同期会

【高45期】卒業25周年記念同窓会のお知らせ

2012年に開催して五年が経ちました!
開催ホテルも 創業25周年を迎えお祝いムードに包まれて楽しい会を開催します!!!
ぜひご参加を!
 

開催日時:

 2017.8.19(土)

開催場所:

 ホテル阪急インターナショナル

※クリックで拡大


お問合せ:


 yasuyo8787@i.softbank.jp

「12期の広場」 7月号のラインアップ

 7月、文月です。何故「ふみづき」かと思えば諸説あるようで、「穂見」(ほみ)からきていると書かれているのを見つけ納得。いよいよこれからが猛暑、酷暑の夏本番です。
 カラ梅雨かと思われたお天気も、ここに来てようやく梅雨らしい雨が続いています。しかし降り出せば、恵みの雨どころか天上の底が抜けたような豪雨になり、それによる土砂災害の心配で不安になりますね。
 7月の暦を繰ってみました。7月の2日が半夏生、7日が小暑と七夕、15日がお盆で、17日が海の日、23日が大暑とありました。大暑のあたりが天神祭になり、大阪でもっとも暑い時期とされています。暑いのはかなわないと思いながら、これも夏の常、酷暑への心構えだけはと、気を引き締めています。
 「広場」の編集にかかわっているせいでしょう、学友からの連絡が二つありました。
 一つは「市岡東京12期会」の同窓会の日時連絡です。11月11日(土曜日)に開催されることが決まりました。大阪とは隔年開催の東京の同窓会ですが、今年もまた、関東在住の学友の皆さんと再会できると思うと、気持ちも晴れます。現在、案内状の作成など、その準備を進めているようです。詳細がわかり次第、また「12期の広場」でご案内致します。なにかとお忙しいでしょうが、予定表に記入して、是非ご参加下さい。
 もう一つは、7組の大西佑治君(市岡中学出身)からのメールです。驚きました。
 そのメールによりますと、平成26年、急性心筋梗塞で倒れ奇跡的に命をとりとめた後の今年4月、体調を崩し検査した所、「膠原病」、それも稀で非常に厄介な結節性多発動脈炎(PN)であることが判明したそうです。また入院後、悪性の胃癌があることも分かり、現在、闘病中であると言うことです。
 筆者は大西君と同じクラスで、卒業後、東京市岡12期会同窓会ほかで二、三回お会いしています。理性的で前向きな人物で、社会に出ても立派に実績を積んでこられたと拝察しています。
 老境にあって病にとりつかれることは、誰にでもあり得ることと思いつつも、大西君の現状は、過酷に過ぎると言わざるを得ません。彼のメールの末尾に「必ず半年~1年後くらいには退院して皆さん方と談笑します。」とありました。その強い意志とその言葉の通りの回復が一日でも早くなるように祈りたいと思っています。

 さて、わが「12期の広場」7月号のラインアップは以下の通りです。
 記事は兵庫市岡歩こう会の30回記念ウォーキングの報告と前号に続いての奈良市岡歩こう会の「しまなみ海道を歩く」の報告の二編です。お読みください。

1. 「兵庫市岡歩こう会に参加しました。」            5組  段中 文子
2. 「しまなみ海道を歩いてきました」- ②           7組  張 志朗

                              以上

兵庫市岡歩こう会に参加しました。

5組  段中 文子

 
 
木漏れ日の道。左側は森閑とした杉木立でした。
 

 今回は「兵庫市岡歩こう会」15年目の第30回という記念すべき会で、6月4日(日曜日) 晴天に恵まれ能勢電鉄ときわ台駅に集合しました。集合はちょっと遅めの10時半でした。
 行き先は一庫ダムの完成で出来た知明湖沿いの道を歩き一庫ダム展望台から広大な湖の眺めを満喫した後 日生中央駅まで、歩行距離9km弱の行程です。 ときわ台駅を出発するとすぐに上り坂がつづきますが道の両側には緑の木々が茂って吹く風も爽やかで、鶯の声を背に聞きながら気分よく登っていきます。参加者は38名で7期の先輩から30期までと奥様同伴の方もいて和やかな雰囲気のなか12期は張志朗さんと段中文子の2名です。
 歩く側には綺麗な花をいっぱいつけた木があちこちに見えますが残念ながら名前がわかりません。白や茶色の蝶も道案内をするように飛び交って久しぶりに豊かな自然に包まれたような気分で歩いていく道には知明湖の広がりが見え隠れします。水量も多いようです。

 
左は見事なやまぼうしの木、右はなんと野生のにほん鹿です。まだ小鹿のようでした。

 
 知明りんどう橋を渡り、湖畔沿いをしばらく歩くと「丘の駐車場」があり家族連れが多いのか車がたくさん並んでいました。ここから知明山の頂上まで500段の階段を上ると子供たちが遊べる広場があるらしいです。
 私達は広場には行かず駐車場のそばにある大きな屋根つきの休憩所で湖を見下ろしながらお弁当を頂きました。
 休憩後の自己紹介では昔の話や今やっている楽しい話などをお聞きしてあらためて市岡の同窓生という絆を感じます。
 その後知明さくら橋を渡りしばらく湖畔沿いを歩いて行くと遠くに見えていた一庫ダムの大きな堤防と広大な湖の眺めが目の前に広がる一庫ダム展望台に到着です。
 山と湖の景色を充分満喫した後ゴールの日生中央駅に3時過ぎに到着。そこで解散となりましたが、久しぶりに森林浴で爽やかな空気をいっぱい浴びて明日からの元気をもらったような素敵な一日となりました。
 

一庫ダムは川西市の北部、猪名川町と豊能町に接して広がっています。また、一庫大路次川の氾濫防止を目的の一つに昭和57年に建設された都市型ダムです。清流に遊んだ懐かしい一庫龍化峡は、今は水底。ダム堰堤から、扇状に広がる川西市の住宅地が見下ろせました。

しまなみ海道を歩いてきましたー ②

7組  張 志朗


 5月22日、ウォーキング二日目です。
 海辺の朝は、本当に気持ちが良いものです。雲一つない晴天。眼前の海の青と、対岸の生口島の観音山(しまなみ海道の島々で一番高い山だそうです)の緑が一層鮮やかです。早起きの家内と同室であった皆さんは、観音山にのぼる“ご来光”を見たそうです。
 出発は8時。ここ大三島にある大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)に向かいました。
 

 社伝によれば、大山祇神社はおよそ2600年前、祭神である大山積神の子孫の乎知命(あちのみこ)により鎮祭されたとありました。全国にある一万社余の分社の総本社、山の神、海の神、戦いの神として尊崇を集めてきたそうです。また、村上水軍ゆかりの神社でもあります。
 朝早かったせいでしょう、一般参拝客は見当たりません。静けさの中、鬱蒼とした木々の緑に囲まれ陽を浴びる神社境内は、すがすがしいの一言です。
 大山祇神社にはくすのきが多く、その内の巨木、38本が天然記念物に指定されています。境内中央、神殿正面のくすのきは樹齢二千六百年、「乎知命御手植の楠」とあり、それを少し離れたくすのきには樹齢三千年、「天然記念物 能因法師 雨乞いの楠」とありました。かの有名な能因法師もここを訪れたのですね。また神社の「国宝館」は武具の収蔵で有名です。その数は、全国で国宝や重要文化財に指定されているものの4割近くにのぼり、なんと源義経のものと伝えられる鎧や弁慶の薙刀までもあるそうです。残念ながら時間の関係で見学することはできませんでした。

 いよいよ二日目のウオーキング最初の橋、全長328mの「大三島橋」です。橋の長さは比較的短いのですが、バスを降りてから橋までのアプローチが約1.5kmと長い。おまけに橋が高い位置にあるので、道はすべて緩勾配とはいえ、登りです。左右が雑木林で、絶え間のない鳥のさえずりと咲き誇る草花を楽しみながら歩きました。

 「大三島橋」は大三島から伯方島に渡るアーチ橋です。橋の中央でせり上がっているアーチが力強く、懐かしい。小さい頃、いたずらで淀川大橋のアーチの上を歩いてよく叱らたことを思い出しました。ここは島の間が狭いだけに潮流が速く、「鼻栗の瀬戸」と呼ばれる海の難所。海の水は一層澄んでいるようで、橋の上から水に透けて海底の岩礁がくっきりと見えました。伯方島の緑が海になだれ込む突端付近では、白い日よけの布を張って漁をする小さな船が、青い水面をゆったりと回転していました。一幅の絵を見るようです。
 橋を渡り終えて一般道で待機するバスまで、また長い距離を歩きました。

 次は大島へ渡るのですが、時間の関係で、ウーキングが予定されていた「伯方・大島大橋」はパス、大島の道の駅「よしうみいきいき館」に直行しました。途中、車窓から切り出された石がたくさん積み上げられているのを見ました。有名な「大島石」はここがその産地だそうです。

 
 道の駅「よしうみいきいき館」は下田水港にあり海が目の前です。来島海峡にかかる三つの大橋が一望できます。またここは来島海峡の「急流観潮船」が発着し、ウォーキングやサイクリングで橋を渡る人達が一息入れる場所でもあります。お土産を買ったり、休憩したり、自転車の点検をしたり、記念撮影をしたりと、今回のウォーキングで一番のひとだかりでした。
 
 眺望は最高です。青く広々とした海と陽光に映える島々の緑、青い海原に白波をたてて橋に向かう観潮船と100mはゆうに越をえて林立する「来島海峡大橋」の白い主塔群、優美なケーブルの曲線と緩やかなむくりをもつ桁の線が遠くかすむようにつながる様は、実に雄大で美しいものでした。  
 ここで小休止と記念撮影をして、いよいよ「しまなみ海道を歩く」の最後の橋に向かいました。  
 来島海峡大橋は第一大橋が960m、第二大橋が1515m、第三大橋が1570mで、全長4045mの長大橋。世界初の三橋連続のつり橋です。橋の上を1時間以上歩くわけですからその長さが実感できます。路面は海面から約50m、17階建てのマンションの屋上の高さ位になります。主塔が建つ馬島や武志島などの島はすべて橋から見下ろす形になり、見晴しにを遮るものがありません。橋は緩やかなむくりがついているので、歩き始めると青く晴れ渡った大空に向かって登っていく感じになります。ピラミッドは天に架ける橋と聞いたことがありますが、そうかも知れないとなどと思いながら歩きました。

 幸いなことに、車道の車は少なく、ときおりの通行音もウォーキングを煩わせるものではありません。橋の両側に歩道がありましたが、人が歩けるのは右側のみで、対面通行になりましたから、今治側から大島に渡る人や自転車に注意が必要でした。若いお父さん、お母さんとサイクリングを楽しむ孫によく似た子供達には思わず、「ガンバレ!」と声を掛けてしまいます。寝そべるような形の自転車にのった外国旅行者ともすれ違います。若い女性の一群が、レンタルサイクルに乗って、「チョー、気持ちが良い」と歓声を上げて通り過ぎていきます。
 欄干に寄ると、青い海にさわやかな風。近くは馬島の白い灯台、遠くは今治の市街地がかすむように見えています。ここまでの歩いた距離が、約8kmのはずですが、疲れもなんその、気分はすこぶるつきの爽快さです。
 この橋の路面を支える桁は、高さが4.3mもある鉄骨の箱型で、先端はひし形になっていて台風などの強風を逃がす工夫が施されていました。
 第二大橋の下が中水道、第三大橋の下が西水道です。両水道ともに潮流が激しい。大潮時には最大10ノット(時速18km)、落差2.0mにも達し、「八幡渦」と呼ばれる大渦が出現するそうです。この日は大潮ではなかったのですが、渦をあちらこちらで楽しむことができました。
 第三大橋付近で、今治市街地に高い表示塔があるのに気が付きました。上下にSとNが電光表示され、真ん中が↓の矢印でした。帰って調べてみると、潮流観測所の信号塔。いわば海の信号機みたいなもののようです。
 船の航行は通常、右側通行ですが、ここでは「順中逆西」と言って、船が潮流に乗って航行する場合(順潮)は中水道、潮流に逆らって航行する場合(逆潮)は西水道を進み、潮流が北向きの場合は右側通行、南向きの場合は左側通行に切り替わります。こうした切り替え方式を採用しているのは世界で唯一、ここだけだそうです。

 西水道をと通りすぎようとしていた大きな貨物船が、大きく左に舵を切って左側通行?で橋の下を通過していきました。
 かすみの中にあった今治の造船所群が次第にはっきりと見え始め、二日にわたるウォーキング「しまなみ海道を歩く」も最終地点が間近かです。
 吊り橋のケーブルが今治側のアンカーレイジに固定される姿を右に見ながら、橋を離れてまた長い距離を歩きました。
 終着点の来島海峡展望館付近についたのが、午後1時前ですから大山祇神社を出てから約4時間の行程でした。この日の歩行距離が13kmで二日間で約25kmを歩いたことになります。86才の先輩を含む37名、全員の見事な完歩です。
 勿論、12期の久保田靖子さん、古藤知代子さん、高見政博君も元気一杯、笑顔一杯でした。
 今治の「タオル美術館」で遅めの昼食をとって、帰路につきました。あわてものの私はもときた道を帰るものとばかり思っていましたが、ルートは松山自動車道から徳島自動車道を経て大鳴門橋、そこから神戸淡路鳴門自動車道に入り、淡路サービスエリアでの小休止でした。言ってみれば、瀬戸内海国立公園に架かる本州・四国連絡橋を大きく一回りした格好です。
 
 淡路サービスエリアから見る世界最長のつり橋・明石海峡大橋は、すでに暮色の中、ピンク色に美しく染まっていました。対岸には舞子、神戸、大阪と、いつもの大都会の市街地風景が広がります。明石海峡大橋の車列は延々と続き、切れ目がありません。巨大貨物船が通り過ぎます。それらの物量は、突然のように、しかも圧倒的です。
 ここに来て、ようやく「しまなみ海道を歩く」が終わることを実感しました。
 
 二日間にわたり名にし負う「しまなみ海道」のウォーキングを十分に楽しみました。
 群青色に輝く海と連なる島々の鮮やかな緑の絶景に目を瞠りながら、心地よい初夏の海風に吹かれて歩いた長大橋群、その道は「海の道」そのもの。そしてまたそれは、長い歴史の年輪と島々に暮らす人々のたしかな営みに彩られた「人の道」でもあったようです。
 
 追記:私ごとで恐縮ですが、一緒に行った家内は大喜びでした。
     そのせいでしょうか、私への待遇が少し良くなったようです。
     しかしこれも、年季の入った夫婦の事とていつものように、
     そう長くは続くまいと二人して笑っています。

「12期の広場」 6月号のラインアップ

 6月です。桜の新緑が深緑に変わり、涼しげな日陰を作っています。また大阪の近郊でも田植えの準備が始まり、小型トラクターが忙しそうに田圃を走り回っています。
 日差しは夏そのもの。寒がり、暑がりの私も、ようやくの衣替え、何もかもが夏用です。梅雨入りまでにはしばしの有余があり、好天が続いていますが、たくさんの花芽を付けた庭の紫陽花は、もう「つめいろの雨」-慈雨を待ちこがれているようです。
 
 5月の初めに、京都在住のK君から6組の久保武治君の訃報を知らせるご子息からの挨拶状が、届いたと、連絡がありました。それによりますと、4月29日に、2年にわたる病気療養のすえ、亡くなられたとのことです。またその中に「父は長らく奈良教育大学で勤務し、定年後はテニスと畑仕事に精をだし、毎日を精いっぱいに生きていました。とりわけテニスは闘病中の75才まで公式試合に出場するため、全国を回っておりました。」とありました。
 御存じのように久保君は、12期同窓生の秀才のお一人で、真面目で粘り強く、また何事にも思慮深い雰囲気を持つ、スポーツマンであったと記憶しています。私がテニスにはまっていた50才半ばの頃、一度、彼の公式戦を見たことがあります。お人柄そのままのしなやかで理詰めのテニスに感じ入ったことを思い出しました。同窓会にもほぼ毎回、出席され旧交を温めて居られただけに、突然の訃報に驚いています。
 心よりご冥福をお祈り申し上げ、慎んでここにお知らせいたします。合掌。
 
 さてわが「12期の広場 」6月号のラインアップです。記事は以下の二編です。
 8組の末廣訂君が「福島区歴史研究会 会報」に書いた「山錦関とはどんな力士?」を転載させて頂きました。大阪出身で優勝経験がある山錦関が、鷺洲の出身であることやそのほかの興味深いエピソードなど、お読みください。
 また、奈良市岡歩こう会の春の例会、「しまなみ海道を歩く」の報告を載せました。ウォーキングは大層楽しいものでしたが、その原稿作成には悪戦苦闘、さらに期限ギリギリで大慌て。結局、コンパクトに纏まらず、拙文を垂れ流すことへの叱責覚悟で、今月号、来月号の二回に分け掲載することにしました。ご容赦のほどをお願いいたします。

1. 「しまなみ海道を歩いてきました。- ① 」

7組  張 志朗

2. 「山錦関とはどんな力士?

8組  末廣 訂

     以 上

山錦関とはどんな力士?ー豪栄道初Vで注目された鷺洲町出身力士ー

8組  末廣 訂

 
 昨年の大相撲秋場所で大阪寝屋川市出身の大関・豪栄道が大阪出身力士として86年ぶりに優勝した。大阪人にとって久しぶりの快挙である。
 さて、新聞やTVでは大阪府出身力士では昭和5年5月に優勝した山錦以来86年ぶり、とあるものの、山錦関が具体的にどこの生れで、学校や相撲部屋がどこだったのか等々一切情報が載っていない。
 山錦関の記念碑があるのをご存知でしょうか。
 大正14年に発行された1846頁もの分厚い「鷺洲町史」の1795頁一面に「本町(鷺洲町)が生める角界の寵児 山錦善次郎君」というタイトルで記事があり、詳しく山錦関について記載されている。
 明治31年、当時の鷺洲町北浦江(現北区大淀)の山田浅吉氏の長男に生まれ、鷺洲小学校、第二盈進小学校高等科、そして当時の関大専門部商業予科、本科に進学、大正6年東京角力協会・出羽海部屋に入門、12年に入幕した。
 身長5尺7寸(188cm),体重27貫5百(103kg)という少しやせ形の力士。得意手は押手であった。最終は当時の関脇まで昇進した。 只、鷺洲町史は大正14年に発行のため、昭和5年5月場所の優勝の記事はない。
 山錦の化粧まわしが浦江八坂神社にあったが、昭和20年6月7日の戦災で焼けた。
 記念碑は現在の大阪市北区大淀南にある「素戔嗚尊神社」(浦江八坂神社)に「小結・山錦善治郎」、「大日本相撲協会」と刻して、本殿前左右対の大きなくすのきを囲む玉垣(下の写真)として残されている。
 この地、北区大淀地区は北区に合区されるまでは「大阪市大淀区」であった。またその昔、大阪市に編入されるまではこの一帯は鷺洲町と呼ばれ、海老江、浦江(現鷺洲)、大仁、塚本(現淀川区)が一つの町であった。
 現在の淀川区塚本や西淀川区花川(旧海老江新家)が明治40年頃の淀川の開削により分断され、北浦江や大仁地区は福島区と大淀区に分かれてしまった歴史がある。
 「鷺洲町史」は大正14年に鷺洲町が大阪市西淀川区に編入されたのを記念に発行された大変貴重な町史である。
 なお、同神社内にある「王仁」神社横に明治45年頃まであったといわれる王仁の石棺が無くなっており、現在追及中も不明である。
 豪栄道が初優勝し、山錦以来86年ぶりという快挙で、このようなことがなかったら、山錦の名前も出なかったことと、歴史の面白みの一端を紹介した。
 
 なお、この記事を鷺洲小学校の校長先生にお渡ししたところ、鷺洲小学校では丁度「鷺洲町史」を手元にいただいき、読み始めたところだったが、ここまで気が付かなかったとお礼の電話をいただいた。また、末廣さんは何故この記事があることを知っていたのですかとの質問があり、私は「4年ほど前に、鷺洲女性会の方に旧浦江の歴史とまち案内をした時にこの山錦の記事を説明した」ので思い出したと話した。
 鷺洲小学校ではその後、「学校通信10月号」に鷺洲のお宝「鷺洲町史」と山錦関(昭和55月場所優勝!)というタイトルで大きく載せ、鷺洲小学校の出身力士であり、鷺洲町史に記載されていることの喜びを報じている。
 実はこれらの情報を産経新聞に送っていたが、11月末になって、産経新聞の嶋田記者から山錦関の取材をしたいと電話があり一緒に取材した。
 翌九州場所で豪栄道が6敗をしてしまい、何かニュースの価値が落ちたかなーと思っていた矢先であったが、浦江の八坂神社や山錦関の親戚、関大のOB等関係者とお会いし、また昔の北浦江や大仁村の話を聞くことができ、大変貴重な経験をした。
 その時に判明したことを記しておく。

  • 山錦は兄弟が多い(5人) 父親は山田浅吉(八百屋)で体格のよい人であった。  母親は黒田了一元大阪府知事の母親と姉妹である。
  • 山錦の化粧まわしが浦江八坂神社にあったが、20年6月7日の戦災で焼けた。刺繍されたまわしの金箔がそのまま残っていた。
  • 浦江八坂神社にある「小結 山錦善次郎」などの玉垣は、昭和13年に本人がくすのきと共に奉納した。
  • 現役時代は押しの一手で鼻の骨を折ったことがある。たいへんまじめな性格の相撲取りであった。
  • 昭和7年、天龍関らと一緒に相撲取りの待遇改善を求め、決起した。(会場の名前を取って春秋園事件といわれる)翌年、大日本相撲協会を脱退して関西角力協会を立ち上げた。一時は人気を博したが、昭和12年に解散し、山錦は引退した。
  • 引退後は旅館「山錦」を開業。初めは大正駅の北側で、二度目は土佐堀の常安橋付近で。その後廃業した。
  • 二人の娘さんは現在福島区と西区のマンションにお住まい。山錦時代、大学での相撲取りが少なかったので、昭和47年五月場所で輪島関(日大)が優勝した時、病床ではあったが、涙を流して喜んでいた、と娘さんの話。
  • 昭和47年に死亡した山錦の墓は服部緑地公園内の大阪市墓地にある。

 年末12月26日の産経新聞の夕刊に大きく「山錦・波瀾万丈の人生」というタイトルで取り上げられた。
 2人の娘さんが話す父親山錦関の思い出話が中心の記事であった。特に山錦が相撲協会から手を引く複雑な思いや、同じ学生出身の輪島が初優勝した昭和47年に息を引き取った時の話が印象に残った記事でした。私として少し残念であったのは、地元の歴史研究会として、山錦の出身地を大阪市北区だけではもの足らず、せめて(旧大淀区北浦江出身)を入れてほしかったと嶋田記者にメールした。
 正月3日に嶋田記者より、取材のお礼と新聞記者の立場から旧町名や区の表示をすればその説明が必要になって、取材の本筋から離れてしまうので、大変申し訳なくーと、返事をいただいた。
 
 記者と同行して取材した経験は「松下幸之助創業の記念碑」以来である。

しまなみ海道を歩いてきました。- ①

7組  張 志朗

  奈良市岡歩こう会の春のウォーキングは「しまなみ海道を歩く」で、5月21日、22日の一泊二日の日程で行われました。
  案内状に、しまなみ海道は「瀬戸大橋、明石海峡大橋についで最後に完成したルートです。車だけでなく、自転車やウォーキングのルートも用意された“人にやさしい”橋です。5月の薫風にふかれて眼下に瀬戸内海を眺めながら様々な橋をわたりませんか」とありました。野や山を歩くのはよくあることですが、海の上を歩く機会はそうありません。またしまなみ海道は初めてと言う事で、家内を誘って行ってきました。
 
 久しぶりに一泊の遠出です。前日からあれやこれやと準備にバタバタ。案内状にウォーキング予定距離は6km程度とありましたが、調べてみると、尾道から今治までのしまなみ海道は、全長が70km。なにがあるのか分からないので、足回りだけはちゃんとしておこうと、少々おおげさな格好で出かけました。(結果的には大正解でした)参加者は総勢37名、12期は久保田靖子さん(1組)、古藤知代子さん(4組)、高見政博君(6組)そして私と家内の5名です。
 21、22日ともにお天気は、絶好の五月晴れ、また道中は観光バスでした。
 初日、バスは8時に奈良グループを乗せて出発。大阪グループが乗り込んだのが8時50分で、因島大橋の向島アンカーレイジ(吊り橋のケーブルを引っ張っている“重し”)下に着いたのが、午後1時前でした。しまなみ海道は正式な呼び名が「西瀬戸自動車道」です。尾道水道に架かる「新尾道大橋」がその下り方面の始点になるのですが、私達は「新尾道大橋」をバスで通過し、しまなみ海道の一番目の島の向島に入って「因島大橋」からウォーキングをスタートさせました。ここでは「因島大橋」の橋桁を、真下から見上げる形になります。

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「12期の広場」 5月号のラインアップ

 5月、皐月です。花が咲き乱れ、新緑が目に映える美しい季節になりました。戸外に出れば柔らかい日差しにつつまれ、自然に足どりものびやかになり、頬をなでる風は実に気持ちが良いものです。
 うららかな陽気に誘われるように、ちょっと離れた公園(「桜の広場」と呼ばれている)までカメラを持って出かけてみました。それは山の南斜面に開発されたニュータウンの裾にあたる場所にあります。一帯は北側が林立するマンション、南側が木々が生い茂る自然のままに残されています。
 道すがら、メタセコイアの巨木の木立の中を通るのですが、昨冬、雨のように葉を落とした紡錘形の枝先には薄緑の若葉が見事に出そろって紗のカーテンそのものの風情です。キジバト二羽が羽根を休めていました。公園とそこへの小道は呼名のとおり沢山の桜が植えられており、もともとの雑木とあいまって視界は緑一色です。ちょっとした森の感じで、歌うような鶯の鳴き声や鳥のさえずりが響きます。足元には可憐な草花とつつじの群生。つつじは蕾が大きく膨らみ、すでにところどころで大ぶりの花を開いています。サクランボウの実を付けた桜も数本見受けられ、また桐の巨木になんと紫の花が咲いていました。下手な写真を添付しますが、ご覧ください。

 5月5日の端午の節句が立夏です。立春も、立秋も、立冬もその季節感がピンとこなかったのですが、立夏はそうではないようです。1時間ほどの散歩でしたが、汗をかきました。柔らかい日差しにやけつくような初夏のそれがたしかにあります。皐月は田植えがさかんに行われ、早苗を植える月と言うのがその由縁だそうです。苦手な夏が近かいとは言え、5月は始まったばかり。原稿を書きながら、薫風に身を任せてふらっとどこか行こうかなどと考えています。
 さてわが「12期の広場 」5月号のラインアップです。今月号は2編で以下の通りです。お楽しみ下さい。先日、九州の文屋久子さんから『「市岡高校12期の広場」楽しく読ませていただいております。忙しい事と思いますが、楽しみにしている私のような者がいることを覚えていてくださいね。』との葉書を頂きました。うれしい話で感謝、感謝、力が入ります。
 
 1.  「市岡の森のお花見に行ってきました」           7組  張 志朗
 2.  「美術展と東京メンバ-」                    5組  泉 信也
以 上                  
 

市岡の森のお花見

張 志朗 (7組)
 
 4月9日、此花市岡会主催のお花見が、舞洲の市岡の森で開かれました。関西は桜が満開になる直前から寒い日や雨の日が続き、この日の前日、前々日も雨。荒天で中止になったことのない、市岡の森のお花見も今年ばかりは駄目かと心配していましたが、雨は上がり、晴天とは行かないまでも、春の日差しのなか風もなく暖かなお花見日和となりました。
 舞洲は「舞洲スポーツアイランド」と呼ばれる人工島で、ユニバーサルスタデジオジャパンがある、此花区の桜島と此花大橋で結ばれています。此花大橋は大阪港に出入りする貨客船に配慮してか、海面から橋桁までが非常に高く、橋の上からは大阪湾全体を一望することができます。
 午前10時半頃に、JR夢咲線(以前の桜島線)の桜島駅に到着し、駅前から多くも先輩や後輩とともにバスに乗りました。バスの終点である、舞洲ロッジ前のすぐそばの小高い丘一帯が「新夕陽ケ丘」でその東斜面に我が「市岡の森」があります。舞洲ロッジの玄関前で受付をすませ、準備していただいていたお弁当やビールなどを持って丘に登り、いつも食事場所として利用している東屋に向かいました。
 この日の全体の参加者は150名程度ではなかったかと思うのですが、例年に比べるとやや少ない感じです。やはり、前日までの雨の影響があったようです。12期は代表幹事の酒井八郎君(4組)はじめ、清水誠治郎君、石井孝和君(3組)、竹田裕彦君、原清明君、古藤知代子さん(4組)、段中文子さん(5組)、武田博君、畠平雅生君(6組)、榎本進明君、末廣訂君、川村浩一君(8組)と私、張志朗(7組)の合計13名でした。
 石井君は滋賀の大津から、榎本君は神奈川県の横浜からの初参加でした。榎本君は翌日、港中学の同窓会が予定されていて、それに合わせて1日早めに来阪しての参加でしたが、2月に腰の再手術をしたばかりで、頑丈なコルセット着用していました。しかし元気一杯、市岡の森でのお花見を十分に楽しまれたようでした。
 肝心の桜ですが、満開の見事な咲きっぷりでした。このお花見は、毎年の4月第2日曜日の固定開催ですので、いままでは満開に間に合わなかったことの方が多かったようです。しかし今年は絶妙のタイミングで、満開の桜の花一色でした。12期が記念植樹した桜も立派な花を咲かせていました。
 11時過ぎに、此花市岡会の大山会長、市岡高校全体同窓会の佐藤会長の挨拶があり、お花見会が始まりました。続いて市岡高校の福島学校長から、母校の新入学者数と今年の大学進学状況報告を中心とした、挨拶がありました。昨年は入学者数が定員割れを起こす事態になりましたが、今年は競争率1.15倍で定員320名が無事入学しました。これは学校長はじめ、教職員の先生方、学父兄の皆さん、在校生の皆さんの熱意と努力の賜物と、大きな拍手が起こりました。
 特に、この日会場にきていた吹奏楽部のみなさんが、入学希望の中学生へのプレゼンテーションに積極的に一役買ったとの校長先生の話が印象に強く残りました。
 お花見は、卒業年次ごとに車座になって盛り上がりました。満開の花の下、高校19期でしたか、ギターを持ち込んでの合唱が始まるなど大賑わい。12期の私達も美味しいお弁当とビール、原君が差し入れてくれた焼酎を堪能しました。
 やはり、同窓生が集まると、その元気な姿とお喋りがなによりもうれしいことです。
 話題は健康を含めての近況や最近の関心事、趣味など、つきることはありません。12名全員とじっくり話をしたかったのですが、そうも行かず、石井君とはいまも仕事に頑張っている話、竹田君からは外国旅行者が急増したお蔭で、生け魚など鮮魚を扱う家業が大忙しになった話、
榎本君とは、二回目の腰の手術で体から取り出した長いビスとチタン製の支持具を前にしての話など、大笑いしたり、真剣に耳を傾けたりしました。後日、末廣君からお願いしていた資料を送って頂いたのですが、その中の書信に「昨日の市岡の森の花見—見事に満開、はじめてでしたね。横浜から榎本君が来てくれた。またいつもの顔がある。しかし、年々、一寸ずつ、変化していますね。いつまで続くか、会うたびに生きているよろこびを感じます。」とありました。
 お花見では母校現役吹奏楽部の皆さんの楽しく素晴らしい演奏が披露されました。
 一心に学校生活と音楽を楽しむ姿に、思わずうるうる。また、礼儀正しく、高校生らしい素直な姿に、清々しい気持ちになりました。「吹奏楽も若人らしく、はつらつとした演奏でした。」と石井君も書き送ってくれました。
 「前日までの雨模様もみんなが集う場所には何の心配もなく、原君の焼酎に勢いを得て、いつも通り、ワイワイ言いながらのお弁当にブラスバンド演奏、大判の歌詞プレートを見ながら声を張り上げ校歌を歌う。あっという間の宴でしたね。今年は横浜から榎本君がコルセット姿で初参加、ありがたいことです。」と酒井君が送ってくれたお花見写真の手紙に書いてありました。
 お花見が終わったあと、バス停前の「浪速津焼陶芸館」の喫茶コーナーでコーヒーを飲み、またそこでひとしきりお喋り。
 お喋りは「中年女性の専売特許」ではないなーなどとつぶやきながら、午後3時過ぎ、充実した気分で市岡の森を後にしました。     
 

美術展と東京メンバー

泉 信也(5組)
 
 桜の喧騒もおわり、新緑と薫風が心地良い時候となりましたが皆さま元気にお過ごしのことと思います。
 去る4月12日、このところ恒例となった圓尾兄の美術文化協会への出展作品を見る会がありました。場所は上野の東京都美術館、集まったメンバーは画伯を囲んで西條、中柴、萩原、平松、森重、山田、泉の8名。なかでも圓尾、平松、森重の三兄は梅香中学以来の仲良しと云う。またいつもなら居るはずの榎本、大石橋の両兄の不在は都合とはいえ残念でした。

 圓尾兄の所属する美術文化協会は1939年に前衛的な画風の作家41人により創設された会で、全国各地での公募展など活発に新人の発掘、育成を行ってきています。今度の77回展も289点の力作がそろい、見て回るだけでも相当のエネルギーを必要としました。写真にあるように出展作は「手品師」、どこかトランプ、安倍似のあやしげな手品師の背景にいろいろな寓意が隠されているようだが、作者はどうぞ見る人が好きなように解釈してほしいと云う。日頃芸術には縁遠い面々ですが、ここは萩原兄の鑑賞コメントが的を射ているので骨子をご紹介します。
「先の読めない現下の社会情勢を映したような絵柄で、危うい時代を予感させるテーマが描かれている。にもかかわらずユーモアを感じさせるタッチと明るく多彩な色使いで、良い将来を暗示する楽観性に共感させられます」
 皆さんも「金太郎シリーズ?」など多くの作品を目にされたことと思いますが、常に「明るさの希求」が通奏低音のように流れている圓尾兄の絵を、門外漢ながら応援し続けたいと思いました。
 難解な前衛作品の数々の鑑賞に疲れた後は軽く一杯、これが楽しみで展覧会は口実という筆者のような輩もふくめ、駅前で早めの飲み会が始まりました。

 

近況など参加者の「ひとこと」をご紹介してこの稿を終わります。
圓尾:東京も会を重ね、こう云う懇親のきっかけにしてもらえるのは幸せ。
平松:花の名所、目黒川散策の日々を楽しんでいます。実は川は汚い!
森重:公開のコメントは敬遠、久しぶりに顔を合わせるのは歓迎。
西條:そろそろ川歩き、5月後半で案内するので乞うご期待。
中柴:家の建て替えを計画中。画伯の大作を飾れるような部屋を!
萩原:永年の翻訳業をリタイヤ、「TIMEを読む会」を始めました。
山田:芸術は分からん!と云いながら作陶三昧。10月に作品展で飲もう。
泉:未だ娑婆に片足をとられながらも、山登り三昧です。川歩きも!