同期会
2015年2月1日
川合兵治が逝った。昨年の12月12日に届いた、彼の奥さんからの喪中のハガキによれば、その日は12月2日の事であるという。11月27日に、当初から入院していた柏市の国立癌センターから、近くの辻中病院に転院して、「無事転院しました。皆さんによろしく。」との短いメールを小生にくれてから5日目の事である。
彼が肺癌であると医者から宣告されたのは、平成25年の12月で、当時あまりにも咳きが止まらず、病院に行って診察してもらったところ、思いもかけず肺癌の宣告を受けた。その段階でステージ4であるという。彼がその事を小生に打ち明けてくれたのは、昨年(26年)の1月の終り頃だったか、彼からTELで久し振りにどうだとの誘いがあって、いつもの碁会所(柏市)で碁を打ち、その後、近くの居酒屋で一杯呑んだ時のことである。
そのときの話で、医者いわく、検査の結果、この癌は、手術および放射線治療は出来ず、抗癌剤投与による延命治療しかないとの事。そこで彼が憤慨するのは 『今まで毎年健康診断を受けてきて、何の問題も無かったのに、今頃、 何故だ、なんなんだ 、それも末期に近いステージ4とは』という事であった。 それでも、彼は別れ際に、抗癌剤による治療でなんとか「川歩きに復帰してみせる」と言い切ったのではある。精神的には強い男であることを改めて感じた。
しかし小生は全身の力が抜け、どう慰めたらいいのか判らず、ただ、出来るだけ頻繁に病状報告を願いたい旨、彼に告げ、別れたのである。
その後は、20日~30日の間隔で抗癌剤投与よる治療を通院で続けていたようであるが、7回目はさすがに辛くて入院して点滴をおこなったようである。8月6日、小生からTELしたときの彼の話では、病状は大分好転しているように医師から言われているように感じられた。ただ、電話口での彼の言葉が聞き取りにくく、二度も三度も聞き直す始末で、彼に気の毒になり、早々に電話を置いたのである。
彼からは見舞いになど来る必要は無いとは言われていたが、10月27日思い切って国立癌センターに見舞いに行った。すでに、緩和ケア病棟に入っていたが、思いのほか元気そうで、早速看護師さんに連絡し碁盤と碁石を調達。一局手合わせ。15分足らずで終局。その後5分程椅子に座って話をしていたが、疲れたから横にならしてくれと彼はベッドにもぐり込む。それが体力の限界だったのだろう。「今後は近いうちに辻中病院緩和ケアセンターに転院し、そこで最後まで緩和ケアを続ける。川歩きのメンバーにはくれぐれもよろしく伝えてくれ。見舞いは無用。」との言葉を聞き、小生、後ろ髪を引かれる思いで病院を失礼した。
早速、11月8日、川歩きメンバー5人に報告。今後我々として出来る事について相談。最終ケアについて、泉が関係するNPO法人による、自宅療養や緩和ケア組織を紹介し、少しでも彼の精神的にも肉体的にもより良いケアが出来ればと考え、彼の奥方を通じ彼に連絡。
11月13日付けの彼からの返事によれば、我々の申し出に対し、自宅療養は、奥方が体調不安定である事や、自分自身がもはや、ほとんど満足に動けないことで全く考えていない。又、辻中病院 転院についても、自宅から比較的に近い事で、彼なりに奥方や子息達のことを考慮し、自分で決めたようである。
そして、我々仲間に対し、自分の我がままを伝え、お詫びして欲しいと、結んであった。
小生が彼と親しく付き合う様になったのは、20年程前からである。熟考の上決めた事は、絶対に曲げないというすこぶる頑固な男であったが、初志貫徹、最後まで自分の気持ちを貫いたに違いない。
昨年は、2月に松阪の「凡さん」(村木雅章)に続き、12月に川合兵治まで失った。そういう年代に今、我々は生きていると云うことを 謙虚に、肝に銘じなければなるまい。
2015年2月1日

4組 川合 兵治
バンザーイ!!
平成19年10月31日に河口の銚子をスタートしたこの利根川歩きも、足掛け4年の歳月を経ていよいよ(当面の最終目的地)八木沢ダムに向かう日が来た。(当面の最終目的地)というのは、八木沢ダムに堰き止められた神秘的なムードが漂う「奥利根湖」の先にあるといわれている利根川源流までの残り約20キロの行程はボートを必要とし、沢登り、岩登りありの道なき道を行くことになり、古希を迎えた体には冒険が過ぎるということで断念した次第である。また日を改めて、別ルートで源流を確認する案も出ているが、「利根川歩き」としてはこれが最終回となる。
また今回は、3月11日に発生した東日本大震災被災状況も配慮し、予定を延期する意見も出たが、「だからこそ元気を示そう」ということで川歩きは決行することにしたが、当初計画していた12期全体の希望者を募っての湯檜曽温泉での大打ち上げ会は取りやめとした。

1日目 台風1号がフィリピンはルソン島近辺で発生し、その影響が危惧される中、全員5時起床で元気いっぱいJR水上駅に午前9:20集合。そこから水上高原スキー場、藤原スキー場、宝台樹スキー場などのある奥利根スキー場群の入り口「大穴スキー場」近くの前回最終地点、大穴変電所前(河口から約259キロ)までバスで移動、側のコンビニで昼飯の弁当などを調達し、10時にスタート。熊が出る可能性があるということで、西條は用意してきた小さなカウベル、川合は道端に置き忘れられていた熊除けの鈴を鳴らしながら、榎本は呼びこの笛を時々吹きながら、平均勾配約7度のバス道を歩く。この日は心配した台風1号の影響は全くなくピーカン。標高600メートル前後あるこの行程の5月は、鮮やかな新緑と満開のさくら、さらには八木沢ダム途上にある奥利根三湖のうち二つ、藤原ダムの藤原湖と須田貝ダムの胴元湖にゆったりと貯えられた水のエメラルドグリーンに彩られ、所々で利根川の清流に接することができ快適そのものであった。
お蔭で大過なく(期待していた?熊に出会うこともなく)午後2時過ぎには一日目の宿「民宿やぐら」に到着。早速民宿の露天風呂を満喫。夜は近辺で獲れたという月の輪熊のクマ鍋で精をつけ、山菜料理を愉しむ(普段でも、民宿の直ぐ近辺まで熊や野ざるがエサを獲りに出没し、奥利根名物?のマムシも徘徊し、地元の人は今でもサル以外は折りにふれて食べるという)。
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2015年2月1日
私は現在NHK大津放送局に週2日勤めている。仕事はテレビの午後6時10分から始まるローカルニュースの制作。具体的にいえば、ニュースを取材した記者が送ってきた原稿をデスクが手を加えたものをテレビで放送するために、新聞でいえば「見出し」にあたる「タイトル」や映像の撮影場所、日時のほか、ニュースの内容やインタビューなどを簡潔に文字で表記するための作業をしている。
これまでの人生を少し逆上って思い返すと”放送”になんらか縁があるようだ。小学校6年の時、夏休みを迎える直前のある日のこと。小学校の教室に幾つもの大きな機械が持ち込まれた。機械とは録音機とか集音機のことで、”子ども会議”の模様を収録に訪れたのだった。やって来たのは当時、大阪梅田の阪急百貨店の屋上にあった新日本放送であった。
マイクロフォンを柱のように立てたり机の上に置いたり、収録準備をしていた。そして機械の調整を終わって、耳にレシーバーを付けた人が、”議長”の私に指を差して「議会を始め」の合図「Q」を出した。
多分、顔は強張り、緊張しながら開会を宣言して議事がスムーズに進行したように思えた。この日の議題は「近づく夏休み」だった。各議員からは「夏休みになったら学校の北部を流れる淀川には危険なので近づかないようにしよう」とか、「家では親のお手伝いをしよう」など、”優等生”のような意見が積極的に提案され、すべて全員一致で可決され、収録は約1時間で終了。やり直しはされなかった。
収録後、放送局の人が「放送は今収録した会議の様子を20分ぐらいに編集して、次の日曜日に流します」と告げて引き揚げていった。
日曜日の朝、私は自宅のラジオの前に立ち刻一刻と迫る「放送」に緊張して待ち構えた。いよいよ放送開始。
アナウンサーが「今日は大阪市立浦江小学校の子ども議会の様子を・・・」と紹介したのに続いて、私の声が電波に乗って初めてラジオから流れた。その声は・・・・・
「ただいまからぎだいをはじめます。」と言ったのだった。私は肝が飛び出すほどびっくりした。”議会を始める”と当日言ったつもりが、あがっていて”議題を始める”になってしまった。幸い傍には誰もおらず、瞬間は胸をなでおろしたものの、”放送”なので誰かが気づいているだろうと思い、とてもはずかしい気持ちになったことを今も覚えている。
中学2年生の頃、生徒会の顧問をされていた美術の担当でフランスの印象派の画家セザンヌの影響を受けたという奥田先生に「大淀中学校にも放送設備があればいいですね」と話したところ、その後、何か月かして先生が職員会議に計られた結果、”学校放送”の実現を生み、機材が導入されるに至った。先生の指導を受けて生徒会の役員が交代で昼休みの時間に、校内に音楽を流したり、生徒の呼び出しをしたり一生懸命設備を活用した。当時音楽はLPレコードをターンテーブルに乗せてかけていたが、私は数枚のレコードの中で「ペルシャの市場」が大好きで、当番に当たると何度もこの曲をかけた思い出がある。また学校では、各教室の黒板の上辺りに四角い箱形のスピーカーが設置され、国語の時間だったか、生徒全員が席に着き、スピーカーから流れ出るNHK第一放送の「次郎物語」に聞き入っていた。
余談になるが、この年、奥田先生が私ともう一人の友人と一緒に大阪梅田の御堂筋にあった映画館「梅田シネマ」に招待してくださったことがある。上映していたのは55年米・伊合作の”トロイのヘレン”、一人の女性をめぐってギリシャとトロイが10年も争うという物語のシネマスコープ。この映画に出演していた美しい女優、ロッサナ・ポデスタのにわかファンになったことと”映像”に対する興味を持つきっかけにもなったと思っている。
2015年1月1日
12期の皆さん 明けましておめでとうございます。
昨年は春の大雪、夏の大型台風、秋の御嶽山噴火や広島の土石流など自然災害が多く、暮れの選挙の慌ただしさもあって落着かない年でした。
今年こそは平かで、健やかな年になってほしいものと祈ります。
「12期の広場」での交流は、昨年10月の同窓会での愉しい再会の余韻を残したまま、新しい年に入り、2011年の正月の創刊から5年目を迎えます。
創刊号の酒井代表幹事のことばで「母校市岡にあった中庭のように、誰でも立ち寄れ、友と語り合うことができる場」として設けられたネット上の仮想広場ですが、今、バックナンバーを読み返してみると、仲間の輪が広がり、広場が大きくなっていることに自画自賛とは言え少々驚いています。
昨年の記事の中では「北村先生からの読書感想文」や「同窓会に参加できなかった仲間の近況・短信」がとりわけ関心を集めたように思います。また学級文集「独白」や「烏合の衆」、懐かしい写真の数々の発掘も「広場」ならではのうれしい収穫です。記事から窺える仲間の活動の幅は大いに広く、ウォーキング(歩こう会、歴史散歩、川歩きなど)、スポーツ(水泳、テニス、太極拳、登山など)、国内外の旅行、文学・芸術(短歌、俳句、誌、絵画、書道、写真、舞踊、音楽など)、社会奉仕(NPOボランティア、ワイズメン、地域貢献など)はもちろん、まだまだ現役で、仕事に研究に後進の育成にと活躍されるなど、夫々が充実した人生を楽しんでいることに圧倒される思いです。なにかと口実を設けての飲み会、女子会、そして病気・健康自慢、孫自慢もまたささやかな楽しみです。
筆者自身も8年前に始めた高齢者医療支援のNPO「ホームケアエクスパーツ協会」が、今では地域に欠かせない活動拠点の一つに成長していることに感慨をおぼえます。「大介護時代」といわれる昨今、いずれ自分が面倒をみられる側になるまでには、次の世代にバトンを渡せるよう微力を尽くすつもりです。
さて新年号のラインアップは下記の通りですが、児玉さんに「俳句」の投稿をお願いしました。ながい俳句歴をもつ児玉さんの佳句をお楽しみください。今年は俳句や短歌の特集を組むのも面白いかもしれません。HP委員としては多くの方々の自薦他薦の投稿を期待しています。今年もますます広場での交流の輪が広がりますよう、多くの皆さんに寄稿やコメントで参加をお願いいたします。
- 「明けましておめでとうございます」 酒井 八郎 同窓会代表幹事
- 「俳句との出会いあればこそ」 4組 児玉 恭子
- 「写真短信-年の瀬風景」
最後に残念なお知らせがあります。川合兵治君(4組)が昨年末に急逝されました。奇しくも「12期の広場」2011年創刊号に「利根川歩き」の達意のレポートを寄せ、その後8回に亘る連載記事で楽しませてくれた大企画も、川合君のリーダーシップがあってのことでした。2月に逝った「凡」さん(村木雅章君)のことも合わせ、ご冥福をお祈りするとともに、残された我々が日々見守られていることに合掌したいと思います。
2015年1月1日
代表幹事 酒井 八郎
12期の皆様、そして、この広場をご覧下さいます皆様、明けましておめでとうございます。謹んで新春のお慶びを申しあげます。
5年ごとの同窓会が、還暦後は2年ごとに大阪で開催、その翌年、市岡東京12期会が東京で開催されてきました。
ご協力ありがとうございました。2年後、また元気にお会いしましょう。(最終幹事会会場にて)
昨年10月19日(日)ホテルクライトン新大阪での同窓会には73名の学友が参加し、北村彰一先生、福井金治先生がご臨席下さいました。福井先生は17期同窓会とかけもちのため本会終了とともに移動され、北村先生は初めて二次会にも参加され、みんなと一緒に数曲歌って下さいました。いつも12期同窓会を気にかけて下さる先生方に心から感謝申し上げます。
同窓会はその詳報をすでに11月号の広場に掲載しましたように、再会を喜ぶ皆さんの熱い気持ちと趣向をこらしたプログラムなどで大いに盛り上がり、盛会裏に終えることができました。
本会に先立ち行われた辻紘一郎君(8組)の再生医療に関する特別講演では、自身の研究内容とその成果を分かり易く解説して頂き、大好評でした。
「懐かしい学び舎・学級写真」のDVD(小椋勝先生が製作・提供いただいたもの)を会場で放映したことや受付での玉手箱から自分の着席テーブル番号を取り出す方法をとったことなど、新しい形も試みました。結果、懐かしい映像を背景に、初めての学友との会話が一層はずむなど好評であったと判断しています。さらに何と言っても今回の同窓会の一大共通項は「一年生夏の宿題ー読書感想文」返却でした。案内状と一緒に届けられた「セピア色の原稿用紙」と再会し「直接北村先生にお礼申し上げたい」と多数の方々が参加され、会場は高校時代そのままにタイムスリップしたようでした。
二次会も歌や踊りやおしゃべりで盛り上がり、「六甲おろし」の大合唱などで元気一杯でした。本会の司会担当の川村浩一君、古藤知代子さん、二次会の司会進行役の原清明君、吉岡佳子さんはじめ幹事のみなさんのご苦労に頭が下がります。お蔭をもちまして笑顔満開の盛大な同窓会になりました。
11月30日、最終の幹事会を開催しました。ここには、高橋三和子さん、八島節子さん(1組)、北浦昌子さん(2組)、石井孝和君、清水誠二郎君、小牟礼康子さん(3組)、古藤知代子さん(4組)、川西庸雄君、段中文子さん(5組)、武田博君、畠平雅生君(6組)、上野裕通君、田端建機君、張志朗君(7組)、川村浩一君、川副研治君、塩野憲次君、八島平八君、末廣訂君(8組)と私の20名が参加し、反省会、DVDと同窓会写真の発送作業を行いました。
改めて参加者の皆さんのスナップ写真(撮影は川西君、酒井)を拝見しますと、うれしそうに笑う顔、顔、顔が一杯です。
同窓会に関する準備、当日の運営、その後の処理、そのすべてを無事やり終え今、同窓生皆さんの温かい友情とご支援、幹事みなさんのご協力への感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。
「12期の広場」の「利根川 川歩き」のメンバーで何度もその紀行文を書いて下さった4組の川合兵治君が、昨年12月に亡くなられました。ちょっと口をとがらせて淡々と話されていた姿が思い出されます。昨年の初めには8組の村木雅章君も亡くなられています。つつしんでご冥福をお祈り申しあげます。
今年は未年、羊毛が温かいのは1平方cmに密生する毛の本数の密度が他の動物よりはるかに高いからだそうです。
我が12期同窓会の交友密度も年と共に更に高くしたいと思っています。そして2年後の同窓会で元気にお会いしましょう。
新年を迎え、皆様と皆様のご家族一同様のご健康、ご多幸を祈念いたします。
2015年1月1日
私の住まいする地域の氏神様は野村胡堂の名作「明神下の平次」で有名な神田神社です。俗に神田明神として通っています。小さな神社ですが、江戸三大祭りの一つである「神田祭り」や「商売の神様」として大変に賑わっています。
12月31日の夜は、門が閉じられ参道は人人で埋め尽くされます。そして夜半12時、年明けと同時に開門です。門前の人波が、大波となり、境内へと流れ込みます。私もその大波の一波となってお参りします。
今年はカナダから来た孫(男10歳・女6歳)を連れて初詣です。その時の情景を句にしました。

毎日の習いとして手帳にメモ書きほどの日記を書いております。元旦は新しい手帳への書き始めです。今年の健康を願っての句が三番目です。
思い起こせば俳句との係わりが出来たのは昭和60年の春、ボランティア活動の折に「お茶飲みながら俳句しない」と誘われたことから始まりました。
都会に生まれ育った私は日本人の一般的な四季の変化を楽しんではいましたが・・・
ミクロ的な自然までは見ていませんでした。
誘われて「伊藤希眸・けやき」に入会しました。ついで、結社京鹿子東京支部(本部は京大俳句の流れをくむ京都吉田山)へ、現在は京鹿子同人です。今日まで28年もなぜ続けられたのでしょうか。
作者の話、共感者の話、師の解説に五七五の17文字が、どんどん膨らみ未知の世界に入り込み今まで知らなかったことを学べる楽しみと、面白さに引き込まれた様です。
街路樹の紅葉と散る木葉、ショウウインドウの飾り、街を行き交う人々の装いとか、今月の催し物と、キョロキョロと目に入る小さな、それでいて豊かな季節の変化を楽しみに街中を歩いております。この楽しみ方こそが、長年の俳句が、教えてくれたのです。
小さな私の自然を大切に、句種を拾いに万歩計を持って今日もあるきます。

2015年1月1日
2014年12月22日
2014年12月15日
ほんとうは、来年開く予定だったのですが、「今年も東京でやろう!」って西尾君から声が上がり、市岡高校21期生の為にずっと尽力してくれている彼の発言なので東京の有志とも相談し開催を決めました。
それには理由が…。ご本人が当日皆さんの前で話されたのですが、5月から、複数のガンと糖尿病の為に3か月入院生活を経験し、今も通院治療をしていて、元気になって必ず東京に行くことを目標に頑張ってくれています。健康であることがどれ程大切か、つくづく思い知ったそうです。
今回参加して下さった方の中にも奥様が病気だったり、ケガで入院されていたり、ご自身も大病を経験されたりして、皆各々に「健康」の二文字の重さを感じていたんです。
元気なうちに健康であることに感謝して、来年、再来年もまた楽しくやりましょう。次回は開始時刻をもう少し早くすることを検討しています。
市岡21期生の皆さん、くれぐれもお元気で!
竹本 ミチ
写真あります。
2014年12月1日
12月です。机の前のカレンダーも残りこの一枚のみかと思うと、時の速さはますます加速するようですね。今年も多事多難。それを象徴するようについ先頃も長野県白馬地方で直下型の激しい地震があり、多くの建物が倒壊し多くの人々が痛みました。以前、お正月の門松の南天を「難を転じる」と書きましたが、なかなかどうして、そんなささやかな望みさえも思い通りに行かないようです。社会や政治経済、自然など、私たちを取り巻く環境にまつわる不安が更に大きくなっているのではないでしょうか。私事でも娘が事故に逢うなど、古希をこえても人生、一筋縄ではないものだと痛感し、改めて腹を括り直しています。とは言っても時は移ろっていくもの。1年という区切りを年末でつけて、気持ちを新たにするのも暦と人がなせる貴重な知恵と道理、そのならいに素直に従い前向きの12月にしなければと考えています。選挙もあり一層、慌ただしい年末になりそうですね。
「12期の広場」で言えば、今年のビッグイベントは10月の同窓会でした。11月号でその詳報をお届けしましたが、ここでは当日同じクラスのB君から渡された一枚の小さな写真を紹介します。
貼り付けた写真がそうです。皆さん、いつ、どこで撮った写真か、わかりますか。
1959年3月の修学旅行の写真で、撮影場所は阿蘇山の駐車場付近のようです。写っているのは主に7組と8組の面々で、5組が一人います。
左はこの写真を保管していたB君で、少年の面影がもっとも色濃く残っています。修学旅行に来ていた他校の生徒とあわや喧嘩か?との場面があったと言う柔道部の猛者です。その横はY君、やはり柔道部です。小柄でしたが、抜群の運動神経の持ち主、朴訥としながらも繊細で心優しい学友。すでに鬼籍にあります。中央がH君。言動が極めてユニークであった印象を強く記憶しています。その横がK君。席次トップ争いの常連の秀才で、同期でただ一人東大進学を果たしました。右はT君です。彼は私が1年の時にすぐ前の席でしたが、男前で当時から大人の雰囲気を持った同級生の一人でした。高校2年のおわり、年齢16~17才の写真ですから、当然、皆さんピカピカの少年です。
時は春、今まさに大海に漕ぎ出す益荒男と言えば恰好良すぎるでしょうか。
書きつくせない物語があふれ出て、頬がゆるみ、胸の中がぼうと暖かくなります。同時に共に私たちの時代を生き、また生きるという、同窓会で感じた共感が甦ってきました。
さて「12期の広場」今月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
「近況短信」は前号からの続きです。今月号は参加できなかった同窓生の分です。
- 「近況短信」 - 同窓会出欠返信書から -
- 「松下幸之助翁生誕120年と創業の地碑建立10周年を記念して」 8組 末廣 訂 君
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより: