お知らせ

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第7回利根川 川歩き(平成22年7月10~11日)

川合兵治(4組)
人情厚い群馬の人たち
 
1日目 これまで暑い夏はさけて歩いてきたが、全員が古希を迎える翌年中に水源地まで行くには、年内に250キロは消化しなければ、ということで熱中症を覚悟で決行することになった。梅雨の名残の雨乞いをするも甲斐なく、観測気温35度近く、さえぎるものが無い土手のうえは体感温度40度近い炎天下の中を、榎本が用意していた熱中症防止のアメをしゃぶったりして、全員無事にこの日の終着地前橋に到着。これまであった河口からの距離表示がなくなり、定かではないがこの日22キロは踏破した。前橋駅前の天然温泉「ゆ~ゆ」で疲れを癒し、新前橋駅はマーキュリーホテル(5千500円朝食つきとは思えないほど良いホテル)近くの「静可(027-252-1314)」にて恒例のうなぎの晩餐をたのしむ。京の雅を思わせる内装に味も一段と良かった。
 

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我が故郷、海老江の話・あれこれ

8組   末廣 訂

 昨年3月は市岡高校を卒業して50年を迎えた。我々12期生は卒業50周年を記念して卒業式に招待され、酒井八郎君が代表して卒業生に祝辞を述べ、50年前の思い出話や後輩に激励のエールを送ってくれた。

 私が同窓会会長をしている母校の小学校から子供たちに戦争体験を語ってほしいとの要望があり、ここ数年12月初めに当時学童疎開を体験された先輩に学校で話をしてもらっている。丁度3年前、ある先輩が3月の卒業式を迎えるため、広島の疎開先から全員大阪に戻ってきたが、卒業式前日の空襲で学校も海老江の町も被害に遭い卒業式が出来なくなったままだと言う話をされた。 

 それを聞いた子供たちから一緒に卒業式をしましょうと話が出て、早速準備にとりかかった。 昔の名簿から呼びかけ、卒業証書の作成、式典の進行等々、学校と打ち合わせを重ね、63年ぶりの卒業式が実現した。

 75歳になる児童27名が出席され、感激と涙の卒業式となった。新聞、テレビで大きく報道されたのでご存知の方もおられるでしょう。

 子供の頃を思い返すと、4歳の頃は太平洋戦争の終盤で、家の前に1トン爆弾が落とされ、箒で掃いたように自宅も近所の家も無くなった。避難していた近所の防空壕から見た灰色の空は子供心に焼き付いて今も忘れることができない。そして、戦後はいつも腹をすかしていて、とかく「ひもじい」思い出だけが残っている。

 人生70年、自分が育ってきた地元のことをボチボチ振り返ってみるのも良いかなーと筆を持った。

 私が育った町「海老江」は子供の頃チャンバラごっこやかくれんぼをした原っぱにも家が建ち、町の様子は大きく変わってしまったが、大阪のド真ん中にありながら今でもどこか都会化の波に乗り遅れたような雰囲気と懐かしい風景を残す町である。

 海老江は大正の末頃まで村中に川(井路川)が流れていた。明治37年生まれの父が若い頃現在の自宅前が川で、小舟に牛を乗せて隣村(浦江)にあった田んぼに行ったという話を何度か聞いたことがある。また子供の頃、父親と一緒に町を歩いていて「この筋は川であった」とか、「この道は昔から村の地下(ジゲ)道や」とかを聞いた思い出がある。今や井路川はすっかり埋め立てられ車が通れない狭い路地となり、古い民家はそのまま残っている。
 

水郷の村 海老江 (写真説明)
この写真は海老江が水郷の村であったという証左の写真です。2年前たまたま近所の方がアルバムにあったのを自宅まで持ってきてくれました。昨年の大阪歴博の「淀川100年展」にも出しました。母親が来た時は、昭和初期でこの川は埋まっていたと考える。父が浦江村の田んぼに小舟に牛を乗せて野ら仕事に行った川です。
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「米欧回覧実記」輪読会体験記

8組  塩野憲次

 12期の皆さま、こんにちは。8組の塩野です。「12期の広場」に枯れ木の賑わいを添えようと最近の新体験を綴ってみました。読んでいただければ幸いです。

 先日、誘われて「特命全権大使-米欧回覧実記」を輪読する読書会に体験参加してきました。なかなかに興味ある内容だったのでここに少し紹介させていただこうと思い、筆をとりました。

 実はこの読書会は、恩師の北村彰一先生が世話役の一人として参加されている会で、去る12期同窓会の折、ご臨席いただいていた先生から一緒に参加しないかとのお誘いを受けたものです。

右の手前から3人目が北村彰一先生です。
 

 さてこの時代がかった書名をご覧になって“ああ、あの本”と思い当たる方はどれくらいいらっしゃるだろう。先ずはこの本の紹介から始めましょう。

 時は明治初年、草創いまだ屋台骨も定まらぬ明治新政府が、条約改正の下交渉と近代国家日本の指針を求めて、右大臣岩倉具視を正使とする一大使節団を米欧12ケ国に派遣したという歴史上の事件は、覚えておられる方も多いと存じます。この使節団には岩倉具視のほか副使として木戸孝充、大久保利通、伊藤博文ほか維新の立役者がずらり、留守政府がカラになるのではと思われるほど随行し、団員には20~30才代の少壮気鋭の人士60余名のほか、津田梅子、中江兆民、団琢磨など、後に各界で指導者として活躍することになる留学生を帯同させていた。

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母校吹奏楽部OB・OGバンド演奏会 「演奏会を聞いて」

母校吹奏楽部OB・OGバンド第3回定期演奏会がありました。

 2月20日、阿倍野区民センタ-大ホ-ルで「大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンド」の第3回定期演奏会がありました。

 その1週間前くらいに4組の内田君から電話があり一緒にいかないかとのお誘い。時間も空いていたので行くことにし、久しぶりに生演奏を聴くことになりました。


 当日、開場時間1時30分の少し前に会場に着いたのですが、すでにかなりの観客が入り口に並んでいて「人気があるんだ」と感心しながら内田君を待ちました。受付、場内案内など演奏会の運営はOB・OG自らがてきぱきとこなしており、かなり気合いが入っている様子。

 観客はほとんどが市岡高校ゆかりの人達のようで、吹奏楽部のOB・OGは勿論のこと、母校卒業生、その家族の人達。また卒業生の友人、会場周辺の人など一般の人と思える観客もおられたようです。小学生からお年寄りまで(自分の事は棚に上げて)多様で、会場の雰囲気はまさにアットホ-ムな暖かさ。内田君は開演の15分前に来たのですが、そのころには600人収容の会場の約8割がたが埋まっていました。

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母校吹奏楽部OB・OGバンド演奏会 「想い出すままに」(特別寄稿) 

想い出すままに (12期 張先輩のご依頼を受けて)
18期 高橋正憲

 「ひとつの曲をきっちりと演奏し終えた時の充実感、満足感、これに勝るものは無い。もう一度この充実感を味わいたくてOBバンドに参加しました。」

 2007年夏、所謂還暦の祝いに家族が楽器(トロンボーン)をプレゼントしてくれたのですが、40年余りもブランクがあるのに、楽器を貰っても今更1人でどうするのと思っていたら、OBバンドを結成するとの連絡があり、何度も何度も躊躇った末に弁天町まで出てきました。その後同期の積川(旧姓土川 フルート)君も練習見学に着て「虫が湧いた」と即楽器を購入、入団してきました。楽器をプレゼント何ぞと大胆なことをするのにはこんな伏線がありました。

 1993年秋、後輩から現役生徒と合同で学外演奏会をするが参加しませんかと、この時も散々躊躇った末に、楽器も無いのに思い切って参加することにしました。冒頭の言葉のように、又まだ小さかった子供たちにお父さんの頑張っている後姿でも見てもらおうとの想いからで、現役生から楽器を借りて練習に臨みました。半年余りの練習後本番に出演しそれなりの充実感を味わいましたが、30年のブランクの後この短期間の練習では充分な音が出る筈も無く、「あー、もっと練習したかった!」で終わりました。

 1967年春、1浪後希望していた学科に入学して、大学でもトップクラスにいた吹奏学部か オーケストラに入ってオーボエを吹きたいとずっと思っていたのが、どちらかを決め兼ねている内に70年の嵐の真っ只中に入り以後長い間音楽とは無縁の生活になりました。

 1963年、当時市岡高校では2年生の秋の文化祭が終われば受験勉強のためクラブ活動は終了、部活から引退することになっていました。1年生の文化祭が終わって、何故か退部する部員が続出し、卒業アルバムのように残った部員は僅かになり、この人数で一体何が出来るねんという有様になりました。音楽室を共有するコーラス部の後で細々と活動を続けることになります。
 


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「市岡の森」でお花見の会が開かれました。

 4月10日、午前11時から舞州「市岡の森」で此花市岡会主催の「お花見の会」が開かれました。絶好の「花見日和」、風は微風、花はほぼ満開。恩師の先生方、諸先輩、同窓生はじめ後輩のみなさんほか市岡ゆかりの人達を含め約200人程度(私の勝手な見立て)が集まりました。

 12期同窓生は代表幹事の酒井さんはじめ20名が参加しました。(顔ぶれは写真をご覧ください。)

 遠来の友は村木雅章さん、駒崎雅哉さん、柏木赫子さんの3名です。

 三重県松阪在住の村木さんは現在癌闘病中ですが、元気一杯。酒井さんの家に前泊しての参加で、食べること飲むことに割り勘負けなし、冗談を連発しては私達を笑わせてくれました。柏木さんも三重県(津市)からの参加で、ご本人は「遠来なんておかしい。津は近いのよ!」と笑顔で話しておられましたが、察するに相当な早起きをされての参加のようで、ありがたいことです。

 駒崎さんは九州長崎県生月島で悠々自適の「にわか漁師」(失礼な言い方でゴメン)をしているそうです。前日所用のため大阪の自宅に戻ってこられていての参加です。先日5kgの高級魚「くえ」を(九州地方では「あら」というそうです。)釣り上げたそうで、キロ1万円もする魚を仲間内で食べてしまって「もったいないことをした」と笑っていました。


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奈良市岡歩こう会へのお誘い

伊勢本街道と室生古道ハイキングが行われます。

恒例の「奈良市岡歩こう会の例会」の案内が届きました。

日時は5月22日で、伊勢本街道と室生古道約7Kmを歩く予定です。この歩こう会には毎回12期同窓生有志が参加しており、今年も多くの先輩、後輩ともども新緑の中、ハイキングを楽しみたいと思います。12期の皆さんふるってご参加下さい。

以下にそのお知らせを掲載します。また高校13期の中務敦行さんからの「奈良市岡歩こう会の紹介文」を掲載します。

奈良市岡歩こう会のお知らせ
春の歩こう会は奈良・宇陀の伊勢本街道と
室生古道を歩きます。
少しアップダウンがありますが、約7キロ
の道のりです。古い民家や山林、田んぼや
畑を見ながらの散策です。
お誘い合わせに上多数ご参加ください。お
待ちしています。
日時 5月22日(日)
集合 近鉄大阪線榛原駅南口・午前10時 
近鉄上本町8:40発青山町行き急行、
鶴橋発9:54、大和八木9:34発
バスの時間の都合上時間厳守のこと
費用 バス代往復640円、
参加費500円(写真、通信費)
連絡先 倉光0743-54-1169 中務090-8751-9888
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第4回利根川 川歩き(平成21年3月21~23日)

川合兵治(4組)
帰路の温泉詣でが恒例に

 1日目 JR常磐線天王台駅午前10時集合。榎本が復帰し、泉、大石橋、山田、川合の5人で決行。駅近辺のコンビニで昼食を買い、バスで前回終着地点近くまで行く。ピーカンに恵まれ、堤防一面に咲き乱れる菜の花を観賞しながら快適に距離を伸ばし、午後3時過ぎに河口から100キロの地点を通過。河口から104.5キロの地点に架かる「芽吹大橋(全長540m)」でバスに乗り、宿泊地となる東武野田線愛宕駅(「キッコーマン」本社工場のある野田駅のひと駅先―柏駅から)に向かう。この日の宿は「喜久水旅館」。旅館というのはおこがましく、名前で選んだのが間違いだった、ただ寝れるだけの旅館。 それでも、近くの「キノエネ醤油」派の「うなぎの山口(04-7122-4412)」での晩餐は言うことなし。

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第5回利根川 川歩き(平成21年9月30日~10月1日)

川合兵治(4組)
マドンナが参加!

 1日目 前回終着地点最寄りの東武野田線川間駅にAM9:30に集合。そこに泉の山仲間の奥方と称されるマドンナが!聞き及べば、幼少の頃東武日光線の栗橋近辺に住んでおられ、よく利根川の土手での電車を眺めた思い出があり、われらの利根川歩きの話を泉がし、丁度今回その周辺に差し掛かるのを聞いて、懐かしくなって参加されたということ。マドンナは遠泳の選手をされているとのことで、その健脚ぶりは男も顔負け。それにしても、還暦を過ぎたとはいえまだおとろえていない?男5人(泉、榎本、大石橋、山田、川合)の集団に単身参加されるとは!いかに泉が信用されているかということの証だと言えるだろう。家を出た朝6時ごろはかなりの雨が降っていたが、マドンナ効果もあったのか、雨は上がり、江戸川との分流地点「関宿閘門」を出発、マドンナ待望の東武日光線の電車を土手から眺め、竹下登総理大臣の「ふるさと創生」1億円で建てたという「加須未来館」(開店休業状態)のあるこの日の終着地点(河口から約135キロ)にPM3:00ごろ到着。そこから市内循環バス(100円)でわれら男は日帰り温泉「いなほの湯」で途中下車、マドンナは帰路の東武伊勢崎線加須駅へ直行。何事も起こらずマドンナと無事お別れ...。夜はその日の宿、加須第一ホテル(思えば壮行会をした犬吠埼京成ホテルから久しぶりの近代的設備の宿)近隣の「料亭若葉(0480-66-0523)」にて、恒例のうなぎ晩餐会を満喫する。           

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震災お見舞い申しあげます。

 まずはじめに、東日本大震災でおなくなりになられた方々のご冥福を心からお祈り申しあげます。

 東日本大震災の渦中におられる東北、関東地方在住の12期同窓生のみなさんへ心からのお見舞いを申しあげます。

 地震発生時、関西地方でも震度3のゆれを経験しました。そのゆれは記憶にない、実に「不気味な」長周期地震のゆれで、震源付近での大被害を予感させるものではありましたが、まさか東北と関東一円で今日のような大被害を引き起したものとは夢にも思っていませんでした。

 遠く関西にいる私達は、新聞、テレビの報道を通じてしか、その災害の実状を知るすべがありませんが、大震災の壊滅的状況と、いまだに拡大する震災被害のむごさや酷さに身がすくみ、胸がつぶれる思いで一杯です。 (さらに…)