12期の広場

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第6回市岡高校東京12期会報告書

8組 山田正敏

 東京での12期同期会を立ち上げ10年。第6回目の市岡高校東京12期会を11月16日(土)銀座「三笠会館」にて13時より開催予定で皆さんに連絡。

 男女合わせて21名の参加連絡を頂いていたが、13時迄に30分遅刻の連絡をもらっていた佐藤君を除き、20名が集合。誕生以来6周り目の「巳年」、今年度で72歳、いずれも爺さん、婆さんではある。しかし、我が同期生はひいき目ではあるが世間の72歳と比べ若い。爺さん、は54年前の美青年の名残があり、婆さん方もマドンナの面影がかすかに垣間見る事ができる気がしました。

 ともあれ榎本幹事長の開会の辞、大石橋会長の挨拶、張全同窓会幹事の来賓挨拶そしてその間遅れていた佐藤君も到着。川合幹事の乾杯の発声で瞬く間に会は無礼講の佳境に入る。その後、かなりのアルコールが入った後、全員各自の近況報告をしてもらった。

 近況報告の中で新しい川歩き「荒川 川歩き」の報告をリーダーの西条君よりしてもらった。
今回で4回目で後2回で水源に到達予定との事。

 最後は恒例の全員による記念写真を榎本幹事長のカメラで撮影。

 酒の量が多すぎたのか会費が足らなかったようであるが、小生は既に出来上がり過ぎて、その顛末は良くわからない。

 最後はカラオケである。15~16名は参加したと思われるが、わいわいがやがやとにかく楽しく19時前には散会となった次第である。


(追)7月20日(土)13時より新宿三井ビルで東京市岡会の総会あり参加。
   12期参加者は榎本君、中柴君と小生(山田)

 会も終盤、5期の先輩の話である。
5期の同窓会は今年で終わりにしたという。解散である。理由は色々あるが要は会員の老齢、病、死亡、による不参加者の増大であるらしい。5期といえば我々より7年上、79才。

 少し早すぎると思うが我々12期が何時まで同期会を続けられるか。小生、人生90年を目標として皆さんに明言している。何がどうなるか勝手な目標であるが、少なくともこの会は出来れば88才の米寿まで続けられればと思っている。夢か! 皆さんいかがですか。


第6回「12期会」出欠状況
出席:「男子」
西条 軍蔵(3組)、重松 清弘(4組)、川合 兵治(4組)、阿部 清二(5組)、
泉 信也(5組)、中山 賀弘(5組)、大石橋 宏次(6組)、中柴 方通(6組)、
佐藤 裕久(6組)、平松 弘行(6組)、大西 佑治(7組)、榎本 進明(8組)、
緒方 宏文(8組)、辻 紘一郎(8組)、稲田 紘(8組)、村崎 裕昭(8組)、山田 正敏(8組)、 
大阪より:張 志朗(7組)             以上18名

   「女子」
上原 澄子(1組)、佃 富江(2組)、坂野 雅子(2組)  以上3名
 

欠席:
須藤 憲司(7組) ・大変ご無沙汰しています。 当日、小生は元所属していました事業所の催しが有り、滋賀県守山に参ります。申し訳御座いませんが欠席させていただきます。ご出席の皆様に宜しくお伝えください。
森重 克己(3組) ・ご案内ありがとうございました。勝手ながら欠席させていただきます。
小林 勝之(8組) ・ 病弱の為、来る平成25年11月16日、開催の市岡高校東京12期会に出席する事は困難であります。ご理解の程お願い申し上げます。
佐藤 登 (8組) ・市岡高校東京12期会のご案内、誠にありがとうございます。都合により、欠席させていただきますので、よろしくご了承の程、お願い申し上げます。
萩原 貞男(8組) ・市岡東京12期会の案内ありがとう。前回? 美々卯からもう2年も経ちましたか。歳のせいか時の流れが実感しにくくなりました。当日は、伊豆で一泊ゴルフを今年の初めから予定しており残念ながら欠席。皆様にお会いしたいのはやまやまなのですが、よろしくお伝えください。
興梠 十七郎(5組) ・暑い夏も過ぎ、秋を感じるようになりました。お元気にお過ごしの事と思います。今回の同窓会の件ですが、体調不良もあり、参加できません。皆様によろしくお伝え下さい。
三浦 孝文(7組) ・同窓会の案内メール頂きましたが、欠席させて頂きます。ご盛会をお祈りします。
橋本 豊 (7組) ・第6回目の開催との事ですが、残念ながら今回も欠席とさせていただきます。昨年12月脊柱管狭窄症を手術しましたが、いまだ完治せず憂鬱な日々を送って おります。医師の話では加齢が大きな要因とのことなので、皆さんもあまりご無理をされる事のなきよう健康には十分配慮してご自愛ください。
村木 雅章 (8組) ・4年ぐらい前からになりますか、医者からは何度ももうだめだといわれながら、その都度、医者も首をかしげるほど奇跡的に回復し、自慢していたが、今回は体調思わしくなく欠席するとの返事。心配している。 
古谷野 泰子(1組) ・両眼の白内障手術の為欠席。通常の白内障と違い、困難な手術のようで、両眼共成功しても2~3週間程度掛かるらしい。皆さんによろしくとの事。
高谷 尚江(2組) ・当日は法事があり(関西・亀岡か?) 欠席。
杲田 慶子(2組) ・ご主人が仕事から引退。長野県茅野市に転居しばらくはのんびりするとの事で今回は欠席。


住所・転居先不明:
山崎 巌 (7組) ・封書にて案内・・・「あて所に尋ねあたりません」との事、TELするも不通。行方不明 ?  (10月10日現在)


同窓会代表幹事 酒井八郎君のメッセ-ジ (張 志朗君が代読)

 市岡高校東京12期会の皆さん、こんにちは。酒井八郎です。

 高校卒業後、54年目の今日の集い、おめでとうございます。

 4年前、卒業50周年を迎え、母校の第62回卒業式に参列させていただき、記念の同窓会を催したのが、昨日のように感じます。

 また、2年前の東京12期会に参加させていただき、東京の皆さんと楽しい一時をすごさせていただいたばかりか、深夜のミ-ティングから翌日の建設中のスカイツリ-の見学や帝釈天詣での余韻が今も残っています。

 楽しい集いがこれからも続きますよう、今日お集まりの皆様のご健勝を心から願っています。

 来年の秋の大阪での同期会で皆様をお待ちしております。


第6回東京12期会に参加して

7組 張 志朗

 東京12期会に参加させていただきまた歓待していただき感謝しています。

 今回の東京行きは、懐かしい皆さんにお会いするのは勿論のことですが、同窓会代表幹事である酒井八郎君のメッセ-ジをお伝えすること、私が保管している同窓会の横幕をお持ちすることが主たる目的でした。横幕を持って東京に向かう道中、72歳を越えてなお、誰がいつまでこの横幕をお預かりするのかなど、考える所大でしたが、会場に着いた途端ただただ懐かしく、嬉しくまた楽しい気持ちだけでした。

 私を含めて21名の参加者で東京12期会が盛会裡に開かれたことは、大石橋会長はじめ幹事の皆さんの努力、参加者皆さんの熱い気持ちの賜物であると心からの敬意を表したいと思います。

 常々、東京12期会はネ-ムプレ-トがなくても、参加者のお顔やそのお話しが全員に分かる、実にこの上がない程の和気藹々の雰囲気が特徴と思っていましたが、今回もその通りでした。

 特に今回は私が以前からお会いしたいと願っていた、5組の中山賀弘君、6組の平松弘行君、7組の大西佑治君らが初めて参加されておられ、一層盛り上がったのは感激の一言でした。卒業を前に病を得、その療養のため卒業式に参加できなかった中山君のスピ-チをはじめ、皆さんのスピ-チはそのすべてが共感と笑いに包まれ、私にとっても一層味わい深いものでした。村崎君のアルツハイマ-度を調べるテストには一瞬、ドッキリ。幸いにも私を含めて概ね問題のない記憶力に安堵しました。大いに食べ、杯を汲みかえし、大いに唄って帰ってきました。

 仕事で貯まっていたストレスもほぼ解消、楽しく、励まされ、ともにこれからを生きる力をもらった一日であったとしみじみと感じています。東京の皆さん、ご健勝におすごし下さい。また本当にありがとうございました。
 

第6回市岡高校東京12期会を終えて

東京12期会会長 6組 大石橋宏次

 第6回市岡東京12期会同窓会、盛大に開催されたこと、心より感謝いたしております。榎本君を始め、幹事の皆様に深謝、深謝。また、張 君、佐藤君、稲田君、辻君、上原さん達遠方からお運びいただき、本当に有難うございました。そして、お集まりの皆様全員がお元気だったこと、何より嬉しく思いました。次回も元気な顔を合わせられるよう念じております。

 ところで、二次会のカラオケ店で、最後にみんなで歌った「高校3年生」の曲に、いつになく、ジーンとくるものがありました。これも年のせいでしょうか。とまれ、次回に向けて、健康で頑張りたいと思います。

 なお、西条君がリーダーを務めてくれている、「荒川歩き」の会への皆様の参加をお薦めいたします。健康的ですよ。


市岡高校時代の思い出(哀悼の意を込めて市岡中出身の物故者のことを中心に)

7組 大西 佑治

 実家の転居に次ぐ転居、亡父の蔵書の処分等々のドサクサで小生は小・中・高の卒業アルバム等々一切合財を無くしてしまったので、おぼろげな記憶を頼りに以下思いつくままに記してみた。この一部は先日開催されたばかりの第6回市岡高東京12期会の席上、初参加ということで、少し長めの時間をいただき紹介させて貰った。

 昭和34年度市岡高PTA会員住所録(これを先日実家の倉庫の片隅から見つけた。我ら12期生の卒業50周年時に、高校時代に借りていたので返却するとSU君から送付あり、実に52年ぶりに持ち主である小生に戻った1年生時の生物のノートと共に我が高校時代を偲ぶ唯二のもの)には全学年各生徒の氏名、住所等と共に出身中学校名が記載されている。

 それによると我ら12期の3年生は男子246名、女子133名の計379名。この内、市岡中は地元だったためか市岡高への進学者が多く、男子28名、女子18名の計46名を占め一番多い。これだけ多いと家が近所だったとか、小・中・高のいずれかで同じクラスあるいは同じクラブだった、大学も同じだったとか何らかの接点がない限り、お互いよく知らないまま卒業となる。
 卒業50周年記念文集[みおつくし]の[発刊に寄せて]に物故者の名前が記載されているが、その後、[12期の広場]の情報で3名が加わり、物故者は男子28名、女子8名の計36名となる。
消息不明者の中にも物故者がいるかも知れないが、少なくとも略70歳までに男子は11%、女子は6%が亡くなっていることになる。女性の方が統計的に長生きなのがこれでも証明されている。

 この内、市岡中出身者が男子4名(女子は幸いにも0、但し後述するように定時制生徒も含めると1名)を占め確率が高い。(市岡中出身の男性諸君!お互い気をつけましょう。先日の第6回市岡高東京12期会での話題のように、病気の早期発見に努め、気になったら早目に「ご学友のドクター」に相談しましょう!)

 この内、山本芳彦君、白石英三君及び籠谷登志夫君の3名については既に[みおつくし]と[12期の広場]に彼等と同じクラスだった川村浩一君や同じクラブ、大学だった佐藤裕久君等から心温まる追悼の文が寄せられているが、彼等を含む物故者5名を中心に市岡時代の思い出を少し語りたい。


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第6回「市岡高校東京12期会」雑感・近況など

<5組 阿部清二>
山田様

 11月16日の市岡東京12期会、お世話になりました。貴兄の素晴らしい司会の進行で始まり、2年振りの皆さんとの再会、楽しい時間を過ごせたこと感謝いたします。毎回のことですが、市岡12期のメンバーの現役時の活躍拝聴し、誇りに思います。

近況報告ですが、毎日午前はボケ防止(本人の勝手な思込ですが)の時間過ごしていますが、記憶力の衰えには勝てず、進捗状況は無残なものです。まだ、しばらくは根気よく続けるつもりです。

月3~4日、昔の会社仲間との懇親会に参加、週2~3日、地元仲間とスポーツ楽しむ等、人とのコミュニケーションにも努めています。大学卒業後48年関東在住、大阪が遠く感じ寂しさ覚える昨今です。次回の再会楽しみにしています。




<6組 中柴方通>
(近況報告)

 前回しろがね通りの存続活動を始めたことを報告しました。私の住んでいる三鷹市は住みやすい良い街です。駅に直結する重要な市道(この市道を近隣住民はしろがね通りと呼んでいます。)を挟んだ約10,000平米と約5,000平米の二つの駅前の土地を再開発する計画が以前からありました。

 これまで開示されていた資料では、全体を1棟にする案、しろがね通りを挟んで2棟にする案の再開発案があり、いずれにしてもしろがね通りの道路機能は残るものと私達は理解していました。ところが3年前に、再開発がしろがね通りを道路としての機能をなくした一棟案ですすんでいることが判明しました。

 存続活動を通じて、市長あて要望書に千数百の署名、市議会での多くの議員の支援演説を経て市長も私たちの主張に理解を示すようになりました。その結果、今年になり市長は再開発協議会に分棟案を提案し、さらに「しろがね通り」を市道の愛称名に採用することとなりました。


 

(三鷹市報7月号の愛称名決定の記事中の図)
再開発計画は最終決定されていないので注意深く見守っていくつもりです。


<8組 緒方(旧姓戎田)宏文>
日々是好日にしたくて想うこと!
先日、11月16日の市岡高校東京12期会に4年ぶりに出席、歳歳年年人同じからずの感にもかかわらず、ひと時で高校時代にタイムスリップするのは不思議である。出席者21名、大阪からは張君が市岡高校12期会の大きな垂れ幕を運び込み、中華料理円卓を囲んで旧交を温めた。卒業以来初めて会う友もあり、充分な時間なくお開きとなった次第。後はいつものコースで銀座のカラオケ店に潜る(地下のセルフサービス席)。充分歌って、日も暮れネオンのともった銀座の路上で再会を誓って、三々五々帰路についた。
ところで、小生の近況、
我が家の近くのコミニティセンターで、毎早朝ラジオ体操とか太極拳を老々男女で楽しんでいる。その帰路の雑談の中で”教育”とか”教養”とかの高尚な会話だけはしないで済むような日々でありたいねと互いを戒めている。なんのことはない、”教育”とは「今日、行くところがある」、”教養”とは「今日、用がある」。そして小生の夢は、矍鑠(かくしゃく)につきる、その意とするところは、ヘミングウエーの「老人と海」を思い浮かべて「もくもくと船一隻で金稼ぎ、それが老後の楽しい夢」。 ア!ア!大海原を相手に充実した人生を送りたい・・・・。
終わり。


<6組 平松弘行>

 市岡卒業後、実に54年振りの同期の皆さまとの再会、感激の一言です。

 なつかしく昔の様々な記憶がよみがえる一方で、最後まで皆様の顔と名前が一致せず、歳のせいか”ボケが進行中”ではと思ったりしました。

 大学時代たまたま外交畑の仕事に足を踏み入れることとなり、在外生活が三十余年の長きにわたり、いささか今浦島の気分で日本での生活に慣れようとしています。

 いずれにせよ幹事の皆様方の多大のお心遣いで、久方ぶりに最後まで楽しく過ごさせていただきました。

《HP編集部 注》
平松さんはバルセロナ総領事、エクアドル大使などスペイン語圏で活躍されました。
初参加の受付を済ませる筆者


<6組 佐藤裕久>
あの同窓会の後、夜行バスで、島根県松江市に向かいました。
次の17日は、安来市の和鋼博物館での講演会に出席して、午後2時ころ、車組の岡本(7組)さんや、西山 (8組) さんなど男計8名が鳥取県倉吉で合流し、地元の人もあまり知らない関金(せきがね)温泉に向かいました。途中、断崖絶壁に立つ国宝建築物『三徳山・三佛寺投げ入れ堂』を観ましたが、山形・立石寺の高所お堂の比ではなく、只々、驚いた次第です。
18日午前には、伯耆・大山の南壁を見に出かけました。常緑樹の緑から紅葉した部分までのグラデーションは素晴らしいものでしたが、雪が混じりはじめ、同行の2台とも、普通タイヤであったため、それ以上、登ることは断念しました。
午後は、小生一人だけ、出雲市に出て、「平成の大遷宮」中の出雲大社に参拝しまし た。 さらに、夜行バスで出雲市から新宿-仙台への旅を19日夜、終えた次第です。

杜遊会の方々、右から7組岡本成彦君、
3番目が筆者、4番目が8組西山吾郎君
三徳山・三佛寺投げ入れ堂
   
 
大山の山麓
 


<5組 中山賀弘>

 東京12期会の同窓会に初めて参加しました。約半世紀ぶりの学友達との再会に心穏やかである筈もなく、増幅する懐かしさの中で昂揚する心を抑えながら会場に向かいました。
クラスを超えての懐かしい学友達。当然の事ながら自分も含めて、あの時代の溌溂たる青々とした高校生の顔はなく、直ぐ誰々と分かった人、一瞬見分けがつかず名前と顔が一致するのに苦労した人様々でした。談笑が始まり高校時代を懐かしく思い出し、ああだったこうだったと語る学友達の表情の中、高校卒業後の半世紀夫々が選んだ夫々の<人生>をしたたかに生き、夫々の志しと思いと知力とエネルギーを思い切り開花させてきたと言う自負をも思わせる夫々の“顔の皺”に、ほんのりと生きてきた私には在る種の眩しさすら覚えた感じでした。同窓会の後皆でカラオケに行きその締めで定番の「高校三年生」を合唱。その一瞬、皆があの幼い高校生の顔に戻っていたように思います。とても懐かしく楽しかった同窓会でした。

『近況・その一』

 この11月2日(土)午前6時20分愛犬(シーズー犬)が亡くなりました。18歳と6ヶ月、人の年齢に換算すると90歳に匹敵します。大往生です。動物を飼ったことのある人達は皆口々に言います。「ペットは“家族”の一員。それ故にその死、その家族との別れは想像以上に寂しく辛い」と。ペットを失うことから来る深い喪失感“ペットロス”と言うコトバが生まれる所以です。この度同じ経験をして始めてその言葉の持つ意味が理解できました。生前その愛くるしい表情と立居振る舞いに、私達家族がどれだけ癒され楽しませ励まされてきたか・・・その一つ一つの場面が走馬灯のように浮かびます。また愛犬は4年前眼の病気にかかり左眼は眼球摘出手術を受け、右眼は白内障になり失明してしまいました。或る女性作家が“イヌは見つめ合うことができる動物である”という一文を読んだことがある、と紹介していましたが、 思えば、大型犬等が散歩で一緒に歩きながら時々飼い主の顔を見上げる場面や、信号待ちの時に飼い主の顔を一瞬見上げる場面、スーパーの出入口の前でドアに向かって忠犬ハチ公のように只管飼い主を待ち続ける姿をよくみかけます。私達の愛犬も失明してしまった後は極端に行動範囲が狭くなりましたがそれでもエリザベスカラーをつけながらよく部屋の壁、襖にぶつかりながら歩いていましたがその姿がとても痛々しく感じました。大事なコミュニケーション手段としての<眼>がなくなった後、私達は出来るだけの声掛けとその体に触れることでその絆を深めてきました。しかし矢張り加齢と病身には勝てません。少しずつ足の筋肉が衰え、数ヶ月前からは立ち上がるのがやっとと言う状態が続く様になり食欲も衰え食事は私と妻二人でなんとか食べさせると言う状態でした。下の世話も続くと言うまさに<老老介護>の日々でした。そして2日の早朝最後の瞬間、彼は妻の腕の中で苦しむことなく静かに息をひきとりました。今遺骨は私たちのリビングに置いています。暫くの間はお家で弔ってやろうと思っています。今のマンションに来て直ぐに家族の一員になったので家中に彼との思い出が染み着いており毎日が寂しいかぎりです。

『近況・その二』

 定年後に読み始めた<司馬遼太郎>作品に少し嵌まりました。数多い<歴史小説>の中でも、北越戊辰戦争と長岡藩家老・河井継之助を扱った作品『峠』と、「維新の三傑」の一人と言われた西郷隆盛が明治新政府と対立し下野し最後は西南戦争で敗北、 自決するまでを描いた『翔ぶが如く』が特に好きです。その影響かどうか分かりませんが少し歴史を齧ってみたくなり3年程前から某大学のオープンカレッジに通っています。カリキュラムも年間通じての同一講座制等とても充実しており早稲田界隈の学生街を歩いていると一瞬タイムスリップした様な錯覚に陥ります。<幕末・維新>をテーマにした講演会やセミナーに出席したり、昨年は司馬遼太郎記念館の交流ツアーに参加しました。又<京都>には及びませんが<東京>はまさに権力者の街です。歴史散策・幕末歴史散策するにはこと欠きません。暫くはこんな生活が続きそうです。


<8組 村崎裕昭>
事務局の皆様、お疲れ様でした。そして、東京12期会に参加のみなさん、楽しい時間を有難うございました。
卒業して50余年を経過し、皆それぞれがいろんな人生を歩んできたけれど、「市岡で過ごした3年間が、人生の中でもすごく大切な時間だったんだ」ってことをつくずくと想いおこす一時でした。
2年後にまた参加できるよう、弱った心臓を労わりつつ、頑張ります。


<1組 上原(旧姓大川)澄子>
「市岡東京12期会に出席して」

今回も出席することが出来て、嬉しく思います。最後にみんなで、「高校三年生」を歌った時、思わず涙が出て来てしまい、それを山田正敏さんに見られました。「お前、泣いとるんか?」と言われ、その言葉が、冷やかしでなく感じられ、うなずきました。
多感な高校時代の、三年間を共有したことは、かけがえのないことと思います。今回出席出来なかった方達とも二年後にお会い出来ますように・・・・
幹事の方々、お骨おり有難うございました。


<4組 川合兵治>
11月7日に72歳の誕生日を迎えた10日後の12期生東京同窓会は、体調が思わしくなかった上に(夜の咳き込みが10日以上も続いていた)、勧めじょうずの重松兄の口車に乗せられて二人で高価かな紹興酒を2本空け(山田兄の予算を裏切った原因の一つ)、その後の流れのカラオケでウイスキーをストレートでダブルを?杯飲んだためか、かなり酩酊していたらしく帰りの地下鉄乗り場まで山田兄に強制連行されるという失態を犯してしまった。幸い二駅乗り過ごしたぐらいで何事も無く帰宅できたが、72歳にして何をかいわん、である。80歳まであと8年ある!!!8年あれば何か出来る!!!今やっている学童指導員は当然続けるとして、囲碁の腕前を磨いて自称2段の山田兄に常に黒石を持たせられるようになる時間も、又、念願の翻訳本出版の夢もかなえられる時間は十分にある!!!気持ちを引き締めなければと考えさせられた夜となった。


<8組 稲田 紘>

 私は東京大学を定年退官した後、2004年から兵庫県立大学大学院応用情報科学研究科に勤務していましたが、昨年の2012年3月に70歳になったため、定年退職し、名誉教授の称号をいただきました。しかしながら、縁あって同年4月から特任教授を委嘱され、講義や博士課程学生の論文指導などを行っています。また、国立循環器病研究センターの客員研究員のほか、二つほどの学会の資格試験の試験委員を務めるなど、それなりに充実した日々を過ごしています。

 現在、大阪の千里ニュータウンに住んでいますが、数年間、東京に勤務していたこともあったことから、市岡東京12期会(以下、東京12期会)に参加させていただいています。大阪に戻ってきてからも、11月に催される同窓会には、ほとんど出席しておりますが、前回の2011年の時は仕事の都合で欠席せざるをえなかったため、今回は4年ぶりの参加となりました。

 我々の学年の同窓生は72歳か71歳ですが、この年代になると余命も限られていると自覚するようになるせいか、いろいろな同窓会に出てみたくなるものです。私も幾つかの同窓会に出席していますが、東京12期会と交番で大阪にて開かれる12期会全体の同窓会を含め、市岡12期会に出ると、在校時のクラスとは関係なく誰ともフランクに語り合うことができ、卒業後50余年の時空を越えて高校時代に戻れる気がしています。東京12期会は参加人数が少なく小じんまりしている分、その感をいっそう強くします。

 今年の第6回東京12期会は、11月16日(土)にいつもの銀座の三笠会館で催されました。私は美味しい中華料理に舌鼓をうち、紹興酒を何杯もおかわりしながら、参加諸兄の近況報告を中心とするスピーチに耳を傾けました。参加者は21名で、その中で初めての参加者が3名ありましたが、初参加の方々とも打ちとけることができました。

 今年の諸兄の近況報告のうち、荒川の川上りに関する報告がありましたが、グループでの行動とはいえ、70歳を超えて新たに挑むチャレンジ精神に敬服しました。私はまだsemiretiredといった状況にありますが、完全に引退して毎日家にいるようになったら、家内から粗大ゴミだの濡れ落ち葉だのいわれかねないので、そうならないためには何をしたらよいのか、今から考えることが時々あります。また、これからいっそう年齢を重ねて行く段階で、高齢者が出しゃばるでもなく、また卑屈にもなることもなく、今後の社会に溶け込んで満足感に溢れた生活が送れるようになるにはどうすればよいか、思案したこともあります。

 今回の参加者諸兄のスピーチを聴いていると、市岡12期生の方々はそれぞれ自分の置かれた環境の下で、たいへんよい歳の取り方をしておられるようで、ややオーバーな表現ながら、私にとっての今後の生き方の参考になる点が少なくないと思われました。

 三笠会館での同窓会の後、これも恒例の2次会のカラオケへとなだれ込み、またまた楽しいひと時を過ごすことができました。このように東京12期会は、いまはやりの半沢直樹流に表現すると、かけた参加費と時間の2倍や3倍あるいはそれ以上の楽しさが返ってくるといっても過言ではなく、また次回に参加することを楽しみにしながら帰阪の途についた次第です。

 なお、末尾ながら、東京12期会会長の大石橋宏次君ならびに今回の幹事役をお務めいただいた山田正敏君に深く感謝致します。



<2組 佃(旧姓岡本)富江>

 昨日「スヌーピー展」から帰ってくると、「お母さーん、ファックスが来てるよー、めずらしいねー」… こんな生活です。
友達との集まりがなくなると、手帳もいらなく、カレンダーに忘れてはいけないことを書きこんでおけば済む。

 そんなわけで、HPにしゃれたひと言なんて、ムリ。
こういう私でも、同期会は嬉しい時間です。これもひとえに皆さんのお心遣いあっての事なのですが。




<4組 重松清弘>
私の近況(2013年11月)

 かねてよりの心積もりどおり、昨年70歳になりましたので、これからは妻との時間を大切にしたいという強い思いで、これまでのサラリーマン生活を卒業することにしました。今までは、皆さんと同様、9時から5時まで、土日祝日以外の勤務を48年間やってきたわけですが、月日はあっという間にすぎ、気持ちだけは若くと思いつつ、過ごしてきましたが、改めて70年間経ったのかと感慨深いものがあります。

 これからは妻と一緒に充実した日々がおくれるよう心がけて参りたいと思っています。



<8組 榎本進明>

 今回の東京12期会では「ご学友」と「まあまあだ」という言葉が会話のあちこちで聞かれたのが耳に残りました。

 まず「ご学友」については、8組稲田君の紹介状を持って、とある大学病院の心臓外科を受診したときに高名な教授の先生が「あ、稲田先生の『ご学友』であらせられますか」とご丁寧な応対をしていただいたと言うお話を私がしたのがことの始まりでした。それから「よ、ご学友」と言ってお酒を注いだり、「いいご学友に恵まれた」とか「よ、ご学友、元気か」とか会話のあちこちで流行となりました。今回の12期会が何か新鮮に感じられたのは新語?のやりとりがあったことも一因だと感じました。ちなみに病気(不整脈)が完治したのは言うまでもありません。

 次に「まあまあだ」は二次会のカラオケで受けに受けた言葉です。歌い終わって拍手喝采のあとに出た言葉が「まあまあだ」でした。この言葉は実に味わいがある言葉で日本人気質が出ていて和ませてくれました。公平感もありいろんな解釈もあって笑いを誘いました。

 二次会もあっという間に終り6時間超の12期会もお開きになりました。それから三々五々家路に着きましたが、別れ難く喫茶店(お酒はもう飲めないので)でコーヒーを飲みながらだべり、家に着いたのは10時を過ぎていました。ああしんどかった。楽しかった。ありがとう。
 


「12期の広場」11月号のラインアップ

 私の住む町の山々はいまだに紅葉していませんが、ささやかな庭の柿の木はすでに紅葉、その柿の実は野鳥の餌となってしまいました。秋がどんどん深まります。
 

 今月は「市岡高校東京12期会」の同窓会の月です。大阪での同窓会と一年違いで2年ごとの交番開催、今回が第6回目の開催になります。ここには関東から東北在住の同窓生が元気に集うわけですから喜ばしいかぎりで、お世話する幹事さんをはじめ遠方から集う同窓生の皆さんに心からのエ-ルを送りたいと思います。

 私ごとで恐縮ですが、筆者は若い頃、東京で5年ほど生活したことがあります。また先月、所用で約2年振りに東京に行きましたが、まさに東京は「いまだ変貌、膨張し続ける大都会」そのものでした。格安の航空券(往復24,000円)で降り立った羽田空港の混雑ぶりは、昔経験した新宿駅の通勤ラッシュを思い出させ、リムジンバスで渡ったレインボウブリッジから見た東側の景色・海を前にした一群の超高層ビルの景観はまるで外国の絵ハガキのよう。うねるように走り延々たる長い車列で都心へと向かう高速道路、その両側に果てしなく続く高層、超高層ビルの規模と高さに驚くばかりです。羽田から新宿に向かう40分程度の道中でしたが、圧倒的な都市資本とその装置の集積や物流の底知れないさまをうかがい知るのには充分なようでした。

 2020年の東京オリンピック招致もきまり東京を中心とした首都圏の変貌はさらに拍車がかかることでしょう。お上りさんよろしく浮き立つ気持ちと都市はどこに向かうのかとの不安がないまぜになったというのが率直な実感です。

 東京をはじめ関東地方、東北地方在住の同窓生の大部分は、いわゆる「企業戦士」とその伴侶のようですが、故郷を遠く離れながらもこの地に見事に生活の根を下ろし、立派な家庭を築き、そしてこの同窓会に集うのですからこれは得難い事、さらに云えば痛快事と思えてなりません。

 同窓会の案内状の中に『何はともあれ、我々全員、世間的には間違いなく老人です。気持ちは若く、久しぶりに歳を忘れ、又、猛暑や家族を忘れ、真昼間からではありますが、ワイワイ、がやがや、やろうじゃありませんか。』とありました。同感、わくわくしますね。

 大都市-東京のど真ん中で古色蒼然とした懐かしい大阪府立市岡高等学校の校歌を一緒に歌う。歳は取っても「我が少年少女の期」の心は大切にしたいものです。

 盛会を祈って「第6回市岡高校東京12期会」の要項を再掲します。

  1. 日 時 : 平成25年11月16日(土)  PM 1:00 ~ 3:00 頃
  2. 会 場 : 「三笠会館本館」(中央区銀座5‐5‐17 TEL 03-3571-8181)
        ※地下鉄 銀座線・丸の内線・日比谷線の「銀座駅」下車 B5出口上がりすぐ
        ※JR山手線 有楽町駅 下車徒歩5分
  3. 会 費 : @7,000円( 酒代・通信経費を含みます。)
 

さて「12期の広場」11月号のラインアップです。お楽しみ下さい。

  1. 私の体験したこと」          恩師 北村彰一 先生
  2. 私の曼陀羅」             8組 岸川 常正
  3. 「 詩 二 題 」      2年8組学級文集-「烏合の衆より」

私の体験したこと

北村  彰一
昭和17年樺太庁官舎にて 左より弟恭二 父得三 弟修三 妹道子 母千春 私彰一(国民学校5年生) 官舎は樺太庁の隣にあり広壮で鉄棒、弓場などがあり級友がよく遊びに来た

 私の生まれたのは1931年(昭和6年)所謂満州事件の起こった年であり以後中断はあったが15年間中国で戦争状態があった。

 中学二年までの生活に大きく影響した。戦線は優勢だったが長引き物資は窮乏していった。打開のため米国等と新しい戦争となった。

 初めは予想に反して勝利が続きあわよくばと思ったが、半年後より逆転が始まった。

 国民学校六年になるとアッツ島などで玉砕のニュースが相次ぎ心中悲しんだ。日本軍は降伏は許されず最後まで戦うのが当然とされた。各地で補給が断たれ、悲劇が起ったことは後で知った。

 中学では軍隊に準じた教育が行われた。校長の独断で全員が国民兵役に志願したと告げられた。同じ中学生が沖縄に於いて取った行動を見ればもし樺太(私の生地)に米軍が上陸してきたら同じ状況が生まれていたのは確実である。

 しかし黙殺したはずのポッダム宣言を受諾することが14日までに決まっていた。2回の原爆の投下、ソ連の参戦が民族の絶滅をもたらすと懸念した為政者が宣言を受諾しても国体の変更はないと判断したためである。一億玉砕を叫び国民はそう思いこまされ、本土決戦を覚悟していたので全く驚いた。このようなことが出来るのか。これまでの犠牲者に申し訳ない気持ちと助かったという安心の気持ちが忘れられない。

 ドイツと異なり日本政府は残った。出来たら全てもとのままにしたいと決意したようだ。

 10月農地改革、婦人参政権等の指令が出て、米国の政策に賛意を表す日本人も出てきた。日本国憲法は占領軍の押しつけであるから自主憲法をと言う人がいる。しかし文章はともかく内容は第九条をはじめ当時の国民の気持ちを代弁していて、明治憲法の改正手続きをふんで天皇の裁可を得ている。

 昭和33年 家族と長野にて(左端が筆者)
昭和33年 家族と長野にて(左端が筆者)

 「東京裁判」は宣言の結果行われたが、判決について、後いろいろ批判がでている。しかし戦争の総括、日本人による戦争の責任検証はされていない。すべてを水に流す無責任体制は日本人の特色であろう。

 昭和30年頃まで私は上京時いつも靖国神社に参拝し犠牲者に哀悼の気持ちを表してきた。しかし現在はする、しないが政治的に判断されそうで困っている。

 もう一つ驚かされたのはソ連の崩壊だった。理想の国と思う人もいたがスターリンの行動などで非情な独裁国家に過ぎないと判っている人は多かった。それでも米国等に対抗して社会主義勢力の本家であり冷たい戦争の中心であり次善の希望を託する人もいた。私の卒業大学でもマルキシズム全盛だった。ソ連では幼児期、少年期、青年期と政治教育は完璧と思われていた。ゴルバチョフの出現により秘密暴露が進み米国との軍備拡張が経済を破綻させ遂にソ連は解体する。共産党は唯一の政党の地位を失いロシアの現在は如何になっているか。石油などにより成金も台頭し資本主義国と同じようだ。衛星国はあるいは瓦解し指導者は処刑や追放された。ベルリンの壁が崩壊し私は生徒より現物をプレゼントされた。領土人口は縮小したがロシアは中国と共に世界の警察として振る舞う米国に依然として抑制力を発揮している。

 
 
HP委員から:
 ご多用のところ原稿依頼を快諾いただきまたご寄稿頂きましたこと、感謝いたします。原稿を拝見して先生が12期の私達よりほぼ一回り上であることを知りました。いわゆる戦前のお生まれ、多感な時期を戦時中に過ごされ、また激動の時代に生きてこられたのですね。はや一世紀に近い長い人生で経験されたことやそれにまつわる感慨や如何にと文中より拝察いたしました。
 これからもお体大切に、お元気にお過ごしになられること心より祈念いたします。

私の “ 曼 陀 羅 ”

8組   岸川 常正

 小さい時から絵を見ることも、描くことも好きでした。

 中でも比較的多く描いたのが仏像です。年賀状にカットとして使ったりしましたが曼陀羅状にしたケースを紹介します。

 約1年かけて仏画を模写、墨絵ですので慎重かつ一気に描きます。写仏は下絵をなぞりますが、模写は真似することで別物です。

 描き上ったものが150枚ほどたまりましたので、”曼陀羅”を気取ってこれらを配置、巻物風の作品に仕上げました。

 
HP委員コメント:

 作品は中央に大日如来二体を配した、横幅90cm、縦長さ250cmの寸法の大作です。写真に撮りましたが細部まではご覧になれないと思いますので幾つかをスキャンして掲載いたします。拡大してお楽しみ下さい。(下の絵の中央をクリックすると拡大出来ます。)

 

 

 

詩 二 題

2年8組学級文集「烏合の衆」から
 
「 わすれられた風鈴 」
 
ちりちりと 秋風に吹かれて       風鈴が鳴っている
暑い夏の夜に               涼しげに鳴っていた風鈴
今では色もあせ              その音色は秋の空に
                        さびしさをさそっているようだ
あの白い雲に               呼びかけているようだ
 
ちりちりと                  忘れられた風鈴が鳴っている
 
                            - 作者 不詳 -


 
「 夜 汽 車 」
 
突然 闇の中から              ピ-ッ と汽笛がきこえると
立ち並ぶ貨車の群が驚いて        ちょっと 顔を上げた
荒い息づかいで               機関車が通り過ぎた
賑やかなスキ-列車を引いて・・・
 
青いシグナルが震えて立っていた
ホ-ムのにぶいはだか電球の下に    三つのベンチが体を寄せ合っていた
駅の名もぼんやり見えた           「 かしわざき 」・・・・・・・
 
「 ボ- ッ 」と                 一人ぼっちの機関車の遠吠え
悲しい響きが雪の夜空に流れた      停車場全体が静かに移動を始めた
 
                            - 作者 不詳 -