12期の広場

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「凡」さんが逝った

3年8組  山田 正敏

 永い闘病生活だった。

 小生が凡さん(村木 雅章)と初めて会ったのは、56年前にもなる。高校1年夏の小豆島臨海以来で新聞部に属していた彼は、酒井八郎、松田修蔵 等と来ており、小生はどういうわけか彼らと気が合い、楽しく遊んだのが最初である。その後、プライベートでも新聞部の旅行に必ず誘ってもらい、毎年夏には一泊で若狭小浜や和歌山の友ヶ島に行ったり又、凡さんの松阪の実家に行き、近くの小川で、水遊びをした思い出がある。十代から大学を出るまでの青春の思い出である。

 それはそうと、凡さんのニュックネームの由来であるが、酒井の話によると、凡さんの元々の名前は「平野雅章」で、当時「平野凡太郎」という喜劇役者がいてその「凡」をとり、凡さんというようになったとの事である。又、平野から村木になったのは御尊父が亡くなり奥方の実家 村木家を継ぐため養子になった為である。

 彼の飄々とした風貌にぴったりのニュックネームではないか。

 それぞれ勤めを持つようになってから会う回数は減ったが、小生が大阪に戻ったときなど、神戸の酒井の家に凡さんを呼び、張も加わり食事をしたり、泊めてもらったりして近況報告や学生時代の話に花を咲かせたものである。 

 8年前に大腸癌、6年前に肝臓癌、それから首に皮膚癌、その後肺に転移。その段階で医者の診察によるとレントゲン撮影では肺が真っ白で治療の仕様が無いとの事であった。4年前の事になる。治療に関しては、入院を断り、抗癌剤等の辛い治療を拒否し、通常通り毎晩のように夜9時頃になると近くのスナックに行き、ビールにチュウハイそしてカラオケを楽しんで帰宅。

 しかし、2年前だったか、レントゲンで写っていた癌の影が消えた為、医者が不思議がり、彼の日常の生活を1から10まで報告を求められたと云う経緯があり、笑いながら自慢げに話してくれたのを思い出す。

 細君 正子さんは20年前に肝臓癌で逝去されているが、自分の亡き後自分の子供達(3人のお嬢さんがいてそれぞれ結婚されている)の今後の生活の事も考えた人生設計もしていた。

卒業50周年記念同窓会時の凡さん

 それは、何時からか、松阪駅に近い場所に十数戸の戸建ての賃貸住宅を建設、経営していたのである。いつだったか、小生が90才まで生きたいと思っているというと、彼は77歳まで生きられればいいんだと云った事がある。その時はその訳を云わなかったが、77歳でその賃貸住宅建設費のローンの返済が終わると言う事であった。

 昨年12月の中頃、電話を掛けて来た時の話である。「あくせく働いて借金を返済し続けて、77歳でこの世にハイさよならではつまらんとヤット気がついた。せめて1年でも半年でも、返済の済んだ賃貸収入で豪勢に遊んでみたい。」と苦しそうに咳をしながらも笑いながら言っていた。

 そして2月17日朝に電話があり「とうとう身体が思うように動かんようになった。退屈で退屈で仕方が無いのでお前やいろんな人に電話している。」と さしたる話題ではなかったが、その時彼の死期を感じた。

 それから10時間後の18時に息を引き取ったとの事である。 8年に及ぶ「癌」との闘いに堂々と対処した彼の生き様に敬意を表し・・・アーメン。

 葬儀はなぜかキリスト教でする事に自分で4年前に決めていたという。参列者は100名以上とみうけられた。

市岡同期参列者 : 酒井八郎、張志朗、柏木(後藤)赫子、山田正敏

“「凡」さんが逝った” への2件のフィードバック

  1. 田端建機 says:

    私の港中学校時代に彼は転校して来た。大柄で独特の話し方や立ち居振る舞いが印象的であった。大柄故の威圧的といった印象はなく、何時も飄々としてものに動じない感じでマイペース、かといって人を寄せ付けないような雰囲気はなく、割りとよく通る声で明るく話しているのを何度も耳にした記憶がある。派手な印象ではなかったけれども目立つ存在であった。中学時代も市岡時代も彼とは同じクラスになることはなく、非常に親密になるということはなかったが、彼のそういう印象は中学以来現在に至るまでずっと変わらなかった。そして卒業後何10年かして、張氏や酒井氏等と再会交流することになり、それを機会に彼とも会う機会も増えたのであるが、彼の個性的な生き方やスケールの大きさ、胆の据わり方、したたかさといったものに感心させられるようになった次第。この山田氏の投稿を読んでその印象は一層強まった気がする。しかし、飄々として明るくマイペースの大きな存在という印象は、他方それは同時に、私の思念や行動の範囲では捕えきれない、けったな?男だという印象でもあったのであり、この印象も最後まで変わらなかった。そうはいっても、彼に嫌悪感などを感じたことはなく、けったな?という形容詞は貶し言葉ではなく褒め言葉のつもりである。三重県の片田舎?に隠れながら?何かあると臨機応変に我々の前に出没した彼、聞きたいことを聞く機会はもうなくなったが、これからはこういうことも増えて来よう。結ぶ言葉も思い浮かばないので、仕切れトンボでこのコメントを終る。乞う、ご容赦。

  2. 寺澤 智子 says:

    凡さんと呼ばれていたのは知っていましたが・・・そういう理由だったのは初めて知りました。

    亡父からは市岡高校時代の友人の事をしばしば聞いておりましたので、私の中では皆様はとても身近な存在に感じています。

    今回、父の事を偲び同窓会のページに掲載、そして父らしい笑顔の写真を選んで頂き大変うれしく思っています。

    実はこの写真は、父から「遺影に使ってほしい」と言われ何枚か渡されていた中の一枚で、実際に遺影に使った思い入れのある写真です。

    先日4月12日に納骨式を無事に終えることができました。

    生前信仰していなかったにも関わらずなぜかキリスト教式で行った為、自宅にある仏壇の横に父の遺影と十字架を置き、その横で牧師さんがオルガンではなくギターの伴奏で にわかキリスト教の家族が音程の合わない讃美歌を歌うという奇天烈でくすっと笑える式でした。

    納骨式なのに面白い・・・父らしさを感じ胸が熱くなりました。

    現在は相続の事と父の遺産である工場の仕事、そして93歳になる祖母に纏わる様々な事を長女である私が引継いでいます。

    右も左もわからずいろんな人に助けられながらやっているのですが、父からは「何やっとんや~」と言われそうです。

    父の事を大切に思ってくださっている市岡高校の同級生の皆様 本当にありがとうございます。

    アーメン

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