12期の広場

12期の広場

「大阪の古地図」展を見て

7組  張 志朗

 7月10日から大阪市立福島図書館と福島区歴史研究会の共催で「大阪の古地図-福島区を中心に-」が開かれています。場所は福島図書館郷土資料展示室で、期間は10月31日までです。福島区歴史研究会には、同窓生の末廣訂君、武田博君をはじめ、市岡の先輩や後輩の皆さんも多数参加しておられ、今回の古地図の展示には末廣訂君が所蔵している明治以降の貴重な地図も展示されています。

 7月21日の土曜日の午後、同窓生の塩野憲次君を誘って行ってきました。
 展示は写真にあるように小振りな部屋、一室での展示ですが、中央に明治44年の福島地域の大型地図、その周辺に各種の「古地図」と、明治、大正、昭和の各種地図が展示されていました。
 尤も古い地図は「新板大坂之図」(明暦3年-1657年)で、それに続いて「大坂図」(天明7年-1787年)、「大坂細見図」(弘化2年-1845年)「浪華新丘図」(天保5年-1834年)、などが額やガラスケ-スに収まっています。

「大坂図」天明7年(1787年)美しい彩色地図で、右はし中段に「市岡新田」とある。

 「大坂図」「大坂細見図」の額の前で約半時間。老眼が強くなった塩野君と私は、顔を近づけ、メガネを取ったり、付けたりしての鑑賞です。それでも細かい字が読めないと、拡大鏡を図書館から借りてきました。

 美しく彩色されていて、川が縦横にはしっています。大阪城と四天王寺が大きく描かれており、西本願寺、東本願寺を含め、大阪城から西に向かって各町名が一丁目から順番に記入されていました。

 「阿波ザボリ」との記載に「私の生まれた所」と塩野君が言い、またこれが横堀、長堀などと教えてもらいました。西のはしに「市岡新田」の文字がありました。

 「浪華新丘図」は鳥瞰地図です。大阪湾の上空から図で、木津川をほぼ中央に、無数の帆かけ船と人家が、のびやかな線で描かれおり、如何に舟運が活発であったのかが偲ばれます。やはり彩色で、一幅の絵画を鑑賞しているようです。

 「新板大坂之図」は残念ながら折り畳んでの展示で全体がみれませんでしたが、中之島周辺の大名屋敷名がずらりとならび、物流の中心、「天下の台所」であったことが、一目瞭然です。

 今回の古地図展のチラシに、「大阪の地図は、江戸時代に作成された『浪華往古図』から現代まで、数多くあります。地図は、昔から残る社寺や、変化した川筋、消滅した橋や工場など、歴史を物語ってくれます。」とありますが、本当にその通りです。

 歴史研究会の事務局長でもある、末廣君が駆けつけてくれました。

 彼からいろいろ説明をしてもらったのですが、中央の明治44年頃の福島地域の大型地図が圧巻です。作成者は福島区役所におられた、中島陽二さんです。

「新板大坂之図」明暦3年(1657年)
下部が中之島あたり。
明治44年頃の福島地域の大地図。
塩野君が熱心に見ています。
 この地図は表示の基本が地番となっていて、「地籍図」をもとに、それをパズルのようにはめこみながら作成されたものだそうです。その意味では当時の状況をかなり厳密にうつしとった地図と言えそうです。

 なにより私が感動したのは、水色に着色された川筋があたかも道路や路地のごとくにはりめぐらされていたことです。末廣君の説明からそれらの多くを「井路」と言い、所々でその幅が広くなっているところは船が方向転換するためであることを知りました。

 彼の話によると、明治39年に俳人、松瀬青々が中之島の生家から海老江に引っ越した時に、家財道具を船で井路を通ってきたなど、生活に欠かせない水路であったそうで、この井路も昭和に入ってほぼ埋められたとのことです。

 井路の写真をご覧ください。末廣君から提供してもらいましたが、それに以下のコメントがついていました。「大正時代の近所の写真です。父親が家の前の井路から浦江の八反田(現八坂中学校の近所)の田圃まで小舟に牛を乗せ、野良仕事に行った話をよく訊いていた、証左の写真です。牛は、行きは嫌々船にのり、仕事が終わると喜んで船にも乗らずサッササッサと家まで帰ったと、父から訊いています。」

 玉川小学校の5回に渉る移転に関する地図や、ありし日の浄正橋商店街の地図、そして新淀川開削以前、塚本、野里、海老江、野田が地続きになっている地図、それに加えて、いい話をたくさん聞きました。その内の幾つかをメモします。

生活水路でもあった「井路」の写真です。
  • 図書館の[郷土資料室]は、福沢諭吉の記念室です。部屋の奥にその資料がある。
    諭吉は福島区の蔵屋敷に生まれ、1歳半で九州の中津に帰り、その後、また大阪に戻り「適塾」に入っている。蔵屋敷跡に碑があり、アサヒ放送がきて、一帯は「ほたるまち」と言われた。福島区歴史研究会は、1万円札「AA 007」を日銀で頂き、テレビの「お宝鑑定団」で300万円の評価が出た時のテレビ放映用に利用した部屋でもある。
  • 鉄 道の話し-全国で1番は東京-新橋間、2番は大阪-神戸間ですが、明治8年に全国で3番目に敷設された線路が、安治川支線です。安治川桟橋に来る船荷を輸 送するために大阪駅までの2.8kmを陸蒸気が走った。しかし安治川に大型船が入らなくなった等の理由から、わずか2年半で廃線となった。
  • 北 の大火(明治42年)は、福島区に大きな影響を与えた。これは塩野君の言っていたように、「天満焼け」とも言っている。文楽、歌舞伎で有名な蜆川(別名、 曽根崎川)が埋められ、近辺に商店、会社や工場が出来た。道路の整備が進み、国道2号線が完成する。淀川に西成大橋があったが、これが淀川大橋になり、国 道として野田、福島とそして大阪駅へとつながった。
  • 事象はいろいろ変化し、歴史の変遷があるのも、やはり人間の力(苦労、努力、葛藤)があって、発展したと思う。地図は何も言わないが、年代(歴史)の変化を教えてくれる面白いものです。

 同感です。今回私が「古地図展」を見に行こう思ったのも、武田博君が送ってくれた「明治33年の此花区地図」(この地図には新淀川の開削が予定で、まだありません。)の一部コピ-がきっかけです。そこには、幼かった頃、のんびり眺めた網漁(大きく張った網を上げ下げして白魚などの小魚を捕る漁)があった川-伝法川が記載されていました。この川は見る間に埋め立てられなくなってしまい、私の記憶の中ですら曖昧になってしまっていた川です。古い地図を保存することは、地味ではありますが、大層貴重な作業です。

「大阪の古地図」展のチラシ

 そして古い地図は、ささやかではあるが穏やかで、それなりに確かな生活とそれにまつわる数限りない物語を思い起こさせる力があります。そんなことを思いながら、図書館をあとにしました。同窓生のみなさんも是非一度ご覧になられては如何でしょうか。

 一人ではなく誰かと一緒に話しながらの鑑賞が一番良いですよ。

“「大阪の古地図」展を見て” への3件のフィードバック

  1. 末廣 訂 says:

    7月21日外出先に張君から携帯電話がかかり「今塩野君と福島図書館で開催中の古地図展に来ているので、帰ってこれるか」とのやり取りがあり、急いで参上した。 後日、これはどうやら市岡12期のHP記事用とわかり、2-3回メールの往復があったが、大変うまくまとめてくれて有難く思っている。
    橋下大阪市長の「大阪都構想」では数年後には福島区と言う区名は消えていく運命にあり、たまたま、我々の福島区歴史研究会がスタートして30周年になり、今回の古地図展はその記念展示会です。会員の手持ち地図を持ち寄り、事前(5月に)仕訳をして、準備をしたものです。
    また、現在会員による郷土史「なにわ福島ものがたり」という記念誌(約250頁)を校正中です。またお世話になります。

  2. まるのたけし says:

    少し訳があり、江戸時代以降の大阪の河と人々の影響を調べています。僕は、その川の影響を一番受けなかったであろう上町台地に住んでいます。(もちろん引っ越してきてからのマンション暮らし)
    奈良に都があった頃、大和川は奈良と大阪(多分住吉大社の付近)を、京都に都がおかれてから淀川が京都から。そして大和川と淀川は、南北に流れる(キタから南かもしれない)河によって結ばれていた。明治以降、その河は埋められ、道となった。

    氾濫などの影響が少なく肥沃な土地であれば潤い、そうでなければ毎年不作に。
    その土地に居住する人を決めたのはなにか?特に大和川は江戸時代に付け替えが行われた。現旭区辺りに流れていた大和川を南に移動し。今の流路が作られた。
    何の為に?誰のために?
    流路が変わり栄えた中河内地区。川の氾濫が増え、貧困になってしまった今の水路。

    世の中には光が当たると影ができる。ついつい光が当たっているところばかりに目が行くが、それだけでいいのか?という思いがあります。

    駄文失礼しました。

  3. 張 志朗 says:

    まるのたけし 様
    拙い文章についてのコメントありがとうございました。
    古地図はその時々の政治・経済・社会は勿論、そこに暮らした人々の生活の痕跡と証のようです。川の移り変わりが与えた影響についてふれておられますが、改めてそれを考える機会を得た思いと同時に、古地図の持つ力を再認識しています。
    まるのさんは市岡高校にゆかりの方でしょうか。今後とも“12期の広場”を宜しくお願いいたします。

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