お知らせ
0年
2023年7月1日
巻頭コラム
稲盛さんとの思い出
8組 榎本 進明
京セラの名誉会長である稲盛和夫氏が昨年(2022年)8月24日、90才でお亡くなりになりました。この報に接したときは、あまりの驚きで一瞬頭の中が真っ白になり、それからいろんなことが思い出として浮かんできました。お別れの会は京都・11月28日、東京・12月6日でした。
稲盛さんは本当に気さくな方で、かたくるしいことが嫌いな人でしたので、退職後の2003年からは“稲盛さん”とお呼びしていました。もちろん現役のころは役職でお呼びしていたのは言うまでもありません。
当初は「社長」でしたが、‘84年から会長兼社長→会長→名誉会長→最高顧問(KDDI)の時に筆者は退職しました。その後は、2010年JALの再建を頼まれて無給で会長を引き受けられて2年後に黒字化・再上場に回復させました。その後JALでは取締役名誉会長→名誉会長→2015年からは名誉顧問としてJALも見続けていました。
稲盛さんの経歴等は、亡くなられたあと、日経ビジネスや日経トップリーダー、新聞等で多数の記事が出ていますので、ここでは筆者との出来事だけを記したいと思います。
筆者が初めてお目にかかったのが1983年(昭和58年)4月でした。当時、筆者はヤシカというカメラメーカーにいました。当時のヤシカは1974年(昭和49年)倒産の危機にあり、大合理化を行いました。5年間、昇給無し、ボーナス無し、の条件で残った社員が懸命に励み、結果が上向き10年目を迎えていました。
そんな時(筆者は知らなかったですが)4月に合併の話が出たようで稲盛さんがマル秘でヤシカに来られました。昼間に工場を見て、夜には一部の従業員とのコンパがあり、初めて稲盛さんにお会いしました。結果、5月に合併の調印がなされました。
同年10月にはヤシカ事業本部が出来て、筆者も東京の旧ヤシカ本社(合併後の原宿事業所)に異動しました。筆者がヤシカ時代から培っていた仕事は、偶然にも京セラの会計システム、アメーバ方式にぴったりと合致していたので、なんの抵抗もなくすぐになじめました。
また、1984年(S59)電気通信事業法が施行されたときには、日本の電話を安くするという稲盛さんの「世のため、人のため」という信条・理念と重なり、数社の経営者と話し合って、稲盛さんがリーダーシップをとって参加することになりました。出資者を募り25社で第二電電企画会社を立ち上げ、新規参入に名乗りをあげました。社員20名の内19名が京セラからの出向者でした。さらに、同年末までに出資者を募った結果200社が応じ、合計225社で船出させました。
稲盛さんの日頃から言われている「動機善なりや、私心なかりしか」を幾度も自分自身の胸に問い確かめた結果でした。翌1985(S60)年6月21日に正式許可が下り、第二電電(DDI)が発足したのです。インフラを持たないDDIは他の2社(JR系の日本テレコム、道路公団系の日本高速通信)に比べ、一番不利でした。
それから土地の買収や、通信ルートと施設の建設があり、専用線のサービスは1986年10月に、市外電話サービスは、1987年(S62)9月4日に東京~大阪間が開通しました。
筆者は東北ルートが開通する1989年(平成元年)4月にDDIに出向しました。(1年後にはDDIに転籍した)仙台に当日着任したばかりの筆者に与えられた仕事は、稲盛会長が宿泊されている帝国ホテルに社用車のライトバンでお迎えに上がることでした。他の社員は開通作業と式典で手一杯でした。
式典後、数日で青森営業所の立ち上げで青森に飛び、営業所の入るビルとの契約、電話や机、事務機の手配、住居探しと契約、アルバイトの面接、等々全てゼロからのスタートを切りました。東北ルートのサービスは未だ仙台までなので、青森での営業は、予約を取ることが仕事でした。この時も日頃お聞きしていた「起業精神」のお話が生きました。そして、7月27日に青森もサービスが開通しました。8月には、はじめてみる青森ねぶた祭がはじまりました。子どもねぶたをつくり、引張っていただきました。
青森に来て1年後の1990年6月に、DDIは全国サービス網が完成し、創立5周年を迎えました。記念式典は幕張メッセで行われ全国から社員が集まりました。
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遠来組は翌日ディズニ―ランドを楽しむ時間もありました。
その後、つくば・仙台と転勤して1995年(H7)10月に本社(半蔵門)に着任。仕事は営業ではなく資材部という購入部門でした。稲盛さんとは、記念式典以降は一度もお会いしていませんが、本社では数回お会いしました。エレベータ内や、たまに呼ばれることもありましたが、仕事の話だけでした。
その中で、幾多の取引先の社長が、DDI社長を訪問されることがあります。ご挨拶に来られるのですが、内容が自社の製品を使ってほしいという話題になれば、必ず社長室に呼ばれました。「私には物を買う権限はないので、資材部長を紹介します」と言って紹介されました。稲盛イズムは全ての役員にもいきわたっていました。
また、ある時相談事があり会長室に電話をしたら、今、エレベータに乗られたところです。と言われたので、1階で待って歩きながら説明しようとしたところ、今から関連会社7社の社長会があるので忙しくて無理だということで諦めました。
すると、秘書がお見送りしたあと自席に来られて「重要な話だったと思うのでよく聞いておくように」と言われたそうです。内容を簡潔に伝えると、翌日に秘書が見えられて「その通りやるように」とのことで、重要な案件が滞りなく解決することが出来ました。
盛和塾の話も筆者には欠かせない体験です。中小の商店主や若い経営者が学びに来る塾です。稲盛さんが起業したのは1959年(S34)で27歳の時でした。その時の苦しい体験や、その後の発展体験談を聞きたいと生まれたのが盛和塾です。2019年(R1)に閉塾するまで国内568ヵ所、海外48ヵ所、塾生15,000名にまでになりました。
経営に悩み、他の幾多の講習会に参加されても成果が上がらないある経営者が「やることはわかっていて、それを全てやってもうまくいかない」と問えば、稲盛塾長は「誰が、何をやるかです」と諭され、その経営者は「そうか、自分が問題なのだ」とわかり、数年後に上場も出来ました。
筆者が仙台に勤務していた時に、笹かまぼこの会社の社長さんが塾生でした。年末や夏休みの頃は旅行者も多く、アルバイトを200名ほど雇っていました。ところが塾で教わった京セラのアメーバ方式にした結果、ビックリした結果が出たそうです。いつものように各セクションに「必要なアルバイトの人数」を求めたところ、結果はゼロ人でした。と嬉しそうな顔をして筆者に話してくれました。
また、いろんな質問等受けましたが、まるで金太郎あめのようにどこを聞かれても答えは同じだったそうで、これも驚かれていました。もちろんDDI回線を使ってくれていました。そして、退職後のOB会です。名称は「敬愛会」です。写真は2005年(H17)6月5日ホテルラフォーレ東京での敬愛会総会の一コマです。毎年各地で地区総会があるのですが、全国総会は持ち回りで行われます。当時、京セラでは稲盛名誉会長ですがKDDIでは
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退職後久しぶりに仙台見物に行った時、共に6組の佐藤裕久君(左)、籠谷登志夫君(右)の3人で仙台駅前のホテルで会食した懐かしい一コマです。
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稲盛さんは、「戦友」という軍歌が好きでした。筆者も旧満州生まれで、祖母に教えてもらってよく歌っていました。40年前初めてお会いした時のコンパの席上で、会長が歌われたのを一緒になって歌ったことを思いだして、お別れの会では心の中で歌って拝礼いたしました。いい思い出の写真を大事にして今後も生きたいと思います。
今頃は、先に逝かれた懐かしい人たちと会って、楽しくコンパをされていると思います。
本当にお世話になりました。人生の師と仰ぐ方に出会えて幸せでした。
2023年7月1日
掲示板
山本(カナダ在住)さんの歓迎食事会がありました
7組 張 志朗
5月17日午後6時半から、山本久美子(旧姓 古荘)さんを囲んでの食事会がありました。ご存知の通り、山本さんはカナダのトロント在住です。毎年、日本に帰国し市岡の同窓生との再会を楽しんでこられていましたが、コロナ禍のため、今回は3年ぶりの里帰りです。一時の勢いはなくなったようですが、“ウイズコロナ”ということで、従前の食事会のメンバーを中心に集まり、大阪駅前の「新喜楽」で和食を楽しみました。
参加者は酒井八郎君、末廣訂君、上山憲一君、川村浩一君、川副研治君、田端建機君、塩野憲次君、張志朗、古藤知代子さん、段中文子さん、木本みつるさん、柏木赫子さんが集まり、山本さんを含めて13人です。
山本さんは、4月初旬に来日し、恒例の日本旅行を今回は、北海道にしたそうです。どうでしたかと聞いたところ、札幌の大都会ぶりには少しがっかりしたそうです。でもそうして雄大な北海道の旅を楽しめるのですから、足の具合が万全でないにしても、体力と気力ともに充実していると拝察しました。トロントでも長年勤めていたカレッジでの日本語教授の職を、コロナ禍でリモート授業になったのを期に辞し、今はフルタイム自由にすごしているそうです。3年ぶりの再会でしたが、お元気で若返られたような印象でした。
歓迎食事会は再会と健康を喜ぶ雰囲気一杯です。乾杯を二度しました。まずは末廣君の音頭で一回目、仕事を終え少し遅れて駆け付けた酒井君の音頭で二回目です。81歳を越えましたが、皆さん元気一杯で、酒食がすすみます。加齢による一寸したボケや体の不具合、トンチンカンなエピソードなどは、ご愛嬌で盛り上がり、二時間半余の宴はあっと言うまでした。そのひとつを紹介すると、一番早く来たのが段中さん。次に来た田端君が、マスクをした段中さんの横に座りながら、“失礼ですが、ここよろしいでしょうか”と丁寧に挨拶。どこかの“令夫人”と勘違いしたそうで、皆さん笑い転げました。何より、こうして元気で楽しく会えることのうれしさ、大切さを実感したひと時でした。
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会食後、来年の再会を約束して別れました。皆さん握手をしたり、ハグをしたりでなごりがつきません。加速する加齢を考えると、更なる思いが募りました。
5月末、山本さんは無事に離日したそうです。
2023年7月1日
ひろばリバイバル
今号は平成23年7月1日号に掲載された八島平玐君の「ヒマラヤトレッキング」です。「12期の広場」の特徴に、海外への旅行レポートが多く投稿されたことがあり、いずれも好評でした。この「ヒマラヤトレッキング」には掲載後、高知県在住の金本美智子さんから「凄い興味をもって見させていただきました。美しい写真とともに詳しく解説しておられ、わくわくしました。」とのコメントが送られてきました。
ネパールのトレッキングについて、再度まとめてみましたので、ご覧下さい。ネパールは友人のS君が良く知っており、彼を含め3人で出かけました。コースの目的地は、パンチポカリ(5つの池の意味)というヒンズー教の聖地を目指したものでカトマンズの北東部にあたります。
コースは巡礼の道とのことで、途中にロッジはなく総てキャンプとなり、そのため、テント、食糧、我々の荷物を運ぶのにガイド、コック、ポーターの計10名、合せて13名の大編成となり記録映画に出てくるような山行を楽しみました。(登りはポーターを更に1人雇いました)
カトマンズから小型バスで6時間位かけてチョウタラ、更に、シャウレ村へ入り、この村のひえの段々畑が初日のキャンプ地でした。丁度、テハール祭の時期で村にはタルチョ(色とりどりの祈祷旗)が飾られ、途中の昼食を摂った食堂では、犬がマーガレットで作った花の首飾りをかけて貰っていました。テハール祭は光の祭りであり、収穫祭とのことで、山に入る前日のカトマンズの青空市場は、大いに賑わっていました。
キャンプでは、朝6時頃に、まずモーニングコーヒがテント毎(我々は1人1張りづつ)に配られ、その後、お湯を洗面器に入れて持ってきてくれ顔を洗い食事となります。朝食はスープ、パンケーキ(蜂蜜orジャムを付けて食べる)、卵料理で、結構おいしいものでした(我々に合うように味付けされている)。最後にお粥が出ます。お粥は、味が付いていないので持参した梅干し、ふりかけ、塩昆布で食べるといった食事でした。食事後、水筒にお湯を入れてもらいこの湯冷ましを飲み水としました。そして、テントを畳み、後片付けをして出発となります。
山に入った最初の村と、最後の村では鶏を買ってきてくれ捌いてご馳走してくれましたし、山から下りた村では山羊を買ってきてジンギスカンやハンバーグとして出してくれました。また、毎日食後にりんごが付きました。りんごは、小さく、味は上高地で見られるものより更に素朴でした。
(さらに…)
― HP委員 記 ―
ヒマラヤトレッキング
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| 八島 平玐(3年8組) |
コースは巡礼の道とのことで、途中にロッジはなく総てキャンプとなり、そのため、テント、食糧、我々の荷物を運ぶのにガイド、コック、ポーターの計10名、合せて13名の大編成となり記録映画に出てくるような山行を楽しみました。(登りはポーターを更に1人雇いました)
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キャンプでは、朝6時頃に、まずモーニングコーヒがテント毎(我々は1人1張りづつ)に配られ、その後、お湯を洗面器に入れて持ってきてくれ顔を洗い食事となります。朝食はスープ、パンケーキ(蜂蜜orジャムを付けて食べる)、卵料理で、結構おいしいものでした(我々に合うように味付けされている)。最後にお粥が出ます。お粥は、味が付いていないので持参した梅干し、ふりかけ、塩昆布で食べるといった食事でした。食事後、水筒にお湯を入れてもらいこの湯冷ましを飲み水としました。そして、テントを畳み、後片付けをして出発となります。
山に入った最初の村と、最後の村では鶏を買ってきてくれ捌いてご馳走してくれましたし、山から下りた村では山羊を買ってきてジンギスカンやハンバーグとして出してくれました。また、毎日食後にりんごが付きました。りんごは、小さく、味は上高地で見られるものより更に素朴でした。(さらに…)
2023年4月1日
「12期の広場」2023春号のラインアップ

写真は満開の桜の木とそれにとまったカワセミです。先日8組の榎本進明君が撮影し、送ってくれました。美しく、珍しい写真。待ちに待った春到来を実感しますね。
今号のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
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巻頭コラム
・「英語ニュース拾い読み」 8組 萩原 貞雄 -
掲示板
・「市岡高校OB・OG写真展に行ってきました」
・「市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド第13回定期演奏」7組 張 志朗
7組 張 志朗 -
“ひろばリバイバル”
・「私、今、ヨルダンのアカバです」(平成23年9月15日号) 5組 段中 文子
以 上
2023年4月1日
巻頭コラム
英語ニュース拾い読み
8組 萩原 貞雄
1960年に卒業して以来63年経ちました。1988年までの28年間の昭和の時代は、戦後の復興期であり経済成長も著しかった。その後現在に至るまで経済的には伸び悩んでいるが、それまでの成果としてインフラの整備が進み、医療や年金などの社会保障制度が充実し、寿命も延び、何よりも戦争がない良い時代を生きることができました。一方では少子高齢化と人口減少、温暖化対策としての脱炭素社会への要請、紛争による世界の分断などこれまでになかった難題が生じています。
僕は高校の時、英語は渡辺先生に教わりました。授業中もサングラスをかけておられ、ギャングと呼ばれていました。今振り返るとその頃の英語の勉強が、随分役に立ちました。仕事が海外のプラントの建設でしたので、長年英語で仕事をしてきました。仕事の合間にISO -国際標準化機構の規格作りの為に日本代表として、ヨーロッパやアメリカでの会議に何回か出席しました。最近まで機械製品の英文取説を作っていました。
定年後、時間が十分あるのでTIMEやThe Economist の週刊誌、The New York Times電子版等、英語のニュースを見るようになりました。また同好の集まりである「タイム購読会」という会に参加させて貰って10年になります。この会は数名が持ち回りで、アメリカのTIME誌を中心に事前に好きな記事を選び、週一回、東京都多摩市にあるコミュニティ館で購読会を開いています。メンバーの一人のお父さんは旧制市岡中学の、弟さんは市岡高校の卒業です。まったくの偶然です。この会で読んだ記事や、個人的に読んだ記事の中から、2022年から2023年に掲載された記事を幾つかを紹介します。記事の内容とそれに対し僕の主観も入っています。
The Economist 2022年12月17日 “First-world problems”
西側先進国は1980年代や1990年代は規制緩和、移民受け入れ等の経済成長を目指す政策をとっていた。現在は成長よりも福祉、年金、医療保険の充実を目指す国が多い。人口の高齢化による労働者の減少への対策、年金や福祉への支出、コロナ禍への対策や戦争の影響によるインフレへの対策、競争力のない産業の救済等に政府の支出が増大。投資が少なく、現状維持の政策をとっている。上記以外に防衛、温室効果ガスの費用が増大している。
TIME 2023年2月13日 “What falling birth rates reveal about China’s future”
中国政府は人口が2022年に過去60年間で、初めて減少に転じたことを発表。社会保障制度の再検討を迫られている。四川省を始め幾つかの省では婚外子の登録も認め社会保障を受けられるようにした。
The Economist 2022年11月5 日 “Open wide your gates”
日本と韓国は人口減少の為、今後労働者が不足する。積極的に移民を導入する必要がある。国民は移民を受け入れることを認めているが政府は積極的でない。また通貨安、制度不備、言葉の問題が障害となっており、移民の数は増えていない。
The Economist 2023年1月14日 “The age of the grandma”
人口の減少、増加の程度は各国で差が大きい。でもどの国も寿命が延びており、老人の比率が高くなり「おばあちゃんの時代」となっている。おばあちゃんが両親に代わって孫の面倒を見ている家庭が、世界中で増えている。家庭をおばあちゃんが預かり、母親も働きに出ている。おばあちゃんが子育て支援の担い手となり、人口減少の歯止めに一役買っている。
TIME 2022年5月23/30日 “A Polar Paradox”
北極海の氷が融けて都合の良いこともある。ロシアは砕氷船を水先案内に使って、北極海を通る船から通行料を取ることも可能。アラスカのノームでは港を拡張してクルーズ船を寄港させ観光地にする計画だ。
TIME 2023年1月30日/2月6日 “India’s path”
インドの人口は世界の17.7%を占める。でも現在、温室効果ガスは世界の7%しか出していない。過去、ガスを放出してきたのは先進国だ。インドは発電の燃料は60%以上石炭だ。再生可能エネルギーにも力を入れているが、社会が石炭産業に依存しており、経済性からも石炭をやめるのは簡単ではない。
The Economist 2022年11月26日 “Hot tempers”
2022年11月エジプトで開かれたCOP27(国連の気候変動に関する会議)は、お題目を唱えるだけの会議に終始した。気候変動による損失や損害(例えば洪水による被害など)を発展途上国が被った場合、先進国が援助するとともに、IMFや世銀が融資する必要性が同意された。具体案は次回の会議に持ち越しとなった。
The Economist 2022年1月29日 “Place your bets”
侵攻一か月前の記事。ロシアは2014年に併合したクリミアや、東部ウクライナに居住するロシア系住民を守るという口実とするだろう。ウクライナを分断してNATOとの緩衝地帯を設ける。その為、ベラルーシにロシア軍を駐在させ、ウクライナを北、東、南から侵攻する。冬季オリンピックが終了する2月20日から雪解け時の間に行われることを示唆(実際は2月24日に侵攻を開始した)。
The Economist 2022年10月29日 “Adieu, laissez-faire”
上記下線部のフランス語の意味「さようなら 自由放任主義」。アメリカは企業や個人の経済活動に干渉せず、市場の働きに任せるという従来の政策から、国が指導する政策に転換している。国の政策として特定の分野への税制優遇、補助金などの保護を行い、自国優先に傾いている。
TIME 2023年2月13日/2月20日 “Sleepwalking into a less secure future”
記事中のIMF(国際通貨基金)専務理事であるクリスタリナ・ゲオルギエバさんの言葉を引用する。「ここ数年、世界中で内向きの政策と貿易の緊張が高まっている。今、地政学的な分断は、新しい冷たい戦争という幽霊を招いている。冷たい戦争になると生産性が犠牲となり、多くのお金を失うことになる」
TIME 2022年4月25日/5月2日 “Mr. Everything”
大谷翔平選手がタイム誌の表紙を飾った。彼のピッチャーとバッターの二刀流としての話題性、選手としての能力、成績が詳しく書かれている。一塁へフォアボールで向かう時、ボールボーイに丁寧にバットを手渡し、またグランドのゴミを拾う等、彼の明るさ、人を思いやる気持ち、野球への情熱が紹介されている。野球を盛り上げる救世主といった最高の誉め言葉が使われている。英語ニュースを読んで最近思うこと
2022年の日本の出生者数は、80万人以下で一時の半分程度です。人口が少なくなることは、必ずしも悪いわけではありませんが、鎖国をしていた江戸時代の3000万人というわけにはいきません。ある程度の人口を維持する為には、食料やエネルギー源など必要な資源は輸入に頼らざるを得ません。また地球温暖化による水害などの災害以上に、もともと地震、台風、火山など自然災害のリスクが高い国土です。地形的にも再生可能エネルギーに大きく転換するのも難しい。
この様に、基本的なコストが高い日本を維持する為には交易で稼ぐしかない。世界が分断化の方向に向かっているが、他国と協調関係を保ち、モノやカネが自由に行き来できる環境が常に必要です。これまで日本及び日本人は世界から比較的好感度で見られていました。できるだけ世界に貢献しながらどの国とも、共存共栄で行くことを願っています。
2023年4月1日
掲示板
市岡高校OB・OG写真展に行ってきました。
7組 張 志朗
市岡高校OB・OG写真展が、2月16日から21日まで南森町のMAGアートギャラリで開かれたのですが、17日に同窓生を誘って行ってきました。この日は晴天、おまけに真冬とは思えない暖かさです。12期同窓生は、古藤知代子さん、松田修蔵君、上野裕通君、田端建機君、川村浩一君、塩野憲次君、末廣訂君、八島平玐君そして私(張志朗)の計9名が参加しました。「コロナの流行で長~い活動休止を終え、久しぶりに作品展を行います。長いブランクにも腕はなまらず、口はさらに磨きがかかり、新しいメンバーを迎えての展示です。」と案内状にありました。その嬉しさと意気込みに溢れ、久しぶりの再会を喜ぶ和気藹々の写真展です。
作品出展者は14名、一人二作品で、展示写真総数は28点です。
勿論共に12期で学んだ高見政博君の作品も出展されていました。高見君の作品は「蝶と花」(撮影地:奈良 法起寺界隈)と「墨絵 桜」(奈良 天理ダム)です。添付写真をご 覧ください。
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蝶に合わせたピントはばっちり、滲むよう花との取り合わせが絶妙です。ダム湖の水面に写る桜を「薄墨」と切り取ったのも私好みでうれしくなりました。
今回もそうですが、皆さんの写真に掛ける想いと美的感覚は衰えを知りませんね。また撮影地も北は北海道の美瑛から南は鹿児島の指宿まで全国各地に及び、季節も厳冬期から春爛漫と春夏秋冬の四季折々です。テーマーも「初恋」と題した桜から「深海人」と題したコラージュまで実に多様です。出展者の内、大先輩は高校7期の山田美代子さんです。大ベテランで今回も若々しい感性と巧みな美的構成力、表現技術あふれる作品に驚かされました。
作品全体からコロナ禍による行動制限や閉塞感を乗り越える解放感と喜びが感じられ、嬉しくなりました。一緒に行った皆さんも熱心に鑑賞し、当番の出展者に質問し、気に入った作品について語りあっていました。
作品展鑑賞の後、9人の同窓生で大阪天満宮の梅まつりを見学しました。天満宮は梅の名所ですが、開花はこれからと言った所でした。その後、昼食をとり、お茶しました。
皆さんお元気で、久しぶりの再会。お喋りを沢山しました。みなは書けませんが、福島区歴史研究会の会長の末廣君が落語家の桂文枝師匠と会ってお話をしたそうで、新作落語を作るにあたって福島の歴史やエピソードを聞きたいとのことだったそうです。あらためて詳しく聞いてみたいと思っています。私個人的にも久しぶりの大阪市内歩きでした。コロナ禍と加齢による“引きこもり”が日常でしたが、やはり外出は大切ですね。人に触れ、ものに触れ、都市とその空気に触れると新しい刺激と元気が出るようです。
市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド第13回定期演奏会
2月26日、大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンドの13回定期演奏会が阿倍野区民センター大ホールで開催されました。新型コロナウイルス感染症拡大防止対策に留意しての3年ぶりの開催で、開演は午後2時からです。
案内のハガキを貰い、古藤千代子さんを誘って行ってきました。
会場に着くまではコロナ禍の影響を考えて、さてどのくらいの人がおいでになるのか、少し心配していましたが、定員644名の会場はほぼ満席、大盛況でした。ほとんどが市岡にゆかりのある方だと思いますが、高齢者から幼子まで幅広い方々です。
プログラムは二部に分かれており、第一部はオリジナルステージ、第二部はポップステージ~市岡OBプレゼンツ☆紅白歌合戦~となっていました。

第一部は「南風のマーチ」(作曲:渡口公康)の軽快でさわやかなメロディから始まりました。赤塚弘一さん(高校42期)の指揮による総勢60名の大バンドです。舞台一杯に広がり演奏する姿は、それだけで大迫力。さらにみがかれたハーモニーに圧倒され大感激です。何よりバンドの皆さんのこの日にかける意気込みや喜びが演奏を通して直に伝わります。
演奏は「さくらのうた」(作曲:福田洋介)、「シンフォニック・マンボ No5」(編曲:宮川彬良)、「ロマネスク」(作曲:J.スウェアリンジェン)、「その時見た夢」(作曲:清水大輔)と続き、第一部が終わりました。
休憩をはさんで第二部です。~市岡OBプレゼンツ~の名の通り、楽しさ一杯のプログラムです。「恋愛レボリューション21(モーニング娘)」(作曲:つんく 編曲:小島里美)、「ヒットメドレー(SMAP)」(編曲:金山徹)、「夜桜お七」(作曲:三木たかし 編曲:小島里美)、「Everything(MISIA)」(作曲:松本俊明 編曲:小島里美)、{Tribute to GO HIROMI(郷ひろみ)}(編曲:福田洋介)の5曲です。
よく耳にするメロディでアップテンポに手拍子が起こり、や気持ちが浮き立ちます。前の方の座席で曲に併せて“指揮”するごとく手を振る人や、調子を合わせダンスする幼子など盛り上がりは最高でした。
会場で松田修蔵君にバッタリお会いました。公演後のメールに「家内と聴きに来ていました。OBバンドは楽しかったです。満員でびっくりしました」とありました。松田君のお孫さんが市岡高校で吹奏楽部員だそうです。
個人的に残念だったのは、18期のトロンボーン高橋正憲さんの姿が舞台になかったことです。今回は所用で不参加ですが、活動は続けているとお聞きしました。次回は是非、その雄姿を舞台で拝見したいものです。
2023年4月1日
ひろばリバイバル
私、今、ヨルダンのアカバです
5組 段中 文子
12期の皆様、毎日いかがお過ごしですか
乗船前は「100日もの長旅なんて」と皆に言われたのに、レストランで同席したりして知り合った人の話を聞いているとリピ-タ-が多くて、「飛鳥」やその他の船に乗ったという人がいっぱいいるのには驚いてしまいました。
年輩者も本当にお元気で積極的なので、この調子ならまだ当分私も大丈夫かなと安心したりしています。
(さらに…)2023年1月1日
「12期の広場」2023新春号のラインアップ

明けましておめでとうございます。今年も「12期の広場」を宜しくお願い申し上げます。
「12期の広場」の内容を簡略化して初めての新春号です。上の年賀状は松田修蔵君(6組)が描いてくれました。暖かく嬉しい絵手紙です。また「巻頭コラム」として上野裕通君が「新年を迎えて」を書いてくれています。その中にあるように、たしかに幼い頃、お正月の男の子は、高下駄と黒足袋が多かったようです。弟と撮った写真がでてきました。晴れ着は黒足袋に高下駄の黒い学生服姿。小学校1年生の弟は長すぎる袖と裾を折り返し、そこだけが裏地の白の輪っかがはまったようになっていて笑えます。貧しい時代でしたが、キラキラとまぶしい正月写真です。
あれから70余年、また新しい年がスタートするのですね。新春を寿ぎ、新年に思いをはせるのが、ならいでしょうが、どうも「めでたさも中くらゐなりおらが春」(小林一茶)が正直なところで、「新年の計」にいたっては心もとないかぎりです。
とは言え、ささやかな迎春準備を終えてのお正月の設えや、家族そろっての正月膳と賀詞交換はやはり嬉しくもあり、目出度くもあります。ややこしく不安ばかりの世情とつのる老いに向き合いながら、月並みですが、気持ちあらたに健康に、この1年を過ごせればと願っています。
同窓生の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申しあげます。
昨年の12月に同窓生のご家族から喪中はがきが届きました。1組の上原(大川)澄子さん、4組の藤田勝利君、6組の佐藤裕久君が永眠されました。ここに哀悼の誠を込めて、慎んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
上原さん、藤田君、佐藤君の皆さんは「12期の広場」に複数回投稿して頂いています。本来ならば故人を偲び、投稿文すべてを本号で掲載すべきところですが、紙幅の関係上、上原さんの2011年4月号の「市岡12期HPをみて」を、“ひろばリバイバル”として再掲いたします。
藤田君と佐藤君の投稿文は、「12期バックナンバー一覧」から閲覧可能ですのでご覧ください。
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藤田君の投稿
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| 2015年5月号 | 「韓国語の入門コースを終えて」 |
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佐藤君の投稿
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| 2011年1月号 | 「米国アラバマ在住の友からのメール」 |
| 3月号 | 「めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~」 |
| 4月号 | 「3.11東日本大震災体験の二伸」 |
| 7月号 | 「高田松原の“希望の一本松”」 |
| 9月号 | 「我が失敗と補欠人生:その後」 |
| 2012年10月号 | 「夏の思い出」 |
さて「12期の広場」2023新春号のラインアップは以下の通りです。
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巻頭コラム
・「新年を迎えて」 7組 上野 裕通 -
掲示板
・『「小出楢重と大大阪時代」の此花
歴史研究会例会に行ってきました』7組 張 志朗 -
“ひろばリバイバル”
・「市岡12期HPをみて」(2011年4月号から) 1組 上原(旧姓 大川)澄子
以 上
2023年1月1日
巻頭コラム
新年を迎えて
7組 上野裕通
新年明けましておめでとうございます。
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2022年夏 山形県・酒田駅にて |
1年が経つのは早いですね。80歳、傘寿になったこの1年間は、コロナ感染防止のための外出自粛要請もあり、自宅で過ごす単調な日々が多く、日が経つのが早く感じるのかもしれません。
私は、早生まれで1月4日に満81歳の誕生日を迎えます。昔、小学生の頃、お正月になれば、新しい黒い足袋を履き、白い鼻緒の高下駄を履いて友達と遊びに出掛けました。野田恵比寿神社へ行くのが楽しみでした。神社に行くまでの通りに様々なお店が出ていて、色々と興味をそそられました。恵比寿神社へのお参りは、付録であったように思えます。
元旦は、父親を中心に男兄弟3人の家族5人が座卓の前に正座し、父親の「おめでとうございます」の発声で味噌雑煮や赤飯を頂きました。煮しめは母の美味しい味、小さい頃は甘い醤油味の「ごまめ」とツルツルした舌ざわりの「こいも」が大好きでした。懐かしい思い出です。
今年のわが家のお正月の膳は、すましのお雑煮、赤飯と取り寄せたお正月用の折箱です。子どもの頃と違って、座卓がテーブルに代わり椅子に全員座っています。私は、ここ4~5年、大晦日に、昔、母が炊いてくれた煮しめを自分で炊くようになりました。里芋、人参、蒟蒻、牛蒡、大根、蓮根、椎茸、きぬさや、厚揚げなど自分で調理し、味付けは母の味を思い出して工夫しています。娘家族がここ10年間、同居しているので、元旦は、娘家族4人と私ども夫婦の6人で、私の「おめでとう」の発声で祝います。私が炊いた「煮しめ」は、年々みんなよく食べるようになり、心ひそかに喜んでいます。
新しい年を迎えて想うことの一つは、知り合いや友達のことです。私は今年も健康な体で元気に新年を迎えることができ感謝していますが、脊柱管狭窄症で外出する事を億劫がっていた小学生時代の友はどうしているだろうか。大学時代、三ノ宮界隈をよく飲み歩いた友が近頃アルコールは少ししか飲めなくなったと衰えを語っていた事を思い出したりしています。この友達は、頭の髪の毛が一本もなくなり、お坊さんのように様変わりしています。歳を重ねることにより、肉体的な変化もありましょうが、心の持ち方にも変化が現れますね。
古稀を迎えるまでは、家事労働は言われたらするぐらいでしたが、最近は、進んでするようになりました。でも、まだ家内の「5分の1」位かな?
仕事を辞めて家に終日いるようになってからは、自分にできることはないかと仕事を見つけ出し、毎日の日課にしています。庭の植木の水遣り、時々の草取りから始まり、今では、掃除機を使う事、洗濯物を取り入れてきちんとたたむ事、風呂洗いとお湯はりをする事などしています。永年、家内がしてきたんだなあと思うと、感謝の気持が更にもう仕事はないかと探させます。
この年まで生きながらえてきたのも、父母のお陰であり、家族のお陰です。また近隣の皆様、職場で共に過ごした皆様との出会いがあったお陰です。60歳まで小学校教員として勤め、定年退職後は、大阪市教育振興公社に9年間勤め、69歳から75歳まで6年間、住まいする自治会の会長を務めました。
自治会活動では、子どもの頃、向う三軒両隣みんな仲良かったことを思い出し、人とのつながりを広め、深めることが大切だと考えました。そこで、ふれあいサロン、ひとり暮らし高齢者交流会などを立ち上げると共に、趣味の会として、ゴルフ同好会、カラオケ同好会などを立ち上げました。今では、それぞれの活動が自主運営され、人の輪が広がり、親密度が増していることに嬉しさを感じています。
81歳からはまた新しい人生の始まりだと捉え、体の自由がきく間に色々なところに出かけようと思っています。友達に会いに行くもよし、素晴らしい景色を見に行くのもよし、今しか出来ないことをして楽しもうと思っています。
私の趣味の一つに、青春18切符で鉄道旅をすることがあります。小学校の同級生三人と行くのですが、その内の一人が老人ホームに入ってしまい、去年の夏は東北への二人旅となりました。今年の夏は、北海道へまた行こうという事で、計画を立てる段階から楽しみが始まります。いつまで続けられるかですが、毎日5000歩を歩き、規則正しい生活をして米寿まで続けられればよいと思っています。
12期の同級生は新年をどのように過ごされるのだろう?喜寿の同窓会を最後に同窓会は開催されなくなったので少し寂しいですね。また会える日が訪れます事を楽しみにしています。米寿に同窓会を開きたいですね。お元気で!
2023年1月1日
掲示板
「小出楢重と大大阪時代」の此花歴史研究会例会に行ってきました
7組 張 志朗
11月27日、此花区民ホール(千鳥橋)で午後2時から此花歴史研究会の例会–「小出楢重と大大阪時代(その1)」と題した公開講座がありました。講師は同会々員でもある圓尾博一君(6組)です。ご存知の通り、小出楢重は日本の近代絵画の巨匠で、旧制市岡中学校の第1期生の大先輩です。
自宅を出る時「小出楢重先輩の公開講座に行く」と娘に話すと「すごい」と言われ鼻高々、おまけに千鳥橋は生まれ育った所でもあり高揚した気分で会場に向かいました。同窓生の酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎君と北浦(小寺)昌子、古藤知代子、鈴木(酒井)政子さんの7名が来ていました。
参加者は研究会会員を含めて40名。講座は準備された資料を手元に、真摯で和やかな雰囲気で終始しました。圓尾君の講演は、同業の巨匠の画業にふれることの難しさがあったのではと思いましたが、抑えて外さず、深くて親しみやすく、多面的でユーモアたっぷりの話しぶりでした。小出楢重は大阪の島之内育ちです。それに配慮してか、はたまた圓尾君の人柄か、小出楢重の言葉をなぞった時の彼の大阪弁が、たおやかで懐かしいイントネーションで聞きとれました。
講演は大好評。「小出楢重の年譜」とエピソード、その画業と随筆集、市岡中学の同窓生、重要文化財「Nの家族」二科展特選「少女於梅之像」について、大大阪への変貌など多岐にわたる内容で、2時間があっという間でした。そのうちの幾つかを下に書きます。
小出楢重の同窓生には、市岡中学校第1期卒業生(明治39年卒業)の石濱純太郎(東洋史学者)、信時潔(音楽家・チェロ奏者)がおられ第2期卒業生に津田勝五郎(鋼材商)がおられます。
小出楢重が東京美術学校卒業後、画業に専念することを諦めかけた時、ばったり出会った石濱純太郎に「先生になんかなったらあかん。僕らで何とかするからやめとけ」と説得されます。その後、石濱は友人の画家の桑田信子、栗山清太郎を誘い「三人展」を企画します。そして小出楢重の出品作品40点に信時潔、津田勝五郎などを動員して“売約済み”の赤札を貼り回る一芝居を打って、楢重の母を安心させました。その結果、絵画制作を続けられるようになったそうです。この石濱との出会いと市岡同窓生の絆が画家小出楢重の誕生の起点であったようです。
次に重要文化財「Nの家族」についてです。この作品には「謎が多いと思っている」としながら、楢重、妻–重子と長男の構図や異なる三人の視線、ホルベインの画集と静物の配置、背景の肖像画と壁の材質などについて話してくれました。言われて見ると、確かにミステリアスです。この絵に対する見方の幅が広がります。
更に圓尾君は、小出楢重の数学との付き合いの悪さに触れた次の文章を紹介してくれました。誰がやっても『5+5が10で・・・10とならぬ時には落第するのだからつまらない。羽左衛門がやると100になったり、延若がやると55となり、天勝がやると消え失せたりするような事を大いに面白がる性分なのである』。 デジタルとその整合性だけが大手をふるような現代の一面を的確に射抜いているようで痛快です。
資料の「年譜」は、明治から太平洋戦争開戦までの主要史実の抜き書き付きです。歴史研究会の例会ですから当然のことかもしれません。それによると日清戦争、日露戦争、日韓併合、大逆事件、第一次世界大戦、ロシア革命、治安維持法成立等々、小出楢重の画業は大正・昭和の激動期と重なります。この視点に、私は目から鱗が落ちる想いで、「枯れ木のある風景」の送電線上に腰かけた小出楢重の姿とその心象風景に少し近づけたように感じます。
講座が終わったあと、参加した同窓生8人(酒井八郎、松田修蔵、上野裕通、伊東慎一郎、北浦昌子、古藤知和子、酒井政子)で軽く食事をしました。主人公の圓尾君は所用のため残念ながら同席できませんでした。
コロナ禍の中、久しぶりの得難い会食です。皆さんそれぞれお元気で、意気軒高、嬉しさいっぱいでした。
伊東君が足の具合が悪いのに遠路、杖をついて来られたのには、感激です。亡くなられた同窓生の話をはじめ、圓尾君の名講演の感想や健康維持のためのラジオ体操の話、リハビリの話、仕事の話、趣味の話など、話題はつきません。こうして楽しく話し、笑いころげることが出来る幸せ、市岡があってのことと再認識しました。健康で再会することを約束して別れました。
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