12期の広場

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お正月郷土料理 「越後のっぺ」

6組 佐々木 康之(長岡市)

 昔から新潟に伝わる代表的なお正月料理といえば「越後のっぺ」だと思います。今から四十数年前、はるばる大阪から新潟にやってきて、ややホームシックになりかけていた時に初めて出会った、雪国ならではの暖かい家庭料理がこの「のっぺ」です。ごく一般的な野菜のゴッタ煮料理でありながら、なぜか懐かしいおふくろの味を思い出させてくれます。

 日本食生活全集によれば、この「のっぺ」は北海道から、宮崎まで四十数か所でつくられている全国区の料理だそうです。しかし、日本料理由来辞典には唯一「越後のっぺ」のみの記載があり、そこには「片栗粉を使わず、里芋のとろみを利用した粘りの少ないさらっとしていることや、塩鮭の切り身やトトマメ(鮭の卵)を入れるのが特徴である」としています。

 わが家の「のっぺ」には里芋、塩鮭のほかには大根、人参、ごぼう、こんにゃく、しいたけ、ぎんなん、ゆり根、貝柱などが入っています。この「のっぺ」は、正月だけでなく何か行事のある時は必ずといっていいほどよく作られよく食べられる料理ですから、主婦はわが家の味を出すのにいつも工夫しています。また、この「のっぺ」は煮物だけでなく、時には汁物(のっぺ汁)にも変身したり、祝い事のときには材料を短冊切りにし、不祝儀では乱切りや三角切りにしたり、さらには、入れる材料を変えたりすることもある大変フレキシブルな料理だといえます。今や私にとっては、第二の故郷新潟の味として熱帯アジア原産の里芋と故郷に帰ってきた鮭がこの「越後のっぺ」で出会った、北方と南方文化の接点で醸し出された素晴らしい郷土料理といっても自慢しすぎではないかとも思っています。

 是非、皆様も新潟の農村にでもお立ち寄りの際には、この「越後のっぺ」をご試食いただければ、私の熱い思いもわかっていただけるものと確信しております。

京都-師走、そして正月

8組 川村 浩一(京都市)


 あけましておめでとうございます。8組の川村です。

 昨年は大変な年でした。特に東北地方の大震災に遭われた方々はどのようにお正月を迎えられているのでしょうか?今年が平穏な一年であることを願わずにはいられません。年の暮れには京都東山の清水寺で「今年の漢字」が発表されます。昨年は「絆」でした。ことしはどんな漢字になるのでしょう。

 小生、京都に移り住んで32年になります。それで「京都の正月」を紹介せよということですが、1200年の厚みのある京都の諸行事を描ききることは不可能です。京都の旧家の正月もよく知りません。やむを得ず小生自身の師走から正月にかけての経験をご報告することにいたします。

 この投稿がホームページ上にアップされる元日未明には、たぶん小生は八坂神社の「をけら参り」で、東山あたりを歩きまわっていることでしょう。いつもは家で紅白を見ながら孫たちとゲームをしていますが、今年はこの記事のため初めての「をけら参り」をするつもりです。

去年今年貫く棒の如きもの 虚子

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お正月、ごく普通です

7組 田中 健治(大牟田市)

 お正月行事で、九州と大阪近辺で風習になっている『三社参り』で福岡県の有名な筥崎八幡宮-宮地嶽神社-太宰府天満宮のコ-スを一例に、紹介します。

 筥崎八幡宮は福岡市東区箱崎の箱崎海岸に近くにあり、応神天皇を主祭神とし、神功皇后と玉依姫命を配祀しています。本殿、拝殿は921年藤原真材により創建されました。神門に「敵国降伏」の扁額がありますが、これは元寇の際に亀山上皇が掲げられたもので、蒙古軍を撃退したとされる「神風」は、その「神徳」とされており、以来、海上交通、海外防護の神として信仰されています。

 お正月神事としては、12月31日の「大祓式」、「なまこ餅つき」に始まり、正月3日の「玉取祭」、11日の「聖一国師報賽式」が有名。神社前では「梅が枝餅」「回転饅頭」などが販売されています。


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「12期の広場」12月号のラインナップ

 この日を狙い打ちにしたかのような大雨となった11月19日(土)に「東京12期会」が銀座三笠会館にて行われました。12月号はこの特集といたしました。

 おりしもブータン国王夫妻が来日し、東京12期会・泉会長の「ブータン紀行」の連載と重なり話題性もあることから、特集の中に組み入れました。

 この大雨の中、大阪から酒井代表幹事と張志朗さん、高尾昌之さんも参加していただき、東京12期会はいつになく華やいだ中で進行して2年後の再会を約しました。

 12月号のラインナップは下記の二編です。お楽しみください。

 さて今年もあと30日、「12期の広場」も無事、12回の更新を重ねることができました。これは読者であり執筆者である12期生の皆さんのご協力の賜物と心から感謝いたしております。

 来年もさらに精進して、よりよい「12期の広場」を作っていきたいと考えていますので、引き続き暖かいご支援をお願いいたします。

  1.  「第5回東京12期会」           8組  山田正敏
  2.  「ブータン紀行」(1)            5組  泉 信也
以上

第5回 「市岡高校東京12期会」

<第5回 「市岡高校東京12期会」報告>
幹事 事務局長 8組 山田正敏

 本会も今回で丸8年、5回目を数える。そして全員が今年度古希を迎える。

 11月19日(土)午後1時から川合君の世話で今年も銀座の「三笠会館」に於いて挙行、出席者は女性6名、男性16名、計22名であった。

 榎本幹事長の開会の辞から始まり、今年2月に逝去した松永康雄君の為に全員30秒の黙祷。

 その後、本会会長・泉君の挨拶に続き、大阪より本会の為上京してくれた12期全体の会長・酒井君や張君より市岡高校110周年の集まりの報告や12期会の今後の方針等丁重なご挨拶を頂く。

 そして、榎本幹事長より会長人事につき、泉 現会長が12期全体のホームページ編集委員兼任という理由で退任、代わって大石橋君が引き継ぐという事に対して出席者の了解を求め、全員の了解を得る。新会長の挨拶をもらい、川合幹事に乾杯の音頭を取ってもらって食事歓談に入った。

 30分の歓談の後、恒例の出席者全員の近況報告を順番にしてもらった。
満身病で医者が見離したにもかかわらず、どういう訳か益々元気な村木君のユニークな話しぶり。広島から駆けつけてくれた辻君の再生医療の話。加古川からわざわざ来てくれた高尾君(8組)。同じく初参加で12年間土浦にいて、来年4月名古屋の実家に帰るのでこれが初めてで最後の参加ですといいながら楽しそうに話してくれた小野君(6組)。そしてやはり酒井、張両君の丁寧で真摯な話が会を盛り上げてくれた気がする。

初めて東京12期会に参加の酒井君(前列左)小野君(前列中央)高尾君(後列右端)

 結果的には最後になり、古希の祝いをするのであるが、たまたま高谷尚江(旧・富田)さんが本日誕生日だという事でそのお祝いもかねた形になった。彼女の嬉しそうな顔を見て、70歳になっても誕生日を喜ぶ女性の可愛さを感じた訳である。

 その段階では司会進行役(山田)はもはや役目を果たさず、ただひたすらに酒を愛でていただけである。本日の大事な報告事項である「利根川 川上り」の最終報告は、時間の関係で後日改めてという事にし、又、恒例の「校歌斉唱」は忘れてしまったのである。(反省)
ということで何とか終了した。大体こんなところが「東京12期会」である。

 2次会はいつものカラオケで17名が参加。歌を歌う為なのか酒を飲む為なのかわからない2次会であったが、わいわいがやがやで楽しく3時間近くを過ごした。

 残り少ない人生!理屈抜きで楽しむのがこの会の良いところでもある。

※尚末筆になりますが、酒井会長から今回の会に、祝い金を頂きました事を東京12期会の皆さんに報告致します。又、その使途につきましては、本会と2次会に於ける赤字の補填に充当致しました。了解願います。

<20日 東京案内>

 東京12期会に出席の為、酒井、張、村木の3君がホテルに一泊する為、在京組の泉、榎本、山田が同宿し、そして、翌日東京案内をする事になった。

 ルートは、「ホテル銀座ダイエー」→柴又の「帝釈天」→「東京スカイツリー」→「珉珉」(食事)とし、ホテルを出発東銀座より都営地下鉄・京成にて約30分で柴又着。そこでボランティアの案内人に従い、うなぎ屋、団子屋、土産物屋などが立ち並び、昔ながらの趣を今なお色濃く残す参道を約200m歩き帝釈天(題経寺)山門に至る。すばらしい彫刻が施された山門をくぐり400円の拝観料を払い本堂へ。

 そこで驚いた。 厚さ20~30cm横3~4m縦1.5m(ぐらいか)の欅の柾目の1枚板に立体的に彫られた壁板が外壁一面に嵌め込まれており、全部で何枚になるだろう、十二支、色々な動物、人物、風景等が立体的に彫られており、芸術的にも技術的にもまさに国宝級だと感じ入る。そして回廊式の大庭園を見た後、すぐ近くを流れる江戸川に出て土手の上まで上り、「矢切の渡し」は遠望するだけにして、帝釈天の鐘楼で衝く正午の鐘を聞きながらもと来た参道を団子で腹の虫を抑えながら駅まで戻る。

 それにしても、映画の影響力は大きい。「寅さん」映画のシリーズがなければこれほど人気になり、これほど多くの人々が参詣するだろうか、少なくとも本日の我々の計画には入れなかった。

 次は柴又発約20分で押上下車。「東京スカイツリー」を見物する。来年5月末オープン予定で現在下部の建築工事中、又、周辺の整備もこれからと言うところであるが、日曜日という事で大勢の人出の中、634mを見上げ、その高さと迫力を実感する。東京近辺では見通しさえ良ければ大概の所から遠望出来るが、近くで見るのは東京組みの3人も初めてである。しかしやはり東京タワー同様これも近くで見るよりは離れて見るものだと実感する。

 帝釈天で時間が掛かりすぎた為、次の予定である「浅草寺」は今回カット。時刻は13時10分。東京駅地下の「珉珉」に急ぐ。遅い昼食をまずビールで乾杯。後、餃子19人前、その他単品でそれぞれが好きなように注文し酒も飲み放題で15時30分頃打ち上げ。東京駅で解散した次第である。

以上
さすがに疲れた・・・山田 記
 
第5回 東京12期会(総集編)

<参加者全員の集合写真>
前列右端が泉会長、二番目が大石橋新会長
泉会長、有難うございました。大石橋新会長、よろしくお願いします。(東京12期会一同)


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ブータン紀行 (1)

 泉 信也(5組)

 前号にご紹介したブータン王国の山旅についてこれから3回に分けてご案内します。

 折しも今週(11月13日の週)は先月結婚式を挙げたばかりのワンチュク国王夫妻が国賓として来日され、新婚旅行とは名ばかりで親善や被災地のお見舞いに忙しいご様子を報道で見られた方も多いかと思います。あらためて遠くて近い国の印象を強めました。


 さて今度の山旅の起点はブータンの古都パロだが、日本からの直行便は無く、バンコクに半泊しての長いフライトになる。観光政策と自然保護の両立のため、入国にはビザと一人一日当たり200米ドルのデポジットを課してコントロールしている。200ドルはホテル代、交通費のほか国内での安全保障にも充てられるので法外と云う訳ではなさそうだ。

 2006年当時、ブータン国営航空の国際便には2機の大型機しか無く、そのうちの真新しい120人乗りエアバスで4月26日にバンコクを飛び立ち、ヒマラヤの山肌をかすめながらパロの河原の小さな飛行場に無事到着。

 空港ビルは簡素なものだが、伝統的なデザインと清潔さが良い。入国手続きもその場で手早くビザが発給され、幸先良い旅を約束してくれるようで印象が良い。出口で迎えてくれたガイドのリンジン君は立派な体格でハンサムな好青年。民族衣装で正装の黒無地のゴ(ドテラを短くしたようなもの)を着用し、流暢な英語(公用語として小学校から習う)でてきぱきと案内してくれる。さすがに車はおんぼろだが日本製で運転も安心できる。

 パロの町の全景を見渡せる高台にあるホテルは広大な敷地に山小屋風のロッジが点在し、翌日からのテント暮らしを控えた身には贅沢な初日となる。夕食はさっそく地元の名物を試す。聞きしに勝る唐辛子料理のオンパレードで、旅行者用に辛さは和らげてあるというものの先が思いやられる味だ。


トレッキング第一日:パロ‐ドゲゾン‐シャナ(Camp 1)

 春とはいえ標高2300メートルの朝はかなり冷え込み、気持ちよく晴れた空に遠くの雪山がまぶしい。今日のリンジン君のいでたちはシェルパらしい山支度で気分も盛り上がる。車でパロ川右岸を15キロほど遡り、トレッキングのスタート地点のドゲゾン村に着くとすでにコック二人、馬方二人、馬九頭が大量の物資をそろえて待っている。ガイドと我々の3人をふくめ大キャラバンで豪勢な大名旅行の始まりだ。ザックひとつの軽装で、清冽な流れに沿ってのんびりと歩く。谷間はやせた畑だが良く手入れされ、日本の農業指導者の苦労がしのばれる。農家は置き屋根をのせた伝統様式で漆喰の白壁が美しい。山腹の森は五葉松や樫の混交林、人家が途絶えるころ左岸に最初の岩山、ドラツェ・ガン(5570メートル)が荒々しい姿を現す。

 初日は5時間半歩いて、Camp 1となるシャナのテントサイトに着く。先行したリンジン達がすでに設営を終え、熱いチャイを振舞ってくれる。三角テントは二人で使うには広すぎるほどで快適な住み心地、日暮れ前にはキッチンテントに全員が集まりご馳走をいただく。旅行者の我々にはスープ、豚肉と野菜の煮込み、茹でアスパラ、サラダに赤米などだが、皆はヤクの腸詰め、チーズや例の唐辛子を野菜代わりと称して旨そうに食べている。少し分けてもらったが昨日の数倍の辛さ、しかし慣れると旨そうだ。

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「12期の広場」11月号のラインアップ

 11月、霜月です。庭の花水木はすでに紅葉が終わるようですし、小さな柿の木は五つほど実をつけました。今年の秋は例年に比べて、何故か駈け足のように思ってしまいます。

 先日、宮津にお住まいの丸橋米子(旧姓-坂本)さんに電話する機会がありました。毎月の一日、朝一番に「12期の広場」を見ていただいているそうです。嬉しい限りです。

 さて11月のラインアップですが、以下の二編です。お楽しみください。

  1.  「ブ-タン紀行」(序)         5組  泉 信也
  2.  「尼崎道意新田開発と海老江村」     8組  末廣 訂
以上

ブータン紀行(序)

5組   泉 信也
 

 ちょうど10年前の9・11のテロの記憶は未だに新しく、今また3・11の東北大震災、津波、フクシマの三重苦に遭遇し、人々の価値観や考え方が大きく揺らいでいます。そんな中ヒマラヤの小国「ブータン」の国王が提唱した「国民総幸福量・GNH」と云う概念が、これからの我々の進むべき方向を考える議論の中でひとつの話題になっています。

 世界中がGNPを追い求める中で、GNH(Gross National Happiness)の増進を国是としたのは、ブータンという国がおかれた地政学的な状況の中での智慧の発露と云うべきものかもしれません。
GNPが個人消費や設備投資などから成り立つように、GNHには1心理的幸福、2健康、3教育、4文化、5環境、6コミュニティ、7良い統治、8生活水準、9自分の時間の使い方 の九つの構成要素があります。(Wikipedia)
ブータン国立研究所長のカルマ・ウラは次のように述べています。
「経済成長率が高い国や医療が高度な国、所得や消費が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らしてゆく上で欠かせない要素だ。GNPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」(日経インタビュー)
経済がグローバル化し、文化が画一化する現代の文明社会にあってこんなブータンの存在は奇跡と云えるかもしれません。人口67万人、九州ほどの狭い国土のほとんどが山岳地帯で、水(水力発電)以外に資源と呼べるほどのものはありません。インドと中国という大国にはさまれながらも、1000年以上も孤高を保ってきたのは永く鎖国を続け、チベット仏教に深く帰依し、伝統文化を守ってきたからにほかなりません。「足ることを知る」人々は謙虚で優しく、壮大なヒマラヤの景観と手つかずの自然と人が織りなすブータンの心象風景はまさに「最後の理想郷」です。

 縁あって2006年春にそのブータンの峠道を歩いてきました。スノーマントレックと呼ばれる長い行程の一部で、山の民が家畜とともに行き来したり、チベットとの交易に使われる生活道を辿る120キロの道のりです。1日の行程が長く4000メートル以上の峠を越える日もあって苦労しましたが、7000メートルの峰々が続くブータンヒマラヤの神々の座に対峙できたことは、振り返ると夢のようです。 

 いささか旧聞に属しますが、次回に山旅の雰囲気や山の民の生活の様子をお伝えしたいと思い、今号ではブータンの最高峰「チョモラリ・7315メートル」の写真を添えてご案内といたします。


尼崎道意新田開発と海老江村

8組 末廣 訂

 先般の6月号に続いて我が故郷「海老江」に関する歴史物語を披露したく再度投稿します。

思いもかけないきっかけ

 我が家の近所に小さな祠「たかの巳社」があり石碑も建っていて、この祠が何か歴史的史実があるのか以前から不思議に思っていた。「巳さん」を祀っている事は知っていたが、「たか」とは何かもう1つよくわからなかった。

 もう5~6年前になるが市岡高校同期の川村浩一君から「末廣君知っているか–阪神電車尼崎センタープール駅前にある道意神社境内に説明板があり、海老江の人が新田を開いたと書いていたで—-」と教えてくれた。
 



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-お知らせ-松永康雄君がおなくなりになりました。

 市岡高校東京12期会から松永康雄君の訃報の連絡がありました。以下にそのメ-ルの要旨を掲載すると同時に、謹んでご冥福をお祈り申しあげます。

- 大阪府立市岡高等学校第12期同窓会 幹事会 -

 7組の松永康雄君が今年2月20日に亡くなりました。我々(榎本、山田)がそれを知り得た のは9月20日受取の興梠君からのハガキによるものです。

 興梠君は松永君と5月GWに登山の計画があり、その打合せで事前に松永宅に連絡した折、奥様の話で彼の逝去を知ったようです。その時の奥様のお話では、「亡くなる前に故人は、迷惑を掛けたくないので友人知人には一切連絡しないでほしい。家族だけに看取られて静かに、安らかに逝きたいという故人の強い希望でしたので皆さんどなたにも連絡しなかった」というものでした。その為、興梠君も我々同期の誰にも連絡せずに今に至り、11月の同期会の出欠の返事に合わせて連絡をくれたものです。

 7ヶ月たった今、我々はどう対処するかという事ですが、榎本、山田 相談の結果、榎本は故人と市岡高校山岳スキー部で一緒、山田は高校、大学(立命館大学理工学部土木科)共一緒という共通点で、2人だけでお参りだけでも行こうじゃないかということで、9月23日(金)奥様に電話した上で平塚のご自宅に行ってまいりました。そういう事情をご考慮願い、皆様に声をかけなかった事をお許し願いたい。

 故人は若いときから腎臓を患い、35年前から腎臓透析を続けておりましたが、その間、色々な病を併発しながらも自分の寿命の長くない事を知りつつ、奥様とご一緒に日本や世界の山々を登ったそうです。昨年10月頃から体調を崩し、又今年になって肺炎を併発して入院、2月20日ご家族に見守られ亡くなりました。最後の一週間はしゃべる事も出来なかったようですが、彼らしい安らかな最後だったそうです。

 故人の人柄は我々2人だけで無くご存知だとは思いますが、強い責任感、人を思いやる優しさ、どれだけ困っても弱音をはかない人柄で真の男だと思います。

 惜しい友人を失いました。   祈 ご冥福。


8組 山田 正敏 記