お知らせ

0年

『マルオヒロカズ御伽草子展』に行ってきました。

7組  張 志朗
 
 『マルオヒロカズ御伽草子展』が2020年11月17日から22日まで、大阪市福島区のメリヤス会館ラッズギャラリーで開催されました。20日(金曜日)の午後、末廣訂君と一緒に行ってきました。
 
 コロナ禍のさなかで、街中に出かけるのを控えていましたので、久々の大阪市内歩きです。JR新福島駅から会場までは、市電が走っていた時代からも大きく変貌した地域の一つ。末廣君からこの付近にある旧跡のエピソードを聞かせてもらいながら歩きました。
 圓尾君の個展に行くのは久しぶりです。またコロナ禍による巣ごもりが続いていただけに絵を見るのは新鮮で、刺激的でした。
 まず入口正面の『財前童子』が目に飛び込んできます。布カンバスにアクリルや油絵具など使って描かれた大作。頂いた案内状に書かれていた『OTOGIZOUSI 命に潜む精霊をたずねて』がすんなり心に入ってきます。
他の作品にも一寸法師、牛若、浦島、金太郎、等々が童の姿で描かれていましたが、純真無垢で生命力がみなぎっています。お孫さん誕生に刺激をうけての‟圓尾ワールド“そのもので、私は大好きです。
 作品はこの20年くらいの間に描かれたものの内、御伽草子シリーズに入るものが中心でした。
 
 この日私達を含めて12期同窓生が7人来ていました。残念ながら松田修蔵君、横幕正式君、上野裕通君、伊東慎一郎君の4人には一足違いで会えず、帰り支度をしていた八島平玐君には会えました。大病を見事に克服された伊東君を筆頭に、皆さんお元気。圓尾博一君も意気軒高で、絵画制作の情熱に陰りはないとお見受けしました。
 圓尾君、末廣君と絵の事や市岡の思い出話に花が咲きました。特に末廣君が玉田先生の日本史の授業に知的好奇心が大いに刺激されたこと、そのお陰で95点を取り、席次上位で貼り出されたこと、さらにそれが最初で、最後であった話には大笑いでした。
 
 帰路、末廣君と軽く一杯飲んでまたおしゃべりです。やはりこうして同窓生と会え、話ができることは、いまさらながらに楽しくまた嬉しいものであることを実感しました。

つれづれに - 鍋が美味しい

 鍋料理が美味しい季節になった。80才を眼前にした今日この頃は、食が細くなり、また思うほどに進まない。しかし鍋料理だけは別のようである。寒風に身をさらした後、湯気一杯の鍋料理にありつくと、それはそれは幸せな心持になる。
 
 一口に鍋料理と言っても色々あるが、テーブルのコンロに鍋をのせて食べる料理と限定しても、本当にたくさんの種類がある。
 書いてみると、湯豆腐、おでん、すき焼き、ブタしゃぶ、牛しゃぶ、もつ鍋、つみれ鍋、どて鍋、餃子鍋、しゅうまい鍋、ちゃんこ鍋、うどんすき、カニすき、たら鍋、カワハギ鍋、あんこう鍋、キムチチゲ鍋、スンドゥブチゲ、テッチャン鍋、てっちり、くえ鍋 等々。思うままにまかせてもこれだけ出てくる。
さらに、出汁ベースで考えても、和風、韓国風、中華風、欧風に東南アジア風、そのほかのエスニック出汁を考えると鍋料理の種類は限りがない。
 家庭で食べる鍋は時期や家族構成や年齢とその嗜好、懐具合によりバリエーション豊かに変わる。いわんや、手を変え、品を変えての飲食店ではなおのことである。また鍋料理ほど家族団らんが似合うものはない。不思議と会話がはずむのも醍醐味の一つ。しかし残念ながら、この頃は夫婦のみ、時には一人鍋のことが多い。
 手元不如意が毎日のことでやるせないが、てっちり、くえ鍋は滅多に食することはない。もっぱら、ポピュラーな湯豆腐と冷蔵庫にある残り物を使った湯豆腐まがいの鍋である。(誤解がないように加筆するが、“まがい鍋”は家内不在時に、困って自分で作る一人鍋である。)
 てっちりは忘年会、新年会などで食することが多かったが、それも回数が減った。これは店により、価格により食する部位や料理の仕方がかわり、千差万別。淡白でありながらも豊かな滋味と身の締まりと舌ざわりから、確かに美味である。
 くえ鍋も同様。九州地方などでは‟あら鍋“と呼び、てっちりより旨いと言う。それを実感したことが一度だけある。古い話で恐縮だが、還暦祝いにと後輩が一席設けてくれた店でのくえ鍋が、絶品であったことをいまだに覚えている。店の大将曰く。和歌山の漁師直送のくえを使っているそうで、それもたやすくは手に入らないから、毎日電話をしてやっとの思いで手に入れる。また、くえ鍋ほど、‟まがい物”が出回っているものはないと言う。その言に従えばそれ以来、‟本物”と思われるくえ鍋は食べていない。
 息子、特に孫が来たときは、すき焼きが定番になり、カニすきは正月と、おおむね決まっている。
 鍋の中でよく食べるのは、やはり湯豆腐だろう。豆腐と白菜、ネギにポン酢があれば満足で、簡単にできる。さらに春菊が手に入れば言うことがない。しかも淡白で味わい深く、食が進み野菜がたくさんたべられる。
 豆腐は“絹ごし”、もっぱらスーパーマーケットのそれ。味のレベルは高い。“絹ごし”とはよく言ったもので、肌のきめ細やかさ、箸当たりと口に含んだ時の舌触りのまろやかさ、旨味は格別で、うれしくなる。たまに、豆腐の移動販売車から買うことがあるが、さすがに大豆の香りや旨味が強く、湯豆腐が際立つ。しかしタイミングが問題で毎回というわけにはいかない。
 白菜もスーパーで売っていてそれを使うが、やはり冬の白菜が一番。良い白菜に当たった時は思わずニヤリ。柔らかくみずみずしくて甘みが強く、旨さが一層引き立つ。
 具にも、薬味にもかかせないのがネギである。具のネギは煮すぎないようにして食べる。春菊はしゃぶしゃぶした半生を食べるのが一番と思うがどうだろうか。薬味のネギは、きざみたてが一番。特有の青臭い香りと辛みは薬味として必須である。ついでに書けば、下の孫の大好物がネギであることもうれしい。
 要はポン酢。家内が選び、買い置いたものを使うが、その「旭ポン酢」を気に入っている。
 筆者はポン酢好きである。宴会の席でもポン酢の入れ替えは必ずお願いする。ポン酢がうすまり、出汁のようになって味がぼけるのが嫌である。昔はポン酢などという‟上等品“ではなく、酢と醤油を使っての間に合わせであった。事実、独身で一人暮らしをしていた若い頃、豆腐と白菜、出汁雑魚だけで湯豆腐を作ったことが幾度もあったが、‟味の素“を入れた‟酢醤油“で食べ、満足していた。
 こう書いてくると、鍋好き男の下手な‟食レポ風“になってしまいそうだが、どうしてどうして、ただ一寸かたよった味覚の持ち主の鍋への戯言なのである。
 考えてみれば、結局‟酢“が好きなのである。実際、酢の効いた食べ物はおおむね好物で、特に母が作った“胡瓜の味噌酢もみ”はそれだけでもご飯をお代わりすることができた。たびたび酢を使ったおかずが出ていたことを考えると、母も酢が好物であったのだろう。
 筆者が3~4才頃、夜が明ける前から “マンマ、マンマ”と母の頬を打っていたと母から聞かされたことがある。それだけ幼い頃から食い意地がはっていたことは間違いない。
 男の味覚は幼くしては母、結婚しては妻、老いては嫁に左右されると聞けば、一寸わびしい感じがする。しかし食い意地が張ってもしょせん味覚は、食通のそれにほど遠いのが実態で、ありていに言えば“ほどほど”で良いと思っている。つまるところ、好物の味でお腹がふくれ、それなりの満足感が得られればいう事がないのである。
 人生も最終章。今、美味しいと思い、食するものがあると言う事は本当に有難いと、しみじみ思っている。
( 井の蛙 )

「12期の広場」2020秋号のラインアップ

 10月ですね。気温も「お彼岸の中日」を過ぎて後、安定して涼しくなりました。今、しみじみと秋を実感しています。
 今年の夏は酷い暑さとコロナ禍が重なり、汗まみれの「巣ごもり」を余儀なくされましたね。特に冷房が苦手な筆者は、昼はクーラーのオン・オフを繰り返し、夜はタオルを首に巻いて寝る始末で、逃げ場のない巣ごもりには、ほとほと参ってしまいました。それだけに涼しい風のありがた味が身にしみ、生き返ったような気持ちになっています。しかし、コロナ禍はいまだに終息の見通しが立たず、その予断を許していません。
 記録的豪雨に記録的台風、記録的暑さ、加えて新型コロナウィルスの感染症も記録的なのでしょう。何につけて穏やかに移ろい、そして調和するのが時節や風物と思い込んでいるのですが、こう「記録的〇〇」と続くと、ドキリとしてしまいます。
 「市岡カレンダー」も今年はさっぱり。同窓生とも長い間お会いできていません。
 4月の舞洲のお花見の中止に始まり、奈良と兵庫の歩こう会の例会も中止になりました。暑気払いと思っていたミニ同窓会も開けず、カナダ在住の山本久美子(旧姓:古荘)さんを迎えての恒例「里帰り食事会」も出来ませんでした。人とふれあい、学び、感じ、共にすることがどれほど大切かを痛感しています。そこで、同窓生有志の皆さんに近況の執筆をお願いし、今号に掲載しました。皆さんお元気で前向きです。一日も早く同窓生の皆さんと直にお会いし、楽しく有意義な時間を過ごしたいものですね。
 
 先日、新聞の訃報欄で江口大象先生が9月3日、85歳でお亡くなりになったことを知りました。母校でお教えいただいときのお名前は、江口啓爾先生です。卒業アルバムを見ますと、芸術科書道担当とあります。筆者は書道を選択しなかったので授業を受けていませんが、若々しく凛とされた先生であったと記憶しています。1組の荒川安子さんが出展された書道展(大阪市立美術館)に川村浩一君とお伺いした時、50数年ぶりにお会いしました。書の世界は全くの門外漢ですが、親しみ易さの中に豪放磊落ごうほうらいらく、カリスマ性溢れる、書の大家でいらっしゃいました。荒川さんが書家として師事された先生でもあります。
 江口先生は書道研究璞社の会長として日本の書道界をリードしてこられ、平成22年から平成30年まで「現代書道二十人展」のメンバーに選ばれておられます。また日本書芸院常務理事・顧問を歴任されました。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
 
 ラインアップのカット写真は、わが家の屋上からとった夕空です。散歩の途中、美しい夕映えの雲を見つけ、急いで自宅に戻りカメラを向けたのですが、あっと言う間に変化して、ごく普通のあかね雲の写真になってしまいました。 “秋の夕暮れは、つるべ落し”とはよく言ったものです。
 暮れなずむ窓下から虫の音が聞こえてきます。蜩(ひぐらし)の清涼な声を聞くことなく迎えた秋、この秋もまた駆け足になりそうですね。しばらくすれば、一段と秋色は深まり、山々はとりどりの紅葉で装うことでしょう。
 
 さて、わが「12期の広場」2020秋号のラインアップです。上に書きましたように有志の皆さんに「巣ごもりの記」を書いていただきました。お楽しみください。
 
1. 「お元気ですか」      ・・・・・・・・・・・・・・・・ 2組  北浦 昌子
2. 「アイちゃん、ありがとう」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 4組  酒井 八郎
3. 「みなさん元気ですか」   ・・・・・・・・・・・・・・・・ 7組  上野 裕通
4. 「わが家の八月」      ・・・・・・・・・・・・・・・・ 8組  塩野 憲次
5. 「私の巣ごもりの記」    ・・・・・・・・・・・・・・・・ 8組  榎本 進明
6. 「毎日が日曜日」      ・・・・・・・・・・・・・・・・ 8組  末廣 訂
7. 「僕のゴルフ奮戦記」    ・・・・・・・・・・・・・・・・ 8組  萩原 貞雄
 
以 上

「お元気ですか」

2組  北浦 昌子
 
 市岡12期の皆様、お久しぶりです。
 古川柳に “云うまいと思えど今日の暑さかな” という句がありますが、まさにこの夏の暑さは、コロナウィルスとの戦いと重なり、身も心も耐え難い昨今です。
 今日は下手な川柳を並べ立てました。笑ってくださいね。暑さ飛ばしに。
 
今日も無事 沈む夕陽に ありがとう
秋ですね いいえ財布は 真冬です
やせたいと 思うしりから 団子食べ
夫婦して 熱き茶すすり 孫談義
近いのに 遠い日もある 夫婦仲
日々感謝 無事故で今日も あかね雲
フラフープ 回して得意 喜寿すぎて
世のならい 笑顔で暮らせば 花も咲く
吉本系 孫一人居て 座が和む
友達は 財産だよと 孫に教え
お化け出た 孫が云うのよ 私見て
締め出せば 忘れ物とて 戻る夫
問診表 脳みそ悪いと 書いておく
脳タリン 金も足りない 己のせい
この暑さ 風鈴一振り 自ずから
字も書けば 恥も掻きます ヘボ川柳
今日もまた 阪神大敗 テレビ消す
乞い願う 老後安泰 あの世まで

 そして最後の三首は短歌にしてみました。
 
唯ひとつ この結婚は ミステイク 云ったもん勝ち 夫婦のジョーク
寄り添いて 感謝は尽きぬ 我が人生 五十五年は 短くもあり
ありがとう 思いは巡る ふる里よ 夫と散歩の 山川嬉し
 
 短歌は亡き母(私が小学校1年生の五月に病没したのです!!)の歌集から一人で学び、折にふれて詠んでいました。歌集は私の宝です。また皆さまにお目にかかれる日を楽しみにしています。週に四日、800m、スポーツジムで泳いでいますのよ。

「アイちゃん ありがとう」

4組 酒井 八郎
 
 10年以上前から、屋上庭園の一隅に据え付けたプランターに、ミニトマトや胡瓜の苗を植え込み、親指ほどの実や、イボイボを触りながら、大きくなる胡瓜を楽しんで、朝夕の水やりをしてきました。そんな中、ついこの間 “一大事” が起こりました。
 普通のトマトの苗を一つ植えていたのですが、それがテニスボール位の黄赤色の実をつけ、明日の朝収穫しようと夕方の水やりを終えました。
 翌朝、屋上に出てみると、そのトマトの実がありません。この枝にあったはずなのにと周りを探すと、カトレアの葉の横に、真ん中を突っつかれた“穴あきトマト”が落ちていました。カラスの狼藉です。がっかりです。
 昨年迄こんな事は一度もなかったのにと思い、ハッと気が付きました。犬のお陰です。
 6才の24kg、ブタのような雌の柴犬の里親になって12年、食事療法と運動で8kgのベスト体重になり、昼間は屋上菜園で過ごす毎日です。
 いつもトマトの葉陰で昼寝をしていたアイちゃんが見張り番をしてくれていたのですね。昨年の夏、18才寸前で永眠しました。15才でお別れしていた過去の犬に比べ、長命だったアイちゃん。長い間、トマトを守り、楽しませてくれてありがとう。

「みなさん元気ですか」

7組 上野裕通
 
 令和2年は、新型コロナ感染症の脅威の中、何とか生きのびているという現状です。みなさんお元気ですか。
 4月に3組の西條軍蔵君が亡くなられたとのこと、謹んでお悔やみ申し上げます。西条君とは小学校が同じだったし、高等学校1年生の時3組の吉田学級で一緒だったこともあり、ああ、あのハンサムな西條君が旅立たれたかと、寂しさがつのりました。
 
 糖尿病という持病がある私は、今回のコロナ騒動では「死」を覚悟しなければならないかなと思いました。しかし、自分なりに防疫面に心がけコロナと共生しています。手洗い、うがいの励行、マスクの着用とアルコール消毒を欠かさないようになりました。
 予定されていた人との出会いの機会が6月末まですべてなくなり、巣ごもりの時期が続きました。4月に予定されていた市岡の森での花見も中止となり、残念でした。みんなに会えるのを楽しみにしていましたのに・・・。
 外に出かけるのは、夕方の散歩と病院通いぐらいです。夕方の散歩では、寝屋川墓地公園の夕日が当たらないアップダウンのある竹やぶの道を歩きます。ちょっと山歩きしているような気分になることと、足腰を少しでも鍛えられるからです。歩いていると同じ町に住んでいる人、何人かに出会います。「やあ!」とマスク越しに声を掛け合い、突然の出会いの挨拶を交わしています。
 
 自宅にいると、本を読む機会が増えました。福島区の歴史研究会の時に購入した大阪の歴史84「特集大大阪91年」を読み返しました。この本には、6組の井東一太郎君が担当された記事がありました。「大阪労働学校創立の所在地について」―安治川教会は西区安治川にあったのか― というタイトルでした。刊行物の町名に疑問を持たれ、詳しく調べられて寄稿されたのでした。西区九条には、1922年に設立され2年間という短い期間であったが大阪労働学校があった。その正確な所在地は、西区九条北通り3丁目にあったのであり、西区安治川などという地名は当時なかったと井東君は指摘しておられました。
 
 7月になると、退職者会の同好会活動も開催され、囲碁、ハイキング、Eメールなどの同好会活動が再開され、外出する機会も少し出来ました。やはり、人の出会いは大切です。
 今年は7月の終わりごろまで梅雨が長びき、8月になってからは猛暑となりました。この猛暑の中、青春18切符を使って一日の列車の旅をしました。日曜日で混雑していない列車はないかと考え、福知山へ行きました。大阪から篠山口、篠山口で乗り換え福知山へ。
丹波路快速は空いていました。車窓から眺める景色を堪能しました。福知山では、御霊神社と福知山城を巡りました。11時40分から14時20分の一番
暑い時に歩きましたが熱中症にもなりませんでした。水分補給を欠かさず、しっかり汗をかき下着も服も汗びっしょりになりました。福知山城からタクシーに乗り、福知山温泉「養老の湯」へ行きました。いろいろな湯に入り疲れを癒し、湯上りに「氷いちご」をいただきました。なんと美味しかったことか。帰りの列車は、福知山から大阪まで乗り換えなしの直行便でしたので、ゆっくり眠れました。帰宅したのは午後10時前。気分一新した一日でした。
(歩いた歩数:12699歩)
 
 台風9号・10号が通過した後、少し、朝夕の気温が下がってきました。そろそろ秋の訪れかなと心待ちしています。60年前の昔と気象状況も大きく変化して来ました。年寄りには暮らしにくい自然条件になってきています。これから1~2年は「ウイズ・コロナ」の生活になるようですが、みなさん、来春の市岡の森での出会いを一つの目標にして、元気に暮らしましょう。

「わが家の八月」

8組 塩野 憲次
 
 皆様、新型コロナウィルスに因る自粛生活に飽き飽きされていることとお見舞い申し上げます。
 私自身はというと元来が出不精なもので、世間で自粛が言われることはむしろラッキーと、さほどの痛痒を感じていません。日頃の出不精に対する家人から私への圧力が多少分散されるようでラッキーなのです。
 それでも八月は我家の恒例行事がいくつかありこれに精出していました。
 一つはお盆の墓参りと息子家族、孫たちとの交流です。今年はコロナの所為で危うく流れかけたのですが、孫の強力な押しのお陰と息子たちの決断で、恐る恐るしながら近場でのホテル一泊と孫の誕生パーティーを決行しました。二週間ほどが過ぎても皆無事のようでホッとしているところです。5月の連休の頃だとちょっと怖くて実行出来なかったものが自粛生活も3か月が経ち8月ともなると慣れと気の緩み、それと政府のgo to政策に乗せられたのでしょう。
 そしてお盆のあとに控えているもう一つの行事が障子の張り替えです。そんなのお正月の準備で歳の暮れにやるものじゃと思われるでしょうが、我家では永年真夏の行事となっています。そもそも共働きの家庭では暮れは滅茶苦茶忙しい。というのも二人とも忘年会に精出していて新年の準備は大晦日に掃除と正月飾りをするのがやっとです。障子を張り替えたりしている余裕などまるでなかった。しかし障子は一年もすれば汚れ破れするもの。破れ障子で正月は迎えたくない。そこで知恵をしぼった結果、正月準備は早め早めにやろうと。で余裕をもって出来るのはというと8月の夏休みしかなかったのです。かくして真夏の障子の張り替えが始まったのですが、やってみるとこれが意外と快適。冬に水仕事は寒くてつらいものですが、真夏とあれば障子の水洗いも水遊びとなります。子供も喜んで手伝ってくれます。冬ならば日の暮れるのも早く、暗くなる前に仕事を終えなければと心急かされるところですが、夏は時間がたっぷりあります。障子紙の扱いや糊の加減など素人の悲しさで仕事はなかなか捗らないけれど日さえ暮れなければ焦ることもありません。
 こんな訳で今年も無事行事を終えたのですが年々疲れがひどくなり、いまは水遊びの楽しみどころか苦痛苦行となってきました。(障子は大小合わせて28枚あります。)
かつて障子を破っては喜んでいた子供も今は大きくなり、もう毎年律義に張り替えることもない、1年おきにしようかと考えています。さて来年はどうなりますやら。
 恒例の行事を終えるとあとはさしてやることもありません。いまは要請されての自粛ではなく普通の自粛生活に戻りました。
 ともあれ皆さまにはこのコロナ禍をご無事で乗り越えられますようお祈り申し上げます。

「私の巣ごもりの記」

8組 榎本進明
 
 
大島の夕暮れ時
 新年あけの1月7日、職場の同僚からメールがあった。いつも、年賀状が来るのに今年は来なかった。メールの内容は、昨年5月より長崎県壱岐市の離れ小島の人口200人ほどの大島に住んでいるとのこと。スローライフを楽しんでいる。5年ほど住むつもりでいるというのだ。筆者がやりたくてもできなかったことをやっているので、すぐさま「暖かくなったらそちらに行く」ことを約束。ルンルン気分で体調を整え、毎日一万歩の計画を「100日連続」に切り替えた。スローライフといっても黙って食事が出てくるわけではなく、魚は釣って、野菜は植えて、蜂を育ててハチミツを作り、自炊する。ボランティアの漁師や農家のお手伝いで、いただきものが多いとのこと。
 ところが、1月下旬ごろから新型コロナの感染が出始めた。母の25回忌のため、2月26日~27日に和歌山県田辺市に出向いた頃を最後に動けなくなった。楽しみにしていたのは、多摩川の川歩きもそうだった。コロナに関係なく筆者の体調の問題で出来なくなったままであった。そのような折、川歩き盟友の西條君を失ったのは大きかった。今も「スマン」と思って後悔している。
 この原稿を書いている9月11日現在の「毎日一万歩」は、1月は達成、2月~5月は未達成、5月27日~9月11日まで「連続108日」を達成した。また、長崎の壱岐・大島は台風10号がそばを通ったが、コロナが落ち着き次第、スローライフ生活の一端を覗きに行くつもりでいる。そのための体力は「毎日一万歩」の連続記録を伸ばすことで、巣ごもりをしていても体力だけはつけたいと思っている。毎日楽しく歩いている。

「毎日が日曜日」

8組 末廣 訂
 
 今年の春先から、あっという間に世界中に蔓延したのが、中国武漢で発した新型コロナウイルスで、毎日マスコミで報じられ人々を不安のどん底に叩き込んだ。
 12期の広場編集担当からコロナウイルスで「巣ごもりの話」を書いてほしいと連絡があったが、よくよく考えるに会社定年後は毎日が日曜日で巣ごもりの連続である。
 当初は英国船籍の横浜寄港云々から、感染者の隔離問題がはじまり、それから中国要人の国賓来訪の話題、そうこうしているうちに、オリンピック開催が怪しくなってきた。
 当初、若い世代の感染率が少ないということもあって、行政の外出自粛のお願いも効果がなかったが、志村けんさんの死去で緊張が高まりいろんなイベントが中止となった。
 アベノマスクが不評で税金の無駄使いに終わったと言われ、また、国民一人当たり10万円の給付金もマイナンバーカードが使い物にならず、日本政府のITやデジタル化遅れを露呈してしまった。
 東京の知事さんの横文字発表も話題となった、オーバーシュート、ロックダウン、ソーシャルデイスタンス、クラスター、テレワーク等々、これら横文字の表現に手話担当者が大変苦労したと聞いたことがある。その後は、PCR検査数があがらず、政府は経済優先か、感染対策優先かで、国と地方自治体で綱引きがあった。一方、外国の感染状況も日に日に切羽詰まりで、国と国との対立まで問題が発展した。   
 趣味のない自分にとって普段とはあまり変わらない生活であるが、身の回りの整理、本棚に眠っている本の読みなおし等で時間を過ごした。またこの際、他人に見せるものではないが、自分の過去を振り返り、入社以来何をしたのか、海外事業担当として主な出来事を整理した。海外出張回数(海外赴任先からも含む)約90回、訪問先40か国、パスポート9冊、個人的な旅行をも含めて一覧表にまとめた。
 また、お盆に「大阪・梅田で人骨1500体埋葬」という記事から日本の伝染病の歴史を調べ、コレラやペスト等で何十万の人が亡くなっており、先人の対策と苦労の事実が分かった。
 今回のコロナによって、我々の生活が大きく変わり、あるいは今後全く経験していない世界に突入する社会になろうとも、新たな変化と課題に挑戦してゆく気力と体力だけは残してゆきたい。

「僕のゴルフ奮戦記」

8組 萩原貞雄
 
2020年はゴルファーにとって散々な年だった。コロナ禍による自粛が解除になった途端、8月の酷暑だ。芝生の上は思いの外、暑い。40℃にもなる。熱中症はコロナ同様大敵だ。コロナ、暑さ、寒さなどの自然以外に、この年になればゴルフを続けるためには老いと旨く付き合っていかなければならない。
 
 まずゴルフはカートを使っても、棒を振り振り1万歩位歩く。その為、僕は近くの公園をジム代わりにして運動する。メニューは100段の階段を数回上り下りし、途中ストレッチ、早歩きなどである。この夏、張り切り過ぎて、途中で腰が痛くなり中断。医者は腰廻りの筋肉の老化による腰痛であり、階段の上り下りではこの筋肉は維持できないという。人間の体には600もの筋肉がある。老化は全身の筋肉に及ぶ。でも筋力を維持できるのは一部だろう。腰痛体操の処方箋をもらった。これで運動のメニューが増えた。
 
 ゴルフは打数を数えなければならない。OBや池ポチャなどがあると打数を足し算するのが大変。認知症ではできない。75歳以上になれば運転免許証の更新時、認知症の試験を受けなければならない。イラストによる記憶テストだ。一昨年合格しクリアした。
 
 ゴルフのプロは衰えが目から来るという。グリーン上の芝目が読めないためだ。僕の場合は100メートル先のボールが見えなくなった。昨年眼科で診てもらった。左目に白内障があるという。医者は日常生活に支障がなければまだ手術はしなくても良いと言う。僕はゴルフに支障があるのでその場で手術を決めた。手術後は左目の視力が0.5から1.2になった。不思議なことに近視の右目は遠くがよく見えるようになり、高校時代からの近視の眼鏡が不要になった。
 
 そんなわけでゴルフとの闘いはゴルフができる状態を維持することが闘いなのだ。