12期の広場

12期の広場

内田 勝章君がなくなられました。

 4組の内田勝章君(花の井中学出身)が昨年の12月15日に亡くなりました。2011年9月、肺がんであることが分かってからの1年3ヶ月の闘病生活。病巣が手術も出来ない状態であったせいもあったせいでしょうか、早い突然の別れに呆然としてしまいます。

 心からご冥福をお祈りすると同時にご家族皆さまへのおくやみを申し上げます。

 

 私は、内田君と出身中学も異なりますし、高校在学時のクラスや、部活も違いますのでこの文章を書くのが適任であるかどうか、大変迷いました。しかし卒業50周年記念文集への投稿文のやりとりや、記念同窓会や、その後の3年間の交流、特にたくさんの電子メ-ルのやりとりがあったことなどから、ペンを取りました。

 内田君の訃報を今年の泉信也君のメ-ルで知り、ご家族に連絡を取りお参りしたのが、2月9日、亡くなってから約2ヶ月が経っていました。

 奥様と2時間近くお話させていただきました。

 気管支の大きな腫瘍と肺への転移から肺がんであることが分かったのが、2011年の9月ですが、内田君は勿論のこと、ご家族にとっても、まさに「晴天の霹靂」そのもの。しかもその時点で腫瘍がソフトボ-ル位の大きさになっていて、外科的処置は困難、放射線治療と抗ガン剤治療しかできないような状況だったそうです。

 8月の盆休みに、奥様の里である四国高松行きを計画。石鎚山登山や帰りの「島なみ街道」のいずれかの島でのキャンプ。そこで釣りと水泳を楽しみ、岡山の蒜山でゆっくりする予定であったのが、突然の体調不良で実行出来なくなったのが、発端だったそうです。それまでの内田君と言えば、フルマラソンや水泳に登山など多彩な趣味と地域活動と仕事をこなしてなお、疲れをしらない頗る付きの「元気なカッチャン」だったのです。

 10月に入院、本格的にガン治療が始まりました。その後、入院退院を繰り返しながら過酷な闘病生活を耐えたそうです。

 内田君からのメ-ルによると「気管支にまとわり付いている腫瘍の判断が非常に難しく・・・・多形がんと言う、100人に2人くらいの珍しいがんで治療方法が確立していない」との事で、結果的には抗ガン剤はほとんど効かなかったようです。

 2012年の初めに数回「あれだけ副作用に苦しんだので少しはと期待したのにがんは少しも縮小していなくてがっかり。」とありました。この頃、電話で話をした以下の内容が私のメモに残っています。

 『彼は元気、いつもの饒舌であった。がんが小さくならなかった事のショック、副作用の苦しさの話。また盛んに食べ物の話しがでる。ただ出来るだけ明るく返すのみ、言葉が見つからない。』

 12期の広場に掲載された「カワセミ」の文章を書きまた写真撮影をしたのもこの時期なのでしょう。「寒いので散歩も億劫ですが、太陽が出たら・・・大泉緑地公園にカメラを背負い出かけ・・・珍しい野鳥をねらって写す」、「食べて歩いてがんに負けないような体力をつけたい」とあり、気力はまさに充分です。

 奥様との話のなか、内田君の趣味の話がでました。先に趣味がフルマラソンや水泳に登山などと書きましたが、その他にもカメラ、ピアノ、アコ-デオン、バイクなどがあり、納棺時の趣味の一品の選定が大変であったとの事です。

 たしかに彼の好奇心や情熱は半端ではありませんでした。若い頃にバイクでのタクラマカン砂漠を横断したことは驚きです。またアコデ-オンですが、20数年前からの趣味で、イタリヤ、ドイツ、フランスのアコ-デオンを4台(総額300万円相当)持っていたそうです。『一度是非聞かせてほしい』とお願いしたのですが、叶わず、アコ-デオン自体も昨年の4月に漸く売却処分にしたそうです。

 5月から大きな期待をかけた放射線治療が始まったのですが、がんは少し縮小したもののその後の好転は見られなかったようで、結局、緩和ケア治療を受けながら免疫治療を併用する方向が選択されたようです。

 手元に9月30日のメ-ルがあります。免疫治療の結果「6月のCTに比べてなんと半分に縮小していた。・・・神戸の横側Drへ送ると・・・・やった!と喜んでくれた。」とあり、続けて元気になった姿で同窓会に出席したいので「締め切り日の今日、今回は欠席で返信葉書を送る」とあり、喜びに満ちた内容でした。

 そしてその後数通のメ-ルが最後となりました。

 12月15日、この日は朝から体調が良く、お嬢さんが見舞った後、高松のご兄弟までも面会ができたそうです。ところが、その後の午後3時ごろから容態が急変し、奥様に見守られながら亡くなられたとの事です。

 メ-ル交換が始まったのは、2010年の記念同窓会の後からだったと思います。彼からのメ-ルは全て携帯電話からで、たいがいは長文、しかも書簡風です。携帯の小さな画面では読みにくく、また内容も多岐にわたるばかりか心に響く文章であったため自宅のパソコンのメ-ルに転送し、ゆっくり読む為に保存したのですが、まさかこんな事になるなんて思ってみませんでした。

 『過酷な闘病に耐え強く生きようとした彼にどう私が向き合ってきたのか。』結果的に私にとって非常に「重い」メ-ル記録となってしまいました。

 たしか2000年の同窓会で初めて内田君と話をしたと記憶しています。その時の印象が非常に清々しかったことと少年のような目をしているなぁと思ったものでした。何事にも無我夢中の全力投球が身上、それが清々しさの拠り所、人、社会から遊び、文化芸術まで尽きることのない好奇心や衰えを知らない正義感は、まさに「少年の日」そのままであったように思えてなりません。

 微笑んでの奥様の言葉、「人の考え方がそう簡単に変わるものではないでしょう。」が暖かく身にしみました。

合掌

( 張 志朗-記 )

“内田 勝章君がなくなられました。” への2件のフィードバック

  1. 吉川 貞夫 says:

    色々なことに興味を持ち、疾走した内田さん、でもご本人は悔いが残ったことでしょう。
    人一倍チャレンジされた内田さんは、私には素晴らしい人生であったと映っています。

  2. 泉 信也 says:

    内田さんには花乃井中学の同窓会で大変お世話になりました。その時に聞いた、タクラマカン横断の印象があざやかに蘇ります。カワセミ」の美しい写真とともに、病の知らせが届いたときには、思いもよらなかった早世に寂しさがつのるばかりです。まさに全力疾走の人生! 張さん、心のこもった追悼をありがとうございます。

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