稽古。素振りなどして、入部する羽目になりました。

 剣道の試合メンバーは5名ですが、前述のように、先鋒:周、副将:山田、大将:前川は何時も殆ど同じ、次鋒は、出席すれば山崎君、その後は、白石君や高田君など様々いて、小生は、「補欠」以外の活躍の場はない有様でしたが、練習は殆どサボらない状態でした。

 ただ、一度だけ、嬉しい経験をしたことがありましたので、以下に記します。 当時も、現在の前川氏のように、大先輩が稽古をつけに来てくれていました。よくお出で頂いた、7段の浜崎多門先生と、当時、明治大学のレギュラーだったらしい4段の松田先輩とは、はっきりと覚えています。4段といっても、小生には、松田さんは7段・浜崎さんの「面」を、蝶のごとく舞上がり、舞下りて、軽々と奪える力量の持ち主だと感じていました。先輩の十分なバネと技量とを間近に観て、現役の大学生でも、達人を凌駕するような実力の持ち主がいることを、その時、初めて知りました。

 前川君と山田君とは、大学時代、その域にほぼ達していたのだなあと、今度の稽古を見て分かったような気がしました。

 補欠のボクにも嬉しいことがあったと、前述しました。松田さんが、「みなの中で、一番いい稽古をしているのは、佐藤だ」と、ある時、言われました。勿論、大将も副将もいたのにです。「“竹刀を大きくのびのびと、振上げて、振下ろせ”と、いわれ、それが出来ているのは、佐藤だけだ、あのようにやれ」と言われました。 それは、松田さんが浜崎先輩と試合をやり、見事に「面」をとる場面を髣髴とさせる状況を意味していると、小生は、何時になく、誇らしげに感じながら聞いておりました。 閑話休題、停年退職後、2年余り、今、小生は週に3日太極拳ならびに太極剣の稽古をしている。動きが遅いほど稽古がつらいことがやっと実感できるようになる一方、このゆっくりした動きを正しく表現できるようになったとき、武闘時の技が正確に素早く繰り出せることを、市岡の剣道部で既に学んでいたような気もします。主将の前川君から、今回の古稀祝いの「稽古に参加しないか」と言われた時に、“補欠であった”し、と思ったが、“そんなん関係ないは”との主将の言葉に、最初で最後のOB会出席を決意した次第です。

(3)70の手習いも補欠級

 実は小生は、退職後、性懲りもなく、スポーツ補欠人生を送っています。前述のように太極拳ですが、70の手習いの積りでした。しかし、自身の中に、できるなら「太極拳の4段を中国に行って取る」という妙な夢が、3.11体験後、現れ、変身の技について考えています。それも、中国選手に負けずに。いわゆる、武術太極拳は国内の昇段試験は3段までで、これ以上、4段以上、は中国で行われる昇段試験に合格する必要があります。昨年は、完全夏ばてモードで、最低の5級の試験も受ける気はしませんでした。今年、5級を受けて、後、何年生きるか不明の男が4段を受けるなんて、そんな馬鹿なと、他人だけでなく自分も考えてはいます。

 前川君の古稀・稽古に出かけるとき、一冊の本を持参しました。この本は、尾張藩内で、室町時代から続く「柳生新陰流」の剣の極意を生命科学者の清水博(東大名誉教授1932年生)は「負けない真剣勝負を実践すること」として、その本の中で、生命科学の専門立場から説明しています。

 生命の物理を初めて説いた物理学者は、量子力学を創始して原子物理学の基礎を作った、E.シュレーディンガーでした(『生命とは何か – 物理的に見た生細胞 – 』 シュレーディンガー著;岡&鎮目訳、1961年岩波新書G80)。 1978年、清水は、『生命を捉えなおす – 生きている状態とは何か – 』(中公新書503)を著し、同年、その増補版も出版し、斬新な清水の生命科学を樹立した。しかし、清水は、東大を退職後も、金沢工大の“場”の研究所所長として活躍している。

 1996年、彼は、上述した負けない剣について、『生命知としての場の論理 – 柳生新陰流に見る共創の理 – 』(中公新書1333)という著書で明らかにしています。

 この負けない剣の尾張・柳生新陰流と、江戸幕府お抱えの柳生宗矩の江戸・柳生新陰流とは元来は同じ流派でしたが、それぞれの地で変化した。ここで言う、新陰流は、尾張・柳生心陰流であり、当時、尾張領内にいた、宮本武蔵は、新陰流当主・柳生兵庫助と、町中で出会っているようでしたが、お互いが相手を相当の使い手と認識はしたらしい。しかし、戦うことはありませんでした。

 

 もし、戦えば、負けない剣が勝つから、武蔵は破れたはずである。現に、武蔵は己の円明流の道場と尾州徳川家への仕官の道とを捨てて九州へ去っている。(著者清水は、新陰流宗家第21世柳生信春と対談し、氏から色々と負けない剣について聞いており、その内容も上記の本に記載されている。興味を惹かれる方は上述の書籍を参照頂きたい。小生も現在読んでいる最中です。)

 一方、中国武術の中では最も新しい武術の一つといわれている太極拳について、その真髄が記された『太極拳経』が、1852年河南省舞陽県で発掘されていた。

 中国語の口頭語が専門の小生の弟:佐藤晴彦(元神戸外大副学長、現特任教授)に、366文字の太極拳経の解説を頼んでいるが、それが書き言葉の漢語であること、また、意味がハッキリしなければ正しい発音ができないという。気長に待つしかないが、ここに記された太極拳は先に攻めることはなく、しかし、どのように攻めて来られても対処できる負けない武術なのだそうです。

 太極拳の真髄を知るために、少なくとも国内で、3段を取得後、中国での4段の昇段試験を通じて、できれば、中国・韓国経由でない、我が国で醸成された、負けない剣の真髄を応用した太極拳を引っさげて、中国にわたり、恩を返したい、という夢を、余命の少ない今頃、持ち始めている。

 以上は、「私の補欠人生」であるが、小生が東北大学大学院に入学してからは、小学校低学年まで実行していた勉強(+研究)の習慣が戻った。しかし、今となっては有難かったといえるが、指導教授は大きな研究テーマこそ小生に与えてくれたが、後は自分で考えてくれということであった。当時、そのように、研究はもちろん「自分で考え」、大学生は自分で学ぶというのが普通でありました。

(4)おわりに – 3.11大震災を体験した後の変身の人生 –

 昭和40年4月TU大学院に入学後、最初の取っ掛かりの実験研究は、先輩の助手の方が準備していてくれた「落鎚衝撃実験」を行い、修士論文を書く積りでいましたが、そうは問屋が卸してくれなかった。先輩のいう衝撃荷重が本当に衝撃荷重なのかを確かめることに逆戻りすることから、研究を開始せざるを得なかったのである。

 小生の研究・教育人生の期間は定年退職の平成21年3月までの44年間であるが、こちらは失敗の連続というに相応しい内容であった。やはり「ボクは補欠か?」と自問した。しかし、「失敗は極めて大切である」と確信したのは、後進の研究指導も任される博士課程に進学した頃であったと思う。失敗の場合、行動・失敗の因果関係が明確であるため、後進の指導に際し、「そのようにすると駄目だよ、何故なら・・・・となるからね」と、その後輩に自信を持って言えるからである。一方、成功の理由は曖昧か、不明かであるのが普通であり、やって見なければ分らないと言えるだけである。

 3.11東日本大震災が勃発した。大学生時代にボランティア活動の大変さと虜生活とを、十分体験していた小生は、我々の子供や孫達のため今、何をしてやらねばならないか。ない知恵を絞って考えている。勿論、これまでの人生経験を総動員している。その変身性は別の機会に述べたい。

“我が失敗と補欠人生:その後” への9件のフィードバック

  1. 8組 川副研治 says:

     ALWAYS「三丁目の夕日」に見る昭和30年代の野球少年の一場面が浮かんできます。同じ歌島中学でしたが、当時もう二部制授業はなかったと思います。貴兄がまさか中学時代野球部だったことは知りませんでした。夭逝した、中家、櫻井両君とは同じクラスだったこともありよく知っています。柏里小学校OB(小生も柏里小学校出身)で鹿谷君の話がありましたが、彼は、当時の「西鉄ライオンズ」に入団しましたが、練習中に打球を顔面に受けて負傷し、その後退団したと聞いています。
     さて高校時代の話で、名物教師の授業は聴いて入るだけで試験前の勉強は一切不要だったとか、小生の場合は不要ではなく不勉強だったため、成績はふるいませんでした。そんな中で一年の時、水野先生の生物の試験では、賭けたヤマ(アンモナイトについてだったと思う)が的中し、配点の倍の点数をつけてもらったことを覚えています。他の点数が悪かったので100点を超えることがなかったのは当然ですが……。
     退官後に、70の手習いと称して始められた「太極拳」で、東日本大震災を機に、一念発起して「四段昇進試験」を訪中して挑戦するお積りとか、ぜひ成就されんことを祈ります。
     次回来阪の折りは早めにご連絡頂ければ、ご希望の神社仏閣、貴兄の名解説を聴きながら、案内させていただきます。

  2. 6組 佐藤裕久 says:

     ALWAYS「三丁目の夕日」が映画化された「昭和30年代の漫画」であるのを、インターネットで、今、知りました。我が仙台市太白区の大野田老人福祉センターにおける映画会での撮影希望映画として、早速、届けておきます。ボクらが中学一年に入学したのは昭和29年4月でしたが、その時は、確か、14クラスまであったのではありませんか?自分が2部授業で、1年生の時には、午後の授業でも、野球部の朝練があったので、朝から学校に出かけていたと思います。ただ、昼ご飯には、自宅に戻る人も居たような記憶があります。
     桜井君は野里小学校時代、松尾君という姓で、小生と同じクラスの時、クラス担任の先生のお宅に数名の友人と一緒に遊びに行った記憶があります。(その時の写真は行方不明でしたが、何故か、そのアルバムに、確か昭和33年の正月だったと思いますが、酒井八郎さん宅での新年会の、セピア色した記念写真が出てきました。それを後に、添付してみます。
    コメント欄ですので、旨くいかない場合には、編集委員の張さんに送って、善処してもらいます。
     もう一つ、あの時の野球部に「李(り)さん」と、皆が、さん付けで呼んでいた友人、皆が一目置いていた、左利きで、ファーストを守っていた大柄の選手・人格者であった人について知りませんか。丁度、李ミョンバク韓国大統領と同じ年齢ではなかったかと思うのですが。でも、顔つきがあまり重ならないのですが。
     最期に、太極拳の訪中昇段試験は、まさしく、夢です。こちらの日本太極拳連盟に所属する指導員の方の話では、「仮に中国で四段を取得しても、日本では三段以上は認めません」と夢のない話をされています。念のため、記しますが、今週末9月17日、小生は5級の試験を初めて受ける段階で、全くの初心者です。(単に、夢は大きく、というヤツです。)
     そういえば、大阪の四天王寺あたりに創業千二、三百年の企業があると聴きましたが、企業見学させてくれるでしょうか。(無理にではありません。感触はどのようなものでしょうか)
     川副さん、今後ともよろしくお願いします。          佐藤裕久拝

    追伸 写真は添付できそうにありません。張さんに相談します。

  3. 8組 川副研治 says:

    桜井君とは中学3年のとき同じ組でしたが、そのときはまだ松尾昌彦と名乗っていました。長身の李さん(何故かさん付けで呼んでいた……少し歳上だったのだろうか?)は後に、小生と同じ大学に入ってこられ、ノートだかテキストだか融通した記憶があります。その後お会いしたときは、武藤文雄と改名されており、中華料理レストランの支配人をしておられました。そのレストランで「阪神タイガースの優勝祝勝会(藤村富美男氏出席)」を兼ねたミニ同窓会をしたことがあります。李さんは随分前に亡くなられております。
    さて四天王寺あたりに創業1200~1300年の企業云々とあるのは、金剛組のことでしょうか?
    《金剛組のこと》
    金剛組の創業は、578年金剛重光が他の造寺工とともに、聖徳太子に招かれ百済国から渡来し、市天王寺建造にかかわったのが起源とされている。金剛組は市天王寺のお抱えとなり、40代目まで続いている。(ネット検索)
    金剛組かどうか、貴君の確認も取らないまま、金剛組とコンタクト中です。結果がわかればまたご連絡します。

  4. 6組 佐藤裕久 says:

     川副さん、早速、いろいろとご教示頂きありがとうございます。松尾さんも李さんも、残念ながら、夭逝されたのですね。
     李さんも、阪神ファンだったのですね。
     小生の母が、巨人キラーだった、阪神・梶岡投手のご母堂と親しくしていて、何度か、ボクも梶岡邸に遊びに行きました。
     甲子園の阪神・巨人戦のチケットを貰って、見に行った時には、梶岡投手がホームランも打ち、勿論、勝利投手にもなって、嬉しくてしょうがなかった記憶は今でも鮮明に残っています。 その少し後に、梶岡邸にお邪魔した時には、一寸、修理してありましたが、梶岡投手が使っていたバットを貰い、長い間、大切に、保存していました。

     千年以上前から続いている企業の名が「金剛・・・」というような記憶はあります。
     ただ、東京もそうですが、大阪までは特に、年金生活の身では訪問は簡単ではありませんので、次の同窓会の時とか、一寸先になると思います。よろしくお願いします。
     いろいろと、どうも有り難うございました。              佐藤裕久拝

  5. 8組川副研治 says:

    9月14日のコメントでは「四天王寺」を「市天王寺」と変換ミスのまま送信してしまい申し訳ありませんでした。
     貴兄お尋ねの企業は「金剛組」でよかったのでしょうか?金剛組へは問い合わせしてみましたが、見学はどうも無理なようです。

  6. 6組 佐藤裕久 says:

     578年創業の「金剛組」は、世界最古の企業であるとの、インターネット情報がありました。無理ならば、見学はあきらめましょう。どうも有り難うございました。

     そういえば、以前、7組の岡本成彦さん(例の杜遊会のメンバー)に尋ねたら、四天王寺に「金剛・・・」とかいう1000年以上前からある企業があるよ、といっていました。

     普通、企業寿命は30年とか云われたりしますが、一度、創業100年以上になっていた、島津製作所のリクルーター(役員でしたが)に、お宅は、何故百年以上も業績がそれ程悪くなく続くのか?と聞いたことがありました。

     その役員答えて曰く、「島津が商品開発する時は、世界一を目ざしてやるからです」と、
    はっきり答えていました。そういえば、ノーベル賞を取った社員もいましたね。

    佐藤裕久拝

  7. 川村浩一 says:

    剣道部の卒業アルバムの写真。白石君を懐かしく思い出しました。1年と3年同じクラスだったと思います。在校中に亡くなり、杉田先生やクラスの仲間とお葬式に参列したことを覚えています。山田君が弔辞を読みました。
    剣道部での活躍は知りませんが、まじめな人柄に一目置いていました。

  8. 6組 佐藤裕久 says:

     白石君と小生は剣道部の部室のロッカーが同じでした。一つのロッカーを二人で使っていたということです。その割には、あまり、話し込んだ記憶もありませんでした。
     白石君は、真面目で、部室に来るときは、剣道の練習に来る時に限られていたように思います。また、阪大を目指し、毎夜、遅くまで勉強していたために、体力が、少し落ちていたのが、病に負けてしまった理由なのだと、皆で話をしていた記憶があります。
     彼は、地元、市岡中学出身で、告別式の時だったと思いますが、彼の自宅を訪問した時に、彼の家の直ぐ近くに池がありました。剣道部の連中数名と一緒に連れ立って行きましたが、「この池で生まれた蚊にやられたんやなー」とか、「白石君は、あの病気に負けなければ、絶対に、阪大に合格できると思うでー」とか話していました。
     惜しい人を亡くしたと思っていました。
     大阪から東京経由JRで仙台に来る、35-40km手前に、宮城県白石(しろいし)市:
     http://www.city.shiroishi.miyagi.jp/index.html
    という、お城のある町を通りますが、東北新幹線の「白石蔵王駅」となってからは、殆ど、通過するようになりました。でも、“白石”という字を見ると、白石(しらいし)君という人がいたな、と思い出します。また、多分、市岡中学時代から、白石君と籠谷君は良い意味でのライバルだったのでは、とも思っています。籠谷君は陸上部で、部室は剣道部の隣でした。(完)

  9. 川村浩一 says:

    正確かどうか元を見ていないのですが、ゴッホの手紙を大江健三郎が訳して
    「死者を死せりと思うなかれ、生者のあらん限り 死者は生きん、死者は生きん」という詩句があるそうです。
    6組・駒崎君から教えてもらいました。塚本君の結婚式のことなどの情報(「塚本君のこと」という記事のところを見てください。)と共に書いてありました。そして「塚本は、夫々の形で我々の内に生きているのだと思います。」と結んでおられました。

    白石君が佐藤さんの胸の中に生きているのだとうれしく思います。

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