お知らせ
0年
2021年7月1日
「 4代・125年の家業 」-(2)
8組 林榮作

そこで、時計店の経営は、販売と修理が表裏一体となり、ふさわしい修理サービスの提供は必要不可欠でありました。現代ではアフターサービスの考え方は当たり前ですが、時計は遠く明治の時代から経営の基本となっていました。そして、お客様の貴重な時計を扱うわけですから、当然のことながら細心の注意と技術的レベルの高さが要求されました。
例えば、時計の精度をつかさどるテンプ(人間でいうところの心臓部分)がありますが、時計を落としたりして衝撃が加わると、その心棒(テン真)がよく折れました。その心棒(テン真)は約8/100mmの太さで、人間の髪の毛程の細いものです。

今回閉業にあたり、4代目の私としては、冒頭で述べたように残念な思いはありますが、一方では、一介の時計師として、また時計宝飾眼鏡業界の片隅の一 員として、自分なりに活動でき、無事終えられたことを喜んでいるところです。
我が家業の幕引きにあたっては、想像はしていたものの、それ以上に肉体的 ・精神的にエネルギーのいることを実感いたしました。取引先への通知 ・閉店による取引上の処理・販売商品のアフターケア等々、長い間営業していただけに関わる処理が多く、頭を悩まされました。
唯、有難いのは永年の取引先からの慰労と、理解を頂いたことは何とも有難いことで、今しばらくは、余韻を楽しむ気持ちで処理したいと思っています。
次に、店内にある商品をはじめ陳列・備品・営業書類、営業資料そして技術工具・技術資料等々の処理・廃棄、・・・・・・。それらには、自身の歴史はもちろんですが、それぞれに先人の思いが詰まっていますから、どうしたものかと悩みました。
特に前述の大阪大空襲によって店内にあった掛時計、金庫内にあって焼失した数百個の腕時計・懐中時計、そして無数の修理部品などは、役に立たないのを承知 しながら置いてあった、父・兄の無念が伝わってきて、簡単ではありませんでした。
形あるものはいずれ没するといいます。目をつぶって処分することにいたしましたが、そこにこもった先人の無念の思いをどう処理したものか?
私にとって、人生の最終章の課題が一つできました。
私たちは、戦後の高度経済成長とほぼ同時期に社会での活動を始めました。日本経済が右肩上がりの中、その恩恵を多数の人が得られる良き時代を過ごさせていただきました。
しかし、1990年代初頭のバブル崩壊、2008年のリーマンショック、そして今回のコロナ禍による社会構造、意識の変化は、その度に、私たちが過ごした青・壮年時代から劇的に変化し、それらから回復した後も、スイッチが入ったままで元に戻ることはありませんでした。その変化に大きく作用しているひとつが、1946年にアメリカではじめて開発されたコンピューターでした。当初の真空管からトランジスタ、そして IC 素子の集積によって飛躍的にその性能を上げ、今では各人が持つパソコンヘと進化し、そのコンピューターによって構築されたネットワークがスマートフォンに代表される工業製品、また医療 ・交通 ・農業等、社会生活に深く入り込んで、過去の歴史にないスピードで変革を迫ってきます。今や「IT」無では社会が成り立たなくなってしまいました。
そして、進化した人工知能を持つコンピューター「AI」が、自ら人間より賢い知能を生み出す可能性が将来めぐってくるのではないかということまでが、現実味をもって語られ始めています。子供のころ、漫画の世界で空想と思われていた、当時夢の世界が当たり前の現実として目の前に現れようとしています。
科学の発展は私たちの生活を便利に、そして欲望を満たしてくれます。有難いこととも思っています。しかしこれから先、世の中はどう変わっていくのでしょうか。大いなる戸惑いを感じているところです。
私が、40代のころ、取引先の銀行の支店長に「林さん、歳いかれたら、やることを見つけておきなさいよ」とアドバイスをもらいました。その時「ゴルフとか、庭いじりとか、旅行とか ・ ・ ・趣味の事ですか」と尋ねたら 「ゴルフにしても旅行にしても、健康で、仲間がいります。そういうものではありません。」と言われ課題を与えられましたが、未だに見つからず今日を迎えました。
私事になりますが、10年前、丁度「古希」の時に家内を難病で亡くしました。私にとってはそれまでの生き方 ・考え方を見つめ直すきっかけとなり、以来今日に至る10 年間は、日々の生活の中で、家業の将来、家事の事、その他過ごしてきた家庭内の色々の事を振り返る期間となりました。
そして、日々何気なくある生活の一つ一つをこなしているうちに、日を経るごとに家内への表現できない思いが溢れてまいりました。同時に、家族・両親兄弟そして、私の人生に関わってきた人たちに感謝の念が湧いてまいりました。今までのこうあるべき、こうしたい、こうしなければ、・・・。常にプレッシャーを与え、追い詰めていた自分の心が、いつの間にか片隅に行き、今あることを受け入れる自分の穏やかな心に、感動を覚えるようになりました。
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ありがとうございました。
(写真は卒業アルバムの体操部の写真。左から筆者、福井先生、貴田君です。)
2021年4月1日
「12期の広場 2021 春号」のラインアップ
春ですね。希望の春です。筆者が小学校5年生ぐらいの時に大阪市の書道大会があり、その時に書いたのが『平和の春』でした。「春の4画目と5画目は、大きく広げて書くんだぞ」と言われて、春だけが目立ったアンバランスな作品になってしまったのを今も覚えています。中学の時は、写生大会で描いた絵をブラジルに移民した人たちを励ます目的で、当地に送られました。
そんな当時の子供たちも、今年は傘寿という節目の年です。次は卒寿・白寿と続きます。そして、百歳を迎えるわけです。どんな景色が待っているのでしょうか。楽しみに一歩・一歩を進みたいなと思って毎日のウォーキングに励んでいます。
でも、筆者の勝手な思惑どおりことは進みませんでした。家内の体調が極端に悪くなり、お正月を挟んで寝込んでしまいました。食事を全くとることが出来なくなって、体重がどんどん減っていくのが目に見えるぐらい。筆者持病の糖尿病の血糖値も上がり、インスリンの量も増えました。2月になってやっと専門医が見つかり、3月の中旬には、食欲もでて体重も増え始めて現在は70%ほど回復してヤレヤレと一息ついたところです。
「この年だから、何があっても不思議じゃないね」と挨拶代わりに言っていたのが現実になりましたが、それでも、ウォーキングだけは、毎日一万歩、3月22日現在、昨年5月27日から連続300日を続けています。体調はいいのに血糖値が上がったのは食事のせいだと勝手に思っています。
しかし、現実に悲しい出来事が起こってしまいました。昨年の12月20日に7組・高市恒和君が、そしてこの3月19日に8組・東野節雄君が急逝されました。お元気な笑顔しか思い浮かびません。謹んで哀悼の誠をささげます。
コロナも、オリンピックも、お花見も、食事会も、同窓会も、いつになったら治まり、出来るのか、考え方を変えなければ解決しないでしょう。賢明な市岡健児OB・12期生としては、イラついているとは思いますが、このホームページを通じて意見や考えを述べあって、発散させて、とりあえず元気な傘寿を迎えたいですね。
さて「12期の広場2021春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
そんな当時の子供たちも、今年は傘寿という節目の年です。次は卒寿・白寿と続きます。そして、百歳を迎えるわけです。どんな景色が待っているのでしょうか。楽しみに一歩・一歩を進みたいなと思って毎日のウォーキングに励んでいます。
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ウォーキングコース ・城山公園では 園児が遊ぶ |
でも、筆者の勝手な思惑どおりことは進みませんでした。家内の体調が極端に悪くなり、お正月を挟んで寝込んでしまいました。食事を全くとることが出来なくなって、体重がどんどん減っていくのが目に見えるぐらい。筆者持病の糖尿病の血糖値も上がり、インスリンの量も増えました。2月になってやっと専門医が見つかり、3月の中旬には、食欲もでて体重も増え始めて現在は70%ほど回復してヤレヤレと一息ついたところです。
「この年だから、何があっても不思議じゃないね」と挨拶代わりに言っていたのが現実になりましたが、それでも、ウォーキングだけは、毎日一万歩、3月22日現在、昨年5月27日から連続300日を続けています。体調はいいのに血糖値が上がったのは食事のせいだと勝手に思っています。
しかし、現実に悲しい出来事が起こってしまいました。昨年の12月20日に7組・高市恒和君が、そしてこの3月19日に8組・東野節雄君が急逝されました。お元気な笑顔しか思い浮かびません。謹んで哀悼の誠をささげます。
コロナも、オリンピックも、お花見も、食事会も、同窓会も、いつになったら治まり、出来るのか、考え方を変えなければ解決しないでしょう。賢明な市岡健児OB・12期生としては、イラついているとは思いますが、このホームページを通じて意見や考えを述べあって、発散させて、とりあえず元気な傘寿を迎えたいですね。
さて「12期の広場2021春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
1. 「4代・125年の家業」-(1) | ・・・・・・・・・・ | 8組 | 林 榮作 |
2. 近況-湖畔のラジオ体操 | ・・・・・・・・・・ | 3組 | 石井 孝和 |
3. 「武田尾”桜の園”亦楽山荘のこと」 | ・・・・・・・・・・ | 7組 | 張 志朗 |
以上
2021年4月1日
「 4代・125年の家業 」 ―(1)
8組 林榮作
私達が生まれた昭和16年頃の男性の平均寿命は50歳と言われていましたが、

昨年10月末をもって約60年の現役生活に終止符を打ち、同時に4代125年に亘る時計・貴金属の家業にも幕引きをいたしました。家業の歴史の重みを考えても、また、私が携わった約60年の間に承けた諸々のことを顧みても、先人に対し大変申し訳ない思いで一杯でありました。しかし、今日の社会情勢また私の環境を考えれば、諦(つまびら)かなるかなと思い決断いたしました。
振り返れば市岡高校在籍時は、好きなクラブ活動(体操部)に3年間取り組めて、良き時を過ごさせていただきました。今回は、人生の最終章を迎え12期生の一員として、来 し方を総括し残り少ない人生へのエネルギーを見つけたく、時計業界の事、歩んできた歴史、これからの思い、・・・を綴らせていただきました。
日本の時計は、明治5年になって明治政府の太陽暦の採用により、それまでの不定時法(昼間と夜間で時刻を計る単位が異なる)による和時計から、定時法(昼夜を問わず一日を等しく分割した時間単位)による西洋時計に切り替わりました。当初は欧米から輸入された舶来時計が中心でしたが、和時計で培われた技術をもとに、明治10年代から日本でも大阪や名古屋で掛時計の製造が始まったようです。しかしいずれも小規模で本格的な国産時計の生産は、後述の、服部時計店の製造まで待たなければなりませんでした。
後に“時計王”と言われた、SEIKO の創始者・服部時計店(現セイコーホールディングス)
の服部金太郎は、明治14年(1881年)、西洋時計の黎明期に創業し、当初舶来時計の輸入販売・修理をしていましたが、その中で培った貴重な経験の蓄積、そして2度にわたる欧米視察旅行で得た最新の技術・生産管理システムでもって、念願の国産時計の製造に乗り出し、明治25年(1892年)現在のセイコークロック株式会社の前身となる(精工舎)を設立して、国産八角掛時計を製造開始いたしました。
これが時計メーカーとしてのスタートとなり、順調に業績を拡大し、掛・置・懐中時計生産の職工数2000人余りの大企業に育てました。
時移り、服部金太郎翁の「一歩先を行く努力の継続」の理念を引き継いだ後継者は、太平洋戦争後いち早く復興し、一心不乱に「時」の夢を追い続け、後に国産ウォッチの名機 と称されるセイコーマーベルをベースに、昭和35年(1960年)初代グランドセイコーを発売しました。昭和39年(1964年)には、当時スイス時計の優秀さを世界に発信していたスイス・ニューシャテル天文台のコンクールに初参加、その3年後には最高の精度が証明されたクロノメーター規格のムーブメントを多数入賞させ、時計王国スイスを震撼させました。続いて昭和44年(1969年)、世界初のクオーツ時計「クオーツアストロン」を発売し、それ以後のクオーツウォッチの高精度、大衆化の流れの先頭を切ったのです。
一方、グランドセイコー・クレドールを筆頭とするメカニカルウォッチが中心の高級ウォッチにおいても、前述のニューシャテル天文台コンクール以後、技術と感性を磨き、その精度を飛躍的に上げるとともに、ブランディングによる差別化でロレックス、オメガ等スイス高級時計に対抗して世界に羽ばたき、ワールドリー ディング企業の地位を固めました。昭和・平成に至りセイコーを筆頭に日本はスイスと並ぶ時計王国となったのです。
扨、私の先祖の出所について少し述べたいと思います。
出身は、土佐の中村(今の高知県西部の四万十川の隣接町)です。私も四国88カ所遍路をしたとき、大先祖の墓参りに立ち寄りました。太平洋に面した雄大、風光明媚な場所で、一瞬・坂本龍馬の気分になったのを覚えています。当時、血気盛んな初代は、青雲の志をもって大坂に出て来たのではないかと推察しています。
江戸時代の安永年間(1750頃)に大阪・西区・西長堀にあった土佐藩蔵屋敷(現在の大阪市・西区・西長堀にある土佐稲荷神社・・・三菱グループの創業者・岩崎弥太郎の創業地でもあります)の南側にあった堀江川 (1960年運河の埋め立てで今はありません)にかかる黒金橋(くろがねばし)のたもとで、「土佐屋」の屋号で、土佐の海産物の取り扱いを行ったのが大坂におけるスタートと聞いております。


以来2代後の私の祖父が、明治28年(1895年)当時和時計に代わり黎明期にあった西洋時計が勃興の時期、大阪市・西区・新町(現在の土佐稲荷神社の北側約100mの地)にて「林時計店」を創業、同一場所にて現在に至るまで営業いたしました。
祖父は創業時より、後に「時計王」と言われる服部金太郎の「服部時計店」との取引を関始(その関係は閉業まで途切れることなく続くことになります)。
当時輸入品に頼っていた掛時計・懐中時計を何とか国産でとの熱意に賛同、特に2代目の私の父の代には卸・小売りと取引量も増加いたしました。同時に、シーベルヘグナー(オメガ)、リーベルマン(ロレックス)と、日本市場に大きな影響力を持っていた外国商社と、現金による直取引を経て絶大な信用を得、店も大変賑わったと聞いています。
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大阪大空襲で焼失した
懐中時計の一部 |
太平洋戦争後引き継いだ3代目の兄は、ゼロからの再出発にあたり、当時、密輸ウォッチ全盛の中にあって、掛・置き時計・腕時計の卸・小売りを中心に、今で云うところのコンプライアンス順守の先頭に立って、 一歩ずつ業績を拡大していきました。
全販売店の99%が卸店経由の商品供給の中、創業以来良好な関係のSEIKOとの直取引により、取引先に最新の商品の供給・価格・サービスを提供してまいりました。そして、昭和30年代より時計王国スイスの牙城を崩さんとする、セイコーウォッチの技術開発に協力して取引を拡大し、特に昭和40年代後半のウォッチのクオーツ化においては、その将来の可能性に着目し、開発段階より協力、そしてその普及化・販売拡大をいち早く強力に推進いたしました。私にとっても新しい時代の到来を実感し、進む道への自信が湧いたのを覚えています。
一方、1960年代には当時未整備であった医療機器のメガネにおいて、いち早く「眼鏡士」を取得してメガネ部門を、また1980年代にはジュエリー部門を創設して業務を拡大、1990年代には「直取引の全国老舗時計店100社」と「 服部セイコー」が協力して独自ブランド「CULESTA(クレスタ)」を立ち上げました。
1992年にはヨーロッパ( スイス・イタリア・スペイン・イギリス)視察・研修で得た先見性と永年培った信用と技術力をもとに、業績を拡大していきました。
(次号に続く)
2021年4月1日
近況 - 湖畔のラジオ体操
3組 石井 孝和
滋賀県のびわ湖には、室町時代以降に名づけられたという「近江八景」があります。
▽石山の秋月 ▽瀬田の夕照 ▽矢橋の帰帆 ▽堅田の落雁 ▽粟津の晴嵐 ▽三井の晩鐘
▽唐崎の夜雨 ▽比良の暮雪 と心にしみいるような旅情がこめられています。
この中の「唐崎の夜雨」の地に住む私は毎朝、小型の携帯ラジオとカメラを持って“唐崎の松”が立つ唐崎神社境内の湖畔に出かけるのを日課としています。 “唐崎の松”は江戸時代の絵師・安藤広重の絵にも描かれています。また松の木の脇には松尾芭蕉が“唐崎の松は花より朧にて”と詠んだ句碑があります。
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ラジオ体操の場所から見える比良山系 |
午前6時半になるとNHKのラジオ体操が始まります。ピアノ伴奏にあわせて「第1」で体をほぐし、「第2」でしっかり体をはずませ新鮮な空気を胸いっぱいにします。岸辺に茂るよしや湖面に遊ぶ水鳥など四季折々、変化する風景を眺めながらのラジオ体操です。コロナ禍もあって訪れる人が数少なくなっていますが、たまに他府県から来られた人がびわ湖の風景を楽しんでいます。そんなとき、声をかけられると「琵琶湖」についての豆知識を披露しています。
▽水面の高さは大阪城の天守の屋根と同じ、大阪湾の干潮時からの高さ85メートルであること。
▽水の量は近畿1300万人の約15年間の飲み水にあたる
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『令和3年2月No488 79歳』とあります |
追伸:少し遅くなりましたが、滋賀の方でもサクラの‟開花宣言“がありました。いつものラジオ体操の場所からもさくらの景色が見られましたので写真に撮りました。
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湖畔のさくら | 湖畔で見る日の出 |
2021年4月1日
「武田尾“桜の園” 亦楽山荘(えきらくさんそう)のこと」
7組 張 志朗
「今年のさくらの開花は早いようですね。」そんな話を聞きながら、ふと思い立って武田尾の桜の園を訪ねてみました。電車で一駅、自宅から30分。3月初めなのに陽気は4月上旬なみでした。

川の両岸を単線でのんびりと走っていた旧福知山線も今はトンネル主体の複線新ルートで、武田尾の駅の大部分はトンネルの中。一部武庫川にかかる部分だけが、橋のような空中駅です。
駅から15分くらい。旧福知山線の二つのトンネルを越えた所の親水広場横に、“桜の園“『亦楽山荘』と呼ばれる40ヘクタールの山林への入り口があります。
ここは明治45年、笹部新太郎氏がサクラの保存・品種改良やつぎ木などの研究のために拓いた演習林で、


現在はいくつかのハイキングルートが設定されています。ただしすべて山道で、アップダウンが激しく、私の脚力では全コース踏破は無理。この日も“桜坂”を越えて、周回路の“さくらの道”に入り、“育樹の丘”の東屋で、はやばやと休憩しました。入口から1Km弱だと思いますが、急な登りに息がきれます。それだけに、“桜坂”でヤマザクラとエドヒガンザクラの巨木に出会ったときは思わずオォーッと声がでてしまいました。ほかにもオオシマザクラ、カスミザクラ、ウワミズザクラなどがあり、実に多様です。こう書くと私が桜の種類に詳しいような印象になりますが、すべて木に掲げられた銘板の助けによるものです。
花はこれからです。サクラの早い今年でも4月に入ってからが見頃でしょうし、種類ごとに順次咲いては散って、を繰り返し約4週間程度、花が楽しめるとのことです。
『亦楽山荘』周辺のサクラは、日本の固有種または固有種にちかい山桜、里桜が主で、ソメイヨシノは少ないようです。大量に植えられ、一斉に咲きそして散るソメイヨシノに慣れ切った私ですが、4月にまたここを訪ね、多彩な山桜・里桜を楽しんでみようと思っています。
資料に載っている笹部新太郎氏(1887~1978)のことを少し書きます。お生まれは大阪の堂島の裕福な商家で、東京帝国大学法学科を卒業され、その生涯と莫大な私財を山桜、里桜の研究と保護・育成にささげられた方です。水上勉氏の『櫻守』の主人公のお一人、「竹部庸太郎」のモデルであり、関西は勿論、全国の名もなき桜までをも訪ね歩かれたそうです。大阪造幣局の通り抜けの桜、夙川・甲山周辺の桜の管理指導、なかでも1960年、岐阜県御母衣ダム工事で水没する樹齢400年のエドヒガンザクラの巨木二本の移植を行うなど、その業績は数えきれません。

東屋周辺の見事なモミジを見ながら、周回路を“隔水亭”に向かいました。“隔水亭”は、笹部氏の研究拠点で、現在あるものは二代目だそうです。小ぶりで質素でしたが、机上研究もさることながら、フィルドワークが主で、つぎ木の技術など職人はだしであった笹部氏の人となりが偲ばれるようで、感じ入りました。
道中、数人のボランティアと出会いました。“櫻守”と書かれたヘルメットに、山仕事用の作業服で、
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周回路の“桜坂“の案内板にあった写真です |
美しい桜山にはそれにふさわしい美しい物語があるものですね。サクラを守り、支えるご苦労に、感謝の気持ち一杯になりました。
2021年1月1日
「12期の広場2021新春号」のラインアップ
あけましておめでとうございます。今年も「12期の広場」をよろしくお願い申し上げます。
旧年はコロナ禍一色。特に年末に感染拡大するなど、経験したことのない重苦しい一年でした。それだけに新しい年を迎えての感慨は、ひとしおのものがありますね。新年はウイズコロナであっても、一日でも早く穏やかな日常を取り戻し、笑顔で過ごせる年になってほしいと祈るばかりです。その願いを込めて、カット写真は華やかな「桜の白鷺城」(高見政博君が撮影)にしました。
「12期の広場」も満10年が過ぎ、11年目に入りました。2011年から2018年までは毎月の1日に更新、2019年からは3か月に1回の更新になりましたから、この新春号が105回目。一寸驚きです。長きにわたって「12期の広場」を続けることができたのは、ひとえに同窓生皆さんのご協力があってこそと、心より感謝しております。
広場開設は古希、70才になった年でした。そして開設11年目の今年は傘寿、80歳になる年であります。
振り返れば私たちの70才代は意気軒高。同窓会には多くの学友が集い、恩師を囲んでの楽しい時間を過ごしました。また、色々な機会を作っては集まり、よく遊び、よく食べ、よく飲んで、たくさんのおしゃべりを楽しみました。一方、多くの大切な学友が鬼籍に入る悲報もありました。10年の「12期の広場」は、まさにその写し鏡であったようです。
いよいよ80才代、文字通り人生の胸突き八丁、終着点が予感できる年齢に達しています。こんな時期にコロナ禍とは、との思いも強くありますが、この時代を生きる私たちのめぐりあわせと受け入れるしかありません。楽しみにしていた東京オリンピックの開催を含めて先行きはさらに不透明で、いろいろなことが起こってくることでしょう。
「12期の広場」は ‟皆さんと共にありたい”を道標に、この新春号からまた新しい歩みを始めたいと思っています。重ねて、これからも一層のご協力ご支援をお願い申しあげます。
さて「12期の広場2021新春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
「12期の広場」も満10年が過ぎ、11年目に入りました。2011年から2018年までは毎月の1日に更新、2019年からは3か月に1回の更新になりましたから、この新春号が105回目。一寸驚きです。長きにわたって「12期の広場」を続けることができたのは、ひとえに同窓生皆さんのご協力があってこそと、心より感謝しております。
広場開設は古希、70才になった年でした。そして開設11年目の今年は傘寿、80歳になる年であります。
振り返れば私たちの70才代は意気軒高。同窓会には多くの学友が集い、恩師を囲んでの楽しい時間を過ごしました。また、色々な機会を作っては集まり、よく遊び、よく食べ、よく飲んで、たくさんのおしゃべりを楽しみました。一方、多くの大切な学友が鬼籍に入る悲報もありました。10年の「12期の広場」は、まさにその写し鏡であったようです。
いよいよ80才代、文字通り人生の胸突き八丁、終着点が予感できる年齢に達しています。こんな時期にコロナ禍とは、との思いも強くありますが、この時代を生きる私たちのめぐりあわせと受け入れるしかありません。楽しみにしていた東京オリンピックの開催を含めて先行きはさらに不透明で、いろいろなことが起こってくることでしょう。
「12期の広場」は ‟皆さんと共にありたい”を道標に、この新春号からまた新しい歩みを始めたいと思っています。重ねて、これからも一層のご協力ご支援をお願い申しあげます。
さて「12期の広場2021新春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
1. 「薬師岳登山とコロナ禍」 | ・・・・・・・・・・ | 5組 | 泉 信也 |
2. 「「マルオヒロカズ御伽草子展」に行ってきました。」 | ・・・・・・・・・・ | 7組 | 張 志朗 |
3. 「つれづれに – 鍋が美味しい」 | ・・・・・・・・・・ | 井 の 蛙 |
以上
2021年1月1日
薬師岳登山とコロナ禍
5組 泉 信也
コロナ禍のなか、自粛の禁を破って、8月に古い山仲間と「薬師岳」に登った。
薬師岳は標高2,926m、飛騨山脈立山連峰の縦走路の中ほどに位置し、岳人憧れの「雲の平」への入り口でもある。気品のある山容と氷河地形の痕跡を残すカール(圏谷)は、国の特別天然記念物となっている。昭和38年冬にはいわゆるサンパチ豪雪の中で、愛知大学山岳部の13人が吹雪にまかれ遭難した山として未だに記憶に残る。


それにしても先が見えない。日々の暮らしはもとより、山登りやへぼな俳句の集まりもままならない。重苦しい気分が続く。そんなある日、知人から「感染した、すまないがあなたは濃厚接触疑い」と連絡があった。身に降りかかるとは思いもよらず、「陰性」判定が出るまでの一週間は、自分のことはともかく、家族や仲間に移してはいないかと不安が先に立ち、「いやな感じ」。初めて身仕舞いのことなども考えた。
コロナ禍の後では世の中が大きく変わるとか、皆が口をそろえる。人類の歴史は感染病の歴史。紀元前の大昔からコレラ、ペスト、結核、天然痘、マラリヤ、チフス、エイズ、SARS、MERSと枚挙に暇がないが、ヒトはこれらを克服し、進化を遂げてきたという。この度の新型コロナ後はどうなるのか。21世紀は「未曾有の時代」の幕開けだが、自然破壊と度重なる天災、人災に、グローバル化によるパンデミックが加わり、非日常が日常となることを受け入れねばならないのだろうか。答えを見つける旅が始まる。新しい日常に適応するも、せざるも、夫々が自由で納得のいく生き様を探ることになろう。
それにしても「薬師岳」山行に救われた。新しい年が平穏に明け、リモートでなく生身で皆さんと再会できる日が早やからんことを祈る。
2021年1月1日
『マルオヒロカズ御伽草子展』に行ってきました。
7組 張 志朗
『マルオヒロカズ御伽草子展』が2020年11月17日から22日まで、大阪市福島区のメリヤス会館ラッズギャラリーで開催されました。20日(金曜日)の午後、末廣訂君と一緒に行ってきました。
コロナ禍のさなかで、街中に出かけるのを控えていましたので、久々の大阪市内歩きです。JR新福島駅から会場までは、市電が走っていた時代からも大きく変貌した地域の一つ。末廣君からこの付近にある旧跡のエピソードを聞かせてもらいながら歩きました。
圓尾君の個展に行くのは久しぶりです。またコロナ禍による巣ごもりが続いていただけに絵を見るのは新鮮で、刺激的でした。
まず入口正面の『財前童子』が目に飛び込んできます。布カンバスにアクリルや油絵具など使って描かれた大作。頂いた案内状に書かれていた『OTOGIZOUSI 命に潜む精霊をたずねて』がすんなり心に入ってきます。
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作品はこの20年くらいの間に描かれたものの内、御伽草子シリーズに入るものが中心でした。

圓尾君、末廣君と絵の事や市岡の思い出話に花が咲きました。特に末廣君が玉田先生の日本史の授業に知的好奇心が大いに刺激されたこと、そのお陰で95点を取り、席次上位で貼り出されたこと、さらにそれが最初で、最後であった話には大笑いでした。
帰路、末廣君と軽く一杯飲んでまたおしゃべりです。やはりこうして同窓生と会え、話ができることは、いまさらながらに楽しくまた嬉しいものであることを実感しました。
2021年1月1日
つれづれに - 鍋が美味しい
鍋料理が美味しい季節になった。80才を眼前にした今日この頃は、食が細くなり、また思うほどに進まない。しかし鍋料理だけは別のようである。寒風に身をさらした後、湯気一杯の鍋料理にありつくと、それはそれは幸せな心持になる。
一口に鍋料理と言っても色々あるが、テーブルのコンロに鍋をのせて食べる料理と限定しても、本当にたくさんの種類がある。
書いてみると、湯豆腐、おでん、すき焼き、ブタしゃぶ、牛しゃぶ、もつ鍋、つみれ鍋、どて鍋、餃子鍋、しゅうまい鍋、ちゃんこ鍋、うどんすき、カニすき、たら鍋、カワハギ鍋、あんこう鍋、キムチチゲ鍋、スンドゥブチゲ、テッチャン鍋、てっちり、くえ鍋 等々。思うままにまかせてもこれだけ出てくる。
さらに、出汁ベースで考えても、和風、韓国風、中華風、欧風に東南アジア風、そのほかのエスニック出汁を考えると鍋料理の種類は限りがない。
家庭で食べる鍋は時期や家族構成や年齢とその嗜好、懐具合によりバリエーション豊かに変わる。いわんや、手を変え、品を変えての飲食店ではなおのことである。また鍋料理ほど家族団らんが似合うものはない。不思議と会話がはずむのも醍醐味の一つ。しかし残念ながら、この頃は夫婦のみ、時には一人鍋のことが多い。
手元不如意が毎日のことでやるせないが、てっちり、くえ鍋は滅多に食することはない。もっぱら、ポピュラーな湯豆腐と冷蔵庫にある残り物を使った湯豆腐まがいの鍋である。(誤解がないように加筆するが、“まがい鍋”は家内不在時に、困って自分で作る一人鍋である。)
てっちりは忘年会、新年会などで食することが多かったが、それも回数が減った。これは店により、価格により食する部位や料理の仕方がかわり、千差万別。淡白でありながらも豊かな滋味と身の締まりと舌ざわりから、確かに美味である。
くえ鍋も同様。九州地方などでは‟あら鍋“と呼び、てっちりより旨いと言う。それを実感したことが一度だけある。古い話で恐縮だが、還暦祝いにと後輩が一席設けてくれた店でのくえ鍋が、絶品であったことをいまだに覚えている。店の大将曰く。和歌山の漁師直送のくえを使っているそうで、それもたやすくは手に入らないから、毎日電話をしてやっとの思いで手に入れる。また、くえ鍋ほど、‟まがい物”が出回っているものはないと言う。その言に従えばそれ以来、‟本物”と思われるくえ鍋は食べていない。
息子、特に孫が来たときは、すき焼きが定番になり、カニすきは正月と、おおむね決まっている。
鍋の中でよく食べるのは、やはり湯豆腐だろう。豆腐と白菜、ネギにポン酢があれば満足で、簡単にできる。さらに春菊が手に入れば言うことがない。しかも淡白で味わい深く、食が進み野菜がたくさんたべられる。
豆腐は“絹ごし”、もっぱらスーパーマーケットのそれ。味のレベルは高い。“絹ごし”とはよく言ったもので、肌のきめ細やかさ、箸当たりと口に含んだ時の舌触りのまろやかさ、旨味は格別で、うれしくなる。たまに、豆腐の移動販売車から買うことがあるが、さすがに大豆の香りや旨味が強く、湯豆腐が際立つ。しかしタイミングが問題で毎回というわけにはいかない。
白菜もスーパーで売っていてそれを使うが、やはり冬の白菜が一番。良い白菜に当たった時は思わずニヤリ。柔らかくみずみずしくて甘みが強く、旨さが一層引き立つ。
具にも、薬味にもかかせないのがネギである。具のネギは煮すぎないようにして食べる。春菊はしゃぶしゃぶした半生を食べるのが一番と思うがどうだろうか。薬味のネギは、きざみたてが一番。特有の青臭い香りと辛みは薬味として必須である。ついでに書けば、下の孫の大好物がネギであることもうれしい。
要はポン酢。家内が選び、買い置いたものを使うが、その「旭ポン酢」を気に入っている。
筆者はポン酢好きである。宴会の席でもポン酢の入れ替えは必ずお願いする。ポン酢がうすまり、出汁のようになって味がぼけるのが嫌である。昔はポン酢などという‟上等品“ではなく、酢と醤油を使っての間に合わせであった。事実、独身で一人暮らしをしていた若い頃、豆腐と白菜、出汁雑魚だけで湯豆腐を作ったことが幾度もあったが、‟味の素“を入れた‟酢醤油“で食べ、満足していた。
こう書いてくると、鍋好き男の下手な‟食レポ風“になってしまいそうだが、どうしてどうして、ただ一寸かたよった味覚の持ち主の鍋への戯言なのである。
考えてみれば、結局‟酢“が好きなのである。実際、酢の効いた食べ物はおおむね好物で、特に母が作った“胡瓜の味噌酢もみ”はそれだけでもご飯をお代わりすることができた。たびたび酢を使ったおかずが出ていたことを考えると、母も酢が好物であったのだろう。
筆者が3~4才頃、夜が明ける前から “マンマ、マンマ”と母の頬を打っていたと母から聞かされたことがある。それだけ幼い頃から食い意地がはっていたことは間違いない。
男の味覚は幼くしては母、結婚しては妻、老いては嫁に左右されると聞けば、一寸わびしい感じがする。しかし食い意地が張ってもしょせん味覚は、食通のそれにほど遠いのが実態で、ありていに言えば“ほどほど”で良いと思っている。つまるところ、好物の味でお腹がふくれ、それなりの満足感が得られればいう事がないのである。
人生も最終章。今、美味しいと思い、食するものがあると言う事は本当に有難いと、しみじみ思っている。
一口に鍋料理と言っても色々あるが、テーブルのコンロに鍋をのせて食べる料理と限定しても、本当にたくさんの種類がある。
書いてみると、湯豆腐、おでん、すき焼き、ブタしゃぶ、牛しゃぶ、もつ鍋、つみれ鍋、どて鍋、餃子鍋、しゅうまい鍋、ちゃんこ鍋、うどんすき、カニすき、たら鍋、カワハギ鍋、あんこう鍋、キムチチゲ鍋、スンドゥブチゲ、テッチャン鍋、てっちり、くえ鍋 等々。思うままにまかせてもこれだけ出てくる。
さらに、出汁ベースで考えても、和風、韓国風、中華風、欧風に東南アジア風、そのほかのエスニック出汁を考えると鍋料理の種類は限りがない。
家庭で食べる鍋は時期や家族構成や年齢とその嗜好、懐具合によりバリエーション豊かに変わる。いわんや、手を変え、品を変えての飲食店ではなおのことである。また鍋料理ほど家族団らんが似合うものはない。不思議と会話がはずむのも醍醐味の一つ。しかし残念ながら、この頃は夫婦のみ、時には一人鍋のことが多い。

てっちりは忘年会、新年会などで食することが多かったが、それも回数が減った。これは店により、価格により食する部位や料理の仕方がかわり、千差万別。淡白でありながらも豊かな滋味と身の締まりと舌ざわりから、確かに美味である。
くえ鍋も同様。九州地方などでは‟あら鍋“と呼び、てっちりより旨いと言う。それを実感したことが一度だけある。古い話で恐縮だが、還暦祝いにと後輩が一席設けてくれた店でのくえ鍋が、絶品であったことをいまだに覚えている。店の大将曰く。和歌山の漁師直送のくえを使っているそうで、それもたやすくは手に入らないから、毎日電話をしてやっとの思いで手に入れる。また、くえ鍋ほど、‟まがい物”が出回っているものはないと言う。その言に従えばそれ以来、‟本物”と思われるくえ鍋は食べていない。
息子、特に孫が来たときは、すき焼きが定番になり、カニすきは正月と、おおむね決まっている。
鍋の中でよく食べるのは、やはり湯豆腐だろう。豆腐と白菜、ネギにポン酢があれば満足で、簡単にできる。さらに春菊が手に入れば言うことがない。しかも淡白で味わい深く、食が進み野菜がたくさんたべられる。
豆腐は“絹ごし”、もっぱらスーパーマーケットのそれ。味のレベルは高い。“絹ごし”とはよく言ったもので、肌のきめ細やかさ、箸当たりと口に含んだ時の舌触りのまろやかさ、旨味は格別で、うれしくなる。たまに、豆腐の移動販売車から買うことがあるが、さすがに大豆の香りや旨味が強く、湯豆腐が際立つ。しかしタイミングが問題で毎回というわけにはいかない。

具にも、薬味にもかかせないのがネギである。具のネギは煮すぎないようにして食べる。春菊はしゃぶしゃぶした半生を食べるのが一番と思うがどうだろうか。薬味のネギは、きざみたてが一番。特有の青臭い香りと辛みは薬味として必須である。ついでに書けば、下の孫の大好物がネギであることもうれしい。
要はポン酢。家内が選び、買い置いたものを使うが、その「旭ポン酢」を気に入っている。
筆者はポン酢好きである。宴会の席でもポン酢の入れ替えは必ずお願いする。ポン酢がうすまり、出汁のようになって味がぼけるのが嫌である。昔はポン酢などという‟上等品“ではなく、酢と醤油を使っての間に合わせであった。事実、独身で一人暮らしをしていた若い頃、豆腐と白菜、出汁雑魚だけで湯豆腐を作ったことが幾度もあったが、‟味の素“を入れた‟酢醤油“で食べ、満足していた。
こう書いてくると、鍋好き男の下手な‟食レポ風“になってしまいそうだが、どうしてどうして、ただ一寸かたよった味覚の持ち主の鍋への戯言なのである。

筆者が3~4才頃、夜が明ける前から “マンマ、マンマ”と母の頬を打っていたと母から聞かされたことがある。それだけ幼い頃から食い意地がはっていたことは間違いない。
男の味覚は幼くしては母、結婚しては妻、老いては嫁に左右されると聞けば、一寸わびしい感じがする。しかし食い意地が張ってもしょせん味覚は、食通のそれにほど遠いのが実態で、ありていに言えば“ほどほど”で良いと思っている。つまるところ、好物の味でお腹がふくれ、それなりの満足感が得られればいう事がないのである。
人生も最終章。今、美味しいと思い、食するものがあると言う事は本当に有難いと、しみじみ思っている。
( 井の蛙 )
2020年10月1日
「12期の広場」2020秋号のラインアップ
10月ですね。気温も「お彼岸の中日」を過ぎて後、安定して涼しくなりました。今、しみじみと秋を実感しています。
今年の夏は酷い暑さとコロナ禍が重なり、汗まみれの「巣ごもり」を余儀なくされましたね。特に冷房が苦手な筆者は、昼はクーラーのオン・オフを繰り返し、夜はタオルを首に巻いて寝る始末で、逃げ場のない巣ごもりには、ほとほと参ってしまいました。それだけに涼しい風のありがた味が身にしみ、生き返ったような気持ちになっています。しかし、コロナ禍はいまだに終息の見通しが立たず、その予断を許していません。
記録的豪雨に記録的台風、記録的暑さ、加えて新型コロナウィルスの感染症も記録的なのでしょう。何につけて穏やかに移ろい、そして調和するのが時節や風物と思い込んでいるのですが、こう「記録的〇〇」と続くと、ドキリとしてしまいます。
「市岡カレンダー」も今年はさっぱり。同窓生とも長い間お会いできていません。
4月の舞洲のお花見の中止に始まり、奈良と兵庫の歩こう会の例会も中止になりました。暑気払いと思っていたミニ同窓会も開けず、カナダ在住の山本久美子(旧姓:古荘)さんを迎えての恒例「里帰り食事会」も出来ませんでした。人とふれあい、学び、感じ、共にすることがどれほど大切かを痛感しています。そこで、同窓生有志の皆さんに近況の執筆をお願いし、今号に掲載しました。皆さんお元気で前向きです。一日も早く同窓生の皆さんと直にお会いし、楽しく有意義な時間を過ごしたいものですね。
先日、新聞の訃報欄で江口大象先生が9月3日、85歳でお亡くなりになったことを知りました。母校でお教えいただいときのお名前は、江口啓爾先生です。卒業アルバムを見ますと、芸術科書道担当とあります。筆者は書道を選択しなかったので授業を受けていませんが、若々しく凛とされた先生であったと記憶しています。1組の荒川安子さんが出展された書道展(大阪市立美術館)に川村浩一君とお伺いした時、50数年ぶりにお会いしました。書の世界は全くの門外漢ですが、親しみ易さの中に豪放磊落、カリスマ性溢れる、書の大家でいらっしゃいました。荒川さんが書家として師事された先生でもあります。
江口先生は書道研究璞社の会長として日本の書道界をリードしてこられ、平成22年から平成30年まで「現代書道二十人展」のメンバーに選ばれておられます。また日本書芸院常務理事・顧問を歴任されました。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
ラインアップのカット写真は、わが家の屋上からとった夕空です。散歩の途中、美しい夕映えの雲を見つけ、急いで自宅に戻りカメラを向けたのですが、あっと言う間に変化して、ごく普通のあかね雲の写真になってしまいました。 “秋の夕暮れは、つるべ落し”とはよく言ったものです。
暮れなずむ窓下から虫の音が聞こえてきます。蜩(ひぐらし)の清涼な声を聞くことなく迎えた秋、この秋もまた駆け足になりそうですね。しばらくすれば、一段と秋色は深まり、山々はとりどりの紅葉で装うことでしょう。
さて、わが「12期の広場」2020秋号のラインアップです。上に書きましたように有志の皆さんに「巣ごもりの記」を書いていただきました。お楽しみください。
今年の夏は酷い暑さとコロナ禍が重なり、汗まみれの「巣ごもり」を余儀なくされましたね。特に冷房が苦手な筆者は、昼はクーラーのオン・オフを繰り返し、夜はタオルを首に巻いて寝る始末で、逃げ場のない巣ごもりには、ほとほと参ってしまいました。それだけに涼しい風のありがた味が身にしみ、生き返ったような気持ちになっています。しかし、コロナ禍はいまだに終息の見通しが立たず、その予断を許していません。

「市岡カレンダー」も今年はさっぱり。同窓生とも長い間お会いできていません。
4月の舞洲のお花見の中止に始まり、奈良と兵庫の歩こう会の例会も中止になりました。暑気払いと思っていたミニ同窓会も開けず、カナダ在住の山本久美子(旧姓:古荘)さんを迎えての恒例「里帰り食事会」も出来ませんでした。人とふれあい、学び、感じ、共にすることがどれほど大切かを痛感しています。そこで、同窓生有志の皆さんに近況の執筆をお願いし、今号に掲載しました。皆さんお元気で前向きです。一日も早く同窓生の皆さんと直にお会いし、楽しく有意義な時間を過ごしたいものですね。
先日、新聞の訃報欄で江口大象先生が9月3日、85歳でお亡くなりになったことを知りました。母校でお教えいただいときのお名前は、江口啓爾先生です。卒業アルバムを見ますと、芸術科書道担当とあります。筆者は書道を選択しなかったので授業を受けていませんが、若々しく凛とされた先生であったと記憶しています。1組の荒川安子さんが出展された書道展(大阪市立美術館)に川村浩一君とお伺いした時、50数年ぶりにお会いしました。書の世界は全くの門外漢ですが、親しみ易さの中に豪放磊落、カリスマ性溢れる、書の大家でいらっしゃいました。荒川さんが書家として師事された先生でもあります。
江口先生は書道研究璞社の会長として日本の書道界をリードしてこられ、平成22年から平成30年まで「現代書道二十人展」のメンバーに選ばれておられます。また日本書芸院常務理事・顧問を歴任されました。慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
ラインアップのカット写真は、わが家の屋上からとった夕空です。散歩の途中、美しい夕映えの雲を見つけ、急いで自宅に戻りカメラを向けたのですが、あっと言う間に変化して、ごく普通のあかね雲の写真になってしまいました。 “秋の夕暮れは、つるべ落し”とはよく言ったものです。
暮れなずむ窓下から虫の音が聞こえてきます。蜩(ひぐらし)の清涼な声を聞くことなく迎えた秋、この秋もまた駆け足になりそうですね。しばらくすれば、一段と秋色は深まり、山々はとりどりの紅葉で装うことでしょう。
さて、わが「12期の広場」2020秋号のラインアップです。上に書きましたように有志の皆さんに「巣ごもりの記」を書いていただきました。お楽しみください。
1. 「お元気ですか」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 2組 | 北浦 昌子 |
2. 「アイちゃん、ありがとう」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 4組 | 酒井 八郎 |
3. 「みなさん元気ですか」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 7組 | 上野 裕通 |
4. 「わが家の八月」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 8組 | 塩野 憲次 |
5. 「私の巣ごもりの記」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 8組 | 榎本 進明 |
6. 「毎日が日曜日」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 8組 | 末廣 訂 |
7. 「僕のゴルフ奮戦記」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ | 8組 | 萩原 貞雄 |
以 上
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- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより:
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