同期会

12期同窓会幹事会を開きました

4組 酒井八郎(同窓会代表幹事)

 9月27日(日)、1組から8組までのクラス幹事が京都にあつまり、来年予定されている12期同窓会について話し合いを行いました。
 参加者は、高橋、八島(1組)、北浦、山西(2組)、清水、石井(3組)、原、古藤、酒井(4組)、段中(5組)、畠平、武田(6組)、張、上野、田端(7組)、川副、川村、塩野(8組)の皆さんの18名です。
 当日は京都東山の「中秋の名月」を眺めることも期待しながらの集いでした。また、時間の余裕のある人は、翌28日(月)から始まるNHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル「広岡浅子さん」に関する資料館があるということで、午前11時、肥後橋の大同生命本社ビルに集合し、2階メモリアルホールで、人物像と時代背景の知識を仕入れました。淀屋橋から京阪電車で京都へ。車窓からの眺めを楽しむより、おしゃべりの切れ間のないうちに、祇園四条に到着。
 南座前午後2時に5名が合流し、京都在住の川村君の案内で、花見小路通りを「一力亭」、「歌舞練場」を横に見ながら、海外からの観光客の間をすり抜けるようにして「建仁寺」へ。
「建仁寺」は京都最古の禅寺。「〇△□乃庭」や「〇△□」の額の前では、北村彰一先生のお名前が一斉に飛び出しました。この「〇△□」は、禅宗の四大思想「地水火風」を象徴したものと言われるものだそうです。北村先生のご冥福をみんなでお祈りしました。
 「風神雷神図屏風」、天井に描かれた「双龍図」に圧倒された後は、「六波羅蜜寺」で閻魔様に手を合わせ、「安井金毘羅宮」ではびっしりと貼りめぐらされた絵馬の多さに目を奪われました。みなさんの疲れたようすから予定より早めのティータイムとなり、その後、会場である「ロシヤ料理の店―キエフ」に入りました。
 午後5時前に所用のあった4名も到着。出席予定であった全員がそろったところで、早速、話し合いに入りました。酒井より、昨年の同窓会の後の会計報告、写真、DVDの発送、追加依頼の処理等、今までの経過報告をしました。
 次に、塩野君から今春、逝去された北村彰一先生のご様子を話してもらいました。先生からの同窓会出席のおはがきに『一期一会とかいうそうですが、市岡で会えたのは深い因縁です。限られた生命のなかで仲良く楽しくやって行きましょう』とあったのが思いだされました。北浦さんからも北村先生が初めて同窓会二次会に参加して楽しかったこと、「12期の皆さんによろしく」と北村先生から礼状が届いたことの報告がありました。
 献杯後、食事をしながら、本題の来年の同窓会に向けてのいろんな意見を自由に話し合いました。その結果、来年の同窓会の枠組みを下記のようにすること、またより具体的には来年4月の舞洲のお花見会後の幹事会で決定することになりました。
 幹事会の後、会場のビルの屋上で、見事な「中秋の名月」を鑑賞しました。
 皆さん、お身体にくれぐれもお気をつけ下さい。
- 記 -
 日 時: 平成28年10月の日曜日
 会 場: 前回と同様に「ホテルクライトン 新大阪」を予定
 費 用: 前回と同程度


思い出を綴る (10)

3組  石井 孝和

 大阪城天守にかがやく鯱(しゃちほこ)は、大阪湾の最低潮位(O.P)から約85メートルの高さにある。その高さから、ずーと北方に線を引いていくと滋賀県のびわ湖の湖面に達することは、あまり知られていないことだと思う。(滋賀県の調べで湖水面の標高は85.614メートル)
 近畿1400万人の「水がめ」といわれるびわ湖が、県土の6分の1を占める滋賀県のNHK大津放送局に転勤したのは、昭和57年(1982年)の夏のこと。前の年の夏、茨城県の霞ケ浦の水問題を企画ニュースに取り上げ、びわ湖の取材に訪れた所に転勤するとは思いもよらないことだったが、このことはわたし自身も家族も「関西に戻れて」ラッキーな気分であった。
 272億トンもの水(大阪市民が飲み水にすれば300年超分)を湛(たた)えたびわ湖では、夏になると「富栄養化」(水中の窒素やリンが増え、臭いがでる)に伴ってプランクトンが発生し、“淡水赤潮”と呼ばれる現象がみられ、その都度、現場にカメラマンと駆けつけて取材するなど、放送を通じて“びわ湖の環境悪化”に警鐘を鳴らし続けた。また周辺住民が、“石けん運動”など水の浄化を呼びかける様子なども度々放送で伝えた。
南方上空からのびわ湖。手前にJR東海道線や名神高速道路がみえます。
 昭和59年(1984年)には、湖や沼の環境問題を考える「第1回世界湖沼会議」が大津市で開かれた。国連はじめ欧米諸国、国内各地から識者や住民代表が集い、様々な意見が交わされたことを連日、ニュースで伝えた。
 この会議の最終日、大津市内の琵琶湖ホテルを会場に、皇太子ご夫妻をお招きしてレセプションが開かれた。会場には会議に出席した100人以上の人達の他にメディア記者、カメラマンも大勢参加した。立食パーティで飲み物のグラスを手にした人たちが歓談していた。その夜の会場では、カメラマンの撮影場所は指定されておらず、会場内を自由に動き回ることができた。わたしは、歓談されている皇太子殿下の後方にいて会場の様子を見渡していた。その時、NHKのアルバイト学生のライトマンがバッテリーを入れたリュックを背負い、両手にライトを握りしめて、わたしの前を駆け抜けようとしたところ彼の前にいた警護の担当者が“危ない”と声をかけ、咄嗟に彼の両肩に手をかけ押さえつけると、彼はペシャンと四つん這いなってしまった。彼はすぐにムクッと立ち上がり、警護の人にピョコンと頭を下げ、妃殿下の傍で彼の到着を待つカメラマンの後ろに行き、妃殿下の方にライトを灯した。会場では、何もなかったかの様子で、両殿下も全くこのことにお気づきではなかった。しかしそのままで済まなかったことがすぐに知らされた。レセプションが終わって大津放送局に戻ると、少し後から帰ってきたカメラマンが、「関西写真記者協会」の幹事社・朝日放送の報道カメラマンから“今夜の突然の出来事を宮内庁に報告しなくてはならないのでよろしく”といわれたと相談を受けた。
第1回世界湖沼会議の分科会の会場でリポート
 わたしは即座に“ぼくが書きます”と返答して、その場で「顛末書」と題して、便箋に宮内庁宛てとして“出来事の経緯(いきさつ)と謝罪”を書き記し、幹事社に託してもらった。この「顛末書」は、翌日には宮内庁の“出先”にあたる京都御所に届けられたと聞いたが、その後、宮内庁からは何の音沙汰もなかった。彼はその後、大手の証券会社に就職がきまった。
 それから2年後の昭和61年(1986年)7月には、史上2回目の衆参同日選挙が行われた。この選挙で関西で話題になったのは参議院議員選挙の大阪選挙区に立候補した漫才師だった西川きよしさんが、102万票を超える大量得票で初当選したことだろうか。
「選挙報道」はNHKにとっては「災害報道」に次いで重要な使命を担っている。公職選挙法に基づいて行われる選挙は、“固い法律の中でも人間社会の営みが反映しているものだ”と、取材を通して多くを知った。
西川きよしさん(ヘレンさんと)
 この衆参同日選挙で衆院滋賀全権区には、7人が立候補した。
 高校卒業時、成績表がオール1ながら東京大学に入り、通産省の役人を経て滋賀県知事を3期務め、のちに新党さきがけの代表となり、大蔵大臣も務めた武村正義氏。一方、中学中退後、15歳で「専検」(専門学校入学資格の検定試験)に合格、東京大学を卒業、大蔵省の官僚歴任後、国会議員となって防衛庁長官を務めた山下元利氏。山下氏と鎬(しのぎ)を削り、この選挙の3年後にわずか69日間というごく短命ながら首相を務めた宇野宗佑氏。このほか、連続当選を続けている社会党の野口幸一氏、共産党の瀬崎博義氏、現・衆議院副議長の民主党新人川端達夫氏、国鉄時代、びわ湖の西を走る湖西線を高架で建設することに携わった新人の川島信也氏。
 選挙戦は、これら7人の激しい争いとなった。告示日は雨だった。わたしはこの日の朝、滋賀県庁前で、カメラマンと一緒に、立候補の届出を済ませた7人の候補者が勢ぞろいするのを待ち構えていた。そこに順次、届出た名前の入った大きな選挙用のタスキを肩に候補者が集合した。めいめいの傘をさしていた。色のついた傘や黒いこうもり傘など様々だった。
候補者の揃踏み(全員が同じ傘)
滋賀県庁前
わたしは“選挙報道は中立・公正”ということ念頭に置きながら候補者一人ひとりと挨拶を交わしたあとで、“皆さん、そこで暫く待っていてくださいね”と言い残して、脱兎のごとく県庁内の売店へ走り「透明の傘」を調達。約5分後に戻って“仕切り直し”。“では皆さん傘をさし上げてくださーい”。こうして県庁前の“揃(そろい)踏(ぶ)み”は、全候補者が同じ条件の下、顔も明るく映像におさまった。
 記者の仕事はこのあとが重要。わたしは、投票日に向けて連日、選挙事務所や候補者と同じように全選挙区を回り、組織や団体の代表ら数多くの人たちと出会って取材を進め、候補者の得票を予測する“票読み”会議に臨んだ。当時は“出口調査”(投票所で投票を済ませた有権者にアンケート)というものはなかった。投票日、NHKの開票速報の放送が始まると、開票結果が出る以前に“最終的に当選間違いなし”と判定した候補者を“当確
この時の衆院選滋賀全県区開票結果
”と紹介していく。この日の“速報”で衆院選挙で全国で最初に“当確”となったのは、滋賀全県区の山下元利氏であった。東京の選挙班との打ち合わせ通りであった。山下氏には選挙事務所の控室で“当確”を待ってもらい、一部団体からのクレームを避け、目に墨を入れる前のダルマを舞台の脇に離してもらっておくことも事前にわたしが連絡しておいた。この選挙の3年前の昭和58年12月、京都から乗った湖西線の車中で、偶然出会い、秘かに“衆院解散は一週間後ですよ”とささやいてもらったのが山下氏であった。山下氏は当時、田中角栄首相の側近中の側近であった。この「特ダネ}を東京政治部へ“速報”したことは言うまでもない。

―― この時期の世の中 ――
▽昭和57年 ・テレビアニメ「機動戦士 ガンダム」爆発的ブーム ・歴史教科書「侵略」
        から「進出」にの表現で内外で問題化。
▽昭和58年 ・ロッキード事件判決公判で田中元首相に実刑判決 ・NHK朝ドラ「おしん」
        の視聴率62.9% ・劇団四季のミュージカル「キャッツ」のロングラ
        ン始まる。
▽昭和59年 ・グリコ森永脅迫事件社会的な注目集める。 ・ロス五輪山下選手金メダル
▽昭和60年 ・日本電信電話公社が「NTT」、日本専売公社が「JT」として新発足。 
       ・プロ野球阪神が日本シリーズで西武を下し、球団史上初の日本一。バース、
        掛布、真弓らが活躍。 ・日航ジャンボ機墜落
▽昭和61年 ・「男女雇用機会均等法」施行も批判高まる。 ・社会党に初の女性委員長
▽昭和62年 ・ゴッホの作品「ひまわり」が58億円で保険会社落札。 ・国鉄が分割民営化。

                             (次号に続く)

『リレー投稿』  - つれづれに -  ②

 ボウリングといえば誰でも一度はした経験があるはずだ。
 ボウリングの歴史は意外に古くて、紀元前5200年頃エジプトで子供の墳墓よりボウリングの原型とされる石製のボールとピンが発見され、これがルーツとされている。日本に最初のボウリング場がオープンしたのは、1861年のことで場所は長崎の出島である。
 我々が高校を卒業して10年後の1970年は、大阪万博が開かれた年で吹田市のあの広い会場に世界各国の展示館が立ち並び、とりわけアメリカ館はその前年にアポロ11号が持ち帰った月の石を展示していて、それを見るために連日長い行列ができていた。その同じ年にボウリング史上では、中山律子プロがテレビ中継の決勝戦で、女子プロ第一号のパーフェクトゲームを達成したのである。美人の彼女が毎日のようにテレビに登場していわゆるボウリングブームと言われた時代で、誰もが少し上手くなるとプロになろうかと冗談をいうほど手軽で身近に思える競技だった。
若い頃そんな時代にも全く興味を持たなかったのに、今年の春からボウリングを始めることになったのは、「ボウリングは怪我が少なくて、なおかつ適度な運動量がありマイペースで一人でも遊べる年寄には最適のスポーツだ」という友達の言葉についふらふらと乗せられてしまったからである。
ボウリングを始めるといってもとにかく会場を覗いたこともないので、友達と一緒に行きボール選びから持ち方、基本の動作は4歩で投げるなど色々なルールまで教えてもらってから初めての投球だった。言われたようにとりあえず投げた球が転がると思ったのにスルスルと滑って行くと、いきなりピンを7本も倒したのには自分でもびっくりする予想外のことであった。ボウリングって面白いと、料金の安い早朝や別の店の日曜夜の投げ放題に、時々通うようになったのはこの時からである。下手でもまぐれでストライクが取れるのもボウリングの良さで、スコアが100を超えたときにはヤッタ!と嬉しいし、5ゲーム終わって帰る時にはまだデパートも開いていないというのも何か朝から時間を得した感じである。通勤ラッシュ時の電車に乗るのも物忘れが多くなった脳を活性化するような気がしてくる。
先日ある新聞に“ボウリング団塊世代に人気”というタイトルで、安くて手軽に楽しめて仲間もできて健康維持になるので、この10年間で40万人もボウリングをする人が急増していると載っていた。お店のほうも来た客が長続きするようにスタンプをためると靴やボールを安く買えるようにしたり、初心者のための健康ボウリング教室(6週連続で毎回2時間半、ゲーム代,貸靴代他参加に必要な費用すべて込みで2000円)を開いて終了後は同好会を作ってくれるので、その雰囲気は本当に賑やかで楽しそうだ。
 私の行った教室は少し遠い別の店だったので同好会に入らなかったのは少し残念で、友人達にそれとなく話をしても若い頃にしたよ・・と関心がないので今でも一人遊びをしている。 上手くならなくて嫌になる時もあるからいつまで続くかわからないが、せっかく始めた事だから長く続くためには頑張るより面白いと思える程度にしとくのがいいようだ。
若い頃に色々なことを経験していればハードルも低いが、今からでも新しい事を始めるための時間だけはあるはずなのでまだまだ知らない世界を広げたいと思っている。
(玉手箱)

【高21期】秋の六甲/神戸 日帰りツアー (更新しました)

企画担当/ 竹内 哲(3-10)

第21期同窓生のみなさんコンニチワ♪
たくさんのご返信ありがとうございました。
 
いよいよ来週は「秋の大遠足」です。
参加者20余名、少々こじんまりしましたが、
広いサロンバスの車内をゆったり使って、
秋の六甲山と47年のタイムスリップを楽しみましょう。
 
くれぐれも集合はお間違いの無いように。
よろしくお願いしま~す。
 
———————————————-
 10月31日(土) 9:00am
 大阪モード学園前 集合
※神姫(シンキ)バスに乗車します。
———————————————-
 
【追伸】
座席は充分余裕がございます (ご夫婦での参加も可)。
駆け込みで参加ご希望の方は10月29日までにお願いします。
 
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「12期の広場」10月号のラインアップ

10月です。中秋の名月に窓下の虫の音、すっかりの秋ですね。昨日から部屋着も長袖、長ズボンにかえました。
 上原澄子さんの今月の絵手紙は「秋の花かご」。ラインアップ用のカットとしては2回目で好評、感謝、感謝です。かごの中には秋の花が一杯。上原さんの自宅の庭には今、白と赤の萩の花が咲き乱れているそうです。
 小学校の授業で「秋の七草」を習いました。でもなかなか覚えられませんでした。粗忽者の私は今でも「七草粥」の七草とごっちゃです。あらためて調べると、はぎ、ふじばかま、女郎花、葛、すすき、桔梗、なでしこの七種です。ラインアップを書くようになって、花や木について少しは関心を持つようになりましたが、この中で、私が五感(味覚と嗅覚は除いて)で感じることができるのはすすきのみです。秋の七草は山上憶良の万葉の歌にその謂れがあるそうです。古人から現代人までに愛で続けられた花々なのだと考えるとこの季節の感興もひとしお。今年はしっかりと花も名も覚えたいと思っています。
 10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会が銀座「三笠会館」で開催されます。1回目が平成15年の開催で今回が7回目です。関東地方には同窓生が50名以上在住しているそうで、大阪での同窓会と重ならないようにと、隔年で開催、毎回概ね20~30名の同期生が集います。
 私も過去に4回ほど参加しました。大阪の同窓会では会えなかった同期生と会えることや、全員と傍に座って話が出来ること、また大阪を離れて日本の首都圏ならではの生活ぶりを目の当たりに出来ることなど、格別な感慨がありました。今回は12期同窓会代表幹事の酒井八郎君も出席の予定で、私も同窓会の横幕を持って同行しようと考えています。
 一緒に行ってみようと思われる方は是非、ご一報ください。久しぶりに『花の大東京』に行ってみませんか。
 
 さて我が「12期の広場」今月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
 
  1. 「思い出を綴る (9)」 3組  石井 孝和
  2. 「山本さんを囲んでの食事会」
  3. 『リレー投稿』  「つれづれに  (1)」  井の蛙
 
 今月号から『リレー投稿』を掲載します。「12期の広場」は記名投稿を原則にしてきましたが、『リレー投稿』に限っては、ニックネームによる投稿記事とします。執筆者につきましては、一定期間が経過したのちに「執筆者群」として公開したいと考えています。ニックネームが誰なのかもお楽しみの一つと考えています。    
-  HP委員  -

思い出を綴る (9)

3組    石井 孝和
 
「隠元豆」(いんげんまめ)
 宇治通信部の次の勤務地は、NHK水戸放送局であった。
 小学1年生の長男と、3歳の長女、それに妻を伴って京都から新幹線で東京へ、東京上野から常磐線に乗り継いで、平坦な田園風景を眺めながら約2時間の“旅”の末、水戸駅に降り立った。昭和53年の8月だった。京都に比べて顔を撫でる風が涼しかったのが、印象的だった。
 茨城県は“農業県”で、特に養豚数は全国一といわれ、「すき焼き」には豚肉を使うのがこの地方の“常識”
 青物店の店先で野菜を品定めしていると、折板(へぎ)の値札に墨字で「円元豆」と書かれているのに目がとまった。関西では「いんげんまめ」と呼ばれるさや付きの豆(宇治黄檗宗・万福寺の開祖、隠元(いんげん)禅師が中国の明(みん)から持って来たことからその名が付いたようだ)宇治から各地に広がった豆の名が、この地方では「い」が「え」に変わって「円元」とあて字が使われたものとわたしが勝手に解釈した。
 当時、水戸放送局はテレビの電波はもたず、東京の電波を受信していた。
水戸偕楽園梅まつり(3月)
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 赴任翌年の2月の初旬、泊り勤務の明け方に局舎の窓から雪景色がぼんやり見えた。水戸地方気象台に電話で問い合わせると“午前5時現在、水戸市の積雪量は13センチ”とのこと。わたしは正午の関東のローカルニュースに映像取材しようと梅の名所で“日本三名園”の一つ「偕楽園」に向かうことにした。
 車はタクシー。3社に次々電話したが、どこも応答なく、むなしい呼びリンの音が続いた。6時すぎ、ようやくこのうちの一社「安全タクシー」と電話が通じ、出勤早々の運転手が局に車を着けてくれた。わたしは行き先を告げた後、午前7時34分水戸駅を出る列車に、撮影したフィルムを「電車便」として乗せることを運転手に伝え、運転手もうなずいた。
 偕楽園に着くと、低い垣根を越えて庭園に入り、撮影を開始。3本レンズの「ベルハウエル」のカメラのシャッターを押し続け、真白な雪景色の梅林の小径を進んだ。片手に三脚を持ちながらの“移動ショット”を試みた。約3000本といわれる梅の木にはまだ花が見られなかった。長靴をはいたわたしは、辺りを走り回った末、偶然、白とピンク色のたった二輪が並んでいるのを発見。徳川斉昭(とくがわなりあき)ゆかりの建物「好文亭」(こうぶんてい)を向こうに見て、3分間の撮影を終えた。それからが大変—–。
 車のドアを開けて待っていてくれた運転手が「10分ほどで駅につっからね」(着くからね)とスピードをあげて車を走らせ、何と7時30分すぎに駅に到着。しかし、34分発の列車が、先頭車両を上野方面に向けて停車していた。わたしはその時点で“間にあわない”と半分“あきらめ”の気持ちで小荷物掛に“電車便”(フイルムを入れた厚紙の袋)を預け、伝票を書き始めていると、国鉄職員の一人が矢庭に“電車便”を掴み取って「まだ間にあっぺ」という言葉を残し、小雪が舞い出した中を、線路を何本も跨ぎ、5~60メートル先のプラットホームに上がり、列車の後部に向かう姿を見届けたもののその時、時刻が7時34分を過ぎており、不安がよぎった。残った職員が「けさは大雪でダイヤに遅れがでているよ」と云ってわたしに声をかけてくれた通り、間もなく先程の職員が手ぶらでプラットホームを降りこちらに向かってきたのが見えた。
 その時、わたしは放送局で朝の番組の“録画”を同僚に頼まれていたことを思い出した。「お礼は後ほどに」と伝え、待たせたタクシーに飛び乗って局に引き返してもらい、2階の放送部に駆け上がって、すかさず“録画”のスイッチON。7時45分からの番組に間に合って、約束を果たすことができた。それから間もなく、“雪”の書き原稿を東京に電話で送ったのち茨城県警察本部の記者クラブに行き、昨夜から県内で起きた交通事故などの取材にとりかかっていた。
 さて“雪を冠った偕楽園の梅の花”の方は、無事、お昼の関東ローカルニュースで放送され、多くの“茶の間”に“花と雪”を届けることができた。
「ニュース原稿執筆中のわたし」
 この時、しみじみ思った。1分余りのニュースが“茶の間”に届くまでに何と多くの人たちにお世話になったことか。タクシーの運転手を初めとして2人の国鉄職員、列車の車掌、上野駅の助役、“電車便”をNHK東京を出て持ち返るオートバイの運転手、フイルムを現像するNHKの技術職員、フイルムの編集者。一方、書き原稿は受稿者、ニュースデスク、TVのコメント担当者、アナウンサー、それに放送に携わる技術職員と続く。取材者としてこれらの多くの方々にあらためて深い感謝の気持ちをもったものだ。
 茨城県では赴任早々の10月に日立市で、翌年2月末には守谷町で誘拐事件があるなど、凶悪犯罪をはじめ、選挙違反、交通死亡事故が相次ぎ、大津放送局に転勤するまでの4年間に92市町のうち、88市町で取材したことが後でわかった。選挙違反の中には、県議会議長を巡る事件もあり、10人ほどの県議が水戸地方裁判所で判決されることがあった。
 高校1年生の時に北村先生に提出して先頃返却された作文「民主主義」のことは忘れていたが、日頃から考えていたことに挑んだ。 警察キャップをしていたわたしは地元「いはらき新聞」の他、各社のキャップに持ちかけ、
「開廷直後の法廷」(NHKニュースより)
それまで許されていなかった「法廷内の開廷後の映像を撮らせてほしい」と水戸地方裁判所に全員が「記者クラブ」として申し出た。当初、裁判所の所長は、この申し出に「最高裁が許可していないので受けつけられません」と即刻断られたものの、次の日もまた次の日も“ねばった”結果、裁判長の裁量で“2分間の代表取材”の口約束で許可された。他社のキャップたちの協力あっての画期的な出来事であったと思う。
 日本新聞協会(NHKも所属)と最高裁判所の間で「開廷直後の写真撮影」が正式に明文化されたのは、この“出来事”から6年経った昭和60年と記録されている。

 ——- この時期、関西では ——–

△ 昭和53年 → ・大阪府中央卸売市場開業  ・神戸市のバーなどで置かれたのが始
  まりといわれる「カラオケ」ブームが始まる。
△ 昭和54年 → ・三菱銀行北畠支店で猟銃殺人、人質事件  ・近鉄バッファローズ
  パリーグ初優勝
△ 昭和55年 → ・奈良東大寺大仏殿「昭和の大修理」終わる。  ・「上本町ハイハイ
  タウン」開業。  ・漫才ブーム起きる。ザ・ボンチ、島田紳助、松本竜介ら。“赤信号、
  みんなで渡れば怖くない”などの流行語を生みだす。
△ 昭和56年 → ・神戸ポートアイランド博覧会開催  ・京都大学の福井謙一教授に
  日本人初のノーベル化学賞  ・大阪駅前第4ビル完成
△ 昭和57年 → ・第1回大阪女子マラソン開催  ・大阪造幣局で五百円硬貨発
  行  ・大阪駅前横断歩道に日本初の信号待ち時間表示装置設置
                             (次号つづく)

山本さんを囲んでの食事会


 カナダ在住の同窓生、山本久美子(5組 旧姓 古荘)さんが今年も里帰りされました。早速、柏木赫子さんから連絡があり、恒例の食事会を8月30日、京都で開きました。
 山本さんはカナダに永住してすでに40年、オンタリオ州のトロントで元気に生活しておられます。毎年、日本に8月~9月初めの3週間ほど滞在して、日本におられるご家族や旧友と再会され、また日本の各地を旅行されておられます。
 久々に12期の卒業50周年記念文集を開くと、山本さんが書かれた文章にこうありました。『毎年8月に帰国しているので、平面的で荒涼と広がった単調なカナダの風景に比べて、ひっそりと咲いている桃の花や春風にはらはらと散る桜、遠く春の霞に包まれた山々、目前に広がる菜の花畑、赤い夕日に照らされ色彩を深める紅葉、落ち葉と一緒に舞飛ぶ赤とんぼ・・・。そういった細やかでやさしい日本の風景がとても懐かしいです。』
 「山本さんを囲んでの食事会」に私が参加しはじめてすでに十数回になりました。(情けない話ですが、記憶がはっきりしません。ただ今は鬼籍に入ってしまった山元君もいたのでそれくらいにはなるのでしょう)今年もつかの間の関西滞在ですので、それにふさわしい所ということで、京都になりました。
 この日の京都は曇り、特有の蒸し暑さも一時ほどではなく、午後3時、京都南座前に集合して、食事会前のそぞろ歩きを楽しみました。
1年ぶりの再会に皆さんニコニコ
(前列左から二人目が山本久美子さんです)
 参加者は、女性が山本久美子さん、柏木赫子さん、古藤知代子さん、木本みつるさん、男性は川村浩一君、塩野憲次君、川副研治君、田端建機君と私、張志朗の合計9名です。
 集合後、近くの八坂神社から円山公園へ。夏休み最後の日曜日、外国人観光客を含めての人並みは、あいも変わらない混雑です。しかし、公園に入るとその広さや、緑のせいもあってか思いのほか、ゆっくりできました。私は初めての円山公園です。繁華街から歩いて20分程度でこのような“別世界”があるのは、京都ならではのことかもしれないと一寸驚きました。そぞろ歩きとはいえ、名所や歴史のいわれもどこ吹く風のようで山本さんを囲んでのもっぱらのお喋りです。早々に知恩院前を通り、食事会場にいきました。
 食事会場は「京新山」。前の道は石畳で傍に白川が流れ、振り向けば、鴨川です。『もっとも京都らしい雰囲気の場所』(川村浩一君の言葉)のロケーションでした。
 料理は京料理にしました。部屋はお店の心遣いで、最上階の一番良い部屋。障子の向こうに四条界隈一帯と鴨川、その川沿いにずらり並んだ「床」の景色が見下ろせました。
 暮れなずむ古都の風情を独り占めしている感じで、京都に決めた甲斐がありました。
 乾杯後、早速料理に舌鼓、くつろいでのよもやま話に花が咲きます。話題は、齢相応に健康のことから始まり、近況や高校時代の思い出などです。今年も吉田先生の化学の実験でのマッチの擦り方の指導の話で笑いがはじけました。(記憶しておられますか。アルコールランプに火を付けるとき長手方向にマッチをすると、マッチ箱の消耗が早いので、短手方向で摩擦面を短くするべしと指導された事)
 年齢でしょうか、食べる方や飲む方は往時の迫力はありませんが、お喋りだけは瞬時に高校生に戻るものですね。またすでに「老境」にあるようですから、彼我の想いは同じ、それだけに遠く離れている山本さんを囲んでの語らい、笑いがことさら大切に思えました。
 午後9時前、名残を惜しみ、来年の再会を約束してお開きとしました。
 柏木さんから9月5日、日本料理の食材を一杯買い求めて山本さんが無事、離日されたと教えてもらいました。 ( 張 志朗-記)

『リレー投稿』  - つれづれに -  ①

何か月ぶりに大阪市内にでかけ用事を済ませた後、時間があったので大阪駅周辺をぶらついてみた。いつもは大阪駅から地下鉄や私鉄に乗り換えることがほとんどで、自然と地下通路を利用するのだが、この日は晴れで暑さも一段落の夕方、地上に出てJR大阪駅の南側(阪神百貨店側)の歩道を歩くことにした。

旧大阪駅北口のグランフロントとヨドバシカメラ

大阪駅の北側は、昨年完成したグランフロントのビル群の商業施設で大阪一のにぎわいと言われている。もともとそこは大阪駅北口とよばれていた場所で、市バスの発着所や旧国鉄貨物の基地、ビルと言えば、大阪鉄道管理局とその職員宿舎だけの印象の「駅の裏口」だった所だ。
高校時代、梅田に行くと、帰りはもっぱらここから自宅までバスだった。社会人になって大阪を離れていた時の帰省時もここからのバス利用。雨降る夜、バスを待つ間の暗がりと自動車のヘッドライトの光の帯が何故か、強く記憶に残っている。JR大阪駅のホームを覆う長大スパンの大屋根に象徴される大阪ステーションシティとあいまって今の変わり様は驚くばかりで、往時の面影は全くない。
それに比べると駅の南側はいくつかの記憶をよびさましてくれる場所が残っている。阪急 東通り商店街(歌声喫茶や名曲喫茶の「モコ」や「田園」、お好み焼きの「起世」などがあった所)やお初天神通り、戦後のやみ市のなごりが長く残っていた阪神百貨店周辺なども思い出深い場所である。集客力で言うと新開発の北側に押されているようで、人の流れや賑わいも昔のそれではないようである。

お初天神通りのアーケード
古い話であるが、旧大阪駅の南正面に木造2階建ての「旭屋書店」があってしばしば通ったものである。高校時代はここで主に参考書を、社会人になってからは文庫本や仕事に関連した専門書などを買った。培風館の「数Ⅲ精義」(岩切精二 著)を学友に薦められて買って帰り、それだけで賢くなった気分になったのもここ。二十歳すぎの悩み多き時期に「人間のしるし」(モルガン)を求めて行ったが探せず、やむを得ず同年輩の女子店員に聞いた所、「宗教書ですか?」と言われて慌てた事もここ。よほどにやせ細って暗い顔つきをしていたのだろう。
木造2階建てから御堂筋に面したビルに店舗移転したあともたびたび通った。阪急梅田駅に「紀伊国屋書店」ができ、その後「ジュンク堂」など大規模書店が次々にできたのだが、本の探しやすさから言えば、御堂筋の「旭屋書店」は、ほどよい規模であったと今でも思っている。事実、「紀伊国屋書店」で探せなかった本が「旭屋書店」で簡単にみつかった経験が一度や二度ではない。
その店が閉店、ビルが壊されて工事中であったのは知っていたが、新ビルが完成、オープンしていたのには一寸驚いた。軽快な外装材を使ったガラスと鉄の近代的なビルではあるが、印象は御堂筋や大阪駅の北側に最近出来た商業ビルと同じ感じ。仮に商業地という与条件への最適解は一つとすると高さや外観などが良く似たものになるのかもしれないが、効率や商業主義の合理だけが今風かと思うと心寒い。当然の如く「旭屋書店」はなくなっており、その代わりに1階正面玄関横の一等地にコンビニエンスストアーが入っていて奇妙なほどに堂々とした風情である。
ビルの向かいが阪神百貨店である。見渡してみると改築なった阪急百貨店は天を衝く超

正面が阪急百貨店、右側がヒルトンホテルで、木造2階建ての「旭屋書店」があったところ
高層ビルで、高層建築物であつたはずの阪神百貨店がいやに低く見える。そのせいなのか、大阪駅前のランドマークの一つであるこの建物も建て替え工事が始まっているようだ。(これと関連して、戦後からある、地下道への階段横の串カツの立ち飲み屋が閉鎖され、あの独特のにおいが今はもうない。)
時とともに街は変わる、人も変わるのは当たり前なのだが、来て見て、会って見ての変わり方には、情けないほど狼狽えるばかり。
この日も仕事関係の友人と会う為に大阪市内にでてきたのだが、会食のあてがはずれた。そのわけが友人の体調不良である。つい2か月前、二人で大いに飲み、食べ、歌ったのだが、一寸した風邪から気管支炎になり、今、飲酒にドクターストップがかかっているという。お酒が生きがいのような友人は酷い落ち込みようで、並みはずれたダンディさと若々しさが消し飛んで、年相応の老人然とした風貌である。
「友は鏡」、友人の姿はとりもなおさず我がことなのであろう。
『人は覚悟と心映え』とどこかで読んだのだが、歳月とともに変わりゆく街や人、さらにそれがもっとも切実な我が身をおいて、「そは如何に」と問われているようで、何とも落ち着かないのである。
(井の蛙)

市岡21期 同窓会 サロンバスで行く 秋の六甲/神戸 日帰りツアー

日 時 平成27年10月31日(土) 9:00~18:30
行 先 神戸 フルーツ・フラワーパーク 
六 甲 ガ ー デ ン テ ラ ス
ハーバーランド umie MOSAIC
コース 西梅田(大阪モード学園前)
⇒《阪神高速/中国道 三田IC》
⇒ 神戸フルーツフラワーパーク【見学/昼食 ランチブッフェ】
⇒ 六甲ガーデンテラス【展望見学】
⇒ 表六甲ドライブウェイ
⇒ ハーバーランド/モザイク【自由行動】
⇒ 大阪駅桜橋口
集 合 午前 9時 (出発9:30)
大阪モード学園前 (JR大阪駅桜橋口から中央郵便局を経て)
帰 着 午後 6時30分頃
JR大阪駅 桜橋口高架下
会 費 6,500円 今すぐ支払う (ご夫婦での参加も可)
定 員 45名(先着順) 申し込み締め切り 10月15日
ひとこと 花と果実あふれる神戸のガーデンリゾート。
六甲ドライブと大阪湾、関西空港、淡路島、明石大橋、大パノラマ。
夕暮れ時の港町神戸。一日中楽しめる ゆったりプランを企画しました。
「宴会より日帰りバス旅行はどうかなぁ‥。」
提案したらしっかり世話役がまわってきました(笑)。
六甲山・神戸、昔むかし校外学習や遊びに行きましたよね。
想い出のエピソードをお持ちの方も居ると思います。
サロンバスの座席数に限りがありますので お早めにお申込み下さい。
多数のご参加お待ちしてま~す♪。             (竹内 記)
お願い ★ 同窓会『通信協力費』が枯渇しています。ご協力をお願いします。
(1口 ¥1,000) 今すぐ支払う 複数口大歓迎
お問合せ
連絡先
事務局:前川健一 (maekawa☆printing-s.jp) 090-3160-1182
     二村和義 (futamura☆printing-s.jp) 090-2105-9281
企画担当:竹内 哲 (s-takeuchi☆knd.biglobe.ne.jp)
※上記の☆は@(半角)に変更してご利用下さい。
入金方法 当日会計の負担を減らすため、今回初めての試みで郵便振込・銀行振り込み・クレジット決済を採用しました。当日現金もお請けしますが、できるだけ前入金にてお願いします。

【参加費】  6,500円 今すぐ支払う
【通信協力費】1,000円 今すぐ支払う
クレジット決済 案内文参照 ← ここをクリック

    21期秋の同窓会の参加・不参加を下記フォームから回答ください。
    不参加の方もぜひコメントをお寄せください。

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    【参加者(申込み順)】二村(高谷)和義[10]、西尾賢治[10]、西尾(井上)幸子[4]、渡壁登[6]、藪田均[8]、竹内哲[10]/竹内夫人、横溝廣和[7]、廣瀬(上野)惠子[2]、狭川(山田)照代[3]、加美(黒崎)美佐子[7]、湊口護[10]、酒井昭男[1]、大西淳三[5]、前川健一[10]、山子道和[5]、春花廣志[2]、篠原博[2]、佐野光俊[9]、村上(岡田)美知子[3]、藤田(村川)多美子[3]、


    【コメント等】

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    「12期の広場」9月号のラインアップ

     9月です。耐え難い酷暑も何とか納まり、かなり涼しくなりました。朝夕の風にしのび込んだような冷気があったりして、一寸驚いています。やはり時候の移ろいにも「潮目」のようなものがあるようです。盆が過ぎたころから今年ははっきりとそれを感じ、皆さんと同様にほっと一息をつきました。とは言っても「潮目」のたとえに「暑さ、寒さも彼岸まで」という言葉があるように、油断はなりません。ぶりかえすかもしれない残暑や連続して発生した台風などには心しなくてはなりませんね。
     今月号から「ラインアップ」のカットを上原澄子(旧姓大川)さんの絵手紙に変えます。御存じの通り、上原さんは長く絵手紙を描いておられました。是非にとお願いしました。初回にあたる今月号は「酔芙蓉」で、その手紙にこのようにありました。
     「9月1,2,3日は、越中富山のおわら風の盆のお祭りです。高橋治の“風の盆恋唄”を読んで、5年程前に行ってきました。胡弓と三味線だけの静かなお祭りですが、心に残りました。酔芙蓉の花が咲いていました」
     私も十年くらい前でしょうか、同窓生の8名とその奥様達、総勢14~5人で行った事があります。そのいきさつを書けば長くなりますので割愛しますが、越中八尾の小さな町をつつむ胡弓と三味線と控えめな太鼓の音、その哀愁に満ちた調べに鳥肌が立ちました。また夜遅く、それに合わせての町流しの踊りの列が続くのですが、静かにそしてたおやかに踊る男女の姿に、何故かしら、ふるえるような感動を覚えた記憶が今も鮮やかです。その想い出にまつわる花が「酔芙蓉」なのですね。上原さんの話によると(直接聞いた訳ではありませんが)花は、朝方は白色、夕方から夜にかけてピンクになるそうです。これまた趣のある話で、友人のE君は「酔芙蓉とはお酒付きの花かもしれませんね。」と書き添えて送ってくれました。
     言い得ての妙があります。味わいたいと思います。
     また来月号はどんな絵になるのか、楽しみが増えたようです。

     さて「12期の広場」今月号のラインアップですが、次の通りです。
     最初は二年ごとに開かれる市岡高校東京12期会のご案内です。大阪とは隔年の開催で、また多くの12期同窓生が集います。是非、お出かけ下さい。
     石井君が暑さにも負けず、ますますの健筆をふるってくれています。感謝、感謝です。お楽しみ下さい。今月号は夏枯れのこととて2編のみ、来月号でまた頑張りますのでご容赦下さい。

    1.  「市岡高校東京12期会」開催のご案内
    2.  「思い出を綴る (8)」              3組  石井 孝和
    以 上