12期の広場

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「12期の広場」2025秋号のラインアップ

 10月、ようやくの秋、待ちに待った秋ですね。酷暑の夏とその長さ、さらに残暑の厳しさが辛かったことからの実感です。今、涼しさと時折頬を撫でる秋風にほっとし、しみじみとした喜びを感じています。
 カット写真はイガ栗です。「紅葉はまだ早いようです」との付箋を付けて東京のE君が送ってくれました。有り難いものです。
 
 思えばひどい夏でしたね。真夏日、猛暑日、熱帯夜の連続。実に苦しかったです。
 気象庁の発表では6~8月の全国の平均気温は、平年より2.36度も高かったそうで、「130年近い統計データーのなかでも断トツ」、「この夏の高温は異常だった」との事です。平均気温は2020年までの30年間の記録によるものですが、昨年夏の前年度比較のプラス1.76度を大幅に越えて2.36度ですから耐え難いはずです。
 私の住む所から近い兵庫県丹波市で41.2度を記録、大阪の豊中市や枚方市でも体温を上回る40度超え、明日は我が身かとおののくばかりです。
 そんな中、夏が苦手、クーラーが苦手の私は、難行苦行の耐暑生活で家にこもりきりでした。熱中症警報に従った訳ではありませんが、首に保冷剤を巻き、タオル、2リッター入りの冷水ボトルと扇風機を側においての毎日の生活。外出は隔日、夕方の食料品の買い出しだけで、世間への窓口は新聞・テレビのみ。読書も頭までが湯だつているようで日中は出来ません。
 自宅新築時の断熱設計を甘くみたせいでしょう、室内温度の最高は35度までなりました。問題は夜でしたが、ほぼ毎日、日が傾いてから庭とガレージと玄関の散水で何とか室温を下げ、就寝時には30度を切るようにしていました。土砂降りの夕立がなんと有り難かったことか、蓄熱しているコンクリート躯体が冷まされ一気に1~2度ほど室温が下がります。
 こんなに温度計を気にしたのは初めて。その周りをおろおろと歩きまわる、実にしまらない日常でしたが、平均気温2.36度上昇がどれほど身にこたえるものか、またよくぞこの異常な夏をやり過ごしたものだというのが正直なところです。
 
 どういう訳か関西は雨が少なかったようです。しかし日本各地の風雨災害は尋常なものではありませんでしたね。
 雨が降ればすぐに豪雨と被害、風が吹けば突風、竜巻被害。さらに落雷とそれによる火災。テレビ画面からは見たこともない状況が、これでもかと映し出されます。空が怒っているのではとさえ感じられ、自然相手に“ほどほど”などと願いながらも、あまりの容赦のなさに、背筋が寒くなります。“地球沸騰化”が原因で、それが最大効率と膨張を追求した近代文明のもたらした結果であることは、間違いないようです。さらに厄介なことに、それが一朝一夕に解消されるものでないこと、また元には戻らないであろうことでしよう。前段に「この夏の高温は異常だった」という文章を引用しましたが、“異常”が繰り返されて“普通”になって行くのが世のならいのようで落ち込みます。
 
 さて「12期の広場」2025秋号のラインアップは以下の二篇です。久々の「巻頭コラム」を8組 榎本進明君が書いてくれました。「ひろばリバイバル」は2012年4月から連載された、6組 小野義雄君の宇宙ロケットの話です。今回はその第1回『つくば宇宙センター見学記』にしますが、是非9月号までの全4編も合わせてお読みください。
 
1. 巻頭コラム
  「今、起きていること」 
・・・・・ 8組  榎本 進明
2. ひろばリバイバル
  「つくば宇宙センター見学記」
   (2012年4月号から転載)
・・・・・ 6組 小野 義雄

巻頭コラム

今、起きていること

8組 榎本 進明
 最近の世相で感じていることを述べることにしました。
 今、この歳になって、言いたいことが溜まるばかり、イラツキもあり“妄言”になることを覚悟に少し書いてみました。
 
  • 関税の問題
 関税を上げることは、どういうことなのか。自国民は今までより高くなるから、買わないだろう。だから輸出国は困るだろう。
 この発想には驚いた。全く貧相な発想だ。しかも自動車を念頭に置いている。設計や製造・流通・品質に関与していない人は、量が多ければ → 値が下がる。また、値が上がれば → 売れない。と単純に考える。まるで小学生並みで笑ってしまう。
 普通、関税は自国の輸入業者が税金として国におさめ、それを価格に上乗せして販売する。結果、自国民は今までより、高くなったものを買わざるを得ない。それを今頃になって自国政府に文句を言っている。
 品質=技術的なことを考えない結果で、関税を誰が払うかをあわせて見ると関税の問題の見え方が変わると思うのだが・・・。

 
  • 貿易赤字問題
 「輸出額-輸入額」がマイナスの時に「貿易赤字」と言う。誰が名付けたのだろうか?
一般の赤字は、「収入―経費」がマイナスの時に言う。家計も同じである。貿易赤字は、輸入が多いだけである。いらなきゃ買わなければいいだけのこと。
 「あなたたちは売るだけ売って、何も買わない」とクレームをつけている。はっきり言って、買うべき値打ちのあるものがないのが、わからないのである。自国製品の値打ちを見直す謙虚さが足らないとしか思えない・・・。

 
  • 日本の米不足と価格の問題
 こんなに、長引くとは「解決能力がない」としか言いようがない。備蓄米を出して市場に「量」を出せば「価格」は下がる。→ 安く安定する、という。
これもなおざりな発想で、小学生並み。「流通」に全く手を付けないから、価格は下がらないのだ。農家はその恩恵をうけているのか。荒稼ぎをしているのは誰なのか。
「量を出せば、値が下がる」こんな発想で政治をしていて、「さあ、どうだ」と言っている人の顔をみたい。・・・見ている。

 
  • 少子化問題と年金
 誰が「現役世代が高齢者の面倒を見る」と言い出したのか? 昭和39年に就職をした筆者はそんな説明を受けていない。「自分のために」年金を積み立てるのだと言われた。それが、いつの間にか前記の「現役世代が・・・」にすり替えられて、少子化問題になった。すなわち、高齢者の年金を若者が払っていることになった。
 昔は子供が親の面倒をみる。今は「自分の知らない高齢者をみる」になってしまった。
がむしゃらに働き、営々と年金を積み立ててきた筆者としては、なんともやりきれない。
 
 『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい』 高校時代、物知り顔の学友が口にしていた夏目漱石の作品・『草枕』の一節だ。
 普通の年寄りになった今、『とかくに人の世は住みにくい』だけが生々しく迫ってくるのだが・・・・・。

ひろばリバイバル

つくば宇宙センター見学(3月17日)

6組 小野義雄

 榎本さんの企画で、山田さんの奥様を含め10名の方々につくば宇宙センターを訪問頂きました。

 あいにくの小雨でしたが、冬の凍えるような冷たさはなく、むしろ心地よい?春雨の中を近くのレストランまで歩いて昼食会の後、本物のロケットや人工衛星を見学頂きました。運よくロケット打上げ時の轟音体験もあり、ご満足頂けたものと思います。

 東京駅八重洲口からの筑波大学行き高速バスを利用し、並木一丁目で下車されると目の前が宇宙センターの正門です 一年中いつでも見学自由ですので、今回参加できなかった方々もぜひお立ち寄り下さい。

 今回の案内者は、H-IIロケットの前の集合写真で、左端から二人目の小野です。

 撮影者は榎本さんですので写っていません。

 私(小野)は昭和42年に三菱重工の現名古屋航空宇宙システム製作所に入社以来、一貫して宇宙開発に関わり(専門技術はロケットの構造設計)、三菱重工を定年退職後2年ほど子会社に勤務していましたが、幸いNASDA(現JAXA)で現役技術者として復帰する機会を得ました。5年契約終了後さらに有人宇宙システム(株)という宇宙ステーションの運用を担う会社に招かれ、12年間という当初考えてもいなかった長期の単身赴任生活を続けてきましたが、3月末で退職し名古屋の留守宅に戻ることにしました。ということで市岡12期の同窓生の方々が宇宙センターをご案内する最後の機会になりました。なお今後も毎月1週間は若い技術者との議論に来るつもりです。

 今後、機会をいただいて宇宙開発に関わった仕事について書いてみたいと思います。


― H-IIロケットの前で(榎本さん撮影)―

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「12期の広場」2025夏号ラインアップ

 ジェームス三木さんがお亡くなりになりました。
 ご存知のようにジェームス三木さんは6期生でNHKの朝ドラ「澪標」の原作脚本をはじめ、大河ドラマ「独眼竜政宗」「八代将軍吉宗」等数々のヒット作を世に問われた劇作家です。市岡の後輩である私達にも、常に熱いメッセィジを届けてくださるなど、大阪府立市岡高等学校とその同窓生にとって特別な大先輩のお一人でした。謹んで哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈り申しあげます。合掌。
 
 あっと言う間に2025年の前半が過ぎて早や7月です。
 7月の雅な別称は「文月」。その由来は、七夕日に書の上達を願う「文ひろげ月」によるとの説が一般的だそうですが、それとは別に、稲穂がふくらむ時期で、「穂見月」「穂含み月」とする説も有力だそうです。昨今の「コメ騒動」があってか、後者に分があるように思いますが、どうでしょう。
 立夏はとうに過ぎ、夏至も数日前。今は梅雨のまっただ中で、早々と線状降水帯による豪雨被害が発生しているようです。晴れ間になったらなったで、真夏日の猛暑。外出でもしようものなら汗まみれでフラフラ、先が思いやられます。やわらかな薄緑の若葉であつた桜並木も、今は緑の陰を一層濃くし、透け見えていた山の稜線もふか緑のラインでくっきりです。そして日差しは容赦のない真夏のそれ。文字通りの夏本番です。
 
 そんな中、国の内外を問わず、世間はあい変わらず騒がしい。心穏やかにはおられません。身近な「コメ価格騒動」一つとっても高値は収まりませんね。2日に一度スーパーに行くのですが、米価は高止まりで、どこから出て来たのか、銘柄米と訳の分からない配合米が山積みになっています。が、放出された備蓄米は出回っているように思えません。「米価の高騰の原因は」と問われていまだに「分からない」と答える「専門家」が多く居られ、マスメディアの論調さえも“予定調和の落としどころ探し”に右往左往しているように見えてしまうのは、私の予断が過ぎるせいでしょうか。
 今月は誕生月、加齢はとどまる訳はなく、そのスピードは更に加速して、知力、気力、体力の劣化は齢並みに酷くなりました。日常生活も内容、質も限られて内向きになるばかりです。梅田や神戸に出かけることも激減して、もっぱら家にこもって気が付けば“テレビの前”が増えて“水戸の御老公”や“大岡越前”は何処にと愚痴ってしまいます。呆け防止と健康維持の為に先月から公民館の太極拳教室に通い始めました。やってみると何とも無様な運動能力や運動神経が露わになりますが、それでも残り火のような好奇心が刺激されるようで、面白みも感じています。出来れば長く続けたいものです。
 
 さて「12期の広場」2025夏号のラインアップは以下の通りです。掲示板の記事が2篇と「ひろばリバイバル」です。「ひろばリバイバル」は2011年12月号から連載された「ブータン紀行」(5組 泉信也君執筆)です。ご覧ください。
 
  1. 掲示板
    1)「酒井君とのミニお花見」 7組 張 志朗
    2)「圓尾君の作品を囲んで」  
  2. “ひろばリバイバル”
    「ブータン紀行(1)、(2)」
       (2011年12月号から転載)
    5組 泉 信也
以 上

掲示板

酒井八郎君とのミニお花見

 3月29日(土曜日)酒井八郎君を囲んでのミニお花見会がありました。今年の春の天候不順や大阪・関西万博の開催による舞洲市岡の森でのお花見の中止などから、12期同窓生のお花見は無理かと思っていましたが、酒井八郎君はじめ、主要メンバーから有志によるミニお花見をしようとの提案があり、役員中心のお花見会を持ちました。
  場所は歩行に若干の支障がある酒井君の事を考え、神戸王子動物公園としました。
 参加者は地元の酒井八郎君(4組)はじめ、末廣訂君(8組)、川村浩一君(8組)、張志朗(7組)の男子4名と古藤知代子さん(4組)、段中文子さんの(5組)女子2名の計6名です。
 長い間のご無沙汰でしたので、桜の開花状況より、皆さんの健康が心配で、お元気そうなお顔を拝見してそれだけで満足の感じでした。桜は事前調査では“咲き始め”とのことでしたが、添付写真にあるように5分咲き程度でそれなりに楽しめました。王子動物公園は神戸の桜の名所で、無料入園になる“夜桜”は大変な人出で賑わうそうです。満開の頃、是非、あらためて訪れたいと思いました。皆さん、久々の動物園ようで、象やキリン、熊にアシカにフラミンゴなどなどを楽しまれたようです。残念ながらパンダ舎はもぬけのからでした。2時間半ほど桜と動物を楽しみ、三宮に出て昼食と小宴を楽しみました。
 いつの日にか多くの同窓生と再びお花見が出来たら最高と、皆さんお話しておられました。
( 記 ― 張 志朗 )

圓尾君の作品を囲んで

 先日、東京の同窓生E君から私宛にメールがありました。内容は上野の東京都美術館で開かれた「第84回美術文化展」(主催-美術文化協会 5/12~5/18)に際して出品された圓尾博一画伯の作品とそれを囲んでの同窓生有志の懇親会についてです。以下にその要約をまとめて書きます。
 
 同窓生が集まったのは、「美術文化展」の初日、5月12日です。参加者は作品出展者の圓尾君(大阪在住)と同窓生有志の泉信也(5組)、中柴方通(6組)、小野義雄(6組)榎本進明(8組)の皆さんと、児玉恭子(4組 旧姓 青木)さんの計6名です。小野君は圓尾君と梅花中学校の同級生でもあり、愛知県からの参加です。
 出展された圓尾君の作品は、絵画の「ボクの命をかえせ」です。いまだに世界各地で理不尽な戦争が繰り返され、惨状がやむことがありませんが、この作品は圓尾君の変わらない創作意欲とスタンス、鋭い洞察力その表現力、怒りと悲しみに満ちた作品で、皆さんに深い感銘を与えたようです。下の添付写真をご覧ください。
「ボクの命をかえせ」 
戦争で傷ついた子供たちの怨念を描いたもの。絵から飛び出した試みは初めてだそうです。

 圓尾君の作品ではありませんが、皆さんの関心を集めた彫刻の「マリリンモンロー」がありました。これは有名なマリリンモンローの写真に材を取ったもので、まくれ上がったスカートの中に“舌を出したアインシュタイン”が居て、それを猫が見ているものです。近代文明がもたらした“あだ花”を鋭く、シニカルにえぐった作品のようで、苦い笑いを誘いますね。因みにアインシュタインは愛猫家であったそうです。
 
 圓尾君の作品を囲んでの同窓生有志の集いは、これ以外にも毎年8月中旬頃に銀座で開かれる個展(10数人の同人会によるもの)などがありますが、今年の予定はまだ確定していないそうです。
 市岡東京12期会もこのように集える回数が減っていますが、遠来の友とその作品を囲んで親睦を深めることは実に得難いこと、元気で変わりなく交感できることの喜びは同窓生ならではのものです。「文化展」の後、懇親会が開かれましたが、残念ながら写真はありません。
(文責:張 志朗)

ひろばリバイバル

ブータン紀行 (1)

 泉 信也(5組)

 前号にご紹介したブータン王国の山旅についてこれから3回に分けてご案内します。

 折しも今週(11月13日の週)は先月結婚式を挙げたばかりのワンチュク国王夫妻が国賓として来日され、新婚旅行とは名ばかりで親善や被災地のお見舞いに忙しいご様子を報道で見られた方も多いかと思います。あらためて遠くて近い国の印象を強めました。

 

 さて今度の山旅の起点はブータンの古都パロだが、日本からの直行便は無く、バンコクに半泊しての長いフライトになる。観光政策と自然保護の両立のため、入国にはビザと一人一日当たり200米ドルのデポジットを課してコントロールしている。200ドルはホテル代、交通費のほか国内での安全保障にも充てられるので法外と云う訳ではなさそうだ。

 2006年当時、ブータン国営航空の国際便には2機の大型機しか無く、そのうちの真新しい120人乗りエアバスで4月26日にバンコクを飛び立ち、ヒマラヤの山肌をかすめながらパロの河原の小さな飛行場に無事到着。

 空港ビルは簡素なものだが、伝統的なデザインと清潔さが良い。入国手続きもその場で手早くビザが発給され、幸先良い旅を約束してくれるようで印象が良い。出口で迎えてくれたガイドのリンジン君は立派な体格でハンサムな好青年。民族衣装で正装の黒無地のゴ(ドテラを短くしたようなもの)を着用し、流暢な英語(公用語として小学校から習う)でてきぱきと案内してくれる。さすがに車はおんぼろだが日本製で運転も安心できる。

 パロの町の全景を見渡せる高台にあるホテルは広大な敷地に山小屋風のロッジが点在し、翌日からのテント暮らしを控えた身には贅沢な初日となる。夕食はさっそく地元の名物を試す。聞きしに勝る唐辛子料理のオンパレードで、旅行者用に辛さは和らげてあるというものの先が思いやられる味だ。


トレッキング第一日:パロ‐ドゲゾン‐シャナ(Camp 1)

 春とはいえ標高2300メートルの朝はかなり冷え込み、気持ちよく晴れた空に遠くの雪山がまぶしい。今日のリンジン君のいでたちはシェルパらしい山支度で気分も盛り上がる。車でパロ川右岸を15キロほど遡り、トレッキングのスタート地点のドゲゾン村に着くとすでにコック二人、馬方二人、馬九頭が大量の物資をそろえて待っている。ガイドと我々の3人をふくめ大キャラバンで豪勢な大名旅行の始まりだ。ザックひとつの軽装で、清冽な流れに沿ってのんびりと歩く。谷間はやせた畑だが良く手入れされ、日本の農業指導者の苦労がしのばれる。農家は置き屋根をのせた伝統様式で漆喰の白壁が美しい。山腹の森は五葉松や樫の混交林、人家が途絶えるころ左岸に最初の岩山、ドラツェ・ガン(5570メートル)が荒々しい姿を現す。

 初日は5時間半歩いて、Camp 1となるシャナのテントサイトに着く。先行したリンジン達がすでに設営を終え、熱いチャイを振舞ってくれる。三角テントは二人で使うには広すぎるほどで快適な住み心地、日暮れ前にはキッチンテントに全員が集まりご馳走をいただく。旅行者の我々にはスープ、豚肉と野菜の煮込み、茹でアスパラ、サラダに赤米などだが、皆はヤクの腸詰め、チーズや例の唐辛子を野菜代わりと称して旨そうに食べている。少し分けてもらったが昨日の数倍の辛さ、しかし慣れると旨そうだ。

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「12期の広場」2025春号のラインアップ

 4月です。ようやくの春、いよいよの春ですね。
 世の中、なにかと悩ましい事が続いていて、浮かれてばかりにはおられませんが、それでもようやく梅は咲き、桜も咲いていよいよ春本番です。55年ぶりの大阪・関西万博も4月13日が開幕日。会場は馴染み深い舞洲の隣の夢洲で、関西の祝祭気分はこれから高まるようです。私と言えば、それを楽しむのもそこそこに、短い春と酷暑の予感で、早々と肩に力が入っています。暖かいのは嬉しいこと、しかし昨年を越える異常な暑さだけは、“ひらにご勘弁”が本音と言ったところです。
 先日、市岡高校全体同窓会の会報「澪標2025」が届き「第97回選抜高校野球『21世紀枠』大阪府高野連推薦校」と題した野口監督の記事を読みました。21世紀枠の話は昨年の11月、東京の同窓生のE君から聞いていて、大阪府高野連のサイトを検索、確認していましたが、会報を通して理解が深まりました。結果として、第97回選抜甲子園出場は叶いませんでしたが、『古豪市岡』の伝統を担い、また新しい歴史を刻んだ野球部と関係者の皆さんに心からのエールを送りたいと思います。
 21世枠は「ハンディキャップを乗り越え奮闘した学校」「あと一歩届かなかったチーム」に与えられるもので、都道府県秋季大会で8強入り(参加校数が少ない場合)又は16強入り(参加校数が多い場合)の学校が対象。また「困難の克服」「マナー模範」「文武両道」が問われるそうです。昨年の大阪府秋季大会でベスト16入り、更に部員数の減少や複数運動クラブのグランド共同利用など多くの厳しい壁に向き合い頑張っていることが評価されたのですね。嬉しいこと、誇らしいことです。
 記事に「伝統を継承しつつ新たな歴史」、「オール市岡で」、「三本線を再び聖地甲子園へ」、「人々に感動を呼ぶチーム」をめざすとありました。力強く、胸にしむ言葉で、感謝しかありません。
 
 12期生の私達には、今でも胸が熱くなる「1959年夏の準決勝」の記憶があります。「ひろばリバイバル」として今号に再掲しますが、ただの部外者であった私も、硬式野球部の同期生の猛練習と情熱と努力、苦悩と挫折を目の当たりにしていました。下校時に聞こえた激しいノック音とスパイクの音、歯をくいしばり白球に突っ込む姿が、昨日のように生々しく蘇ります。「たかが野球、されど野球」と言い古されながらも、いまだに心とらえてはなさないこの感慨は、やはり「市岡野球」の歴史と伝統があってこそのものでしょう。
 
 さて「12期の広場」2025春号のラインアップは以下の二篇です。お楽しみ下さい。
1. 「アフターコロナ・貴重な体験をした物語」 ・・・・・・・・・・ 8組  末廣 訂
2. 「盛夏の思い出」(2013年 8月号より転載) ・・・・・・・・・・ 4組 寒川 詔三
以 上

アフターコロナ・貴重な体験をした物語

8組 末廣 訂
 
 コロナ禍が明け、日常を取り戻してから2年間、貴重な体験談のいくつかを披露したい。

1、桂文枝師匠「参地直笑【祭】㏌福島区」
 令和5年、福島区が昭和18年に誕生してから80年の節目をむかえた。
 といっても区は大々的な㏚や式典的な行事もなかったのだが、代わりにあるプロジェクトが進行しており、それに参画する機会をいただいた。
 落語家・桂文枝師匠が、地域の魅力を発信するため大阪市24区それぞれの特色を盛り込んだ創作落語を披露する「参地直笑(祭)」である。コロナで一時休止していたこのプロジェクトの再始動第一弾が福島区で開催されることになった。
 落語の創作にあたり文枝師匠は既に福島区について綿密な調査をされていたが、さらに区内各団体に対して協力の要請があり、我々の福島区歴史研究会、野田ふじの会、区連合町会、福島聖天通り商店街の代表4名が文枝師匠と打合せをすることとなった。二度の打合せでは師匠はメモをとり、質問され、テレビや舞台で見る芸人としての師匠とは違う一面を見ることができた。
 私は、福島区の話題や祭り、歴史など師匠の落語のネタになりそうなことを一冊のファイルにまとめたものを差し上げて協力させていただいた。
 その後、文枝師匠から本番直前の2月に入って、松下幸之助さんについてもっと知りたいと連絡があった。私自身パナソニックのOB であり、大開公園の記念碑建立にも関わっていたということで、なんばグランド花月にある吉本興業事務所でPHP松翁会のメンバーと共に幸之助さんのエピソードや大開で創業の際に苦労された話などをお伝えした。
 さらにその一週間後、門真のパナソニック・ミュージアムを見学したいとの連絡があり、パナソニック本社にも要請して、師匠を半日案内することとなった。師匠は展示物を一つ一つ時間をかけてじっくり熱心に見られ、係員に質問してメモを取られていた。  
 師匠の取材はそれにとどまらず、その後も直接電話やメールを通じて問い合わせを受け、質問は数十件にも及んだ。質問にはその都度調べて回答したが、次第に内容が細かくなり、私自身知らないことも多く、元PHP研究所の役員やパナソニック本社まで問いあわせて回答した。
 令和5年2月25日、福島区民ホールで「参地直笑(祭)㏌福島区」の本番を迎えた。
 2月の寒い日であったが、1350人の応募者から選ばれた300人でホールは満席、大盛況であった。打合せに出席した4人やパナソニックの関係者も招待を受けた。
 福島区出身の落語家、月亭八方さんをトークゲストに迎え、桂三語さん、月亭八織さんも出演し、舞台を盛り上げた。
 文枝師匠が披露した福島区についての創作落語では、福島区にまつわる野田ふじや中央卸売市場の話等、様々な情報が盛り込まれていたが、半分以上を松下幸之助さんのエピソードが占めていたのではないかと思う。会場のお客さんも盛り上がって大きな笑いに包まれていたが、文枝師匠のこの落語ができあがるまで、また、お客さんを笑いの渦に引き込むには、あの綿密な調査や準備があっての事なのだと感心させられた。
 実は、文枝師匠は約40年前にミナミの料亭で松下幸之助さんら財界の方の前で落語を披露したことがあり、その一席後、幸之助さんの隣で食事をしながらお話しをする機会があったそうだ。その時の幸之助さんとのエピソードも披露された。
 当時若い師匠に幸之助さんから「昨日の出来事は済んでしまって、変更はできない。また明日の事は何が起こるか誰にもわからない。しかし今起こっていることは自分の努力で何でもできる。だから、今という一瞬一瞬を大切にして生きなはれ」という話をされ、それを文枝師匠は今でも大切にしているそうだ。幸之助さんについて熱心に調べていた理由が分かったような気がした。少し残念であったのは、当日舞台の写真や録音が禁止ということで舞台の様子が残っていないことだ。



2、海老江・南桂寺の親鸞聖人御遠忌および本堂屋根修復工事の落慶法要
 平成30年9月4日、大阪を直撃した台風21号は、各地で大きな被害をもたらした。
 この台風で南桂寺も本堂屋根瓦が損傷し、また銀杏の木が折れて鐘楼・塀の屋根瓦にも甚大な被害があった。
 修復工事にかかる総額見積もりは約6千万円強。積み立てた保険金では到底足りず、檀家護持会や総代会、女性会等で寄付を集め、修復工事に入った。世間はコロナ禍の真最中であったが、屋根の工事は順調に進み、淡路島で出来上がった屋根瓦の寄進者による記帳儀式も無事終えることが出来た。その後、鐘撞堂、土塀の基礎、本堂内陣、畳や障子に至るまで3年かけて完成した。

 令和5年の夏の総代会で、住職から「修復工事の落成式と親鸞聖人御遠忌法要、稚児行列を来年行いたい」と話があり、総代の中から私に法要委員長になってほしいとのご指名を受けた。
 突然のことで非常に驚くも、この行事は総代全員が力を合わせやるということでその場で委員長を受け入れ、法要、稚児行列の日も令和6年4月20日と決まった。
 昭和のおわりに父親が納骨堂建立の委員をしており、私も平成の阪神大震災後の修復の際には役員だったのである程度の資料は残っていたが、詳しい記録がなく、写真やわずかな資料・記憶が頼りであった。
 早速、檀家総代6名、護持会女性部4名の10名とお寺の家族とで常任委員会を立ち上げ始動し、法要までに準備すべき案件の洗い出し、日程等の全体図作りからスタートした。進行表と役員の配置図の作成、法中(ほっちゅう)会所や稚児行列の会場の準備、法要式典でお世話する役員70名の選任、稚児行列のポスター作成や寄付者へのお礼の記念品、当日の弁当手配に至るまで、業務は多岐にわたった。
 法要まで月2回、計12回の委員会を開いた。同時に業者との打ち合わせや各会場の設置作業、稚児行列の警察への申請等、外部との交渉なども進めた。私も法要委員長として、毎回の議案の調整や課題解決、実行に向けて決断の連続であった。
 年齢が70代、80代の委員にとってはシステムやデジタル化で苦労する場面もあったが、お互い意見を出し合い最後までよく頑張ったと思う。
 本番直前には、稚児行列参加保護者への説明会、役員70名の役割説明会を開催し、本番前日は朝から本堂の飾りつけ、法中会所、稚児出発の海老江西小学校体育館の準備等、ギリギリまで業者と共に準備作業に追われたが、何とか無事に法要当日を迎えることが出来た。
 法要当日の朝、役員全員が本堂前に集まり、記念写真を撮った後、三か所の担当会場に移動してもらった。午後、正装した法中と役員が小学校に集合し、体育館で待機していた稚児と保護者含む総勢200余名の行列が出発した。華やかな行列は南桂寺本堂をめざし海老江を練り歩き、本堂に到着後は厳かに法要が執り行われた。
 法要後の式典で、委員長として当日までの過程を振り返りつつお礼の挨拶をさせていただいた。前回、30年前の阪神大震災の法要では稚児行列が229名参加したのに比べて、51名と大幅に減少していること、また、デジタル化の進展により稚児募集ポスターの作成や記念写真のデジタル配布等、我々アナログ世代が対応に苦労したことなど、時代の変化と苦労した裏話も披露させてもらった。
 式典の中で本願寺大阪教務所長より表彰式があり、永年の功労者として檀家総代と護持会女性部から各1名、そして法要委員長を務めた私にも感謝状をいただき、光栄なことだと有難く頂戴した。
 なお、次回のためにと今回の式典の記録はデータとしてすべて残しておいた。ぜひとも活用してもらいたいと思う。
    
3、東京の日本銀行本店にて旧一万円札の最終印刷の贈呈式
  令和6年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行されたその日に、東京の日本銀行本店にて旧紙幣の最終印刷紙幣の贈呈式が執り行われた。式典には旧一万円札の福澤諭吉にゆかりがあり、旧紙幣が発行された際に、記念の記号番号の紙幣を交付された都市や団体が招待された。慶応義塾の塾長、平等院、中津市長らに並び、我が福島区歴史研究会も招待を受けて宮本会長と共に出席し、植田総裁から宮本会長に感謝状と最終印刷の一万円札が手渡された。
平成16年福島区図書館にて 最終印刷された1万円と感謝状を日銀から贈呈
 20年前、福島区図書館で歴史研究会が新一万円札で記番号A000007A札を日銀大阪支店から交付いただき、福澤諭吉の玄孫の出席のもと、私が司会を務めたことを思い出した。
 久しぶりの東京訪問であり、寅さんの故郷・葛飾柴又に立ち寄り、映画の舞台を訪れるという永年の夢を実現させることが出来たのもよい思い出となった。
 
4、海老江東小学校創立90周年記念式典
 昨年の秋、私の出身校の海老江東小学校で創立90周年と新校舎竣工の記念式典が執り行われた。
私は事業委員会の副委員長として準備段階からお手伝いし、11月17日には記念式典・植樹式及び祝賀会を無事終えることが出来た。5階建ての新しい校舎は立派であるが、自分が通っていた頃の小学校の面影はすでになく、少し寂しい気持ちになった。一方、元気な子供たちの姿や年代の違う同窓生が集まる姿に希望も感じた。この機会に「海老江の今昔」展を前半図書館、後半区役所で初代校舎のアルバムや新旧風景を写真で展示した。                                                         

盛夏の思い出(2013年 8月号より転載)

4組 寒 川 詔 三  

 今年も夏の全国高校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」を、よく耳にするようになってきました。

 高校3年生の盛夏、暑い、口惜しい1日を忘れることができないのは、硬式野球部員だけだったでしょうか? 12期生が一丸となって青春を謳歌した学校行事は色々あったが、部活で甲子園を目指した硬式野球部の夏の高等学校野球選手権・大阪大会における激戦に、血沸き肉躍るものを感じられた方が、沢山おられたのではないでしょうか。

 

 昭和34年(1959年夏の高校野球選手権大会 大阪大会)の市岡高校は三井君の好投で準決勝に駒を進めた。1回戦:浪速工 2回戦:今宮高 3回戦:大阪商大附属高 を接戦で勝ち抜き、日生球場における準々決勝の近大附属高戦は、延長10回の激闘を1:0で制し、戦後初の夏の甲子園出場が手の届くところまできた。当時の部員は同期の3年生が三井君、森君、山田(克)君の3名がプレーヤー、私(スコアラー)と美記君はマネージャー、そして洲崎さん、田村さん(いずれも旧姓)が女子部員(女子マネージャー)であった。市岡高校は女子マネージャーを設置した最初の高校であったと思われるが、合計7名が同期生、プレーヤーは2年生4名、1年生6名、計13名の少人数の構成で参加した。

 当時の大阪府の高校野球は私立8強時代といわれ、浪商(現在の大体大浪商)、PL,興国、明星、北陽(現在の関大北陽)、上宮、近大附属、大鉄(現在の阪南大高)等が群雄割拠していた。ただ昭和34年、準決勝に勝ち残った4高校は、市岡、八尾、阿倍野の公立3高校と私立の興国で、公立優位の状況であった。私は準決勝の抽選で八尾高との対戦を引き当てた時、ぼんやりと見えていた甲子園の姿が、くっきりと見えるようになってきたものである。


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「12期の広場」2025新春号のラインアップ



 明けましておめでとうございます。新年を迎え皆様のご健康、ご多幸を心からお祈り申し上げます。
 新年は巳年、同窓生の多くが8巡目の年男、年女になりますね。何か良いことがあるのではと期待するのですが、正直なところは、ただ健康で家内平穏を願うばかりです。
 老夫婦の二人住まいでは、年の瀬の慌ただしさと大掃除、迎春準備と除夜の鐘に賀詞の交換などの一連の習いは、変わることがありません。しかし日めくり一枚をめくることで、不思議と気持ちがあらたまり、集まった息子・娘家族とにぎやかな正月膳を囲むのはやはり格別です。老境にある年男の正月、それだけに感慨もひとしおです。
 今年は“日めくりカレンダー”を買う積りにしています。と言いますのは、昨年近くの喫茶店からそれを頂き、365枚を使い切りました。平成、昭和換算の年数や旧暦、24節季に諺などが書かれています。めくることを忘れることもありました。しかし日一日と積み重ねる日常への意識は強くなりました。若い頃の時の区切りは、仕事の納期や行事予定で、週と月を一束にまとめて過ごしてきただけに、尚更のようです。友人は「10年日記」を買ったといいます。苦笑しながらも老いに向き合う日々をゆっくり大切し、今年を良い年にしたいと思っています。
 冒頭のカット写真、美しいでしょう。今まで「山」はありましたが「海」は初めてで、「神津島の黎明」だそうです。
 
 訃報です。2月に5組の稲葉勝也君が亡くなられたとのハガキが年末に届きました。柔道部の主将を務めた頑強そのもの、屈強な男を絵にかいたような同窓生でした。居住地が比較的近かったこともあり、地元で何度か飲みました。印象と異なると言えば失礼になるかもしれないのですが、繊細で気遣いが細やか、熱い心根と好奇心旺盛な勉強家だったようです。同窓会活動や「12期の広場」にたくさんご協力頂きました。ただただ感謝、感謝です。慎んでご冥福をお祈りしここにお知らせいたします。合掌。
 
 さて「12期の広場2025新春号」のラインアップは以下の通りです。お読みください。
 
  1. カナダ在住の山本(旧姓:古荘)さんの歓迎食事会
  2. 圓尾君の講演会に行ってきました
  3. ひろばリバイバル
    「一枚の写真」 - 昭和の大阪駅前旭屋付近 -   (2018年4月号からの転載)
以 上