12期の広場

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絵手紙の一年

 1年間におよぶ上原澄子さんの絵手紙を、ここに再掲します。昨年の9月号以来の折々の絵手紙とそれについての同窓生のコメントをご覧下さい。

初回(平成27年9月号)の
「酔芙蓉」です。
2回目(平成27年10月号)の
「秋の花かご」です。


挿し絵に「絵手紙」の提案をしたいきさつ
8組 榎本 進明

左から 村崎君、上原さん、段中さん
 上原さんの絵手紙を知ったのは、平成17年7月21日「東京12期会」の箱根小旅行での「近況報告」で村崎君が「絵手紙」を始めたと話されたときでした。「私もやっている」と上原さん、20年来の絵手紙先輩でした。その後の歓談と「絵手紙」のやり取りで、村崎君はめきめき腕を磨かれて、今やお二人は東京の双璧となっています。(詳細は「12期の広場」平成23年4月号をご覧ください。作品もあります。すごいなぁと思いました)
 それを「ラインアップ」の挿し絵にすれば季節感も出ていいのではないかとHP委員に提案したのが昨年(平成27年7月)でした。本人の了解を得ないままに話は進みました。決定後、上原さんにお電話を差し上げて趣旨説明をしたところ快く引き受けていただき、ホッと胸をなでおろしました。9月号を皮切りに1年という約束でした。
 筆者がHP委員に提案したもう一つのきっかけは、彼女のテニス部での活躍がこの「広場」に載ったからです。それは、平成25年の新年号で「HP委員から」の紹介で素晴らしい成績だったと知ったからです。これも「すごいなぁ」と感じ入りました。このお話もいつか彼女から広場に投稿していただきたいな、と個人的には思っています。
 毎号挿し絵として「絵手紙」が載るようになって上原さんのお孫さんまで「12期の広場」を楽しみに開くようになったと聞いています。また、今年の3月号のラインアップで校内マラソンの成績を知ったお孫さんは「おばあちゃん、すごいね」と言ってくれたそうです。筆者も3度目の「すごいなぁ」でした。絵手紙の挿し絵の効果は他にもあるかもしれません。1年で終えるのは寂しい気もしますが、毎月となると大変ですね。
 HP委員の方々はこの大変な作業を、毎月、平成23年1月から延々5年7か月続けていらっしゃいます。12期以外の人々からのアクセスもあって「継続は力なり」を示してくださっています。ここにHP委員の方々に感謝を申し上げ、読者の我々も記事の依頼があれば、快く受託するようにしたいと考えています。

3回目(平成27年11月号)の
「もみじとセキレイ」です。
4回目(平成27年12月号)
「石蕗(つわぶき)」です。


5回目(平成28年 1月号)は
新年らしく雪の「富士山」。
6回目(平成28年 2月号)の
「やぶ椿」。


絵手紙が終わるそうですね。
5組   段中 文子
 
 12期の広場を拝見していて巻頭文(ラインアップ)と共に上原澄子さんの描かれる絵手紙を毎月、楽しみにしています。懐かしい昔を思い出させる素敵な絵に添えられたお手紙とともに心に残ります。そんな絵手紙の掲載が終わると聞いて、これを機会に1年間の絵手紙を又、ながめて見ました。
 初登場は昨年の9月号でしたね。美しい酔芙蓉の絵手紙に目を瞠りました。家のすぐ近くに、大きな酔芙蓉の木があり、沢山の花を付けていますが、真白な花が夕方にはピンクの色に濃く染まっていく様子が、本当に花が酔っているようで、名前と共に忘れられない花となっています。
 移ろう季節を表し、忘れかけていた事柄を思い出させてくれる一枚の絵手紙に、毎月、何を届けようかと考え、描いてくださった上原さんの心がこもっていて感謝、感謝です。
 お忙しいでしょうが、又、12期の広場で絵手紙と出会える時もあるかと楽しみに待っています。
 暑い中、お元気にお過ごしください。

7回目(平成28年 3月号)は桃の
節句にちなんでの「雛祭り」です。
8回目(平成28年 4月号)の
「春が来た」


9回目(平成28年5月号)は端午の
節句にちなんでの「かぶと」
11回目(平成28年7月号)の「鮎」
 


またの「投稿」をお待ちします。
8組  川副 研治
 
 「12期の広場」を通じて癒しを届けて頂いた大川さんの絵手紙もいよいよ終わりということで、寂しい限りです。
 草花や季節に応じた風物等、優しいタッチで描かれた絵手紙の数々、それに添えられた文章を楽しみにしていました。市岡高校在学時、美術部に少しだけ籍を置いたこともあり、絵には興味があり、油絵、水彩画、水墨画、仏画、絵手紙等々、色々やりたかったのですが、現役で仕事をしている間は、忙しくて手が出せず、今となっては暇はあるが、気力が充実せず、何も出来ずじまいの状態です。
絵手紙なら手が出せそうと思いはするのですが、自然や生き物、季節等々に興味を持ち、絵を描くには、写実でなく、漫画チックでなくと… なかなか難しいものですね。
 大川さんといえば高校時代、テニス部で活躍されていた方で、すっかり体育会系の方だと思っていましたが、優しい絵手紙も描かれる、繊細な一面がおありだったのですね。また間をおいて、ぜひ「12期の広場」にご投稿いただき、我々に癒しを提供して頂きたいと思います。
 
10回目(平成28年6月号)の「紫陽花」です。

「12期の広場」7月号のラインナップ

 7月です。いよいよ本格的な夏の到来です。梅雨明けがいつになるのか、気になるところですが、今年も大雨による被害を各地にもたらしています。特に今も続く地震被害に加えての熊本県はじめ、九州地方の「記録的豪雨」とその被害には、言葉がありません。また、異常気象が常態化しているとの実感ばかりが強くなるようで、ちょっと考え込んでしまいますね。
 今年の夏は、近年を上回る、「酷暑」になるとの予想です。もうすぐ満75歳の誕生日を迎え「後期高齢者」の仲間入りの身にあれば、やはり、この一夏をどう乗り切るのかと身構えてしまうようです。また、今秋に予定されている同窓会に元気に出席できるよう、体調に留意してがんばらねばなどと考えています。
 今月号の上原さんの「絵手紙」は、ご覧のように「鮎」です。
 清流を泳ぎ登る姿が涼やかです。添え書きにこうあります。
 「 沼津・三島は富士山の伏流水のおかげで、水が冷たく、美味しいです」
 沼津・三島に仕事で何回か通ったことがあります。どちらかと言えば三島が主でしたが、三島は街の各所に清流や湧水が見られ、文字通り、富士山の伏流水の町と言った印象でした。
 その最大の清流が「柿田川」です。柿田川は全長がわずか約1.2km。日本で最も短い一級河川で、日量100万トン言われる湧水を水源とするめずらしい川です。皆さんもこの川特有の水中植物であるミシマバイカモが自生している美しい姿の映像をテレビなどで見られたことがあるでしょう。しかし、この川も豊富な水量を求めた工場進出などで汚染がひどくなった時期があり、1980年代からのナショナルトラスト運動など、地道な努力で清流がとりもどされたそうです。
 国道1号線のすぐ傍の湧水群から突然のように始まる、川幅が広く、豊かで堂々たる清流は感動ものの一言です。
 柿田川湧水群の水は年間を通して15度。また国の「名水百選」に選ばれており、沼津・三島の上水道にも使われています。毎日、水道の蛇口から冷たい名水がでるのですから、うらやましいこと、この上ありませんね。
 
 さて「12期の広場」今月号のラインアップは次の二編です。お楽しみ下さい。
 
1.  『中務淳行写真展』に行ってきました。  ・・・・・・・・  7組  張 志朗
2.  『フォークダンスの先生』
 
以  上

『中務淳行写真展』に行ってきました。

7組  張 志朗
 
 6月3日(金曜日)の午後、「やまと郡山城ホール」(奈良県大和郡山市)で開かれた『金魚 その池 その街・中務淳行写真展』(開催期間 6月1日~4日)に行ってきました。
 中務淳行さんは、市岡の13期、写真部出身で、読売新聞の元写真部部長。また「奈良市岡歩こう会」や「市岡OB写真クラブ」のお世話をされるなど、13期は勿論、市岡の全体同窓会諸行事で活躍されておられる方です。私の個人的なおつきあいでも、時節ごとのすばらしい作品をメールで送って頂き、楽しませて頂いていることや「12期の広場」にその作品を提供いただいて
いるなどいろいろとお世話になっています。

平日の午後、多くの方々が訪れて熱心に写真展を楽しんでおられました。

 中務さんの個人名を冠した写真展は、読売新聞退社後二回目だそうで、今回のテーマは全国的に有名な大和郡山の金魚です。金魚は夏の風物詩、美しくく詩情あふれる写真展でした。
 久しぶりの古都奈良。近鉄大和郡山駅に降りるのは初めてで、深い緑におおわれた郡山城址を左に見ながらのんびりと会場まで歩きました。晴天の昼下がり、初夏のさわやかな風が吹き、大阪や京都の喧騒はありません。時間までもがゆっくりと流れるようでした。
 写真展会場入り口付近に中務さんの「ごあいさつ」文が、かかっていました。以下に全文、紹介いたします。
 「私が大和郡山市に移り住んだのは8年前。大和郡山市は金魚の国内三大生産地の一つ。朝はカメラを持って、金魚の養魚池の周辺を歩きます。
 春は産卵、ふ化。金魚すくいの夏に出荷が最盛期を迎えます。また酸素補給のため窒素肥料を入れた水は植物性プランクトンで濃いみどり色になり、水面はエサが作る模様で変化し、周りの風景が映ります。秋から冬には強風で波立つ池で群れをなして元気に泳ぎます。
 冬はそこにじっとしていることが多いが、水面に姿を見せることもあり、池に氷が張っても氷を透かして群れ泳いでいるのが見られます。
 金魚池は一年一度、水を入れ替え、干しあげられて、鳥たちの足跡やひび割れた水底の泥が幾何学模様を見せ、水のない池が大きく変化します。
 城下町の名残りがある郡山の街には、金魚が泳ぐ飾りものや公衆電話ボックスなどがみられ、金魚の街らしい装いが見られます。金魚とその池、その街の四季をどうぞごゆっくりご高覧ください。」
 作品は41点です。右回りで挨拶文にある春から冬までの四季それぞれの作品が展示されていました。
 始まりがユーモラスな金魚の絵が入った「マンホール」。金魚の街、歴史が深い城下町への愛着が一杯です。「S字に群遊」「孵化」「色変わり」と春の金魚のさまざまな姿が続きます。「大群泳」は盛り上がるような緋色の塊。また養魚池に鳥害から金魚を守る鳥よけの糸が張られているのですが、それをカメラは五線譜と捉え金魚が泳ぐ様を「五線譜をスイスイ」と題していました。楽しくなりました。
 池には金魚を囲い込むためにびわ湖の「エリ」のような「すだれ」があります。それをアップで切り取った作品は、水面にゆれる光と陰と金魚の饗宴で、さながらアブストラクトのような魅力一杯の作品でした。そのすべてについてご紹介できないのが残念ですが、ご提供いただいた作品2枚を添付します。ご覧ください。


 上は写真展の案内状にも載せられた作品で、凍った水面に野鳥が訪れ、その下に金魚が群れているすばらしい写真です。得難いシャッタチャンスをものにする精進と感性、その技術に感動しました。次の写真は丹精して育てた金魚の出荷です。

 
 写真展では併設された小スペースで「大和百景+α」と題したスライドショウがありました。
 ここで紹介された写真の数は100点以上で、吉野、宇陀、曽爾、佐保川など、奈良県各所の風景写真と中国などの海外の風景写真をスライドにしたものです。やさしい目線と自然体のカメラアングルで、美しく豊かにうつろう風景を切り取っていますが、そうであればあるほど、詩情にあふれて奥深く感じたのは私だけではなかっただろうと思っています。
 まさに、写真家、中務淳行の世界。この一日は「中務ワールド」にどっぷりの一日でした。
 1日から4日の写真展は盛況だったようです。市岡の同窓生が見にこられていたのは勿論ですが、私が居た短い時間内でも、一般客と思われる方々が次々とおいでになっていました。
 12期の同窓生では、3日の午前中(残念ながら午後に行った私とは行き違いになりましたが)1組の久保田靖子さん、4組の古藤知代子さんが来ておられました。
 会場を出た後、折角ですので郡山城址を散策しました。
 郡山城は、天正8年(1580年)織田信長と組んだ筒井順慶が明智光秀の指導のもとにその整備を始めたとのことです。後に豊臣秀吉の弟の秀長の居城になり、100万石の城郭の大増築と城下町の建設が進められ、徳川幕府の時代、柳澤吉里(柳澤吉保の子)が入部の後、城下を中心に心学、国学、漢学、俳諧、茶道、花道などが栄えたそうです。有名な金魚の養殖や赤膚焼がこの時代にさかんになり、特に金魚の養殖は武家の副業としてひろまったとのことでした。
 残っている城郭あとはそう広くはありませんでした。おまけにその大部分が工事中で、高い堀端の石積みの上からの眺望を楽しめただけです。
 城址を囲み、緑にうもれるように創立120年の「奈良県立郡山高等学校」の諸施設が広がっていて、夕方の静けさの中、クラブ活動の学生たちの歓声が響きわたっていました。

『 フォークダンスの先生 』

 高校時代の課外行事で思い出深いものの一つに「フークダンス」があるのではないでしょうか。
 体育祭後のファイアーストームで踊ったことは、今も記憶に鮮やかですが、授業のない土曜日午後、校舎裏の運動用スペースでもフォークダンスをやった記憶があります。
 高校生になって初めて女子生徒と手を取って踊る経験、照れくさかったけれども心踊る楽しい思い出です。
 フォークダンスが初めて母校に入ってきたのは、私達が入学する一年前の昭和31年度のことだったそうです。そのいきさつについて保健体育科 辻井美智子先生が「みをつくし」第84号(学校新聞)に文章を書いておられます。卒業アルバムを開いてみると、保健体育科の先生に辻井先生のお名前がありません。永井先生の誤りではないかと思うのですが、どうでしょうか。
 以下にその文章をご紹介します。(「母校創立百周年記念誌」P272から転載)


 「いつのまにやら、どこからともなく『フォークダンスの先生』と呼ばれるようになってしまいました。本校のフォークダンスはようやく満一歳の誕生をむかえたばかりですが、府下の高校では第一といってもいいと思います。
 昨年の夏、アメリカからマイケル・ハーマン氏一行が来阪された際、府立体育館での講演会に参加して、神沢先生と私が、ファーマン夫妻の手を取って踊る光栄に浴したものです。他に参加された本校の先生方といえば、あなた方が初めて経験をされた当時と全く同じで、『リズムオンチ』人の足をふむ、ロボットのようにかたく、ステップは全くわからないというありさまでした。でもみんな楽しい冷汗を出して、涙ぐましい努力をされました。それでいいんです。フォークダンスはあくまでもやるものであって、見るものでもなく、見せるものでもないのです。みんな一緒に楽しむもので苦しむものではないのです。自分一人で楽しむものでもなく、ただ踊りの手ぶりや、足どりを上手にやるだけのものではないのです。
 フォークダンスをやる人が多くなったことは喜ばしいことだと思っています。しかし一部ではソーシャルダンスなどが反面として持っている享楽的な面ばかりを見る立場から、フォークダンスの在り方について一概に白い目で見る向きもないではないのですが、私達が参加しているフォークダンスが、もっとも健康な明るいものであることは皆さんが体験でおわかりと思います。私達はフォークダンスを通じてすっきりして、明るい交際を楽しむべきなのです。またリズム感覚や、正しい歩行と歩き方を、若さとはちきれるような健康を学びとりたいのです。
 昨年の運動会、夕焼け空の下で運動場いっぱいになって、ほとんど、全校生に近い生徒が市岡のテーマソングともいうべき『オクラホマ・ミクサー』を踊った時、私は感激のあまり涙がとまりませんでした。
  また、秋の遠足で六甲山カントリーハウスで緑の大芝生のもと、まばゆく太陽を浴びながら、2,3時間踊ったことが思い出されます。」

 
 あらためて卒業アルバムを調べたのですが、フークダンスに関連した写真が、体育祭後の「ファイヤーストーム」と、「秋に遠足」の二枚しかありませんでした。いずれも何年次であったのかが不明です。ご容赦下さい。
 フークダンスにまつわるエピソードや思い出話をご記憶の方は是非、ご投稿下さい。 

「12期の広場」6月号のラインナップ

 6月です。
 大川さんの絵手紙をこの欄に載せ始めてから今回で10回目です。1年のお約束でお願いしましたから、後、2回を残すのみです。感謝、感謝です。今月号の絵手紙は、「紫陽花」です。この原稿を自宅で書いているのですが、丸窓から、そぼふる雨に濡れる紫陽花が見えます。今年は花芽がたいそう多いようで、数えて見ると30をこえています。咲くのが、今から楽しみです。


 絵手紙の表書きに「梅雨の季節になると『つめ色の雨』という歌を想い出します。『えんぴつ色の 角だしてまいまいつぶろが 見ています 静かに・・・』とありました。「つめいろの雨」とはどんな色の雨なのでろう。思わず、自分の爪を見てしまいました。また、そんな歌があったのだろうかと思ったのですが、大川さんは電話口で、そのメロディをはっきりと口ずさんでくれました。
 早速、ネットで検索。ありました。おまけに、その歌まで聞けました。
 なんと、サトウハチロウの作詞(大正8年、サトウハチロウが23歳の時に出版した処女詩集『爪色の雨』に収録されている)で、ボニージャックスが歌っています。ちょっと長くなりますが、書き出してみます。
 
 爪色の雨が降ります  しずかに しずかに
 あじさいの花がけむります  しずかに しずかに
 誰にも知れないように  お風呂場の壁がぬれて行きます  しずかに しずかに
 鉛筆色の 角だして  まいまいつぶろが 見ています  しずかに しずかに
 爪色の雨の降るたびに  あなたと旅した あの頃を
 あなたのお下髪(さげ)を ほほえみを  耳のうぶ毛を はじらいを
 あの山脈を あの指を  爪色の雨の降るたびに
 
 情緒豊か、情感あふれる詩ですね。
 若い頃、ある女性が「優しく雨が降る日がすきです。音が消えたように感じられ、光る屋根の家々を長時間眺めていても飽きません。」と話していたことを思い出しました。
 一昨年も、昨年も、6月号のこの欄で梅雨が慈雨でありますようにと書きましたが、今年は殊更に、瑞穂の国の穏やかな梅雨であってほしいと願うばかりです。
 
 さて、わが「12期の広場」6月号のラインナップは、次の通りです。お楽しみください。
 
1. 「兵庫市岡歩こう会が開催されました」           6組  高見 政博
2. 「ツーセル(社長:辻紘一郎)、中外製薬と膝軟骨再生治療でライセンス契約」
3. 「陶芸のこと (3) ー川歩きー」                8組  山田 正敏
以 上

兵庫市岡歩こう会が開催されました。


 5月15日(日)兵庫市岡歩こう会が開催されました。当日の天気は快晴。初夏の日差しは少し暑いくらいでした。参加者は50名。最高齢は旧中42期の大先輩。最年少は30期生で、12期生は古藤さん、段中さんと私、髙見の3名。最多参加者の期は13期生の14名でした。
 今回の行き先は、猪名川町にある「多田銀銅山跡巡り」です。
 多田銀銅山は猪名川町を中心に北摂地域に東西約25kmにわたり坑道が開削された広大な鉱山です。ボランティアガイドさんの説明では1000を越える間歩(坑道)があり、うかつに山の中に入ると竪穴が隠れていて危険だそうです。歴史も古く、奈良時代には東大寺大仏建立にあたってこの地の銅が献上されたと言われています。一帯は多田源氏発祥の地で、多田源氏が力を持ったのもこの地の銀、銅が一役買ったのではとのこと。
 安土桃山時代に、豊臣秀吉が本格的に開発し、江戸時代には3千軒の家があった程の賑わいだったようです。また、秀吉が息子秀頼の将来を案じ、4億5000万両の大金を隠したといわれ、埋蔵金探しも最近まで行われていたといいます。
 コースは、能勢電鉄日生中央駅→多田銀山悠久の館→(昼食)→代官所跡→伝代官所の門→青木間歩→金山彦神社→日生中央駅でした。
 昼食の後は現地のボランティアの方が案内をして下さって、青木間歩では入口から15m程が見学出来ました。行程は急な坂も無く舗装路でしたが、距離が少し長かったので、日生中央駅に着いた時には結構疲れていました。しかし全員無事完歩、楽しく終了しました。
( 記 —–  高見 政博  )

ツーセル(社長:辻紘一郎)、中外製薬と膝軟骨再生治療でライセンス契約

 辻紘一郎君(8組)が代表取締役社長を務める株式会社ツーセルが、自社の膝軟骨再生細胞治療製品に関するライセンス契約を中外製薬株式会社と締結したという、うれしいニュースが報道されました。すでに各種メディアを通じてご存知の同窓生も居られると思いますが、ここに紹介させていただきます。
 4月26日の日本経済新聞によれば、『広島大発バイオベンチャーのツーセル(広島市)は25日、軟骨の再生細胞治療に関して、中外製薬とライセンス契約を締結したと発表した。契約により受け取る一時金や成功報酬は数十億円規模になるとみられる。大手製薬会社との契約により、早期の臨床試験(治験)開始や実用化をめざす。』とあります。
 2003年4月の創業以降、一貫して間葉系幹細胞(MSC)による再生医療の研究・開発にたずさわってきたツーセルが、いよいよ本格的に再生医療市場にその治療製品を提供する段階に入ったと、大きな期待をもって注目をあびています。
 13年にわたり社長をつとめ、ツーセルを牽引してきた辻紘一郎君は『当社は、自社開発の無血清培地で間葉系幹細胞を大量培養し、医薬品で治療できない疾患に対して移植することで、多くの患者さんの治療に貢献したいという思いから再生医療製品の開発に取り組んできました。大阪大学や広島大学との共同研究により開発したgMSC®1は、"広島を世界の再生医療の拠点の一つにする”を合言葉に掲げ開発を進めてきた「広島発同種移植用細胞製剤の第1号」です』と語っています。
 2年前の12期同窓会での特別講演で、人の自然治癒力と再生医療への想いを語ってくれた辻君の姿が思い起こされますね。
 中国新聞の報道では『ツーセルによると、膝を痛めている患者は全国に約2900万人に上る。スポーツ選手や高齢者への移植を想定する』とあり、日経バイオテクONLINEでは『ツーセルが開発を進めているのは健常人の滑膜細胞から間葉系幹細胞(MSC)を採取、培養した他家の軟骨製品。負傷か所に注射で投与すると軟骨が再生する。拒絶反応を起こしにくいため、ヒト白血球型抗原(HLA)のタイプにかかわらず使用でき、免疫抑制剤の投与も必要ないという。』とありました。また『他家のため価格も押さえられ、「市販時の価格を1桁下げられる」(辻社長)』とあります。2017年から治験を開始、2020年の発売の見込みのようで、変形性関節症にも適用拡大していくそうです。膝関節の疾患に苦しむ患者さんにとって、すばらしい希望、福音になるようです。
 私の身の周りでいえば、家内が若い頃、ソフトボールで膝を痛めて苦しんだことがあり、また息子が移植治療で拒絶反応と免疫抑制剤の投与に苦しみ、未だにその後遺症悩まされています。自身が後期高齢者になったことと考え合わせると今回の再生医療製品は、実に身近なもの、またそのすぐれもの度合いが腑におちます。
 年齢を重ねてますます磨きがかかった磊落でエネルギッシュ、熱い気持ちのかたまりとも言える辻紘一郎君の更なる活躍に期待したいと思っています。
(文責:張 志朗)
  • 追記:「ツーセル」で検索すると株式会社ツーセルのホームページが閲覧できます。
        MSC(間葉系幹細胞)を詳しく知りたい方は是非、検索して見て下さい。

陶芸のこと (3) ー川歩きー

 陶芸について2回にわたって書いたが、退職後の生活でもう一つの大切にしているのが市岡の同窓生と行う「川歩き」である。
 小生65歳の時であった。今は亡き河合兵治の発案により始めた1泊2日の「川歩き」の第1弾が“利根川川歩き”である。
 銚子漁港が出発地点であるが前日、壮行会をやろうと言う事で、犬吠岬のホテルに一泊した。泉は当日、所要で欠席。一日目の宿泊地、潮来のホテルで合流するとの事で川合、榎本、山田の三人がいよいよ出発。平成19年(2007年)10月31日に始まった。潮来のホテルまで地図上約40km。9時ごろホテルを出発、出発地点の銚子漁港を経由、昼食時間30分を除いてその日の日没まで(午後4時半か)を考えると7時間で真っ暗になる。計画ミスである。とても宿泊地の潮来には着けない。潮来まで宿はない。そこで、比較的近い成田線香取駅までなんとかタクシーを拾って出て、潮来まで一駅ではあるが電車に乗る事にしたのである。三人共クタクタ、完全な計画ミスであった。
 潮来の宿で泉と合流。今後のことも含め打ち合わせ。泉の提案で「もう少し余裕を持った計画にする事」。「行路の途中の近くの名所旧暦のあるところを見学する事」。そして「夕食はうなぎを食する事」。全員、反省も含めて納得、大賛成。
 2回目、3回目からは、大石橋と西条が参加。6人のメンバーとなる。
第4回の利根川川歩きの100km地点。
ようやくここで全行程の三分の一である。

踏破可能な源流、八木沢ダムまであと一息。
第8回川歩きの6人のメンバー。


 4年後、平成23年(2011年)5月9日の9回目、群馬県 奥利根湖の八木沢ダム横に建つ「利根川源流の碑」でもってで完了。踏破距離は約300km。
 「利根川川上り」最後の9回目に先立ち、踏破完了後、その記念報告会を群馬県水上市でする為、しかるべきメンバーに案内状を発送するべく、その作成中に発生した「東北大地震と大津波」。案内状の発送は当然中止。「利根川川歩き」踏破記念パーテーは、後日、メンバーのみで行った。人生一寸先は闇。小生当時69歳。大地震と津波で亡くなった、多くの人々の事に思いをはせるに、これからの人生、謙虚に精一杯 頑張ろうと思った次第である。
 そして、第2弾の「川歩きは」関東第2の大河、“荒川”に決定。平成24年3月11日、スタート。27年4月28日、6回目で踏破。(延長173km)
 その間、26年12月 川合が肺癌の為、逝去。3回目以降は5人(泉、榎本、大石橋、西条、山田)となる。
  
荒川の源流に到着。「源流の水で川合君の好物のウイスキーの水割りを作り再び献杯。
・・・ひたすらこの間の自然と人とのふれあいが懐かしく、とりわけ市岡の仲間と楽しく充実した時間を
過ごせたことがうれしい。」(泉信也)

 第3弾目の「川歩きは」メンバー5人の協議の結果、荒川と同じく東京湾を河口とする関東の名流「多摩川」(延長138km)に決定。4~5回程度で踏破か?川合が抜けたのは実に無念である。他の参加者を募っているが、なかなか参加してくれるメンバーがいないようだ。
 川歩きを始めてから、他のメンバーに遅れないようについて行く為、又、体調維持の為
日・祭日や暇なときに船橋市内を3時間程度、時々ルートを変えて、「早足散歩」と称し12~15km歩く事にしている。その為か、医者から糖尿病と言われていたが、最近すこぶる体調が良く、現在体重は10kg減の65kg。糖尿病の数値が改善、酒が旨い。これも「川歩き」の為の「早足散歩」の効用である。 陶芸と3時間の「早足散歩」、暇を持て余す事がない。出来れば、90歳までは続けたいと思っている。

 小生、日頃から皆さんに人生90年、長生きしようと言ってきたが、最近もう少し長生きしなくてはならなくなった。
 それは、小生の長男家に一昨年8月、孫娘が生まれたのである。我が山田家としては初孫であり、可愛さでは何処に出しても引けを取らない自慢の孫娘で、2ヶ月に一度、我が家に来てくれ、3~4日泊まっていくのであるが、来る度にその成長が見受けられ、何事にも代えがたい喜びを味わっている。成人したらどんなに美人になるのだろう。成人式の孫娘をなんとしても見たいものだと考えたとき、小生の寿命90歳では3年、時間が足りない。93歳まで長生きしなくてはならない。
 選挙権が20歳から18歳に2年早くなった今日、成人式もそうはならないのか !! いやいや、そんなセコイ事は考えまい。
 そこで、小生「人生93年」93歳まで生きる事を宣言する。
 その為、「陶芸」と「早足散歩」を絶対続ける事を決心した次第である。
ご拝読有難うございました。
以上。
 
利根川歩きの途上の一里塚ならぬ河口からの距離表示。はるか彼方に赤城山、子持山、小野子山が見えています。ここまでで行程は181.5km。この倍近くの距離を川合君を含めた同窓生と踏破したのですね。

「12期の広場」5月号のラインアップ

 5月です。「風薫る5月」と書き始めたいところですが、熊本市を中心とした地震とその被害に心が晴れません。と言うより、この地震に大きな衝撃を受けています。
 震度7の前震に続いてそれを上回るエネルギーを持つ震度7の本震、過去に事例がない程に続発する余震とそれによる大被害に言葉がありません。東日本大震災、特に私自身が阪神淡路大震災を経験しただけに、地震への恐怖とその惨状の記憶が甦り、被災地の方々の心労、心痛や如何ばかりかと胸がふさがる思いです。
 九州に12期同窓生が何人か在住していますが、同窓生名簿によると、熊本県にはおられないようです。震央に近い市域で言えば、福岡県大牟田市内に田中健治君(7組)が在住しています。大牟田市は、震度5強の揺れがあった玉名市に県境で接しています。電話で連絡を取ったところ、震度4から5弱程度、自宅の建物被害も大きくなく、家族、親戚一同の人的被害もなかったとのことで、まずは安堵しました。
 新聞、テレビの報道によれば、地域差はあるものの、被災地の懸命の努力と基幹インフラの復旧や被災者支援が進むことによって、入浴など、ささやかな日常の回復がようやく始まったように見受けられます。
 余震が一分一秒でも早く沈静化し、心と体のケア、生活の再建と復旧が加速することを願うばかりです。
 今月号の上原澄子さんの「絵手紙」は端午の節句にちなんでの「兜」です。その表書きにこうありました。「新緑の良い季節になりましたね。思いがけない熊本の震災には地震国日本の恐ろしさを思い知らされました。熊本城も悲しくなります。今月は兜を描きました。」
 震災に思いを馳せ、そして描いてくれた味わい深い「絵手紙」に感謝、感謝です。
 新緑が美しい野や山には百花が咲き誇り、大空に雄々しく鯉のぼりが泳ぐ。まさに端午の節句の5月なのですね。
 端午の節句は5節句(七草の節句、桃の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句)の内の一つ、調べてみると紀元前3世紀ころに始まったとのことです。そのいわれと長い歳月をかさねあわせると、営々とつづく人の願いやそのたおやかな営みへのいとおしいさが、一層、つのるように思えてなりませんが、「感傷」に過ぎるでしょうか。
 
 さて今月号の「12期の広場」のラインアップは、次の通りです。
 舞洲の此花市岡会のお花見の後、幹事会が開かれ、今秋の同窓会の要項が決定されました。まずはその報告記事です。今年も多くの同窓生と再会できることを楽しみにしています。
 『趣味のギャラリ』は山田正敏君の「陶芸」の2回目です。無理を言って、陶芸クラブの内容についても追加投稿して頂きました。作品写真を合わせてお楽しみ下さい。
 
1.  「市岡の森のお花見と幹事会の報告」
2.  『趣味のギャラリー』 「 陶芸のこと -②」       8組  山田 正敏
以  上

市岡の森のお花見と幹事会の報告

 4月10日(日曜日)、大阪舞洲の市岡の森で此花市岡会による恒例のお花見が開かれました。当日は晴天とはいきませんでしたが、おおむね晴れ。気温も20度前後でお花見には申し分ありませんでした。
 午前11時前に“舞洲ロッジ”の玄関前に集合し、注文しておいたお弁当を受け取り、小高い丘陵地である“夕陽が丘”に登り、会場の市岡の森に向かいました。ここには我が12期同窓会をはじめ、各期同期会や市岡ゆかりの方々が植樹した桜、数十本があります。12期は母校創立100周年と卒業50周年の2回、ソメイヨシノ二本の記念植樹をしています。樹勢はまだまだ若木といった感じですが、立派に育ち、さながら桜の森といった風情でした。また市岡の森について、玉田先生が『森は市岡の名を冠して人々が集うところ』と話されたことを思い出しました。
爛漫の桜を満喫しました
 2~3日前の強い雨と風で桜の花が散ってしまったのではと心配していましたが、市岡の森の桜は満開から散り始めの状態で、美しい桜を十分に楽しめました。
 11時過ぎにお花見会が開会。
 此花市岡会の副会長である大山泰正さん(高校19期)が挨拶され、恒例のお花見会開催に大きく尽力され、3月に急逝された此花市岡会西尾賢治会長(高校21期)への黙祷をささげました。『人を楽しませる達人』と言われた篤志の人、西尾会長の突然の訃報に言葉がありません。
 お花見会の参加者は全体で約200名、12期は16名でした。12期の参加者は、八島節子(1組)さん、山西邦子さん、北浦昌子さん、熊谷郁代さん(2組)、清水誠二郎君(3組)、酒井八郎君、原清明君、竹田裕彦君、古藤知代子さん(4組)、段中文子さん(5組)、武田博君、畠平雅生君ご夫妻(6組)、張志朗(7組)、末廣訂君、川村浩一君(8組)の皆さんでした。
 12期は市岡の森のあずま家で車座になり、おいしいお花見弁当とビールやお酒(此花市岡会の城山先輩からの差し入れ)とお喋りで宴をスタートさせました。
 例年、“幻の”お酒とあて、コップや氷まで持ってきてくれる原清明君が、今年はなんと高級シャンパン“ドンペリ”を持ってきてくれました。まずは“女の子”にとみずから注いでくれて大盛り上がりでした。
お弁当にお酒、それにおしゃべりとで
宴たけなわです
桜とお酒。自然に顔がほころびます
 

 八島節子さんは今年お一人の参加。同窓生の御主人(八島平玐君)は野田の自宅から自転車で大阪城公園にある弓道場に試合に出かけたそうで、元気一杯。
ニコニコと全員集合の記念撮影です
武田博君は地域のラジオ体操の担当で、毎朝6時半にラジオを持って公園に出かけて体操をしているそうです。冬は大変で一人も出てこないことがあるそうですが、かかさず出かけるそうです。先月号の“豚汁会の報告”を書いてくれた末廣訂君もこの日は杖なしで元気な顔を見せてくれました。竹田裕彦君は長い介護の末、お父様を103才で、お母様を99才で見取られたとの事でした。12日違いの葬儀、お父様の49日とお母様の35日が同じ日だったそうです。あれやこれや、皆さんの近況よもやま話は、つきることがありませんでした。
 お花見の会では母校吹奏楽部の演奏がありました。今年の母校新入生は「定員割れ」でしたが、そのショックをのり越えての元気で楽しい演奏を聞かせてくれました。特に“美空ひばりメドレー”には参加者の大きな手拍子が起こり、大喝采でした。吹奏楽部の伴奏で校歌を斉唱してお花見会は午後1時過ぎに中締めとなりました。
今秋の同窓会内容について話し合いました
 その後、「市岡の森記念碑」の前での記念撮影です。この前と横に12期が記念植樹した桜があるのですが、数年前の暴風でその「銘板」が飛ばされてどれがその桜か分からなくなっています。木工機械と木工の専門家である畠平君に相談して復旧することになりました。
 12期の私たちは会場を舞洲ロッジのレストランのバルコニーに移して、今秋の同窓会のための幹事会を開催しました。ここには幹事14名が参加し、下記のように『2016同窓会』の要項を決定しました。ご覧ください。
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 名 称: 「大阪府立市岡高等学校12期 2016同窓会」
 日 時: 平成28年10月16日(日曜日) 午後12時30分 受付開始
                            午後 1時    開  会
 場 所: ホテルクライトン新大阪( 大阪市淀川区西中島 2-13-32 )
       TEL 06(6885)1211 FAX 06(6885)7011
        *地下鉄西中島南方 徒歩 5分で前回と同じ会場です。
 会 費: 本会 ¥8,500-  二次会 ¥1,500-
 主内容: ・1時~4時 本会 (同窓生による特別講演も予定しています。)
        ・4時半~6時半   同ホテル別室にて二次会
 その他: 8月20日 案内状発送予定。
(文責:張 志朗)