同期会

巻頭コラム

盆 踊 り

7組 張 志朗
 今夏の酷い暑さには、ほとほと参りました。
 いつの頃からかははっきりしませんが、夏が大の苦手になっています。その度合いも齢を重ねる毎に激しくなり、今夏はいわゆる “命に危険な暑さ”を身に染むくらいに実感し、逃げ場のない部屋をいらいらと行ったりきたりし、“本当に夏を乗り切れるか”と真剣に考えたほどです。エアコンをつければ良いのですが、この冷風がまた苦手で、我ながらややこしい。年代物のせいか、温度設定をしても体が冷え切って、半袖シャツに短パンではとても辛抱ができません。部屋を出れば汗が吹き出し、熱風に息苦しくてしんどさはさらに募る始末。結局クーラーをつけたり、切ったり。首にタオルを巻いて、動かずじっと座ってテレビを見ることしかできませんでした。買ってきた大きな寒暖計のたった1°Cの上がり下がりに一喜一憂の日々がどれだけ多かったことか。老境にあるとは言え、その情けない姿にただ笑うしかありません。
 
 夏の暑さが変わる“潮目”はあるのかと、ふと考えます。そんな時に思い出すのが盆踊りです。小学校の頃だったと思いますが、早々に盆踊りから帰り、二階の窓際でぼんやり。遠くお囃子を聞きながら、頬を撫でる風に、ああ夏も終わりかと淋しい気持ちになったことを覚えています。
 
 コロナ禍が沈静化しているのか、5類相当への移行のせいか、日本各地の盆踊りが復活開催されたようです。テレビでも日本各地の有名な盆踊りが放映され、それを見ました。ここに書きますと、郡上八幡の郡上踊り、徳島の阿波踊り、秋田羽後町の西馬音内(にしもない)の盆踊り、越中八尾(やつお)のおわら風の盆などです。
 その内、現地で見たことがあるのは、風の盆だけで、それも、もう二十年ほど前になります。ひょんなことから、同窓生とその連れ合い数人で出かけました。きっかけはNHKの“ミッドナイトチャンネル”の「越中おわら風の盆」を偶然に見ての話しです。正確かどうか、一寸自信がありませんが、自裁した八尾在住の老舗商主の句「曳山や ひだの流れと 風の盆」、越中おわら節の「浮いたかひょうたん 軽るそに流る 行く先や知らねど あの身になりたや」に惹かれての富山市八尾行でした。
 名にし負う盆踊りでした。観光客でごった返す中、私たちはその雑踏が途切れた場所で、天満町の“町流し”が始まる所からに、出会いました。全くの偶然で幸運です。ゆったりとした胡弓と三味線、太鼓の地方(じかた)と越中おわら節は、心がふるえるほどの哀愁に満ちて、踊りは優美でたおやか。艶やかな女踊りといなせな男踊りに目を奪われました。
 その後、郡上踊りを見たいと思いながら果たせず、今日に到っていますが、先日のテレビで秋田羽後町の西馬音内の盆踊りを知り、驚きました。風の盆に通底する美しさと哀しさに鳥肌が立ちました。長くは書けませんので是非ネットで検索して見て下さい。
 西馬音内の盆踊りは途絶えたのが終戦の年のみで、700年も前から続けられてきたと言われています。やはり女性が編み笠をかぶり踊ります。また彦三頭巾と呼ばれる目出しがついた袋状の頭巾を被る踊り手が登場します。お囃子は笛、太鼓、鉦と多彩で、“音頭”と“かんけ”(亡者踊り)と、ゆったりとしたリズム。衣装は女性専用の“端縫”(はぬい→古い絹地のはぎれを縫い付けたもの)と男女兼用の藍染浴衣です。踊りはやはり優美、さらに言えば妖艶です。俯いた編み笠の後にのぞくうなじに、人の哀しさと靭さを見るようでゾクリとしました。
 “端縫”(写真の左)は独自のデザインをこらし、藍染浴衣(写真の右)は自ら染め上げる方がおられるそうです。古くから続く旧家で“端縫”を展示している場面がありましたが、代を継いでいくことのむつかしさに感じ入りながら、突然、はぎれを縫い付ける女性の姿が浮かんだのには我ながら驚きました。
 雪深い在所の連綿とつながる人々の営みが伝わります。また、生まれ、生き、死ぬを重ねての限りない物語に、想いが寄り添っていきます。先祖供養と豊年祈願、厳しい農作業からのつかのまの解放や娯楽と書けばそれまでですが、それを越えて多くの事を語りかけてくれるのが“私の盆踊り”のようです。
 軽快なリズムと満面の笑みの阿波踊りと、ゆったりと伏し目がちの西馬音内の盆踊りは、同じ編み笠をかぶりながらも、違いが際立ちます。双方ともに眩しすぎる“命の輝き”。弾けるように、いつくしむようにと感じてしまうのは、やはり私的な感傷が過ぎるせいでしょうか。
 
 涼しくなり人心地がついた今、あの酷い夏の暑さは烈日の夢かとおぼろになり、印象深いテレビ番組であったのに、タイトルさえあやふや。行ってみたいと思いながらも、きっと果たせずに終わることになるでしょう。
 くどくどとものを言い、いまだに覚悟も定まらないまま老いに向き合う。言ってみればごく普通の変わらない毎日が続いています。

掲示板

現況報告 最近の思い出

6組 中柴 方通

①学士会館での東京市岡会(7月1日)
 4年ぶりの総会に参加した。学士会館での初めての総会であった。
出席者は59名でこれまでより減少していた。12期からは重松清弘さん、中柴が出席。
榎本進明さんも出席予定だったが、不参加だったので翌日メールを出したところ、予定表を見落とした、見落とすのは初めてとのことであった。私は、頻繁では無いが、何度も見落としをしている。
 会場の進行には工夫が見られ、新鮮な運営だった。事務局の勝田久仁子さん初め関係者の
東京神田・学士会館の玄関
皆さんのお陰でした。
工夫の1つが「市岡の思い出の名札」である。名札には、市岡の思い出の景色、先生、修学旅行先を書く。その名札は、初めての卒業生同士の交流を図るのに大いに役立った。
私は長期間、体調を崩していたので、当日(7月1日)は椅子に座っていることが多く思い出の名札を何度も落として事務局にお手数をお掛けした。




② 論文作成作業による体調不良
 13年ほど前に勤めていた企業を退職したが、その前から行っていたボランティア活動はその後も続けていた。
しろがね通りを挟む2敷地が再開発事業予定地
玉川上水沿いの、駅から東側の井の頭公園に至る“風の散歩道”(駅前デッキからの東側風景)
 
その1つが地元・三鷹市の駅前地区再開発事業でのしろがね通りの存続活動であった。2020年には存続することで一段落していた。その年に三鷹まちづくり総合研究所がまちづくり研究員制度を開設し研究員を募集した。連れ合いと私とで「なぜ市と周辺住民との間で再開発計画の理解にギャップが生じたのか」のテーマで研究員となった。
井の頭恩賜公園入口風景
 

 2022年10月に論文(中柴方通・中柴和子、2022、「なぜ市と周辺住民との間で再開発計画の理解にギャップが生じたのか-三鷹駅南口再開発基本計画(平成17年)しろがね通り通行機能をめぐって」『三鷹ネットワーク大学推進機構 三鷹まちづくり研究』(2(2):41-68)(注:三鷹ネットワーク大学推進機構⇒三鷹まちづくり総合研究所⇒まちづくり研究員事業⇒令和三年度論文集41—68)は発行された。
 中柴方通は体調不良で2023年の前半は一人での外出は控えた。 最近は、周辺の散歩は一人で歩いている。






 

第64回東京市岡会について

8組 榎本進明

 中柴君の記事の通り、筆者は、失念して欠席してしまいました。 中柴君には、体調がすぐれなかったのに、記事をお願いしてしまいました。そこで、筆者は責任を感じて、幹事さんに取材をして本文を書きました。

★新校長先生は33期の辻本利勝さんです。以下がお話の要旨です。
 3月に60才定年となり、再任用で着任しました。市岡卒業生の校長は初めてで、佐藤同窓会長から「120年待っていた」と言われて感激しました。
 高1のとき、小椋先生の生物の授業で、先生が実に楽しく授業を進められて、それに感銘を受けて、自分も全く同じ道を進むことになりました。

★13期大野副会長のお話
 東京市岡会は2019年に設立60周年を迎えました。その後コロナの影響で休会。今年4年振りの開催です。その間、34名の会員が亡くなりました。
 全員で黙祷が捧げられました。

★佐藤市岡高校同窓会長(今回ご欠席)よりのご伝言。
 2年前の創立120周年事業に支援いただいたことのお礼と、今年卒業した鎌戸凪咲(かまどなぎさ)さんが東京芸術大学に入学されたこと。彼女はフルート奏者で、第76回全日本学生音楽コンクール高校の部で入選されたことが紹介されました。

★小椋先生(今回ごご欠席)よりの伝言。
 東京市岡だよりに投稿された記事「自分自身の誕生」を読んでいただいたお礼。要旨は担任や上級生の影響で、ご自身の生涯が決まったことが書かれています。

★事務局より、「送別の歌」の説明がありました。
 明治39年3月旧制中学1期生の卒業式の時に初めて歌われ、それ以来現在に至るまで、歌い継がれています。

★野球部監督・52期野口さん、此花市岡会・19期大山さんにもご参加いただきました。

★以下3点の写真が、事務局より提供がありました。
 
前列中央白シャツが33期辻本利勝校長。その右が20期梅本光明東京市岡会会長
 
 
14期稲森さん(左)、33期辻本校長
 
24期井原副会長(左)、26期勝田さん

ひろばリバイバル

-カメオを通して-ミロのヴィーナスのポーズを考える

4組   前川 光永

1820年、エ-ゲ海の小島、ミロ島の畑でミロのヴィ-ナスは発見された。
発見当初から両腕がなかった。
台座や石柱なども周辺から発見されているがもともと両腕はどのように付いていたのだろうか。
 
発見から190年。多くの学者達がその腕のないヴィ-ナスのポ-ズに思いをめぐらせてきた。
ギリシャ神話のパリスの審判でのりんごを持ったヴィ-ナスや両手に大きな盾を持ったヴィ-ナス。
また髪の毛をとくヴィ-ナスの姿を想像したり、恋人である戦いの神、アレスと伴に立つ姿など多くの説が出された。
また、博物館に現存する古代ヴィ-ナスの像を参考にして両腕のついたポ-ズを復元したりもした。
しかし未だ、決定的な答えは出されていない。
 
ミロのヴィ-ナスが作られた古代ギリシャのヘレニズム時代流行のヴィ-ナス象があったのであろうか。
同時代や、また後世に作られた色々なポ-ズをとるヴィ-ナス像も発見されている。
これまで多くの学者は博物館が所蔵する両腕のあるヴィ-ナス像からまた解剖学的見地からも両腕のついたミロのヴィ-ナス像を想像してきた。
しかしどの姿も未だ決定的とされているものはない。
 
同じヘレニズム時代、カメオの技術は完成されていた。
「カメオ」とは宝石に浮き彫り彫刻されたもので宝石に彫られるカメオのモチ-フはギリシャ神話の神々であった。
愛と豊かさの神であるヴィ-ナスは両腕で様々なポ-ズをとりカメオに彫られている。
同じヘレニズム時代に彫られているカメオから、私はミロのヴィ-ナスの元の姿を知る手がかりにしてみるのも一考の価値ありと勝手に考えているのだが・・・・
 
17世紀から19世紀にかけてカメオ美術は全盛期を迎えた。
メディチ家をはじめナポレオンやビクトリア女王など多くのカメオコレクタ-が存在した。
カメラがなかった時代、今博物館にある古代のカメオの多くは手書きで写し取られていた。
ここに掲載したカメオのイラストは当時のもので私が博物館から譲り受けたものである。
これらがミロのヴィ-ナスの両腕がどうなっていたのかどのようなポ-ズになるのかを探求する一助になるような気もするしその本当の元の姿を知りたい気持ちが膨らむがしかし一方、我々に、このように豊かな想像とイメ-ジを掻き立ててくれる腕のないミロのヴイ-ナスの方が
ロマンがあっていとおしく、今のままで良いのではないか・・・という気もしている。
 注:ヴィ-ナス(ロ-マ神話)はギリシャ神話ではアポロディ-テ-と、
      マルス(ロ-マ神話)はギリシャ神話ではアレスと呼ばれていた。
 
 
ナポリ国立考古学美術館 所蔵

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【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会開催日程について

37期生は、4年に一度の夏季オリンピックイヤーに全体同窓会を開催しています。次回、同窓会を下記日程にて開催することとなりましたので、お知らせいたします。
 
  • 日時・会場:    2024年4月27日(土)
    1次会 14:00~  ANAクラウンプラザ大阪
    2次会 17:00~  北京料理 徐園
  • 会費:未定 (両店とも、来年度の宴会プランが決定していないため)
 会費等詳細が決定次第、各組幹事を通じて出欠確認をいたしますので、しばらくお待ちください。多数のご出席をお待ちしています。
 
<各組幹事>
(1組) 岩本幹、小山朝子、藤田朋子
(2組) 柴田勝利、竹内和彦、小林潤子
(3組) 松原美巳、松山文鑑、上田七菜子、川勝昭子、草野久美子
(4組) 久米秀樹、外間勉、塩田真美、森康子、山根美佐代
(5組) 飯尾元彦、武藤太、中村好子、森脇由起子
(6組) 岡村修一、伊藤政子、榎並加代子、谷岡正子、中野宏美
(7組) 有村博、安藤一保、下岡広志、阿阪美保、岡野真貴
(8組) 北濱晃司、鷲原知良、宮本洋子
(9組) 西原実、田中千枝
(10組)古川政宏、辻本佳代子

20期生同窓会(令和5年10月1日)のご案内

2018年2月28日 卒業50周年で67名が集まりました。
その時の参加者記念写真を掲載します。
そして世話人を決め、またの再会を約束しました。

新コロナの影響で5年間の空白期間がありましたが、 下記「案内文」の通り今年の10月1日(日)に集まることになりました。
現時点(7/12)で82名の同窓生が出席回答です。
今後も「案内文」をご覧になり出席を希望される方はご連絡ください。



市岡高校20期卒業生の皆さまへ
令和5年5月吉日
20期生同窓会のご案内
 同窓会世話人一同
 新緑の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。数年続いたコロナ禍も過ぎ、日常の生活が戻ってきました。
 思えば5年前の卒業50年目の年に70期生の卒業式に招待され、同窓会館で交流食事会を開催(67名参加)しました。その時に今後20期生全体同窓会に向けての担当世話人も確認しました。
 つきましては、このたび新しく女性世話人も加わった私達世話人9名は20期生同窓会を下記のとおり実施したいと思います。万障お繰り合わせの上ご出席ください。
  久方ぶりに、高校生の昔に帰って校歌を歌い近況を語り合ったりして、楽しい時を過ごしませんか。多数の皆さまのご参集のほど、よろしくお願いします。
 
 
日  時: 令和5年10月1日(日)12:00~14:00   受付は11:30~12:00
場  所: 中華料理「錦城閣」(大阪キャッスルホテル3階)
〒540-0032 大阪市中央区天満橋京町1番1号  TEL 06-6941-2185
会  費: 6000円
なお、ご出席の有無を同封の返信葉書にて6月30日(金)までに投函・ご連絡ください。
  
 同窓会世話人(50音順)
 碇 延明  川本 都史子  高橋 登   
 田野 登  土井 一久   藤原 潤一郎      ☆ 問い合わせは土井
 堀 久樹  吉村 潤子   渡邉 ふじ子         [yuhidoi☆gmail.com]へ 
※迷惑メール防止のため☆を@に変えて送信してください
                              
―会場地図―

【高37期】第20回市岡高校37期クラス会のご報告

 令和5年5月6日(土)に、鶴崎篤先生にご参加いただき、アサヒスーパードライ梅田において37期クラス会が開催されました。毎年開催してきた37期クラス会ですが、コロナの影響によりしばらく開催できませんでした。今回、約3年半ぶりの開催となりましたが、1次会63名、2次会52名(いずれかに出席の方の合計69名)の方にご出席いただき、大変盛り上がりました。
 来年(2024年)は、4年に一度の夏季オリンピックの年に開催すると決めている市岡高校37期同窓会の年です。前回(2020年)は、コロナの影響により開催できませんでしたので、8年ぶりの開催となります。詳細なご案内は、近日中にこのホームページでお知らせしますので、よろしくお願いします。
(報告:市岡高校37期クラス会幹事・久米秀樹)

「12期の広場」2023夏号のラインアップ

 すでに豪雨や真夏日が続いて天候は乱れっぱなしで、 いよいよの夏本番です。月並みですが、健康管理に留意して、なんとか猛暑が予想されるこの夏を乗り切りましょう。
 夏号のラインアップは、以下の通りです。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「稲盛さんとの思い出」 8組 榎本 進明
  2. 掲示板
    ・「山本(カナダ在住)さんの歓迎食事会がありました」 7組 張 志朗
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「ヒマラヤトレッキング」(平成23年7月1日号から) 8組 八島 平玐
以 上

巻頭コラム

稲盛さんとの思い出

8組 榎本 進明

 京セラの名誉会長である稲盛和夫氏が昨年(2022年)8月24日、90才でお亡くなりになりました。この報に接したときは、あまりの驚きで一瞬頭の中が真っ白になり、それからいろんなことが思い出として浮かんできました。お別れの会は京都・11月28日、東京・12月6日でした。
 稲盛さんは本当に気さくな方で、かたくるしいことが嫌いな人でしたので、退職後の2003年からは“稲盛さん”とお呼びしていました。もちろん現役のころは役職でお呼びしていたのは言うまでもありません。
 当初は「社長」でしたが、‘84年から会長兼社長→会長→名誉会長→最高顧問(KDDI)の時に筆者は退職しました。その後は、2010年JALの再建を頼まれて無給で会長を引き受けられて2年後に黒字化・再上場に回復させました。その後JALでは取締役名誉会長→名誉会長→2015年からは名誉顧問としてJALも見続けていました。
 
 稲盛さんの経歴等は、亡くなられたあと、日経ビジネスや日経トップリーダー、新聞等で多数の記事が出ていますので、ここでは筆者との出来事だけを記したいと思います。
 筆者が初めてお目にかかったのが1983年(昭和58年)4月でした。当時、筆者はヤシカというカメラメーカーにいました。当時のヤシカは1974年(昭和49年)倒産の危機にあり、大合理化を行いました。5年間、昇給無し、ボーナス無し、の条件で残った社員が懸命に励み、結果が上向き10年目を迎えていました。
 そんな時(筆者は知らなかったですが)4月に合併の話が出たようで稲盛さんがマル秘でヤシカに来られました。昼間に工場を見て、夜には一部の従業員とのコンパがあり、初めて稲盛さんにお会いしました。結果、5月に合併の調印がなされました。
 同年10月にはヤシカ事業本部が出来て、筆者も東京の旧ヤシカ本社(合併後の原宿事業所)に異動しました。
筆者がヤシカ時代から培っていた仕事は、偶然にも京セラの会計システム、アメーバ方式にぴったりと合致していたので、なんの抵抗もなくすぐになじめました。
 
 また、1984年(S59)電気通信事業法が施行されたときには、日本の電話を安くするという稲盛さんの「世のため、人のため」という信条・理念と重なり、数社の経営者と話し合って、稲盛さんがリーダーシップをとって参加することになりました。出資者を募り25社で第二電電企画会社を立ち上げ、新規参入に名乗りをあげました。社員20名の内19名が京セラからの出向者でした。さらに、同年末までに出資者を募った結果200社が応じ、合計225社で船出させました。
 稲盛さんの日頃から言われている「動機善なりや、私心なかりしか」を幾度も自分自身の胸に問い確かめた結果でした。翌1985(S60)年6月21日に正式許可が下り、第二電電(DDI)が発足したのです。インフラを持たないDDIは他の2社(JR系の日本テレコム、道路公団系の日本高速通信)に比べ、一番不利でした。
 それから土地の買収や、通信ルートと施設の建設があり、専用線のサービスは1986年10月に、市外電話サービスは、1987年(S62)9月4日に東京~大阪間が開通しました。
 
 筆者は東北ルートが開通する1989年(平成元年)4月にDDIに出向しました。(1年後にはDDIに転籍した)仙台に当日着任したばかりの筆者に与えられた仕事は、稲盛会長が宿泊されている帝国ホテルに社用車のライトバンでお迎えに上がることでした。他の社員は開通作業と式典で手一杯でした。
 式典後、数日で青森営業所の立ち上げで青森に飛び、営業所の入るビルとの契約、電話や机、事務機の手配、住居探しと契約、アルバイトの面接、等々全てゼロからのスタートを切りました。東北ルートのサービスは未だ仙台までなので、青森での営業は、予約を取ることが仕事でした。この時も日頃お聞きしていた「起業精神」のお話が生きました。
 そして、7月27日に青森もサービスが開通しました。8月には、はじめてみる青森ねぶた祭がはじまりました。子どもねぶたをつくり、引張っていただきました。
 
 青森に来て1年後の1990年6月に、DDIは全国サービス網が完成し、創立5周年を迎えました。記念式典は幕張メッセで行われ全国から社員が集まりました。
お祝い式典の後は、楽団の演奏、歌手・タレントの唄やダンス。飛び入りで、稲盛会長は楽団の指揮を執られてご満悦でした。筆者には「いい指揮者は、一人ひとりの個性を引き出すものだ。経営者も同じだ」と見せてくれたように感じました。
遠来組は翌日ディズニ―ランドを楽しむ時間もありました。
 その後、つくば・仙台と転勤して1995年(H7)10月に本社(半蔵門)に着任。仕事は営業ではなく資材部という購入部門でした。稲盛さんとは、記念式典以降は一度もお会いしていませんが、本社では数回お会いしました。エレベータ内や、たまに呼ばれることもありましたが、仕事の話だけでした。
 その中で、幾多の取引先の社長が、DDI社長を訪問されることがあります。ご挨拶に来られるのですが、内容が自社の製品を使ってほしいという話題になれば、必ず社長室に呼ばれました。「私には物を買う権限はないので、資材部長を紹介します」と言って紹介されました。稲盛イズムは全ての役員にもいきわたっていました。
 
 また、ある時相談事があり会長室に電話をしたら、今、エレベータに乗られたところです。と言われたので、1階で待って歩きながら説明しようとしたところ、今から関連会社7社の社長会があるので忙しくて無理だということで諦めました。
 すると、秘書がお見送りしたあと自席に来られて「重要な話だったと思うのでよく聞いておくように」と言われたそうです。内容を簡潔に伝えると、翌日に秘書が見えられて「その通りやるように」とのことで、重要な案件が滞りなく解決することが出来ました。
 
 盛和塾の話も筆者には欠かせない体験です。中小の商店主や若い経営者が学びに来る塾です。稲盛さんが起業したのは1959年(S34)で27歳の時でした。その時の苦しい体験や、その後の発展体験談を聞きたいと生まれたのが盛和塾です。2019年(R1)に閉塾するまで国内568ヵ所、海外48ヵ所、塾生15,000名にまでになりました。
 経営に悩み、他の幾多の講習会に参加されても成果が上がらないある経営者が「やることはわかっていて、それを全てやってもうまくいかない」と問えば、稲盛塾長は「誰が、何をやるかです」と諭され、その経営者は「そうか、自分が問題なのだ」とわかり、数年後に上場も出来ました。
 筆者が仙台に勤務していた時に、笹かまぼこの会社の社長さんが塾生でした。年末や夏休みの頃は旅行者も多く、アルバイトを200名ほど雇っていました。ところが塾で教わった京セラのアメーバ方式にした結果、ビックリした結果が出たそうです。いつものように各セクションに「必要なアルバイトの人数」を求めたところ、結果はゼロ人でした。と嬉しそうな顔をして筆者に話してくれました。また、いろんな質問等受けましたが、まるで金太郎あめのようにどこを聞かれても答えは同じだったそうで、これも驚かれていました。もちろんDDI回線を使ってくれていました。
 
 そして、退職後のOB会です。名称は「敬愛会」です。写真は2005年(H17)6月5日ホテルラフォーレ東京での敬愛会総会の一コマです。毎年各地で地区総会があるのですが、全国総会は持ち回りで行われます。当時、京セラでは稲盛名誉会長ですがKDDIでは
退職後久しぶりに仙台見物に行った時、共に6組の佐藤裕久君(左)、籠谷登志夫君(右)の3人で仙台駅前のホテルで会食した懐かしい一コマです。
最高顧問のお仕事で、JALのお話がない頃です。丁度6月5日は日本選手権陸上女子800mで京セラの杉森美保選手が日本新記録で優勝したので余計に盛り上がったのを覚えています。

 稲盛さんは、「戦友」という軍歌が好きでした。筆者も旧満州生まれで、祖母に教えてもらってよく歌っていました。40年前初めてお会いした時のコンパの席上で、会長が歌われたのを一緒になって歌ったことを思いだして、お別れの会では心の中で歌って拝礼いたしました。いい思い出の写真を大事にして今後も生きたいと思います。 

 今頃は、先に逝かれた懐かしい人たちと会って、楽しくコンパをされていると思います。
本当にお世話になりました。人生の師と仰ぐ方に出会えて幸せでした。

掲示板

山本(カナダ在住)さんの歓迎食事会がありました

7組 張 志朗 
 5月17日午後6時半から、山本久美子(旧姓 古荘)さんを囲んでの食事会がありました。ご存知の通り、山本さんはカナダのトロント在住です。毎年、日本に帰国し市岡の同窓生との再会を楽しんでこられていましたが、コロナ禍のため、今回は3年ぶりの里帰りです。一時の勢いはなくなったようですが、“ウイズコロナ”ということで、従前の食事会のメンバーを中心に集まり、大阪駅前の「新喜楽」で和食を楽しみました。
    
 参加者は酒井八郎君、末廣訂君、上山憲一君、川村浩一君、川副研治君、田端建機君、塩野憲次君、張志朗、古藤知代子さん、段中文子さん、木本みつるさん、柏木赫子さんが集まり、山本さんを含めて13人です。
 
 山本さんは、4月初旬に来日し、恒例の日本旅行を今回は、北海道にしたそうです。どうでしたかと聞いたところ、札幌の大都会ぶりには少しがっかりしたそうです。でもそうして雄大な北海道の旅を楽しめるのですから、足の具合が万全でないにしても、体力と気力ともに充実していると拝察しました。トロントでも長年勤めていたカレッジでの日本語教授の職を、コロナ禍でリモート授業になったのを期に辞し、今はフルタイム自由にすごしているそうです。3年ぶりの再会でしたが、お元気で若返られたような印象でした。
 
 歓迎食事会は再会と健康を喜ぶ雰囲気一杯です。乾杯を二度しました。まずは末廣君の音頭で一回目、仕事を終え少し遅れて駆け付けた酒井君の音頭で二回目です。81歳を越えましたが、皆さん元気一杯で、酒食がすすみます。加齢による一寸したボケや体の不具合、トンチンカンなエピソードなどは、ご愛嬌で盛り上がり、二時間半余の宴はあっと言うまでした。そのひとつを紹介すると、一番早く来たのが段中さん。次に来た田端君が、マスクをした段中さんの横に座りながら、“失礼ですが、ここよろしいでしょうか”と丁寧に挨拶。どこかの“令夫人”と勘違いしたそうで、皆さん笑い転げました。何より、こうして元気で楽しく会えることのうれしさ、大切さを実感したひと時でした。


 会食後、来年の再会を約束して別れました。皆さん握手をしたり、ハグをしたりでなごりがつきません。加速する加齢を考えると、更なる思いが募りました。
 5月末、山本さんは無事に離日したそうです。       

ひろばリバイバル

 今号は平成23年7月1日号に掲載された八島平玐君の「ヒマラヤトレッキング」です。「12期の広場」の特徴に、海外への旅行レポートが多く投稿されたことがあり、いずれも好評でした。この「ヒマラヤトレッキング」には掲載後、高知県在住の金本美智子さんから「凄い興味をもって見させていただきました。美しい写真とともに詳しく解説しておられ、わくわくしました。」とのコメントが送られてきました。
― HP委員 記 ―
 

ヒマラヤトレッキング

八島 平玐(3年8組)
 ネパールのトレッキングについて、再度まとめてみましたので、ご覧下さい。ネパールは友人のS君が良く知っており、彼を含め3人で出かけました。コースの目的地は、パンチポカリ(5つの池の意味)というヒンズー教の聖地を目指したものでカトマンズの北東部にあたります。



 コースは巡礼の道とのことで、途中にロッジはなく総てキャンプとなり、そのため、テント、食糧、我々の荷物を運ぶのにガイド、コック、ポーターの計10名、合せて13名の大編成となり記録映画に出てくるような山行を楽しみました。(登りはポーターを更に1人雇いました)
カトマンズから小型バスで6時間位かけてチョウタラ、更に、シャウレ村へ入り、この村のひえの段々畑が初日のキャンプ地でした。丁度、テハール祭の時期で村にはタルチョ(色とりどりの祈祷旗)が飾られ、途中の昼食を摂った食堂では、犬がマーガレットで作った花の首飾りをかけて貰っていました。テハール祭は光の祭りであり、収穫祭とのことで、山に入る前日のカトマンズの青空市場は、大いに賑わっていました。

キャンプでは、朝6時頃に、まずモーニングコーヒがテント毎(我々は1人1張りづつ)に配られ、その後、お湯を洗面器に入れて持ってきてくれ顔を洗い食事となります。朝食はスープ、パンケーキ(蜂蜜orジャムを付けて食べる)、卵料理で、結構おいしいものでした(我々に合うように味付けされている)。最後にお粥が出ます。お粥は、味が付いていないので持参した梅干し、ふりかけ、塩昆布で食べるといった食事でした。食事後、水筒にお湯を入れてもらいこの湯冷ましを飲み水としました。そして、テントを畳み、後片付けをして出発となります。山に入った最初の村と、最後の村では鶏を買ってきてくれ捌いてご馳走してくれましたし、山から下りた村では山羊を買ってきてジンギスカンやハンバーグとして出してくれました。また、毎日食後にりんごが付きました。りんごは、小さく、味は上高地で見られるものより更に素朴でした。
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