12期の広場

12期の広場

-カメオを通して-ミロのヴィ-ナスのポ-ズを考える

4組   前川 光永

1820年、エ-ゲ海の小島、ミロ島の畑でミロのヴィ-ナスは発見された。
発見当初から両腕がなかった。
台座や石柱なども周辺から発見されているがもともと両腕はどのように付いていたのだろうか。
 
発見から190年。多くの学者達がその腕のないヴィ-ナスのポ-ズに思いをめぐらせてきた。
ギリシャ神話のパリスの審判でのりんごを持ったヴィ-ナスや両手に大きな盾を持ったヴィ-ナス。
また髪の毛をとくヴィ-ナスの姿を想像したり、恋人である戦いの神、アレスと伴に立つ姿など多くの説が出された。
また、博物館に現存する古代ヴィ-ナスの像を参考にして両腕のついたポ-ズを復元したりもした。
しかし未だ、決定的な答えは出されていない。
 
ミロのヴィ-ナスが作られた古代ギリシャのヘレニズム時代流行のヴィ-ナス象があったのであろうか。
同時代や、また後世に作られた色々なポ-ズをとるヴィ-ナス像も発見されている。
これまで多くの学者は博物館が所蔵する両腕のあるヴィ-ナス像からまた解剖学的見地からも両腕のついたミロのヴィ-ナス像を想像してきた。
しかしどの姿も未だ決定的とされているものはない。
 
同じヘレニズム時代、カメオの技術は完成されていた。
「カメオ」とは宝石に浮き彫り彫刻されたもので宝石に彫られるカメオのモチ-フはギリシャ神話の神々であった。
愛と豊かさの神であるヴィ-ナスは両腕で様々なポ-ズをとりカメオに彫られている。
同じヘレニズム時代に彫られているカメオから、私はミロのヴィ-ナスの元の姿を知る手がかりにしてみるのも一考の価値ありと勝手に考えているのだが・・・・
 
17世紀から19世紀にかけてカメオ美術は全盛期を迎えた。
メディチ家をはじめナポレオンやビクトリア女王など多くのカメオコレクタ-が存在した。
カメラがなかった時代、今博物館にある古代のカメオの多くは手書きで写し取られていた。
ここに掲載したカメオのイラストは当時のもので私が博物館から譲り受けたものである。
これらがミロのヴィ-ナスの両腕がどうなっていたのかどのようなポ-ズになるのかを探求する一助になるような気もするしその本当の元の姿を知りたい気持ちが膨らむがしかし一方、我々に、このように豊かな想像とイメ-ジを掻き立ててくれる腕のないミロのヴイ-ナスの方が
ロマンがあっていとおしく、今のままで良いのではないか・・・という気もしている。
 注:ヴィ-ナス(ロ-マ神話)はギリシャ神話ではアポロディ-テ-と、
      マルス(ロ-マ神話)はギリシャ神話ではアレスと呼ばれていた。
 
 
ナポリ国立考古学美術館 所蔵


学者が考えた両腕を持つミロのヴィ-ナスの復元像


フエルトベングラ-説
1893年 ミュンヘン大学

ファレンティン説
オランダ(美術史家)

グロリアス・タラル説
1860年イギリス


カメオに彫られたヴィ-ナス像の色々
 
①リンゴを手に持つヴィ-ナスのカメオ図



②恋人アレスとヴィ-ナスのカメオ図



③ヴィ-ナスとキュ-ピットのカメオ図




これら以外にもヴィ-ナスをモチ-フにした美しいカメオが数限りなくあります。その紹介はまたの機会といたします。

“-カメオを通して-ミロのヴィ-ナスのポ-ズを考える” への5件のフィードバック

  1. 田端建機 says:

    美しい手がついていれば、それはそれでまた新たな魅力を感じるとは思います。しかし、手がつけば、像には肉体の生々しさや世俗的な臭いが想起される感じもし、ヴィーナスというより独りの魅力的な女性という印象がしそうです。それも結構ですが、有難味が減る?。むしろ、手という、生臭い?もの、下世話なものが落ちて、女性の美しさそのものが昇華されて、その存在感だけが訴えかけてきているような気がします。他にも手を復元した図も見たような気がしますが、いつも違和感がありました。手のないヴィーナスに慣れ過ぎていて、その固定観念はおいそれと拭えないということでしょうか。

  2. 前川光永 says:

    田端君コメントありがとう。こうしたメールのやりとりは初めてです。ギリシャ神話の
    シーンの総てを説明した文献は少なく,そこで研究をはじめた次第です。現在、神話とは関係無いのですが、黒いマリア(black maria)に燃えています。黒い色のマリア様はヨーロッパに580体存在し出張の度に会いにいきます。会うことが出来た時の歓びは恋人に会えたようなものでなく言葉にできません。何年生かせてもらえるかわからないのに燃える事が多すぎます。
    お会い出来た時、私の行った修道院のマリア様の写真をお見せしましょう。

    前川光永

  3. 田端建機 says:

    ギリシャ神話の全てのシーンとはいかないかもしれませんが、ルネサンス期のイタリア人カルターリの次のような本が翻訳発行されています。
     「西洋古代神話図像大鑑~古人たちの神々の姿について」八坂書房7140円
    図そのものはそんなに魅力的には思えませんでした(芸術的と言うより、版代や印刷代を抑えて、とにかく一応の図示をしておこう?というレベル?)。広翰に色々な伝承を集めてあるようでした。枚方図書館に買ってもらいましたが、もっといい図柄を期待してのでがっかりしてパラパラと眺めて終わりました。出来の悪い市民です。黒いマリアはテレビや写真紀行本のようなもので中南米のものを幾つか見た覚えがありますが、ヨーロッパにそんなにあるとはおもいませんでした。黒いマリア前川本の発行はないのですか。ところでフルトヴェングラーというのは日本人には狂信的な?ファンの多い大指揮者フルトヴェングラーの父親ではなかったかと思います。ちなみに大指揮者フルトヴェングラーならびにその狂信的?ファンというのは私には鼻持ちならない現象です。

  4. 前川光永 says:

    私のギリシャ神話図鑑はカメオに彫られた神々が何と言う名前であるかという疑問から研究をはじめました。ギリシャの詩人 ホメロスがイリアツドとオデッセイの二大伝説を完成させた。私はその物語にそってカメオに彫られた彫刻の神話の主人公を決定していきました。現在後編をまとめつつあります。
    貴方の見られた中南米の黒いマリアは多分 かってスペインによって征服された中南米の国々の修道院にあるものと思われます。インカ帝国を亡したピサロはスペインのグアダルウペの出身でありここの黒いマリアは特に有名であり彼は熱心な信者であった。その影響を受け黒いマリアが中南米に存在しているものと思われる。
    しかし多くの黒いマリアはフランスに存在し280体がノートルダム寺院にある。ノートルダムとは我々の偉大なる聖母という意味である。私はキリスト教徒では無いが彼女に会えた時の不思議な感動は言葉にできません。キリストの母マリアは色が黒かったのか、あるいは彼女はキリストの恋人マクダラのマリアであり色が黒かった とか諸説がある。かっては十字軍により黒いマリア像は破壊されていったという歴史の事実がある。深く詮索するとバチカンの怒りにふれると思ってください。お会いしてお話しましょう

  5. 6組 佐藤裕久 says:

     貴兄の論考を楽しく読ませて戴き、有難うございました。ただ、細部については、よく分らない事柄もありますので、ご教示下さい。

     こちらの情報はインターネットのWikipedia(ウィキペディア:フリー百科辞典を作るプロジェクト)によるものです。そのサイトを以下に示しますので、必要な場合には、該当部分をご参照下さい。

    『ミロのヴィーナス』のサイト:
    http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9

    には、ルーヴル美術館にある、現在の『ミロのヴィーナス』像の写真像が示されています。以後、この写真像を、恐れ多いですが、簡単のため、彼女の写真像と呼ぶことにします。(彼女が制作された紀元前130年頃、両腕はどのようであったのか、未だ、明らかにはされていないのですね。)

     さて、上記サイトでは、彼女の写真像の他に、いくつかの説明項目があり、ここでは、その内の「概要」、「歴史」、「ヴィーナスの両腕」の項目について、貴論の内容と関連させてお尋ねしたいと思います。

     (1)貴兄の論考では、本文2行目:“発見当初から両腕がなかった”と記されています。一方、同上「歴史」項目には“1820年にミロス島で彼女は発見され、”
    次の年:1821年に、当時の彼女の像のスケッチが描かれ、それが残されているようです。[以後、これを「1821年(彼女の像の)スケッチ」と呼びます。]
    その「1821年スケッチ」には、碑文の刻まれた台座部分も描かれています。
     また、彼女の左腕は、現在は、肩の部分から ないのに、「1821年スケッチ」では、当時、左腕の肩から上腕部分(一部)が未だ失われていないようですね。
    さらに、その残っていた上腕部分(左腕)は、ほぼ水平方向に保たれているように見えます。
     以上の考察で、発見当初、彼女の左腕は肩から上腕部分(一部)が残っていたと思われますが、如何でしょうか?

     (2)次に、「1821年スケッチ」に描かれた台座に注目します。彼女の像を背後から見たとき、その(台座)左側部の上面面積が右側部・上面面積より広くなっています。
     一方、「ヴィーナスの両腕」項目には“フルトベングラーによる両腕復元像”の写真が示されています。
     この(フルトベングラー仮説による)写真では、台座の広い左側部上面の空いた部分に石柱(長柱状の石台?)が設置されていたと仮定しているのですね。
    さらに、彼女の左腕の上腕部は、肘を経由して、前腕部につながり、左手首と左手に至るが、これらを前述の石柱台上面に置き、左手に林檎を持たせているのですね。
     この「(フルトベングラー仮説による)両腕復元像」の写真では、「1821年スケッチ」で見られた、“「ほぼ水平方向に保たれた上腕部分”を無理なく再現させようとすると、石柱台をもっと高く仮定する必要があると思われます。
     なお、上記「フルト・仮説の両腕復元像」の写真と貴論の「フルトベングラー説」の図とは、ほぼ同様だと思われます。
     以上の考察で用いた「1821年スケッチ」、特に、彼女の左腕上腕部について、貴兄はどのように考えられますか?

     (3)「フルトベングラー説」では、左手で林檎を持った彼女がその前腕を石柱台上面に沿うように載せていますが、彼女は林檎を見ているのでしょうか? または、彼女の視線は、どの方向を向いているのか分っているのでしょうか?

     (4)貴兄が述べておられるように、「彼女が作られた古代ギリシャのヘレニズム時代には、カメオの技術が完成されていた。それらカメオに彫られている様々なヴィーナスのカメオ表現を系統的に整理・分析して彼女(ミロのヴィーナス)の元の姿を探る」という手法はカメオ表現に精通した貴兄ならではの素晴らしい着想・提案だと思います。
     是非、“黒いマリア(black Maria)様”に関する研究と並行して、「カメオ表現に基づくミロのヴィーナス像の原型推定に関する研究」をも貴兄のライフワークの一部に加えて欲しいと思います。期待しています。

     ところで、ユダヤの町ベツレヘムでマリアはイエスを産んだということですが、ベツレヘムから現在のエジプト国境までの距離は陸路約100kmですから、さらに、地中海路だとユダヤとエジプトとはそれほど離れた国ではないと感じます。
     また、エジプト人は白人ではないように思いますが、どうでしょうか? 黒いマリア様という表現は、マリア様が“白人ではない”という表現を超えて、“黒人である”という表現に、通常は、なるのでしょうか?

     話は、全く変わります。
     最高気温が大阪より、摂氏で10度位低い、こちら仙台では、宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ」にある一節:“サムサノナツハ オロオロアルキ”の“寒さの夏は・・・”が、時々、実感できます。(市岡に通っていた頃は、「寒さの夏」とは何か?全く不明でしたが、仙台に住んでみて、ここより、160~70km北に位置する、花巻で生活していた宮澤賢治の感覚は不思議ではないことがよく分りました)

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