同期会
2015年12月31日
37期同窓生の皆様
37期生 同窓会 幹事
代表 北濱 晃司(3年8組)
代表 北濱 晃司(3年8組)
2016年 大阪府立市岡高等学校37期生 同窓会のご案内
前略 37期生の皆様にはますますご活躍のことと存じます。さて、下記の通り37期生同窓会を開催する運びとなりました。37期生は、夏季オリンピックの年に同窓会を開催することとしていますが、早いもので、前回の同窓会から4年を迎えます。毎回、150名近くの同窓生が参加して、旧交を温めています。また、今回も1次会では、恩師の先生方をお招きいたします。さらに、2次会では“盛り上がり企画”も準備しています。誕生50年の記念の年に、楽しいひと時を共に過ごしましょう。皆様、お誘いあわせの上、多数のご参加をお待ちしています。
草々
* * * 記 * * *
会の名前 | 2016年 大阪府立市岡高等学校37期生 同窓会 |
開催日時 | 2016年4月29日(金) 昭和の日 ■1次会 14時~17時 (受付開始13:30~) ■2次会 18時~21時 (受付開始17:30~) |
開催場所 | ■1次会 ANA クラウンプラザホテル大阪 3階 万葉の間 電話06-6347-1112 大阪市北区堂島浜1-3-1 ■2次会 アサヒスーパードライ梅田 電話06-6311-2829 大阪市北区西天満4-15-10 あいおいニッセイ同和損保フェニックスタワー B1F |
会 費 | ■1次会: 8,000円 (同伴お子様:小学生以下2,000円) ■2次会: 4,000円 (同伴お子様:小学生以下2,000円) |
出欠確認 | ※2016年2月末日までに、各クラス幹事に1次会および2次会の出欠を連絡して下さい。 ※各クラス幹事の連絡先が不明の場合は、下記、事務局お問い合せ先までご連絡下さい。 |
クラス幹事 (出欠連絡先) |
◎=代表、○=事務局 3年1組 岩本 幹、田澁 弘行 3年2組 柴田 勝利、門口 恵子 3年3組 松原 美巳、上田 七菜子 3年4組 ○久米 秀樹、外間 勉、塩田 真美、森 康子 3年5組 飯尾 元彦、武藤 太、小林 恵、金 好子、森脇 由起子 3年6組 岡村 修一、伊藤 政子、榎並 加代子、中野 宏美、谷岡 正子 3年7組 北野 健一、北村 修司、岡野 真貴 3年8組 ◎北濱 晃司、境目 久司、鷲原 知良 3年9組 西原 実、山本 和馬、石原 立子 3年10組 古川 政宏、辻本 佳代子 |
お問い合 わせ先 |
市岡高校37期同窓会 事務局: 久米 秀樹(3年4組) 電子メール: kume7181☆gaia.eonet.ne.jp 電話番号: 090-9285-1601 ※ 上記“☆”を“@”に変更してご連絡下さい(迷惑メール対策のため)。 |
2015年12月21日
2015年12月1日
気がつけば立冬はとおに過ぎて、いよいよ苦手な冬の到来です。近くに大ぶりの葉をつけるかえでの並木があるのですが、もうすっかり葉を落とし、その落ち葉が風に吹かれてカラカラと飛んでいきます。
日没もいっそう早くなりました。夕方の5時前には陽もとっぷりと暮れて、夜のとばりの中。襟もとにしのび込む寒さに思わず、ぞくり。熱燗がほしくなりますね。
月日の経つのは早いもので、あっという間の師走、12月です。上原さんの絵手紙にも「暦が1枚になりましたね」とあります。街のショッピングモールでは例年のようにポインセチアの鉢植えがずらりと並び、気の早い所ではイルミネーションが始まりました。これでクリスマスソングが鳴り出すと、なにかと気ぜわしい年の瀬になって行くのでしょう。
我が「12期の広場」今月号は「市岡高校東京12期会」の報告がトップ記事です。先月号のこの欄で書いた通り、酒井八郎代表幹事と共に行ってきました。
2年ぶりの東京。往きの新幹線は「ジパング倶楽部」の特典を使っての「ひかり」でしたが、自由席まで満席で座れない乗客が大勢。東に向かう人の多さに驚き、さらに東京山の手線のラッシュなみの乗客と有楽町、銀座界隈の人の多さ、そしてその賑わいに目をうばわれながらの会場到着でした。
「市岡高校東京12期会」も今回で第7回を数えたのですね。今や東京12期会は大阪での同窓会とならび、12期同窓会の確固たる「車の両輪」です。大石橋会長はじめ幹事の皆さん、そして参加者の皆さんのご苦労と熱意の賜物と頭が下がります。東西の同窓会を合わせると同窓会の参加者は、概ね100名近くになりますから、実に喜ばしいことです。今回も懐かしい同窓生との再会を果たすことができました。また時空を越えてのなつかしい話はつきることがありませんでした。なにより、その話の心意気と深い味わいから、多くの共感と元気を得たようです。詳しくは記事の本文をご覧ください。
石井孝和君の「思い出を綴る」も11回目。時代はようやく平成になりました。連載がはじまってから今や400字詰め原稿用紙で70枚を超えるボリウムです。回を重ねるごとにその健筆ぶりが際立ちます。さらに、毎回の末尾に記された「この時期の世の中の動き」には自分の記憶がフラッシュバックして思わず膝を打ってしまいます。感謝、感謝です。
今年最後の号です。お楽しみ下さい。
「12期の広場」12月号のラインアップは以下の通りです。
1. 「第7回 市岡高校東京12期会の報告」 5組 泉 信也
2. 「市岡高校東京12期会に参加して」 8組 萩原 貞雄
3. 「思い出を綴る (11)」 3組 石井 孝和

月日の経つのは早いもので、あっという間の師走、12月です。上原さんの絵手紙にも「暦が1枚になりましたね」とあります。街のショッピングモールでは例年のようにポインセチアの鉢植えがずらりと並び、気の早い所ではイルミネーションが始まりました。これでクリスマスソングが鳴り出すと、なにかと気ぜわしい年の瀬になって行くのでしょう。
我が「12期の広場」今月号は「市岡高校東京12期会」の報告がトップ記事です。先月号のこの欄で書いた通り、酒井八郎代表幹事と共に行ってきました。
2年ぶりの東京。往きの新幹線は「ジパング倶楽部」の特典を使っての「ひかり」でしたが、自由席まで満席で座れない乗客が大勢。東に向かう人の多さに驚き、さらに東京山の手線のラッシュなみの乗客と有楽町、銀座界隈の人の多さ、そしてその賑わいに目をうばわれながらの会場到着でした。
「市岡高校東京12期会」も今回で第7回を数えたのですね。今や東京12期会は大阪での同窓会とならび、12期同窓会の確固たる「車の両輪」です。大石橋会長はじめ幹事の皆さん、そして参加者の皆さんのご苦労と熱意の賜物と頭が下がります。東西の同窓会を合わせると同窓会の参加者は、概ね100名近くになりますから、実に喜ばしいことです。今回も懐かしい同窓生との再会を果たすことができました。また時空を越えてのなつかしい話はつきることがありませんでした。なにより、その話の心意気と深い味わいから、多くの共感と元気を得たようです。詳しくは記事の本文をご覧ください。
石井孝和君の「思い出を綴る」も11回目。時代はようやく平成になりました。連載がはじまってから今や400字詰め原稿用紙で70枚を超えるボリウムです。回を重ねるごとにその健筆ぶりが際立ちます。さらに、毎回の末尾に記された「この時期の世の中の動き」には自分の記憶がフラッシュバックして思わず膝を打ってしまいます。感謝、感謝です。
今年最後の号です。お楽しみ下さい。
「12期の広場」12月号のラインアップは以下の通りです。
1. 「第7回 市岡高校東京12期会の報告」 5組 泉 信也
2. 「市岡高校東京12期会に参加して」 8組 萩原 貞雄
3. 「思い出を綴る (11)」 3組 石井 孝和
以 上
2015年12月1日
第7回「市岡高校東京12期会」の報告
大阪と隔年で開催される「東京12期会」も今年で第7回。つまり2003年、皆が還暦の峠を越えてさらに一回りの長い行事となっている。ひとえに発足以来の山田・榎本両大幹事の人柄と肝いりのおかげである。
10月31日(土)、このところ恒例となっている会場の銀座「三笠会館」に20名が参集、座が乱れる前にとさっそくの記念撮影となる。榎本君が用意してくれた第1回以来の各会の集合写真を見比べ、各々時の経過に思いを巡らせる。
開会に際し、前回の集まりから先立って逝った村木雅章(8組)、川合兵治(4)、吉岡宏(4)君、北村彰一先生に黙祷をささげた。
開会あいさつは大石橋会長。
『市岡高校同窓会が開かれると、いつも、戦争の傷跡が随所に残る原っぱや道を通り、渡し船を利用して通学した情景を思い出す。あのころの日本はまだまだ貧しく、誰もが豊かさと平和を求めて懸命に頑張っていた。あれから半世紀以上が経ち、そこそこの成果が得られたのかな、とおもいたかったのだが・・・
昨今の世界の情勢を見ると、相変らず戦争あり、テロあり、飢えや大災害ありで、思わず目を覆いたくなるような有様である。この50年以上にわたる人々の努力は一体何だったんだろうと考え込んでしまう今日この頃である。
それはともあれ、12期生の我々は74歳を迎え、こうして元気で集えることに感謝し、今後も精一杯前向きに進んでいきたいと思う。今日は一日楽しく過ごしましょう。』
つづいて来賓として関西から駆けつけてくれた、酒井12期会代表幹事から大阪での同窓会幹事会の様子や、北村先生の思い出を交えた愉快なご挨拶をいただく。同じく張幹事には毎回持参いただく重い12期のバナー(横幕)とともに、昨今の杭打ち不祥事の話など専門家としてのエピソードの披露もあり、榎本幹事長の名司会で会は和やかに滑りだす。
参加の各自からは近況や随想、趣味、病気自慢、孫自慢、そして市岡の懐かしく、うれしく、辛い思い出などいつもながらの愉快な歓談にお酒が加わっておおいに盛りあがる。
西條君からは川歩き報告。「12期の広場」に掲載してきた「荒川歩き、源流点到達」を発案者の故川合君へのオマージュとする。次は多摩川?
広島から遠来の辻君の特別講演は大阪の会に続いて皆さんの関心事、「健康」。一番大切なのは人間が本来備えている「自己治癒力!」と、万病を克服してきた辻君に云われると説得力がある。それにしても誰かの「たよりにしてまっせ」の声は切実。
名残をおしみつつも、大阪での再会を期し、皆で校歌を斉唱して中締めとなる。
いつもの通り二次会はカラオケ、会場は銀座とは思えぬ古びた「千里馬」に大半が移動して歌合戦となる。女性陣の「花は咲く」は市岡の乙女の時代の復興でもある。男性陣は現役時代にクラブに支払った投資に見合った力量か。大詰めは関西Duetの「涙をふいて」。しみじみ聞かせるが、この息の合ったところが
「市岡高校12期会」をまとめてくれる所以だと思い、皆の感謝を合わせ報告としたい。

参加者:
1組:上原澄子
2組:坂野雅子(集合写真のみ)、高谷尚江、佃富江、杲田慶子
3組:西條軍蔵
4組:児玉恭子、重松清弘、酒井八郎
5組:阿部清二(集合写真に間に合わず)、泉信也
6組:大石橋宏次、中柴方通
7組;張志朗
8組:榎本進明、緒方宏文、辻紘一郎、萩原貞男、村崎裕昭、山田正敏
大阪と隔年で開催される「東京12期会」も今年で第7回。つまり2003年、皆が還暦の峠を越えてさらに一回りの長い行事となっている。ひとえに発足以来の山田・榎本両大幹事の人柄と肝いりのおかげである。
10月31日(土)、このところ恒例となっている会場の銀座「三笠会館」に20名が参集、座が乱れる前にとさっそくの記念撮影となる。榎本君が用意してくれた第1回以来の各会の集合写真を見比べ、各々時の経過に思いを巡らせる。
10年前の2005年11月11日「第2回東京12期会」は27人。お元気な亡き顔も懐かしく。

開会あいさつは大石橋会長。
『市岡高校同窓会が開かれると、いつも、戦争の傷跡が随所に残る原っぱや道を通り、渡し船を利用して通学した情景を思い出す。あのころの日本はまだまだ貧しく、誰もが豊かさと平和を求めて懸命に頑張っていた。あれから半世紀以上が経ち、そこそこの成果が得られたのかな、とおもいたかったのだが・・・
昨今の世界の情勢を見ると、相変らず戦争あり、テロあり、飢えや大災害ありで、思わず目を覆いたくなるような有様である。この50年以上にわたる人々の努力は一体何だったんだろうと考え込んでしまう今日この頃である。
それはともあれ、12期生の我々は74歳を迎え、こうして元気で集えることに感謝し、今後も精一杯前向きに進んでいきたいと思う。今日は一日楽しく過ごしましょう。』

参加の各自からは近況や随想、趣味、病気自慢、孫自慢、そして市岡の懐かしく、うれしく、辛い思い出などいつもながらの愉快な歓談にお酒が加わっておおいに盛りあがる。
西條君からは川歩き報告。「12期の広場」に掲載してきた「荒川歩き、源流点到達」を発案者の故川合君へのオマージュとする。次は多摩川?

名残をおしみつつも、大阪での再会を期し、皆で校歌を斉唱して中締めとなる。
いつもの通り二次会はカラオケ、会場は銀座とは思えぬ古びた「千里馬」に大半が移動して歌合戦となる。女性陣の「花は咲く」は市岡の乙女の時代の復興でもある。男性陣は現役時代にクラブに支払った投資に見合った力量か。大詰めは関西Duetの「涙をふいて」。しみじみ聞かせるが、この息の合ったところが
「市岡高校12期会」をまとめてくれる所以だと思い、皆の感謝を合わせ報告としたい。

第7回 市岡高校東京12期会 参加20名の顔ぶれです。下記の名前と一致しますか?
参加者:
1組:上原澄子
2組:坂野雅子(集合写真のみ)、高谷尚江、佃富江、杲田慶子
3組:西條軍蔵
4組:児玉恭子、重松清弘、酒井八郎
5組:阿部清二(集合写真に間に合わず)、泉信也
6組:大石橋宏次、中柴方通
7組;張志朗
8組:榎本進明、緒方宏文、辻紘一郎、萩原貞男、村崎裕昭、山田正敏
(泉 信也 記)
2015年12月1日
市岡高校東京12期会に参加して
1. 銀座の三笠会館へ
開始時間を確認するため「市岡 12期」でグーグルを検索した。「10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会
が銀座三笠会館で・・・」が出てきた。しかもトップに。これはすごい。HPのメンテがよく、多くの人がアクセスしているということだ。自宅最寄り駅から銀座へ50分。黒いマントを被り、猫のメークをしたハロウイーンの人々の間を抜けて地下鉄駅から地上に出る。三笠会館まですぐだ。エレベータ内で児玉さんに会う。会場のロビーに着く。すでに大石橋、張、山田、榎本、泉、西条、重松君らが歓談中。次々と集まり12時半より別室にて集合写真。三笠会館は、今年で30年連続地価日本一の銀座鳩居堂前とは目と鼻の先だ。贅沢にもロビー、集合写真室、宴会室と3つの場所を占拠。亡くなった川合君からここを何かの縁で紹介してもらったお蔭だ。13時より宴会用の円卓テーブル室へ移動。
2. 北村先生、村木君、川合君、吉岡君に黙とう。
生前、北村先生より「萩原の読書感想文が手元にない」趣旨のお詫びのメールをもらった。天国で気にして いるに違いない。「先生、そんなことは気にしなくていいですよ。感想文を出した記憶が本人にないのですから」と伝えたい。 川合君、前回会った時、ウイスキーをストレートで飲(や)っていました。ミラノの話をしましたね。またひょうひょうとしておっとりした印象の村木君。以前三重県から家業の合間を縫ってこの会に来られましたね。
3. 同窓会代表幹事のあいさつ
酒井12期同窓会代表幹事挨拶。はるばる神戸から駆けつけてくれた代表幹事の身ぶり、手振りの挨拶。関西での同窓会幹事会報告と北村先生のお話。一期一会はこの歳になれば実感する。張同幹事挨拶。今年も12期の垂れ幕持参ありがとう。日頃のホームページの維持にも感謝。ビルのくい打ちの深さなど建物の安全に関する書類の審査をしているという話に聞き入る。
4. 榎本幹事長の司会により遠い所から来た人の順番に近況報告。そこでの話題。
市岡という場で我々は出会った。語り、学び、遊んだ。心の中にある市岡の記憶は永遠だ。でも今を生きている人間は変わって行く。だからこそこの同窓会が永く続いて欲しい。
8組 萩原 貞雄
1. 銀座の三笠会館へ
開始時間を確認するため「市岡 12期」でグーグルを検索した。「10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会
が銀座三笠会館で・・・」が出てきた。しかもトップに。これはすごい。HPのメンテがよく、多くの人がアクセスしているということだ。自宅最寄り駅から銀座へ50分。黒いマントを被り、猫のメークをしたハロウイーンの人々の間を抜けて地下鉄駅から地上に出る。三笠会館まですぐだ。エレベータ内で児玉さんに会う。会場のロビーに着く。すでに大石橋、張、山田、榎本、泉、西条、重松君らが歓談中。次々と集まり12時半より別室にて集合写真。三笠会館は、今年で30年連続地価日本一の銀座鳩居堂前とは目と鼻の先だ。贅沢にもロビー、集合写真室、宴会室と3つの場所を占拠。亡くなった川合君からここを何かの縁で紹介してもらったお蔭だ。13時より宴会用の円卓テーブル室へ移動。
2. 北村先生、村木君、川合君、吉岡君に黙とう。
生前、北村先生より「萩原の読書感想文が手元にない」趣旨のお詫びのメールをもらった。天国で気にして いるに違いない。「先生、そんなことは気にしなくていいですよ。感想文を出した記憶が本人にないのですから」と伝えたい。 川合君、前回会った時、ウイスキーをストレートで飲(や)っていました。ミラノの話をしましたね。またひょうひょうとしておっとりした印象の村木君。以前三重県から家業の合間を縫ってこの会に来られましたね。
3. 同窓会代表幹事のあいさつ
酒井12期同窓会代表幹事挨拶。はるばる神戸から駆けつけてくれた代表幹事の身ぶり、手振りの挨拶。関西での同窓会幹事会報告と北村先生のお話。一期一会はこの歳になれば実感する。張同幹事挨拶。今年も12期の垂れ幕持参ありがとう。日頃のホームページの維持にも感謝。ビルのくい打ちの深さなど建物の安全に関する書類の審査をしているという話に聞き入る。
4. 榎本幹事長の司会により遠い所から来た人の順番に近況報告。そこでの話題。
- 東京12期会をいつまでやるか
- 川歩きの話。
- 仕事の話。
- 同窓生の思い出
市岡という場で我々は出会った。語り、学び、遊んだ。心の中にある市岡の記憶は永遠だ。でも今を生きている人間は変わって行く。だからこそこの同窓会が永く続いて欲しい。
2015年12月1日
思い出を綴る (11)
びわ湖の水は2つの方向に分かれて流れ出ている。1つは自然の流出口、瀬田川の洗堰(あらいぜき)で、瀬田川から宇治川、そして淀川を経て大阪湾へ流れ出る。このことはよく知られている。もう1つの大津市三井寺から明治時代に大規模工事で造られた「琵琶湖疏水(そすい)」が、京都東山区の三条蹴上(けあげ)で浄水場と「哲学の道」の脇を流れて京都市内を経由したのち宇治川に合流することは広くは知られていない。
わたしがNHK大津放送局から京都放送局へ、今度は単身で転勤した翌年の昭和63年(1988年)の夏、宮内庁の京都事務所を訪れたところ、京都御所にある池にびわ湖と同じ“淡水赤潮”の現象が見られることを知った。
京都事務所によると、京都御所にある3つの池には、 南北朝時代から京都市内を北から南に流れる鴨川の水を引き入れていたが、明治時代に琵琶湖疏水が完成したことからびわ湖の水を取り入れるようになったという。京都御所の池は、びわ湖の水位に関係することも知った。このことは早速ニュースに取り上げた。びわ湖の水位がマイナス1メートルになった前の年の夏、近江八景の一つ「堅田(かたた)の落雁」で知られる大津市堅田にある「浮御堂(うきみどう)」周辺のびわ湖が干上がり、わたしが湖底に立ってリポートしたことを思い出した。こんな思い出を京都事務所で話していると、偶然にも事務所の人が「近く、地下水を汲み上げる工事に入る」と言ったことから、これまたニュースで取り上げることにした。 工事は予定通り翌年の春には完成。京都御所の池はびわ湖の水と地下水が混じることになった。
この取材を続けている途中、今度は「オランダの女王が“おしのび”(非公式)で御所においでになる」という話を耳にした。“おしのび”の当日、わたしは“NHKの赤い腕章”をつけ、重さ約10キロのテレビカメラを担ぎ取材に駆けつけた。他社の取材者はいなかったようだ。
女王のお名前は「ベアトリックス」。昭和55年(1980年)にユリアナ女王から生前に王位を継承されたという。(“生前”は日本と違うところ)
当日はおだやかな日和に恵まれ、一行約20人が御所の散策を楽しまれた。テレビカメラはビデオテープで撮影しながら音声も収録できるため、わたしは、女王に“散策の感想”をひと言いただけたらと思って、近くにいた“おつきの人”にお願いした。するとその人は女王に近い別の人に順々にそのことを伝えてくれて、間もなく“答え”が戻ってきた。はらはらした気持ちで返事を待っていたわたしの目に入ったのは、さきほどの“おつきの人”のクロスさせた“人差し指”であった。しかし、ベアトリックス女王は、終始にこやかにほほえまれて御所の佇まいを楽しんでおられるご様子で、あえて“お声”はいらなかった。
京都は伝統産業と先端産業がともに盛んなところ。 わたしが産業界の情報が集まる「経済記者クラブ」に所属していたこの頃、西陣織のネクタイの柄にコンピューターを導入したり、立石電機(現在のオムロン) が“ファジー推論” (ゼロ・イチの数値とは違って「もう少し強く」とか「もう少し弱く」といった人間に近い表現・感知が可能な考え方)を活用したロボットを開発したり、更には村田機械が家庭用のファクシミリの生産を始めるなど、京都に本社を持つ企業が活発な動きをしていた。
わたしが放送局にいたある日の夕方、精密機械メーカー村田製作所の若い広報マン2人が来局した。2人は「経済記者クラブ(京都商工会議所内)に行き、弊社の新製品の説明をしてきましたが、あなたの顔が見えなかったので、会社に帰る途中、寄せてもらいました」と言って、配布してきた資料と一緒に“小指”ほどの大きさの“製品”(部品)を見せながら説明に入った。
「この製品は大型船舶に用いられる船のバランスを保つジャイロスコープの役割を果たすものです」と得意満面で話してくれた。この製品の用途は、海底開発や宇宙開発など、幅広い分野で 活用されることが予想され、ニュースにする価値があると思ったが、「こんな小さな“製品”だけをテレビで紹介するのは難しいよね」というと、「弊社まできていただければ、この製品を搭載した“自転車”をお見せしますよ」という返事。わたしはカメラマンと一緒に会社に行くことにした。
辺りがうす暗くなった時刻に会社に着くと、構内にあるテニスコートに照明が灯された。そしてそこに登場したのは、遠隔操作で走る人形が乗せられたおもちゃのような自転車だった。人が歩くくらいのゆっくりした速度で走る自転車は、ハンドルが右に左に操られ、バランスを保っていて倒れることがなかった。その様子をカメラマンが追いかけて撮影し、翌朝、私のリポートでBSニュースの電波に乗せられた。
時代が昭和から平成に移る頃も京都勤務が続いた。平成に入り、街は華やかさをとり戻し、伝統文化を紹介する織物や染物などの展示会が盛んに開かれた。わたしは京都で伝承されている伝統工芸にも関心をもっており、その都度、本職のカメラマンと共に取材に行き、“茶の間”にニュースとして紹介した。
平成3年5月には、宇治市で“京都みどりの祭典”と銘打った「第42回全国植樹祭」が開かれた。この祭典には天皇皇后両陛下が臨席された。祭典では両陛下が北山杉としだれ桜をお手植えになり、午後からは、京都府南部に建設中の関西文化学術研究都市の研究施設を視察された。この施設は精華町に完成した「国際電気通信基礎技術研究所」で、先端産業につなげるための実験が行われていた。
両陛下の行幸啓(天皇・皇后が外出すること)に同行している宮内庁詰めの取材陣とは別に、地元京都府庁担当のわたしたち取材陣は、一行の現地到着より一足先に行き、待ち受けていた。“NHKの赤い腕章”をつけたわたしは、両陛下とおつきの人が施設に入られるのを見計らってその列に加わり、ちゃっかりと、両陛下の真後ろに並ぶ形になってしまった。
この実験室で両陛下は「自動翻訳電話」と「ニューロコンピューター」(手書き文字認識)の実験に参加され、お二人とも大変ご満悦の様子であった。この内「ニューロコンピューター」の実験では、天皇陛下がコンピューターの前に座って“電子ペン”を手にされた。この時、天皇陛下が“「平成」にしようか、「平和」にしようか”と小さな声を出され、思案されたご様子。ほんの少しの間を置いてから「平和」の文字を机上のプレートに記されたのが見えた。するとすぐさま「ピース」と英語で男性の音声が流れたため、部屋いっぱいに、どっと驚きの声と拍手が沸き起こりそれまでの“緊張”から解放されたようになごやかな雰囲気が漂った。そうした中で、わたしが両陛下の真後ろで目にしたのは、お二人のほほえましいやりとりであった。実験を終えられた天皇陛下が皇后陛下を見上げられて、“あなたもやってみますか”とゆったりとしたやさしさに満ちた静かな声で尋ねられたのに対し、皇后陛下は周りの人たちに気遣われて、声をたてず、慎ましい笑顔を見せながら、右手の人差し指を軽く立て、顔の近くで、そっと左右に動かす仕草をなさった。天皇皇后両陛下の5日間にわたる行幸啓に同行取材をした中でもお二人の短いやり取りは印象深いものであった。
ことしは戦後70年、NHKが放送した戦後を綴ったドギュメント番組を視聴した。この中で、天皇陛下が小学生だった時に習字で「平和」「建設」という文字を力強く書かれたのを見て、あの時の電子ペンで書かれた「平和」の文字がわたしの脳裏に重なっていた。
―― この時期の世の中の動き――
▽昭和62年(1987年)10月
・利根川進米マサチュウセッツ工科大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞。
▽昭和63年(1988年)3月
・青函トンネル開通、同10月瀬戸大橋開通
▽昭和63年(1988年)9月
・昭和天皇病状悪化。111日に及ぶご容体報道のため終日放送。阪急ブレーブス、オリ
ックスに球団売却。
▽昭和64年(1989年)1月7日
・吹上御所で昭和天皇崩御。在位史上最長の62年。
▽平成 元年(1989年)6月
・衛星放送第1テレビ、第2テレビ本放送開始。8月 イラク軍クエートへ侵攻。11月
官民労組大同団結「連合」発足。
▽平成 2年(1990年)4月
・大阪花の万博開催。半年間に2300万人入場。11月「即位の礼」。NHK・民放各社中
継放送。12月バブル絶頂期。株価1年で約8900円上昇。
▽平成 3年(1991年)1月
・湾岸戦争始まる。4月牛肉・オレンジの割当制度撤廃、自由化。5月滋賀県で開かれてい
た「世界陶芸祭」に向かうJR快速電車と信楽高原鉄道が正面衝突。42人死亡、600
人以上が重軽傷。6月南アフリカ大統領がアパルトヘイト(人種隔離)政策終結宣言。
▽平成 4年(1992年)3月
・東海道新幹線「のぞみ」運転開始。
(次号につづく)
3組 石井 孝和
びわ湖の水は2つの方向に分かれて流れ出ている。1つは自然の流出口、瀬田川の洗堰(あらいぜき)で、瀬田川から宇治川、そして淀川を経て大阪湾へ流れ出る。このことはよく知られている。もう1つの大津市三井寺から明治時代に大規模工事で造られた「琵琶湖疏水(そすい)」が、京都東山区の三条蹴上(けあげ)で浄水場と「哲学の道」の脇を流れて京都市内を経由したのち宇治川に合流することは広くは知られていない。
わたしがNHK大津放送局から京都放送局へ、今度は単身で転勤した翌年の昭和63年(1988年)の夏、宮内庁の京都事務所を訪れたところ、京都御所にある池にびわ湖と同じ“淡水赤潮”の現象が見られることを知った。
京都事務所によると、京都御所にある3つの池には、 南北朝時代から京都市内を北から南に流れる鴨川の水を引き入れていたが、明治時代に琵琶湖疏水が完成したことからびわ湖の水を取り入れるようになったという。京都御所の池は、びわ湖の水位に関係することも知った。このことは早速ニュースに取り上げた。びわ湖の水位がマイナス1メートルになった前の年の夏、近江八景の一つ「堅田(かたた)の落雁」で知られる大津市堅田にある「浮御堂(うきみどう)」周辺のびわ湖が干上がり、わたしが湖底に立ってリポートしたことを思い出した。こんな思い出を京都事務所で話していると、偶然にも事務所の人が「近く、地下水を汲み上げる工事に入る」と言ったことから、これまたニュースで取り上げることにした。 工事は予定通り翌年の春には完成。京都御所の池はびわ湖の水と地下水が混じることになった。
この取材を続けている途中、今度は「オランダの女王が“おしのび”(非公式)で御所においでになる」という話を耳にした。“おしのび”の当日、わたしは“NHKの赤い腕章”をつけ、重さ約10キロのテレビカメラを担ぎ取材に駆けつけた。他社の取材者はいなかったようだ。
女王のお名前は「ベアトリックス」。昭和55年(1980年)にユリアナ女王から生前に王位を継承されたという。(“生前”は日本と違うところ)
当日はおだやかな日和に恵まれ、一行約20人が御所の散策を楽しまれた。テレビカメラはビデオテープで撮影しながら音声も収録できるため、わたしは、女王に“散策の感想”をひと言いただけたらと思って、近くにいた“おつきの人”にお願いした。するとその人は女王に近い別の人に順々にそのことを伝えてくれて、間もなく“答え”が戻ってきた。はらはらした気持ちで返事を待っていたわたしの目に入ったのは、さきほどの“おつきの人”のクロスさせた“人差し指”であった。しかし、ベアトリックス女王は、終始にこやかにほほえまれて御所の佇まいを楽しんでおられるご様子で、あえて“お声”はいらなかった。
京都は伝統産業と先端産業がともに盛んなところ。 わたしが産業界の情報が集まる「経済記者クラブ」に所属していたこの頃、西陣織のネクタイの柄にコンピューターを導入したり、立石電機(現在のオムロン) が“ファジー推論” (ゼロ・イチの数値とは違って「もう少し強く」とか「もう少し弱く」といった人間に近い表現・感知が可能な考え方)を活用したロボットを開発したり、更には村田機械が家庭用のファクシミリの生産を始めるなど、京都に本社を持つ企業が活発な動きをしていた。
わたしが放送局にいたある日の夕方、精密機械メーカー村田製作所の若い広報マン2人が来局した。2人は「経済記者クラブ(京都商工会議所内)に行き、弊社の新製品の説明をしてきましたが、あなたの顔が見えなかったので、会社に帰る途中、寄せてもらいました」と言って、配布してきた資料と一緒に“小指”ほどの大きさの“製品”(部品)を見せながら説明に入った。
「この製品は大型船舶に用いられる船のバランスを保つジャイロスコープの役割を果たすものです」と得意満面で話してくれた。この製品の用途は、海底開発や宇宙開発など、幅広い分野で 活用されることが予想され、ニュースにする価値があると思ったが、「こんな小さな“製品”だけをテレビで紹介するのは難しいよね」というと、「弊社まできていただければ、この製品を搭載した“自転車”をお見せしますよ」という返事。わたしはカメラマンと一緒に会社に行くことにした。
辺りがうす暗くなった時刻に会社に着くと、構内にあるテニスコートに照明が灯された。そしてそこに登場したのは、遠隔操作で走る人形が乗せられたおもちゃのような自転車だった。人が歩くくらいのゆっくりした速度で走る自転車は、ハンドルが右に左に操られ、バランスを保っていて倒れることがなかった。その様子をカメラマンが追いかけて撮影し、翌朝、私のリポートでBSニュースの電波に乗せられた。
時代が昭和から平成に移る頃も京都勤務が続いた。平成に入り、街は華やかさをとり戻し、伝統文化を紹介する織物や染物などの展示会が盛んに開かれた。わたしは京都で伝承されている伝統工芸にも関心をもっており、その都度、本職のカメラマンと共に取材に行き、“茶の間”にニュースとして紹介した。
平成3年5月には、宇治市で“京都みどりの祭典”と銘打った「第42回全国植樹祭」が開かれた。この祭典には天皇皇后両陛下が臨席された。祭典では両陛下が北山杉としだれ桜をお手植えになり、午後からは、京都府南部に建設中の関西文化学術研究都市の研究施設を視察された。この施設は精華町に完成した「国際電気通信基礎技術研究所」で、先端産業につなげるための実験が行われていた。
両陛下の行幸啓(天皇・皇后が外出すること)に同行している宮内庁詰めの取材陣とは別に、地元京都府庁担当のわたしたち取材陣は、一行の現地到着より一足先に行き、待ち受けていた。“NHKの赤い腕章”をつけたわたしは、両陛下とおつきの人が施設に入られるのを見計らってその列に加わり、ちゃっかりと、両陛下の真後ろに並ぶ形になってしまった。
この実験室で両陛下は「自動翻訳電話」と「ニューロコンピューター」(手書き文字認識)の実験に参加され、お二人とも大変ご満悦の様子であった。この内「ニューロコンピューター」の実験では、天皇陛下がコンピューターの前に座って“電子ペン”を手にされた。この時、天皇陛下が“「平成」にしようか、「平和」にしようか”と小さな声を出され、思案されたご様子。ほんの少しの間を置いてから「平和」の文字を机上のプレートに記されたのが見えた。するとすぐさま「ピース」と英語で男性の音声が流れたため、部屋いっぱいに、どっと驚きの声と拍手が沸き起こりそれまでの“緊張”から解放されたようになごやかな雰囲気が漂った。そうした中で、わたしが両陛下の真後ろで目にしたのは、お二人のほほえましいやりとりであった。実験を終えられた天皇陛下が皇后陛下を見上げられて、“あなたもやってみますか”とゆったりとしたやさしさに満ちた静かな声で尋ねられたのに対し、皇后陛下は周りの人たちに気遣われて、声をたてず、慎ましい笑顔を見せながら、右手の人差し指を軽く立て、顔の近くで、そっと左右に動かす仕草をなさった。天皇皇后両陛下の5日間にわたる行幸啓に同行取材をした中でもお二人の短いやり取りは印象深いものであった。
ことしは戦後70年、NHKが放送した戦後を綴ったドギュメント番組を視聴した。この中で、天皇陛下が小学生だった時に習字で「平和」「建設」という文字を力強く書かれたのを見て、あの時の電子ペンで書かれた「平和」の文字がわたしの脳裏に重なっていた。
―― この時期の世の中の動き――
▽昭和62年(1987年)10月
・利根川進米マサチュウセッツ工科大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞。
▽昭和63年(1988年)3月
・青函トンネル開通、同10月瀬戸大橋開通
▽昭和63年(1988年)9月
・昭和天皇病状悪化。111日に及ぶご容体報道のため終日放送。阪急ブレーブス、オリ
ックスに球団売却。
▽昭和64年(1989年)1月7日
・吹上御所で昭和天皇崩御。在位史上最長の62年。
▽平成 元年(1989年)6月
・衛星放送第1テレビ、第2テレビ本放送開始。8月 イラク軍クエートへ侵攻。11月
官民労組大同団結「連合」発足。
▽平成 2年(1990年)4月
・大阪花の万博開催。半年間に2300万人入場。11月「即位の礼」。NHK・民放各社中
継放送。12月バブル絶頂期。株価1年で約8900円上昇。
▽平成 3年(1991年)1月
・湾岸戦争始まる。4月牛肉・オレンジの割当制度撤廃、自由化。5月滋賀県で開かれてい
た「世界陶芸祭」に向かうJR快速電車と信楽高原鉄道が正面衝突。42人死亡、600
人以上が重軽傷。6月南アフリカ大統領がアパルトヘイト(人種隔離)政策終結宣言。
▽平成 4年(1992年)3月
・東海道新幹線「のぞみ」運転開始。
(次号につづく)
2015年11月18日
21期同窓会事務局
今年も昨年に続き忘年会を企画しましたのでご案内致します。
さて今回のアトラクションは?
乞うご期待!!
※ 昨年は浅井(剱崎)さん(三味線)と鬼塚君(サックス)の生演奏がありました。
(昨年の模様はホームページの写真でご覧ください。)
多くの仲間の参加を楽しみにしています
◇日 時:平成27年12月19日(土) 6時スタート
◇場 所:づぼらや「新世界別館」 06-6633-5529
◇会 費:7.000円・フリードリンク
(吉川さんに無理を言って安くしてもらってます。)
参加の方は下記までメールでお申し込みください。
※ 上記☆を@(半角)に変更してご利用下さい。
※ この記事をご覧になった時点でご案内メールが届いていない方は、メールアドレスが把握できていません。
お手数ですが、不参加の場合でもメールアドレスをお知らせ頂けると幸いです。
【参加者(申込み順)】二村(高谷)和義[10]、前川健一[10]、松田(吉川)照子[1]、藪田均[8]、酒井昭男[1]、篠原博[2]、浮舟先生、大西淳三[5]、横溝廣和[7]、竹内哲[10]、藤原幹久[4]、湊口護[10]、山口正[3]、
【コメント等】
2015年11月4日
2015年11月2日
2015年10月24日、41期生同期会は透き通った秋の青空の下、大阪梅田スカイビルの3階ステラホールにて先生方4名、同期生126名、合計130名もの参加のもと、盛大に開催されました。
開催スタートから「久しぶり?」「おー元気やったか?」という声があちこちで聞こえ、テンションはうなぎのぼり。学年としては卒業後初めての26年ぶりの再会でした。当日は日本国内のみならず、遠くはイタリアから参加の同期生も!一次会ではものたりず二次会には98名もの参加者があり、会場は大盛り上がりでした。余程良かったのか、また来年もしよう!という声が。。。
関係方々には大変お世話になり、ありがとうございました。お陰様で大変有意義な同期会が開催できました。
2015年11月1日
11月です。秋が深まっています。関西のテレビや新聞の紅葉便りもこれからが本番のようです。
先日テレビで大山隠岐国立公園の紅葉が映し出されていたのですが、それを見て、何年か前、同窓生とバス旅行したことを思い出しました。書き置いた文章にこんなくだりがありました。
『鏡ケ成(かがみがなる)から鍵掛峠(かぎかけとおげ)に行く道路は、ブナ林のまっただ中を通っているのですが、ブナの木々がうっそうと道路に張り出し、さながらブナのトンネルのようになっています。その中を右に左に蛇行しながらバスが進むわけですから、眼前もブナ、両側もブナ、天蓋もブナ、当然背後もブナです。そのブナが紅葉し始めており、木漏れ日が葉裏にきらめきながらひときわその鮮やかさを際だたせ、それはそれは見事な絶景です。紅葉のさらなる絶頂期にここを通れば身も心もまっ黄色、真っ赤に染まる事でしょう。』
ここにある鍵掛峠とそれに続くこの辺りは大山の紅葉の絶景ポイント。最盛期の紅葉が見られなかったのがよほど口惜しかったようです。今年はなにがなんでも、息を飲むような紅葉に出会いたいと思ってしまいます。
今月号の上原(旧姓大川)さんの絵手紙は「もみじとセキレイ」です。もみじは紅葉の代表樹でセキレイは秋の季語。タイムリ-で秋ぴったりの絵手紙にうれしくなりますね。
絵手紙に『10月31日の同窓会、楽しみにしています』とありました。このラインアップを読んで頂いている前日の10月31日に第7回「市岡高校東京12期会」が開かれています。残念ながら、その詳細な報告は、今月号には間に合わず、12月号の掲載です。
代表幹事の酒井八郎君と一緒に私も参加しますのでこの原稿をかいている今から、保管しているグリーンの同窓会横幕と新幹線のキップを前にうきうきしています。どこまで盛り上がるか、またどれだけ楽しい報告ができるか、是非ご期待下さい。
さて我が「12期の広場」11月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
1.「同窓会幹事会を開きました」4組 酒井 八郎
2.「思い出を綴る (10)」 3組 石井 孝和
3.『リレー投稿』「つれづれに(2)」 玉 手 箱
先日テレビで大山隠岐国立公園の紅葉が映し出されていたのですが、それを見て、何年か前、同窓生とバス旅行したことを思い出しました。書き置いた文章にこんなくだりがありました。

『鏡ケ成(かがみがなる)から鍵掛峠(かぎかけとおげ)に行く道路は、ブナ林のまっただ中を通っているのですが、ブナの木々がうっそうと道路に張り出し、さながらブナのトンネルのようになっています。その中を右に左に蛇行しながらバスが進むわけですから、眼前もブナ、両側もブナ、天蓋もブナ、当然背後もブナです。そのブナが紅葉し始めており、木漏れ日が葉裏にきらめきながらひときわその鮮やかさを際だたせ、それはそれは見事な絶景です。紅葉のさらなる絶頂期にここを通れば身も心もまっ黄色、真っ赤に染まる事でしょう。』
ここにある鍵掛峠とそれに続くこの辺りは大山の紅葉の絶景ポイント。最盛期の紅葉が見られなかったのがよほど口惜しかったようです。今年はなにがなんでも、息を飲むような紅葉に出会いたいと思ってしまいます。
今月号の上原(旧姓大川)さんの絵手紙は「もみじとセキレイ」です。もみじは紅葉の代表樹でセキレイは秋の季語。タイムリ-で秋ぴったりの絵手紙にうれしくなりますね。
絵手紙に『10月31日の同窓会、楽しみにしています』とありました。このラインアップを読んで頂いている前日の10月31日に第7回「市岡高校東京12期会」が開かれています。残念ながら、その詳細な報告は、今月号には間に合わず、12月号の掲載です。
代表幹事の酒井八郎君と一緒に私も参加しますのでこの原稿をかいている今から、保管しているグリーンの同窓会横幕と新幹線のキップを前にうきうきしています。どこまで盛り上がるか、またどれだけ楽しい報告ができるか、是非ご期待下さい。
さて我が「12期の広場」11月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
1.「同窓会幹事会を開きました」4組 酒井 八郎
2.「思い出を綴る (10)」 3組 石井 孝和
3.『リレー投稿』「つれづれに(2)」 玉 手 箱
以 上
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- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより:
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