同期会
2025年4月1日
世の中、なにかと悩ましい事が続いていて、浮かれてばかりにはおられませんが、それでもようやく梅は咲き、桜も咲いていよいよ春本番です。55年ぶりの大阪・関西万博も4月13日が開幕日。会場は馴染み深い舞洲の隣の夢洲で、関西の祝祭気分はこれから高まるようです。私と言えば、それを楽しむのもそこそこに、短い春と酷暑の予感で、早々と肩に力が入っています。暖かいのは嬉しいこと、しかし昨年を越える異常な暑さだけは、“ひらにご勘弁”が本音と言ったところです。

21世枠は「ハンディキャップを乗り越え奮闘した学校」「あと一歩届かなかったチーム」に与えられるもので、都道府県秋季大会で8強入り(参加校数が少ない場合)又は16強入り(参加校数が多い場合)の学校が対象。また「困難の克服」「マナー模範」「文武両道」が問われるそうです。昨年の大阪府秋季大会でベスト16入り、更に部員数の減少や複数運動クラブのグランド共同利用など多くの厳しい壁に向き合い頑張っていることが評価されたのですね。嬉しいこと、誇らしいことです。
記事に「伝統を継承しつつ新たな歴史」、「オール市岡で」、「三本線を再び聖地甲子園へ」、「人々に感動を呼ぶチーム」をめざすとありました。力強く、胸にしむ言葉で、感謝しかありません。
12期生の私達には、今でも胸が熱くなる「1959年夏の準決勝」の記憶があります。「ひろばリバイバル」として今号に再掲しますが、ただの部外者であった私も、硬式野球部の同期生の猛練習と情熱と努力、苦悩と挫折を目の当たりにしていました。下校時に聞こえた激しいノック音とスパイクの音、歯をくいしばり白球に突っ込む姿が、昨日のように生々しく蘇ります。「たかが野球、されど野球」と言い古されながらも、いまだに心とらえてはなさないこの感慨は、やはり「市岡野球」の歴史と伝統があってこそのものでしょう。
さて「12期の広場」2025春号のラインアップは以下の二篇です。お楽しみ下さい。
1. 「アフターコロナ・貴重な体験をした物語」 | ・・・・・・・・・・ | 8組 | 末廣 訂 |
2. 「盛夏の思い出」(2013年 8月号より転載) | ・・・・・・・・・・ | 4組 | 寒川 詔三 |
2025年4月1日
コロナ禍が明け、日常を取り戻してから2年間、貴重な体験談のいくつかを披露したい。
1、桂文枝師匠「参地直笑【祭】㏌福島区」
令和5年、福島区が昭和18年に誕生してから80年の節目をむかえた。
といっても区は大々的な㏚や式典的な行事もなかったのだが、代わりにあるプロジェクトが進行しており、それに参画する機会をいただいた。
落語家・桂文枝師匠が、地域の魅力を発信するため大阪市24区それぞれの特色を盛り込んだ創作落語を披露する「参地直笑(祭)」である。コロナで一時休止していたこのプロジェクトの再始動第一弾が福島区で開催されることになった。
落語の創作にあたり文枝師匠は既に福島区について綿密な調査をされていたが、さらに区内各団体に対して協力の要請があり、我々の福島区歴史研究会、野田ふじの会、区連合町会、福島聖天通り商店街の代表4名が文枝師匠と打合せをすることとなった。二度の打合せでは師匠はメモをとり、質問され、テレビや舞台で見る芸人としての師匠とは違う一面を見ることができた。
私は、福島区の話題や祭り、歴史など師匠の落語のネタになりそうなことを一冊のファイルにまとめたものを差し上げて協力させていただいた。
その後、文枝師匠から本番直前の2月に入って、松下幸之助さんについてもっと知りたいと連絡があった。私自身パナソニックのOB であり、大開公園の記念碑建立にも関わっていたということで、なんばグランド花月にある吉本興業事務所でPHP松翁会のメンバーと共に幸之助さんのエピソードや大開で創業の際に苦労された話などをお伝えした。
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師匠の取材はそれにとどまらず、その後も直接電話やメールを通じて問い合わせを受け、質問は数十件にも及んだ。質問にはその都度調べて回答したが、次第に内容が細かくなり、私自身知らないことも多く、元PHP研究所の役員やパナソニック本社まで問いあわせて回答した。
令和5年2月25日、福島区民ホールで「参地直笑(祭)㏌福島区」の本番を迎えた。
2月の寒い日であったが、1350人の応募者から選ばれた300人でホールは満席、大盛況であった。打合せに出席した4人やパナソニックの関係者も招待を受けた。
福島区出身の落語家、月亭八方さんをトークゲストに迎え、桂三語さん、月亭八織さんも出演し、舞台を盛り上げた。
文枝師匠が披露した福島区についての創作落語では、福島区にまつわる野田ふじや中央卸売市場の話等、様々な情報が盛り込まれていたが、半分以上を松下幸之助さんのエピソードが占めていたのではないかと思う。会場のお客さんも盛り上がって大きな笑いに包まれていたが、文枝師匠のこの落語ができあがるまで、また、お客さんを笑いの渦に引き込むには、あの綿密な調査や準備があっての事なのだと感心させられた。
実は、文枝師匠は約40年前にミナミの料亭で松下幸之助さんら財界の方の前で落語を披露したことがあり、その一席後、幸之助さんの隣で食事をしながらお話しをする機会があったそうだ。その時の幸之助さんとのエピソードも披露された。
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2、海老江・南桂寺の親鸞聖人御遠忌および本堂屋根修復工事の落慶法要
平成30年9月4日、大阪を直撃した台風21号は、各地で大きな被害をもたらした。
この台風で南桂寺も本堂屋根瓦が損傷し、また銀杏の木が折れて鐘楼・塀の屋根瓦にも甚大な被害があった。
修復工事にかかる総額見積もりは約6千万円強。積み立てた保険金では到底足りず、檀家護持会や総代会、女性会等で寄付を集め、修復工事に入った。世間はコロナ禍の真最中であったが、屋根の工事は順調に進み、淡路島で出来上がった屋根瓦の寄進者による記帳儀式も無事終えることが出来た。その後、鐘撞堂、土塀の基礎、本堂内陣、畳や障子に至るまで3年かけて完成した。
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令和5年の夏の総代会で、住職から「修復工事の落成式と親鸞聖人御遠忌法要、稚児行列を来年行いたい」と話があり、総代の中から私に法要委員長になってほしいとのご指名を受けた。
突然のことで非常に驚くも、この行事は総代全員が力を合わせやるということでその場で委員長を受け入れ、法要、稚児行列の日も令和6年4月20日と決まった。
昭和のおわりに父親が納骨堂建立の委員をしており、私も平成の阪神大震災後の修復の際には役員だったのである程度の資料は残っていたが、詳しい記録がなく、写真やわずかな資料・記憶が頼りであった。
早速、檀家総代6名、護持会女性部4名の10名とお寺の家族とで常任委員会を立ち上げ始動し、法要までに準備すべき案件の洗い出し、日程等の全体図作りからスタートした。進行表と役員の配置図の作成、法中(ほっちゅう)会所や稚児行列の会場の準備、法要式典でお世話する役員70名の選任、稚児行列のポスター作成や寄付者へのお礼の記念品、当日の弁当手配に至るまで、業務は多岐にわたった。
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年齢が70代、80代の委員にとってはシステムやデジタル化で苦労する場面もあったが、お互い意見を出し合い最後までよく頑張ったと思う。
本番直前には、稚児行列参加保護者への説明会、役員70名の役割説明会を開催し、本番前日は朝から本堂の飾りつけ、法中会所、稚児出発の海老江西小学校体育館の準備等、ギリギリまで業者と共に準備作業に追われたが、何とか無事に法要当日を迎えることが出来た。
法要当日の朝、役員全員が本堂前に集まり、記念写真を撮った後、三か所の担当会場に移動してもらった。午後、正装した法中と役員が小学校に集合し、体育館で待機していた稚児と保護者含む総勢200余名の行列が出発した。華やかな行列は南桂寺本堂をめざし海老江を練り歩き、本堂に到着後は厳かに法要が執り行われた。
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式典の中で本願寺大阪教務所長より表彰式があり、永年の功労者として檀家総代と護持会女性部から各1名、そして法要委員長を務めた私にも感謝状をいただき、光栄なことだと有難く頂戴した。
なお、次回のためにと今回の式典の記録はデータとしてすべて残しておいた。ぜひとも活用してもらいたいと思う。
3、東京の日本銀行本店にて旧一万円札の最終印刷の贈呈式
令和6年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行されたその日に、東京の日本銀行本店にて旧紙幣の最終印刷紙幣の贈呈式が執り行われた。式典には旧一万円札の福澤諭吉にゆかりがあり、旧紙幣が発行された際に、記念の記号番号の紙幣を交付された都市や団体が招待された。慶応義塾の塾長、平等院、中津市長らに並び、我が福島区歴史研究会も招待を受けて宮本会長と共に出席し、植田総裁から宮本会長に感謝状と最終印刷の一万円札が手渡された。
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平成16年福島区図書館にて | 最終印刷された1万円と感謝状を日銀から贈呈 |
久しぶりの東京訪問であり、寅さんの故郷・葛飾柴又に立ち寄り、映画の舞台を訪れるという永年の夢を実現させることが出来たのもよい思い出となった。
4、海老江東小学校創立90周年記念式典
昨年の秋、私の出身校の海老江東小学校で創立90周年と新校舎竣工の記念式典が執り行われた。
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私は事業委員会の副委員長として準備段階からお手伝いし、11月17日には記念式典・植樹式及び祝賀会を無事終えることが出来た。5階建ての新しい校舎は立派であるが、自分が通っていた頃の小学校の面影はすでになく、少し寂しい気持ちになった。一方、元気な子供たちの姿や年代の違う同窓生が集まる姿に希望も感じた。この機会に「海老江の今昔」展を前半図書館、後半区役所で初代校舎のアルバムや新旧風景を写真で展示した。
2025年4月1日

今年も夏の全国高校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」を、よく耳にするようになってきました。
高校3年生の盛夏、暑い、口惜しい1日を忘れることができないのは、硬式野球部員だけだったでしょうか? 12期生が一丸となって青春を謳歌した学校行事は色々あったが、部活で甲子園を目指した硬式野球部の夏の高等学校野球選手権・大阪大会における激戦に、血沸き肉躍るものを感じられた方が、沢山おられたのではないでしょうか。
昭和34年(1959年夏の高校野球選手権大会 大阪大会)の市岡高校は三井君の好投で準決勝に駒を進めた。1回戦:浪速工 2回戦:今宮高 3回戦:大阪商大附属高 を接戦で勝ち抜き、日生球場における準々決勝の近大附属高戦は、延長10回の激闘を1:0で制し、戦後初の夏の甲子園出場が手の届くところまできた。当時の部員は同期の3年生が三井君、森君、山田(克)君の3名がプレーヤー、私(スコアラー)と美記君はマネージャー、そして洲崎さん、田村さん(いずれも旧姓)が女子部員(女子マネージャー)であった。市岡高校は女子マネージャーを設置した最初の高校であったと思われるが、合計7名が同期生、プレーヤーは2年生4名、1年生6名、計13名の少人数の構成で参加した。
当時の大阪府の高校野球は私立8強時代といわれ、浪商(現在の大体大浪商)、PL,興国、明星、北陽(現在の関大北陽)、上宮、近大附属、大鉄(現在の阪南大高)等が群雄割拠していた。ただ昭和34年、準決勝に勝ち残った4高校は、市岡、八尾、阿倍野の公立3高校と私立の興国で、公立優位の状況であった。私は準決勝の抽選で八尾高との対戦を引き当てた時、ぼんやりと見えていた甲子園の姿が、くっきりと見えるようになってきたものである。
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2025年1月1日

明けましておめでとうございます。新年を迎え皆様のご健康、ご多幸を心からお祈り申し上げます。
新年は巳年、同窓生の多くが8巡目の年男、年女になりますね。何か良いことがあるのではと期待するのですが、正直なところは、ただ健康で家内平穏を願うばかりです。
老夫婦の二人住まいでは、年の瀬の慌ただしさと大掃除、迎春準備と除夜の鐘に賀詞の交換などの一連の習いは、変わることがありません。しかし日めくり一枚をめくることで、不思議と気持ちがあらたまり、集まった息子・娘家族とにぎやかな正月膳を囲むのはやはり格別です。老境にある年男の正月、それだけに感慨もひとしおです。
今年は“日めくりカレンダー”を買う積りにしています。と言いますのは、昨年近くの喫茶店からそれを頂き、365枚を使い切りました。平成、昭和換算の年数や旧暦、24節季に諺などが書かれています。めくることを忘れることもありました。しかし日一日と積み重ねる日常への意識は強くなりました。若い頃の時の区切りは、仕事の納期や行事予定で、週と月を一束にまとめて過ごしてきただけに、尚更のようです。友人は「10年日記」を買ったといいます。苦笑しながらも老いに向き合う日々をゆっくり大切し、今年を良い年にしたいと思っています。
冒頭のカット写真、美しいでしょう。今まで「山」はありましたが「海」は初めてで、「神津島の黎明」だそうです。
訃報です。2月に5組の稲葉勝也君が亡くなられたとのハガキが年末に届きました。柔道部の主将を務めた頑強そのもの、屈強な男を絵にかいたような同窓生でした。居住地が比較的近かったこともあり、地元で何度か飲みました。印象と異なると言えば失礼になるかもしれないのですが、繊細で気遣いが細やか、熱い心根と好奇心旺盛な勉強家だったようです。同窓会活動や「12期の広場」にたくさんご協力頂きました。ただただ感謝、感謝です。慎んでご冥福をお祈りしここにお知らせいたします。合掌。
さて「12期の広場2025新春号」のラインアップは以下の通りです。お読みください。
- 「カナダ在住の山本(旧姓:古荘)さんの歓迎食事会」
- 「圓尾君の講演会に行ってきました」
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「ひろばリバイバル」
「一枚の写真」 - 昭和の大阪駅前旭屋付近 - (2018年4月号からの転載)
2025年1月1日
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( 会食後の集合写真です。前列左の白いセーター姿が山本さんです。) |
ご存知の通り、山本さんはカナダにご夫婦で移住されて半世紀をこえ、現在の国籍はカナダ、日系カナダ人としてトロントで暮らしておられます。コロナ感染拡大時を除いて毎年、日本に里帰りされ、食事会も恒例になっていました。“今年は無理かな”と思っていた所、お元気に帰国。嬉しくて楽しい歓迎食事会になりました。
場所は「がんこ曽根崎本店」。参加されたのは酒井八郎(4組)、末廣訂(8組)、川村浩一(8組)、塩野憲次(8組)、上山憲一(8組)、福積康光(4組)、上野裕通(7組)、張志朗(7組)の各君と、柏木赫子さん(7組)、古藤知代子さん(4組)の皆さん。山本さんを含めて11人でした。今までの例から言いますと、あと4人ほどが参加されていたのですが、体調や所用のために欠席。少し寂しい感じはありましたが、同期生の集う機会が少なくなっている現状での久方ぶりの再会は、また格別だったようです。
カナダのトロントは遠く、帰国するのも大変な体力・気力勝負。そのことに加えて9月から11月の日本の天候不順が最初の話題になりました。山本さんは機内15時間を無事こなし、また防寒用の衣服は、急遽日本で買い揃えたと笑っておられました。年1回の帰国が山本さんの元気の源で、その強い想いからでしょう、さらに若返られたのではと思える程でした。
歓迎の言葉と乾杯の音頭は酒井君が。その後、愉快な山本さんの挨拶と皆さんの近況報告がありました。名にし負う“市岡健児・健女”のこと、流石に内容は多彩です。
留学や海外駐在員時代のエピソード、高校時代の思い出から日々の暮らしの話、病気と健康の話や旅行の話など、わいわいがやがやです。山本さんからは、カナダ在留日本人を中心に源氏物語の勉強会や歴史勉強会をやっているとのお話がありました。会は日本語でやっておられるそうで、とても前向きで愉しそう。この調子なら来年の帰国も期待できるのではと思ってしまいます。
2時間ほどの会食でした。名残りはつきません。再会を約束してとなるのですが、なにしろ皆さん“立派な高齢者”、果たして来年もこのように集えるかどうか分かりませんが、是非、またお会いしたいとの思い一杯で散会しました。
2025年1月1日
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会場は此花区民ホール3階会議室。講演会は、研究会会員はじめ一般参加者、市岡の同窓生で大盛況。参加者数を聞きもらしましたが大きな会議室ほぼ一杯でした。同窓生は口コミで、酒井八郎(4組)、末廣訂(8組)、松田修蔵(6組)、上野裕通(7組)、張志朗(7組)の各君と北浦昌子(2組)さん、段中文子(5組)さんの7名、ほかに此花区酉島在住の濱崎洋子(1組)
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(凛とした島成園写真) |
講演会はたいそう雰囲気が良く、興味津々、集中した2時間があっと言う間でした。
講演は「島成園を知っていますか」との問いかけから始まりました。ほとんどの参加者は知らなかったようです。講演の流れは①「島成園の紹介」②「上村松園について」➂「黒髪二題–松園(39歳)の『焔』と、成園(24歳)の『おんな』」④「大正デモクラシ-の女性活動家」⑤「成園の自画像」⑥「アフガニスタンの女性の今」の順序でわかり易く進められました。
たくさんの話がありましたが、呆けぎみの筆者にはすべては頭に入りません。配布された資料(A4—13枚の労作です)に基づいて印象深いことがらを以下に書きます。
島成園は堺市の生まれ。13歳で大阪の島之内に転居しています。父と兄は共に『町絵師』、幼い頃から絵に親しむ環境にあったようです。大正元年(1912年)19歳で『6回文展』に『宗右衛門町の夕』を出展して初入選。一躍注目をあびています。以降関西の女流画家としての画業を重ね『三都の三園』の一人と呼ばれるようになります。『三園』とは同時代に活躍した大阪の島成園、京都の上村松園、東京の池田蕉園の三人を指すのですが、池田蕉園は早世。『序の舞』の上村松園は後に『文化勲章』を授与されています。時は大正デモクラシ—の時代、島の生き方とその画業はそれとからみあったものであったようです。「日韓併合」「大逆事件」「世界大戦」と揺れ動く社会情勢の中で、与謝野晶子、平塚らいてふ、山川しずえ、菅野スガ、伊藤のぶえ、市川房枝など、家父長制と男尊女卑による不平等、良妻賢母であることだけが強いられるなど、これにあらがう女性活動家が活躍しました。特に成園は堺生まれの歌人・与謝野晶子への敬慕の想いが強かったようです。「私の模範とする方はあの方・・・その見識ありすべてに通じ、その神髄をよく穿たれるに感服の外ありません」との言葉が残っています。講演で全文紹介された晶子の歌–『君死にしたまふこと勿れ』が、昨今の状況とも重なり、胸に響きました。「黒髪二題」として上村松園の『焔』(大正7年)と島成園の『おんな』(大正6年原題は『黒髪のほこり』)が紹介されました。双方とも画幅いっぱいに「黒髪」が描かれています。『焔』は能の「葵の上」の六条御息所の生霊、『おんな』は鶴屋南北の「東海道四谷怪談のお岩」になぞらえたところは、画伯である圓尾君の深読み、興味深く聞き入りました。さらに島成園についての話がありました。資料に『わかき先駆者』とあり、如何に大阪をはじめ関西の女流画壇に影響を与えたかをうかがわせています。
成園は大正7年に『無題』として、左目にあざを持つ女性像を発表しています。この作品は結婚前のもので、左目の痣と『無題』とした題名など、恋愛や結婚などについて根拠のない誹謗中傷に苦しめられたこともあったそうです。この絵から圓尾君は清元の名曲『かさね』を連想し、四世鶴屋南北作の「法懸松成田利剣」(けさかけまつなりたりけん)にふれました。
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(左) 「無題」(大正7年) | (右) 「自画像」(大正13年) |
最後にアフガニスタンのタリバン支配下での女性の自由、権利の現状について触れられました。39歳の時、バーミヤンの石仏遺跡を見るためにアフガニスタンに行かれたそうです。
講演は予定通りきっちり二時間。論旨明瞭で、分かり易く、興味深くかつ有意義なもので、参加された同窓生の感想は一致して好評で楽しかったとのことです。
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講演会終了後、同窓生7人だけで会食しました。一寸した手違いで当日の主人公である圓尾君はお誘いできなかったのが返す返すもの心残りです。
追記:紙幅の関係で成園の作品数を絞りました。またそれらも「資料」からのスキャンで不鮮明であることをお詫びいたします。是非、インターネットなどで検索、ご鑑賞ください。
2025年1月1日
「一枚の写真」 昭和の大阪駅前旭屋書店付近

この写真は昭和38年頃に大阪駅前旭屋書店付近を撮影したものだそうです。6組の井東一太郎君が、メールでわざわざ送ってくれました。そのメールに以下の文章が添えられていました。
「『市岡12期の広場』で古荘さんの歓迎会で旭屋書店の話が出ていましたが、我々の時代では懐かしく感じる場所です。その時代の大阪駅前の写真を高校10期の先輩からいただいていました。ご本人の了解を得ましたので、広場に掲載していただいてもOKです。写真は、高校10期玉井信之氏の提供です。」
この文章にもあるように、ここは実になつかしい場所で、今はその面影を探すすべが無いほど変わってしまった場所でもあります。市電がまだ走っていた頃で、自動車やバスもあの時代の古い形です。三輪トラックで荷積みをしている姿まで写っています。
映画の広告用看板は、ペンキで描いたこんな看板だったのですね。左はピーター・オトゥル主演の「アラビアのロレンス」、右は看板の上のマークから推測すると、松竹映画の邦画のようです。題名が「真っ赤な恋の物語」と読めますが、どんな映画だったのか、全く記憶にありません。
4年前の「12期の広場」10月号に、ニックネーム「井の中の蛙」さんがこの付近の想い出を書いています。そのくだりを一部抜き出して下に添付します。
『古い話であるが、旧大阪駅の南正面に木造2階建ての「旭屋書店」があってしばしば通ったものである。高校時代はここで主に参考書を、社会人になってからは文庫本や仕事に関連した専門書などを買った。培風館の「数Ⅲ精義」(岩切精二 著)を学友に薦められて買って帰り、それだけで賢くなった気分になったのもここ。二十歳すぎの悩み多き時期に「人間のしるし」(モルガン)を買い求めて行ったが探せず、やむを得ず同年輩の女子店員に聞いた所、「宗教書ですか?」と言われて慌てた事もここ。よほどにやせ細って暗い顔つきをしていたのだろう。』
皆さんにとっても思い出の多い場所でしょう。また写真に写っているものが何か分かる方も居られる思います。是非、それを投稿して下さい。
2024年11月13日
開催日時: | 令和7年5月予定 |
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開催場所: | 大阪梅田近辺 |
問合せ: |
藤田 garigarikun0523☆yahoo.co.jp ※迷惑メール防止のため☆を@に変えて送信してください |
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより: