12期の広場

掲載年月で絞り込み: >>12期バックナンバー一覧

「わが家の八月」

8組 塩野 憲次
 
 皆様、新型コロナウィルスに因る自粛生活に飽き飽きされていることとお見舞い申し上げます。
 私自身はというと元来が出不精なもので、世間で自粛が言われることはむしろラッキーと、さほどの痛痒を感じていません。日頃の出不精に対する家人から私への圧力が多少分散されるようでラッキーなのです。
 それでも八月は我家の恒例行事がいくつかありこれに精出していました。
 一つはお盆の墓参りと息子家族、孫たちとの交流です。今年はコロナの所為で危うく流れかけたのですが、孫の強力な押しのお陰と息子たちの決断で、恐る恐るしながら近場でのホテル一泊と孫の誕生パーティーを決行しました。二週間ほどが過ぎても皆無事のようでホッとしているところです。5月の連休の頃だとちょっと怖くて実行出来なかったものが自粛生活も3か月が経ち8月ともなると慣れと気の緩み、それと政府のgo to政策に乗せられたのでしょう。
 そしてお盆のあとに控えているもう一つの行事が障子の張り替えです。そんなのお正月の準備で歳の暮れにやるものじゃと思われるでしょうが、我家では永年真夏の行事となっています。そもそも共働きの家庭では暮れは滅茶苦茶忙しい。というのも二人とも忘年会に精出していて新年の準備は大晦日に掃除と正月飾りをするのがやっとです。障子を張り替えたりしている余裕などまるでなかった。しかし障子は一年もすれば汚れ破れするもの。破れ障子で正月は迎えたくない。そこで知恵をしぼった結果、正月準備は早め早めにやろうと。で余裕をもって出来るのはというと8月の夏休みしかなかったのです。かくして真夏の障子の張り替えが始まったのですが、やってみるとこれが意外と快適。冬に水仕事は寒くてつらいものですが、真夏とあれば障子の水洗いも水遊びとなります。子供も喜んで手伝ってくれます。冬ならば日の暮れるのも早く、暗くなる前に仕事を終えなければと心急かされるところですが、夏は時間がたっぷりあります。障子紙の扱いや糊の加減など素人の悲しさで仕事はなかなか捗らないけれど日さえ暮れなければ焦ることもありません。
 こんな訳で今年も無事行事を終えたのですが年々疲れがひどくなり、いまは水遊びの楽しみどころか苦痛苦行となってきました。(障子は大小合わせて28枚あります。)
かつて障子を破っては喜んでいた子供も今は大きくなり、もう毎年律義に張り替えることもない、1年おきにしようかと考えています。さて来年はどうなりますやら。
 恒例の行事を終えるとあとはさしてやることもありません。いまは要請されての自粛ではなく普通の自粛生活に戻りました。
 ともあれ皆さまにはこのコロナ禍をご無事で乗り越えられますようお祈り申し上げます。

「私の巣ごもりの記」

8組 榎本進明
 
 
大島の夕暮れ時
 新年あけの1月7日、職場の同僚からメールがあった。いつも、年賀状が来るのに今年は来なかった。メールの内容は、昨年5月より長崎県壱岐市の離れ小島の人口200人ほどの大島に住んでいるとのこと。スローライフを楽しんでいる。5年ほど住むつもりでいるというのだ。筆者がやりたくてもできなかったことをやっているので、すぐさま「暖かくなったらそちらに行く」ことを約束。ルンルン気分で体調を整え、毎日一万歩の計画を「100日連続」に切り替えた。スローライフといっても黙って食事が出てくるわけではなく、魚は釣って、野菜は植えて、蜂を育ててハチミツを作り、自炊する。ボランティアの漁師や農家のお手伝いで、いただきものが多いとのこと。
 ところが、1月下旬ごろから新型コロナの感染が出始めた。母の25回忌のため、2月26日~27日に和歌山県田辺市に出向いた頃を最後に動けなくなった。楽しみにしていたのは、多摩川の川歩きもそうだった。コロナに関係なく筆者の体調の問題で出来なくなったままであった。そのような折、川歩き盟友の西條君を失ったのは大きかった。今も「スマン」と思って後悔している。
 この原稿を書いている9月11日現在の「毎日一万歩」は、1月は達成、2月~5月は未達成、5月27日~9月11日まで「連続108日」を達成した。また、長崎の壱岐・大島は台風10号がそばを通ったが、コロナが落ち着き次第、スローライフ生活の一端を覗きに行くつもりでいる。そのための体力は「毎日一万歩」の連続記録を伸ばすことで、巣ごもりをしていても体力だけはつけたいと思っている。毎日楽しく歩いている。

「毎日が日曜日」

8組 末廣 訂
 
 今年の春先から、あっという間に世界中に蔓延したのが、中国武漢で発した新型コロナウイルスで、毎日マスコミで報じられ人々を不安のどん底に叩き込んだ。
 12期の広場編集担当からコロナウイルスで「巣ごもりの話」を書いてほしいと連絡があったが、よくよく考えるに会社定年後は毎日が日曜日で巣ごもりの連続である。
 当初は英国船籍の横浜寄港云々から、感染者の隔離問題がはじまり、それから中国要人の国賓来訪の話題、そうこうしているうちに、オリンピック開催が怪しくなってきた。
 当初、若い世代の感染率が少ないということもあって、行政の外出自粛のお願いも効果がなかったが、志村けんさんの死去で緊張が高まりいろんなイベントが中止となった。
 アベノマスクが不評で税金の無駄使いに終わったと言われ、また、国民一人当たり10万円の給付金もマイナンバーカードが使い物にならず、日本政府のITやデジタル化遅れを露呈してしまった。
 東京の知事さんの横文字発表も話題となった、オーバーシュート、ロックダウン、ソーシャルデイスタンス、クラスター、テレワーク等々、これら横文字の表現に手話担当者が大変苦労したと聞いたことがある。その後は、PCR検査数があがらず、政府は経済優先か、感染対策優先かで、国と地方自治体で綱引きがあった。一方、外国の感染状況も日に日に切羽詰まりで、国と国との対立まで問題が発展した。   
 趣味のない自分にとって普段とはあまり変わらない生活であるが、身の回りの整理、本棚に眠っている本の読みなおし等で時間を過ごした。またこの際、他人に見せるものではないが、自分の過去を振り返り、入社以来何をしたのか、海外事業担当として主な出来事を整理した。海外出張回数(海外赴任先からも含む)約90回、訪問先40か国、パスポート9冊、個人的な旅行をも含めて一覧表にまとめた。
 また、お盆に「大阪・梅田で人骨1500体埋葬」という記事から日本の伝染病の歴史を調べ、コレラやペスト等で何十万の人が亡くなっており、先人の対策と苦労の事実が分かった。
 今回のコロナによって、我々の生活が大きく変わり、あるいは今後全く経験していない世界に突入する社会になろうとも、新たな変化と課題に挑戦してゆく気力と体力だけは残してゆきたい。

「僕のゴルフ奮戦記」

8組 萩原貞雄
 
2020年はゴルファーにとって散々な年だった。コロナ禍による自粛が解除になった途端、8月の酷暑だ。芝生の上は思いの外、暑い。40℃にもなる。熱中症はコロナ同様大敵だ。コロナ、暑さ、寒さなどの自然以外に、この年になればゴルフを続けるためには老いと旨く付き合っていかなければならない。
 
 まずゴルフはカートを使っても、棒を振り振り1万歩位歩く。その為、僕は近くの公園をジム代わりにして運動する。メニューは100段の階段を数回上り下りし、途中ストレッチ、早歩きなどである。この夏、張り切り過ぎて、途中で腰が痛くなり中断。医者は腰廻りの筋肉の老化による腰痛であり、階段の上り下りではこの筋肉は維持できないという。人間の体には600もの筋肉がある。老化は全身の筋肉に及ぶ。でも筋力を維持できるのは一部だろう。腰痛体操の処方箋をもらった。これで運動のメニューが増えた。
 
 ゴルフは打数を数えなければならない。OBや池ポチャなどがあると打数を足し算するのが大変。認知症ではできない。75歳以上になれば運転免許証の更新時、認知症の試験を受けなければならない。イラストによる記憶テストだ。一昨年合格しクリアした。
 
 ゴルフのプロは衰えが目から来るという。グリーン上の芝目が読めないためだ。僕の場合は100メートル先のボールが見えなくなった。昨年眼科で診てもらった。左目に白内障があるという。医者は日常生活に支障がなければまだ手術はしなくても良いと言う。僕はゴルフに支障があるのでその場で手術を決めた。手術後は左目の視力が0.5から1.2になった。不思議なことに近視の右目は遠くがよく見えるようになり、高校時代からの近視の眼鏡が不要になった。
 
 そんなわけでゴルフとの闘いはゴルフができる状態を維持することが闘いなのだ。

「12期の広場2020夏号」のラインアップ

 いよいよの夏です。季節の移ろいを味わう余裕すら失くしたような3か月でしたが、梅雨に加えての暑さに、“猛暑の夏到来”を予感しています。昨年の統計だそうですが、ひと夏の気温30度以上の日数は、大阪が一番多かったそうです。
 多くが70歳台最後の夏です。花火大会は無理のようでも、入道雲に蝉しぐれ、夕立、よしずに冷やし西瓜、金魚に風鈴などなどの夏の風物詩を楽しみ、なんとか元気に乗り切りたいものです。
 
 それにしても新型コロナウイルス感染による影響は甚大です。それが私たちの生活の隅々にまでおよんでいるのには、驚きを超えて、もううんざりと言うのが率直な気持ち。マスク常用、手洗いにうがいは当然としても、何のことやらと思った、「三密」「ソーシヤルディスタンス」も、いまや「社会常識」、「行動規範」のようになりましたね。細心の注意をはらっていますが、マスクを忘れたり、落としたりすることがあります。それで街なかを歩き、特に電車に乗ろうものなら、非難の視線にさらされて、身の置き場がありません。わざわざ「細心の注意」とするところに、笑えないコロナ禍の深刻さがあります。
 新しい言葉もその意味を含めて、たくさん覚えました。「パンデミック」「PCR検査」「エクモ」「テレワーク」「リモート」「ウイズコロナ」「アフターコロナ」「ウーバーイーツ」「〇〇モデル」「〇〇アラート」等々、何故かカタカナ語が多いのですが、数えきれません。
 また緊急事態宣言当初は、まったくの巣ごもり状態で、情けない話、時間を持て余しては、日なが一日をどう過ごせばよいかと戸惑う始末の鬱状態であったようです。
 結果、庭に小さな畑を作り、朽ちかけていたウッドデッキを日曜大工でやり替えました。今では畑も葉物野菜が食べられる程度になり、ガタガタ鳴っていたウッドデッキは、新品同様の出来栄えで家族に喜んでもらっています。皆さん、同じようなことを考えられるようで、数回出かけたホームセンターの家庭菜園と日曜大工コーナーは、思いのほかの人出でした。
 今、新型コロナウイルスの感染は小康状態、社会生活は徐々に以前の状態に戻りつつあるようです。プロ野球をはじめプロスポーツも無観客試合ではありますが、漸く開幕、再開されました。しかし、「第二波」「第三波」がささやかれているように、今後の感染拡大が確実に予想され、その対応に知恵がしぼられています。その対応策として「大阪モデル」などが喧伝されていますが、いまだ感染者が一人も出ていない「岩手モデル」はどうなのと思ってしまいます。
 「ウイズコロナ」は当たり前になり、「アフターコロナ」では社会生活の考え方やそのモデルまでもが変わると言われています。バーチャル世界は新たな広がりを見せ、例えば「テレワーク」の多用で、テナントビルの貸室の需要が減っているといいます。変化はその程度では済まないでしょう。ただ何とか、人をないがしろにするような市場経済と、最大効率至上主義の世の中が更に酷くなることだけは避けてほしいと願うばかりです。
 
 5月に3組の西條軍蔵君の訃報が届きました。
 ご存じの通り西條君は、市岡東京12期会の中心的メンバー、その存在感は大きかっただけに、残念でなりません。西條君と筆者は、高校1年次に同じクラスでした。穏やかで心優しい男前で、仲良くしてくれた記憶が鮮明です。名前の恰好よさもあってか、将来はきっと俳優になるのではないかと思ったりしたものです。期待に違わず、ダンディを地で行くもの静かな慶応ボーイ、そのスマートさは更に磨きがかかっていたと言えるでしょう。同窓会で毎回のようにお会いしていたのに、もっとたくさんのお話をしておけば良かったのにと、悔やまれてなりません。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。 合掌。
 
 さて、わが「12期の広場2020夏号」のラインアップは以下の通りです。
西條君を偲んで、榎本進明君(8組)が一文を寄せてくれました。また、川村浩一君が所属している「茶事同好会」(プライベートグループ)の記念誌に、彼が書いた「明治三十四年の茶会」の転載をお願いしました。ご覧ください。
 
1.「西條軍蔵君の思い出」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・8組  榎本 進明
2.「明治三十四年の茶会」 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 8組  川村 浩一
 
以 上

西條軍蔵君との思い出

8組 榎本進明
 
 編集委員の張志朗君から「西條君を偲ぶ」記事を書いてほしいと頼まれて、何日も西條君とのことを考え始めると走馬灯のように浮かんできて長文になってしまいました。 
 故人を偲ぶ文章は、短く心のこもったものが常識だとは思いますが、どうしても皆様にお人なりを伝えたくなって、偲ぶというには適切でない長文になってしまいました。奥様をはじめご家族の皆様にはお悔やみのご挨拶をさせていただきましたが、本稿は少し外れてしまい、彼との楽しい思い出しか浮かんでこなくて、常識外れの原稿になってしまいました。
 
人文地理部 ・ 保屋野先生の後ろ 3組・ 江本学級 ・ 後列 右から 5番目

 それは、去る5月3日のこと。 酒井八郎君から電話あり。「西條君が亡くなった。詳細不明。八阪中学同級生からのルートのようだ」とのこと。彼も相当慌てていて、筆者もガクガクと腕は震えて、顔がこわばり、まず落ち着かせるのに半日かかりました。そして、ご自宅にお電話をして奥様からお亡くなりになったことをお聞きしました。奥様は落ち着かれてお話をしていただきました。
 5月4日に「東京12期会」の方々と編集委員の張志朗君にメールでお知らせしました。内容は以下の通りです。
 今朝のご連絡ほど悲しいことはありません。3組の西條軍蔵君がお亡くなりになりました。
昨年11月11日の「東京12期会」でお会いしたのが最後となりました。
 昨日(5月3日)ご自宅にお電話をしたとき、奥様から彼のご逝去を伝えられました。
4月3日の早朝6時過ぎに、気分が悪くなり、救急車で近くの日赤病院に搬送されました。
人工呼吸等の緊急処置の甲斐もなく、アッと言う間に息を引き取りました。虚血性心不全でした。
 彼は「川歩き」のメンバーで、川合君の亡きあと、リーダーを務めてくれていました。
過去に「利根川」「荒川」を完結して、今は「多摩川」を始めたばかりでした。
小生(榎本)の体調を考慮して中断していましたが、奥様のお話によると、いつも楽しみにしていたそうです。また、12期会の幹事もしていただき、心から感謝しています。
 お葬式は、4月8日に、お身内のみの家族葬で見送られたそうです。
今は、コロナの緊急事態宣言のなか、お参りは叶いませんが、一段落後にお伺いすることにしています。12期会の皆さまには、「試練のとき」が続きますが、どうぞくれぐれもお気をつけてお過ごしください。全員無事で、またの再会を楽しみにしております。

 高校時代、筆者は彼とはほとんどお話をしたことはありません。それが、2003年11月7日の東京12期会発足以来徐々に話すようになり、利根川歩きのメンバーになられてからは、一挙に近しい仲間になりました。利根川は13泊22日、荒川は6泊12日、同じ目的で寝食を共にした「仲間」でした。奥様も「川歩きを本当に楽しみにしていました」と仰ってくれた時は、涙があふれて来ました。それからこの原稿を書くまで、彼とは楽しい思い出しか浮かんで来ず、文頭で書いたように、亡くなって悲しいという心情ではなく、一緒にいて楽しかったことしか浮かんで来ないのです。不謹慎ですみません。以下に楽しかった写真を数枚載せて「西條軍蔵君との思い出」といたしました。
 また、市岡時代の「人文地理部」の知識でいろいろ教えてくれました。特に荒川の第2回で、ホームページに次のような報告がありました。「海のない埼玉県のほぼ中央に日本一の川幅を誇る地点・御成橋の付近は2,537メートル。しかし橋の眼下に見える荒川の流れそのものは、20~30メートルの幅なのである。広大な河川敷は田畑が広がり、民家も点在している。不思議・・・」
 
2017年11月26日 大石橋夫人(青の衣装)のシャンソンコンサート。6人の12期生とその夫人が参加。そのあとの打ち上げで、恒例になっている金婚式のハグをする西條夫妻(右奥二人)
 
2012年3月17日JAXA見学
 
2011年7月14日高尾山・利根川完歩記念
 
2018年8月20日・圓尾君画展・銀座の画廊
 
2019年8月19日・圓尾君画展・銀座の画廊
 
2014年4月20日・第5回荒川二日目終了
 
2016年11月9日・多摩川・第1回で中断
 
 
1987年3月7日の同窓会。45才の西條君
 最後の多摩川を歩いてから約3年後の今年3月に、筆者の体調も良くなり川歩き再開を提案するつもりでした。ところがコロナの感染者が増え無理かな?と思い提案しませんでした。今はそれをとても悔やんでいます。彼がそこまで楽しみにしていたことを知り、せめて2月にそれを言っていれば良かったと。これからは自分の気持ちも早く切り替えて、多摩川・第2回をコロナ禍後の目標とし、これを完歩するまで彼と一緒に歩くつもりです。

 

明治三十四年の茶会

8組  川村浩一
 
 明治三十四年は西暦でいうと1901年。二十世紀の初っ端の年、日本は日清戦争に勝利し間もなく日露戦争に向かっている頃です。夏目漱石も正岡子規も三十四歳。漱石は熊本の五高教授でロンドン留学中。一方、子規は肺結核から脊椎カリエスで寝たきりになり根岸の子規庵で療養中でした。しかし子規は寝たきりであっても意気軒昂。短歌や俳句の革新に取り組み、根岸の子規庵には門人たちがひっきりなしに訪問しており、にぎやかに「わいがや」を楽しんでいました。
 そのような病床生活の中での茶会の様子が新聞「日本」のコラム「墨汁一滴」に報告されています。この中に出てくる人物は3人、いずれも短歌の門人たち。まず伊藤左千夫、この人は「牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる」と子規のあと短歌の改革に力を尽くしました。小説「野菊の墓」でも有名です。茶の湯にも詳しく「茶の湯の手帳」という一文も残しており、子規から茶博士と呼ばれていました。次は香取秀真ほつま。鋳金工芸家にして歌人。文化勲章も受賞している。3番目は岡ふもと、書家にして歌人。「嘆きてもかひなきことはおもはずに明日はけさより早めに起きむ」はいい歌ですね。
 さて、墨汁一滴の中身。煩わしいので歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに変えて紹介します。
二月二十八日、左千夫が大きな古釜を携えてやってくる。釜の蓋は左千夫がデザインし秀真が鋳たもの。つまみは車形。麓が利休手簡の軸を持ってくる。牧谿もっけいの画をほめた手紙。床は桃と連翹れんぎょう。これは子規の指示。
 左千夫が茶を点て麓が主人役。献立は次のごとし。
・みそ汁は三州味噌の煮漉にごし、実は嫁菜よめな
なますは鯉の甘酢。
・平は小鯛の骨抜四尾。独活うど、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。
・肴はかれいを焼いて煮たようなもの。
・口取は焼き卵。栄螺さざえ、栗、杏子、柑類を煮たもの。
・香の物は奈良漬けの大根。
酒も出て飯も太鼓飯から順次出てきた。飯終われば湯桶に塩湯を入れて出してきた。子規にとって初めての懐石。懐石を食すと寿命七十五日延びるという言い伝えがあるらしい。
 その後雑談。左千夫が釜について一首詠めと言う。子規が「湯のたぎる音は如何」と訊く。左千夫答えて曰く「釜大きけれど音かすかなり、波の遠音とおねにも似たらんか」と。
で、子規の句「氷解けて水の流るゝ音すなり」
 真情の籠った茶会ですね。私ももうしばらくお稽古を続けて親しい人たちとの茶会を楽しみたいと思っています。子規の文、このあと独自の茶の湯論を展開していますが煩雑になるので省略。「茶道はなるべく自己の意匠によりて新方式を作らざるべからず」と月次を排しています。短歌、俳句と同じ姿勢です。学ぶべきでしょう。

「12期の広場 2020春号」のラインアップ

 春です。待ちに待った爛漫の春と言いたいところですが、降ってわいたような新型コロナウイルス感染症の拡大で予断を許さない状況です。季節の移ろいも、「早春賦」の“春は名のみの風の寒さよ”の情緒を味わう暇もあればこその記録的暖かさで、一足飛び。戸惑いながらの4月ですね。
 それにしてもコロナウイルスの感染症の影響は計り知れません。春の風物詩、選抜高校野球のまさかの中止にとどまらず、東京2020オリンピックまでもが延期。身近なところで言えば、恒例の市岡の森のお花見も中止になりました。その他諸々を考えても、イライラはつのるばかりです。コロナウイルスは、いまだに分からない事の方が多いようで、病状や治療法、治療薬がはっきりしていません。感染防止対策も決定的なものがなく、人的接触を避けるなどのごく普通の予防対策にとどまっているのが現状です。高度文明社会とグローバルゼーション、特に医療技術の発達が喧伝されていても、もろ刃の剣とも思えるその脆弱さと人間の我欲、それを基盤に成り立っている生活の危うさに気が滅入ります。終息への対策でも何に忖度しているのか、“隔靴搔痒(かつかそうよう)”の歯がゆさが見え隠れしているように感じてしまうのは、筆者だけでしょうか。
付和雷同せず、平常心を大切に生活して、一日でも早い感染症終息に合力して行きたいと思っています。
 
 4月は、晴れやかな旅たちと出会いの時節でもあります。特に今年は、私たちが母校、大阪府立市岡高等学校を卒業して60周年の節目に当たります。
今年の卒業生が72期生と聞けば、今更ながら過ぎ去った年月の長さに思いが至ります。同時に、2月27日、開催規模と時間に自粛制約を掛けたようですが、無事、通常通りの卒業式が行われたと聞き安堵しています。新一年生のための入学式ができるのかどうか、この文章を書いている時点ではわかりませんが、同窓生になる若人(という言うより孫世代)の、72期生と75期生皆さんの前途に幸多かれと、心からのエールを送ります。
 私たちも60年前の春に、恩師、後輩、父母兄弟の祝福を受けて母校を卒業し、それぞれの夢や希望に向かって歩み始めました。そして今、その長い人生の道のりを振り返り、充足感や悔恨、数えきれない浮き沈みに喜怒哀楽など、様々な感慨に揺れ動きます。深夜、突然のように目が覚めてすっかり忘れ去っていた昔の失敗を、鮮明に思い出して、なかなか寝付けないことが一度や二度ではありません。恥多き道のりでもあったと言えそうです。しかしそれでも、一生懸命に生きてきたことだけは間違いありません。人生は櫂を手に大海に漕ぎ出すようなものとすれば、その櫂の力の多くは、母校市岡で培ったもののようです。
 私ごとで恐縮ですが、奇しくもこの春、一番上の孫が高校を卒業し、大学入試に挑みました。幸いなことに希望する大学に合格し、めでたく大学生です。暫く見ぬ間に身長は、仰ぎ見るように伸び、風貌も幼さより自我の青臭くさが目について、もう手が届かない存在になってしまったのではと感じてしまいます。何か一言と力んでみても、お祝いを渡して月並みの“頑張るように”が精一杯。なんともふがいなく、情けない話とちょっとへこみました。
 
 さて、わが「12期の広場2020春号」のラインアップは、以下の通りです。コロナウイルスの影響と段取りの悪さもあって、以下の二編になりました。ご容赦ください。
 「四季の花篭 ― つれづれに 」は今号の④で終了です。執筆して頂いた高見政博君のご苦労に感謝・感謝です。
 
「12期の広場2020春号」のラインアップ
 
1.「四季の花篭 ― つれづれに ④ 」 ・・・・・・・・・・・・  6組   高見 政博
2.「市岡のOB・OGの皆さんが、頑張っています ・・・・・・・・・・・・ 7組 張  志朗
 
以  上

四季の花籠 ― つれづれに ④

6組  高見 政博
 
 「山笑う」季節になりました。寒さに耐え眠っていた木々、草たちが一斉に目覚めて花を咲かせます。
 春の花と言うとすぐ思い浮かぶのは桜です。人々は桜の開花とともに花見に繰り出しますが、新型コロナウイルスの影響で今年の花見はどうなるのでしょう。
 桜の他にも「花桃」「木蓮」「ツツジ」「コブシ」などなど、野の花では「レンゲ」「タンポポ」「スミレ」と、まさに「百花繚乱」の様相で、今回、どの花を選ぶか迷ってしまいました。
 そこで、私の花写真のテーマに戻って、あまり目立たない、路傍や野山の片隅でひっそりと、しかし精一杯咲いている花を取り上げて見ようと思います。
 
 「 オオイヌノフグリ」です。道端で何処にでも見かけます。
 「フグリ」というのは陰嚢のことで、種子の姿が雄犬のそれに似ているところからの命名と言います。
 爽やかな、まるで夜空の星のように咲く、瑠璃色の花にいささか不名誉な名前と憤慨していましたが、最近この花に「ホシノヒトミ」というロマンティックな名前があることを知りました。
 よくぞ言ってくれたと感謝したい名前です。
 


 「フデリンドウ」です。リンドウというと秋の花のイメージが強いのですが、春に咲くリンドウです。春に咲くリンドウはこの他にずばり「ハルリンドウ」があります。リンドウは漢字で書くと「竜胆」、この草の根はものすごく苦くて熊の胆よりも苦い竜の胆のようだと言うことから、漢名で「竜胆」。これを音読みにして、「リンダウ→リンドウ」となったと言います。
 この花は太陽の光で開花し、曇って光が無くなると閉じてしまいます。
 春の山歩きの時に出会うと爽やかで綺麗なブルーの花は幸せな気分にさせてくれます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 何の花か分かりますか?
刺身を食べるときに必ずついてくるもの、「ワサビ」です。
 ワサビがこんな花を咲かせると言うことを知ったのは長野県の安曇野にある「大王わさび園」に行ったときの事でした。
 大王わさび園ではこの花を食用として売っています。花茎と共に熱湯に浸してしんなりした所でお浸しとして食べるか、だし醤油漬けにして食べます。わさび特有のツンと鼻にとおる辛さがあって、癖になる食感です。
 お酒のつまみとしても乙なものです。
 六甲高山植物園で撮影しました。




 
 
 

 この花も何の花か分かりますか?よくご存じの野菜です。春の七草の「スズシロ」、そう「ダイコン(大根)」です。
 アブラナ科の植物らしく4枚の花弁で先端に紅をさしたおしゃれな花です。
 畑から逃げ出して、野生化したものが「ハマダイコン」として浜辺などで見かけます。
 以前、佐賀県の呼子の海岸で群生している所を見たことがあります。
 普段よく見ている野菜も子孫を残すためにこんなおしゃれで可憐な花を咲かせて虫たちにアピールをしているのです。
 けなげだと思いませんか。
 
 
 
 
 
 
 

 「ハクサンハタザオ」といいます。
里山で見られますが、あまり一般的ではありません。
 この花は昔の山師が鉱脈を探すときにガイドの植物にしていたそうです。
 兵庫県の多田に多田銀銅山跡があり、今は史跡になっていますが、此処を訪ねたときに周辺に沢山咲いていました。
 このとき、ガイドをして下さった地元のボランティアの方が教えて下さって、なるほどそれで此処にこの花が多いのかと思ったものです。
奈良東大寺の大仏建立の時にこの多田銀銅山の銅が使われたとか。
 また、豊臣家の台所を豊にしたといわれ、秀吉が亡くなる前に、この鉱山の何処かに息子秀頼のために財宝を隠したと伝えられて「豊臣の埋蔵金」として今でも探す人がいるとボランティアの人が説明をしてくれました。本当に隠されているのなら探して一攫千金を目指すのも悪くないかなと思いますが、いかが?



 

 「マイズルソウ」です。
この花も亜高山の花で、私の好きな花です。
花茎の長さは3㎝くらい、一輪の大きさは5㎜足らずの花です。
 ハート型の葉が2枚、折り鶴の羽根を広げたようについていることからの命名といいます。
六甲高山植物園で大群落を見ることが出来ます。また、栂池自然園など高山の少し日陰になるところに群生しています。
 なにしろ小さい花ですから、ピント合わせが難しく、もう何年も開花時期に行って撮影をしていますが、未だ満足のいく作品はできていません。
そんな未完成の作品ですが、こんな花があることを知っていただきたくて、あえて掲載しました。




 昨年の夏から編集委員の方からのご依頼で、「四季の花籠―つれづれに」と題して夏、秋、冬、そして今回と、それぞれの花を紹介してきました。今回が最終回となります。作文能力の無さを痛感する毎回でした。花の美しさ、けなげさと、思いも懸けないしたたかな強さを伝え切れてはいないとおもいますが、今は肩の荷を下ろしてホッとしています。

市岡の OB・OGの皆さんが頑張っています

7組    張 志朗
 

第11回市岡OB写真クラブ写真展

 
 新年を迎えて最初の市岡高校関連恒例行事は、市岡OB写真クラブの作品展です。ここ数年は、会場も大阪天満宮や堀川戎神社が近い南森町のMAGギャラリーと固定され、時期も“十日戎”に重なる事が多かったのですが、今年は、会場は変わらず、開催期間は、“エベッさん”の賑わいがおさまった1月16日~21日の6日間でした。17日、大阪市内でちょっとした仕事を済ませての夕方、作品展に行き、皆さんの作品を楽しんで来ました。
 出品者数16名で、各二点の作品展示、総数は32作品。毎回ほぼ同じ規模のように思いますが、作品はいずれも豊かな感性と魅力が溢れる力作でした。今回の写真展の特徴は、風景写真が多かったことのようです。当然、撮影場所も身近な場所から日本の各地、はては北欧にまでおよび、山上から、海辺から、また近景、遠景、そのアングルも多彩です。引き込まれて作品に顔を近づけ、メガネをはずして見入ってしまった作品が沢山ありました。ずぶの素人が言うのもなんですが、“皆さん大層、腕を上げているなぁ”と言うのが正直な感想で、同時に撮影のご苦労もなんのその、シャッターチャンスを逃すまいとの若々しい気迫と、喜びが伝わってきました。
 同期の高見政博君の作品も“花の写真の手練れ”には珍しい風景写真です。「幣舞橋ぬさまいばし夕景」(撮影場所:北海道釧路)と「天空の橋」(撮影:長野県白馬村八方池)の二枚。いずれも美しく、幻想的で味わい深く、詩情あふれる作品です。紙幅の関係で「天空の橋」のみを貼り付けました。写真上部は後立山連峰(白馬連峰)。唐松岳から延びる尾根で「八方尾根」として知られています。天空に浮いた橋のように見える道は、唐松岳登山の登山道でもあり、その標高2060Mだそうです。
 思わず一人言。
 「行ってみたい。こんな景色に巡り会い、それを写真に撮れたら感激・感動ものだろうな」

 

市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド第12回定期演奏会

 
 2月23日、大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンドの第12回定期演奏会に行ってきました。
 毎回、案内状を頂きながら、前の何回かは欠席をして久し振りの演奏会です。今は亡き4組の内田勝章君に誘われて初めて演奏会に行ったことを思い出しながら会場の城東区民センターへ。出来るだけ歩こうと、タクシー利用をさけたのですが、結局道に迷い40分近く歩く始末で、開演時間ギリギリの到着でした。
 新型コロナウイルス感染の初期段階とは言え、その影響をちょっと心配したのですが、観客は市岡ゆかりの人達を中心に、定員800名の会場、ほぼ満席状態でした。
 定刻2時に開演、舞台には69名のメンバーが勢ぞろいで圧巻です。第1部は『オリジナルステージ』で、「オリンピックマーチ」「炎のランナー」「バンドのための『ゴジラ』ファンタジー」の三曲でした。2020東京オリンピックにちなんでの構成だそうですが、まずは手始めのオーソドックスな大編成バンドサウンドに圧倒されます。
 
 第2部は恒例の『アンサンブルステージ』です。これが楽しい。大小さまざまなリコーダーを使った優しく、懐かしい音色の合奏から始まり、サックスアンサンブル、金管アンサンブル、打楽器アンサンブルと続き、音色や音域が異なる同種楽器のハーモニーの新鮮さに驚き、またそれを楽しみました。小編成だけに息が合う事が要になるようですが、練習時間や場所の制約を克服しての舞台に苦労がしのばれました。個人的にはサックスアンサンブルの「ブエノスアイレスの春」が気にいりました。
 第3部はいつも大人気の『ポップスステージ』です。「MOVE ON」(報道ステーションのスポーツコーナーBGM)から、お馴染みの「ゴーストバスターズ」「美女と野獣」と続き、2020年12月に活動休止する「嵐」の楽曲12曲のメドレーで大盛り上がりです。手拍子あり、掛け声あり、立ち上がっての演奏ありなど、舞台と観客席が一体化して雰囲気は最高潮です。
 アンコールはなんと「東京音頭」と「パプリカ」で、大きな拍手喝采で終演となりました。
 トロンボーン奏者の高橋正憲さんは高校18期の最年長、すぐ傍で28日に卒業式を迎える高校72期の玉置優里さんが演奏していましたが、市岡のOB・OGバンドならではの光景に嬉しくなりました。