同期会

【高37期】第20回市岡高校37期クラス会のご案内

37期生の皆様には益々ご活躍のことと存じます。
 
最近の新型コロナウイルス感染症の状況を考慮した上で、下記の通り、3年半ぶりとなる37期クラス会を開催することとなりました。37期生の方であれば、どなたでも参加できますので、ご都合がつく方には、どうぞ、ご出席ください。
 
市岡高校37期クラス会 幹事 久米秀樹
 
会の名称 第20回市岡高校37期クラス会
開催日 令和5年(2023年)5月6日(土)
1次会
■時間:
■場所:



■会費:
18:00~20:00 (受付開始 17:30~)
アサヒスーパードライ梅田
梅新交差点南東角 フェニックスタワー 地下1階
大阪市北区西天満4-15-10 電話 06-6311-2829
https://asahiumeda.owst.jp/
4,500円
2次会
■時間:
■場所:



■会費:
20:30~22:30 (受付開始 20:15~)
たよし 曽根崎店
曽根崎お初天神通り商店街
大阪市北区曾根崎2-9-13 電話 06-6312-9388
https://y-tayoshi.co.jp/shop_sonezaki/
3,000円
感染症対策
  • 1・2次会場共に「感染防止認証ゴールドステッカー認証店」です。
  • 入店時に検温をします。当日体調不良の方は、参加をご遠慮ください。
参加申込
問合せ先
ご出席いただける方は、4月20日(木)までに、下記の事務局幹事・久米に電子メールでご連絡ください。
なお、1次会・2次会それぞれの出欠も明記してください。
事務局幹事 久米秀樹(3年4組)
携帯電話  090-9285-1601
電子メール kume7181☆gaia.eonet.ne.jp
※上記☆は@(半角文字)に変更してご利用下さい。
 
<お願い>
  • 今回の開催案内は事務局からの電子メールによる案内のみとなります。
  • 37期生の皆様に開催案内が行き届くよう、このWEBサイトのページをクラスメートにお知らせいただくようご協力をお願いします。

【高校21期】2023 市岡の森 ランチミーティングのお誘い

ポカポカ陽気でサクラの開花が近づいています。
今年のランチミーティングは下記のとおりです。
ありし日の大西君を偲び「栄冠は君に輝く」を熱唱します。
はじめての方もお気軽にどうぞ ♪

◆4月1日(土)
ロッジ舞洲 12:00集合(15時頃まで)
 1)市岡の森で桜鑑賞
 2)校歌、栄冠は君に輝く 熱唱
 3)レストランにて
    ランチミーティング&ミニコンサート
 ★ユニバーサルシティ駅から無料送迎バス利用可(11:35)
参加費:3,000円
 参加の申し込みはメールで → info⭐︎reihyo.com (⭐︎を@に変えて送信)
 ★参加の申し込みは3/26までにお願いします。
お問合せ先:幹事代行/竹内 哲(〇九〇〜八六五九〜六三一五)
メールアドレス:s-takeuchi⭐︎knd.biglobe.ne.jp(⭐︎を@に変えて送信)

「12期の広場」2023新春号のラインアップ


 明けましておめでとうございます。今年も「12期の広場」を宜しくお願い申し上げます。
 
 「12期の広場」の内容を簡略化して初めての新春号です。上の年賀状は松田修蔵君(6組)が描いてくれました。暖かく嬉しい絵手紙です。また「巻頭コラム」として上野裕通君が「新年を迎えて」を書いてくれています。その中にあるように、たしかに幼い頃、お正月の男の子は、高下駄と黒足袋が多かったようです。弟と撮った写真がでてきました。晴れ着は黒足袋に高下駄の黒い学生服姿。小学校1年生の弟は長すぎる袖と裾を折り返し、そこだけが裏地の白の輪っかがはまったようになっていて笑えます。貧しい時代でしたが、キラキラとまぶしい正月写真です。
 あれから70余年、また新しい年がスタートするのですね。新春を寿ぎ、新年に思いをはせるのが、ならいでしょうが、どうも「めでたさも中くらゐなりおらが春」(小林一茶)が正直なところで、「新年の計」にいたっては心もとないかぎりです。
 とは言え、ささやかな迎春準備を終えてのお正月の設えや、家族そろっての正月膳と賀詞交換はやはり嬉しくもあり、目出度くもあります。ややこしく不安ばかりの世情とつのる老いに向き合いながら、月並みですが、気持ちあらたに健康に、この1年を過ごせればと願っています。
 
 同窓生の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申しあげます。
 
 昨年の12月に同窓生のご家族から喪中はがきが届きました。1組の上原(大川)澄子さん、4組の藤田勝利君、6組の佐藤裕久君が永眠されました。ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
 上原さん、藤田君、佐藤君の皆さんは「12期の広場」に複数回投稿して頂いています。本来ならば故人を偲び、投稿文すべてを本号で掲載すべきところですが、紙幅の関係上、上原さんの2011年4月号の「市岡12期HPをみて」を、“ひろばリバイバル”として再掲いたします。
 藤田君と佐藤君の投稿文は、「12期バックナンバー一覧」から閲覧可能ですのでご覧ください。
藤田君の投稿
 
2015年5月号    「韓国語の入門コースを終えて」
佐藤君の投稿
 
2011年1月号    「米国アラバマ在住の友からのメール」
3月号    「めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~」
4月号    「3.11東日本大震災体験の二伸」
7月号    「高田松原の“希望の一本松”」
9月号    「我が失敗と補欠人生:その後」
2012年10月号    「夏の思い出」

 さて「12期の広場」2023新春号のラインアップは以下の通りです。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「新年を迎えて」 7組 上野 裕通
  2. 掲示板
    ・『「小出楢重と大大阪時代」の此花
     歴史研究会例会に行ってきました』
    7組 張 志朗
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「市岡12期HPをみて」(2011年4月号から) 1組 上原(旧姓 大川)澄子
以 上

巻頭コラム

新年を迎えて

7組 上野裕通
 
 新年明けましておめでとうございます。
2022年夏
山形県・酒田駅にて

 1年が経つのは早いですね。80歳、傘寿になったこの1年間は、コロナ感染防止のための外出自粛要請もあり、自宅で過ごす単調な日々が多く、日が経つのが早く感じるのかもしれません。
 私は、早生まれで1月4日に満81歳の誕生日を迎えます。昔、小学生の頃、お正月になれば、新しい黒い足袋を履き、白い鼻緒の高下駄を履いて友達と遊びに出掛けました。野田恵比寿神社へ行くのが楽しみでした。神社に行くまでの通りに様々なお店が出ていて、色々と興味をそそられました。恵比寿神社へのお参りは、付録であったように思えます。
 元旦は、父親を中心に男兄弟3人の家族5人が座卓の前に正座し、父親の「おめでとうございます」の発声で味噌雑煮や赤飯を頂きました。煮しめは母の美味しい味、小さい頃は甘い醤油味の「ごまめ」とツルツルした舌ざわりの「こいも」が大好きでした。懐かしい思い出です。
 今年のわが家のお正月の膳は、すましのお雑煮、赤飯と取り寄せたお正月用の折箱です。子どもの頃と違って、座卓がテーブルに代わり椅子に全員座っています。私は、ここ4~5年、大晦日に、昔、母が炊いてくれた煮しめを自分で炊くようになりました。里芋、人参、蒟蒻、牛蒡、大根、蓮根、椎茸、きぬさや、厚揚げなど自分で調理し、味付けは母の味を思い出して工夫しています。娘家族がここ10年間、同居しているので、元旦は、娘家族4人と私ども夫婦の6人で、私の「おめでとう」の発声で祝います。私が炊いた「煮しめ」は、年々みんなよく食べるようになり、心ひそかに喜んでいます。
 新しい年を迎えて想うことの一つは、知り合いや友達のことです。私は今年も健康な体で元気に新年を迎えることができ感謝していますが、脊柱管狭窄症で外出する事を億劫がっていた小学生時代の友はどうしているだろうか。大学時代、三ノ宮界隈をよく飲み歩いた友が近頃アルコールは少ししか飲めなくなったと衰えを語っていた事を思い出したりしています。この友達は、頭の髪の毛が一本もなくなり、お坊さんのように様変わりしています。歳を重ねることにより、肉体的な変化もありましょうが、心の持ち方にも変化が現れますね。
 古稀を迎えるまでは、家事労働は言われたらするぐらいでしたが、最近は、進んでするようになりました。でも、まだ家内の「5分の1」位かな?
 仕事を辞めて家に終日いるようになってからは、自分にできることはないかと仕事を見つけ出し、毎日の日課にしています。庭の植木の水遣り、時々の草取りから始まり、今では、掃除機を使う事、洗濯物を取り入れてきちんとたたむ事、風呂洗いとお湯はりをする事などしています。永年、家内がしてきたんだなあと思うと、感謝の気持が更にもう仕事はないかと探させます。
 この年まで生きながらえてきたのも、父母のお陰であり、家族のお陰です。また近隣の皆様、職場で共に過ごした皆様との出会いがあったお陰です。60歳まで小学校教員として勤め、定年退職後は、大阪市教育振興公社に9年間勤め、69歳から75歳まで6年間、住まいする自治会の会長を務めました。
自治会活動では、子どもの頃、向う三軒両隣みんな仲良かったことを思い出し、人とのつながりを広め、深めることが大切だと考えました。そこで、ふれあいサロン、ひとり暮らし高齢者交流会などを立ち上げると共に、趣味の会として、ゴルフ同好会、カラオケ同好会などを立ち上げました。今では、それぞれの活動が自主運営され、人の輪が広がり、親密度が増していることに嬉しさを感じています。
 81歳からはまた新しい人生の始まりだと捉え、体の自由がきく間に色々なところに出かけようと思っています。友達に会いに行くもよし、素晴らしい景色を見に行くのもよし、今しか出来ないことをして楽しもうと思っています。
 私の趣味の一つに、青春18切符で鉄道旅をすることがあります。小学校の同級生三人と行くのですが、その内の一人が老人ホームに入ってしまい、去年の夏は東北への二人旅となりました。今年の夏は、北海道へまた行こうという事で、計画を立てる段階から楽しみが始まります。いつまで続けられるかですが、毎日5000歩を歩き、規則正しい生活をして米寿まで続けられればよいと思っています。
12期の同級生は新年をどのように過ごされるのだろう?喜寿の同窓会を最後に同窓会は開催されなくなったので少し寂しいですね。また会える日が訪れます事を楽しみにしています。米寿に同窓会を開きたいですね。お元気で!

掲示板

「小出楢重と大大阪時代」の此花歴史研究会例会に行ってきました

                      
7組  張 志朗
 11月27日、此花区民ホール(千鳥橋)で午後2時から此花歴史研究会の例会–「小出楢重と大大阪時代(その1)」と題した公開講座がありました。講師は同会々員でもある圓尾博一君(6組)です。
 ご存知の通り、小出楢重は日本の近代絵画の巨匠で、旧制市岡中学校の第1期生の大先輩です。
 自宅を出る時「小出楢重先輩の公開講座に行く」と娘に話すと「すごい」と言われ鼻高々、おまけに千鳥橋は生まれ育った所でもあり高揚した気分で会場に向かいました。同窓生の酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎君と北浦(小寺)昌子、古藤知代子、鈴木(酒井)政子さんの7名が来ていました。
 参加者は研究会会員を含めて40名。講座は準備された資料を手元に、真摯で和やかな雰囲気で終始しました。圓尾君の講演は、同業の巨匠の画業にふれることの難しさがあったのではと思いましたが、抑えて外さず、深くて親しみやすく、多面的でユーモアたっぷりの話しぶりでした。小出楢重は大阪の島之内育ちです。それに配慮してか、はたまた圓尾君の人柄か、小出楢重の言葉をなぞった時の彼の大阪弁が、たおやかで懐かしいイントネーションで聞きとれました。
 講演は大好評。「小出楢重の年譜」とエピソード、その画業と随筆集、市岡中学の同窓生、重要文化財「Nの家族」二科展特選「少女於梅之像」について、大大阪への変貌など多岐にわたる内容で、2時間があっという間でした。
 そのうちの幾つかを下に書きます。
 小出楢重の同窓生には、市岡中学校第1期卒業生(明治39年卒業)の石濱純太郎(東洋史学者)、信時潔(音楽家・チェロ奏者)がおられ第2期卒業生に津田勝五郎(鋼材商)がおられます。
 小出楢重が東京美術学校卒業後、画業に専念することを諦めかけた時、ばったり出会った石濱純太郎に「先生になんかなったらあかん。僕らで何とかするからやめとけ」と説得されます。その後、石濱は友人の画家の桑田信子、栗山清太郎を誘い「三人展」を企画します。そして小出楢重の出品作品40点に信時潔、津田勝五郎などを動員して“売約済み”の赤札を貼り回る一芝居を打って、楢重の母を安心させました。その結果、絵画制作を続けられるようになったそうです。この石濱との出会いと市岡同窓生の絆が画家小出楢重の誕生の起点であったようです。
 次に重要文化財「Nの家族」についてです。この作品には「謎が多いと思っている」としながら、楢重、妻–重子と長男の構図や異なる三人の視線、ホルベインの画集と静物の配置、背景の肖像画と壁の材質などについて話してくれました。言われて見ると、確かにミステリアスです。この絵に対する見方の幅が広がります。
 更に圓尾君は、小出楢重の数学との付き合いの悪さに触れた次の文章を紹介してくれました。誰がやっても『5+5が10で・・・10とならぬ時には落第するのだからつまらない。羽左衛門がやると100になったり、延若がやると55となり、天勝がやると消え失せたりするような事を大いに面白がる性分なのである』。 デジタルとその整合性だけが大手をふるような現代の一面を的確に射抜いているようで痛快です。
 資料の「年譜」は、明治から太平洋戦争開戦までの主要史実の抜き書き付きです。歴史研究会の例会ですから当然のことかもしれません。それによると日清戦争、日露戦争、日韓併合、大逆事件、第一次世界大戦、ロシア革命、治安維持法成立等々、小出楢重の画業は大正・昭和の激動期と重なります。この視点に、私は目から鱗が落ちる想いで、「枯れ木のある風景」の送電線上に腰かけた小出楢重の姿とその心象風景に少し近づけたように感じます。
 講座が終わったあと、参加した同窓生8人(酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎、北浦昌子、古藤知和子、酒井政子)で軽く食事をしました。主人公の圓尾君は所用のため残念ながら同席できませんでした。
 コロナ禍の中、久しぶりの得難い会食です。皆さんそれぞれお元気で、意気軒高、嬉しさいっぱいでした。伊東君が足の具合が悪いのに遠路、杖をついて来られたのには、感激です。
 亡くなられた同窓生の話をはじめ、圓尾君の名講演の感想や健康維持のためのラジオ体操の話、リハビリの話、仕事の話、趣味の話など、話題はつきません。こうして楽しく話し、笑いころげることが出来る幸せ、市岡があってのことと再認識しました。健康で再会することを約束して別れました。

ひろばリバイバル

 ラインアップに書きましたように、上原(大川)澄子さんの投稿を再掲します。訃報をメールで知らせた所、「勉学にテニスにと、ピカ一に輝いていて眩しすぎる存在でしたね」、「よく笑う女の子でしたね」などの返信がありました。故人を偲んでお読みください。
― HP委員 記 ―
 

市岡12期HPを見て


投稿 上原澄子(旧姓大川)(1組)

 お彼岸も過ぎて桜の蕾もふくらんできました。 市岡12期の皆様にはお変わりなくお過ごしですか。3月11日の東日本大震災はまるで悪夢のようで胸が痛みます。東京電力管内の沼津は2日おき位に計画停電があり3時間ほど停電します。

 先日HPの上野裕通さんの「市岡高等学校12期同窓会を振り返る」を読み、私も北浦昌子さんとの想い出を少し話したくなりました。

 小学校・中学校・高校と一緒だった昌子さんとは家も近かったので「一緒に勉強する」という口実でよくお互いの家を行き来していました。昌子さんの亡きお母様の詠まれた歌集を見せてもらって、涙したことが思い出されます。

 私の家では細巻寿司やサンドイッチを作ったりして楽しい時間を過ごしました。
今年の年賀状の歌は「うさぎさん目と耳貸してこの一年よく見よく聴くじじばば二人」でした。

 昌子さん元気でまた会いましょう。 

 市岡の同期会は70才近い現在の生活をちょっとタイムスリップさせてくれ、元気で頑張っていた18才の頃に戻してくれます。

 高校時代は同じクラスになったことも、口をきいたこともない友とも親しく話をすることが出来ます。
「東大湖の水受けて…」とみんなで校歌を歌う時、気持ちが一緒になる様な気がします。

 そんな友達の中に8組の村崎裕昭さん、山田正敏さんがいます。

 市岡東京12期会の小旅行で箱根に行った折、自己紹介で村崎さんが「絵手紙を始めました。」と挨拶され、20数年前から水墨画の絵手紙を書いていた私は思わず「私も描いています」と言いました。それがきっかけで絵手紙のやりとりをするようになりました。描き方は違うのですが、村崎さんの絵手紙の進歩は素晴らしかったです。

 それでは、二人の絵を見て頂きたいと思います。

 まず私の作風をご覧になってください。(画像はクリックで拡大します)

 
 

 次に村崎裕昭さんの作品です。

   

 そして、私が村崎さんの絵に影響されて描いてみた作品です。

 また、陶芸をされている山田正敏さんの造られた大皿に「あけび」を描きました。

 市岡は50数年過ぎた今でもよい想い出をつくってくれています。

 最後に懐かしい写真を一枚(ご存知の母校中庭で)


【高校21期】2022年 湖陽樹忘年会のご報告

 2022年の忘年会は、12月1日、中国料理 湖陽樹(谷町四丁目)で開催されました。
ピッチャーやまだ君の軽妙なトークとカンパ〜イ!で、にぎやかな宴会がスタートしました。
中華料理の円卓を囲んでタイムスリップ。今とあの時とを行ったり来たりです。
コロナで、古希を祝う同窓会も寅年の同窓会も飛んでしまいましたが、
21期は元気元気♪ 楽しい時間が過ぎて行きました。
(紹興酒が無かったのは悔やまれますね。)
/幹事代行 竹内 哲 
 
【出席者】
伊藤 岡田 喜多(竹口) 國津 近藤 酒井 篠原 下津 竹内 南口
西尾(井上) 野原 藤原 二村 前川 前野 松田 湊口 武藤 武藤(林)
藪田 山田 山子 渡壁

  
◆70歳超の引っ越しは大変です 
 
 会社の都合で長い間関東に住んでいました。
気がつけば関東で定年を迎え、実家近くにある墓をお参りする人もいなくなっていました。
そこで墓守をしようと一大決心をして昨年9月に51年ぶりで大阪に戻りました。
 住んでみて感じたのは、大阪は大きく変貌していることです。まさに浦島太郎状態です。
しかし、故郷は大事です。今、毎日仏壇に手を合わせ、四半期ごとに墓参りをしながら、
大阪の生活に慣れようとしています。
 関東では東京市岡会や東京市岡21期会に時々出席していましたが、今回初めて大阪での21期生会に出席しました。知らない顔が多く最初は戸惑いましたが、時間が経って打ち解けてくると少しずつ思い出がよみがえり、楽しいひとときを過ごすことが出来ました。
ありがとうございました。
 同窓生へアドバイスです。軽い気持ちで同窓会に出席して下さい。楽しかった日がよみがえります。これから引っ越しを考えている人は諦めて下さい。70歳を過ぎてからの引っ越しは大変です。生活に不要なものが余りにも多く、引っ越し先に持って行くものを決められません。やむを得ず引っ越しするときは、私の妻のように強引に徹底的に断捨離を進める助っ人が必要です。
(3年8組 松田幸信) 
 
 
◆やり残したこと (スピーチ&エピソード)
 
 卒業から54年、集うのは総勢24名の寅年72才です。
 恒例の近況報告や思い出話は、過去のおぼろげな記憶が鮮明となり脳に良い刺激が染み渡って次回も是非参加しようと思う瞬間です。
 さて、今年のお題は「やり残したこと」です。

 
  1. 金融機関を退職しました。在職中の統廃合で会社名が3回も変わりました。
    しかしながら「私には転職経験ありません。」(く)
  2. 水泳部です。冬場はギターを弾いていました。卒業後アメリカに留学しました。
    時代背景は1ドル360円の固定相場、海外通話は電話局経由で分刻みの料金体系です。ハワイ経由の航路が飛行機より安かった時代でした。当然ながら音信不通者となっていました。
    帰国後同級生に「生きとったんや」と言われました。「私は死んでません。」(お)
  3. サッカー部でした。今春、JFAオーバー70サッカー全国大会が開催されました。
    何と優勝です。YouTubeに動画が出ています。
    更に連覇を目指して日々練習に励んでいます。仕事も現役です。
    「やりたい事は、海外の孫を含め3世代で記念撮影です。」(む)
  4. 仕事柄ほぼ全都道府県を回りました。今は故郷に戻っています。
    「やっと落ち着きました。(さ)
  5. 数年前に同級生だった夫を亡くしました。今はひとりの生活にも慣れて、強いて言えば楽です。いずれその時が来るけど皆さん大丈夫ですよ。乗り越えられますよ。
    「やり残したこと・・ もっと勉強〜しておけば良かった。」(に)
  6. 仕事、家族に恵まれ、健康に生活できて、未だに妻を愛してます。
    人生に後悔もやり残したこともありません。「妻に感謝しています。」(や)
  7. 日課を決めています。徒歩1万歩、筋力運動等ほぼ10年前と同じです。
    お陰様で健康に恵まれて病気とは無縁です。最近はきついと感じる日もあります。
    「10年前の日課 ‥」(ま)
  8. 趣味の楽器でグループ活動しています。楽譜を見て手を動かすことで脳が活性化していると思います。座しての演奏が多く足腰の衰えを感じています。
    「やり残した事は老人ホームの慰問です。」(わ)
  9. 歴史が好きでした。しかしながら理系を選択しました、物理の赤点が嫌な思い出となっています。進学、就職も終わった今、自分の好きだった日本歴史を研究する日々です。
    「あの日の自分にひとこと・・・」(?)
  10. 長年社長業をやっています。最近お詫び状を書くことが増えています。
    慣れると早く書けるものでして、作業時間は短縮されてはいますが違和感があります。
    「あの日の記憶に戻りたい。」(ふ)
  11. 仲間と自転車ツーリングに出かけたときの事です。日中の疲れを癒すにはローカルの温泉旅館は欠かせません。サイクリストの憧れしまなみ海道には全てが揃っています。
    鍛え上げた太ももや臀部の筋肉を温泉で温め、疲れた目も休めます。全てが順調でした。
    しかし、まさかの階段からの転落です。翌朝ツーリングを中止し何とか帰り着きましたが、救急車での緊急搬送となりました。骨盤と肋骨の骨折、長期入院の重症でした。
    リハリビを経て、今は元どおりに戻っています。
    入院中、心配や迷惑をかけた妻に「もっとありがとう〜!を言いたい。」(た)
  12. 野田の一等地でお好み焼きを焼いています。最近ほとんどお客ケーヘンねん。
    因みにGoogleマップで「お好み焼きぼん」を検索してください、出てきます。
    書き込み評価写真投稿お願いします。
    「お客が来たら美味しく焼くよ。」趣味はギターです。(や)
  13. 高校時代の親友と交わした誓いは何と「一生独身でいよう」でした。背景には複雑な伏線が有るが誓いはそれです。二人共40歳目前にしても独身を謳歌していました。
    世の中全てが右肩上がりの高度成長期です。クルーザーを持ち、高級ワイン、仕事も頗る順調で誰もが羨む高学歴、高収入、高身長+イケメンです。周りが放っておくわけもない時代です。遂に40歳で結婚してしまいました。「ごめん、約束破った事許して欲しい。」
    今は亡き親友に捧げる一言です。(し)
  14. 独身です。家族の話になると出遅れた感あります。同窓会の記録写真を撮り続けています。皆さんのお姿を撮るもの喜びの一つです。この会が続きます様にと思っています。
    「陰謀論と言われている話を聞いて欲しい。」(ま)
  15. 卒業後、結婚して子供に恵まれました。その子が経営するレストランが今は市岡の同窓生が集う場となりつつあります。うれしい限りです。
    「私も、もっと勉強しておけばよかった~。」(き)
  16. 思い切って本デートを切り出すべく、乗り合わせた車中でキッカケを掴めずドキドキしていたら、次の駅で『私ここなの!さようなら』初恋は成就される事なく終わってしまった。
    彼女は早逝した。天国に向けて「好きだったよ」と伝えたい。(な)
  17. 電車通学時、いかがわしい天満座看板が見下ろせる車両に立ってったら、そこを定位置とする男子学生と顔見知りになりました。彼も過ぎゆく一瞬のドキドキを共有していたはずです。あそこに立っていたのは「Ⅿ君、あなたですね!」(〃)
  18. Ⅿ君は私の夫です。(む)
  19. 同窓会、飲み会、忘年会、花見会皆勤賞です。これらの企画運営に感謝します。
    「更に記録を伸ばします。」(?)
  20. 現役です。職場は徒歩3分、娘達も徒歩圏内に住んで居ます。(の)
 
 早退した野球部(や)、本日欠席の野球部(お)は、共に21期会を盛り上げかつ支えてくださっています。バレーボール部(ふ)は、東京開催の同窓会にもご尽力頂きました。
 早逝された方々、病を得ておられる方々へのお見舞いや勇気づけも幹事さんの心使いを感じました。中華テーブルを囲む会場設定も参加者に好評でした。
 二次会は中之島中央公会堂のパブです。
40で誓いを破った男がシャンパンをご馳走してくれるらしい。嫌味なくサラーとできるのも
才能の一つ。二次会は幹事さんへの慰労会です。喜んで付いて行きました♪
 
(あとがき)原稿依頼を受けて、スピーチや個々エピソードのお話を記憶をたどりながら拾い出しました。その際に振った番号が意味無く残っています。
また、澪標ホームページで繋がっているお仲間にも雰囲気をお伝えしたく、僭越ながら多少の脚色も交えて書いています。
お許し頂くこと多々有りますが、「お叱り」は次回の同窓会に持ち越しとさせて頂きたいと思います。皆さまありがとうございました。
(3年5組 武藤(林)ひろみ)

【高校21期】2022年 忘年会のお知らせ

21期同窓会事務局


木々が色づきはじめました。秋の深まりを感じますね。
心がざわつくことが続いた1年ですが、皆さんお元気でしょうか?
今年は中華料理の円卓を囲んでの忘年会を企画しました。
事務局一同、多くの皆さんの参加を期待しています。

 
  • 日時:令和4年12月1日(木) 17:30〜
  • 場所:湖陽樹(こようじゅ)
       (地下鉄谷町線・中央線 谷町四8番出口すぐ 大江ビル16F)
  • 会費:¥6,000
参加の申込みはメールで → info☆reihyo.com(☆を@に変えて送信)
締め切り: 11月23 日
お問合せ先:幹事代行/竹内 哲(携帯 〇九〇〜八六五九〜六三一五)
      メールアドレス:s-takeuchi☆knd.biglobe.ne.jp(☆を@に変えて送信)

「12期の広場」2022秋号のラインアップ

 突然のお知らせですが、清水誠治郎君がお亡くなりになりました。
 9月7日に外出先で倒れ救急搬送されて入院。集中治療を受けておられましたが、薬石の効無く、11日朝、永眠されました。
 ご存知のように清水誠治郎君は3年3組の同窓会幹事で、同窓会活動ではクラス幹事の役割にとどまらず、12期全体の中心幹事のお一人として大活躍してくださいました。その思い出は語りつくせません。同窓会行事の企画推進やそれへの積極参加・協力は勿論のこと、同窓会名簿原案の作成やその他の事務作業、同窓会の司会、度重なる「12期の広場」への投稿など、実に多くのご苦労をお掛けしました。
 ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
  故人を偲び本号では、2016年1月号に投稿された「今、物凄く幸せです」を“ひろばリバイバル”として掲載いたします。

 「12期の広場」2022秋号のラインアップは以下の通りです。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「ぶらりと福知山」 7組 張 志朗
  2. 掲示板
    ・「コロナ第七波の中、三年ぶりの夏祭り
     海老江八坂神社の夏祭りが盛大に実施」
    8組 末廣 訂
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「今、物凄く幸せです。」 (2016年1月号から) 3組 清水誠治郎
以 上

巻頭コラム

ぶらりと福知山

7組  張 志朗

 ぶらり福知山に行って来ました。
 こう書きだせば、"気楽な小旅行"となるのですが、実のところは耐えがたい猛暑とコロナ禍による巣ごもり、さらに思い通りにならない体調に"汗まみれの引きこもり老人"状態になっている筆者のセンチメンタルなフラフラ歩きの旅であったようです。
 日帰りの遠出は数年ぶり、勿論、密を避け、マスクを持ってです。8月の末、晴と気温32度以下の天気予報を確認して、JR福知山線の篠山口行の区間快速に乗りました。
 ご存知のように福知山線は東海道線の尼崎より北上し、篠山口を経て福知山で山陰線に接続します。
 篠山口で二両連結列車のワンマンカーに乗り換えです。若く、かわいい女性運転手です。「福知山まではディーゼル車ですか」と聞いて笑われました。以前から電化されているそうです。
 福知山までは車窓の左右になだらかな山を見ながら、峡谷沿いに、また狭い盆地にある田畑を縫うようして走ります。単線で、電車が木々すれすれの場所も少なくありません。空の青、白い雲、木々の緑、渓流の水しぶきが美しく、心が徐々に開いて行きます。コンバインが停まり半数位の田んぼは、稲刈りを終えてすでに初秋の風景です。2時間ほどで福知山駅に到着しました。

 福知山は京都府の北西部、人口8万人弱の中核都市。丹波高地と丹後山地に囲まれた盆地にあり、北近畿の交通の要衝です。ここから和田山、豊岡を経て城崎へ(山陰線下り)、鬼で有名な大江山を越えて宮津、天橋立へ(京都丹後鉄道)、綾部を経て舞鶴、小浜へ(舞鶴・小浜線)、また亀岡を経て京都へ(山陰線上り)いたるターミナル駅です。通過は何回もし、小休止は1~2度していましたが、ぶらり歩きは初めてです。皆さん、特に関西在住の方には、観光やスキーや登山などでおなじみの地域であることでしょう。
 とりあえずマップ片手に駅周辺をあるきました。駅の南側広場にレールを使った東屋と転車台に乗せられたC11形式40号の蒸気機関車がありました。レールは明治30年から32年に
当時の"阪鶴鉄道"が米国のカーネギー社とイリノイ社に特注したものだそうです。また蒸気機関車は昭和8年の川崎車輛株式会社製で小型機関車としては力が強く、短区間運転用として重宝され昭和19年から31年まで福知山線を走っていたそうです。転車台は機関車の方向転換や扇形車庫への入出庫を行う設備で、昭和47年まで稼働したのち、福知山駅高架化事業により撤去されたそうです。いずれも「鉄道のまち福知山」のシンボルとして保存展示されています。
 雪深い北近畿の鉄道機関区で、ラッセル車と共にもうもうと煙をはいていた雄姿が、思い浮かびます。特に私の家内の従兄が、この機関区で蒸気機関車の機関士であっただけに、思い入れもひとしおです。
 福知山は明智光秀ゆかりの地、歴史の深い城下町でもあります。
 NHKの大河ドラマ"麒麟が来る"が放送されて一躍脚光を浴びましたね。幟(のぼり)やイラストや桔梗紋(明智家の家紋)が目につきます。それらを案内するマップ通り見て歩くことはできません。なにしろこちらは、81歳を超えた老体、真昼間(まっぴるま)の炎天下の徒歩に息絶え絶えです。つばの広い網目帽子と濡れタオル、ペットボトルのお茶を頼りに、とりあえず旧城下町と思われる地域をめぐることにしました。

 懐かしい趣の駅正面通り商店街を直進して左折、アオイ通りを経て、まずは地元の人に「ごりょうさん」と親しまれる御霊神社です。由緒書きに祭神は宇賀御霊大神、配神は日向守光秀とあり、さらに「宝永元年(1704年)朽木植昌候の代 光秀の霊を併せ祀り」とありました。光秀が没したのが天正10年(1582年)ですから122年経ってようやく"配神"として祀られたのですね。
 本殿を持つ境内は高くなった丘の上にありますが、そこに頼山陽の「本能寺」と題した漢詩の石碑があります。近年建てられたものと見受けましたが、それをどう読み解くか、私にはよくわかりません。ただ詩文中の「老いの坂 西に去れば備中の道 鞭を揚げて東を指せば天なお早し」は、岐路に立たされた明智光秀に迫ります。(偶然ですが、8月初めに藤沢周平著の「逆軍の旗」を読みました。この詩文との符合に驚きました)
 この境内に日本で唯一の堤防神社があり、境内から参道を下りた広場に、昭和28年9月25日の台風13号による洪水時の"浸水位20.69m"を示す表示塔がありました。写真ではその高さが実感できませんが、側に立って見上げると私の背丈の4倍近くありそうです。浸水位20.69mは尋常ではありません。おそらく周辺の木造民家の屋根を越える高さまで水がきたでしょう。福知山は古い時代から、すぐ側を流れる由良川の豊かな恵みを受けると同時に、その氾濫による大水害に苦しめられ、不撓不屈に生きてきた町です。
 それを示すように、この神社の近くに治水記念館があります。下柳町の旧街道(山陰道)に面した二階建て民家がそれです。残念ながら休館の札がかかっていて入れませんでした。(休館日が火曜日であることを確認していたのですが・・・)資料によると二階に避難用の船とそれを吊り下げる滑車などが展示されているそうで、水害時の人々の苦闘と知恵を見たかったのに残念無念です。
 江戸期、由良川の舟運は隆盛していたようです。その拠点であった下船渡口(げせんどくち)近くから由良川堤防を歩き、福知山城に向かいました。すぐに蛇が端御藪(じゃがはなおやぶ)=明智藪が見えます。
これは由良川に土師川が合流する地点に明智光秀が築いた堤防(高さ2.0m、長さ1.5km)で、写真のように立派に育ち残っています。
 福知山城は天正7年(1579年)ころに明智光秀によって築城され明治維新まで存在しました。明治6年廃城令により石垣と一部を残して失われたのですが、昭和に入り市民による「瓦一枚運
動」などもあり、昭和61年(1986年)に再建され現在に至っています。由良川に伸びる丘陵にある「平山城」で、こじんまりとしていますが、美しい城です。時間がなくて天守閣の中には入りませんでした。石垣は400年の歳月に耐えてきたもので、多くの五輪塔などの石造物が「転用石」として使用されているのが特徴だそうです。
 天守台の広場から、はるけく福知山市街地が見下ろせます。逆に言えば市街地から福知山城が仰ぎ見えます。満々と水を湛えた由良川は230年の間に40回以上も決壊を繰り返したと言い、そのたびに人々は不屈の心意気で町を復興しました。そんな人々に光秀が築城した福知山城はどう見えたのでしょう。「瓦一枚運動」に寄せる人々の思いが伝わってくるようです。
 夕方、福知山を後にしました。滞在は5時間弱。見られなかった所や。行けなかった所ばかりで心残りですが、次回の楽しみとします。
 帰りは大阪行き"丹波路快速"一本で楽ちん。暮れなずむ里山の家々を眺めながら無事帰ってきました。
 追記:山とスキー好きの友がこの拙文を読んで「福知山線路線模式図」を作ってくれました。ご覧ください。