同期会
2015年5月1日
同窓生で行ったのは酒井八郎君、松田修蔵君、八島平八君、八島節子さん、段中文子さんの5名と私です。松田君は奥様とご一緒でした。
当日はあいにくの雨模様、しかし観客席は、創立以来30回近いコンサートを通じての固定ファンが多いように見受けられ800余席が満席でした。
寒川君は同志社大学の卒業で、在学時から大学の混声合唱団に所属しており、卒業後もそのOB・OGが中心になって結成された「同志社混声<シャンテ>」に参加してこられたそうです。会場でもらったパンフレットで初めて知ったのですが、今回の合唱団メンバーには関東や九州など遠来のメンバーや、ご夫婦や親子での出演があるなど大層幅が広く、その熱意もなみなみならぬものであったようです。
コンサートは、ソプラノが幸田浩子さん、メゾソプラノが岡本明美さん、テノールが小貫岩夫さん、バリトンが小玉晃さんとプロの声楽家4名を中心に前列に約40名のオーケストラ、後列に80数名の混声合唱団の編成で始まりました。 第1部はバッハのマニフィカートニ長調、第2部がモーツアルトのレクイエムニ短調でした。
私にとってはひさびさのコンサート、冒頭からの合唱のハーモニーに引き込まれました。第2部のレクイエムは約1時間を越える大作で独唱や重唱、混声合唱を含めて心に響く素晴らしい演奏でした。特に合唱団員の表情は歌う喜びが一杯で、老いも若きも心一つの一体感は感動ものでした。
寒川君はベース担当。膨大な譜面を完璧に暗譜して指揮(高橋秀明さん)や合唱の流れに溶け込んでの集中で、同窓生ながらその姿にほれぼれ。また「合唱にはまった」と言っていた事や彼が敬虔なクリスチャンであることがストレートに伝わる感じで同窓生として誇らしく思いました。
コンサート後、寒川君にお願いして以下のようなコメントを頂きました。
「私と同期の高橋秀明君が、指揮者としてモーツァルトとバッハのニ大曲を仕上げた今回の25周年記念コンサートは、多くのお客様から感動した、表現力が素晴らしかったとの称賛をいただくことができ、本当に感謝しています。また今回は、市岡高校の同期生も駆けつけてくださり、コンサートを通して市岡の絆の強さも実感できました。ありがとうございました。
指揮者の高橋君が恩師として尊敬しヴォイストレーニングや指揮法を学んだ故・林達次先生は、かつてシャンテの演奏会に出席され、レセプションで次のように、コメントを下さいました。最初は『シャンテはピュアな合唱団』 二回目は『シャンテはエレガントな合唱団』との表現で評価、励ましてくれました。もし、林先生がご健在であったら、今回はどのようにコメントされるかなと、私なりに想定してみました。『25歳になった合唱団員の一人ひとりの体型のように、丸みを帯びたメロウな合唱団』とおっしゃられるような気持ちがいたします。この4月12日、シャンテは、新たなゴール(演奏曲)にむけ、スタートをきりました。」
2015年4月24日
「卒業30周年記念同窓会」のご案内
拝啓、梅の香りが爽やかに漂う春暖の候。
同窓生の皆様にはお元気でご活躍の事と存じます。
さて、「光陰矢のごとし」 とは申しますが、私たちが市岡温泉高校を巣立ってから
早いもので30年の時が過ぎました。
50歳の大台を目の前に、文字が見えにくくなり、人の名前が出にくくなり、身体の衰えも認め
ざるをえない現実を誰もが実感されている事と思います。
しかし、当時よく聴いた音楽を耳にしたり、映画が放映されたり、阪神タイガースが優勝争いを
したりすると、自由奔放で楽しかった高校時代が今も鮮明に浮かび上がります。
そこで今回、卒業30年を機に下記の要領にで「卒業30周年記念同窓会」を開催する運びとな
りました。思師の方々にも多数ご臨席いただけるよう要請しております。
多くの38期生が集い、旧交を温めるのも去る事ながら、未来への親交へもつながる大同窓会と
なりますことを祈念しご案内申し上げます。
38期同窓会会長 草野字雄
幹事一同
会の名前 | 大阪府立市岡高等学校38期生 「卒業30周年記念同窓会」 |
開催日時 | 平成27年5月2日(土) 受付16:30より 1次会 17:00~19:30 2次会 19:50~21:50 |
開催場所 | ホテル大阪ベイタワー 大阪市港区弁天1-2-1 4階ベイタワーホール (1次会・2次会ともに同会場) |
会 費 | 1次会 男性¥8,000 女性¥7,000 2次会 ¥3,000 |
問い合わせ先 | 38期同窓会会長 草野字雄 E-mail: ichioka_38_2015☆yahoo.co.jp ※ 上記”☆”を”@”に変更してご連絡下さい(迷惑メール対策のため)。 |
福井金治先生をはじめ、8名の先生方が出席予定です。
3月上旬に各同窓生に向けて案内状を発送していますが、未確認の方は上記問い合わせ先までメールくださいませ!!
2015年4月14日
我々26期生、今年で還暦を迎えます。一昨年より毎年同窓会を開催し、旧友と親交を深めています。
担任の染川先生にも毎回お越しいただいています。
2015年4月1日
見上げれば六甲の山並みは春霞の中。おまけに花粉までが飛んで、鼻がグスグス、目がかゆくなります。
行きかう人の服装も実にカラフルになりました。若い女性のミニスカートに少しドッキリし、サラリーマンのワイシャツの白が陽光に映えて眩しいくらいです。昼休みの公園では歓声が上がり、陽だまりのベンチでのうたた寝姿もちらほら。一気に人や景色や時間までもが動き出したように思え、気持ちが浮き立つようです。すべてが生き生きとして見えるのが不思議で新鮮ですね。
今日から4月、まぎれもない春、春、春です。
正月が新しい年月の始まりとすれば、新しい季節の始まりはやはり春のようです。こうしてラインアップの文章をかいているせいか、春夏秋冬、以前に比べ季節の移り変わりに少しは関心をもつようになりました。そしていままではあまり意識しなかった四季とその移ろいの美しさや味わい、またそれらへの感興に自分でも驚く事が多くなりました。
4月には新学年が始まり、多くの役所や会社でも新年度がはじまります。古い話を引っ張りだすと、私達が希望に胸ふくらませて市岡の門をくぐったのも4月です。
母校の市岡高校が単位制の高校になって6年。今年度の母校受験志願者数は定員の1.42倍でその関門をクリアーした男女合わせて320名が、入学式を迎えます。内訳は男子が132名、女子が188名の女子生徒優位です。この傾向は最近ずっと続いていると聞いていますが、それでも今学年は男子生徒の比率が幾分改善されたそうです。
『質実剛健』は男子生徒優位の言葉のように思いますが、旧制中学であったとの言も今や昔話のようで、クラブ活動で言えば、柔道部が部員一人で合気道部と一緒に練習しているとの話には硬派でならした同窓会の大先輩を含めて寂しいかぎりでしよう。
しかし、明治34年(1901年)創立以来、114年の校歴をもつ母校に今年もまた新入生を迎えることができ、その新入生がたゆまない校歴に新しい足跡をきざむことを考えると素晴らしいの一言です。
あふれるばかりの希望とひそやかな不安を胸に、新しい旅立ちに臨む70期生に心からのお祝い言葉とエールを送りたいと思います。
さて「12期の広場 」4月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
- 「思い出を綴る (3)」 3組 石井 孝和
- 「お花見のお誘い」 4組 酒井 八郎
- 「豚汁会に行ってきました」
2015年4月1日
学歴社会と言われていた時代、高校生活から次への進路を選ぶ時期を迎えていた。
“京大”を一時夢見たわたしは、一転、この頃、直接、社会に向かう道を選択した。「学問は、そのあとからでも・・・」と考えた。
校内の廊下に100近くの求人企業を紹介した貼り紙がずらりと並べられ、その辺りは就職を志した生徒で混雑していた。企業ごとの貼り紙には、給料の額が記されていた。多くの企業が、月給8000円台から9000円台であった。中には1万円超の企業もみられた。NHKの朝の連続小説「マッサン」に登場したウイスキー製造会社「サントリー」当時の社名は「寿屋」をはじめ、「東洋レーヨン」今の「東レ」、「国際電信電話会社」現在の「KDD」それに「日本放送協会大阪中央放送局」などがその一例だ。 この時「大阪中央放送局」がNHKだということを友達から知らされたことが後押しになって、受験日の異なる「東洋レーヨン」に続いて「大阪中央放送局」を受験することにした。
「東洋レーヨン」は、一次試験をパスしたあと、二次試験の面接の日が雨降りだった。
わたしは、通学の時と同じように学生服姿で黒の長靴をはいて、大阪・中之島の本社を訪れた。面接会場にあてられた部屋の外で順番を待っていたところ、「次の人」と呼ばれたので、学校で習った通り、ドアをノックして入って一瞬、後ずさりしそうな気分になった。部屋の床にじゅうたんが敷きつめられていたからだ。窓際に4~5人の面接者が座っていて「どうぞ」と声をかけられたので、そのまま“ガバガバゴソゴソ”と靴音を響かせて中央にポツンと置かれた椅子に腰をかけ、いくつかの質問を受け、それに答えた。しかし、面接する人たちの顔は、ややシルエット気味であるうえ、緊張して自分の顔もこわばっていたと思う。そんなことで、今になっては、何を質問されたか、さっぱり覚えがない。1週間ほど経って、家に「不合格」の通知が届いた。
次に受験したのが大阪・東区馬場町にあった「大阪中央放送局」だった。
一次試験は、50問あり、英語や数学などに混じり、時事問題があった。にが手の数学の問題も微分や積分などはなく、解け、49問までは“正解?”としたが、時事の問題の中で「去年、日本芸術院会員になった『日本画家のひがしやまかいい』を漢字で書きなさい」の問に対し、わたしは全く知らず、答えを放棄して試験場を出た。答えは「東山魁夷」であった。
東山魁夷画伯といえば、その後、文化勲章を受章し、10年かけて奈良・唐招提寺の障壁画の大作を完成させた昭和を代表する日本画家の一人といわれている。東山魁夷画伯とはそれから30年余り経った平成5年、兵庫県の姫路市立美術館で開かれた「東山魁夷展」の取材でお目にかかる機会があって、昔話になるが、わたしの“無知”を伝えると、画伯は「そりゃそうですよね。私ごときの者、知らなかったのはあたりまえですよ」と、この大家にして謙虚なことばが返ってきて驚いた。このとき画伯の温かく、やさしい人柄まで知ることができたことを、今も忘れていない。
さて、もう一方“作文”のテーマは「わたしとテレビ」か「わたしとラジオ」のどちらかを選ぶものであった。
NHKの統計によると、この年の2月末現在で、テレビの受信契約者数が400万を突破したそうだが、わたしの家にはまだテレビの受像機はなかった。そこでわたしは「わたしとラジオ」の方を選んで作文にとりかかった。
うまい具合に、高校3年の頃、家で2台のラジオを使って音楽を聴いたことを思い出しながら鉛筆でマス目を埋めていった。
“2台のラジオで音楽を”ということは新聞でたまたま知ったことであった。その頃、まだFM放送がなかった時代で、2台のラジオは、中波放送のため左に第1放送、右側に第2放送に置いてステレオで聴くというものだった。作文ではその時の経験を書いた。“ベートーヴェンの交響曲「田園」が2つのスピーカーから流れ出た時に、音に奥行・幅が生まれ臨場感のあることを初めて知った”と、そして、“放送は送り手の工夫と受け手の理解が大切なことだ”と、偶然のように400字の最後のマス目に句点「。」を記した。
後日、面接の日を迎えることができた。今回は天気は晴れ、意気揚々として、馬場町角の放送局(BK)に白いズックに学生服で階段を駆け登って局の受け付けを訪ねた。学生帽を脱いで五分刈りの頭を垂れ一礼するとすぐに面接の部屋に行く順路を教えてもらえた。面接の順番がきて、部屋に入ると、今度はリノリューム張りの床だったので特別驚きはなく、一礼して椅子に座った。「いしいたかかずくんですね」と4~5人の面接員のうちの一人が“確認”し、わたしの「はい」という応えを待っていた。次の質問は、「あなたは家からここまでどのようにしてきましたか」わたしは「市バスで福島から大阪駅北口まで来て、市電で大阪駅前から馬場町まで来ました」と、ここまではあたり前の質問が続いたが、次の質問からわたしを困らせるものに変わった。その1つ。別の人が「あんたは、学科で得意やったのは何?」と尋ねたので「得意というのは特になかったのですが、数学はにが手でした」とちょっとおずおずと応えた。するとその人「あんたそれやったら行く部署あれへんやん」と言われ、へこんだ。
続いてまた別の人が「きみは体格からして競馬のジョッキーになったらよかったんと違うかな」とちょっとおどけた調子で言われたのに対し、内心、「確かに身長1メートル56センチ、体重47.5キロ(今も変わらず)体操していたし、それもありなん」「あの人そういえば馬面やな」と思いながら「そうですか」と小声で応えた覚えがある。こんな日が過ぎたあと、事務系合格者十人中唯一人「報道部」に配属された。
(次号に続く)
2015年4月1日
(12期同窓会幹事会代表幹事)
4月12日(日曜日)、大阪の舞洲新夕陽が丘の「市岡の森」で此花市岡会恒例のお花見会が開催されます。主催は此花市岡会ですが、「市岡の春は舞洲のお花見から」が定評になっているようで、市岡高校全体同窓会の皆さんはじめそのご家族、懐かしい先生方や、現役吹奏楽部の皆さんなどが集われます。昨年は約200名がお花見を楽しみました。
私達12期同窓生も、毎年の定例行事として20名前後が参加しており、なだらかな南斜面の桜の下でペチャクチャと楽しくのんびりした一時を過ごしています。
12期としては昨年10月に「2014市岡高校12期同窓会」を終えたばかり、今秋に市岡東京12期会の定例同窓会があるとはいえ、大阪で広く皆さんと集える機会はこのお花見になります。
此花市岡会の西尾会長はじめ幹事さんのお世話で、おいしいお弁当も準備して頂けます。お弁当をご希望の方は私、酒井八郎へ、4月3日までにご連絡をお願いいたします。缶ビール1本とつまみまでついてのお弁当代金は¥2,000-です。勿論、お弁当ご持参も大歓迎です。
集合は午前11時、「舞洲ロッジ」の正面玄関前です。(JR夢咲線「桜島駅」からバス「舞洲スポーツアイルランド」行き、終点下車)
雨天の場合は、「舞洲ロッジ」内での食事会になりますが、何年も雨はありませんでした。例年、現役吹奏楽部部員の屋外演奏が大好評で、校歌斉唱で午後2時頃にお開きですが、その後も場所を替えてワイワイと楽しくやっています。 同窓生の原清明君から焼酎「森伊蔵」を準備しているとの連絡もありました。気軽にお越しください。お一人でも多くの方のご参加をお待ちいたします。
2015年4月1日
1年ぶりの母校訪問です。JR弁天町で下車、一部に懐かしい思い出が残る通学路を歩き、現在の母校正門まで行くと、「豚汁会の参加者は裏門から」との案内がありました。現在の裏門は、私達が通っていたころの「正門」そのもので、市電通りに面し、大きなワシントンヤシの並木のすぐそばでした。始業時間に遅刻寸前で数えきれないほど走った校内のコンクリート道や校舎正面左にあった藤棚など、今はもうありません。時の流れなのでしょうが少し寂しい気分での豚汁会への(会場:100周年記念会館)参加です。
12時に開会、まず全体同窓会の佐藤充利会長から「豚汁会」の主旨と母校の平成27年度入学願書受付状況などの母校の現状にふれてのご挨拶がありました。
続いて旧制中学40期の浅見忠彦大先輩の音頭で乾杯がありました。早速、校内食堂で準備された豚汁を食しての宴の始まりです。
浅見先輩のお話によると旧制中学40期の卒業は昭和20年になるのですが、当時は戦争中、特に米軍機、B-29による激しい空襲でそれどころではなかったとの事です。当時は桜島(現在はユニバーサルスタジオがある所)の「住友伸銅所」での「勤労動員」が毎日で工場内の防空壕で爆撃から避難するのが一度や二度ではなかったそうです。それでも学問にたいする情熱は衰えることなく、戦後、東京大学に進学されました。結局、卒業式はないままであったのですが、卒業50周年時に母校の卒業式に招待をうけ、そこで改めて卒業式をされたと話され、拍手喝采を受けられました。
豚汁会参加者は70余名、昨年に比べて参加者が増えたように思います。12期は同窓会代表幹事の酒井八郎君はじめ、武田博、上野裕通、塩野憲次、張志朗の各君の5名が参加しました。残念ながら、昨年の参加者であった、末廣訂、田端建機、西川常正、川村浩一、川副研治の各君は所用のため欠席でした。
この「豚汁会」は旧制中学時代以来の伝統行事であるだけに大先輩のお話を聞けるのが楽しみの一つです。また毎年、母校を訪れることが出来る事、高校を卒業して数年の若い同窓生を含めて旧制、新制の各期の同窓生から実に多彩な話が聞けるのはやはりこの会があってのことでしょう。我が12期生も今や同窓会や豚汁会では古株に入りそうです。
恒例の「市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド」の素晴らしい演奏があり、その伴奏で校歌を斉唱して午後3時頃に閉会になりました。
2015年3月1日
3月です。桜の開花予想も出て、待ちに待った春到来と言いたい所ですが、実感は「春隣」がぴったりの今日この頃のようです。
今年は阪神淡路大震災から20年、また今月はあの東日本大震災から4年目になります。1月から今日までこのラインアップに何か書きたいと思い続けてきましたが、読んで頂けるまでの整理がつきません。いまだ東日本大震災の現場に足を踏み入れていないのが心に刺さった棘のよう。ただただ阪神淡路大震災の被災者、また建物の耐震設計を生業とする者の一人として、その「記憶」と「教訓」が風化する事に抗い続け、被災地に思いを寄せて行きたいと考えています。
さて「12期の広場」先月号から石井孝和君の「思い出を綴る」の連載が始まりました。この連載は石井君の膨大な日記に裏打ちされているようです。これにならい最近あった事を日記風に書きしるします。
××日(晴れ)駒崎君から麻雀の誘い。午後1時半、駒崎邸に到着、遅ればせながら新年の挨拶を交わし、早速麻雀卓を囲む。メンバーは駒崎、田端、谷の面々で5時頃に塩野君が加わった。何年ぶりかの麻雀で上がり方が分からないなどと言いながら、最初に「オヤマン」を上がる。大顰蹙、特に田端、駒崎の両君から無茶苦茶に言われた。それが因果か、その後は焼き鳥の如くジリジリと弄ばれての大負け。結局、宮本武蔵宜しく満を持して現れた塩野君の一人勝ちであった。それはそれとして腰を痛めていた谷君のことが気になる。

先日、4組の寒川君からコンサートへのお誘いメールがあった。
「私の所属する混声合唱団<シャンテ>が、この3月29日(日)に『いずみホール』で、創立25周年記念コンサートを開催します。私も本格的な合唱の魅力にとりつかれて50年余りとなりました。あと何年オンステージできるか、毎年勝負の年代になってきました。」毎年が勝負の年代とは全くの同感。行くことを決めて連絡したところ同窓生3名と、寒川君連絡分含めて合計7名が行くことになった。久々にコンサートホールで混声合唱を楽しみ、またその後、同窓生とワイワイできると今から楽しみにしている。(写真はそのポスター。クリックすると大きくなります。)
××日(晴のち曇り)石井君から「思い出を綴る」の第6回目の原稿が届く。第1回目から通算すると、すでに400字詰め原稿用紙で30枚は越えたのではないか。驚き。第6回目には1963年、大阪NHK新館渡り廊下での失敗エピソードが書かれているが、それが生き生きとしているばかりか、顛末の細部までが見事に鮮明。感謝、感謝の気持ちで一杯。彼の膨大な日記、メモの底力とたゆまない日常に脱帽。
以上、3日坊主が常の私らしく3日分相当に留めます。
今月号のラインアップは1篇のみです。次号はもう少し頑張るつもりです。
- 「思い出を綴る (2)」 3組 石井 孝和
2015年3月1日
中学校では、タブロイド版の学校新聞を発行していた。
当時、学校は大淀区にあったが、新聞を印刷していたのは、徒歩で20分ほど離れた福島区にある小さな規模の印刷所であった。
放課後、まだ裸電球が部屋を照らす印刷所にクラスメイトといっしょに「ゲラ刷り」をもらいに行ったときのあの部屋に漂うインクの“香り”がとても懐かしい。

中学から高校へ進む際、自分はどこへというはっきりした目標はないまま、日々楽しい学校生活を過ごしていた。そうした時期に、担任の先生から「君はK高校でも市岡高校でもいいから自分で選んで試験を受けたらいい」と言われた。わたしの1軒隣に毎日新聞の販売店があったことから「毎日新聞」を取っていたのだが、先生がそう言われた時、ふと去年、その新聞に“K高校で校内暴力”の記事が載っていたことが頭に浮かんで、即座に「市岡高校を受けます」と答えた。すると先生から「市岡高校は校風もいいそうやし、石井君の自由な意志でそうすればいいよ」と笑顔で励ましてもらった。
幸い希望通り市岡高校に入学して間もなく授業中に驚いたことがある。英語の時間であった。There is a ・・・・を親友の泉信也君が“デェアリザ”と流暢な発音で本を読んだことだった。“英語の勉強が中学時代、僕らに比べて格段に進んでいるのだ”とショックを受けたことを覚えている。その時、わたしの発音は、“ゼアー・イズ・ア”と区切り区切りであった。特に英語に秀でた泉君は「ICU=国際基督教大学」に見事合格した。そんなわたしでも”英語”には興味を持っていた。
クラブ活動は、「新聞部」に所属することにした。中学校で「学校新聞」を作っていた経験を生かそうと入部を決めた。酒井八郎部長をはじめ張志朗君や小寺昌子さんらが、”新聞作り”に情熱を燃やしていた。
ところがわたしは、体育の時間、鉄棒で蹴上がりができたのが“金八先生”ならぬ日体大体操部“スワローズクラブ”でオリンピックの強化選手にも選ばれたという福井金治先生の目に止まり、「石井、おまえは体操部に入れ」と勧誘され、即刻“入部”が決まった。
このことから「新聞部」での活動がおろそかになって部員の皆さんに多大なご迷惑をかける結果になったので、この場を借りて謝罪します。

さて、体操部の方は、福井先生の理論より実地に“演技”を見せていただきながら練習に励んだ。体操部は、温和な人ばかりで、後に学校長を務められた野田さんや練習中、間を見はからって講堂のグランドピアノを弾かれていて、後に大阪音大の先生をなさった沖さんの二人の先輩の他、林栄作君、貴田宗三郎君、西山吾郎君のあわせて4人の同期生が仲良く練習するのが楽しみのひとつになっていた。
体操部は、野球部やテニス部、剣道部のように運動場をランニングすることはほとんどせず、部室で体操服に着替えると、すぐに木製の道具を使い地面で「倒立」の練習をするのが常であった。そしてその後、鉄棒や平行棒、吊り輪、跳馬、あん馬、それに道具を使わない徒手、今のゆかを日替わりで行った。ただ当時、今のような高度な「C難度」とか「G難度」といったものはなかった。器械体操は全種目にわたって練習をつみ重ねるものだが、わたしはあん馬が特ににが手で、開脚して前後に振り、両手を持ち替える技さえできなかった。ただ1種目、平行棒のみ記録を残すことができた。

大阪ナンバの府立体育館で行われた“大阪府の競技会”で種目別に出場した結果、平行棒の個人で清水谷高校の選手に次いで2位の成績をおさめることができた。
この時、4人の審判員から自分の“演技”が評価された喜びを感じるとともに指導してもらった福井先生をはじめ先輩、同期生のみなさんに深く感謝した。
体操は危険が伴うスポーツであるため、練習の時には、必ず演技者の傍で補助する者があることから、部員同士が支え合いながら練習に励むうちに絆が生まれるものだ。
そうした中、ある日の放課後、いつものようにグラウンドの片隅にマットを敷いたうえ、鉄棒を立て、次々と練習に入った。そして、わたしの番がきたのでマットの上に立って構えていると、誰かが後ろから支えてくれて鉄棒につかまり、“さぁ一気に大車輪に持っていこう”と振り出した。ところが体が鉄棒の上まで達しなかったので、そのまま、もう一度前に振り出した途端、鉄棒が手から離れ、体が上向きに宙を飛んでしまった。わたしはとっさに体をひねって“猫”のようにうつ伏せになろうとしたものの、ひねりきれず、マットの上に落下した。片腕で着地したため、左の手首が“ミシッ”と鈍い音が聞こえ“あっ!折れた”と思わず叫んだ。
この“事故”で手首の骨が2本折れ、肘を脱臼し、仲間に両脇をかかえられて学校近くの接骨院まで歩いて行った。途中、顔面蒼白、あぶら汗をかき、痛みをこらえていた。さて治療が始まった。骨折部位は後回しで、まずは脱臼部位の治療。飛び出した骨を押す人、手首に向かって引っ張る人、総勢3人がかりで“もうちょっとだ”、“もうちょっとだ”と息をはずませていた。「左カイナの表皮が引きちぎれるおそれがあるぞー」と“イタイ、イタイ”とうなるこっちをよそに・・・・。
5分ほど辛抱していると“コツン”と音がして元のサヤにおさまり、腕がようやく動くように“修復”された。一方、骨折の方は手首から肘にかけて石膏で塗り固められる運命をたどった。(次号へ続く)
2015年2月1日
2月、如月です。今年は元日から関西の都市部でも雪が積もりました。珍しいこと、それに冬将軍がさらに勢いを得たのか、凍える寒さが続き、老いの身に芯からこたえる今日この頃です。
我が家の庭の蝋梅(ろうばい)が黄色の花を咲かせはじめました。1cm位のそれが、朝露に光るさまは実に可憐。いまだ寒風に揺れる春一輪の風情です。
「冬きたりなば春遠からじ」
久しぶりにこの文章を新聞で読みました。なんだか大層懐かしい感じで、気分は高校時代です。ちぢこまった身体と心が一寸ほっこり、早速インターネットで出典検索。イギリスの詩人シェリー(1792~1822)の「西風に寄せる歌」の一節だそうです。漢文調で古めかしい格言のような言葉が英国生まれの詩文とは、とても不思議なこころ持ちで、それがいまや日本古来の諺のような扱いになっていることに興味すらわきます。では「西風に寄せる歌」の原文(勿論翻訳されたものですが)を探して読んでみるかとなるところですが、筆者は今年も相変わらずの「真面目グズ?」、今日のところは手短なパソコン検索止まりということで、ご容赦下さい。
さて「12期の広場」2月号のラインアップです。
先月号で少しふれていますが、川合兵治君(4組)がなくなられたことについて追悼の意を込めて山田正敏君(8組)が書いてくれました。また川合君が「12期の広場」に9回の連載で書いてくれた「川歩き」の最終回を再掲します。故人を偲んでお読みください。
次に石井孝和君(3組)が「思い出を綴る」を書いてくれました。今月号に掲載した第1回は中学時代の話で、懐かしい昭和の風が吹きわたっています。連載は長期、概ね8回程度になると思います。ご期待下さい。
- 「川合兵治君がなくなられました」 8組 山田 正敏
- 「第9回利根川 川歩き(平成23年5月9日~11日 )」 4組 川合 兵治
- 「思い出を綴る 」(1) 3組 石井 孝和
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより: