12期の広場

12期の広場

「古稀」に竹刀を振る

7組  張 志朗

 7月の中頃、前川光永さん(12期剣道部主将)の古稀を祝う稽古会があるとの話を聞きました。早速、彼に問い合わせたところ、防具をつけての「かかり稽古」があるとの話し。私の「野次馬的好奇心」がむっくり。これは行ってみなくてはと思っていたところに、仙台の佐藤裕久さん(剣道部)も来阪するとの事で、7月23日土曜日、午後1時半から、市岡高校剣道部OB有志、「剣友」による「古稀を祝う稽古会」に行ってきました。

(左:前川光永さん、右:佐藤裕久さん) 

 早朝、東北、東海道新幹線を乗り継いできた佐藤さん、前川さんとJR大阪駅で待ち合わせ、会場の大正区の大阪市立千島体育館剣道場に向かいました。 当日は晴天、強い日差しが容赦なく照りつける真夏日。剣道場は風通しが良いとは言え、室温33度です。

 その猛暑の中、7~8kgある防具を着け竹刀を振り、かつ、ぶつかり合うわけですから、想像するだけで「熱中症」になりそう。全く運動部経験のない私としては、かなり緊張しての「観戦」でした。

 集まった皆さんは、長い間市岡剣道部を指導されておられる梶木先生をはじめ、市岡剣道部OBの有志、「剣友」12名で、年齢も非常に幅があり、中に女性が一人おられました。

 稽古着に着替えると、場の雰囲気が一変、皆さん引き締まった「剣士」姿です。 円陣を組んでの挨拶に続いて、古稀を迎えた前川光永さん(教士7段、杖道6段)へのお祝いの言葉と記念品贈呈があり、その後すぐに稽古が始まりました。

 佐藤裕久さんもトレパン姿で、竹刀の素振り。前川光永さんは堂々の防具姿です。

 いよいよ「地稽古」の開始です。裂帛の気合いと竹刀どうしが激しくぶつかりあいます。

 私は「稽古は休み休みするもの」とばかり勝手に思っていたのですが、休憩がありません。半時間以上の連続です。

 前川さんには元気のよい後輩達が入れ替わり立ち替わりの稽古で、見ているだけで息が切れそう。時折「前に出て打て」と声を掛けての稽古で、動きも滑らか、疲れがみえません。1週間に必ず1度は稽古をするとの話の通り、元気そのものです。


(前川さんの稽古姿です。)

 この日、防具を着けた人のなかでは、OBとしては前川さんが最高齢者で、同期の私としては、「古稀を迎えてもまだまだこれだけ出来るのか」とただただ舌を巻くばかり。

 佐藤裕久さんは40歳を過ぎた頃に一度竹刀を握ったことがあるそうですが、その時ですら「前川さんのようにはとても動けなかった」そうです。剣道部OBの彼としては最初から最後まできっと血が騒ぎ続けたことでしょう。

 心を静めて竹刀を構える、「面」に遮られての視野は狭いが深い。気を集中し、気を高め、技をつくして、気合いもろとも床を蹴り翔ぶが如くに打つ。門外漢の私にすら、こんな妄想を抱かせるほど凛とし、かつ気迫あふれる稽古です。

 きっと稽古に打ち込む前川さんや剣道部OB、「剣友」の皆さんが感じる醍醐味や充実感、そしてそれを終わっての清々しさは、ご本人以外にはわからない喜びであることでしょう。

 「礼に始まり礼に終わる」、「道場に入ったときにだけ感じる事が出来る空気がある」とのOB諸氏の言葉には素直に感じ入ります。道場に出入りするたびに礼をする、少し乱れた靴すらその都度、丁寧に揃える。ささやかな事例ではありますが、剣道の修練に励む心意気を感じさせてくれるのに充分であったようです。

 稽古後、懇親会がありました。


(和やかな懇親会)

厚かましくも同席をさせていただいたのですが、ここでも話題の中心はやはり「剣道」の事です。おおいに盛り上がった所に、我が12期代表幹事の酒井八郎さんが合流。前川光永さん、遠来の佐藤裕久さん、二次会にこれまた合流の12期の川副研治さん、軒を借りて母屋を取るのたとえの如く、12期生のミニ同窓会の様相で、宴は延々と続きました。

 

 前川さん、剣道部OBの皆さんありがとございました。東日本大震災の復興のさなか、来阪された佐藤さんの熱い心に感謝です。

 私は久しぶりの夜更かし。「午前様」の帰宅で翌日は少々ぐったりしていました。


 前川さんの竹刀袋に染め抜きがあります。そこには「懸待一致」の文字がありました。
攻める中に守る心があり、守る中に攻める心があるとの意味だそうです。

 防具と竹刀袋を持ち今も練習を続ける前川さんの後姿がいつもより大きく見えるようです。

“「古稀」に竹刀を振る” への3件のフィードバック

  1. 8組 川副研治 says:

     張君のお誘いを受けて、前川君の「古希を祝う稽古会」打上げの二次会にお邪魔虫よろしく、出席させていただきました。
     本会の様子は、張君のルポに詳述されていますが、多くの後輩諸氏に古希を祝ってもらえるのも、前川君の現役時代の実績と卒業後の後輩剣道部員に対する指導等の貢献があってのことと推察いたします。
     帰宅部だった小生のとっては、剣道部の後輩諸氏と短い時間でしたが歓談出来たことは、大いなる収穫でした。
     この後はご多分にもれず、酒井、佐藤、張の三君と四人で京橋の三次会へと繰り出し、「昨夜のシンデレラ」オジサン状態で帰途につきました。

  2. 6組佐藤裕久 says:

    昨年3月の市岡高校卒後50周年記念式典・翌日の、奈良・薬師寺と初めての信貴山詣とを川副さんの車によるご案内に引き続き、今年の7月23日の前川さん古稀祝賀会にもまた、時間を割いて、顔を見せて頂き恐縮しています。(貴兄と歌島中学時代のクラスが同じだった記憶はありませんが、市岡高校への入学生の数がそれ程多くなかったことや、特に、各々が大学の工学部を選んだことにあったことも多少影響しているのでしょうか。ただ、12期生同窓会の面倒を長く見てくれている酒井八郎さんや、張志朗さんが、何か必要な物品調達や加工など、「いわゆる機械系の出番には、川副さんを必ず頼る。すると、彼は、それに、必ず応えてくれる、とにかく12期生同窓会にとって貴重な存在なのです」と、世話役お二人の言葉が印象的でした。

    話題はそれますが、先日9月5日に、故・籠谷ご夫妻の3周忌(奥方は平成20年8月31日に、また、登志夫さんは同年9月7日に他界されました)のつもりで、大学野球の名門・東北福祉大学正門前にある浄土真宗仙台別院・墓地に詣で、供花してきました。平成17年3月、63歳という、これから自由な時間が取れるという時期、それも、定年退職直前の癌発症と入院が最初の試練でした。

    退院後、籠谷さんは持ち前の強靭な精神力と、体力で、その後、通院期間がどんどん長くなり、健康の回復に目覚しいものを感じました。ところで、
    6組籠谷登志夫さんを含め、7組岡本成彦さん、8組西山吾朗さん、それに、6組小生の市岡12期生の他、北野高校、住吉高校、豊中高校などの大阪出身のTU生で構成される「杜遊会(というかい):杜の都仙台で、共に、遊んだ大阪人の会」は、現在も、毎年、1泊2日で、全国温泉めぐりをやっています。
    平成17年秋の会場は、地元仙台・秋保温泉でしたが、籠谷さんは退院後、初めて元気な顔を見せたばかりか、小生と二人で幹事役をこなしました。
    平成18年秋の会場は、幹事、東山さん(北野高校)所属の大同特殊鋼・木曽保養所に一泊、次の日、中仙道など急峻な登り道を、汗だくだくで、殆ど、全員ばて気味でした。その中で、元気だった2名に、東山さんと籠谷さんが選ばれ、彼の本当の回復を感じたものでした。
    平成19年秋の会場は、幹事:故・播谷さん(住吉高校?)で、道後温泉でした。その会では
    珍しく、籠谷さんは、出発の一週間くらい前になって、小生と同行しようと提案してきました。往路、仙台空港・伊丹空港・松山空港で、帰路はその逆コースでした。

    平成20年のお盆過ぎに、籠谷夫人(当時、入院中であったことを、後に、知りました)の弟さん(義弟):TGUの押木准教授が、「義兄からは、口止めされている。癌の転移により宮城県がんセンターに入院しているが、医師の話では、後、10日程度持つかどうか、の状態であるので、連絡した」旨の電話を頂いた。
    翌日、病院に駆けつけたが、彼は痩せてはいたが、話をするにつれ、声にも張が出てきて、冗談まで言えるようになった。小生には、彼の癌が脳にまで転移しているとは、とても信じられなかったが、検温にきた女性の看護師が、「もっと、居てやってくれ」というので、一時間ほど、話してから失礼した。

    その後、2週間を過ぎた、平成20年9月7日、韓国慶州で開催された第9回塑性加工国際会議ICTP2008での研究発表のため、小生は成田発の釜山行きの日本航空(JL)957便に搭乗するべく、成田に着いた。機体の調整のためか、何故か、出発は4時間以上、延ばされた。その日、籠谷さんは、忽然として幽明境を異にされた。
    後日、義弟の押木さんから、「義兄にとって、1週間前の姉の死を知らずに、旅立たれたことは、せめてもの救いであったと思っている」との手紙を頂いた。

    小生にも、彼が「1時間では短すぎるよ。せめて、4時間くらいは話してから、発て」と言っていたのかもしれない。                    佐藤裕久拝

  3. 田端建機 says:

     前川君とは1年8組で同級でした。その頃に始まる彼のイメージは剣道をやる人間らしく豪快な人、ただし、だからといって力一辺倒の融通のきかない奴という感じはなく、一見がさつに見えても人をよく見ていて柔軟で、にこやかな顔をしながら的確なアタックを加える油断のならない部分も秘めている男という感じでした(例えば、彼には上手く乗せられて危うく女性に関する心中を見透かされそうになったことがあります)。振返って見れば、私の方がずーっとデリカシーに欠けていた、とツクヅク思います。
     そして、何十年かたって同窓会で会い、また記念文集の投稿などを読んだりして、彼が美術工芸の世界に進み、そこで経営者としても成功し、カメオを中心とした宝飾工芸の美の世界にまで深く踏み込んでいることを知り驚かされること多大でした。私は一時美術部に席を置いていましたが、当時、彼はその美術部の私に対して、そういう美への志向などという気配は微塵も見せませんでした。剣道家としての彼とそういう美の世界の仕事人であり趣味人である彼、そういうものが彼の心の奥でどのように結び、手を携えて育ってきて現在に至っているのか、そこのところを知りたいものです。もし、彼がその気になって投稿してくれれば有難いと思い、このコメントを書きました。

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