同期会

「12期の広場 」4月号のラインアップ

 桜が咲きました。こぶしも、モクレンも、ゆきやなぎも。空飛ぶ小鳥のさえずりさえもことさらに華やいで聞こえます。
散歩コースに咲く「こぶし」の花
(3/26 榎本進明君の撮影です。)

 見上げれば六甲の山並みは春霞の中。おまけに花粉までが飛んで、鼻がグスグス、目がかゆくなります。
 行きかう人の服装も実にカラフルになりました。若い女性のミニスカートに少しドッキリし、サラリーマンのワイシャツの白が陽光に映えて眩しいくらいです。昼休みの公園では歓声が上がり、陽だまりのベンチでのうたた寝姿もちらほら。一気に人や景色や時間までもが動き出したように思え、気持ちが浮き立つようです。すべてが生き生きとして見えるのが不思議で新鮮ですね。
 今日から4月、まぎれもない春、春、春です。
 正月が新しい年月の始まりとすれば、新しい季節の始まりはやはり春のようです。こうしてラインアップの文章をかいているせいか、春夏秋冬、以前に比べ季節の移り変わりに少しは関心をもつようになりました。そしていままではあまり意識しなかった四季とその移ろいの美しさや味わい、またそれらへの感興に自分でも驚く事が多くなりました。
 4月には新学年が始まり、多くの役所や会社でも新年度がはじまります。古い話を引っ張りだすと、私達が希望に胸ふくらませて市岡の門をくぐったのも4月です。
 母校の市岡高校が単位制の高校になって6年。今年度の母校受験志願者数は定員の1.42倍でその関門をクリアーした男女合わせて320名が、入学式を迎えます。内訳は男子が132名、女子が188名の女子生徒優位です。この傾向は最近ずっと続いていると聞いていますが、それでも今学年は男子生徒の比率が幾分改善されたそうです。
 『質実剛健』は男子生徒優位の言葉のように思いますが、旧制中学であったとの言も今や昔話のようで、クラブ活動で言えば、柔道部が部員一人で合気道部と一緒に練習しているとの話には硬派でならした同窓会の大先輩を含めて寂しいかぎりでしよう。
 しかし、明治34年(1901年)創立以来、114年の校歴をもつ母校に今年もまた新入生を迎えることができ、その新入生がたゆまない校歴に新しい足跡をきざむことを考えると素晴らしいの一言です。
 あふれるばかりの希望とひそやかな不安を胸に、新しい旅立ちに臨む70期生に心からのお祝い言葉とエールを送りたいと思います。

 さて「12期の広場 」4月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
  1. 思い出を綴る  (3)」                  3組    石井 孝和
  2. お花見のお誘い」                    4組    酒井 八郎
  3. 豚汁会に行ってきました
 以  上

思い出を綴る (3) -就職試験-

 3組   石井 孝和

 学歴社会と言われていた時代、高校生活から次への進路を選ぶ時期を迎えていた。
“京大”を一時夢見たわたしは、一転、この頃、直接、社会に向かう道を選択した。「学問は、そのあとからでも・・・」と考えた。
 校内の廊下に100近くの求人企業を紹介した貼り紙がずらりと並べられ、その辺りは就職を志した生徒で混雑していた。企業ごとの貼り紙には、給料の額が記されていた。多くの企業が、月給8000円台から9000円台であった。中には1万円超の企業もみられた。NHKの朝の連続小説「マッサン」に登場したウイスキー製造会社「サントリー」当時の社名は「寿屋」をはじめ、「東洋レーヨン」今の「東レ」、「国際電信電話会社」現在の「KDD」それに「日本放送協会大阪中央放送局」などがその一例だ。
当時のNHK大阪中央局、前に懐かしい市電が走っています
この時「大阪中央放送局」がNHKだということを友達から知らされたことが後押しになって、受験日の異なる「東洋レーヨン」に続いて「大阪中央放送局」を受験することにした。
「東洋レーヨン」は、一次試験をパスしたあと、二次試験の面接の日が雨降りだった。
わたしは、通学の時と同じように学生服姿で黒の長靴をはいて、大阪・中之島の本社を訪れた。面接会場にあてられた部屋の外で順番を待っていたところ、「次の人」と呼ばれたので、学校で習った通り、ドアをノックして入って一瞬、後ずさりしそうな気分になった。部屋の床にじゅうたんが敷きつめられていたからだ。窓際に4~5人の面接者が座っていて「どうぞ」と声をかけられたので、そのまま“ガバガバゴソゴソ”と靴音を響かせて中央にポツンと置かれた椅子に腰をかけ、いくつかの質問を受け、それに答えた。しかし、面接する人たちの顔は、ややシルエット気味であるうえ、緊張して自分の顔もこわばっていたと思う。そんなことで、今になっては、何を質問されたか、さっぱり覚えがない。1週間ほど経って、家に「不合格」の通知が届いた。
 次に受験したのが大阪・東区馬場町にあった「大阪中央放送局」だった。
 一次試験は、50問あり、英語や数学などに混じり、時事問題があった。にが手の数学の問題も微分や積分などはなく、解け、49問までは“正解?”としたが、時事の問題の中で「去年、日本芸術院会員になった『日本画家のひがしやまかいい』を漢字で書きなさい」の問に対し、わたしは全く知らず、答えを放棄して試験場を出た。答えは「東山魁夷」であった。
就職試験でお名前を答えられなかった
東山画伯。平成5年に取材でお目にかかりそのことをお詫びしました
 東山魁夷画伯といえば、その後、文化勲章を受章し、10年かけて奈良・唐招提寺の障壁画の大作を完成させた昭和を代表する日本画家の一人といわれている。東山魁夷画伯とはそれから30年余り経った平成5年、兵庫県の姫路市立美術館で開かれた「東山魁夷展」の取材でお目にかかる機会があって、昔話になるが、わたしの“無知”を伝えると、画伯は「そりゃそうですよね。私ごときの者、知らなかったのはあたりまえですよ」と、この大家にして謙虚なことばが返ってきて驚いた。このとき画伯の温かく、やさしい人柄まで知ることができたことを、今も忘れていない。
 さて、もう一方“作文”のテーマは「わたしとテレビ」か「わたしとラジオ」のどちらかを選ぶものであった。
 NHKの統計によると、この年の2月末現在で、テレビの受信契約者数が400万を突破したそうだが、わたしの家にはまだテレビの受像機はなかった。そこでわたしは「わたしとラジオ」の方を選んで作文にとりかかった。
 うまい具合に、高校3年の頃、家で2台のラジオを使って音楽を聴いたことを思い出しながら鉛筆でマス目を埋めていった。
 “2台のラジオで音楽を”ということは新聞でたまたま知ったことであった。その頃、まだFM放送がなかった時代で、2台のラジオは、中波放送のため左に第1放送、右側に第2放送に置いてステレオで聴くというものだった。作文ではその時の経験を書いた。“ベートーヴェンの交響曲「田園」が2つのスピーカーから流れ出た時に、音に奥行・幅が生まれ臨場感のあることを初めて知った”と、そして、“放送は送り手の工夫と受け手の理解が大切なことだ”と、偶然のように400字の最後のマス目に句点「。」を記した。

高校時代に私が描いた水彩画です
 後日、面接の日を迎えることができた。今回は天気は晴れ、意気揚々として、馬場町角の放送局(BK)に白いズックに学生服で階段を駆け登って局の受け付けを訪ねた。学生帽を脱いで五分刈りの頭を垂れ一礼するとすぐに面接の部屋に行く順路を教えてもらえた。面接の順番がきて、部屋に入ると、今度はリノリューム張りの床だったので特別驚きはなく、一礼して椅子に座った。「いしいたかかずくんですね」と4~5人の面接員のうちの一人が“確認”し、わたしの「はい」という応えを待っていた。次の質問は、「あなたは家からここまでどのようにしてきましたか」わたしは「市バスで福島から大阪駅北口まで来て、市電で大阪駅前から馬場町まで来ました」と、ここまではあたり前の質問が続いたが、次の質問からわたしを困らせるものに変わった。その1つ。別の人が「あんたは、学科で得意やったのは何?」と尋ねたので「得意というのは特になかったのですが、数学はにが手でした」とちょっとおずおずと応えた。するとその人「あんたそれやったら行く部署あれへんやん」と言われ、へこんだ。
 続いてまた別の人が「きみは体格からして競馬のジョッキーになったらよかったんと違うかな」とちょっとおどけた調子で言われたのに対し、内心、「確かに身長1メートル56センチ、体重47.5キロ(今も変わらず)体操していたし、それもありなん」「あの人そういえば馬面やな」と思いながら「そうですか」と小声で応えた覚えがある。こんな日が過ぎたあと、事務系合格者十人中唯一人「報道部」に配属された。
(次号に続く)

お花見のお誘い

4組    酒井 八郎
(12期同窓会幹事会代表幹事)

  4月12日(日曜日)、大阪の舞洲新夕陽が丘の「市岡の森」で此花市岡会恒例のお花見会が開催されます。主催は此花市岡会ですが、「市岡の春は舞洲のお花見から」が定評になっているようで、市岡高校全体同窓会の皆さんはじめそのご家族、懐かしい先生方や、現役吹奏楽部の皆さんなどが集われます。昨年は約200名がお花見を楽しみました。
  私達12期同窓生も、毎年の定例行事として20名前後が参加しており、なだらかな南斜面の桜の下でペチャクチャと楽しくのんびりした一時を過ごしています。
  12期としては昨年10月に「2014市岡高校12期同窓会」を終えたばかり、今秋に市岡東京12期会の定例同窓会があるとはいえ、大阪で広く皆さんと集える機会はこのお花見になります。
  此花市岡会の西尾会長はじめ幹事さんのお世話で、おいしいお弁当も準備して頂けます。お弁当をご希望の方は私、酒井八郎へ、4月3日までにご連絡をお願いいたします。缶ビール1本とつまみまでついてのお弁当代金は¥2,000-です。勿論、お弁当ご持参も大歓迎です。
  集合は午前11時、「舞洲ロッジ」の正面玄関前です。(JR夢咲線「桜島駅」からバス「舞洲スポーツアイルランド」行き、終点下車)
  雨天の場合は、「舞洲ロッジ」内での食事会になりますが、何年も雨はありませんでした。例年、現役吹奏楽部部員の屋外演奏が大好評で、校歌斉唱で午後2時頃にお開きですが、その後も場所を替えてワイワイと楽しくやっています。 同窓生の原清明君から焼酎「森伊蔵」を準備しているとの連絡もありました。気軽にお越しください。お一人でも多くの方のご参加をお待ちいたします。

 
昨年の「お花見会」の写真です。「市岡の森」は市岡ゆかりの人達で大賑わいです。
 

母校の「豚汁会」に行ってきました。

 3月1日、恒例の母校の「豚汁会」(主催:市岡高校同窓会)に行ってきました。
 1年ぶりの母校訪問です。JR弁天町で下車、一部に懐かしい思い出が残る通学路を歩き、現在の母校正門まで行くと、「豚汁会の参加者は裏門から」との案内がありました。現在の裏門は、私達が通っていたころの「正門」そのもので、市電通りに面し、大きなワシントンヤシの並木のすぐそばでした。始業時間に遅刻寸前で数えきれないほど走った校内のコンクリート道や校舎正面左にあった藤棚など、今はもうありません。時の流れなのでしょうが少し寂しい気分での豚汁会への(会場:100周年記念会館)参加です。
 12時に開会、まず全体同窓会の佐藤充利会長から「豚汁会」の主旨と母校の平成27年度入学願書受付状況などの母校の現状にふれてのご挨拶がありました。
豚汁会でのテーブルスピーチです
皆さんお喋りでお疲れかちょっと神妙です
 続いて旧制中学40期の浅見忠彦大先輩の音頭で乾杯がありました。早速、校内食堂で準備された豚汁を食しての宴の始まりです。
 浅見先輩のお話によると旧制中学40期の卒業は昭和20年になるのですが、当時は戦争中、特に米軍機、B-29による激しい空襲でそれどころではなかったとの事です。当時は桜島(現在はユニバーサルスタジオがある所)の「住友伸銅所」での「勤労動員」が毎日で工場内の防空壕で爆撃から避難するのが一度や二度ではなかったそうです。それでも学問にたいする情熱は衰えることなく、戦後、東京大学に進学されました。結局、卒業式はないままであったのですが、卒業50周年時に母校の卒業式に招待をうけ、そこで改めて卒業式をされたと話され、拍手喝采を受けられました。
左から、上野、武田、酒井、張、塩野の各君
12期の参加者一同です
 豚汁会参加者は70余名、昨年に比べて参加者が増えたように思います。12期は同窓会代表幹事の酒井八郎君はじめ、武田博、上野裕通、塩野憲次、張志朗の各君の5名が参加しました。残念ながら、昨年の参加者であった、末廣訂、田端建機、西川常正、川村浩一、川副研治の各君は所用のため欠席でした。
 この「豚汁会」は旧制中学時代以来の伝統行事であるだけに大先輩のお話を聞けるのが楽しみの一つです。また毎年、母校を訪れることが出来る事、高校を卒業して数年の若い同窓生を含めて旧制、新制の各期の同窓生から実に多彩な話が聞けるのはやはりこの会があってのことでしょう。我が12期生も今や同窓会や豚汁会では古株に入りそうです。
 恒例の「市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド」の素晴らしい演奏があり、その伴奏で校歌を斉唱して午後3時頃に閉会になりました。

「12期の広場」 3月号のラインアップ

 3月です。桜の開花予想も出て、待ちに待った春到来と言いたい所ですが、実感は「春隣」がぴったりの今日この頃のようです。

 今年は阪神淡路大震災から20年、また今月はあの東日本大震災から4年目になります。1月から今日までこのラインアップに何か書きたいと思い続けてきましたが、読んで頂けるまでの整理がつきません。いまだ東日本大震災の現場に足を踏み入れていないのが心に刺さった棘のよう。ただただ阪神淡路大震災の被災者、また建物の耐震設計を生業とする者の一人として、その「記憶」と「教訓」が風化する事に抗い続け、被災地に思いを寄せて行きたいと考えています。

 

 さて「12期の広場」先月号から石井孝和君の「思い出を綴る」の連載が始まりました。この連載は石井君の膨大な日記に裏打ちされているようです。これにならい最近あった事を日記風に書きしるします。

××日(晴れ)

 駒崎君から麻雀の誘い。午後1時半、駒崎邸に到着、遅ればせながら新年の挨拶を交わし、早速麻雀卓を囲む。メンバーは駒崎、田端、谷の面々で5時頃に塩野君が加わった。何年ぶりかの麻雀で上がり方が分からないなどと言いながら、最初に「オヤマン」を上がる。大顰蹙、特に田端、駒崎の両君から無茶苦茶に言われた。それが因果か、その後は焼き鳥の如くジリジリと弄ばれての大負け。結局、宮本武蔵宜しく満を持して現れた塩野君の一人勝ちであった。それはそれとして腰を痛めていた谷君のことが気になる。

××日(曇り時々雪)

 先日、4組の寒川君からコンサートへのお誘いメールがあった。

 「私の所属する混声合唱団<シャンテ>が、この3月29日(日)に『いずみホール』で、創立25周年記念コンサートを開催します。私も本格的な合唱の魅力にとりつかれて50年余りとなりました。あと何年オンステージできるか、毎年勝負の年代になってきました。」毎年が勝負の年代とは全くの同感。行くことを決めて連絡したところ同窓生3名と、寒川君連絡分含めて合計7名が行くことになった。久々にコンサートホールで混声合唱を楽しみ、またその後、同窓生とワイワイできると今から楽しみにしている。(写真はそのポスター。クリックすると大きくなります。)

××日(晴のち曇り)

 石井君から「思い出を綴る」の第6回目の原稿が届く。第1回目から通算すると、すでに400字詰め原稿用紙で30枚は越えたのではないか。驚き。第6回目には1963年、大阪NHK新館渡り廊下での失敗エピソードが書かれているが、それが生き生きとしているばかりか、顛末の細部までが見事に鮮明。感謝、感謝の気持ちで一杯。彼の膨大な日記、メモの底力とたゆまない日常に脱帽。

 

 以上、3日坊主が常の私らしく3日分相当に留めます。

 今月号のラインアップは1篇のみです。次号はもう少し頑張るつもりです。

 
  1. 思い出を綴る (2)」               3組   石井 孝和
 
以 上
 

思い出を綴る(2)

3組 石井 孝和

 中学校では、タブロイド版の学校新聞を発行していた。

 当時、学校は大淀区にあったが、新聞を印刷していたのは、徒歩で20分ほど離れた福島区にある小さな規模の印刷所であった。

 放課後、まだ裸電球が部屋を照らす印刷所にクラスメイトといっしょに「ゲラ刷り」をもらいに行ったときのあの部屋に漂うインクの“香り”がとても懐かしい。

『写真左下が体育部の部室です』

 中学から高校へ進む際、自分はどこへというはっきりした目標はないまま、日々楽しい学校生活を過ごしていた。そうした時期に、担任の先生から「君はK高校でも市岡高校でもいいから自分で選んで試験を受けたらいい」と言われた。わたしの1軒隣に毎日新聞の販売店があったことから「毎日新聞」を取っていたのだが、先生がそう言われた時、ふと去年、その新聞に“K高校で校内暴力”の記事が載っていたことが頭に浮かんで、即座に「市岡高校を受けます」と答えた。すると先生から「市岡高校は校風もいいそうやし、石井君の自由な意志でそうすればいいよ」と笑顔で励ましてもらった。

 幸い希望通り市岡高校に入学して間もなく授業中に驚いたことがある。英語の時間であった。There is a ・・・・を親友の泉信也君が“デェアリザ”と流暢な発音で本を読んだことだった。“英語の勉強が中学時代、僕らに比べて格段に進んでいるのだ”とショックを受けたことを覚えている。その時、わたしの発音は、“ゼアー・イズ・ア”と区切り区切りであった。特に英語に秀でた泉君は「ICU=国際基督教大学」に見事合格した。そんなわたしでも”英語”には興味を持っていた。

 クラブ活動は、「新聞部」に所属することにした。中学校で「学校新聞」を作っていた経験を生かそうと入部を決めた。酒井八郎部長をはじめ張志朗君や小寺昌子さんらが、”新聞作り”に情熱を燃やしていた。

 ところがわたしは、体育の時間、鉄棒で蹴上がりができたのが“金八先生”ならぬ日体大体操部“スワローズクラブ”でオリンピックの強化選手にも選ばれたという福井金治先生の目に止まり、「石井、おまえは体操部に入れ」と勧誘され、即刻“入部”が決まった。

 このことから「新聞部」での活動がおろそかになって部員の皆さんに多大なご迷惑をかける結果になったので、この場を借りて謝罪します。

『体操部の面々、2段目左が私です』

 さて、体操部の方は、福井先生の理論より実地に“演技”を見せていただきながら練習に励んだ。体操部は、温和な人ばかりで、後に学校長を務められた野田さんや練習中、間を見はからって講堂のグランドピアノを弾かれていて、後に大阪音大の先生をなさった沖さんの二人の先輩の他、林栄作君、貴田宗三郎君、西山吾郎君のあわせて4人の同期生が仲良く練習するのが楽しみのひとつになっていた。

 体操部は、野球部やテニス部、剣道部のように運動場をランニングすることはほとんどせず、部室で体操服に着替えると、すぐに木製の道具を使い地面で「倒立」の練習をするのが常であった。そしてその後、鉄棒や平行棒、吊り輪、跳馬、あん馬、それに道具を使わない徒手、今のゆかを日替わりで行った。ただ当時、今のような高度な「C難度」とか「G難度」といったものはなかった。器械体操は全種目にわたって練習をつみ重ねるものだが、わたしはあん馬が特ににが手で、開脚して前後に振り、両手を持ち替える技さえできなかった。ただ1種目、平行棒のみ記録を残すことができた。

『競技大会での平行棒の演技』

 大阪ナンバの府立体育館で行われた“大阪府の競技会”で種目別に出場した結果、平行棒の個人で清水谷高校の選手に次いで2位の成績をおさめることができた。

 この時、4人の審判員から自分の“演技”が評価された喜びを感じるとともに指導してもらった福井先生をはじめ先輩、同期生のみなさんに深く感謝した。

 体操は危険が伴うスポーツであるため、練習の時には、必ず演技者の傍で補助する者があることから、部員同士が支え合いながら練習に励むうちに絆が生まれるものだ。

 そうした中、ある日の放課後、いつものようにグラウンドの片隅にマットを敷いたうえ、鉄棒を立て、次々と練習に入った。そして、わたしの番がきたのでマットの上に立って構えていると、誰かが後ろから支えてくれて鉄棒につかまり、“さぁ一気に大車輪に持っていこう”と振り出した。ところが体が鉄棒の上まで達しなかったので、そのまま、もう一度前に振り出した途端、鉄棒が手から離れ、体が上向きに宙を飛んでしまった。わたしはとっさに体をひねって“猫”のようにうつ伏せになろうとしたものの、ひねりきれず、マットの上に落下した。片腕で着地したため、左の手首が“ミシッ”と鈍い音が聞こえ“あっ!折れた”と思わず叫んだ。

 この“事故”で手首の骨が2本折れ、肘を脱臼し、仲間に両脇をかかえられて学校近くの接骨院まで歩いて行った。途中、顔面蒼白、あぶら汗をかき、痛みをこらえていた。さて治療が始まった。骨折部位は後回しで、まずは脱臼部位の治療。飛び出した骨を押す人、手首に向かって引っ張る人、総勢3人がかりで“もうちょっとだ”、“もうちょっとだ”と息をはずませていた。「左カイナの表皮が引きちぎれるおそれがあるぞー」と“イタイ、イタイ”とうなるこっちをよそに・・・・。

 5分ほど辛抱していると“コツン”と音がして元のサヤにおさまり、腕がようやく動くように“修復”された。一方、骨折の方は手首から肘にかけて石膏で塗り固められる運命をたどった。(次号へ続く)
 

「12期の広場」2月号 ラインアップ

 2月、如月です。今年は元日から関西の都市部でも雪が積もりました。珍しいこと、それに冬将軍がさらに勢いを得たのか、凍える寒さが続き、老いの身に芯からこたえる今日この頃です。

 我が家の庭の蝋梅(ろうばい)が黄色の花を咲かせはじめました。1cm位のそれが、朝露に光るさまは実に可憐。いまだ寒風に揺れる春一輪の風情です。

 「冬きたりなば春遠からじ」


 久しぶりにこの文章を新聞で読みました。なんだか大層懐かしい感じで、気分は高校時代です。ちぢこまった身体と心が一寸ほっこり、早速インターネットで出典検索。イギリスの詩人シェリー(1792~1822)の「西風に寄せる歌」の一節だそうです。漢文調で古めかしい格言のような言葉が英国生まれの詩文とは、とても不思議なこころ持ちで、それがいまや日本古来の諺のような扱いになっていることに興味すらわきます。では「西風に寄せる歌」の原文(勿論翻訳されたものですが)を探して読んでみるかとなるところですが、筆者は今年も相変わらずの「真面目グズ?」、今日のところは手短なパソコン検索止まりということで、ご容赦下さい。

 

 さて「12期の広場」2月号のラインアップです。

 先月号で少しふれていますが、川合兵治君(4組)がなくなられたことについて追悼の意を込めて山田正敏君(8組)が書いてくれました。また川合君が「12期の広場」に9回の連載で書いてくれた「川歩き」の最終回を再掲します。故人を偲んでお読みください。

 次に石井孝和君(3組)が「思い出を綴る」を書いてくれました。今月号に掲載した第1回は中学時代の話で、懐かしい昭和の風が吹きわたっています。連載は長期、概ね8回程度になると思います。ご期待下さい。

  1. 川合兵治君がなくなられました」            8組  山田 正敏
  2. 第9回利根川 川歩き(平成23年5月9日~11日 )」  4組  川合 兵治
  3. 思い出を綴る 」(1)                 3組  石井 孝和
 
以上
 

川合兵治君がなくなられました

8組  山田 正敏

  川合兵治が逝った。昨年の12月12日に届いた、彼の奥さんからの喪中のハガキによれば、その日は12月2日の事であるという。11月27日に、当初から入院していた柏市の国立癌センターから、近くの辻中病院に転院して、「無事転院しました。皆さんによろしく。」との短いメールを小生にくれてから5日目の事である。

 彼が肺癌であると医者から宣告されたのは、平成25年の12月で、当時あまりにも咳きが止まらず、病院に行って診察してもらったところ、思いもかけず肺癌の宣告を受けた。その段階でステージ4であるという。彼がその事を小生に打ち明けてくれたのは、昨年(26年)の1月の終り頃だったか、彼からTELで久し振りにどうだとの誘いがあって、いつもの碁会所(柏市)で碁を打ち、その後、近くの居酒屋で一杯呑んだ時のことである。

 そのときの話で、医者いわく、検査の結果、この癌は、手術および放射線治療は出来ず、抗癌剤投与による延命治療しかないとの事。そこで彼が憤慨するのは 『今まで毎年健康診断を受けてきて、何の問題も無かったのに、今頃、 何故だ、なんなんだ 、それも末期に近いステージ4とは』という事であった。 それでも、彼は別れ際に、抗癌剤による治療でなんとか「川歩きに復帰してみせる」と言い切ったのではある。精神的には強い男であることを改めて感じた。

 しかし小生は全身の力が抜け、どう慰めたらいいのか判らず、ただ、出来るだけ頻繁に病状報告を願いたい旨、彼に告げ、別れたのである。

 その後は、20日~30日の間隔で抗癌剤投与よる治療を通院で続けていたようであるが、7回目はさすがに辛くて入院して点滴をおこなったようである。8月6日、小生からTELしたときの彼の話では、病状は大分好転しているように医師から言われているように感じられた。ただ、電話口での彼の言葉が聞き取りにくく、二度も三度も聞き直す始末で、彼に気の毒になり、早々に電話を置いたのである。

 彼からは見舞いになど来る必要は無いとは言われていたが、10月27日思い切って国立癌センターに見舞いに行った。すでに、緩和ケア病棟に入っていたが、思いのほか元気そうで、早速看護師さんに連絡し碁盤と碁石を調達。一局手合わせ。15分足らずで終局。その後5分程椅子に座って話をしていたが、疲れたから横にならしてくれと彼はベッドにもぐり込む。それが体力の限界だったのだろう。「今後は近いうちに辻中病院緩和ケアセンターに転院し、そこで最後まで緩和ケアを続ける。川歩きのメンバーにはくれぐれもよろしく伝えてくれ。見舞いは無用。」との言葉を聞き、小生、後ろ髪を引かれる思いで病院を失礼した。

 早速、11月8日、川歩きメンバー5人に報告。今後我々として出来る事について相談。最終ケアについて、泉が関係するNPO法人による、自宅療養や緩和ケア組織を紹介し、少しでも彼の精神的にも肉体的にもより良いケアが出来ればと考え、彼の奥方を通じ彼に連絡。

 11月13日付けの彼からの返事によれば、我々の申し出に対し、自宅療養は、奥方が体調不安定である事や、自分自身がもはや、ほとんど満足に動けないことで全く考えていない。又、辻中病院 転院についても、自宅から比較的に近い事で、彼なりに奥方や子息達のことを考慮し、自分で決めたようである。

 そして、我々仲間に対し、自分の我がままを伝え、お詫びして欲しいと、結んであった。

 小生が彼と親しく付き合う様になったのは、20年程前からである。熟考の上決めた事は、絶対に曲げないというすこぶる頑固な男であったが、初志貫徹、最後まで自分の気持ちを貫いたに違いない。

 昨年は、2月に松阪の「凡さん」(村木雅章)に続き、12月に川合兵治まで失った。そういう年代に今、我々は生きていると云うことを 謙虚に、肝に銘じなければなるまい。
 

第9回利根川 川歩き(平成23年5月9日~11日 )


4組 川合 兵治
 

バンザーイ!!

 平成19年10月31日に河口の銚子をスタートしたこの利根川歩きも、足掛け4年の歳月を経ていよいよ(当面の最終目的地)八木沢ダムに向かう日が来た。(当面の最終目的地)というのは、八木沢ダムに堰き止められた神秘的なムードが漂う「奥利根湖」の先にあるといわれている利根川源流までの残り約20キロの行程はボートを必要とし、沢登り、岩登りありの道なき道を行くことになり、古希を迎えた体には冒険が過ぎるということで断念した次第である。また日を改めて、別ルートで源流を確認する案も出ているが、「利根川歩き」としてはこれが最終回となる。

 また今回は、3月11日に発生した東日本大震災被災状況も配慮し、予定を延期する意見も出たが、「だからこそ元気を示そう」ということで川歩きは決行することにしたが、当初計画していた12期全体の希望者を募っての湯檜曽温泉での大打ち上げ会は取りやめとした。

 1日目 台風1号がフィリピンはルソン島近辺で発生し、その影響が危惧される中、全員5時起床で元気いっぱいJR水上駅に午前9:20集合。そこから水上高原スキー場、藤原スキー場、宝台樹スキー場などのある奥利根スキー場群の入り口「大穴スキー場」近くの前回最終地点、大穴変電所前(河口から約259キロ)までバスで移動、側のコンビニで昼飯の弁当などを調達し、10時にスタート。熊が出る可能性があるということで、西條は用意してきた小さなカウベル、川合は道端に置き忘れられていた熊除けの鈴を鳴らしながら、榎本は呼びこの笛を時々吹きながら、平均勾配約7度のバス道を歩く。この日は心配した台風1号の影響は全くなくピーカン。標高600メートル前後あるこの行程の5月は、鮮やかな新緑と満開のさくら、さらには八木沢ダム途上にある奥利根三湖のうち二つ、藤原ダムの藤原湖と須田貝ダムの胴元湖にゆったりと貯えられた水のエメラルドグリーンに彩られ、所々で利根川の清流に接することができ快適そのものであった。お蔭で大過なく(期待していた?熊に出会うこともなく)午後2時過ぎには一日目の宿「民宿やぐら」に到着。早速民宿の露天風呂を満喫。夜は近辺で獲れたという月の輪熊のクマ鍋で精をつけ、山菜料理を愉しむ(普段でも、民宿の直ぐ近辺まで熊や野ざるがエサを獲りに出没し、奥利根名物?のマムシも徘徊し、地元の人は今でもサル以外は折りにふれて食べるという)。


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思い出を綴る(1)

3組 石井 孝和
NHK大津放送局

 私は現在NHK大津放送局に週2日勤めている。仕事はテレビの午後6時10分から始まるローカルニュースの制作。具体的にいえば、ニュースを取材した記者が送ってきた原稿をデスクが手を加えたものをテレビで放送するために、新聞でいえば「見出し」にあたる「タイトル」や映像の撮影場所、日時のほか、ニュースの内容やインタビューなどを簡潔に文字で表記するための作業をしている。

 これまでの人生を少し逆上って思い返すと”放送”になんらか縁があるようだ。小学校6年の時、夏休みを迎える直前のある日のこと。小学校の教室に幾つもの大きな機械が持ち込まれた。機械とは録音機とか集音機のことで、”子ども会議”の模様を収録に訪れたのだった。やって来たのは当時、大阪梅田の阪急百貨店の屋上にあった新日本放送であった。

 マイクロフォンを柱のように立てたり机の上に置いたり、収録準備をしていた。そして機械の調整を終わって、耳にレシーバーを付けた人が、”議長”の私に指を差して「議会を始め」の合図「Q」を出した。

 多分、顔は強張り、緊張しながら開会を宣言して議事がスムーズに進行したように思えた。この日の議題は「近づく夏休み」だった。各議員からは「夏休みになったら学校の北部を流れる淀川には危険なので近づかないようにしよう」とか、「家では親のお手伝いをしよう」など、”優等生”のような意見が積極的に提案され、すべて全員一致で可決され、収録は約1時間で終了。やり直しはされなかった。

 収録後、放送局の人が「放送は今収録した会議の様子を20分ぐらいに編集して、次の日曜日に流します」と告げて引き揚げていった。

 日曜日の朝、私は自宅のラジオの前に立ち刻一刻と迫る「放送」に緊張して待ち構えた。いよいよ放送開始。

 アナウンサーが「今日は大阪市立浦江小学校の子ども議会の様子を・・・」と紹介したのに続いて、私の声が電波に乗って初めてラジオから流れた。その声は・・・・・

 「ただいまからぎだいをはじめます。」と言ったのだった。私は肝が飛び出すほどびっくりした。”議会を始める”と当日言ったつもりが、あがっていて”議題を始める”になってしまった。幸い傍には誰もおらず、瞬間は胸をなでおろしたものの、”放送”なので誰かが気づいているだろうと思い、とてもはずかしい気持ちになったことを今も覚えている。

ヒゲの校長と奥田先生。私がわかりますか?

 中学2年生の頃、生徒会の顧問をされていた美術の担当でフランスの印象派の画家セザンヌの影響を受けたという奥田先生に「大淀中学校にも放送設備があればいいですね」と話したところ、その後、何か月かして先生が職員会議に計られた結果、”学校放送”の実現を生み、機材が導入されるに至った。先生の指導を受けて生徒会の役員が交代で昼休みの時間に、校内に音楽を流したり、生徒の呼び出しをしたり一生懸命設備を活用した。当時音楽はLPレコードをターンテーブルに乗せてかけていたが、私は数枚のレコードの中で「ペルシャの市場」が大好きで、当番に当たると何度もこの曲をかけた思い出がある。また学校では、各教室の黒板の上辺りに四角い箱形のスピーカーが設置され、国語の時間だったか、生徒全員が席に着き、スピーカーから流れ出るNHK第一放送の「次郎物語」に聞き入っていた。

トロイのヘレンのポスター

 余談になるが、この年、奥田先生が私ともう一人の友人と一緒に大阪梅田の御堂筋にあった映画館「梅田シネマ」に招待してくださったことがある。上映していたのは55年米・伊合作の”トロイのヘレン”、一人の女性をめぐってギリシャとトロイが10年も争うという物語のシネマスコープ。この映画に出演していた美しい女優、ロッサナ・ポデスタのにわかファンになったことと”映像”に対する興味を持つきっかけにもなったと思っている。


HP委員追記:今月号から石井孝和君の「思い出を綴る」を連載します。回数は未定ですが、中学時代、高校時代、社会人になってなど長期にわたる楽しい連載になりそうです。ご期待下さい。