12期の広場

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「12期の広場」2024年新春号ラインアップ

 同窓生のみなさん、あけましておめでとうございます。
言い古してきた賀詞ですが、元日にかわす言葉としてこれにまさる言葉はないでしょう。行く年を送り、新しい年2024年を迎えての感慨は決して一様ではありませんが、人の“ならい”です。
 心新たにここから歩み始めたいと思います。
 
 添付した写真はお正月郷土料理 『越後のっぺ』で、「広場」2012年の1月号に佐々木康之君(長岡市在住)が投稿してくれたものです。曰く、「野菜のごった煮」とあり、素朴で清々しくておいしそうです。正月は、大晦日のまな板の音、立ち込める湯気、忙しく立ち回る母の姿と、うって変わっての元日の静かさと正月膳を思い出しますね。野菜の煮しめの有難みを痛感する昨今ですが、残念ながら正月膳は市販のお重セットが主流のようです。我が家も孫が楽しみにしているとそれを買い求めました。そしてそれが正月膳の主役です。昨年末、市販のお重セットのテレビ、通販、新聞ちらしなどの宣伝の多かったこと。3~4人前で価格も上は10万円近くで驚くばかり。いわゆる「富裕層」をあてにした商のように思えてしまいますね。
 年を取り今や“立派な”老人、更に“一言居士”にあっては、「富裕層」、「優勝劣敗」、などの言葉が行きかい、それが普通になり、暮らしに忍び込んでいるのではと思いながらの正月です。
 付け加えますと『のっぺ汁』は雪深い地方食とばかり思っていましたが、大阪にもあるようです。やはり根菜が主で名前は『のっぺい汁』と異なりますが、河内の方で稲の刈り取り時の昼食に食べたとの新聞コラムがあり、ちょっと驚きました。
 
 昨年11月頃から喪中はがきが届きました。秋号でふれた以外で言えば、原清明君(4組)、三上正義君(5組)、須藤憲司君(7組)、山田正敏君(8組)の訃報です。原君は同窓会の会計として支え得て頂き、三上君には50歳を越えてテニスの手ほどきを受け、須藤君には近くに住むスポーツマンとして親しくお付き合いいただきました。特に市岡東京12期会設立時のメンバーであった山田君には公私ともにお世話になりました。皆さんとの思い出は尽きません。
 慎んでご冥福をお祈り申し上げるとともに、お知らせいたします。
 
 さて「12期の広場」2024年新春号のラインアップは以下の通りです。
「ひろばリバイバル」は山田正敏君の「趣味のギャラリー」にしました。お読みください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「質実剛健の殻を破る」 7組 上山 憲一
  2. 掲示板
    ・『「小出楢重と大・大阪時代」(その2) の講演会に参加して』 7組 上野 裕通
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「趣味のギャラリー 陶芸について(1)」 
    (2016年4月号から)
    8組 山田 正敏
以 上

巻頭コラム

質実剛健の殻を破る

8組  上山 憲一 
 
 ウクライナへのロシアの侵攻に加えて、昨年の2023年秋にイスラエル・パレスチナ紛争が突然起こった。特にイスラエル・パレスチナ紛争では、ユダヤ人を中心としたイスラエルのテクノロジーの発展が最近著しく進み、兵器、農業技術のイスラエルによる世界シェアが地球温暖化と共に増大し、周りの人たちの自由度を制限し続けていく。
 イスラエルは、もちろん米国の強力な援助を受けているが、日本を含め世界の他の国が太刀打ちできないほど早い展開でテクノロジーのイノベーションを行っている。私の米国留学時代と、その後のユダヤ人との共同研究や、彼らとの研究上の競争を通して、独特の情報獲得の習慣と歴史の中で堅持してきた発想法の知恵を垣間見てきたので、彼らが何故将来もテクノロジーを牽引していくと感じているのかをこのコラムで紹介したい。
 私自身は1970年の秋に博士号を収得したが日本では職に就けず、米国のブルックリン工科大学にポスドク職を見つけ、ユダヤ人のマリー・グッドマン教授の下でポリマー合成の研究を行うためにその年の暮れに渡米した。米国の中では歴史の古いブルックリン地区は市岡高校旧校区と同様に大都市の一角に位置し、その昔活発なベンチャー企業が生まれた地区であったという点でも同じであり、私自身ブルックリンの町の雰囲気に馴染むのは早かった。研究室には3人のイスラエルからのユダヤ人ポスドクが働いていて、そのうち2人は世俗的ユダヤ教信奉者で、少年時代に受けてきた教育と家庭の戒律「タルムード」による躾の話をよく聞かされた。彼らの話にでてくる躾は、市岡高等学校の校則の「質実剛健」そのものと同じで、内容が曖昧な点もよく似ている。付き合っていくと彼らは時々戒律を臨機応変に破り、神を信じているが自己の経験で信じる神も変化していくという点でも、仏教を信じる私とよく似ていると思った。「質実剛健」の曖昧さもこれに縛られる個人が殻を破り易い校則になっているのだとその時初めて気が付いた。この2人は、私の知る他の多くのユダヤ人と同様、後にベンチャー企業を立ち上げ、結局それぞれに大成功を収めている。
 この大学の2人の卒業生が近くのユダヤ街で操業していたベンチャー企業ファイザー社に 勤め、第二次大戦中、苦心の末にペニシリンの大量合成に成功し、世界の製造を独占した有名な話を聞いている。また、私がいた1970年にも、大学の中の隣の研究室で教授が急死する不幸があり、ユダヤ人のポスドク仲間がその研究室の研究課題そのままを目的にしてベンチャー企業のアルザ社をサンフランシスコで起こし、我々の研究室のポスドクも何人かこれに加わり、その中に先ほどのユダヤ人ポスドクもいた。その後この企業は見る見るうちに大企業に成長し、今はジョンソンエンドジョンソン社に吸収されるなどの経過を身近で見てきた。彼らの成功の秘訣は複数の世界トップ研究者から継続的に高額の講演料を払い質疑応答で先端情報を集めることにあった。また私達の研究室でも上司のグッドマン教授は、ミーティングで討論が行き詰まり中断すると全米の著名なユダヤ人教授に直接電話で相談し、これにより驚くほどのスピードで研究を進めているのを見てきた。その他の例として、飛び級のユダヤ人高校生が夏季に大学院の研究実験単位を取る目的で研究室に
1970年代・ブルックリンのユダヤ人街から見たマンハッタンの夜景
配属されると、単純な実験でも質問があると参考書の著者に電話して答えを貰っているのを見て驚いた。若いうちから直接見も知らないユダヤ人の高名な先生から情報を得ることが許されるルールになっているらしいことをその時に知った。最高の情報を選ぶことにより、最高の知識として記憶し、最高の知恵を生み出す方法として使っている。日本の研究者はこの方法をとることは苦手で、新しい知恵は自身の直接の研究と出版された論文から得る傾向にある。
 ブルックリン工科大学の私達の実験室の真向かいの部屋がたまたま「米国の高分子の父」と呼ばれ、ナチスから逃れてウイーンからスイスへ家族共々脱出する時に、全財産を白金線に変えてレースで覆ったハンガーに服を掛けてスキー客姿で突破したという米国でも有名な逸話をもつ伝説の研究者であるハーマン・マーク教授の部屋だった。部屋の奥の壁一面が細かく仕切られた200個程の書棚になっており、所々に学術雑誌から切り取った論文冊子が入れてあった。その棚を、秘書と言ってもこの人も教授であるが、個々の棚の冊子が増える速度を観察していて、急激に増加して立ち上る瞬間を見つけたならマーク先生に連絡し、マーク先生はこの棚の数個の冊子の塊を一晩で読み、翌日には総説にまとめていた。その総説を一冊500ドルで全米の企業研究者(日本の企業も数社含む)が買いに来ていた。日本のニューヨーク駐在の企業研究者たちは、マーク先生の予想はよく当たるので日本への連絡は欠かせないという話であった。この総説の凄いところは近い将来ブームになることを予想し、豊富な知識と鋭い感性を基にして新規のキーワードを考え出していることにある。私の知るそれまでの総説は、ブームのピークを過ぎたものをまとめて紹介するものばかりで、中心となるキーワードもそれとなく現れたものであった。
 当時、日本が研究でも米国に追いつく勢いであったが、優れた日本の研究のほとんどすべての源泉が日本以外の国にあるという米国の報告書が出たために、日本の多くの大学・企業の研究者は独創的な発想能力を高めるためにKJ法や水平思考法などの訓練を行うなど苦労している時代であった。
 マークの書棚は古代アレキサンドリアの図書館でパピルスの巻物を保存する棚と同じで、
Herman H Mark先生がブルックリン工科大学に
高分子研究所を設立した時期の写真
ギリシャ時代からイスラムの文化圏を経てウイーン、ブルックリンに、常にユダヤ人の間で受け継がれていたことは想像できる。私がその当時マーク先生の好意で読ませてもらったのは「ソーラーヨット」の名の総説で、宇宙旅行のヨットの帆の材質についてであったが、このアイディアは2010年に太陽光子圧ソーラセイル推進装置をもつ惑星間航行宇宙機「イカロス」がJAXAによって打ち上げられたとき、耐熱性ポリイミドの推進帆で日本が初めて実現している。つまり、このアイディアは公の論文に出てこなかったもので、40年の間、一部研究担当者の頭の中に入っていたものであろう。 新しいアイディアは一寸先にあっても簡単に思いつくものでないが、このように我々の知らなかった一歩先を行くリテラシーの方法を受継いで、新規の領域を予想していることを知った。前述のユダヤ人研究者同志がもつ独特の情報交換網を生かして最速のスピードで研究を進めるという方法をも加えると、日本の研究者がなかなかついていけない側面をもつ。これらに対抗するために日本では情報処理の新しいアルゴリズムの開発が待たれる。
 とは言っても、ポスドク仲間であったユダヤ人が揃って信奉していた「タルムード」は、隣人であるパレスチナ人を破滅させることを教えてはいないと思う。また戒律を彼らは厳しく守るより、有効に破ることによって我々との社会生活や研究生活の国際交流の質を向上させてきていることも見てきた。「質実」をモットーにしながらいつの間にかある程度裕福になっているなどは彼らの「タルムード」の教えの真骨頂であるが、ユダヤ人の起業家が深く関与してきたGAFAMの大部分が常に世界制覇を狙っているような印象を与えているのが気になる。

掲示板

「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会に参加して

7組 上野裕通
 
 令和5年11月26日(日)此花区民センター「一休ホール」4階会議室で「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会がありました。講師は同級生の画家である圓尾博一君(3年6組)で、令和4年に続いての二回目です。同級生の参加者は、松田修藏君(6組)と伊東慎一郎君(7組)と私の3名でしたが、此花歴史研究会の例会でもあり、盛況でした。
 明治20年(1887年)生まれの小出楢重は昭和6年(1931年)、43歳で亡くなります。その生涯について、圓尾君は、当時の世界情勢、小出楢重と日本の画家、文学者との交流、フランスでの貴重な経験等について詳しく調べられ、分かりやすく話されました。
 小出楢重は、明治33年(1900年)第1期生として市岡中学に入学、心疾患で1年間休学したため、卒業時は2期生と同じでした。そのお陰で小出楢重には、津田勝五郎ら2期生との交流はもちろんのこと、1期生の信時潔、石浜純太郎、坂村養三、熊野徳義、中谷義一郎らとの交流もあり、友達に恵まれていました。後に、世に「裸婦の小出」と名声を博した小出楢重の市岡中学時代です。 画家は、人間とはいったい何なのかを追求する。そのために自画像を描く。また「なぜ、男は女性の裸像を描くのか。」それは、キリスト教の考え方からやギリシャ神話「パンドラの箱」を男性はあけてはいけないと言われていたのに開けてしまったということからきているという含蓄のある説明がありました。
 小出楢重はフランスに行ってから外国の画家から学ぶことも多く、影響を受けたようです。フランスから帰ってきてからは洋服姿になっています。今から100年前、1923年9月1日に関東大震災が発生しましたが、そのため、関東から多くの人が関西、大阪にやって来て、大・大阪時代が始まっています。岸田劉生が京都に来たこともあったそうです。
 谷崎潤一郎が「蓼喰う虫」を書き出した頃、挿絵を小出楢重が描き、潤一郎は、蓼喰う虫をすらすら書けたのは小出の挿絵のお陰だと言っていたとのエピソードもあったとか。
 1920年から1930年代は世界も戦争の危機感があり、画家は当局のいうことを聞かないと絵具や筆など手に入らなかったらしい。1937年、信時潔は日本放送協会からの委嘱により「海ゆかば」を作曲しています。天皇のためには命を惜しまず死んでいった時代の曲であり、第二国歌と言われていたようです。当時、芸術家はお上からの恩恵がなければ生きて行けなかった時代であったのでしょうね。
 しかし、小出楢重は生涯を通じて思い切り裸婦を描いて生き抜いたと締めくくられました。
 圓尾君の講演は具体的な場面を想像させながら聞き手に分りやすく話されるので、とても興味をもって聴き取ることができました。

ひろばリバイバル

『趣味のギャラリー』―「陶芸について (1)」

8組   山田 正敏
 
 昭和39年 大学卒業以来38年間、61歳でサラリーマン生活を卒業。その後の勤めについては一切考えず、生活については退職金、年金と僅かの蓄えで何とかなるだろう位の考えでいた。 問題は、仕事を離れた人生に於ける“暇”というものを、如何に潰し、残りの人生を楽しむかである。 就職するまで、高校、大学と懸命に励んだ「剣道」。その後40年近く止めていたが、その再開と「ゴルフ」、「海釣り」、「囲碁」、友人達との月1~2回の「飲み会」 等々、これで まあ何とか“暇”潰しは出来るだろうと考えていた。
平成15年頃の作品
タタラ作り長皿
 しかし、「剣道」は近くの剣友会に入会したものの、初日早々左足ふくらはぎ肉離れでダウン。2週間程度トレーニングを積んでの事であったがあまりの体力の衰えに愕然。そして再開を断念。「海釣り」は師匠としていつも同行させてもらっていた友人を交通事故で失い断念。
 結局 「囲碁」と 「飲み会」 だけで残り人生を楽しむには何となく寂しい気がしていた。
 「陶芸」 については小生なんら経験が無く、興味も無かったが、毎年、5月と11月に栃木県・益子市で「陶器市」が開催され、陶器の鑑賞を大いに趣味とする、我が女房殿のアッシーとして、50歳ぐらいから車の運転手を務め、ほとんど毎年のように年2回、陶器市に行くようになった。其処で、プロの作品を見たり、作陶の実演を見学したりする内、なんとなくやってみたい、又、自分にも出来るかもしれないと言う気になってきたのかもしれない。
平成17年頃の作品
タタラ作り花器φ24cm
 昭和50年、34歳で大阪から東京に転勤して以来、千葉県船橋市の夏見台団地という690戸の団地に住まいしているが、その東側に隣接して市の 「中央老人福祉センター」 がある。その「センター」には 書道・華道・水墨・詩吟・コーラス・カラオケ・茶道・日本舞踊・等々22のクラブがあり、その1つに陶芸クラブがある。そこに入会できる条件は船橋市民である事、4月1日付で満60歳以上である事の2点だけである。そこで平成14年4月入会。
 当時陶芸クラブの部員は104名だったと記憶している。
 この陶芸クラブに入って思ったことは、現在、小生の付き合いする仲間は、市岡の同期、大学土木科同期で関東に住まいする一部の仲間達、大学剣道部の仲間達であるが、おそらく、この陶芸クラブのメンバーが人生最後の仲間達になるであろうという事を感じている。
平成17年頃の作品
黄瀬戸釉皿φ23cm
 メンバーの年令は60歳~90歳前後、気の合う人、合わない人、耳の遠い人、足腰の不自由な人、月に何日も医者通いしている人、在籍中に亡くなる人、小生のこれからの人生が全て詰まっているような気がする。
 このクラブのシステムは未経験の新入会員は、1年間講師の指導のもと手びねりによる研修を受けることになっている。研修は、当時、月2回の金曜日であったが、やればやるほど面白く、やりかけの作品を自宅に持ち帰り、毎日毎日、女房殿があきれるほど、夜遅くまで土と格闘したものである。そして2年目以降は教室で、手びねりによる自主制作を先輩たちの指導を受けて、作陶する。
 当時、電動ロクロは3台しかなく、一部の先輩達が使う為、我々は手びねりのみの自主制作による作陶ではあったが、慣れてくると、益々のめり込み、他に用事が無い限り、センター作業室や自宅の一室を工房とし、のめり込んだ。
平成18年頃の作品
飛び鉋文茶碗
 さすがに女房殿も「電動ロクロ」を買うことを勧めてくれるようになる。金額は10万円を少し超えたが、センターで使用しているものと同じものを買い、益々の上達を確信していたが、これがなかなか思うようにいかない。
 先輩で上級者と思われる人の作陶を、一心不乱に見学させてもらったり、又、船橋の東武百貨店や東京三越百貨店で陶器市をやる時、たいがいプロによるロクロの実演がある。11時頃から昼食をはさんで1時から3時頃まで色々な作品の製作(水引きと言う)について、初めから終わるまで見学させてもらった事が、小生のロクロ上達にずいぶんと役に立ったと思っている。あまりに熱心に見学しているのでけっこう顔見知りになり、「何でも判らんことがあれば聞きなさい」と言って貰った時はさすがに嬉しくて、色々質問させて頂いた事を思い出す。
平成19年頃の作品  三島手茶碗
 見よう見まね、悪戦苦闘の毎日であったが、入会後8年、当時講師をしておられた先生が、高齢を理由で引退される事になって、その後任に部員の総意により、小生が選出され、福祉センター及び船橋市の同意を得て講師に就任。今年3月で満6年になる。技術的にはまだまだと自覚しているが、クラブ全員の技術アップの為、小生の益々の技術アップの為、精進し、もう一年講師を続け、後進に道を譲るつもりでいる。

「12期の広場」2023秋号のラインアップ

 夏号に「天候は乱れっぱなし」と書きましたが、中秋の名月を迎えてもなお、真夏日が続くこの暑さは一体何なんでしようね。例年ならば窓下にすだく虫の音を聞き、秋の夜長を楽しむ頃ですが、いまだにその気配がありません。ただただ、たけなわの秋本番を期待するばかりです。
(写真は曾爾高原のススキです。4組の古藤千代子さんが撮られたものをご提供頂きました。)

 8月4日、突然に4組の前川光永君の訃報が届きました。7日通夜、8日葬儀と、その告別式があり、酒井八郎、末廣訂、張志朗の3名が通夜に、葬儀は酒井八郎君のみ参加致しました。前川君と言えば、齢はとっても元気一杯の男、余りにも急な訃報で、言葉がありません。
 あらためて皆様にお知らせすると共に、故人のご冥福を心からお祈り申し上げます。合掌。
  
 今号の“ひろばリバイバル”は前川君を偲び、彼が2013年に投稿し、大好評であった「ミロのヴィーナスのポーズを考える」を再掲することにいたします。
 これを含めて秋号のラインアップは、以下の通りです。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「盆踊り」 7組 張 志朗
  2. 掲示板
    ・「現況報告 最近の思い出」 6組 中柴 方通
    ・「第64回東京市岡会について」 8組 榎本 進明
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「ミロのヴィーナスのポーズを考える」
    (2013年7月1日号から)
    4組 前川 光永
以 上

巻頭コラム

盆 踊 り

7組 張 志朗
 今夏の酷い暑さには、ほとほと参りました。
 いつの頃からかははっきりしませんが、夏が大の苦手になっています。その度合いも齢を重ねる毎に激しくなり、今夏はいわゆる “命に危険な暑さ”を身に染むくらいに実感し、逃げ場のない部屋をいらいらと行ったりきたりし、“本当に夏を乗り切れるか”と真剣に考えたほどです。エアコンをつければ良いのですが、この冷風がまた苦手で、我ながらややこしい。年代物のせいか、温度設定をしても体が冷え切って、半袖シャツに短パンではとても辛抱ができません。部屋を出れば汗が吹き出し、熱風に息苦しくてしんどさはさらに募る始末。結局クーラーをつけたり、切ったり。首にタオルを巻いて、動かずじっと座ってテレビを見ることしかできませんでした。買ってきた大きな寒暖計のたった1°Cの上がり下がりに一喜一憂の日々がどれだけ多かったことか。老境にあるとは言え、その情けない姿にただ笑うしかありません。
 
 夏の暑さが変わる“潮目”はあるのかと、ふと考えます。そんな時に思い出すのが盆踊りです。小学校の頃だったと思いますが、早々に盆踊りから帰り、二階の窓際でぼんやり。遠くお囃子を聞きながら、頬を撫でる風に、ああ夏も終わりかと淋しい気持ちになったことを覚えています。
 
 コロナ禍が沈静化しているのか、5類相当への移行のせいか、日本各地の盆踊りが復活開催されたようです。テレビでも日本各地の有名な盆踊りが放映され、それを見ました。ここに書きますと、郡上八幡の郡上踊り、徳島の阿波踊り、秋田羽後町の西馬音内(にしもない)の盆踊り、越中八尾(やつお)のおわら風の盆などです。
 その内、現地で見たことがあるのは、風の盆だけで、それも、もう二十年ほど前になります。ひょんなことから、同窓生とその連れ合い数人で出かけました。きっかけはNHKの“ミッドナイトチャンネル”の「越中おわら風の盆」を偶然に見ての話しです。正確かどうか、一寸自信がありませんが、自裁した八尾在住の老舗商主の句「曳山や ひだの流れと 風の盆」、越中おわら節の「浮いたかひょうたん 軽るそに流る 行く先や知らねど あの身になりたや」に惹かれての富山市八尾行でした。
 名にし負う盆踊りでした。観光客でごった返す中、私たちはその雑踏が途切れた場所で、天満町の“町流し”が始まる所からに、出会いました。全くの偶然で幸運です。ゆったりとした胡弓と三味線、太鼓の地方(じかた)と越中おわら節は、心がふるえるほどの哀愁に満ちて、踊りは優美でたおやか。艶やかな女踊りといなせな男踊りに目を奪われました。
 その後、郡上踊りを見たいと思いながら果たせず、今日に到っていますが、先日のテレビで秋田羽後町の西馬音内の盆踊りを知り、驚きました。風の盆に通底する美しさと哀しさに鳥肌が立ちました。長くは書けませんので是非ネットで検索して見て下さい。
 西馬音内の盆踊りは途絶えたのが終戦の年のみで、700年も前から続けられてきたと言われています。やはり女性が編み笠をかぶり踊ります。また彦三頭巾と呼ばれる目出しがついた袋状の頭巾を被る踊り手が登場します。お囃子は笛、太鼓、鉦と多彩で、“音頭”と“かんけ”(亡者踊り)と、ゆったりとしたリズム。衣装は女性専用の“端縫”(はぬい→古い絹地のはぎれを縫い付けたもの)と男女兼用の藍染浴衣です。踊りはやはり優美、さらに言えば妖艶です。俯いた編み笠の後にのぞくうなじに、人の哀しさと靭さを見るようでゾクリとしました。
 “端縫”(写真の左)は独自のデザインをこらし、藍染浴衣(写真の右)は自ら染め上げる方がおられるそうです。古くから続く旧家で“端縫”を展示している場面がありましたが、代を継いでいくことのむつかしさに感じ入りながら、突然、はぎれを縫い付ける女性の姿が浮かんだのには我ながら驚きました。
 雪深い在所の連綿とつながる人々の営みが伝わります。また、生まれ、生き、死ぬを重ねての限りない物語に、想いが寄り添っていきます。先祖供養と豊年祈願、厳しい農作業からのつかのまの解放や娯楽と書けばそれまでですが、それを越えて多くの事を語りかけてくれるのが“私の盆踊り”のようです。
 軽快なリズムと満面の笑みの阿波踊りと、ゆったりと伏し目がちの西馬音内の盆踊りは、同じ編み笠をかぶりながらも、違いが際立ちます。双方ともに眩しすぎる“命の輝き”。弾けるように、いつくしむようにと感じてしまうのは、やはり私的な感傷が過ぎるせいでしょうか。
 
 涼しくなり人心地がついた今、あの酷い夏の暑さは烈日の夢かとおぼろになり、印象深いテレビ番組であったのに、タイトルさえあやふや。行ってみたいと思いながらも、きっと果たせずに終わることになるでしょう。
 くどくどとものを言い、いまだに覚悟も定まらないまま老いに向き合う。言ってみればごく普通の変わらない毎日が続いています。

掲示板

現況報告 最近の思い出

6組 中柴 方通

①学士会館での東京市岡会(7月1日)
 4年ぶりの総会に参加した。学士会館での初めての総会であった。
出席者は59名でこれまでより減少していた。12期からは重松清弘さん、中柴が出席。
榎本進明さんも出席予定だったが、不参加だったので翌日メールを出したところ、予定表を見落とした、見落とすのは初めてとのことであった。私は、頻繁では無いが、何度も見落としをしている。
 会場の進行には工夫が見られ、新鮮な運営だった。事務局の勝田久仁子さん初め関係者の
東京神田・学士会館の玄関
皆さんのお陰でした。
工夫の1つが「市岡の思い出の名札」である。名札には、市岡の思い出の景色、先生、修学旅行先を書く。その名札は、初めての卒業生同士の交流を図るのに大いに役立った。
私は長期間、体調を崩していたので、当日(7月1日)は椅子に座っていることが多く思い出の名札を何度も落として事務局にお手数をお掛けした。




② 論文作成作業による体調不良
 13年ほど前に勤めていた企業を退職したが、その前から行っていたボランティア活動はその後も続けていた。
しろがね通りを挟む2敷地が再開発事業予定地
玉川上水沿いの、駅から東側の井の頭公園に至る“風の散歩道”(駅前デッキからの東側風景)
 
その1つが地元・三鷹市の駅前地区再開発事業でのしろがね通りの存続活動であった。2020年には存続することで一段落していた。その年に三鷹まちづくり総合研究所がまちづくり研究員制度を開設し研究員を募集した。連れ合いと私とで「なぜ市と周辺住民との間で再開発計画の理解にギャップが生じたのか」のテーマで研究員となった。
井の頭恩賜公園入口風景
 

 2022年10月に論文(中柴方通・中柴和子、2022、「なぜ市と周辺住民との間で再開発計画の理解にギャップが生じたのか-三鷹駅南口再開発基本計画(平成17年)しろがね通り通行機能をめぐって」『三鷹ネットワーク大学推進機構 三鷹まちづくり研究』(2(2):41-68)(注:三鷹ネットワーク大学推進機構⇒三鷹まちづくり総合研究所⇒まちづくり研究員事業⇒令和三年度論文集41—68)は発行された。
 中柴方通は体調不良で2023年の前半は一人での外出は控えた。 最近は、周辺の散歩は一人で歩いている。






 

第64回東京市岡会について

8組 榎本進明

 中柴君の記事の通り、筆者は、失念して欠席してしまいました。 中柴君には、体調がすぐれなかったのに、記事をお願いしてしまいました。そこで、筆者は責任を感じて、幹事さんに取材をして本文を書きました。

★新校長先生は33期の辻本利勝さんです。以下がお話の要旨です。
 3月に60才定年となり、再任用で着任しました。市岡卒業生の校長は初めてで、佐藤同窓会長から「120年待っていた」と言われて感激しました。
 高1のとき、小椋先生の生物の授業で、先生が実に楽しく授業を進められて、それに感銘を受けて、自分も全く同じ道を進むことになりました。

★13期大野副会長のお話
 東京市岡会は2019年に設立60周年を迎えました。その後コロナの影響で休会。今年4年振りの開催です。その間、34名の会員が亡くなりました。
 全員で黙祷が捧げられました。

★佐藤市岡高校同窓会長(今回ご欠席)よりのご伝言。
 2年前の創立120周年事業に支援いただいたことのお礼と、今年卒業した鎌戸凪咲(かまどなぎさ)さんが東京芸術大学に入学されたこと。彼女はフルート奏者で、第76回全日本学生音楽コンクール高校の部で入選されたことが紹介されました。

★小椋先生(今回ごご欠席)よりの伝言。
 東京市岡だよりに投稿された記事「自分自身の誕生」を読んでいただいたお礼。要旨は担任や上級生の影響で、ご自身の生涯が決まったことが書かれています。

★事務局より、「送別の歌」の説明がありました。
 明治39年3月旧制中学1期生の卒業式の時に初めて歌われ、それ以来現在に至るまで、歌い継がれています。

★野球部監督・52期野口さん、此花市岡会・19期大山さんにもご参加いただきました。

★以下3点の写真が、事務局より提供がありました。
 
前列中央白シャツが33期辻本利勝校長。その右が20期梅本光明東京市岡会会長
 
 
14期稲森さん(左)、33期辻本校長
 
24期井原副会長(左)、26期勝田さん

ひろばリバイバル

-カメオを通して-ミロのヴィーナスのポーズを考える

4組   前川 光永

1820年、エ-ゲ海の小島、ミロ島の畑でミロのヴィ-ナスは発見された。
発見当初から両腕がなかった。
台座や石柱なども周辺から発見されているがもともと両腕はどのように付いていたのだろうか。
 
発見から190年。多くの学者達がその腕のないヴィ-ナスのポ-ズに思いをめぐらせてきた。
ギリシャ神話のパリスの審判でのりんごを持ったヴィ-ナスや両手に大きな盾を持ったヴィ-ナス。
また髪の毛をとくヴィ-ナスの姿を想像したり、恋人である戦いの神、アレスと伴に立つ姿など多くの説が出された。
また、博物館に現存する古代ヴィ-ナスの像を参考にして両腕のついたポ-ズを復元したりもした。
しかし未だ、決定的な答えは出されていない。
 
ミロのヴィ-ナスが作られた古代ギリシャのヘレニズム時代流行のヴィ-ナス象があったのであろうか。
同時代や、また後世に作られた色々なポ-ズをとるヴィ-ナス像も発見されている。
これまで多くの学者は博物館が所蔵する両腕のあるヴィ-ナス像からまた解剖学的見地からも両腕のついたミロのヴィ-ナス像を想像してきた。
しかしどの姿も未だ決定的とされているものはない。
 
同じヘレニズム時代、カメオの技術は完成されていた。
「カメオ」とは宝石に浮き彫り彫刻されたもので宝石に彫られるカメオのモチ-フはギリシャ神話の神々であった。
愛と豊かさの神であるヴィ-ナスは両腕で様々なポ-ズをとりカメオに彫られている。
同じヘレニズム時代に彫られているカメオから、私はミロのヴィ-ナスの元の姿を知る手がかりにしてみるのも一考の価値ありと勝手に考えているのだが・・・・
 
17世紀から19世紀にかけてカメオ美術は全盛期を迎えた。
メディチ家をはじめナポレオンやビクトリア女王など多くのカメオコレクタ-が存在した。
カメラがなかった時代、今博物館にある古代のカメオの多くは手書きで写し取られていた。
ここに掲載したカメオのイラストは当時のもので私が博物館から譲り受けたものである。
これらがミロのヴィ-ナスの両腕がどうなっていたのかどのようなポ-ズになるのかを探求する一助になるような気もするしその本当の元の姿を知りたい気持ちが膨らむがしかし一方、我々に、このように豊かな想像とイメ-ジを掻き立ててくれる腕のないミロのヴイ-ナスの方が
ロマンがあっていとおしく、今のままで良いのではないか・・・という気もしている。
 注:ヴィ-ナス(ロ-マ神話)はギリシャ神話ではアポロディ-テ-と、
      マルス(ロ-マ神話)はギリシャ神話ではアレスと呼ばれていた。
 
 
ナポリ国立考古学美術館 所蔵

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「12期の広場」2023夏号のラインアップ

 すでに豪雨や真夏日が続いて天候は乱れっぱなしで、 いよいよの夏本番です。月並みですが、健康管理に留意して、なんとか猛暑が予想されるこの夏を乗り切りましょう。
 夏号のラインアップは、以下の通りです。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「稲盛さんとの思い出」 8組 榎本 進明
  2. 掲示板
    ・「山本(カナダ在住)さんの歓迎食事会がありました」 7組 張 志朗
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「ヒマラヤトレッキング」(平成23年7月1日号から) 8組 八島 平玐
以 上

巻頭コラム

稲盛さんとの思い出

8組 榎本 進明

 京セラの名誉会長である稲盛和夫氏が昨年(2022年)8月24日、90才でお亡くなりになりました。この報に接したときは、あまりの驚きで一瞬頭の中が真っ白になり、それからいろんなことが思い出として浮かんできました。お別れの会は京都・11月28日、東京・12月6日でした。
 稲盛さんは本当に気さくな方で、かたくるしいことが嫌いな人でしたので、退職後の2003年からは“稲盛さん”とお呼びしていました。もちろん現役のころは役職でお呼びしていたのは言うまでもありません。
 当初は「社長」でしたが、‘84年から会長兼社長→会長→名誉会長→最高顧問(KDDI)の時に筆者は退職しました。その後は、2010年JALの再建を頼まれて無給で会長を引き受けられて2年後に黒字化・再上場に回復させました。その後JALでは取締役名誉会長→名誉会長→2015年からは名誉顧問としてJALも見続けていました。
 
 稲盛さんの経歴等は、亡くなられたあと、日経ビジネスや日経トップリーダー、新聞等で多数の記事が出ていますので、ここでは筆者との出来事だけを記したいと思います。
 筆者が初めてお目にかかったのが1983年(昭和58年)4月でした。当時、筆者はヤシカというカメラメーカーにいました。当時のヤシカは1974年(昭和49年)倒産の危機にあり、大合理化を行いました。5年間、昇給無し、ボーナス無し、の条件で残った社員が懸命に励み、結果が上向き10年目を迎えていました。
 そんな時(筆者は知らなかったですが)4月に合併の話が出たようで稲盛さんがマル秘でヤシカに来られました。昼間に工場を見て、夜には一部の従業員とのコンパがあり、初めて稲盛さんにお会いしました。結果、5月に合併の調印がなされました。
 同年10月にはヤシカ事業本部が出来て、筆者も東京の旧ヤシカ本社(合併後の原宿事業所)に異動しました。
筆者がヤシカ時代から培っていた仕事は、偶然にも京セラの会計システム、アメーバ方式にぴったりと合致していたので、なんの抵抗もなくすぐになじめました。
 
 また、1984年(S59)電気通信事業法が施行されたときには、日本の電話を安くするという稲盛さんの「世のため、人のため」という信条・理念と重なり、数社の経営者と話し合って、稲盛さんがリーダーシップをとって参加することになりました。出資者を募り25社で第二電電企画会社を立ち上げ、新規参入に名乗りをあげました。社員20名の内19名が京セラからの出向者でした。さらに、同年末までに出資者を募った結果200社が応じ、合計225社で船出させました。
 稲盛さんの日頃から言われている「動機善なりや、私心なかりしか」を幾度も自分自身の胸に問い確かめた結果でした。翌1985(S60)年6月21日に正式許可が下り、第二電電(DDI)が発足したのです。インフラを持たないDDIは他の2社(JR系の日本テレコム、道路公団系の日本高速通信)に比べ、一番不利でした。
 それから土地の買収や、通信ルートと施設の建設があり、専用線のサービスは1986年10月に、市外電話サービスは、1987年(S62)9月4日に東京~大阪間が開通しました。
 
 筆者は東北ルートが開通する1989年(平成元年)4月にDDIに出向しました。(1年後にはDDIに転籍した)仙台に当日着任したばかりの筆者に与えられた仕事は、稲盛会長が宿泊されている帝国ホテルに社用車のライトバンでお迎えに上がることでした。他の社員は開通作業と式典で手一杯でした。
 式典後、数日で青森営業所の立ち上げで青森に飛び、営業所の入るビルとの契約、電話や机、事務機の手配、住居探しと契約、アルバイトの面接、等々全てゼロからのスタートを切りました。東北ルートのサービスは未だ仙台までなので、青森での営業は、予約を取ることが仕事でした。この時も日頃お聞きしていた「起業精神」のお話が生きました。
 そして、7月27日に青森もサービスが開通しました。8月には、はじめてみる青森ねぶた祭がはじまりました。子どもねぶたをつくり、引張っていただきました。
 
 青森に来て1年後の1990年6月に、DDIは全国サービス網が完成し、創立5周年を迎えました。記念式典は幕張メッセで行われ全国から社員が集まりました。
お祝い式典の後は、楽団の演奏、歌手・タレントの唄やダンス。飛び入りで、稲盛会長は楽団の指揮を執られてご満悦でした。筆者には「いい指揮者は、一人ひとりの個性を引き出すものだ。経営者も同じだ」と見せてくれたように感じました。
遠来組は翌日ディズニ―ランドを楽しむ時間もありました。
 その後、つくば・仙台と転勤して1995年(H7)10月に本社(半蔵門)に着任。仕事は営業ではなく資材部という購入部門でした。稲盛さんとは、記念式典以降は一度もお会いしていませんが、本社では数回お会いしました。エレベータ内や、たまに呼ばれることもありましたが、仕事の話だけでした。
 その中で、幾多の取引先の社長が、DDI社長を訪問されることがあります。ご挨拶に来られるのですが、内容が自社の製品を使ってほしいという話題になれば、必ず社長室に呼ばれました。「私には物を買う権限はないので、資材部長を紹介します」と言って紹介されました。稲盛イズムは全ての役員にもいきわたっていました。
 
 また、ある時相談事があり会長室に電話をしたら、今、エレベータに乗られたところです。と言われたので、1階で待って歩きながら説明しようとしたところ、今から関連会社7社の社長会があるので忙しくて無理だということで諦めました。
 すると、秘書がお見送りしたあと自席に来られて「重要な話だったと思うのでよく聞いておくように」と言われたそうです。内容を簡潔に伝えると、翌日に秘書が見えられて「その通りやるように」とのことで、重要な案件が滞りなく解決することが出来ました。
 
 盛和塾の話も筆者には欠かせない体験です。中小の商店主や若い経営者が学びに来る塾です。稲盛さんが起業したのは1959年(S34)で27歳の時でした。その時の苦しい体験や、その後の発展体験談を聞きたいと生まれたのが盛和塾です。2019年(R1)に閉塾するまで国内568ヵ所、海外48ヵ所、塾生15,000名にまでになりました。
 経営に悩み、他の幾多の講習会に参加されても成果が上がらないある経営者が「やることはわかっていて、それを全てやってもうまくいかない」と問えば、稲盛塾長は「誰が、何をやるかです」と諭され、その経営者は「そうか、自分が問題なのだ」とわかり、数年後に上場も出来ました。
 筆者が仙台に勤務していた時に、笹かまぼこの会社の社長さんが塾生でした。年末や夏休みの頃は旅行者も多く、アルバイトを200名ほど雇っていました。ところが塾で教わった京セラのアメーバ方式にした結果、ビックリした結果が出たそうです。いつものように各セクションに「必要なアルバイトの人数」を求めたところ、結果はゼロ人でした。と嬉しそうな顔をして筆者に話してくれました。また、いろんな質問等受けましたが、まるで金太郎あめのようにどこを聞かれても答えは同じだったそうで、これも驚かれていました。もちろんDDI回線を使ってくれていました。
 
 そして、退職後のOB会です。名称は「敬愛会」です。写真は2005年(H17)6月5日ホテルラフォーレ東京での敬愛会総会の一コマです。毎年各地で地区総会があるのですが、全国総会は持ち回りで行われます。当時、京セラでは稲盛名誉会長ですがKDDIでは
退職後久しぶりに仙台見物に行った時、共に6組の佐藤裕久君(左)、籠谷登志夫君(右)の3人で仙台駅前のホテルで会食した懐かしい一コマです。
最高顧問のお仕事で、JALのお話がない頃です。丁度6月5日は日本選手権陸上女子800mで京セラの杉森美保選手が日本新記録で優勝したので余計に盛り上がったのを覚えています。

 稲盛さんは、「戦友」という軍歌が好きでした。筆者も旧満州生まれで、祖母に教えてもらってよく歌っていました。40年前初めてお会いした時のコンパの席上で、会長が歌われたのを一緒になって歌ったことを思いだして、お別れの会では心の中で歌って拝礼いたしました。いい思い出の写真を大事にして今後も生きたいと思います。 

 今頃は、先に逝かれた懐かしい人たちと会って、楽しくコンパをされていると思います。
本当にお世話になりました。人生の師と仰ぐ方に出会えて幸せでした。