同期会

「12期の広場」2025新春号のラインアップ



 明けましておめでとうございます。新年を迎え皆様のご健康、ご多幸を心からお祈り申し上げます。
 新年は巳年、同窓生の多くが8巡目の年男、年女になりますね。何か良いことがあるのではと期待するのですが、正直なところは、ただ健康で家内平穏を願うばかりです。
 老夫婦の二人住まいでは、年の瀬の慌ただしさと大掃除、迎春準備と除夜の鐘に賀詞の交換などの一連の習いは、変わることがありません。しかし日めくり一枚をめくることで、不思議と気持ちがあらたまり、集まった息子・娘家族とにぎやかな正月膳を囲むのはやはり格別です。老境にある年男の正月、それだけに感慨もひとしおです。
 今年は“日めくりカレンダー”を買う積りにしています。と言いますのは、昨年近くの喫茶店からそれを頂き、365枚を使い切りました。平成、昭和換算の年数や旧暦、24節季に諺などが書かれています。めくることを忘れることもありました。しかし日一日と積み重ねる日常への意識は強くなりました。若い頃の時の区切りは、仕事の納期や行事予定で、週と月を一束にまとめて過ごしてきただけに、尚更のようです。友人は「10年日記」を買ったといいます。苦笑しながらも老いに向き合う日々をゆっくり大切し、今年を良い年にしたいと思っています。
 冒頭のカット写真、美しいでしょう。今まで「山」はありましたが「海」は初めてで、「神津島の黎明」だそうです。
 
 訃報です。2月に5組の稲葉勝也君が亡くなられたとのハガキが年末に届きました。柔道部の主将を務めた頑強そのもの、屈強な男を絵にかいたような同窓生でした。居住地が比較的近かったこともあり、地元で何度か飲みました。印象と異なると言えば失礼になるかもしれないのですが、繊細で気遣いが細やか、熱い心根と好奇心旺盛な勉強家だったようです。同窓会活動や「12期の広場」にたくさんご協力頂きました。ただただ感謝、感謝です。慎んでご冥福をお祈りしここにお知らせいたします。合掌。
 
 さて「12期の広場2025新春号」のラインアップは以下の通りです。お読みください。
 
  1. カナダ在住の山本(旧姓:古荘)さんの歓迎食事会
  2. 圓尾君の講演会に行ってきました
  3. ひろばリバイバル
    「一枚の写真」 - 昭和の大阪駅前旭屋付近 -   (2018年4月号からの転載)
以 上

カナダ在住の山本(旧姓:古荘)さんの歓迎食事会 

 カナダ在住の山本久美子(旧姓:古荘 5組)さんが昨年9月末に来日され、それを迎えて同窓生有志による食事会が11月8日の午後6時からに開かれました。
 
( 会食後の集合写真です。前列左の白いセーター姿が山本さんです。)

 ご存知の通り、山本さんはカナダにご夫婦で移住されて半世紀をこえ、現在の国籍はカナダ、日系カナダ人としてトロントで暮らしておられます。コロナ感染拡大時を除いて毎年、日本に里帰りされ、食事会も恒例になっていました。“今年は無理かな”と思っていた所、お元気に帰国。嬉しくて楽しい歓迎食事会になりました。
 場所は「がんこ曽根崎本店」。参加されたのは酒井八郎(4組)、末廣訂(8組)、川村浩一(8組)、塩野憲次(8組)、上山憲一(8組)、福積康光(4組)、上野裕通(7組)、張志朗(7組)の各君と、柏木赫子さん(7組)、古藤知代子さん(4組)の皆さん。山本さんを含めて11人でした。今までの例から言いますと、あと4人ほどが参加されていたのですが、体調や所用のために欠席。少し寂しい感じはありましたが、同期生の集う機会が少なくなっている現状での久方ぶりの再会は、また格別だったようです。
 カナダのトロントは遠く、帰国するのも大変な体力・気力勝負。そのことに加えて9月から11月の日本の天候不順が最初の話題になりました。山本さんは機内15時間を無事こなし、また防寒用の衣服は、急遽日本で買い揃えたと笑っておられました。年1回の帰国が山本さんの元気の源で、その強い想いからでしょう、さらに若返られたのではと思える程でした。
 歓迎の言葉と乾杯の音頭は酒井君が。その後、愉快な山本さんの挨拶と皆さんの近況報告がありました。名にし負う“市岡健児・健女”のこと、流石に内容は多彩です。
 留学や海外駐在員時代のエピソード、高校時代の思い出から日々の暮らしの話、病気と健康の話や旅行の話など、わいわいがやがやです。山本さんからは、カナダ在留日本人を中心に源氏物語の勉強会や歴史勉強会をやっているとのお話がありました。会は日本語でやっておられるそうで、とても前向きで愉しそう。この調子なら来年の帰国も期待できるのではと思ってしまいます。
 2時間ほどの会食でした。名残りはつきません。再会を約束してとなるのですが、なにしろ皆さん“立派な高齢者”、果たして来年もこのように集えるかどうか分かりませんが、是非、またお会いしたいとの思い一杯で散会しました。         
(記:張 志朗)

圓尾君の講演会に行ってきました。

 11月24日午後2時から此花歴史研究会の例会として圓尾博一君の「女性画家—島成園(しませいえん)を知っていますか」と題した講演会がありました。
     
 会場は此花区民ホール3階会議室。講演会は、研究会会員はじめ一般参加者、市岡の同窓生で大盛況。参加者数を聞きもらしましたが大きな会議室ほぼ一杯でした。同窓生は口コミで、酒井八郎(4組)、末廣訂(8組)、松田修蔵(6組)、上野裕通(7組)、張志朗(7組)の各君と北浦昌子(2組)さん、段中文子(5組)さんの7名、ほかに此花区酉島在住の濱崎洋子(1組)
(凛とした島成園写真)
さんが来ておられたようでしたが合流できませんでした。
 講演会はたいそう雰囲気が良く、興味津々、集中した2時間があっと言う間でした。
 講演は「島成園を知っていますか」との問いかけから始まりました。ほとんどの参加者は知らなかったようです。講演の流れは①「島成園の紹介」②「上村松園について」➂「黒髪二題–松園(39歳)の『焔』と、成園(24歳)の『おんな』」④「大正デモクラシ-の女性活動家」⑤「成園の自画像」⑥「アフガニスタンの女性の今」の順序でわかり易く進められました。
 たくさんの話がありましたが、呆けぎみの筆者にはすべては頭に入りません。配布された資料(A4—13枚の労作です)に基づいて印象深いことがらを以下に書きます。
 島成園は堺市の生まれ。13歳で大阪の島之内に転居しています。父と兄は共に『町絵師』、幼い頃から絵に親しむ環境にあったようです。大正元年(1912年)19歳で『6回文展』に『宗右衛門町の夕』を出展して初入選。一躍注目をあびています。以降関西の女流画家としての画業を重ね『三都の三園』の一人と呼ばれるようになります。『三園』とは同時代に活躍した大阪の島成園、京都の上村松園、東京の池田蕉園の三人を指すのですが、池田蕉園は早世。『序の舞』の上村松園は後に『文化勲章』を授与されています。時は大正デモクラシ—の時代、島の生き方とその画業はそれとからみあったものであったようです。「日韓併合」「大逆事件」「世界大戦」と揺れ動く社会情勢の中で、与謝野晶子、平塚らいてふ、山川しずえ、菅野スガ、伊藤のぶえ、市川房枝など、家父長制と男尊女卑による不平等、良妻賢母であることだけが強いられるなど、これにあらがう女性活動家が活躍しました。特に成園は堺生まれの歌人・与謝野晶子への敬慕の想いが強かったようです。「私の模範とする方はあの方・・・その見識ありすべてに通じ、その神髄をよく穿たれるに感服の外ありません」との言葉が残っています。講演で全文紹介された晶子の歌–『君死にしたまふこと勿れ』が、昨今の状況とも重なり、胸に響きました。「黒髪二題」として上村松園の『焔』(大正7年)と島成園の『おんな』(大正6年原題は『黒髪のほこり』)が紹介されました。双方とも画幅いっぱいに「黒髪」が描かれています。『焔』は能の「葵の上」の六条御息所の生霊、『おんな』は鶴屋南北の「東海道四谷怪談のお岩」になぞらえたところは、画伯である圓尾君の深読み、興味深く聞き入りました。さらに島成園についての話がありました。資料に『わかき先駆者』とあり、如何に大阪をはじめ関西の女流画壇に影響を与えたかをうかがわせています。
 成園は大正7年に『無題』として、左目にあざを持つ女性像を発表しています。この作品は結婚前のもので、左目の痣と『無題』とした題名など、恋愛や結婚などについて根拠のない誹謗中傷に苦しめられたこともあったそうです。この絵から圓尾君は清元の名曲『かさね』を連想し、四世鶴屋南北作の「法懸松成田利剣」(けさかけまつなりたりけん)にふれました。
(左) 「無題」(大正7年) (右) 「自画像」(大正13年) 
 また『自画像』についてはその背景の役者絵からでしょうか、「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の「源氏店」(げんやだな)まで飛びます。この作品は結婚後の大正13年に発表されたものです。生活につかれた女を演出し、髪を乱し目のまわりの隈を強調して描いているとあり、心身ともに疲弊した自身の姿を第三者的に突き放してとらえているともあります。たしかに時代と封建的家族制、女性差別などに翻弄されながらも自嘲するかの如くまでの自省と強い自我を感じさせてくれます。圓尾君は「この自画像は『源氏店』のお富ではないか」と笑いながら言いましたが、不勉強の筆者としてはその思いまでには至りませんでした。
 最後にアフガニスタンのタリバン支配下での女性の自由、権利の現状について触れられました。39歳の時、バーミヤンの石仏遺跡を見るためにアフガニスタンに行かれたそうです。
 講演は予定通りきっちり二時間。論旨明瞭で、分かり易く、興味深くかつ有意義なもので、参加された同窓生の感想は一致して好評で楽しかったとのことです。
    
 講演会終了後、同窓生7人だけで会食しました。一寸した手違いで当日の主人公である圓尾君はお誘いできなかったのが返す返すもの心残りです。
(記: 張 志朗)
 
 追記:紙幅の関係で成園の作品数を絞りました。またそれらも「資料」からのスキャンで不鮮明であることをお詫びいたします。是非、インターネットなどで検索、ご鑑賞ください。

ひろばリバイバル

「一枚の写真」  昭和の大阪駅前旭屋書店付近


 この写真は昭和38年頃に大阪駅前旭屋書店付近を撮影したものだそうです。6組の井東一太郎君が、メールでわざわざ送ってくれました。そのメールに以下の文章が添えられていました。
 「『市岡12期の広場』で古荘さんの歓迎会で旭屋書店の話が出ていましたが、我々の時代では懐かしく感じる場所です。その時代の大阪駅前の写真を高校10期の先輩からいただいていました。ご本人の了解を得ましたので、広場に掲載していただいてもOKです。写真は、高校10期玉井信之氏の提供です。」
 この文章にもあるように、ここは実になつかしい場所で、今はその面影を探すすべが無いほど変わってしまった場所でもあります。市電がまだ走っていた頃で、自動車やバスもあの時代の古い形です。三輪トラックで荷積みをしている姿まで写っています。
 映画の広告用看板は、ペンキで描いたこんな看板だったのですね。左はピーター・オトゥル主演の「アラビアのロレンス」、右は看板の上のマークから推測すると、松竹映画の邦画のようです。題名が「真っ赤な恋の物語」と読めますが、どんな映画だったのか、全く記憶にありません。
 4年前の「12期の広場」10月号に、ニックネーム「井の中の蛙」さんがこの付近の想い出を書いています。そのくだりを一部抜き出して下に添付します。
 『古い話であるが、旧大阪駅の南正面に木造2階建ての「旭屋書店」があってしばしば通ったものである。高校時代はここで主に参考書を、社会人になってからは文庫本や仕事に関連した専門書などを買った。培風館の「数Ⅲ精義」(岩切精二 著)を学友に薦められて買って帰り、それだけで賢くなった気分になったのもここ。二十歳すぎの悩み多き時期に「人間のしるし」(モルガン)を買い求めて行ったが探せず、やむを得ず同年輩の女子店員に聞いた所、「宗教書ですか?」と言われて慌てた事もここ。よほどにやせ細って暗い顔つきをしていたのだろう。』
 皆さんにとっても思い出の多い場所でしょう。また写真に写っているものが何か分かる方も居られる思います。是非、それを投稿して下さい。      
(HP 委員 記)

高35期 3年5組同窓会のお知らせ

開催日時: 令和7年5月予定
開催場所: 大阪梅田近辺
問合せ: 藤田
garigarikun0523☆yahoo.co.jp
※迷惑メール防止のため☆を@に変えて送信してください

高校36期還暦㊗大同窓会のお知らせ

出欠の回答方法や参加費は後日お知らせいたします。
まずは、お知り合いの同期生にお声かけをお願いいたします。
谷 昇生 
開催日時 令和7年5月5日
開催場所 バドゥール大阪(ホテルバリタワー天王寺内)
問合わせ・出席回答 出席のご回答は(谷)まで、下記のいずれかにてお願いします。
tanimasaunyu☆gmail.com 
※☆は@(半角)に変更してください

市岡高校17期同窓会の幹事会(2024.12.1)

「12期の広場」2024年秋号のラインアップ

 10月神無月です。いつもなら「秋になりました。涼しい風が心地よいですね」などと書き出す所ですが、今夏の残暑の長さと厳しさからでしようか、すんなりその言葉がでてきません。実に酷い猛暑と残暑。加えての台風、竜巻、集中豪雨災害に落雷、南海トラフ地震警報など、身も心も休まりませんでしたね。インバウンド客が『日本は災害大国ですね』と言ったとそうですが、今更ながら、この先の日本列島とその四季はどうなるのかと不安が一層募ります。友人から『毎日、これでもかとの暑さ』とのメールがありました。前日の暑さに充分弱っているのに今日またその上を行く暑さになる状況はまさにその通りで、言い得ての妙があると考えてしまいました。
 この文章を中秋の名月を眺めながら書き始めました。『暑さ寒さも彼岸まで』のならい通り、ここに来て朝夕が秋色に変わり、残暑もあと少しのようです。
 10月がごく普通で、本格的な秋到来となるよう期待するばかりです。
 
 訃報です。
 6組の駒崎雅哉君が亡くなられました。4月中頃に脳梗塞を発症、その後入院治療をされておられましたが、そのかいもなく8月1日に亡くなられたとのことです。
 同窓会が始まったころ、「仕事は何してんのん」との質問に、笑いながら「大手家電メーカーに勤め、アフリカで電気炊飯器を売っている」と話してくれたのが今も鮮やかです。アフリカ、特に南アフリカは長かったようで、退職の直前はアメリカのシカゴ駐在だったと記憶しています。バイタリティー一杯、何事にもその探求心と行動力は一貫していました。退職後ピースボートに乗りさらに見聞を磨いたこと、長崎の生月島に単身移住したこと、原発再稼働反対の座り込みに参加していたとバッタリ出会い立ち飲みで話し込んだことなど、実に彼らしいと感じ入っています。酒も麻雀も強かったですね。
 また一人、得がたい学友が私たちのもとから去りました。慎んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。合掌。 
 
 「12期の広場」2024年秋号のラインアップは「ひろばリバイバル」のみです。
 駒崎君を偲んで、「12期の広場」2012年12月号に投稿された『生月島漂流記』を再揚載します。ご覧ください。記事中の顔写真が不鮮明なため、ここに卒業アルバムの写真を貼り付けます。
 
1.『生月島漂流記 3年6組   駒崎 雅哉
以 上

ひろばリバイバル

生月島漂流記

6組 駒崎雅哉
(一)
 
50cmのコチをつり上げた。
 2001年9月11日の米国での事件を駐在先のシカゴで経験した私は、ひたすら米国旗を車の後ろに結び付け街中を走り回るアメリカ人を見てやるせ ない気持ちになった。つまりグローバリズムの名の下に世界中に害毒を振りまく米国に対するアラブ側の自爆攻撃に直面していささかの自省することもなく、自 国旗に自らの正当性を求めるアメリカ国民に暗澹とせざるを得なかった。同年12月に米国で定年退職を迎え、会社に残ることなく退社し、2003年ピース・ ボートにて世界1周し(途上計画していたイスラエル訪問は、紛争ぼっ発の為実現しなかったが)翌2004年5月より、橋で繋がった島としては、日本最西端 に位置する生月島での一人暮らしを始めた。

 家を出る経緯については、省略するが、当初は、鴨長明又は吉田兼好の生活スタイルが目的で「方丈記」と「徒然草」を持って出たものの爾来8年半、今や島の生活にドップリ浸かってしまいミイラ化している自分に呆れている。

(二)
 島での生活は、先ず歩くことから始めた。1日約2時間距離にして4~5キロ、春夏秋冬夫々に美しい景色の移り変わりを楽しんでいた。毎年9月の最終土日には、平戸ツーデイウオークが開催され全国から3千名程の参加者が有り、初日の土曜日にはこの島を歩くことに成っている。

 自炊の為料理も学んだ。この島の北端では、東シナ海と玄界灘が合流する為、多品種の魚が生息しており、毎日新鮮な魚を味わえるのが素晴らしい。やがて船外機付きのボートを買って釣を楽しみ、クエまで釣りあげた。4キロほどのクエにしては小形で在ったが、鍋にして食うと地元の漁師連中から「バカだなあ、アラ(クエ)ならキロ1万円で売れるのに」と揶揄された。島では娯楽の1部としての祭事が多い。春・夏・秋の祭礼には、必ず鯨が売りに出される。盆と正月には、若者の帰省が多い。全国の他の離島同様年年過疎化が進み、私が滞在した8年半で1/4の人口減と成った。最近では団塊の世代が定年を迎えUターンしてくるのと田舎暮らしにあこがれてのIターンも見られるが、人口流失のスピードにはとても追い付けない。

 しかも残念ながらこうした移入者に対して行政から何の生活支援も見られない。

(三)
 
島のバンド「デラ・ルンナ」のボーカルとして
「スタンド・バイ・ミー」を歌う
 そうした中での島おこし作業は、非常に難しい。存在するのは、美しい自然と古い因習位なもので、どちらも島おこしには余り役に立たない。それでも 私は永年止まったままに放置されていた風力発電の風車を動かす運動を個人的に、又行政と共にオランダ市民との交流、オランダ商館運営企画、ボランテァガイ ドと結構多忙な生活を送っていた。兎に角島おこしの為には、島外の人々にこの島の事を知ってもらうのが先決と考えての活動であった。




  生月島には、「古式捕鯨」と「カクレキリシタン」の二大伝統文化が有り、今も継承されているが、今後も守り継承し続けるには、新しい文化(血)との融合を 図る事によって初めて可能と成ろう。幸い宣伝の影響で最近は、関西からの観光客も増え、学生達の体験学習を通じて島の文化は、徐々に伝播しつつある。従い これからの課題は、I・Uターンの人々を如何に積極的に受け入れ共存するかである。

 私の場合、企業年金の減額により家賃が払えな くなり10月末で島を引き上げる結果と成ったが、もし行政からの何らかの支援が得られたならば、多分この島を終の棲家に出来たのでは・・・。しかし現在 は、一介の漂流者でしかなかった事を残念に思う。毎年税金と家賃を入れると120万円近く行政に支払っているにも拘わらず。

(四)
 
水耕栽培で甘いトマトを作る。
 カナダでグランプリを取った高倉健主演の最新映画「あなたへ」の舞台も生月島であったが、撮影に際し監督がこの島の港を見て余りにもコンクリート で近代化されているので急遽向かいの平戸に舞台を替えたと聞いている。ストーリーは、亡くなった妻の手紙により散骨する話だが、永年この島での暮らしにあ こがれやっと実現したものの二カ月でガンを発症し亡くなった奈良の友人も又私の義父母もここで散骨した。

 この島での漂流生活を終 え、新たな漂流生活を求める旅を続ける今年71歳の私も75歳に成れば断食修行を始めようと思っている。その目的は、自然死において西行法師の様にその到 来時期を感知したいからである。「願わくば桜の下で春死なん・・・・」の歌の通りに3月の満月の夜に死んだのは断食修行の結果と聞いている。


(五)
 引っ越しに際し全ての荷物を人に譲ったので、10年近く付き合った家具類が徐々に引き取られて行くのを見ているのは、寂しい。荷物だけでなく、身ぐるみも心さえも剥がれてゆく感じだ。考えるに次の世代に語り継ぐべき何物をも持ち合わせない現状に不安・恐怖を感じる今日この頃である。

 しかし唯一云えることは、原発だけは断じて子孫に残すべきでない。その為大阪にて毎週金曜日夕方6時から7時半まで関電本社前で叫んでいるので時間と興味のある方は合流下さい。待っています。(完)

17期同窓会幹事会のお知らせ