12期の広場

12期の広場

私の体験したこと

北村  彰一
昭和17年樺太庁官舎にて 左より弟恭二 父得三 弟修三 妹道子 母千春 私彰一(国民学校5年生) 官舎は樺太庁の隣にあり広壮で鉄棒、弓場などがあり級友がよく遊びに来た

 私の生まれたのは1931年(昭和6年)所謂満州事件の起こった年であり以後中断はあったが15年間中国で戦争状態があった。

 中学二年までの生活に大きく影響した。戦線は優勢だったが長引き物資は窮乏していった。打開のため米国等と新しい戦争となった。

 初めは予想に反して勝利が続きあわよくばと思ったが、半年後より逆転が始まった。

 国民学校六年になるとアッツ島などで玉砕のニュースが相次ぎ心中悲しんだ。日本軍は降伏は許されず最後まで戦うのが当然とされた。各地で補給が断たれ、悲劇が起ったことは後で知った。

 中学では軍隊に準じた教育が行われた。校長の独断で全員が国民兵役に志願したと告げられた。同じ中学生が沖縄に於いて取った行動を見ればもし樺太(私の生地)に米軍が上陸してきたら同じ状況が生まれていたのは確実である。

 しかし黙殺したはずのポッダム宣言を受諾することが14日までに決まっていた。2回の原爆の投下、ソ連の参戦が民族の絶滅をもたらすと懸念した為政者が宣言を受諾しても国体の変更はないと判断したためである。一億玉砕を叫び国民はそう思いこまされ、本土決戦を覚悟していたので全く驚いた。このようなことが出来るのか。これまでの犠牲者に申し訳ない気持ちと助かったという安心の気持ちが忘れられない。

 ドイツと異なり日本政府は残った。出来たら全てもとのままにしたいと決意したようだ。

 10月農地改革、婦人参政権等の指令が出て、米国の政策に賛意を表す日本人も出てきた。日本国憲法は占領軍の押しつけであるから自主憲法をと言う人がいる。しかし文章はともかく内容は第九条をはじめ当時の国民の気持ちを代弁していて、明治憲法の改正手続きをふんで天皇の裁可を得ている。

 昭和33年 家族と長野にて(左端が筆者)
昭和33年 家族と長野にて(左端が筆者)

 「東京裁判」は宣言の結果行われたが、判決について、後いろいろ批判がでている。しかし戦争の総括、日本人による戦争の責任検証はされていない。すべてを水に流す無責任体制は日本人の特色であろう。

 昭和30年頃まで私は上京時いつも靖国神社に参拝し犠牲者に哀悼の気持ちを表してきた。しかし現在はする、しないが政治的に判断されそうで困っている。

 もう一つ驚かされたのはソ連の崩壊だった。理想の国と思う人もいたがスターリンの行動などで非情な独裁国家に過ぎないと判っている人は多かった。それでも米国等に対抗して社会主義勢力の本家であり冷たい戦争の中心であり次善の希望を託する人もいた。私の卒業大学でもマルキシズム全盛だった。ソ連では幼児期、少年期、青年期と政治教育は完璧と思われていた。ゴルバチョフの出現により秘密暴露が進み米国との軍備拡張が経済を破綻させ遂にソ連は解体する。共産党は唯一の政党の地位を失いロシアの現在は如何になっているか。石油などにより成金も台頭し資本主義国と同じようだ。衛星国はあるいは瓦解し指導者は処刑や追放された。ベルリンの壁が崩壊し私は生徒より現物をプレゼントされた。領土人口は縮小したがロシアは中国と共に世界の警察として振る舞う米国に依然として抑制力を発揮している。

 
 
HP委員から:
 ご多用のところ原稿依頼を快諾いただきまたご寄稿頂きましたこと、感謝いたします。原稿を拝見して先生が12期の私達よりほぼ一回り上であることを知りました。いわゆる戦前のお生まれ、多感な時期を戦時中に過ごされ、また激動の時代に生きてこられたのですね。はや一世紀に近い長い人生で経験されたことやそれにまつわる感慨や如何にと文中より拝察いたしました。
 これからもお体大切に、お元気にお過ごしになられること心より祈念いたします。

“私の体験したこと” への9件のフィードバック

  1. 田端建機 says:

     先生、非常に失礼なことを申し上げますが、先生は柔軟性に欠け、規則遵守のがちがちの保守派のように思っておりました。しかし、この記事を拝見させていただきますと、己の未熟さ、視野の狭さ、勘の悪さに恥じ入るばかりです。固いコンサバーテブなどとんでもない、先生はリベラルで柔軟な考え方をしておられ、イデオロギー的な発想には縛られず、ものごとを広く公平に見てこられた方だと認識を新たにしました。戦争や憲法、東京裁判、マルキシズムとかソ連に対する論評には共感できる一方、昔の自分の考え方を言い当てられたようで忸怩たるものもあります。先生、長く大変失礼な誤解をしてまいりました。昔の未熟な若気に発する短慮だったのだと笑ってお許しいただきたく存じます。これからもお元気でお過ごしください。

  2. 北村彰一 says:

    田端さん 私の書いた文に対して感想をお寄せくださいまして有難うございます。

    昔も今も同じ考えですが、それを人がどう思われるか気になります。誤解と謙遜さ

    れていますが的を得ていたのかも知れません。大体肯定的なようで安心していま

    す。それと別ですが後担任などすると短い時間にクラスの人達に管理的に対応する

    必要があってどう受け取られるか心苦しいことがありました。大阪府に就職して特

    に市岡高校は大阪府教職員組合の影響が強かったのに驚きました。

  3. 張 志朗 says:

    北村先生へ
    先日東京での12期同窓会に行ってきました。会は初めての参加者もおられ大いに盛り上がり、楽しい一時を過ごしました。そこに3年5組の中山賀弘君が来ていました。覚えておられますか。病気療養のために卒業式に出れなかった彼です。中山君は現在いたって健康、参加者の誰よりも若々しく、落ち着いた好紳士、リタイヤ後は歴史探訪などと元気に活躍しておられるとの事です。彼から北村先生には大層お世話になり、病気療養中の身でありながらも試験も受け、無事市岡を卒業したことを聞きました。私と中山君とは高校1,2年の頃、親しくしていたようですが(顔を見ただけでフルネ-ムが出てきました)そんな事は全く知らずに今日に至っていました。本当に色々な事があったのですね。またその話を聞きながら2年前、先生から返して頂いた高校1年時の作文の事を思い出しました。まさにタイムカプセルが開いて突然の宝物が出てきた感じが今も鮮やかです。周回遅れ(先生と10歳の差)でこの時代を共に生きてきたようですが、今なお先生とお呼びできる北村先生がご健勝でおられ、私達を見守って頂けることは12期生の幸運の一つかもしれないと思えてなりません。なお一層お元気にお過ごしください。

  4. 北村彰一 says:

    張さん  同期会の幹事として何時も誠心誠意ご尽力有り難く思っています。中山さんはどうされているか気にかかっていましたが嬉しい近況で喜んでいます。日本版ビッグ イッシュの佐野章二さんも5組です。例の記事私よりお願いしてみましょうか。担任でしたので。それから作文、私も何があってもおかしくない年齢ですのでここらで、卒業生分を同期会に保管して貰いましょうか。成績物(評価はついていません)でプライバシイのこともありますが、この際仕方なく原因を作った私が悪いのです。幹事で相談してください。張さんの勧めか何人かからリクエストのお電話やお手紙を頂き楽しい交流が出来たので良かったのですが、その後ばったりとありません。8組の萩原貞雄さんはまだ見つからず、つらい思いをする場合もありますが郵送の準備をして待っていますので続けて口こみよろしくお願いします。。卒業していない方も大分居られて転校か、その他か人生いろいろを感じます。よく覚えていない名の方の分もあります。

  5. 中山 賀弘 says:

    北村先生。永くご無沙汰致しました。半世紀振りのご挨拶です。卒業の件に関しましては本当にご心配をおかけし又お世話になり有難うございました。お蔭様で卒業後はゆっくりと療養も出来手術後は完全回復致しました。先日の東京12期会同窓会に初めて出席し懐かしく学友達と再会出来ました。勤め先の転勤でS.57年に東京に来てからはずっとこちらですのでもう30数年になります。当初は、“定年後は関西へ”と回帰志向も強かったのですが息子達との関係でこちらに落着きました。今は歴史の事跡を訪ねたり、ほんの少し早稲田のオープンカレッジに学んだりしています。それにしても最近は<歴史に学ぶ>と言う大事な事が忘れられているようで残念です。ある種の“危機感”を禁じえません。株高と円安の影で今大きな<政治的季節>が始まっているのかも知れません。
    これからもお元気でお過ごし下さい。

  6. 萩原 貞雄 says:

    先ほど3年5組の泉信也君から電話がありHPに北村先生の文が出ている由。早速拝見しました。卒業生とのやりとりの中に私の名前を見つけましたのでメールする次第です。新任の北村先生から世界史の授業で「君たちはなぜ歴史を勉強するのか」の趣旨のご質問があり、それに対し私は「歴史を知ることにより将来どうすればよいか判談できる」との優等生的回答をしたように記憶しています。先生の影響からかその後は理系に進んだにも関わらず、歴史への興味は細々ではありますが続いています。現在近所でタイムの講読会がありそれに週一回顔を出しています。今週は米大統領のケネディが殺されて50年になりますのでその記事の読み合わせです。このようなことに興味を持つのも先生の影響かもしません。

  7. 椎間 賢一 says:

    世界史の授業では熱心な生徒ではありませんでしたが北村先生のご指導は次のように生かされました。1980年代始め、チュニジアの国営造船所SoCoMeNa へJICA技術専門家として勤務しました。この地は昔カルタゴとよばれローマ軍と戦った(ポエニ戦争)カルタゴの名将ハンニバルの名前を口にした時、現地スタッフから驚きと尊敬の眼差しで見られたことを思い出しました。カルタゴの歴史から学んだか、チュニジアは東西冷戦時、中立を宣言。ビゼルトにあるSoCoMeNa 造船所に、何と米ソ両国の艦船がドック入りするという珍妙な事態も起こったのです。ビゼルトを制する者が地中海を制すると大言壮語する彼らは、気位だけは高く、まだカルタゴの幻想を追っているように写りました。ビゼルトがアフリカ大陸の最北端に位置しているという地理的要素も精神構造上無視できないようでした。

  8. 北村彰一 says:

    その後三人の方よりコメントを頂きました。皆さん歴史に関して学ぶ意義や歴史よ

    りの反省など述べてくださいました。在学中私も歴史を学ぶ意義を問い続けてい

    ました。

    しかし皆さんが過大評価しておられて、ご自分で到達された境地を私に結びつけて

    居られると恥ずかしくも嬉しい気持ちです。最近チュニジアの王族の子孫?が

    近くに住んで居られました。阪大に留学後神戸大に就職、世界は狭くなったと思

    いました。相互理解に歴史の学習は必須です。

  9. 西幹 二郎 says:

    先生の訃報を聞きました。本当に残念です。平成27年3月27日とのことで、驚きました。
    いつまでもお元気だと思っていました。先生に歴史研究部を再開したらということで再開して本当に楽しい学生生活でした。おかげで関西医科大学の歴史部の部長も仰せつかり楽しい学生生活を送らせていただきました。感謝しております。また今度向こうでお会いできる気がします。
    本当に大変お世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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