12期の広場
2015年2月1日
2月、如月です。今年は元日から関西の都市部でも雪が積もりました。珍しいこと、それに冬将軍がさらに勢いを得たのか、凍える寒さが続き、老いの身に芯からこたえる今日この頃です。
我が家の庭の蝋梅(ろうばい)が黄色の花を咲かせはじめました。1cm位のそれが、朝露に光るさまは実に可憐。いまだ寒風に揺れる春一輪の風情です。
「冬きたりなば春遠からじ」
久しぶりにこの文章を新聞で読みました。なんだか大層懐かしい感じで、気分は高校時代です。ちぢこまった身体と心が一寸ほっこり、早速インターネットで出典検索。イギリスの詩人シェリー(1792~1822)の「西風に寄せる歌」の一節だそうです。漢文調で古めかしい格言のような言葉が英国生まれの詩文とは、とても不思議なこころ持ちで、それがいまや日本古来の諺のような扱いになっていることに興味すらわきます。では「西風に寄せる歌」の原文(勿論翻訳されたものですが)を探して読んでみるかとなるところですが、筆者は今年も相変わらずの「真面目グズ?」、今日のところは手短なパソコン検索止まりということで、ご容赦下さい。
さて「12期の広場」2月号のラインアップです。
先月号で少しふれていますが、川合兵治君(4組)がなくなられたことについて追悼の意を込めて山田正敏君(8組)が書いてくれました。また川合君が「12期の広場」に9回の連載で書いてくれた「川歩き」の最終回を再掲します。故人を偲んでお読みください。
次に石井孝和君(3組)が「思い出を綴る」を書いてくれました。今月号に掲載した第1回は中学時代の話で、懐かしい昭和の風が吹きわたっています。連載は長期、概ね8回程度になると思います。ご期待下さい。
- 「川合兵治君がなくなられました」 8組 山田 正敏
- 「第9回利根川 川歩き(平成23年5月9日~11日 )」 4組 川合 兵治
- 「思い出を綴る 」(1) 3組 石井 孝和
2015年2月1日
川合兵治が逝った。昨年の12月12日に届いた、彼の奥さんからの喪中のハガキによれば、その日は12月2日の事であるという。11月27日に、当初から入院していた柏市の国立癌センターから、近くの辻中病院に転院して、「無事転院しました。皆さんによろしく。」との短いメールを小生にくれてから5日目の事である。
彼が肺癌であると医者から宣告されたのは、平成25年の12月で、当時あまりにも咳きが止まらず、病院に行って診察してもらったところ、思いもかけず肺癌の宣告を受けた。その段階でステージ4であるという。彼がその事を小生に打ち明けてくれたのは、昨年(26年)の1月の終り頃だったか、彼からTELで久し振りにどうだとの誘いがあって、いつもの碁会所(柏市)で碁を打ち、その後、近くの居酒屋で一杯呑んだ時のことである。
そのときの話で、医者いわく、検査の結果、この癌は、手術および放射線治療は出来ず、抗癌剤投与による延命治療しかないとの事。そこで彼が憤慨するのは 『今まで毎年健康診断を受けてきて、何の問題も無かったのに、今頃、 何故だ、なんなんだ 、それも末期に近いステージ4とは』という事であった。 それでも、彼は別れ際に、抗癌剤による治療でなんとか「川歩きに復帰してみせる」と言い切ったのではある。精神的には強い男であることを改めて感じた。
しかし小生は全身の力が抜け、どう慰めたらいいのか判らず、ただ、出来るだけ頻繁に病状報告を願いたい旨、彼に告げ、別れたのである。
その後は、20日~30日の間隔で抗癌剤投与よる治療を通院で続けていたようであるが、7回目はさすがに辛くて入院して点滴をおこなったようである。8月6日、小生からTELしたときの彼の話では、病状は大分好転しているように医師から言われているように感じられた。ただ、電話口での彼の言葉が聞き取りにくく、二度も三度も聞き直す始末で、彼に気の毒になり、早々に電話を置いたのである。
彼からは見舞いになど来る必要は無いとは言われていたが、10月27日思い切って国立癌センターに見舞いに行った。すでに、緩和ケア病棟に入っていたが、思いのほか元気そうで、早速看護師さんに連絡し碁盤と碁石を調達。一局手合わせ。15分足らずで終局。その後5分程椅子に座って話をしていたが、疲れたから横にならしてくれと彼はベッドにもぐり込む。それが体力の限界だったのだろう。「今後は近いうちに辻中病院緩和ケアセンターに転院し、そこで最後まで緩和ケアを続ける。川歩きのメンバーにはくれぐれもよろしく伝えてくれ。見舞いは無用。」との言葉を聞き、小生、後ろ髪を引かれる思いで病院を失礼した。
早速、11月8日、川歩きメンバー5人に報告。今後我々として出来る事について相談。最終ケアについて、泉が関係するNPO法人による、自宅療養や緩和ケア組織を紹介し、少しでも彼の精神的にも肉体的にもより良いケアが出来ればと考え、彼の奥方を通じ彼に連絡。
11月13日付けの彼からの返事によれば、我々の申し出に対し、自宅療養は、奥方が体調不安定である事や、自分自身がもはや、ほとんど満足に動けないことで全く考えていない。又、辻中病院 転院についても、自宅から比較的に近い事で、彼なりに奥方や子息達のことを考慮し、自分で決めたようである。
そして、我々仲間に対し、自分の我がままを伝え、お詫びして欲しいと、結んであった。
小生が彼と親しく付き合う様になったのは、20年程前からである。熟考の上決めた事は、絶対に曲げないというすこぶる頑固な男であったが、初志貫徹、最後まで自分の気持ちを貫いたに違いない。
昨年は、2月に松阪の「凡さん」(村木雅章)に続き、12月に川合兵治まで失った。そういう年代に今、我々は生きていると云うことを 謙虚に、肝に銘じなければなるまい。
2015年2月1日

4組 川合 兵治
バンザーイ!!
平成19年10月31日に河口の銚子をスタートしたこの利根川歩きも、足掛け4年の歳月を経ていよいよ(当面の最終目的地)八木沢ダムに向かう日が来た。(当面の最終目的地)というのは、八木沢ダムに堰き止められた神秘的なムードが漂う「奥利根湖」の先にあるといわれている利根川源流までの残り約20キロの行程はボートを必要とし、沢登り、岩登りありの道なき道を行くことになり、古希を迎えた体には冒険が過ぎるということで断念した次第である。また日を改めて、別ルートで源流を確認する案も出ているが、「利根川歩き」としてはこれが最終回となる。
また今回は、3月11日に発生した東日本大震災被災状況も配慮し、予定を延期する意見も出たが、「だからこそ元気を示そう」ということで川歩きは決行することにしたが、当初計画していた12期全体の希望者を募っての湯檜曽温泉での大打ち上げ会は取りやめとした。

1日目 台風1号がフィリピンはルソン島近辺で発生し、その影響が危惧される中、全員5時起床で元気いっぱいJR水上駅に午前9:20集合。そこから水上高原スキー場、藤原スキー場、宝台樹スキー場などのある奥利根スキー場群の入り口「大穴スキー場」近くの前回最終地点、大穴変電所前(河口から約259キロ)までバスで移動、側のコンビニで昼飯の弁当などを調達し、10時にスタート。熊が出る可能性があるということで、西條は用意してきた小さなカウベル、川合は道端に置き忘れられていた熊除けの鈴を鳴らしながら、榎本は呼びこの笛を時々吹きながら、平均勾配約7度のバス道を歩く。この日は心配した台風1号の影響は全くなくピーカン。標高600メートル前後あるこの行程の5月は、鮮やかな新緑と満開のさくら、さらには八木沢ダム途上にある奥利根三湖のうち二つ、藤原ダムの藤原湖と須田貝ダムの胴元湖にゆったりと貯えられた水のエメラルドグリーンに彩られ、所々で利根川の清流に接することができ快適そのものであった。
お蔭で大過なく(期待していた?熊に出会うこともなく)午後2時過ぎには一日目の宿「民宿やぐら」に到着。早速民宿の露天風呂を満喫。夜は近辺で獲れたという月の輪熊のクマ鍋で精をつけ、山菜料理を愉しむ(普段でも、民宿の直ぐ近辺まで熊や野ざるがエサを獲りに出没し、奥利根名物?のマムシも徘徊し、地元の人は今でもサル以外は折りにふれて食べるという)。
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2015年2月1日
私は現在NHK大津放送局に週2日勤めている。仕事はテレビの午後6時10分から始まるローカルニュースの制作。具体的にいえば、ニュースを取材した記者が送ってきた原稿をデスクが手を加えたものをテレビで放送するために、新聞でいえば「見出し」にあたる「タイトル」や映像の撮影場所、日時のほか、ニュースの内容やインタビューなどを簡潔に文字で表記するための作業をしている。
これまでの人生を少し逆上って思い返すと”放送”になんらか縁があるようだ。小学校6年の時、夏休みを迎える直前のある日のこと。小学校の教室に幾つもの大きな機械が持ち込まれた。機械とは録音機とか集音機のことで、”子ども会議”の模様を収録に訪れたのだった。やって来たのは当時、大阪梅田の阪急百貨店の屋上にあった新日本放送であった。
マイクロフォンを柱のように立てたり机の上に置いたり、収録準備をしていた。そして機械の調整を終わって、耳にレシーバーを付けた人が、”議長”の私に指を差して「議会を始め」の合図「Q」を出した。
多分、顔は強張り、緊張しながら開会を宣言して議事がスムーズに進行したように思えた。この日の議題は「近づく夏休み」だった。各議員からは「夏休みになったら学校の北部を流れる淀川には危険なので近づかないようにしよう」とか、「家では親のお手伝いをしよう」など、”優等生”のような意見が積極的に提案され、すべて全員一致で可決され、収録は約1時間で終了。やり直しはされなかった。
収録後、放送局の人が「放送は今収録した会議の様子を20分ぐらいに編集して、次の日曜日に流します」と告げて引き揚げていった。
日曜日の朝、私は自宅のラジオの前に立ち刻一刻と迫る「放送」に緊張して待ち構えた。いよいよ放送開始。
アナウンサーが「今日は大阪市立浦江小学校の子ども議会の様子を・・・」と紹介したのに続いて、私の声が電波に乗って初めてラジオから流れた。その声は・・・・・
「ただいまからぎだいをはじめます。」と言ったのだった。私は肝が飛び出すほどびっくりした。”議会を始める”と当日言ったつもりが、あがっていて”議題を始める”になってしまった。幸い傍には誰もおらず、瞬間は胸をなでおろしたものの、”放送”なので誰かが気づいているだろうと思い、とてもはずかしい気持ちになったことを今も覚えている。
中学2年生の頃、生徒会の顧問をされていた美術の担当でフランスの印象派の画家セザンヌの影響を受けたという奥田先生に「大淀中学校にも放送設備があればいいですね」と話したところ、その後、何か月かして先生が職員会議に計られた結果、”学校放送”の実現を生み、機材が導入されるに至った。先生の指導を受けて生徒会の役員が交代で昼休みの時間に、校内に音楽を流したり、生徒の呼び出しをしたり一生懸命設備を活用した。当時音楽はLPレコードをターンテーブルに乗せてかけていたが、私は数枚のレコードの中で「ペルシャの市場」が大好きで、当番に当たると何度もこの曲をかけた思い出がある。また学校では、各教室の黒板の上辺りに四角い箱形のスピーカーが設置され、国語の時間だったか、生徒全員が席に着き、スピーカーから流れ出るNHK第一放送の「次郎物語」に聞き入っていた。
余談になるが、この年、奥田先生が私ともう一人の友人と一緒に大阪梅田の御堂筋にあった映画館「梅田シネマ」に招待してくださったことがある。上映していたのは55年米・伊合作の”トロイのヘレン”、一人の女性をめぐってギリシャとトロイが10年も争うという物語のシネマスコープ。この映画に出演していた美しい女優、ロッサナ・ポデスタのにわかファンになったことと”映像”に対する興味を持つきっかけにもなったと思っている。
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