同期会

巻頭コラム

終活?・奥神鍋にスキー

8組 榎本 進明
 2月13日横浜を出発して奥神鍋に向かいました。
天気は良く途中の富士山は今までになく素晴らしくきれいでした。
 京都で山陰線に乗り換えて、福知山で大阪からの列車に再び乗り換えて江原駅に。そしてバスで山田に到着しました。
 バス停からすぐの「ニューみちや」が今日の宿です。荷物を置き早速レンタルスキーを借りてゲレンデに。リフトを2本乗り継ぎさっそうと滑降する・・・というイメージでしたが、1本目のリフトを降りたとたんにスッテンコロリン。20年ぶりとは言え、「こんなはずではなかった」と頭の中は真っ白。起き上がるにも滑って起き上がれない。まるで初心者と同じ格好でショックをうけました。
 リフトのおじさんも切符を買うのにもたついていると「いいですよ」と言ってタダで乗せてくれました。2本とも。よほど爺サマに見えたのでしょうね。
 もう何時間も滑ったかのように疲れたので、そのままスキーを返却して宿に戻りました。泊り客は一人だったので大浴場にはお湯はなし。近くの温泉まで送ってくれて疲れを癒すことに。
 散々なスキーとなったが、やはり温泉が似合う自分を再発見。1時間ほどで迎えに来てくれました。
 宿に戻り、奥神鍋まで来た目的である「猪太郎いたろうさん」にお線香をあげることができました。
中学、高校、大学と永きにわたりお世話になりました。当時は民宿で、ご主人の名が猪太郎さんでした。最後に訪れたのが昭和39年の1月か2月でした。4月から大阪を離れて長野県に就職するので、これが最後だと思い一人で出かけたのでした。
 市岡の山岳部では、スキー合宿の時に興梠君がスキーの先端を折ってしまいました。部員全員で雪を掘ってその先端を探したのですが見つかりません。そして雪解けの頃に猪太郎さんが見つけてくれて興梠君に届けてくれました。当時は宅急便もなく、その親切に感謝したことも思い出です。
 今は、お孫さんが旧母屋は取り崩し、少し離れたところにロッジを経営しています。夕食は広い食堂で、ご主人とお手伝いに来た親戚の人と3人ですき焼きを囲みました。懐かしい話にお酒も美味しく時間の経つのを忘れてしまいました。
 翌14日も滑る予定でしたが、急遽、引き上げることにしました。ご主人が江原駅まで送ってくださったので、大阪までの特急に乗ることができました。そして、西宮名塩で途中下車。張君が迎えてくれました。
そのまま旧福知山線廃線跡を案内してくれました。約5キロの道は武庫川に沿って武田尾まで続いています。景観もさることながら、ズーッと話し通しでした。昨日は単独行で口数が少なかったので、楽しい散策でした。

武庫川がこんなに奇岩が多く急流であるとは思いもしなかったです。
 そして宝塚で夕食をごちそうになり、彼のご自宅で一泊させていただきました。大変お世話になり有難うございました。 
 
 そして、大阪では難関の“終活”がありました。和歌山県にある「墓じまい」です。頭が痛い相談となります。
弟と妹に了解を得る必要があるからです。遠くてお墓をお守りするのが困難になっています。でも、原則賛意を得たのでやれやれ。妹宅で泊り、翌16日に横浜に帰りました。
 しかし、終活はまだ残っています。満州時代からのお付き合いの方が富山に居ます。「早く行かないと」と思いながら、もう何十年もお会いしていません。書類等を捨てる終活は一人でもできますが、一言お礼を言いたい人に会うことの終活は春以降に行おうと思っています。

ひろばリバイバル

日曜日の尋ねびと

3組   髙橋 要

 久しぶりの同窓会でした。

 先生方がそれぞれにお元気そうで何よりでした。北村先生からはわたしも読書感想文を返していただき、思いがけないプレゼントにびっくりいたしました。先生の授業中は、申し訳ないことによく寝込んでしまっていて「僕の授業、フランス革命あたりでおもしろくなります」というお声も夢のなかに残ったようです。

 西田先生の訃報に接し、バレーボール部で3年間お世話になったさまざまな記憶が頭の中を駆け巡りました。また同期の部員であった池上昇君についで、林清矩君が亡くなったことも知りました。池上君の死を連絡してきた彼の電話口での声が鮮明に蘇ります。

 

 「12期の広場」のことを最近になって知りました。寄稿された文章を読むにつけて感慨もひとしお、とりわけ武田博君の「the あの頃―ジェーン台風の写真」(12年7月号)のインパクトは、60余年前の災害と時代の空気とでもいうべきものをいっきに目の前に手繰り寄せてくれました。当時西淀川区の姫島小学校3年生だった私も武田君と同じような体験をしたのです。

 
現在の香蓑小学校 正面

 わたしは小学校時代に3度転校をし、姫島小学校に続く4校目が同じ西淀川区の香蓑(かみの)小学校で卒業まで在籍しました。今もクラスの同窓会が続いて いるのですが、古稀を前にした先年の集まりのようすを拙い文に書きとめてみました。同窓会ってなんだろう、同窓ってなに?そんなことをとりとめもなく考え ていたような気がしています。うまくお伝えできればいいのですが。


「タカちゃん、挨拶は短めェにしてや!」
 

「では幹事として挨拶させてもらいます。お知らせにも書きましたように、私たちも古稀を迎える歳に近づき、今回が初めてやったんですが、1泊でゆっくりしてもらおういう企画を立てましたところ、こんなに参加してもろて、幹事として喜んでます」

 しっかり者の多賀子が話し始めるとすぐに「タカちゃん、堅苦しい挨拶は短めェにしてや」と田中の声がとびました。

 タカちゃんはそんな声を無視して続けます。

「今日は敬老の日やのに早い時間から、それもこのあいにくのお天気のなかを京都まで出てきてもろた、千葉の加藤さん、高知の林さん、お疲れさんでした。また、この旅館の予約に便宜を図ってくれた横浜の伊藤さん、ありがとう。開宴に先立ちまして昨年お亡くなりになった担任の北尾先生のご冥福を祈って、みんなで黙祷をささげたいと思います」

 香蓑小学校6年4組の3年ぶりの同窓会が始まりました。聖護院に近い宿に集まったのは22名、京都在住はわたしひとりで、多くは大阪と兵庫です。

 撮影係の斉藤が着席したところで乾杯。かしこまった雰囲気はいっさいなくて、座はいっきに盛り上がるのですが、それには訳があります。わたし自身は4校目の小学校として4年生で転校してきたのですが、この学年は入学から卒業までの6年間、担任は変わってもクラス替えがなかったのです。そのことを知ったのは卒業後30年以上過ぎてからでしたが、親どおしの付き合いも親密だったのは、そのせいでもあったのでしょう。

 

 順に立ち上がってそれぞれの近況報告が始まりました。

 本屋の中田は2つあった店の1つをたたみ、大手の鉄工所で営業部長だった斉藤は、会社の倒産後、タクシー運転手などを経て今も建築現場の監督のようです。失業、リストラ、転職そして病気療養と、男たちの近況は明るい話ばかりではないのですが、不景気な話題を取り上げてしゃべっても、彼らはその場を盛り上げてしまいます。

 隣にいる木村の番になりました。同窓会に初参加らしい彼は、突き出た腹をゆさぶりながら、吠えるように挨拶を始めます。

「みなさん、お久しぶりです。後悔と反省ばかりの長い歳月を過ごしてきた木村です」

いくらか事情を知っている者の間から笑いが起きます。

「結婚5年で離婚し、子供もあっちへ行ってしまい・・」

「そら、奥さんに先見の明があったんや!」と田中の大声。

「・・その後、付き合うた4人目の女とも3年前に別れました」

「逃げられたと正確に言わんかい!」これは北村。

「・・今はエレベーターのメンテナンス業に首を突っ込んでいますが、不眠症と高血圧に加え、ここんとこ痛風が出て食事にも気ぃつかう情けないことになってます」

「おまえ、どない気ぃつこうてんのか知らんけど、その体重、はよなんとかせんとしまいにころっといてまうでぇ」森河のツッコミ。

「いや、これでも努力して4キロ減らしたとこやで。さっきかて、隣のカナメにおれの御膳のサイコロステーキ、みなやったとこやで。嬉しそうに食うとったわな」

 

 こんな調子の「近況報告」が一巡するのを待ちかねるように、カラオケのマイクを握ってスタンバイしているのが森下で、今も生まれ育った町で小さな会社を経営しています。その彼が、だしぬけにカラオケ大会の開会宣言をしました。

「ではみなさん、この辺でカラオケ大会と参りましょう」

「こらあ森下ァー、お前の歌、2曲までは許したるけど、3曲目歌うたら承知せんぞォ」と野原。

「だいたいお前の演歌は長すぎるんじゃ。2番まででやめとけよォ」これは中井。

 20年のアメリカ暮らしから数年前に帰国した篠田がマイクを持った時もいっこうに静かにはなりません。

「篠田ぁー、英語の歌なんか歌うなよォ、分かりやすい歌にしとけェ―」

「ではリクエストに応えて、ビートルズナンバーから1曲」

「アホかぁオマエ、なに聞いとんねん!」

 ヤジを飛ばしながらも手拍子を打ち、ともに歌って騒然としては来るのですが、座には不思議な調和が保たれています。

 

 広間での宴会が3時間半を経過したところで、仲居さんに追い立てられるようにして2次会の部屋に移りました。さすがに少し疲れが出始めたか、先ほどのような騒ぎにはなりません。

 壁にもたれて足を伸ばした原が、水割りを飲み続ける馬込順二に

「ジュンさん、手元の名簿に載ってるのは40人やけど、クラスは何人やったん?」

「50人くらいちゃうか・・おーいタカちゃん、わしらのクラスはみんなで何人やったん?」

「54人のはずやけど・・」と浅原。

 では、所在の分からない14人は誰やろうと指を折ってみるのですが、思い出せるのは8人まで。そのなかのひとり、悦子は卒業と同時に引っ越してそれっきりです。成績がよく、際立つかわいい顔で、はきはき発言したというのが共通した印象のようです。

「急におらんようになったなあ。なんでやったんやろ」と野田。

「さあ・・知らんなあ」とそっけないタカちゃん。悦子の父親が何かまずいことをやらかしたため、一家は夜逃げ同然に姿をくらましたというのが当時の噂だったはずです。

「熊谷啓ちゃんはみんなも憶えてるやろ」と、美代子が話を振りました。とびぬけて絵がうまく、父親が映画館の看板描きで彼もそのあとを継ぎたいということでした。

 学校の裏門前の空き地に建つ、小屋のような家に住んでいた恵子が飲んでいたヤギの乳のこと、病気がちだった克平の名前などがあがったものの話は途切れがちになり、夜更けの急な雨音が耳を打つなかで「みんなはいま、どこで、どうしている・・」と、尋ねびとをする気分だけが残りました。

 


「焼けた鉄と塗料の臭いの中で・・」

 

 夜が明けて日曜日、青空が広がっています。昨夜の雨に打たれて庭にこぼれているのは萩の花です。

 朝食のあと都合で帰るわたしは、定期観光バスに乗るみんなより早く宿を出ました。きょうも暑くなりそうな日差しのなかを、西に向かって丸太町通りを歩いていた時のこと、昨夜はどうしても思い出せなかった男の名前がいきなり浮かんだのです。

 金村隆一。彼はクラスのガキ大将でもなければ、格別の腕力を持っていたわけでもないのですが、言うこともすることも荒っぽくて、ときどきの感情をむき出しにする彼が、わたしは苦手でした。あるとき、何が原因だったのでしょうか、道に落ちていた馬の糞をつかんで何かを叫ぶ彼に、わたしはどこまでも追いかけられたことがありました。

 

 大阪市立香蓑小学校は、大阪府と兵庫県とを区切るように流れる神崎川沿いにありました。阪神工業地帯のどまんなかに位置する労働者の町で、のちに西淀川公害訴訟で知られる地域ですが、当時は公害という言葉もありませんでした。零細企業が寄り集まった街の通りには、朝から晩まで鉄を打ち、削り、切断するカン高い音が漏れ、焼けた鉄や塗料の臭いが流れていました。
 

 ある放課後、年配の担任がプリントを配って保護者に渡すよう言ったあと、「君たちのなかでまだ給食をとらずに弁当を持ってくる人がいるが・・」と話し始めました。そして学校の給食が栄養的にどれほど優れているかを説明したあと、給食代が安いことを強調しながら「1日の給食代はご飯と卵1個分なんだよ」とにこやかに言ったのです。卵が今ほど安い時代ではなく、卵1個がまるまる入っている弁当などわたしは見たこともありませんでした。みんなは黙ってその話を聞いていました。

 弁当でも給食でもなく家に食事に帰る者もいましたから、隆一も昼食は家でするのだとわたしたちは思っていました。ところがある日、鋼材置き場になっている雑草の茂った広い空き地で所在なげにしている隆一と克平の姿を、たまたま上がった屋上からわたしは見たのです。二人はそこで時間をつぶしていたのです。その頃のわたしの弁当は、コッペパンと小さなマーガリンだけという日が続いていました。

 

 日差しが高くなって、次第に焼けてくるアスファルトの道を歩きながら、あの隆一は今どこで何をしているのだろうと昨夜と同じ気分に浸りそうになりつつ、しかしわたしは別の思いにも捉えられていました。

 所在のわからない男の子、女の子がいまどこで何をしているのだろう、そんなことがもし分かってみたところでそれが何ほどのことだろう。幼くて、貧しくて、傷つきやすかったり、強かったり、辛いことやうれしいことや、そしてたくさんの分からないことや知らないことどもを、それぞれがいっぱい抱えていたあのころを、肉親ともまた違ったところで、わたしたちだけの空気が流れていたあのころをいまも54人が共有している、それでいいのではないだろうか。

 丸太町通りはしだいに車の往来が増してきました。「おーい、おまえはいま・・」と呼びかけるべき尋ねびとは、汗をかきかき歩いているわが身の内にあることにそのとき思いあたったのでした。 

31期生 同窓会のお知らせ

8年ぶりの全体同窓会を行います。
各クラスの幹事までご連絡をお願いします。
開催日時: 令和6年5月11日(土)17時~20時
開催場所: ホテルモントレ大阪
問いあわせ先: 幹事代表: 山本 好男
chachai511☆yahoo.co.jp
※迷惑メール対策のため☆を@(半角)に変更してご利用ください。

高校21期 2024 市岡の森 ランチミーティングのお誘い

桜の季節です。今年もランチミーティングを開催します。
一緒に楽しい時間を過ごしましょう。
お気軽にご参加ください。

◆3月30日(土)
 ロッジ舞洲 12:00集合 (15時頃まで)
  ①市岡の森で桜鑑賞と校歌斉唱
  ②レストランにてランチミーティング
 ・交通:アクティブバス(桜島/ユニバーサルシティ)大阪シティバス(西九条)
 ✖運休:ロッジ舞洲の送迎バス、コスモスクエアからのアクティブバスは運休中
 ・参加費:3,000円位
◆参加申込み:メール→ info⭐︎reihyo.com (⭐︎を@に変えて送信)
  3/23までにお願いします。
◆問合せ先:竹内 哲(〇九〇〜八六五九〜六三一五)
  メール:s-takeuchi⭐︎knd.biglobe.ne.jp(⭐︎を@に変えて送信)

「12期の広場」2024年新春号ラインアップ

 同窓生のみなさん、あけましておめでとうございます。
言い古してきた賀詞ですが、元日にかわす言葉としてこれにまさる言葉はないでしょう。行く年を送り、新しい年2024年を迎えての感慨は決して一様ではありませんが、人の“ならい”です。
 心新たにここから歩み始めたいと思います。
 
 添付した写真はお正月郷土料理 『越後のっぺ』で、「広場」2012年の1月号に佐々木康之君(長岡市在住)が投稿してくれたものです。曰く、「野菜のごった煮」とあり、素朴で清々しくておいしそうです。正月は、大晦日のまな板の音、立ち込める湯気、忙しく立ち回る母の姿と、うって変わっての元日の静かさと正月膳を思い出しますね。野菜の煮しめの有難みを痛感する昨今ですが、残念ながら正月膳は市販のお重セットが主流のようです。我が家も孫が楽しみにしているとそれを買い求めました。そしてそれが正月膳の主役です。昨年末、市販のお重セットのテレビ、通販、新聞ちらしなどの宣伝の多かったこと。3~4人前で価格も上は10万円近くで驚くばかり。いわゆる「富裕層」をあてにした商のように思えてしまいますね。
 年を取り今や“立派な”老人、更に“一言居士”にあっては、「富裕層」、「優勝劣敗」、などの言葉が行きかい、それが普通になり、暮らしに忍び込んでいるのではと思いながらの正月です。
 付け加えますと『のっぺ汁』は雪深い地方食とばかり思っていましたが、大阪にもあるようです。やはり根菜が主で名前は『のっぺい汁』と異なりますが、河内の方で稲の刈り取り時の昼食に食べたとの新聞コラムがあり、ちょっと驚きました。
 
 昨年11月頃から喪中はがきが届きました。秋号でふれた以外で言えば、原清明君(4組)、三上正義君(5組)、須藤憲司君(7組)、山田正敏君(8組)の訃報です。原君は同窓会の会計として支え得て頂き、三上君には50歳を越えてテニスの手ほどきを受け、須藤君には近くに住むスポーツマンとして親しくお付き合いいただきました。特に市岡東京12期会設立時のメンバーであった山田君には公私ともにお世話になりました。皆さんとの思い出は尽きません。
 慎んでご冥福をお祈り申し上げるとともに、お知らせいたします。
 
 さて「12期の広場」2024年新春号のラインアップは以下の通りです。
「ひろばリバイバル」は山田正敏君の「趣味のギャラリー」にしました。お読みください。
 
  1. 巻頭コラム
    ・「質実剛健の殻を破る」 7組 上山 憲一
  2. 掲示板
    ・『「小出楢重と大・大阪時代」(その2) の講演会に参加して』 7組 上野 裕通
  3. “ひろばリバイバル”
    ・「趣味のギャラリー 陶芸について(1)」 
    (2016年4月号から)
    8組 山田 正敏
以 上

巻頭コラム

質実剛健の殻を破る

8組  上山 憲一 
 
 ウクライナへのロシアの侵攻に加えて、昨年の2023年秋にイスラエル・パレスチナ紛争が突然起こった。特にイスラエル・パレスチナ紛争では、ユダヤ人を中心としたイスラエルのテクノロジーの発展が最近著しく進み、兵器、農業技術のイスラエルによる世界シェアが地球温暖化と共に増大し、周りの人たちの自由度を制限し続けていく。
 イスラエルは、もちろん米国の強力な援助を受けているが、日本を含め世界の他の国が太刀打ちできないほど早い展開でテクノロジーのイノベーションを行っている。私の米国留学時代と、その後のユダヤ人との共同研究や、彼らとの研究上の競争を通して、独特の情報獲得の習慣と歴史の中で堅持してきた発想法の知恵を垣間見てきたので、彼らが何故将来もテクノロジーを牽引していくと感じているのかをこのコラムで紹介したい。
 私自身は1970年の秋に博士号を収得したが日本では職に就けず、米国のブルックリン工科大学にポスドク職を見つけ、ユダヤ人のマリー・グッドマン教授の下でポリマー合成の研究を行うためにその年の暮れに渡米した。米国の中では歴史の古いブルックリン地区は市岡高校旧校区と同様に大都市の一角に位置し、その昔活発なベンチャー企業が生まれた地区であったという点でも同じであり、私自身ブルックリンの町の雰囲気に馴染むのは早かった。研究室には3人のイスラエルからのユダヤ人ポスドクが働いていて、そのうち2人は世俗的ユダヤ教信奉者で、少年時代に受けてきた教育と家庭の戒律「タルムード」による躾の話をよく聞かされた。彼らの話にでてくる躾は、市岡高等学校の校則の「質実剛健」そのものと同じで、内容が曖昧な点もよく似ている。付き合っていくと彼らは時々戒律を臨機応変に破り、神を信じているが自己の経験で信じる神も変化していくという点でも、仏教を信じる私とよく似ていると思った。「質実剛健」の曖昧さもこれに縛られる個人が殻を破り易い校則になっているのだとその時初めて気が付いた。この2人は、私の知る他の多くのユダヤ人と同様、後にベンチャー企業を立ち上げ、結局それぞれに大成功を収めている。
 この大学の2人の卒業生が近くのユダヤ街で操業していたベンチャー企業ファイザー社に 勤め、第二次大戦中、苦心の末にペニシリンの大量合成に成功し、世界の製造を独占した有名な話を聞いている。また、私がいた1970年にも、大学の中の隣の研究室で教授が急死する不幸があり、ユダヤ人のポスドク仲間がその研究室の研究課題そのままを目的にしてベンチャー企業のアルザ社をサンフランシスコで起こし、我々の研究室のポスドクも何人かこれに加わり、その中に先ほどのユダヤ人ポスドクもいた。その後この企業は見る見るうちに大企業に成長し、今はジョンソンエンドジョンソン社に吸収されるなどの経過を身近で見てきた。彼らの成功の秘訣は複数の世界トップ研究者から継続的に高額の講演料を払い質疑応答で先端情報を集めることにあった。また私達の研究室でも上司のグッドマン教授は、ミーティングで討論が行き詰まり中断すると全米の著名なユダヤ人教授に直接電話で相談し、これにより驚くほどのスピードで研究を進めているのを見てきた。その他の例として、飛び級のユダヤ人高校生が夏季に大学院の研究実験単位を取る目的で研究室に
1970年代・ブルックリンのユダヤ人街から見たマンハッタンの夜景
配属されると、単純な実験でも質問があると参考書の著者に電話して答えを貰っているのを見て驚いた。若いうちから直接見も知らないユダヤ人の高名な先生から情報を得ることが許されるルールになっているらしいことをその時に知った。最高の情報を選ぶことにより、最高の知識として記憶し、最高の知恵を生み出す方法として使っている。日本の研究者はこの方法をとることは苦手で、新しい知恵は自身の直接の研究と出版された論文から得る傾向にある。
 ブルックリン工科大学の私達の実験室の真向かいの部屋がたまたま「米国の高分子の父」と呼ばれ、ナチスから逃れてウイーンからスイスへ家族共々脱出する時に、全財産を白金線に変えてレースで覆ったハンガーに服を掛けてスキー客姿で突破したという米国でも有名な逸話をもつ伝説の研究者であるハーマン・マーク教授の部屋だった。部屋の奥の壁一面が細かく仕切られた200個程の書棚になっており、所々に学術雑誌から切り取った論文冊子が入れてあった。その棚を、秘書と言ってもこの人も教授であるが、個々の棚の冊子が増える速度を観察していて、急激に増加して立ち上る瞬間を見つけたならマーク先生に連絡し、マーク先生はこの棚の数個の冊子の塊を一晩で読み、翌日には総説にまとめていた。その総説を一冊500ドルで全米の企業研究者(日本の企業も数社含む)が買いに来ていた。日本のニューヨーク駐在の企業研究者たちは、マーク先生の予想はよく当たるので日本への連絡は欠かせないという話であった。この総説の凄いところは近い将来ブームになることを予想し、豊富な知識と鋭い感性を基にして新規のキーワードを考え出していることにある。私の知るそれまでの総説は、ブームのピークを過ぎたものをまとめて紹介するものばかりで、中心となるキーワードもそれとなく現れたものであった。
 当時、日本が研究でも米国に追いつく勢いであったが、優れた日本の研究のほとんどすべての源泉が日本以外の国にあるという米国の報告書が出たために、日本の多くの大学・企業の研究者は独創的な発想能力を高めるためにKJ法や水平思考法などの訓練を行うなど苦労している時代であった。
 マークの書棚は古代アレキサンドリアの図書館でパピルスの巻物を保存する棚と同じで、
Herman H Mark先生がブルックリン工科大学に
高分子研究所を設立した時期の写真
ギリシャ時代からイスラムの文化圏を経てウイーン、ブルックリンに、常にユダヤ人の間で受け継がれていたことは想像できる。私がその当時マーク先生の好意で読ませてもらったのは「ソーラーヨット」の名の総説で、宇宙旅行のヨットの帆の材質についてであったが、このアイディアは2010年に太陽光子圧ソーラセイル推進装置をもつ惑星間航行宇宙機「イカロス」がJAXAによって打ち上げられたとき、耐熱性ポリイミドの推進帆で日本が初めて実現している。つまり、このアイディアは公の論文に出てこなかったもので、40年の間、一部研究担当者の頭の中に入っていたものであろう。 新しいアイディアは一寸先にあっても簡単に思いつくものでないが、このように我々の知らなかった一歩先を行くリテラシーの方法を受継いで、新規の領域を予想していることを知った。前述のユダヤ人研究者同志がもつ独特の情報交換網を生かして最速のスピードで研究を進めるという方法をも加えると、日本の研究者がなかなかついていけない側面をもつ。これらに対抗するために日本では情報処理の新しいアルゴリズムの開発が待たれる。
 とは言っても、ポスドク仲間であったユダヤ人が揃って信奉していた「タルムード」は、隣人であるパレスチナ人を破滅させることを教えてはいないと思う。また戒律を彼らは厳しく守るより、有効に破ることによって我々との社会生活や研究生活の国際交流の質を向上させてきていることも見てきた。「質実」をモットーにしながらいつの間にかある程度裕福になっているなどは彼らの「タルムード」の教えの真骨頂であるが、ユダヤ人の起業家が深く関与してきたGAFAMの大部分が常に世界制覇を狙っているような印象を与えているのが気になる。

掲示板

「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会に参加して

7組 上野裕通
 
 令和5年11月26日(日)此花区民センター「一休ホール」4階会議室で「小出楢重と大・大阪時代」(その2)の講演会がありました。講師は同級生の画家である圓尾博一君(3年6組)で、令和4年に続いての二回目です。同級生の参加者は、松田修藏君(6組)と伊東慎一郎君(7組)と私の3名でしたが、此花歴史研究会の例会でもあり、盛況でした。
 明治20年(1887年)生まれの小出楢重は昭和6年(1931年)、43歳で亡くなります。その生涯について、圓尾君は、当時の世界情勢、小出楢重と日本の画家、文学者との交流、フランスでの貴重な経験等について詳しく調べられ、分かりやすく話されました。
 小出楢重は、明治33年(1900年)第1期生として市岡中学に入学、心疾患で1年間休学したため、卒業時は2期生と同じでした。そのお陰で小出楢重には、津田勝五郎ら2期生との交流はもちろんのこと、1期生の信時潔、石浜純太郎、坂村養三、熊野徳義、中谷義一郎らとの交流もあり、友達に恵まれていました。後に、世に「裸婦の小出」と名声を博した小出楢重の市岡中学時代です。 画家は、人間とはいったい何なのかを追求する。そのために自画像を描く。また「なぜ、男は女性の裸像を描くのか。」それは、キリスト教の考え方からやギリシャ神話「パンドラの箱」を男性はあけてはいけないと言われていたのに開けてしまったということからきているという含蓄のある説明がありました。
 小出楢重はフランスに行ってから外国の画家から学ぶことも多く、影響を受けたようです。フランスから帰ってきてからは洋服姿になっています。今から100年前、1923年9月1日に関東大震災が発生しましたが、そのため、関東から多くの人が関西、大阪にやって来て、大・大阪時代が始まっています。岸田劉生が京都に来たこともあったそうです。
 谷崎潤一郎が「蓼喰う虫」を書き出した頃、挿絵を小出楢重が描き、潤一郎は、蓼喰う虫をすらすら書けたのは小出の挿絵のお陰だと言っていたとのエピソードもあったとか。
 1920年から1930年代は世界も戦争の危機感があり、画家は当局のいうことを聞かないと絵具や筆など手に入らなかったらしい。1937年、信時潔は日本放送協会からの委嘱により「海ゆかば」を作曲しています。天皇のためには命を惜しまず死んでいった時代の曲であり、第二国歌と言われていたようです。当時、芸術家はお上からの恩恵がなければ生きて行けなかった時代であったのでしょうね。
 しかし、小出楢重は生涯を通じて思い切り裸婦を描いて生き抜いたと締めくくられました。
 圓尾君の講演は具体的な場面を想像させながら聞き手に分りやすく話されるので、とても興味をもって聴き取ることができました。

ひろばリバイバル

『趣味のギャラリー』―「陶芸について (1)」

8組   山田 正敏
 
 昭和39年 大学卒業以来38年間、61歳でサラリーマン生活を卒業。その後の勤めについては一切考えず、生活については退職金、年金と僅かの蓄えで何とかなるだろう位の考えでいた。 問題は、仕事を離れた人生に於ける“暇”というものを、如何に潰し、残りの人生を楽しむかである。 就職するまで、高校、大学と懸命に励んだ「剣道」。その後40年近く止めていたが、その再開と「ゴルフ」、「海釣り」、「囲碁」、友人達との月1~2回の「飲み会」 等々、これで まあ何とか“暇”潰しは出来るだろうと考えていた。
平成15年頃の作品
タタラ作り長皿
 しかし、「剣道」は近くの剣友会に入会したものの、初日早々左足ふくらはぎ肉離れでダウン。2週間程度トレーニングを積んでの事であったがあまりの体力の衰えに愕然。そして再開を断念。「海釣り」は師匠としていつも同行させてもらっていた友人を交通事故で失い断念。
 結局 「囲碁」と 「飲み会」 だけで残り人生を楽しむには何となく寂しい気がしていた。
 「陶芸」 については小生なんら経験が無く、興味も無かったが、毎年、5月と11月に栃木県・益子市で「陶器市」が開催され、陶器の鑑賞を大いに趣味とする、我が女房殿のアッシーとして、50歳ぐらいから車の運転手を務め、ほとんど毎年のように年2回、陶器市に行くようになった。其処で、プロの作品を見たり、作陶の実演を見学したりする内、なんとなくやってみたい、又、自分にも出来るかもしれないと言う気になってきたのかもしれない。
平成17年頃の作品
タタラ作り花器φ24cm
 昭和50年、34歳で大阪から東京に転勤して以来、千葉県船橋市の夏見台団地という690戸の団地に住まいしているが、その東側に隣接して市の 「中央老人福祉センター」 がある。その「センター」には 書道・華道・水墨・詩吟・コーラス・カラオケ・茶道・日本舞踊・等々22のクラブがあり、その1つに陶芸クラブがある。そこに入会できる条件は船橋市民である事、4月1日付で満60歳以上である事の2点だけである。そこで平成14年4月入会。
 当時陶芸クラブの部員は104名だったと記憶している。
 この陶芸クラブに入って思ったことは、現在、小生の付き合いする仲間は、市岡の同期、大学土木科同期で関東に住まいする一部の仲間達、大学剣道部の仲間達であるが、おそらく、この陶芸クラブのメンバーが人生最後の仲間達になるであろうという事を感じている。
平成17年頃の作品
黄瀬戸釉皿φ23cm
 メンバーの年令は60歳~90歳前後、気の合う人、合わない人、耳の遠い人、足腰の不自由な人、月に何日も医者通いしている人、在籍中に亡くなる人、小生のこれからの人生が全て詰まっているような気がする。
 このクラブのシステムは未経験の新入会員は、1年間講師の指導のもと手びねりによる研修を受けることになっている。研修は、当時、月2回の金曜日であったが、やればやるほど面白く、やりかけの作品を自宅に持ち帰り、毎日毎日、女房殿があきれるほど、夜遅くまで土と格闘したものである。そして2年目以降は教室で、手びねりによる自主制作を先輩たちの指導を受けて、作陶する。
 当時、電動ロクロは3台しかなく、一部の先輩達が使う為、我々は手びねりのみの自主制作による作陶ではあったが、慣れてくると、益々のめり込み、他に用事が無い限り、センター作業室や自宅の一室を工房とし、のめり込んだ。
平成18年頃の作品
飛び鉋文茶碗
 さすがに女房殿も「電動ロクロ」を買うことを勧めてくれるようになる。金額は10万円を少し超えたが、センターで使用しているものと同じものを買い、益々の上達を確信していたが、これがなかなか思うようにいかない。
 先輩で上級者と思われる人の作陶を、一心不乱に見学させてもらったり、又、船橋の東武百貨店や東京三越百貨店で陶器市をやる時、たいがいプロによるロクロの実演がある。11時頃から昼食をはさんで1時から3時頃まで色々な作品の製作(水引きと言う)について、初めから終わるまで見学させてもらった事が、小生のロクロ上達にずいぶんと役に立ったと思っている。あまりに熱心に見学しているのでけっこう顔見知りになり、「何でも判らんことがあれば聞きなさい」と言って貰った時はさすがに嬉しくて、色々質問させて頂いた事を思い出す。
平成19年頃の作品  三島手茶碗
 見よう見まね、悪戦苦闘の毎日であったが、入会後8年、当時講師をしておられた先生が、高齢を理由で引退される事になって、その後任に部員の総意により、小生が選出され、福祉センター及び船橋市の同意を得て講師に就任。今年3月で満6年になる。技術的にはまだまだと自覚しているが、クラブ全員の技術アップの為、小生の益々の技術アップの為、精進し、もう一年講師を続け、後進に道を譲るつもりでいる。

高校21期同窓会(2023.11.23)

【高校21期】同窓会のご報告
スカイルームの窓からパレードが終わった御堂筋を眺めながら出席者を出迎えました。
懐かしい顔が次々に笑顔で登場する一方で、見覚えのない顔もチラホラです。
少しの緊張で始まった同窓会は、乾杯の後は打ち解けてあちらこちらで笑顔がこぼれました。
スピーチあり、インタビューあり、ゲームあり。もちろんフォークギターありです。
4人のMCがそれぞれの演出で宴会を盛り上げました。
世話人会の思いが伝わり、実に楽しい同窓会となりました。
出席者の皆さんありがとうございました。
別れを惜しんで30人が2次会へ。貸切のお店は満杯!。こちらも大盛況でした。
皆さんお疲れ様でした。帰り道にながめた御堂筋のイルミネーションは綺麗でした。
/世話人会一同
 
会えるときには会っておかないと
 同窓の親友が亡くなった後にコロナが始まり、ショックが大きい日々を過ごしていました。そんな折に同窓会の案内をいただき、会えるときには会っておかないとと思い参加しました。
 当日は、小学校・中学校とずっと同じだった懐かしい友人達と会えました。同じクラスになった人達とも出会えたり、多くの方々とも語り合えて本当に楽しい3時間があっという間に過ぎ去りました。数学の浮舟先生も、ご体調がすぐれない中でもご参加くださいました。
 美味しいお料理とともに、懐かしいフォークソングの弾き語りやオカリナの演奏があったり、それぞれの想いのお話があったり、クイズ大会やじゃんけん大会があったり、盛り沢山の賑やかで楽しい場がたくさんありました。最後に校歌をみんなで歌ってお開きになりました。
 竹内さんをはじめ幹事の皆様方のお力で実現したことに心から感謝申し上げます。素晴らしい同窓会を企画、運営していただきましてありがとうございました。
 区切りの同窓会とお聞きしましたが、是非またこのような同窓会を開催していただきたいと思いました。
 本当に楽しい素晴らしい同窓会をありがとうございました。
(3年5組 森本 雅子)

 

会計史研究の道を拓いていただいた市岡の先輩のこと
 先日は久しぶりに21期の同窓会に出席させていただきました。出席者のうちには、昔の面影が偲ばれる方、また、そうでない方など、さまざまでしたが、皆さんそれぞれに卒業後50年を超える歳月を有意義に積み重ねてこられたと拝察させていただきました。
 小生の方は、2016年に神戸大学、2021年に国士舘大学をそれぞれ定年退職し、以後は講義や会議などから解放されて「年金暮らし」に入りました。公的年金の支給額は予想通り少ないですが、時間的余裕だけはできましたので、家内との旅行や、単身での「乗り鉄」の旅、あるいは、「呆け予防」を兼ねて大学院の学生時代から専攻している会計学、特にその細分野である会計史について原稿をまとめたりしています。
 竹内さんから何か一文をというご依頼をいただきましたが、同期の皆さんとの思い出というよりも、自身の人生に大きな影響を与えていただいた市岡の先輩のことについて記させていただきます。
 大学紛争が続いていた1969年に神戸大学経営学部に入学した当初は公認会計士の資格取得を目指していましたが、受験勉強をはじめてみると会計学そのものにあまり関心がもてず、その道は諦めて、高校時代に世界史が好きだったこともあり、きわめて幼稚な内容でしたが、会計史をテーマに選んで卒業論文を作成し卒業しました。そして、指導教授の勧めもあり、ややモラトリアム的ではありましたが、1973年に大学院に進学することになりました。
 1970年代は、会計史の研究者は国内でも海外でもきわめて限られていました。また、隣接する社会科学である経済学における経済史、経営学における経営史のようには、会計学における会計史は学問分野として確立されておらず、先行するアメリカでもようやく専門の学会が設立された程度であり、まして日本の学界では「海のものとも山のものとも知れない」という状況でした(今でもなおきわめてマイナーな分野であることに変わりはありませんが)。
 さて、単に歴史が好きだからといって、会計を歴史の視点から研究することができるわけでもなく、学部学生の後半は卒業論文の作成を兼ねて、我流ながら大学図書館で国内外の会計史を取り上げた文献を借り出して読んでいました。その過程で、国内で会計史にかかわる研究成果を積極的かつ継続的に公表されている現役の研究者が少数ですがおられること、特に関西には関西学院大学商学部教授の小島男佐夫先生がおられることを知りました。
 大学院の講義は、通常であれば当然に神戸大学の教授が担当するはずですが、小生が進学した当時は、大学紛争の中で、簿記講座(会計学第一講座)の教授が学部長、学長事務取扱、さらに学長に就任されたので学部・大学院の教育の現場から離れられ、そのため、神戸大学で経営学博士の学位を取得されていた関係か、1972年から3年間だけですが、先に述べた小島先生が、非常勤講師として、大学院の簿記のコア科目を担当されておられました。そして、先生が講義を担当された期間のうちの2年間が、小生の修士課程(博士前期課程)の在学期間と重なることになりました。
 先生の大学院での講義は、簿記そのものというよりは、やはり精力的に研究されていた会計史、特に簿記の歴史に関するものでした。他の受講生にとっては多少のとまどいを感じさせる内容であったかも知れませんが、小生にとっては、それまで書籍や論文の上でしか触れることのできなかった小島先生の会計史について自分が在籍している大学で「生」で受講できたことは、神戸大学の教学人事による偶然の結果とは言え、きわめて幸運なことでした。
 当時の大学院は、大学院大学化(大学院部局化)を経た現在のような文科省による定員充足の締め付けがあまりなく、入学者も比較的少なく、講義も少人数で、振り返れば非常にゆとりのある教育環境でした。授業を受ける傍ら、小島先生とは、短期的には修士論文、長期的には博士論文の作成を視野において、会計史の研究をどのように進めていったらよいかなどを、神戸大学での講義の後、場合によっては関西学院の先生の研究室で、さまざまな相談に乗っていただきました。また、雑談の中で、先生が大阪市此花区西九条の生まれで、旧制市岡中学の卒業生(旧制25期)であり、小生から見れば市岡の大先輩であることもわかりました。
 その当時、会計史研究を志向する学生は、神戸大学の会計学専攻の大学院学生の中で稀であり(おそらくは先生の本務校であった関西学院大学でも同様)、また、市岡の後輩であったこともプラスに影響したと思いますが、会計史の研究者として何とか育ててやろうというお気持ちを持たれて、関西学院大学の学生でないにもかかわらず、非常に親密に指導していただきました。そして、1975年に神戸大学経営学部の助手に採用されたときは非常に喜んでいただきましたが、採用の背景には小島先生の働きかけもあったと聞いています。
 専任講師時代の1980~1981年、助教授時代の1984年に長期の在外研究に出る機会を与えられました。博士論文を作成するために必要な会計関係の史料を入手することが主たる目的でしたが、その際にも、先生がそれまでに構築されてきた海外の会計史研究者との人的ネットワークに基づき、有力な研究者を紹介していただくことができ、また、欧米各地の図書館や博物館・古文書館へもスムーズにアクセスすることができました。
 在外研究にあたり、先生からは、「むこうで勉強する必要はない。日本に帰ってからでも勉強はできる。それよりもできるだけ多くの研究者に会い、また、多くの美術館や博物館などに行って、現地の文物に触れてきなさい。」と言われました。それは、欧米で作成された会計史料を読み解く上で必要な基礎的な「教養」(コモンセンス)を身につけてきなさいという趣旨だったと思います。
 先生は、1981年に関西学院大学を定年後、近畿大学に移られて1988年に退職された1年後に76歳で亡くなられましたが、亡くなられるまで英文による会計通史の執筆を続けられていました。
 小生が、これまで曲がりなりにも会計史というテーマで自由に研究を続けて来られたのも小島先生の指導に負うところが大きいですが、このような先輩との縁(えにし)をもたらしてくれた旧制中学から現在に至る市岡の歴史と伝統に感謝する次第です。
  個人的な思い出かつ冗長な文章となり恐縮ですが、一文を記させていただきました。
 最後に21期生の同窓会を企画・運営していただいた竹内さんをはじめとする皆さんにお礼申し上げます。また、平均余命を考えればわれわれにはまだまだ残された時間があると思います。同期の皆さんもお元気でご活躍ください。再会の機会があれば幸いです。
(21期3年5組 中野常男)

【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご案内

37期生の皆様には益々ご活躍のことと存じます。
 
下記のとおり2024年4月27日(土)に37期生同窓会を開催することとなりました。37期生は4年に一度の夏季オリンピックの年に同窓会を開催していますが、前回(2020年)は、コロナの影響により開催できませんでしたので、実に8年ぶりの開催となります。150名超えの参加規模を目指しておりますので、皆様、お誘いあわせの上、ご参加いただきますよう、よろしくお願いします。
2024年市岡高校37期生同窓会
幹事一同
会の名称 2024年市岡高校37期生同窓会
開催日 2024年4月27日(土)
1次会 ■時間: 14:00~16:30 (受付開始 13:30~)
■場所: ANAクラウンプラザ大阪
     大阪市北区堂島浜1-3-1  電話 06-6347-1112
     https://www.anacrowneplaza-osaka.jp/
■会費: 10,000円
2次会 ■時間: 17:30~19:30 (受付開始 17:00~)
■場所: 北京料理 徐園
     大阪市西区江戸堀1-15-30 電話 06-6448-5263
     http://www.joen.co.jp/
■会費: 5,000円
申込み
締切日
出欠のご都合を下記の締切日までにご自身が所属する各組幹事に連絡してください。
■第一次締切日: 2023年12月31日(日)まで
■第二次締切日: 2024年3月31日(日)まで
各組幹事 (1組) 岩本幹、小山朝子、藤田朋子
(2組) 柴田勝利、竹内和彦、小林潤子
(3組) 松原美巳、松山文鑑、上田七菜子、川勝昭子、草野久美子
(4組) 久米秀樹、外間勉、塩田真美、森康子、山根美佐代
(5組) 飯尾元彦、武藤太、中村好子、森脇由起子
(6組) 岡村修一、伊藤政子、榎並加代子、谷岡正子、中野宏美
(7組) 有村博、安藤一保、下岡広志、阿阪美保、岡野真貴
(8組) 北濱晃司、鷲原知良、宮本洋子
(9組) 西原実、田中千枝
(10組) 古川政宏、辻本佳代子
連絡先
お問合せ先
連絡・お問い合わせは各組幹事にお願いします。各組幹事の連絡先がわからない場合は、下記の事務局幹事に連絡してください。
事務局幹事 久米秀樹(3年4組)
携帯電話  090-9285-1601
電子メール kume7181☆gaia.eonet.ne.jp
※上記☆は@(半角文字)に変更してご利用下さい。