同期会

【高31期】31期生同窓会開催のご案内

31期生幹事代表  山本 好男
このたび下記の日程で標記の会合を開催いたします。
恩師の先生方もお招きして、楽しいひと時をともに過ごしたいと思います。
万障繰り合わせの上、奮って参加いただきますようお願いいたします。

会の名前 市岡高校 31期生 同窓会
開催日時 平成28年1月23日(土) 16時~
開催場所 Beer House 86   電話: 06-6214-8620
大阪府大阪市 中央区難波1丁目8−16 namBa HIPS 4F
連 絡 先 幹事代表: 山本 好男
E-mail: chachai511☆yahoo.co.jp
※ 迷惑メール対策のため☆を@(小文字)に変更してご利用ください。

12期の広場」1月号のラインアップ

 明けましておめでとうございます。
 幼い頃、この挨拶を不思議に思いながらも、お正月とお年玉をもらえることの呪文のようにくりかえした記憶がありますが、新年の朝を迎えて最初に発する言葉に、これ以上のものは、やはりないようです。齢を重ねるごとに万感の想いがあふれてくるように思われてなりません。
 上原澄子さんの絵手紙の添え文に「今回は富士山を描いてみました。沼津千本浜からの富士山はやさしい感じがします。私の家の二階から愛鷹山(あしたかやま)の向こうに白く頂上だけが見えます。よい年でありますように・・」とあります。今年も健康に留意して精いっぱい、楽しく過ごしていきましょう。
 わが「12期の広場」も、はや6年目を迎えました。新年にあたり、今後ももっとよくしたいとあれこれ考えて、ついつい気負ってしまいますが、「ゆるゆると続ける」ことを基本に置いて、今年も頑張りますので宜しくお願いいたします。
 今年は大阪での同窓会の年。多くの同窓生との2年ぶりの再会を願い、同窓会のクラス幹事の皆さんにショートメッセージを頂きました。酒井代表幹事の挨拶を含めて7名の幹事さんが登場しています。お読みください。
 次に石井孝和君の「思い出を綴る」が最終回です。初回から数えて12回目ですから、1年間の連載でした。私の机の横に86枚に及ぶ400字詰め原稿用紙と提供された数多くの写真を入れた箱があります。「思い出を綴る」はその量もさることながら、内容の多彩さと細密さ、さらに回を重ねるごとに新鮮さを増しながら1年間を通して私たちを楽しませてくれました。この労作の執筆者である石井孝和君に、心から感謝申し上げます。
 またいつ日か、「12期の広場」にご登場いただくことを楽しみにしたいと思っています。

 「12期の広場」新年号のラインアップは、次の通りです。

1.  「明けましておめでとうございます」          4組 酒井 八郎 
2.  「25年続けている水泳と川柳」             2組 北浦 昌子 
3.  「今、ものすごく幸せです」               3組 清水誠二郎 
4.  「して見たいことが沢山」                5組 段中 文子 
5.  「今を大切に楽しくいきたいなー」           6組 畠平 雅生 
6.  「1日、1日をかみしめて」                7組 上野 裕通 
7.  「今年もどうぞよろしく」                 8組 末廣  訂 
8.  「思い出を綴る」(最終回)                3組 石井 孝和 
以上

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。
12期同窓会代表幹事  酒井 八郎

 12期同窓生のみなさん、新年おめでとうございます。今年もみなさんのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
 また開設6年目を迎えました「12期の広場」を支え、投稿して下さる12期のみなさんや毎月1日の更新を楽しみにして頂いている読者の方々、毎月の更新に向けて応援して下さるプリンティングサービスのご尽力と、一年中、原稿依頼から編集にと努力を惜しまず奮闘くださっているHP委員の方々に感謝し、心からお礼申しあげます。
 誰でも、何処でも、何時でも、「澪標」のサイトに入っていただければ、「12期の広場」があり、今は遠くに離れていても、市岡の仲間がそこにいます。これからも一人でも多くの同窓生の投稿を機会があるたびに呼びかけ、継続していきたいと思っております。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。
 今年は大阪での同窓会開催の年になります。
 昨年9月に京都で幹事会を開催し、それに向けての大枠を話合い、「広場」で報告させて頂きました。また11月には大阪との隔年開催の「市岡高校東京12期会」が開かれ、大いに盛り上がりました。今年、私たちの大半が75才、いわゆる「後期高齢者」の年齢領域にはいりますが、意気込みはいつまでも「市岡健児」のままでありたいと思っています。
 今年の秋、今のところは10月の第3日曜日に、大阪での「2016市岡高校第12期同窓会」を開催したいと考えております。4月舞洲でのお花見の後の幹事会で最終決定し、その具体的な準備に入る予定です。
 30年前、玉田先生が『100人を越えての同窓会ができるとは、12期は仲が良いのだね』と喜んで下さいました。昨年3月に亡くなられた北村先生は『「一会一期」とか言うようですが、市岡で会えたのは深い因縁です。限られた生命のなかで仲良く、楽しくやって行きましょう』と言い残されました。
 今秋、一人でも多くの方との再会を共に喜びあえたらと願っております。
 そのためにも健康が第一です。健康に一層留意して、今年も良い年にしましょう。

25年続けている水泳と川柳

25年続けている水泳と川柳
2組 北浦 昌子(旧姓 小寺)
 12期の皆様、明けましておめでとうございます。お元気に新年をお迎えのことと、うれしく思っています。当方も脳みそ以外は元気にしております。
 「12期の広場」は娘の家でパソコンを開いてもらって折々に読ませてもらいます。例によって脳みそが足りないので、自宅には文明の機器がなく、なにも出来ません。
 さて、私は25年以上続けていることがあります。それは「水泳」と「川柳」(たまには短歌もふくみます)です。
 泳ぐ方は月曜日から金曜日の殆ど毎日、750mから800mをクロールか背泳ぎで3、4回を休憩を入れながら泳ぎます。後のジャクジー風呂が快適でやめられません。
 川柳は、今年米寿になられたよき師(男性)に恵まれて14~5人の会員で、月に2回、ワイワイと、それは楽しい集まりなのです。「お題」を決められてその文字を5・7・5の中に盛り込んで詠みます。少しも上達しませんが、他の会員さんの句を聴くのが楽しみでつづけています。以下、少し恥入りますが・・・・・
  • は財産だよと孫(こ)に教え
  • 筆の友の手紙に返事TEL
  • ねえ安倍さん戦争いやだとったでしょう
  • いました聞きましたけど法は法 (安倍首相の返事?)
  • ランドセル背中でおどる学路
  • 帳はあっても中味のない私
(アンダーライン部は当日のお題です。)
 
 さて皆さん、今年は大阪での12期同窓会です。酒井さん、張さんほか男性の幹事さんたちのお蔭で、ものすごい継続です。東京12期会も毎回20人近く参加されるとか、12期はサイコーです。北村先生もさぞ喜んでくださっているでしょう。今年、平成28年、前回を上回る80名のご出席を目指して呼びかけたいと思っています。

 “市岡の男(お)の子なりぞと頼もしき 殿方見上げて胸躍るなり”

 同窓会では毎回こんな気持ちが味わえて幸せです。元気にお会いできるのを楽しみにしております。

今、物凄く幸せです

今、物凄く幸せです
3組  清水誠治郎

 “元旦や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし”(一休宗純)
 私が小学4年生(昭和26年5月)の時、父は脳溢血と言う突然の病で48歳の天寿を以ってこの世を去りました。おそらく戦後の動乱期の期末とはいえ、かの歌等考えすらないままに、逝ったのだろうと思います。
  家系の血は争えないもので、私は52歳で中度の心筋梗塞があってからは、今日まで循環器系の病との戦が続いています。近代医学のお陰で、心臓を流れる動脈の支流には4個のステントが入っています。腹部の大動脈にも瘤(52ミリ)があったのですが、適切な手術処置で破裂せずに小さくなり、元気な活動ができています。
 昨年3月、10年間の町会代表や西宮市の校区のスポーツクラブの代表等々、長きに亘って社会奉仕させて頂いていましたが、立派な後継者が出来たのでスムーズに交代する事が出来ました。そして10月には会社の代表を息子に譲り、私は悠々自適の生活を満喫出来るものと確信していました。が、そう上手くはいきませんでした、何か判らないのですが日々多忙です。
 何の趣味も持たず、ひたすら仕事と奉仕に打ち込んできた私ですので、全てを後継者に託した時、家内から“貴方はこのままではすぐに呆けてきますよ!何か趣味をもちなさい!”。まだこの歳ですし、呆けるのはいやだったので考えた挙句、写真を始めようと思い立ち、最新式のレンズシャッターの高級機を購入して写し始めましたが、これがまた難しすぎて手に負いません。特に動体撮影は写そうと思っても、身体や目や頭がついていかないのです。残念で悔しいですが、動かない花や景色を撮っています。
 それともう一つ、絵を習い始めました。未だ10カ月しか経っていませんので御見せ出来るような作品はありませんが、4~5年間、健康に注意して修業が出来れば、喜寿の個展が出来ればいいなと淡い夢を持っています。でもやっぱり好きな画家(特に日本画・河合玉堂や上村松園) の絵をゆっくりと時間をかけボーと観ている方が心癒されます。
 私は今、物凄く幸せです。少し元気になった妻と息子たちと四人の孫に固まれて!

して見たいことが沢山

して見たいことが沢山
5組   段中 文子
 新年おめでとうございます。
 今年も元気に家族一同が顔を合わせてお正月を迎えられることが、何よりもめでたい事と嬉しく思っております。息子達もすっかりおじさんになってしまって、孫達の成長ぶりを見るにつれ自分の歳を感じますが、心は老けないようです。
 元気な間に出来ることをしておきたいと、昨年はよく温泉に出かけました。
 カレンダーを数えてみると十回も、それも連泊しているので結構のんびり過ごせたようです。
 スケッチ仲間と行くときは荷物が多くなりますが、数枚は描けるのでこれも楽しみです。何時まで経っても上達しないのが悩みですがボケ防止にもなるので続けようと思っています。
 今年の目標は、今までしたことがない事を始めたいですね。
 パソコンのユーチューブを覗いて水彩動画や音楽の演奏など見ていると、時間がすぐに過ぎていきます。最近演歌の新曲もこれで覚えることにしました。三日坊主にならなければ少しは歌えるようになるかもしれません。
 して見たいことが沢山あって今年もカレンダーの余白が無くなるくらいに充実した毎日を過ごしてみたいです。元気でないと実行出来ないので、健康維持が今年の目標です。

今を大切に楽しく生きたいなー

今を大切に楽しく生きたいなー
6組 畠平雅生
「目出度さも ちう位也 おらが春」そんな思いを抱く正月を迎えました。
古希を迎えたのを機に息子に会社の代表を譲り、自営業のお蔭で従来通り会社に出ています。譲って良かった事は、しんどい銀行との折衝や売り上げに一喜一憂することもなく、体調に不安を感じつつも人生の実りの秋を謳歌していると言った所です。
先日も掛かり付けのお医者さんに「貴方の病状は私の手に負えません。紹介状を書くので以前入院した成人病センターへお戻りください。」それからが早かった。診察を受けた5日後には成人病センターへ。11年前と同じ状況だったので「アーアー此の世の旅もこれまでか」そう思ったが何とか治療法は有るとの事。ヤレやれと言った所です。
この歳に成ると大切なことは「教養=今日用と教育=今日行くが大切」と言われるが何だか忙しい。仕事は採算が取れない特注機の製作や修理が主。多くの仕事が回って来て譲る前より忙しいくらい。
3組の清水君と過ごす国際組織の団体が「自然を守る活動」として開始する楢枯れした高槻の山に広葉樹の植樹を行い、森の復活を願う運動。
一般社会人の目で施設を視て欲しい。依頼されて引受けた社会福祉法人理事としての無償奉仕。
無償奉仕では永く関わるYMCAを初めとして多くの事を教えられ、自己満足感ももらいます。特筆は奥方に呆れられながら休日や帰宅後も毎夜の様に行う木工工作。作業中は無心の境地です。
時々思い出し、自分に言い聞かせるのは「今日は残りの人生の最初の日」の言葉。
今を大切に楽しく生きたいなー。そんな思いです。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

1日、1日をかみしめて

1日、1日をかみしめて
7組  上野 裕通

 私が今住んでいる住宅街はできて、もう、60年以上経つ。当初からの住人で、もう半分以上の方は鬼籍に入られている。私も、退職してもう14年目を迎え、鬼籍入りもまじかになってきた。
 今年も、美しい自然との出会いに感動をいただき、素晴らしい人との出会いに共感を抱きたいと願っている。息切れすることも多くなったが、山歩きもまだできる。出羽三山を昨年9月に巡ってきた。1 1月には、湖東三山を回り紅葉を愛でてきた。去年もそうだったが、家内安全、健康で生かされていることへの感謝の気持ちを忘れずに1日、1日を噛み締めていきたい。
 この年になると、自分に何ができるかを考えることも大切だ。今までしてこなかったが、家族が生活していく上で必要な日常的な仕事でもよい。できることを見出し、自分なりにできたことに満足感を持てればよい。少しは、人の役に立てればなおよいと思っている。地域のために自分が役立てるならそれもよしだ。自らが動ける。その動きが人の役に立つ。微々たる自分の軌跡であるが、これからの人生は、自分で作って行かねばと思っている。
 市岡12期の広場も開設されてもう何年が過ぎるのだろうか。張君をはじめ、原稿を寄せられた方々にお礼を申し上げたい。文字を通して心の交流ができている。居ながらにしてそれぞれの人たちの活動の様子が手に取るように分かる。 あの人たちも元気で頑張っておられるのだ。これらの情報を得られて元気をいただける。これも1 2期の広場のお陰である.
 ご苦労あるでしようが、今年もよろしくお願いいたします。

今年もどうぞよろしく

今年もどうぞよろしく
8組  末廣 訂

 昨年は戦後70年という節目の年で福島区歴史研究会では、近所に「終戦の玉音盤に関係した」93歳の元近衛兵がおられるということで記念講演会を区民センターで開催するなど多忙な時間を過ごす反面、個人としては大変な1年でした。
 1昨年の3月に自宅の階段で足を踏み外し前の壁に左肩を強打し、整形外科でレントゲンを撮ったが異常なしとのこと。しかし痛みがあり、注射やハリ灸で痛みを抑えていたが、昨年春ごろから、腰に痛みがでて、歩くことができなくなってきた。
 原因は脊柱管狭窄症ということで、実は2回目の腰の手術を3月にした。
 ところが、6月頃から、昨年打った左肩が痛みを増してきたので、再度専門医に見てもらったところ、肩腱板断裂で手術が必要ということで8月末から3週間入院し手術した。
 肩の手術は幸いうまくいったものの、固定のギブスを10月一杯までして、11月になってやっと自転車に乗れるという生活に戻った。
 短期間に腰と肩に2回メスを入れ、歩くという行為がほとんどなかったためか、今度は歩行が困難になり、何もしていないのに両足にしびれと痛みが走り、夜は寝付けず、睡眠不足の日が続いている。この間、医者を変え治療方法を変えているが一向に改善の兆しがなく弱っている。
 もちろん会社のOB会、地元の行事や市岡の集まりも失礼している。11月末に大阪フィルで大先輩・信時潔の「海道東征」を楽しみにしていたが、行けず残念であった。そんな時に突然、酒井八郎君が見舞いを兼ねて自宅に来てくれ本当にうれしかった。
 従来通りの生活ができるという新しい目標に向かって頑張りたいと思っています。
 今年は同窓会の年、みんなにお会いできることを楽しみにしています。

思い出を綴る (最終回)

思い出を綴る (最終回)
3組   石井 孝和

 関ヶ原の戦いの翌年1601年から9年の歳月をかけて完成したといわれる姫路城。
国宝姫路城(撮影:平成4年)

 わたしがNHK神戸放送局の姫路支局(放送局から支局になった年)に転勤したのは、平成4年(1992年)の夏、満50歳で、単身赴任だった。
 新しい勤務地では、各新聞社の支局をはじめ、記者クラブ、市役所、警察、県の出先機関などを巡って“顔見世”の挨拶に伺う。この中で姫路城の管理事務所に続いて、城のすぐ近くに昭和26年に開園したという市立動物園に伺ったとき、わたしの目に衝撃的な光景が映った。屋外で日光浴をしている「姫子」という名のアジアゾウの後足の一方が太い鎖につながれていたのだった。“鎖”は危険防止の為だろうが、堀もあり、私にはいらないように思えた。
 この日、園長に「初めましてどうぞよろしくお願いいたします」と挨拶したあと“鎖”について尋ねたところ、「以前から引き継いでいることなのです」とのことだった。その翌日、姫路市役所を訪ね、戸谷松司市長に2度目の“おめもじ”。わたしが“鎖”のことを話題に引き出すと市長は「そうですね。鎖といえば、
フラミンゴの卵を抱くウコッケイ
フラミンゴの卵の大きいこと
姫路市は新日鉄広畑工場があることもあって鎖の生産量が日本一なんですよ」とさらりとかわされてしまった。その後、こ の動物園では、鶏の仲間で「ウコッケイ」という鳥が自分の卵の3倍近くもある大きさの「フラミンゴ」の卵を抱いてひなを孵(かえ)したという話題や卵から孵化した「タンチョウヅル」が成長し園内を“お散歩”など、さまざまな話題をニュースに取り上げた。そして12月22日冬至の日には象の「姫子」が登場。近くの幼稚園児たちを動物園に招待し、「姫子」が地元でとれたジャンボカボチャを食べるのを見学するという催しが予定されていた。当日、動物園にカメラマンと一緒に行き、子どもたちとともに大きな「姫子」の姿を見て驚いた。わたしは感動した。「姫子」の後足からあの太い、冷たい“鎖”が消えていた。わたしはカメラマンに“後足”もしっかり撮るように頼んだ。わたしの話を心の片隅に止めていてくれた園長や市長が自ら“発信”したことであった。「姫子」は翌々年の平成6年、老衰のため昇天した。満50歳だった。
 平成5年12月(1993年)9日、姫路城と奈良法隆寺が、日本で初めて、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
 この日に備えて姫路市の広報課と市政記者クラブの間で打ち合わせが行われた。つまり、
世界文化遺産登録の知らせを受ける戸谷市長
“演出”のことで文化庁からの知らせを市長が電話で受けるのをどこで行うか、どんな催しをその時行うかであった。わたしはテレビとしての“絵作り”を考え、しかも1台のカメラで取材できるように提案した。その結果、市長を城の管理事務所に来てもらい、そこに電話をかけてもらうことになった。事務所の横が広場になっていて、そこで催しを行うことになった。
 文化庁から「姫路城が世界文化遺産に登録された」と市長に知らせの報が入ったのは、当日の午前1時ごろであった。そのあと記者会見に続いて、広場で保存会のハッピ姿のメンバーによって樽酒が割られ、かけつけた市民に祝い酒を振る舞う催しが行われた。“暗がりの中の案外、質素な催し”だったとわたしは記憶している。
屋根の端に近づき落雷跡を撮影
 この姫路城の大天守に落雷したことがある。その日の夕刻、“落雷、屋根瓦が落下”の知らせがあり、カメラマンに現場に行ってもらった。登城閉門時刻が近かったため、映像は下に落ちた瓦の破片のみであった。翌日、わたしは城に登って屋根の様子を撮影しようと管理事務所を訪ねた。そして落雷の痕跡を取材するため城の上階に向かった。その途中、長さ1メートルほどの竹の梯子を肩に担いで階段を下ってきた人に出逢い、もう一度最上階まで登ってもらった。割れた瓦を点検に行った人だった。瓦の被害は13枚だった。わたしは梯子を使って最上階の6階の窓からカメラを担いで屋根に出た。1歩1歩急な屋根をくだって落雷の痕を撮影することに“成功”。勿論命綱をつけてもらっていた。
 ことし、平成28年(2016年)1月17日は神戸を中心に6400人超の犠牲者がでた阪神淡路大震災から21年。
 わたしはあの日の前日、新聞各社の姫路支局長らと兵庫県山崎町のゴルフ場に行き1ラウンドを楽しんだ。成績は113で、自分としては上出来であった。プレーを終えてマンションに帰り、夜は、いつものように目覚まし時計と8ミリビデオを枕元に置き、支局員の緊急呼び出しの系統図までも準備して就寝。そして明け方、グサ!ときた振動で目を覚まし、大きな横揺れの中で“山崎断層の地震か”と思いながら揺れのおさまりをまった。隣の台所では
阪神淡路大震災を報じるNHKニュース
冷蔵庫のトースターなどが大きな音をたててフローリングに転がった。“アッ撮影”と思ったところが蛍光灯の紐が揺れる様子しか目に入らなかった。続く余震の中、急いで服を着替え、上階に住むカメラマンに大声で“局に行くぞ”と言い残して、すぐマンションの隣の支局に駆け込んだ。
 兵庫県西部各地の警察、消防に順次電話して被害状況を尋ねたところ、幸い“大きな被害はない”ということだった。そこで若い記者とカメラマンを局車で神戸に向かわせた。この局車は、途中で撮影した映像を奈良生駒山の放送アンテナを中継してBKに送ることができた。わたしはタクシーで姫路市内を映像取材してまわった。電車が止まったJR姫路駅、駅周辺のことごとく割れたビルの窓ガラス、そして世界遺産に登録された姫路城の瓦が落ちるなど壊れた土塀などを取材し、次々と支局からBKへ電送した。その後の余震にも警戒し情報を神戸局に送り続けた。
わたしの寝床、ビデオカメラほかがスタンバイ
 この日から約3か月、わたしは支局のニュースの部屋で寝泊まりを続けた。この間、広島から姫路港に来ていた貨物船が明石-天保山を不定期で運航(独自ネタ)するなど被災者への救援・支援など「震災後」の取材にあたった。この間、局舎が壊れ仮住まいしていた神戸局へ泊りにも行っていた。ある日、結婚式の仲人をしてもらった元NHKの記者(当時、BK経済班キャップ)の息子さんの前田仁君がNHKの記者になってBKから応援に来ていたことを知った。別れ際“これからも頑張って!”と声をかけ、“はい”と返事と笑顔に頼もしく思った。それから10日ほどしたころだったか、大津市に住む妻から“「朝日」の夕刊を見てごらん
NHKの記者から転職して落語家になった前田仁君
”と支局に電話があった。何と彼が転職を決め、サスペンダー姿で腰にポケットベルをつけ、落語の高座に座っている写真がデカデカと載っていた。林家染丸師匠に弟子入りしたとあった。
 早速、わたしは彼に激励とポケットベルのいきさつ(ポケットベルをデスクに返上した記者のキャップがわたしの仲人)を手紙にしたためた。後日、その返事が届いた。彼は神戸大学落研出身で“今度の大震災で何人かの友達が亡くなり、その家族の悲しみがひとしおだと感じ、そうした突然の未曾有の出来事に打ちひしがれた方々に“笑い”を伝えようと転職に踏み切った”とその思いを綴っている。
 彼の芸名は林家竹丸。大阪ナンバの「ワッハ上方」や大阪天満の「繁盛亭」に出るなど芸を磨き、NHK朝のテレビ小説「あさが来た」にも出演し、いきいきした表情でお茶の間に登場していた。
 わたしは平成8年、25年ぶりにBKに戻り1年間、NHKの番組を評価する「考査室」に席をおいたのちテレビニュースの制作に就き、現在にいたっている。
―― 最終回にあたって ――
 12回にわたった「思い出を綴る」、万感の思いでペンを置くことにしました。
 市岡高校で学んだことが縁になってNHKに入り、半世紀にわたってニュースの仕事に携わってきました。
 政治・経済・社会・教育・宗教・スポーツ・文化芸術・医学・科学など、さまざまの分野で共通するのは、すべて人の営みです。ニュースは非情な表現をします。それは、物事の"事実”を客観的にとらえ、感情を交えないで伝えるためです。
 記者も人間です。平和を願い、人々の和合を願い、苦悩に陥った人の復活を願うものです。
 長い取材活動を通して、多くの方々から英知や激励をいただきました。そうしたことの"恩返し”という気持ちで放送を通じて"わかり易いニュース”を地域の方々に届けたいと思っています。
 最後になりましたが、今回のシリーズ執筆にあたりましては、同窓会代表幹事の酒井八郎君はじめ張志朗君の後押しとHP委員皆さまのお力添えをいただいたことに深く感謝いたします。また、つたない文章に目を通してくださった同窓生の方々に感謝申し上げるとともに、これからの人生をともに明るく、楽しく、エンジョイできることを願ってやみません。ありがとうございました。
2016年1月1日       石井 孝和

―― この時期の世の中の動き――
▽平成4年(1992年)
  • 7月  バルセロナ五輪競泳女子200で14歳の岩崎恭子選手優勝。女子マラソン有村裕子選手銀。
  • 10月 天皇皇后両陛下中国初訪問。"多大の苦難を与え”とお言葉。
▽平成5年(1993年)
  • 5月  サッカーJリーグ開幕
  • 7月  北海道南西沖マグニチュード7.8の大地震、奥尻島津波で壊滅的打撃。
▽平成6年(1994年)
  • 9月  大阪泉州沖人工島に関西空港開港。
▽平成7年(1995年)
  • 1月  阪神淡路大震災(淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3)神戸市などで観測史上初の震度7を記録。死者6434人、重軽傷者約1万人、被災家屋約64万棟にのぼった。
  • 3月  東京霞が関の地下鉄で5車両に猛毒のサリンがまかれ、13人が死亡、数千人が重軽傷。オーム真理教の犯行であった。
  • 4月  1ドル80円を割る。
  • 7月  ミヤンマーのアウン・サン・スーチー氏 軍事政権による自宅軟禁から解放。