同期会

 
令和元年5月15日(水)快晴 絶好のゴルフ日和。
19の春(19期ゴルフ部会)、20の恋(20期ゴルフ部会)合同の第3回懇親ゴルフコンペは
総勢16名で奈良県のディアパークゴルフクラブにて開催しました。
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37期生の皆様には益々ご活躍のことと存じます。
 
さて、37期生は4年に一度の夏季オリンピックの年に同窓会を開催していますが、早いもので2020年東京オリンピックの記念すべき年の同窓会のご案内をする時期となりました。

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 平成31年4月28日(日)に、鶴崎篤先生にご参加いただき、バリタワー大阪天王寺において37期クラス会が開催されました。毎年恒例のクラス会ですが、18回目の今回は『平成最後のクラス会』と題して、1次会49名、2次会55名、3次会42名(いずれかに出席の方の合計65名)の方にご出席いただき、いつも以上に賑やかな会となりました。
 今回のクラス会は、4年に一度の夏季オリンピックの年に開催する市岡高校37期同窓会がいよいよ来年(2020年)に迫ってきましたので、そのキックオフ会としても位置づけて、各組幹事、開催候補日、同窓会テーマ名等のアンケートを実施しました。来年(2020年)の37期同窓会の詳細なご案内は、近日中にこのホームページでお知らせしますので、よろしくお願いします。
(報告:市岡高校37期クラス会幹事・久米秀樹)
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 4月です。今日、新しい元号が発表され、5月1日から年号が変わりますね。
 昭和に生まれ、平成を生き、そして新しい年号を迎えるわけですから、皆さん、さまざまな感慨をお持ちのことと思います。
 私達の昭和が、産声をあげてから壮年期を迎えた時代であって、戦後の貧しい時代から高度成長へ、そしてその絶頂から混迷への時代とすれば、平成は、壮年から老境への時代であり、バブル崩壊に始まり、阪神淡路大震災や東日本大震災などの大規模自然災害が多発し、グローバル化やITとAIに代表される先端科学技術が大きく社会を変えて行った時代です。やはり元号とは言え、時代ごとの“色合い”があり、そこにささやかではありますが、私達の足跡と心の暦があります。
 新しい元号がどうなったのか、この文章を書いている時点では、知るよしもありません。ただ社会や生活が激しく変貌するだろうとの予感だけが強くあり、とにもかくにも穏やかで希望や夢がある時代であってほしいと切に願っています。
 今月の「12期の広場」は、季刊更新の第一号にあたる春号です。
 この文のカット写真には高見君が送ってくれた7枚の写真から、一面ピンク色の「桜の群生」と風に揺れる可憐な「つつじ」の二枚を選びました。
 そのコメントに、桜は「曽爾村の屏風岩の桜です。屏風岩の上から見下ろしたアングルです。」とあり、つつじについては「『コバノミツバツツジ』です。この花もこの時期に咲くツツジ類の中で私の好きな花です。」とありました。いずれもこの春の百花繚乱を代表する花で、じっくりと見入ってしまう程、素敵な写真です。
 高見君はこの欄に都合10回、60枚以上の写真を提供してくれましたが、今回が最後になります。そのご苦労に皆さんと共に心から感謝申し上げたいと考えています。
 広場が季刊になったことで、編集に時間的な余裕が出来るだろうと思っていたのですが、どうしてどうして、あい変わらずのスロースタート、納稿が近くならないとエンジンがかかりません。結局は月更新とおなじような感じで、ペース配分にも慣れません。これから夏号、秋号と、3か月毎の更新が続きますが、今後とも宜しくお願い申しあげます。
 
 同窓会幹事でもある6組の畠平雅生君が、2月12日に病気で亡くなられました。通夜に酒井八郎君はじめ、8人の同窓生が出席して、お見送りしました。
 畠平君は同窓会の幹事としてその運営に大きく、そして長期にわたり貢献してくれた人物の一人で、特に会場の設定やその折衝では中心的役割を果たして頂きました。御子息のお話によると、仕事が好きで、家族が好きで、奥様が大好きであったとのことです。いつもニコニコ、何をするのもフットワークが軽やかで、社会奉仕にも積極的でした。東日本大震災後の支援に何度も東北地方を訪れたと聞いています。
 慎んでここに哀悼の意を表し、お知らせいたします。また今号に、無二の親友である、清水君が書いてくれた「畠平雅生君とともに65年」と、畠平君が「卒業50周年記念文集」に投稿された文章、「今日までを振り返って。これから願うこと」を掲載し、彼を偲びたいと思います。合掌。
 
 「12期の広場 」 春号のラインアップは以下の5編です。ご覧ください。
 
1. 「豚汁会に行ってきました      
2. 「畠平雅生君とともに65年 ・・・・・・・ 3組 清水 誠治郎
3. 「今日までを振り返って。これから願うこと ・・・・・・・ 6組 畠平 雅生
4. 「私の趣味 - 弓道 」 ・・・・・・・ 8組 八島 平玐
5. 「直木三十五記念館を訪ねて ・・・・・・・ 7組 張  志朗
以    上
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豚汁会に行ってきました。

2019年04月01日(月)
 3月3日、市岡高校同窓会の伝統行事である豚汁会に行ってきました。この日は桃の節句。行く途中で立ち寄ったスーパーは雛祭りにちなんだ商品が並んで一足先の春の装いです。曇天でしたが、比較的暖かく、着込んだ防寒コートが重く感じるくらい。
 開会は正午、旧制中学40期の大先輩から高校67期生の後輩まで、総勢70余名が参加しておられました。12期は、酒井君(4組)、田端君(7組)末廣君、川村君、塩野君、岸川君(以上8組)と筆者の張(7組)の7名です。
 佐藤充利同窓会会長の挨拶で始まりました。佐藤会長はこの時期の関心事の一つである市岡高校の受験志望者数が3月1日の受付初日ですでに定員を20名越える340名に達していることに触れて、関係者皆さんのご苦労に感謝の意を表されました。
 この数年、定員割れと関連した母校の存続問題が浮上していただけに、参加者の皆さんから、安堵の声と大きな拍手が起こり、雰囲気は一気になごやかなになりました。
 続いて旧制中学40期の浅見忠彦さんが乾杯の音頭をとられ、歓談が始まりました。
 豚汁会に参加して一番うれしいことは、同期生との再会は勿論ことですが、卒業年次を越え一堂に会して歓談できることです。明治36年に生徒と教職員が一つの家族のように豚汁を食したことに始まるこの会のメインデッシュはやはり豚汁です。時を経て、1年に一度、こうして母校に集い豚汁をおいしく頂くのはまた格別です。
 自己紹介を兼ねたショートスピーチがありました。その幾つかを紹介します。
 旧姓中学卒業でただお一人参加された40期の浅見さんですが、浅見さんが入学されたのが、昭和15年、12期生である私達が生まれる前で、現在91才。大層お元気で、さらに明晰、“市岡健児意気高し”の面目躍如の感です。
 9期は、もっとも多い15名が参加されていました。現在も同窓会を続けておられ、古希には文集形式の立派な記念誌を発行されました。編集を担当された女性はいまでも枕元に記念誌をおいて休まれるそうです。19期も同窓会活動が活発のようで、此花市岡会の会長である大山泰正さんから、『4月14日、舞洲市岡の森でのお花見に是非おいで下さい』とのお誘いがありました。
 30期は豚汁会では“若手”になりますが、在学時の仲の良さは現在も続いているそうで、なんと同窓生同士の結婚が20組にもなるとのスピーチ、皆さんにっこりです。
 12期は酒井君が代表してスピーチしました。昨秋の最終同窓会について話し、今後、豚汁会、舞洲のお花見、6月の同窓会総会などに積極的に参加することになりますので宜しくお願いしますと挨拶しました。12期の皆さんは元気です。白内障の手術をしたとか、大事にいたらなかったが入院したとか、相変わらず腰痛が改善しないとなど、体調の不具合があるようですが、近況のよもやま話は楽しいものでした。
 最後に母校吹奏楽部のOG・OBバンドの演奏がありました。総勢30名。最高齢は18期のトロンボーン奏者の高橋正憲さん、もっと若いOB・OGは67期です。先日、第11回定期演奏会を東成区民ホールで行い好評をはくしたばかりで、この日の演奏もすばらしいものでした。
 生バンドの迫力ある伴奏で校歌を声一杯に歌い、午後2時過ぎに散会となりました。
(張志朗 記 )
 
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畠平雅生君と、ともに65年

2019年04月01日(月)
3組  清水 誠治郎
 
 今から約12年ほど前、見た事のない真剣な顔つきで、話があるとの事で聞くと検査の結果、前立腺ガンを患っていると、私は彼から聞かされます。
 それから12年間、壮絶とも云える彼のガンとの闘いが始まりました。前立腺ガンを初め、すい臓がん、肺ガン、骨ガンと次々と転移を繰り返し、ガンは彼の肉体を蝕んでいきます。そして2年前、彼自身が、自分の末期を知った時、“私の為に壁となり盾となってくれ。”と、私に最後の頼みを云って来ました。
写真左が畠平君で、右が筆者の清水君です。
どう言う事かと本意を聞きますと、“実を云うと俺は3分間の電話もしんどいし、会うのはもっと辛い。君の処に容態を聞いてきたら、正直に良い事はないと言ってくれ。そして君も来るな!やつれていく俺を君に見られたくない” と云うことです。それで、私は電話を頂いた人には奥様に電話をしてあげて下さい、会いに行くのは遠慮して下さい、と話させて頂きました。この彼の頼みは、“奥様にも内緒で!”とのことでしたので、生前の彼に会う事が出来たのは、これが最後となり、亡くなった直後、彼の自宅を訪れましたが、彼の言っていた通り、私の目には随分と痩せて、闘病の苛酷さを感じるばかりでした。彼は、2月12日、生のともし火を消し、黄泉の世界へと旅立って往かれました。
 
 初めて、私が彼と知り合ったのは、昭和29年(1954年) 4月7日の中学一年生の始業式だったと記憶しています。
 昭和25年9月3日のジェーン台風の強風と高潮で、大阪市内は壊滅的被害を受け、港区や大正区は殆どの区域が水没しましたが、すぐさま大阪市は、港区や大正区を、大阪湾や安治川からサンドポンプで土砂を汲みあげて、1.5メートル程のかさ上げ工事を行いました。
 3年の月日は経っていたものの、市岡中学校付近は風の強い日には、砂塵吹きすさぶ砂漠の様な状態でしたので、皆一様に “市岡砂漠” と呼ぶようになっていました。普通の学校であれば、桜が咲き誇り、校舎の日陰や樹木の木蔭で語り合って、交友関係を築きあっていったのでしょうが、私達の環境はそんな甘いものではありませんでした。プレハブで造られた平屋の校舎は、屋根はあるものの、断熱材が入っていなかったので、夏は地獄の釜ゆでの様な暑さで、今で言う熱中症で倒れる仲間も多くいました。
 市岡中学校は、1学年で13組もあり、1組55人、700人を超える生徒がいたので、あまりにも生徒数が多いのと、私が越境入学(本当は西中学へいかなければならない)だった為、半数ぐらいの学友としか知り合う事は出来ませんでした。
 彼と特に仲良くなったのは、一年生の二学期を過ぎたころ、彼の家が浪速区桜川町に転宅となり、一緒に通学するようになってからです。365日、雨の日も、風の強い日も、朝・夕の登下校はいつも一緒でした。二人とも取っ手の壊れた、汚い薄い汚れた帆布製の重いカバンを小脇に抱えて、通学していました。(幼いころに父親を亡くした私の家の経済事情に彼が合せてくれたのかもしれません)
 中学二年生の始業式の日、又彼と同じ学級になったことを知りました。そして中学三年生の始業式の日もそうでした。
 三年生の進学指導を受けた時、彼がこっそり話しかけてきて、”清水君や-俺と一緒に市岡高校へ行こうや” と誘ってくれました。母に高校に行ってもいいかと相談をすると、市岡やったら良いから行きなさい、との温かい言葉をくれました。私は端から高校をあきらめていたので、受験勉強を始めたのは、年の明けた正月を過ぎた頃です。彼はその為、使い古しではあったものの、貴重な参考書や辞書等々を次から次へと持ってきてくれて、勉強を助けてくれました。私にとってはこれ程有り難いものはありませんでした。どうしても受験しなければいけなかった滑り止めの桃山高校(彼も受けさせられた)も無事合格して、本命の市岡高校も合格する事が出来ました。
 高校入学式の日、学級発表を見ると、なんと彼と同じクラスになっていました。四年連続です。けれども同じクラスだったのはここまでで、彼とは違う道を、歩み始めます。
 彼は大学へと進学し、私は二人の妹を高校へ進学させるために大学を諦め、高校卒業と同時にE物産と云う中小企業の会社に就職せざるを得ませんでした。
 この会社は若き二代目社長で、私を大変可愛がってくれました。就職して四年たった5月の父親の命日の日、久しぶりに我が家に帰ると母から “頼むから家業(父は由緒・歴史ある木材業を営んでいた)を再興してくれんかね” と云う、たっての願いを伝えられました。後ろ髪をひかれる思いで5月一杯を以って会社を辞め、6月から家業を再興させる為頑張り始めました。勿論彼にも報告すると、どれだけ喜んだ事か、こちらが驚くぐらいでした。
 彼の商売は木工機械販売業でしたので、私の家業とは深いつながりがありました。ところが人生は上手くいかないのが常で、家業が動き始めた十日目に、私は左手の第一指・第二指・第三指と左手の半分以上を製材機で失くしてしまう事故が起きました。それでも彼の助けを借りて、脇目もふらず我武者羅に働き続けました。初めて革靴を履き背広を着て、繁華街へ遊びに出たのは、27歳になる前のお正月でした。
 彼は大学時代から学生ボランティア・リーダーとして活躍していましたし、私はボーイスカウト運動の奉仕者として、社会奉仕活動の事をよく理解していました。彼の奥様は、彼の大学時代からの社会奉仕活動の良き理解者であり、協力者だったと聞いています。
 私達二人とも若くて金のない時代は、実働の奉仕者として奉仕を実践する事にお互い共感を覚えて、無二の親友として付き合うきっかけになりました。
 阪神淡路大震災の時は、労働の奉仕者であり、金銭の奉仕者であったような気がします。
 二人が60歳の還暦を迎えた時、何か未来に残せる事業をしようと相談し思い立って “21世紀の杜”運動を立ち上げました。
 丁度その頃、台湾・台中で大地震があり、多くの人々が亡くなり困難に直面している事を知り、そこで一番困っている少数山岳民族(有名な民族はアミ族等々)にハーブ(ニッキ等は成長が早く、売ればすぐお金になる)の樹(百万円相当)を、送る事に決めて樹を送りました。それから2年の月日をかけて、募金運動(約六百万円を集めました)をし、台中の三か所の公園に植樹(台湾桜等々)をする事が出来ました。この公園の台湾桜は、台中の桜の名所の一つとなっていて、過日(平成31年3月16日土曜日毎日放送4チャンネルの世界不思議発見)で放映されたそうです。
 私達は毎年のようにこの桜を見に、彼と一緒に台湾を訪れていましたが、今年は彼の悲しい日があったので訪問することは叶いませんでした。
 次の運動はカンボジアに学校を創ろうと、彼と一緒に決めましたが、その時彼から告白されました、“俺は海外へ行ってお前と一緒に活動できへんのや”。 理由は抗癌剤治療による免疫の低下で、海外渡航は医師からきつく禁止されていたそうです。それでも彼はバックアップに徹しようと病気を押して資金集めの為、大変な努力を重ねて奔走してくれ、2年がかりで七百万円のお金を集めようとチャリテー寄席、ピアノ演奏会、ワンワールドフェステバルの参加等々、大変な努力をしてくれました。
 そして翌年カンボジア政府から、タイ国境に近いトールポンロー(ポル・ポトが一番覇権していた場所)の広大な土地を提供するから、この地に学校を建てる事をお願いしますとの要請です。2007年にタイを経て、60時間ほどかけてかの地を踏む事が出来(行けないかもしれないと言われた)ました。
カンボジアを訪れた清水君
 
 二日間をかけて地域の公聴会を開き、村民達が教育に対してどれほどの熱意を持っているか等を見聞きしました。彼等や彼女たちのほとばしる熱情を感じて、これは絶対建てなければと心の底から思い、日本に帰って彼にも報告しました。
 私達のOKが出ると同時に、カンボジア政府は、1年をかけて250発の対人地雷と、5発ほどの対戦車地雷の処理を行ってくれました。
 学校建設中は、私達と思いを同じくする若き日本人の明君(私達のクラブ仲間)が、現地に滞在して、見守ってくれて完成にこぎつけました。が、紆余曲折は多くあり、一番大きな問題は、あまりにも人気が出て入学希望者が倍増し、教室が足りないので倍の学校の大きさにしてほしいという要望でした。一生懸命努力しましたが、建設資金は半分(約三百五十万円)しか集まりませんでした。
 最後の手段として、ユネスコに泣きついてお力を借りる事が出来ました。完成は少し遅れましたが、二校舎十教室の堂々たる学校が、立派に出来上がり多くの卒業生が巣立っています。昨年の秋、私と明君と2人で学校を訪問して来ました。凛とたたずむ学校を見て、何回も来て苦労した当時を思い出し、喜びと嬉しさで自然と笑いが浮かびました。彼はいま日本政府のカンボジア駐在員です。 

 今やっている運動は、“うなぎの森“ と云う運動です。この運動も病魔を押して畠平君がきっかけを作りました。大阪府木材連合会と一緒に始め、今年で4年目に入りますが、淀川にウナギを復活させようと、淀川の支流がそばにある高槻の神峯山寺の山林で、毎年5月に植樹を行っています。植樹したらなんで鰻が取れるか?不思議ですねー。“森は海の恋人と云うスローガン” を掲げて養殖に取り組んでおられる、気仙沼のカキ養殖者の畠山重厚氏(世界的に有名)の著書を読めば、その謎が理解できます
 私達のこの運動の成果は、20年、30年後に判ると思います。
 皆さんはご存じないかもしれませんが、江戸や明治時代の昔、淀川の伝法や天神さん界隈は鰻屋さんが一杯あったそうです。
 彼と共に始めたこの運動は、彼のお葬式などで少し“休憩”しましたが、今年も 5月12日(日)午前10時から植樹を始めます。参加費は2000円(苗木代共)です。参加ご希望の方は清水までご連絡下さい。
 共感者は一杯います。だからこの運動も又動き始めています。前よりも、もっともっと多くの共感者を巻き込んで、大きくなっています。
 畠平雅生君がこの世を去り、また、いつの日か私が去ったとしても,植えた木々は少しづつ大きくなって大木となり、又種をまいてくれるだろうと思っています。
 今はただただ、65年の長きに亘って友人として支えてくれた畠平雅生君に感謝、友として私に彼を巡り会わせてくれた神様に感謝の気持ちで一杯です。
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畠平 雅生(3年6組)

 市岡高校を卒業以来もうすぐ半世紀、五十年に成るのか-。多少の感慨と感傷を持って来年の卒業式への招待を聞いた一人です。
 これを記念して、「卒業50周年記念文集」を発行する。こう決まった時、「人の命なんてたかだか数十年。一瞬の時でしか無く、自然の摂理には逆らえない。人生とは生まれた時から死に向かって歩む旅の様なもの。その流れの中でどの様に過ごすか。これが大切なのでは?」この様な思いを何処かに持ちながら過ごして来た気持ちを表すのに相応しい言葉は何だろう?こう思った時、
青春とは人生のある期間を言うのではなく、その様相を言うのだ。
で始まり、
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。
希望有る限り若く、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。

等々で綴られたサムエル ウルマンの詩「青春」が即座に浮かんだ。

よし、これで行こう。そう思って書き出したのだが、心の片隅でそんな格好付けて良いの?二度も癌を患い療養中の身。更に、年始には母親を見送り、初夏には会社を息子に譲った今の気持ちを本当に表している?いつも前向きに過ごしたのではなく、それ以上に挫折や迷いの中でもがき続けて来たんだよなー。心の何処かで声がします。
仕事や親のことでも一区切りが付き、これからは自分に正直に過ごしたいナーそんな思いでこれからの生き方を模索している今こそ、今日までを振り返ってみるのも一つの方法かもしれません。 
 市岡での高校生時代はどうだったか? 好きな学科と嫌いな学科で成績は両極端で赤点も混じる状態。何とかしようとの向学心もそこそこに大学受験の二学期になってものんびりと過ごし、進学校生としては落ちこぼれ気味でこれと言った思い出も希薄。唯一は、中学生時代から家内に竹馬の友と言われる由縁の清水君を通学途上で誘って通ったこと位か?大学受験も早々に受験会場を出よう。そんな粘りのない態度で国公立の大学に受かるはずもなく、私学へ何とか滑り込む。
 入学当初は、拘束時間が多い工学部を専攻したにも関わらず、授業を適当にさぼって学内の美術クラブへ精勤。これに加えて近畿全域の大学生が集まって組織した学生ボランティア協会(略してS・V・A)には積極的に参加。日米初の衛星放送(ケネディ暗殺事件が中継される)も驚きの内にS・V・Aの活動中に見る等この活動に傾倒し、最低限しか教室や部室にも行かずに学生生活を謳歌する。おかげで教授に頼み込んでやっと卒業させてもらう始末。
 大学生時代の最高のお宝はS・V・Aで共に活動した女性との結婚(彼女にとっては不幸の始まり?)と今も付き合ってくれる友の輪を得た事です。
 卒業後は家業に就くが第一目標を頑固一徹な親父を乗り越えることと定めて仕事に励む。おかげで仕事に就いて数年後に結婚した彼女は夫の会社を手伝わされた上に、仕事一途の夫と子育て。おまけに天動説を地で行く姑に振り回されて結婚前の生活とは大違い。体重が前期高齢者に成った今でも結婚以前に戻らない。とても幸せな結婚生活とは行かなかった様。何とか彼女の体重が結婚以前まで戻ってくれることを願っている次第です。
 30代に入って仕事一筋では視野が狭く成ると誘われてYMCAをサポートして活動する国際組織の奉仕団体、ワイズメンズクラブに入会。会では多くのことを教えられ、今も私の財産に成っています。
この会へは清水君も後日入会。22年前、彼と共に旧クラブを出て新しく大阪西クラブを設立。クラブ会報のタイトルを「みをつくし」として今日に至っているのも市岡高校の影響か?
ワイズメンとして活動する中で日本人の潜在能力の高さを知らされた出来事が有りました。それは阪神・淡路大震災の時です。
『収容人数と同じ数だけ同じ物が揃わないから支援物資は配れない。』
『不在で無駄と判っていても、収容人数と同数の数量と同一内容の弁当を揃えて等々、全てにおいて杓子定規な役所の人間達。』
これに対して臨機応変に現場で対処する茶髪の若者達。
不幸な震災の中でも暴動や騒動は起こらず、規律正しく粛々と復興に向けて取り組んで行く被災者達。この様子を見た時、戦後の復興がどの様に成されたか垣間見た思いがしました。
 取引先や知り合いから株はやらないのかとよく聞かれます。仕事ほどリスクの大きいものは無いし、仕事は自分の身の丈で考えて対応できる。時流や投資対象会社の社業を読むと言った能力や才覚も無い上、不精者の私には向いていません。
 仕事上のリスクと言えば悲しい思い出が有ります。
バブルが弾ける以前には夫婦で交際し、親しくしていた取引先の社長が自分の保険で借金を返済してと遺言を残しての自殺。あの時は自社も危なく、悩んだ末に社員のリストラを行い6kgも痩せた。100年に一度と言われる今回の不況でも取引先社長の自殺。真面目に仕事に打ち込んでいた人が自殺の心境に追い込まれるのは悲しい限りです。
中小零細企業は社会の底辺。景気が良く成ってもおこぼれは最後。その代わり悪くなったら影響は一番に受ける。高齢化と共に物づくりをする高度な技の蓄積や技能が継承されずに虚しく消えて行く昨今。これからの日本はどの様に歩んでいくのか一抹の不安を感じます。
 戦後の復興期から全盛期を経て、衰退期?に入る直前でバトンタッチする我々世代。良い時代を過ごした幸せをつくづく感じています。
 これから歩む時代のことを考える時、ある会合を思い出します。
アジアからの留学生達や社会人として日本で働く人達との食事をしながらの懇談会で、留学を経験した中国人との話です。
「来日して一番困ったことは?」「日本語の習得には苦しんだが努力で何とかなった。ただ、一人っ子政策で甘やかされ、自己中心の世界で育ったことを来日して初めて痛感した。相手の思いを理解するのが苦手だった。又、敬語を持たない中国人には敬語の使い方が判らない。苦労するが誠意を持って当たれば日本人は理解してくれる。それよりも親や周りへの感謝の気持ちと、どんな小さな事でも良いから目標を定めて過ごすこと。そうしないと物価の違う日本に来て生活に追われ、何をしに来日したか判らなくなる。この事を皆に伝えて行きたい。どんなに苦しくても自分に誇りを持ち続けることが最も大切だ。」この様にしっかりと現実を捕らえ、自意識を持って対処して来る中国の若者達。自分の拠り所をしっかりと持ち、目標を持って歩む中国や韓国を初めとするアジアや世界の人達。
 この様な人達と交わるこれからの日本の若者達や国の政策は?
阪神・淡路大震災で発揮された若者達と日本人の隠された潜在能力の高さを信じたいと思います。 

 人類の歴史から見れば私の歩んだ人生なんて一瞬の内の一瞬にも当たらない。そんな中で残された時間は無に等しい。
 願わくば、迷惑を掛けた奥方と仲良く過ごす時間が少々与えられ、家族や楽しい仲間達との交わりの内に自分に正直に生き、自意識の有る状態で自然に帰れたらと願っています。
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私の趣味「弓道」

2019年04月01日(月)
8組  八島 平玐 
 
 最近は、朝ドラや、お正月の京都三十三間堂の通し矢等、テレビで、弓を引く場面が時々見られるようになりました。私も趣味の一つとして和弓を続けています。弓道は学生の時にやっていたものをリタイヤしてから再開したものです。 最近は弓道人口も増え、私の属しているクラブ(高津弓友会)の毎月の例会でも50人近くが参加します。男女差がなく、年齢も高校生位から最高は92才のメンバーまでがいます。
 私の通っているのは大阪城にある弓道場で、午前、午後、夜間の3部制となっており、午前は、主に、我々のようなリタイヤ組と女性が、夜間は、勤めのある会社員や学生と、夫々稽古に励んでおり各クラブの称号者が先生として後輩を指導してくれています(ボランテアで)。
 大阪城道場に席を置いているのは主として5クラブですが、クラブに属していない人も混じって練習しています。道場で、半袖の白の稽古着、黒の袴、白足袋を履き、胸一杯に自分の矢束(やづか)分を引き込みつつ体の中心で矢を放つ、カンと弦音がしてポンと的のはじける音、これが1日に1回出るかどうか? この射を求めて週2日、道場に通っています。和弓は洋弓と違い弓の中心が真ん中ではなく下から3分の1のところに矢をつがえます。このため、弓を引き絞ると非常に美しい形となり世界でも類がなく和弓独特です。諸説がありますが馬上で弓を引くためではないかと言われています。
 武器としては、飛距離、的中率の面からは洋弓の方が上ですが、運動面、精神面では、和弓の方が優れていると考えます。和弓では、射位から的までの距離は、28m、的の大きさは36cmです。競技では、的中数を競いますが、稽古では、当たりだけではなく体配(たいはい)を大切にします。射場で、弓を引き絞った時、丹田と呼ばれるお臍の下に力をため、両足を踏ん張り、左右両胸、両肩、両腕、更に体から頭の上の方にと力を伸ばし(縦横十文字)、気力が充実した上で矢を放つ、体の何処かに偏りがあると矢は素直に飛ばず良い射とはなりません。息合い(いきあい)、体のバランスと精神の安定が大切であり、これが和弓が立禅と言われる由縁なのです。とは言えこのように弓を引けるのが目標であり、四苦八苦しているのが現状です。
 
 通常、竹弓は、外・内2枚の竹とその間に両側の側木に挟まれて3~5枚の竹のヒゴが入った組合せを貼り合わせて出来ており、これにより反揆力をだすようになっていますが、最近は合成樹脂で出来た弓も使われるようになってきました。弓の強さは、10kg~24kg位あり引く人の体力に合わせて使い分けます。又、矢も引く人の体格(腕の長さ)に合わせて長さが決まり(矢束という)、特に竹矢では節の数と位置が矢に合わせて四ケ所決まっており、節の長さの合った竹を2本、4本と揃えなければならず(甲矢:はや、乙矢:おとやの2本組で一手、通常二手必要)価格的に高くなるのに対して、ジュラルミンやカーボン素材を軸とする矢が用いられるようになり道具の取り扱い性の向上や価格の廉価化と、時代の変化が見られます。更に、矢羽根に対しては、従来は鷲・鷹が好んで用いられてきましたが、希少動物保護に対するワシントン条約の点からそれらの羽根の使用に対して制約がかかるなどが問題となってきています。
 弓を握って50年以上を過ぎましたが仕事による中断があり、中抜きのため若い元気のよい会員には勝てず追い越されていますが、現在五段を貰っており何とか錬士を取ろうと目下奮闘中です(錬士からは先生と呼ばれます)。
 弓道はあまり激しい運動ではありませんが、前述のように、お腹に力を入れ、背筋を伸ばし、精神を集中すると言った点で、静と動を併せ持ったすばらしいスポーツと考えます。
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直木三十五記念館を訪ねて

2019年04月01日(月)
7組   張 志朗
 大阪の谷町6丁目に直木三十五記念館があるのをご存知でしょうか。この質問を同窓生6人にしてみましたら、半数がご存知でした。私はその存在すら知らず、全く偶然かつ突然のようにその場所に行きついただけに、同窓生のこの反応は驚きでした。
 1週間に3日程、谷町6丁目の友人の事務所で仕事をしています。「橋の湯食堂」という変わった名前の店があるのでそこでお昼ご飯を食べようと、「からほり商店街通り」を西に下り、北に折れたところの「桃園公園」のそばにひっそりと、その記念館がありました。
 直木三十五はペンネームで本名は植村宗一、1891年(明治24年)南区安堂寺町に生まれています。現在の「桃園公園」は彼が通った桃園尋常小学校の跡地だそうです。早速、記念館に入館し、その後も二回ほど、記念館を訪れました。
 その時に頂いたしおりには、「直木ゆかりの地に市民の力で記念館を立ち上げました。これからも『記念館』という既成の概念にとらわれず、どんどん成長して行く予定です」とあり、オープンは平成16年10月です。明らかに、公的機関またはそれに準じる組織による文豪記念館とは異なりました。建物や展示規模、収蔵量やその目指すところ(コンセプト)などとは、あっけにとられるほど違っていました。しかしかえってそれが、直木三十五の「知られざる」文学的業績や生き様、その息使いをリアルに感じさせてくれたようです。
 記念館のコンセプトとして「直木が晩年に自分で設計した家が、現在も横浜の金沢区富岡に残っています。(現在は他人が住んでいます。)直木の性格を表したようなこの家は一風変わっており、内壁は黒一色で統一され、トイレや浴室には黒いタイルが敷き詰められていたそうです。この記念館はその家をモチーフとして黒い部屋としました。また臥て書く習性のあった直木に則して畳敷きとし、みなさんに直木の視点を感じ、そしてくつろいで頂ける記念館を目指しています。」とあります。
 1階に普通の飲食店が入っている小ぶりなビルで、2階に記念館があります。広さは60mあるかなしの展示場が一室のみ。床の半分は畳敷きで黒い壁が基調、周辺に直木の作品や遺品、直木にまつわる展示物が並べられています。
 記念館に入るとすぐ左に年表が掲げられていました。以下にその主だったものを書き出します。
 明治38年 14歳、市岡中学入学とあり、「このころから書物の濫読がはじまる。図書館にもよく通った。『試験亡国論』をぶってあやうく処分されそうになる。水泳に長じ観海流で沖渡り五里の免状をものにする」とありました。
 実は直木は天王寺中学への受験に失敗して市岡に来たようです。当時はそんな事ができたようですが、自宅のあった安堂寺町から市岡までは相当な距離。電車もバスも無い時代ですから通学は徒歩で1時間くらいはかかったことでしょう。母校の同窓会名簿を広げてみると、旧制市岡中学第5期生 (明治43年卒業)に直木の本名である植村宗一の名前がありました。また創立100周年記念誌のP97~102には、直木が4年級の時(明治41年)伊勢・京都方面に修学旅行した紀行文と、翌年四国・中国地方に修学旅行した紀行文(それぞれ「澪標9号、10号」に掲載 -注:澪標は雑誌部の会報、年1回発行)が収録されています。
 市岡卒業後、第六高等学校を受験するも、初日の数学のみで放棄し、薬局勤めの後に奈良県吉野郡白銀村奥谷の小学校で代用教員になっています。早稲田大学英文科に入学したのが、明治44年の20歳のころです。しばらくして仏子須磨子と同棲し、長女が誕生しています。生活苦から月謝を滞納、除籍となるのですが、大学には通い続け、大学の卒業写真には堂々と顔を出して写っています。
 すでにこの頃から、文学はじめ文化芸術関係の書物の編集や出版にかかわっていたようで、大正7年には出版会社である「春秋社」と「冬夏社」を創立し、「ユーゴ全集」「ドストエフスキー全集」「イプセン全集」などを出版しています。しかし、赤字が続き、年表には「多額の負債を抱え、生活困窮する」ありました。年表の下のショーケースには、年表にそった遺作や遺品の一部が展示されています。
  大正12年、菊池寛が文藝春秋社をおこし、「文藝春秋」を刊行しますが、そこに辛辣なゴシップを掲載しています。9月の関東大震災により大阪に戻り、プラトン社に入社、雑誌「苦楽」の編集者になり、直木三十三の名前で、同誌に「心中雲母坂」などの小説を発表します。
 大正14年、「心中雲母坂」が映画化になり、映画に興味を持ち、プラトン社を退社、『日本映画の父』と言われるマキノ省三と提携して「連合映画芸術協会」を設立、「月形半平太」「第二の接吻」などの映画を製作しています。これもうまくいかず、
安堂寺町にある直木三十五の文学碑。
南国太平記の一節が刻まれています。
(大阪市が昭和60年に建立)
家財を差し押さえられるなど、着のみ着のままで東京に移り、作家生活に専念することになります。これが昭和2年、直木三十五、36歳の時です。
 昭和9年に肺結核・脊髄カリエスに冒され東大病院に入院後、43歳で永眠するのですが、その7年の間に、次々と作品を発表します。(左上の写真が作品の一部)
 昭和5年、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に「南国太平記」を連載し、流行作家として人気絶頂となります。
 『直木賞はよく知っていますが、直木自身とその作品は知らない』と良く言われますが、私もその一人です。母校を代表する偉大な大先輩にたいしてあまりにも非礼と考え、代表作の『南国太平記』と、直木についての評伝『知られざる文豪 直木三十五』(山崎國紀 -著 ミネルヴァ書房)を読みました。
 『南国太平記』が梅田の紀伊国屋書店で平積みされていたのには一寸驚きました。その理由は、どうもNHKの大河ドラマ「西郷どん」の影響のようです。幕末に島津藩で起こった“お家騒動”(お由良騒動―小柳ルミ子がお由良を演じていました)に材をとった長編時代小説です。島津斉彬とその嫡子を呪術で謀殺しようとする一派とそれを阻止し、仇討ちを果たそうとする一派の死闘を軸にした青春群像小説ですが、前近代的な「呪術」と近代合理主義の相克が背景にあり、興味深く一気に読了しました。
 『知られざる文豪 直木三十五』のサブタイトルは「病魔・借金・女性に苦しんだ『畸人』」で、直木の業績と苦闘の人生をひろく捉えた評伝です。「知られざる文豪」としているように、直木の業績と日本文学への影響を高く評価しており、直木が早く亡くなったこと、またその研究者が少なかったことから、直木賞は知っていても直木とその作品への認知度が低いと指摘しています。
 『畸人』(きじん)を辞書で引くと、「身体や性質や挙動が普通と変わっている人。礼儀などにこだわらぬ人。変人」とあります。
 小説家がストイックな文筆表現者であるとの勝手な考えで言っても、たしかに直木三十五はユニークで、その枠に収まらない人のようです。私には放蕩無頼、波乱万丈の人、個性的でまた極めて人間くさい人としての姿が、浮かび上がってきました。
 昭和10年、友人であった菊池寛が、大衆文学の新人賞として直木賞を制定しています。そしてその直木賞は第160回を重ね、芥川賞に並び、またそれを越える文学賞として世に愛されています。直木三十五の文学的業績をもっとも高く評価し、深く理解していたのは菊池寛、その人であったと思えてなりません。
 「芸術は短く、貧乏は長し」(横浜にある記念碑の碑文)との直木三十五の声が聞こえてくるような、そんな「直木三十五記念館」でした。
post by 12期HP編集委員 | コメント(0)