お知らせ

0年

東京12期会の有志新年会


投稿 杲田 慶子(2組)

 平成23年2月22日(火)17時30分から東京は京橋の「美々卯(みみう)」にて、市岡東京12期会の男性8名、女性4名が少しピント外れ気味の新年会に集いました。お正月が少し遠去かりつつあった頃に、又心をお正月に戻して貰えてちょっぴり得をした気分・・・・。

 美々卯のあとはいつも通りの銀座でカラオケへ(男性6、女性4) そして次回を楽しみにし乍ら機嫌よく散会。当日は前日までの厳しく長い冬から一転、四月並の暖かく穏やかな日となり、幹事さん方の日頃の行いの賜と感謝いたしました。以上が簡単なご報告です。

 報告の記を書くように、と榎本さんから頼まれ「日記みたいなのでいいから・・・」との事。日記ならこれで終わり・・・・ですが、あんまり簡単すぎかなぁ~と、“12期”の感想を書いてみようと思います。

 昭和16、17年生まれの私達は、特殊に特殊と思える時代に生まれて生きてきた気がします。
子供と大人の中間あたりの3年間を、これも今思うと色んな意味で特殊だった気がします。市岡高校で過ごし、東京の12期会に関しては、大阪からの風に吹かれて現在関東の地に根を下ろしたタンポポみたいな“縁”と、当然小人数でまとまりが良いことと、何故かほゞ全員優しかったり大人しかったりと、かなり規格品揃い。ですから会に集うとすぐ壷の中にドボン!と鎮り込んで了います。(これは東京・大阪同じですね)その居心地の良さといったら・・・・。日頃、無口で大人しい私が(ホントですよ!)一番タガが外れ大ハシャギして了うのは、その居心地の良さにある気がしています。
 

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豚汁会に7名が参加しました。

 3月6日のお昼12時から恒例の「豚汁会」が母校の「創立100周年記念会館2階」で開催されました。(3月号の「お誘い」文を参照してください。)

 今年の参加者は旧制中学の大先輩を初め、63期卒業(つい先日卒業したばかり)の後輩までの70数名で、全学同窓会佐藤会長の挨拶とビ-ルやジュ-スによる乾杯からなごやかに始まりました。

 12期の参加者は酒井八郎、末廣訂、田端建機、岸川常正、平松英夫、塩野憲次の各君、張志朗の7名。昨年の参加者を下回り、少し寂しい感じ。(3月号のお誘い文掲載が3月1日掲載で時間的余裕がなかったせいか? 反省・・ )

 まずは「伝統の豚汁を」と学校食堂で準備していただいた熱々の豚汁にしたづつみをうち、それからビ-ル、お酒に「おでん」。はたまたおにぎりにお寿司と、おおいに食べ、飲み、かつお喋りを楽しみました。

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3月号目次と次回更新についてのご案内

3月1日更新の12期のひろば3月号は以下のようなラインナップです。
  1. 豚汁会のご案内 (川村 浩一 8組)
  2. 【連載】第1回利根川 川歩き-その2- (川合 兵治 4組)
  3. 五・七・五 つれづれに (北浦 昌子 (旧姓 小寺) 2組)
  4. 人生の分岐点 (圓尾 博一 6組)
  5. めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~ (佐藤 裕久 6組)

次回の更新は4月1日の予定です。
4月号のアップをどうぞお楽しみに♪ぜひご覧下さい!

12期のひろばは、毎月1日に新しい記事をアップいたします。
どうぞコメント機能もご活用頂き、12期のコミュニケーションの場としてご利用下さい。

豚汁会へのお誘い

 お元気ですか!市岡高校同窓会の恒例行事、豚汁会で全員集合しましょう。毎年3月第1日曜に母校同窓会館で行われています。
 

 今年は下記の要領で開催されます。主催は全学の同窓会です。したがって旧制中学の大先輩から若い後輩達が集います。とは云っても若い後輩の参加は非常に少ないのが実状。
 

 日 時:  3月6日(日)正午より
 場 所:  母校同窓会館(昔の正門あたりにあります。)
 会 費:  3千円


ちなみに昨年は12期生が11人集まりました。下の写真は撮影が酒井君(4組)で、手前から塩野君(8組)、川村(8組)、末広君(8組)、岸川君(8組)、武田君(6組)、古藤さん(4組)、田端君(7組)、辻君(8組)、三井君(4組)それに写真の右下に足だけ見えるのが張君(7組)です。辻君は東京(or広島)から駆け付けてくれました。ありがとうございました。おしゃべりのほか、かわいい在校生たちの吹奏楽部の演奏も楽しませてもらいました。(みんなが一つの方向を向いているのは演奏を聴いているからです。)

 2次会:話し足らずに弁天町駅近くの喫茶店でおしゃべりをつづけました。

 今年は大阪の正規の同窓会のない年です。もっとにぎやかにやりましょう!

 12期の皆さん、お集まり下さい。お待ちしています。
 

 いま読み返している牧水歌集で「友をおもふ歌」を発見しました。
 

 逢ひてただ微笑みかはしうなづかば足りむ逢なり逢はざらめやも
 何事のあるとなけれど逢はざればこころはかわく逢はざらめやも

川村 浩一(HP委員) 記

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第1回利根川 川歩き(平成19年10月30日~11月1日)その2

投稿者 川合兵治(4組)
その2:中州に爺さん(80歳)天使が現われる

 12キロといえば、今日のピーク時の歩行速度、時速約6キロでも2時間は掛かる距離だ。ましてや、その時はもう疲労困憊していて、時速5キロも出ない状況。小見川橋につく頃にはとっぷりと日が暮れているだろう。でも、とにかく歩かねば、まわりを葦と少々の畑地にはさまれた中洲では他の手段は選べない。と、その時、「もうあかん!血糖値が下がりすぎてしもたわ」と、突然、榎本がいった。「なんやそれ!」よく聞けば、実は血糖値が高いため、血糖値を下げる薬を常用していて、今朝も飲んだという。ところが、もともと運動をすれば、薬を飲まなくても血糖値は下がるものであるのに、その上に薬を飲んだために、下がりすぎたのだという。これはやばい!下手すれば命に関わる!何でもいいから食べるものがあればいいというが、3人のリュックには少しでも荷を軽くするために食べるものは一切入っておらず、まわりに人家はおろか人気もない。こんな中州ではタクシーはのぞめない、救急車を呼ぶしかないか・・・

 (またもや)と、その時、小さなエンジンの音がして、どこからともなく一台の白い軽トラックが堤防の脇を走ってくるのが川合の目に入った。それまで、足を引きずり何とか歩いていた川合が、脱兎のごとく走り出し、堤防を転がり落ちるように下りて、走ってくる軽トラックの前に両手を広げ、「助けてください!」と叫びながら立ちはだかった。トラックが止まってくれた。運転していたのは80歳の爺さん。事情を話すと快く3人を乗せてくれることを了解してくれた。ただし、軽トラックであるため乗れるのは運転手を含めて2人だけ。榎本は助手席でいいが、山田と川合は荷台に乗せるが違反になるため、警察の目もあるので小見川の町中まではいけないという。もちろん異論はございません・・・正に、地獄で天使だった!

 町に入った3人は、真っ先に目についたよろずや屋に飛び込み、榎本はそこらにあった食べ物を餓鬼のように頬張る―助かった!

 教訓:血糖値を下げる薬を飲んでいる人へ。運動する時は薬を飲まないこと!

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五・七・五 つれづれに


北浦 昌子 (旧姓 小寺)( 2組 )

 市岡高校「12期の広場」開設、おめでとうございます。そして御尽力いただいた榎本様はじめ関係者の方々にお礼申し上げます。

 HP委員の張志朗さまより「貯まった川柳の中からいくつか投稿してもらえないか」と電話をいただいたので恥知らずのおバカさんが調子に乗って詠みました。

 笑ってください。

 

 傍線部は句会当日の「お題」の文字です。この一文字を入れるのが結構私には大変でした。

 まず自分の句の中で真面目に気に入っている句。

  • 人と会い 笑うことこそ の神
  • 今日も無事 沈む夕日に ありがとう
  • 受験生 昨日のは 今日の友
  • 優しさに 勝るとりえは なくて良い
  • みごと ひとつ晴れても またひとつ
  • 駄目もとで 値切ってみるのが 大阪人
  • ちの タクシ-あおる 不況風

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人生の分岐点


圓尾 博一(3年6組)

 今年4月で古稀を迎える。70年は短いような長いような。しかしその間の時々に、右に行くか左に進むか、自分なりに選択して歩んできたが、誰しもそれは同じであろう。そのチョイスが正しかったかどうか、それは自分自身にもわからない。

 市岡高校から大学へ進学するとき、理科系をチョイスした。私の身近な友人は「君は文科系にむいているのになぜ?」とその時アドバイスしてくれたが、家が貧しかったので、その当時理科系に進んだ方が、初任給が数千円高かったという、何ともミミッチィ条件が私の頭を縛っていたように思う。しかしその友人のアドバイスは、至言であることが後々わかった。

 私は大学で応用化学のコ-スへ進み、無事卒業して、東洋リノリュ-ムという会社に就職、研究室(当時ブ-ム)へ配属された。この会社はその名前の通り、主力商品としてリノリゥ-ムを製造していた。現在は全く死に絶えているが、今から50年ぐらい前は、洋式建築の床材として、例えば病院や図書館、事務所などに使用されていた。変わった例としては宝塚歌劇場の舞台に貼られたりした。
 

 この記事の最下部に圓尾 博一さん(3年6組)の個展の案内がございます。
([続きを読む]をクリックして全文をご覧下さい。)

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めぐりあわせ?~仙台に住んで50年~


投稿 6組佐藤裕久記

 今年(2011年)1月3日に、同期8組川村浩一さんから、また、2月2日に、7組小原靖夫さんから、市岡12期ホームページ:「12期の広場」に投稿した小生の記事にコメントを頂いていましたのに気がつきませんで、大変失礼致しました。(なお、小生が投稿したというより、正確には、幹事:榎本さんへの返信メールに添付したPPTファイルを、榎本さんからの指示により投稿する羽目になったということです。)川村さんのご質問に答えられるかどうか怪しげですが、小生がどんな研究をしてきたか、斜めから眺めたような思い出を記してお茶を濁させて頂きたいと思います。

 なお、小原さんとはこれまで話した記憶が小生にはないような気がしています。その事とあまり関係がないかもしれませんが、小原さんの現住所と番地のみ異なる南足柄市塚原1297-1に数年前まで住んでいた大学時代の小生の友人(Nさん)がいます。現在、Nさんは仙台近くの塩釜市に住んでいて、ギター演奏に浸っていますが、年に数回は会っています。

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市岡高等学校12期同窓会を振り返る


上野 裕通(3年7組)

 市岡高等学校を卒業して25年目、私たちが42歳~43歳の年に、第1回の12期同窓会が、代表幹事の方々を中心に企画されました。当時、案内状をいただいた私は、懐かしい友だちの顔を思い浮かべ、1年生の時、2年生の時、3年生の時のクラスメイトを当時の写真や卒業アルバムで確かめたものでした。「25年の歳月を経て、昔の面影を残しておられるだろうか」と興味津々の思いで、出席の返信を出したことを思い起こします。

 あの時から、また、25年が過ぎ、今はもう、68歳になってしまいました。この25年間に12期同窓会が9回開催されました。毎回参加させていただいていますが、みんなとの出会いのほかにもう一つの楽しみがありました。毎回、会がお開きになるときに即興の短歌を詠まれます。場の雰囲気をとらえたすぐれた短歌に出合えることが楽しみの一つです。
 

 この「12期の広場」は「12期同窓会の25年」の延長線上にあります。上野裕通君の文章(卒業50周年記念文集収録)はその足跡を心暖かくまとめてくれています。一部加筆していただきここに再掲します。

-  HP委員 記 -

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卒業50周年記念文集“みをつくし”を読んで

3年2組 吉岡 佳子(旧姓 大澤)
 

 我が家の小さな鉢植えの白梅の花も散り、桜の蕾も赤くふくらみ春の訪れを告げてくれています。

 先日の同期会では大変お世話になり、ありがとうございました。同期会の席だけでは時間的にもなかなか深いお話ができず、ごく普通の会話に終始してきた私ですが、 “みをつくし”を楽しく拝読させて頂き、皆さんの人生の一端までを垣間見れた想いで、大変嬉しく思っています。それならば私も投稿して卒業後の道のりを共に語り合いたかったと後悔しつつペンを取りました。

幼い頃、甘えん坊で泣き虫だった私は5人兄姉の末っ子として生まれました。両親の溺愛のもと、何不自由なく育ち、結果、依頼心が強く、我がまま。高校時代、食欲モリモリの太っちょな、どうしようもない少女でした。高校入学当初、母は私を医者に(早く死去しました身内が町医者だった影響か?)したいと思って、家庭教師までつけて、教育熱心だったのですが、一向に成績が上がらず、落ちこぼれの私に母の夢は、はかなくも消え去りました。

 卒業間近になりどんどん就職先が決まっていく仲間たちに、私は劣等感を抱いていました。就職先も決まらず、先生方には頭の痛い生徒だったと思います。ゴメンナサイ。

 卒業して一年余り経ったある日、「声が綺麗」と言われたので、姿形の見えない電話交換手になろうと決心し、会話の仕方、ボイストレ-ニング等習い、その資格を取得しました。チャンスが来ました。たまたま見た新聞の「寿屋」(現在のサントリ-)の電話交換手募集(有資格者)の文字が目に入りました。早速応募しました。

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