同期会
2011年6月1日
昔から京都の伏見と並んで酒造りが盛んな兵庫の「灘」。
今回の兵庫市岡歩こう会はそんな灘の酒蔵を巡る企画です。江戸時代には伏見、伊丹、灘の酒は「上方の下り酒」と言い、上質の酒として珍重されました。「下らない物」という時の「下らない」はこの「下り酒」からといわれます。(どうでも良い下らない話)
灘は、「灘五郷」と言われますが、それは西郷、御影、魚崎、西宮、今津を言います。今回は西郷から御影、魚崎の各郷の主だった酒造会社と、悲恋伝説の処女(おとめ)塚(づか)を訪ねる計画です。
灘の酒造会社は16年前の「阪神淡路大震災」で被災し、酒蔵の倒壊等、生産設備に大きな被害を受け、小さな酒蔵では再起をあきらめたところも出るほどの状況から再起を遂げてきました。神戸に住むものにとって今年の東北関東大震災がそのことと重なって複雑な思いですが、こんな時こそ関西が元気をださなければとの思いからの企画です。
4月17日、前日までの大雨と打って変わり、気持ちよく晴れて、少し肌寒いくらいです。阪神電鉄大石駅に午前9時30分集合。約50名の同窓生が集まりました。中には旧制中学卒の大先輩のお顔も多数見えます。12期生も末廣、吉岡、駒崎、古藤、久保田、段中、伊東、岸川、島田、畠平の各氏、畠平氏は夫妻での参加です。ちなみに今回の参加で最多は高13期の11名、次が12期の10名、3番目が旧制42期の7名でした。
遅れて来た人を少し待って、9時45分出発。10分ほどで一番目の訪問先「沢の鶴」に到着。開館時間は10時と言うことで、まだ門前の掃除中。黒板塀の中から遅咲きの桜が満開の枝を伸ばしていました。
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川合兵治(4組)
群馬名物は「かかあ天下と空っ風」とはいうが
1日目 東武伊勢崎線羽生駅AM10:00集合。今回は新たに西條(3組)が参加。
泉は緊急事態発生で不参加。榎本、大石橋、山田、西條、川合の5人で決行。千葉―茨城―埼玉を踏破し、いよいよ水源のある群馬に入る。3月も終わりだというのに、寒冷前線が停滞していて、身を切るような寒さの中を出発。昼食をとった場所(熊谷市俵瀬)に地元出身、日本初の女医、女性運動家の荻野吟子(1851~1913)記念館(無料)があり、拝観する。この日の終着地「刀水橋(全長810m)」から宿への途中にある日本三大聖天のひとつで、埼玉の小日光とも言われている「妻沼聖天山」を参拝。平成15年から続いている修復中の本殿には、左甚五郎作といわれる「猿を救う鷲」の彫刻があるといわれているが、
修復費用基金として拝観料御随意にといわれ断念。夜は境内にある文豪田山花袋「残雪の家」の舞台となり、花袋も泊まったといわれる料亭「千代枡(0485-588-002)」にて恒例のうなぎ晩餐を満喫し、元気のいいかみさんのいるビジネス旅館「明治屋」へ。
2011年6月1日
1日目 これまで暑い夏はさけて歩いてきたが、全員が古希を迎える翌年中に水源地まで行くには、年内に250キロは消化しなければ、ということで熱中症を覚悟で決行することになった。梅雨の名残の雨乞いをするも甲斐なく、観測気温35度近く、さえぎるものが無い土手のうえは体感温度40度近い炎天下の中を、榎本が用意していた熱中症防止のアメをしゃぶったりして、全員無事にこの日の終着地前橋に到着。これまであった
河口からの距離表示がなくなり、定かではないがこの日22キロは踏破した。前橋駅前の天然温泉「ゆ~ゆ」で疲れを癒し、新前橋駅はマーキュリーホテル(5千500円朝食つきとは思えないほど良いホテル)近くの「静可(027-252-1314)」にて恒例のうなぎの晩餐をたのしむ。京の雅を思わせる内装に味も一段と良かった。続きを読む
2011年6月1日
昨年3月は市岡高校を卒業して50年を迎えた。我々12期生は卒業50周年を記念して卒業式に招待され、酒井八郎君が代表して卒業生に祝辞を述べ、50年前の思い出話や後輩に激励のエールを送ってくれた。
私が同窓会会長をしている母校の小学校から子供たちに戦争体験を語ってほしいとの要望があり、ここ数年12月初めに当時学童疎開を体験された先輩に学校で話をしてもらっている。丁度3年前、ある先輩が3月の卒業式を迎えるため、広島の疎開先から全員大阪に戻ってきたが、卒業式前日の空襲で学校も海老江の町も被害に遭い卒業式が出来なくなったままだと言う話をされた。
それを聞いた子供たちから一緒に卒業式をしましょうと話が出て、早速準備にとりかかった。 昔の名簿から呼びかけ、卒業証書の作成、式典の進行等々、学校と打ち合わせを重ね、63年ぶりの卒業式が実現した。
75歳になる児童27名が出席され、感激と涙の卒業式となった。新聞、テレビで大きく報道されたのでご存知の方もおられるでしょう。
子供の頃を思い返すと、4歳の頃は太平洋戦争の終盤で、家の前に1トン爆弾が落とされ、箒で掃いたように自宅も近所の家も無くなった。避難していた近所の防空壕から見た灰色の空は子供心に焼き付いて今も忘れることができない。そして、戦後はいつも腹をすかしていて、とかく「ひもじい」思い出だけが残っている。
人生70年、自分が育ってきた地元のことをボチボチ振り返ってみるのも良いかなーと筆を持った。
私が育った町「海老江」は子供の頃チャンバラごっこやかくれんぼをした原っぱにも家が建ち、町の様子は大きく変わってしまったが、大阪のド真ん中にありながら今でもどこか都会化の波に乗り遅れたような雰囲気と懐かしい風景を残す町である。
海老江は大正の末頃まで村中に川(井路川)が流れていた。明治37年生まれの父が若い頃現在の自宅前が川で、小舟に牛を乗せて隣村(浦江)にあった田んぼに行ったという話を何度か聞いたことがある。また子供の頃、父親と一緒に町を歩いていて「この筋は川であった」とか、「この道は昔から村の地下(ジゲ)道や」とかを聞いた思い出がある。今や井路川はすっかり埋め立てられ車が通れない狭い路地となり、古い民家はそのまま残っている。
| (写真説明) この写真は海老江が水郷の村であったという証左の写真です。2年前たまたま近所の方がアルバムにあったのを自宅まで持ってきてくれました。昨年の大阪歴博の「淀川100年展」にも出しました。母親が来た時は、昭和初期でこの川は埋まっていたと考える。父が浦江村の田んぼに小舟に牛を乗せて野ら仕事に行った川です。 |
2011年5月6日
2011年5月2日
母校の講堂(体育館)で行われた63期生の卒業式に出席しました。
その数70人、毎年30~40人だそうですから、約2倍。 卒業式の様子は
50年前とは変わり、送辞や答辞はなく、ビデオレターが上映さ れました。

母校卒業式後の玄関前にて
終わり近くに13期代表が祝辞を送って、近くのホテルの同窓会に臨みました。
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2011年5月1日
- 「米欧回覧実記」輪読会体験記 8組 塩野憲次
- 母校吹奏楽部OB・OGバンド演奏会が開かれました。
- 演奏会を聞いて 7組 張 志朗
- 「想い出すままに」(特別寄稿) 18期 高橋正憲
- 「市岡の森」でお花見がありました。
- 奈良市岡歩こう会のお知らせ(特別寄稿) 13期 中務敦行
- 第4、5回利根川 川歩き 4組 川合兵治
なお次号の6月号は、6月1日公開の予定です。
HP委員一同
2011年5月1日
12期の皆さま、こんにちは。8組の塩野です。「12期の広場」に枯れ木の賑わいを添えようと最近の新体験を綴ってみました。読んでいただければ幸いです。
先日、誘われて「特命全権大使-米欧回覧実記」を輪読する読書会に体験参加してきました。なかなかに興味ある内容だったのでここに少し紹介させていただこうと思い、筆をとりました。
実はこの読書会は、恩師の北村彰一先生が世話役の一人として参加されている会で、去る12期同窓会の折、ご臨席いただいていた先生から一緒に参加しないかとのお誘いを受けたものです。
右の手前から3人目が北村彰一先生です。
さてこの時代がかった書名をご覧になって“ああ、あの本”と思い当たる方はどれくらいいらっしゃるだろう。先ずはこの本の紹介から始めましょう。
時は明治初年、草創いまだ屋台骨も定まらぬ明治新政府が、条約改正の下交渉と近代国家日本の指針を求めて、右大臣岩倉具視を正使とする一大使節団を米欧12ケ国に派遣したという歴史上の事件は、覚えておられる方も多いと存じます。この使節団には岩倉具視のほか副使として木戸孝充、大久保利通、伊藤博文ほか維新の立役者がずらり、留守政府がカラになるのではと思われるほど随行し、団員には20~30才代の少壮気鋭の人士60余名のほか、津田梅子、中江兆民、団琢磨など、後に各界で指導者として活躍することになる留学生を帯同させていた。
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2月20日、阿倍野区民センタ-大ホ-ルで「大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンド」の第3回定期演奏会がありました。
その1週間前くらいに4組の内田君から電話があり一緒にいかないかとのお誘い。時間も空いていたので行くことにし、久しぶりに生演奏を聴くことになりました。


当日、開場時間1時30分の少し前に会場に着いたのですが、すでにかなりの観客が入り口に並んでいて「人気があるんだ」と感心しながら内田君を待ちました。受付、場内案内など演奏会の運営はOB・OG自らがてきぱきとこなしており、かなり気合いが入っている様子。
観客はほとんどが市岡高校ゆかりの人達のようで、吹奏楽部のOB・OGは勿論のこと、母校卒業生、その家族の人達。また卒業生の友人、会場周辺の人など一般の人と思える観客もおられたようです。小学生からお年寄りまで(自分の事は棚に上げて)多様で、会場の雰囲気はまさにアットホ-ムな暖かさ。内田君は開演の15分前に来たのですが、そのころには600人収容の会場の約8割がたが埋まっていました。
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「ひとつの曲をきっちりと演奏し終えた時の充実感、満足感、これに勝るものは無い。もう一度この充実感を味わいたくてOBバンドに参加しました。」
2007年夏、所謂還暦の祝いに家族が楽器(トロンボーン)をプレゼントしてくれたのですが、40年余りもブランクがあるのに、楽器を貰っても今更1人でどうするのと思っていたら、OBバンドを結成するとの連絡があり、何度も何度も躊躇った末に弁天町まで出てきました。その後同期の積川(旧姓土川 フルート)君も練習見学に着て「虫が湧いた」と即楽器を購入、入団してきました。楽器をプレゼント何ぞと大胆なことをするのにはこんな伏線がありました。
1993年秋、後輩から現役生徒と合同で学外演奏会をするが参加しませんかと、この時も散々躊躇った末に、楽器も無いのに思い切って参加することにしました。冒頭の言葉のように、又まだ小さかった子供たちにお父さんの頑張っている後姿でも見てもらおうとの想いからで、現役生から楽器を借りて練習に臨みました。半年余りの練習後本番に出演しそれなりの充実感を味わいましたが、30年のブランクの後この短期間の練習では充分な音が出る筈も無く、「あー、もっと練習したかった!」で終わりました。
1967年春、1浪後希望していた学科に入学して、大学でもトップクラスにいた吹奏学部か オーケストラに入ってオーボエを吹きたいとずっと思っていたのが、どちらかを決め兼ねている内に70年の嵐の真っ只中に入り以後長い間音楽とは無縁の生活になりました。
1963年、当時市岡高校では2年生の秋の文化祭が終われば受験勉強のためクラブ活動は終了、部活から引退することになっていました。1年生の文化祭が終わって、何故か退部する部員が続出し、卒業アルバムのように残った部員は僅かになり、この人数で一体何が出来るねんという有様になりました。音楽室を共有するコーラス部の後で細々と活動を続けることになります。

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- 「30期同窓会のご報告」について
笠井康正さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
吉川幸男さんより: - 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
吉川初恵さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより:








