12期の広場

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市岡の OB・OGの皆さんが頑張っています

7組    張 志朗
 

第11回市岡OB写真クラブ写真展

 
 新年を迎えて最初の市岡高校関連恒例行事は、市岡OB写真クラブの作品展です。ここ数年は、会場も大阪天満宮や堀川戎神社が近い南森町のMAGギャラリーと固定され、時期も“十日戎”に重なる事が多かったのですが、今年は、会場は変わらず、開催期間は、“エベッさん”の賑わいがおさまった1月16日~21日の6日間でした。17日、大阪市内でちょっとした仕事を済ませての夕方、作品展に行き、皆さんの作品を楽しんで来ました。
 出品者数16名で、各二点の作品展示、総数は32作品。毎回ほぼ同じ規模のように思いますが、作品はいずれも豊かな感性と魅力が溢れる力作でした。今回の写真展の特徴は、風景写真が多かったことのようです。当然、撮影場所も身近な場所から日本の各地、はては北欧にまでおよび、山上から、海辺から、また近景、遠景、そのアングルも多彩です。引き込まれて作品に顔を近づけ、メガネをはずして見入ってしまった作品が沢山ありました。ずぶの素人が言うのもなんですが、“皆さん大層、腕を上げているなぁ”と言うのが正直な感想で、同時に撮影のご苦労もなんのその、シャッターチャンスを逃すまいとの若々しい気迫と、喜びが伝わってきました。
 同期の高見政博君の作品も“花の写真の手練れ”には珍しい風景写真です。「幣舞橋ぬさまいばし夕景」(撮影場所:北海道釧路)と「天空の橋」(撮影:長野県白馬村八方池)の二枚。いずれも美しく、幻想的で味わい深く、詩情あふれる作品です。紙幅の関係で「天空の橋」のみを貼り付けました。写真上部は後立山連峰(白馬連峰)。唐松岳から延びる尾根で「八方尾根」として知られています。天空に浮いた橋のように見える道は、唐松岳登山の登山道でもあり、その標高2060Mだそうです。
 思わず一人言。
 「行ってみたい。こんな景色に巡り会い、それを写真に撮れたら感激・感動ものだろうな」

 

市岡高校吹奏楽部OB・OGバンド第12回定期演奏会

 
 2月23日、大阪府立市岡高等学校吹奏楽部OB・OGバンドの第12回定期演奏会に行ってきました。
 毎回、案内状を頂きながら、前の何回かは欠席をして久し振りの演奏会です。今は亡き4組の内田勝章君に誘われて初めて演奏会に行ったことを思い出しながら会場の城東区民センターへ。出来るだけ歩こうと、タクシー利用をさけたのですが、結局道に迷い40分近く歩く始末で、開演時間ギリギリの到着でした。
 新型コロナウイルス感染の初期段階とは言え、その影響をちょっと心配したのですが、観客は市岡ゆかりの人達を中心に、定員800名の会場、ほぼ満席状態でした。
 定刻2時に開演、舞台には69名のメンバーが勢ぞろいで圧巻です。第1部は『オリジナルステージ』で、「オリンピックマーチ」「炎のランナー」「バンドのための『ゴジラ』ファンタジー」の三曲でした。2020東京オリンピックにちなんでの構成だそうですが、まずは手始めのオーソドックスな大編成バンドサウンドに圧倒されます。
 
 第2部は恒例の『アンサンブルステージ』です。これが楽しい。大小さまざまなリコーダーを使った優しく、懐かしい音色の合奏から始まり、サックスアンサンブル、金管アンサンブル、打楽器アンサンブルと続き、音色や音域が異なる同種楽器のハーモニーの新鮮さに驚き、またそれを楽しみました。小編成だけに息が合う事が要になるようですが、練習時間や場所の制約を克服しての舞台に苦労がしのばれました。個人的にはサックスアンサンブルの「ブエノスアイレスの春」が気にいりました。
 第3部はいつも大人気の『ポップスステージ』です。「MOVE ON」(報道ステーションのスポーツコーナーBGM)から、お馴染みの「ゴーストバスターズ」「美女と野獣」と続き、2020年12月に活動休止する「嵐」の楽曲12曲のメドレーで大盛り上がりです。手拍子あり、掛け声あり、立ち上がっての演奏ありなど、舞台と観客席が一体化して雰囲気は最高潮です。
 アンコールはなんと「東京音頭」と「パプリカ」で、大きな拍手喝采で終演となりました。
 トロンボーン奏者の高橋正憲さんは高校18期の最年長、すぐ傍で28日に卒業式を迎える高校72期の玉置優里さんが演奏していましたが、市岡のOB・OGバンドならではの光景に嬉しくなりました。

「12期の広場 」 2020 新春号のラインアップ

 
 明けましておめでとうございます。
 令和になって初めてのお正月、2020年のスタートです。少々、不本意な迎春準備で迎えた元日ですが、やはり身も心も新たになり、新年の喜びと期待が溢れてくるものですね。カット写真を十国峠からの富士山にしました。雄大にして壮麗、荘厳で実に美しく、清々しい心持ちで一杯。今年もきっと良い事が沢山あるような気がするのは、名にし負う、霊峰、富士の力でしょうか。
 今年も「12期の広場」を、どうぞよろしくお願い申しあげます。
 
 実はこの写真、昨年の11月11日の市岡東京12期会の翌日、同窓生の皆さんと熱海に小旅行した時に撮ったものです。十国峠は中学校の修学旅行に訪れていますが、その時の記憶が全くありません。雲一つない秋晴れの中の360度の眺望は、まさに絶景の一言。前日の同窓会の余韻と、今ここに友と共に在る感慨もあってか、2019年のハイライトになりました。
 東京12期会の同窓会は、一昨年、大阪での同窓会が終了しただけに、格別なものでした。会場は高度成長真っただ中、そのシンボルとして建てられた日本初の超高層建築の「霞が関ビル」。30歳代にこのビル内で仕事をしていた緒方君の言葉によれば、ここから東京湾が見えたそうです。今は周辺に超高層ビルが林立し、東京は大変貌。我が同窓生の足跡も、「夢の跡」のように埋もれていき、また、老は日常にさまざまな影を落としているようです。それでも市岡健児・健女の意気は高くありました。また学友との再会は何にも代えがたい喜びでした。「歳を“とる”ことを引き算で考え、日一日と若くありたいと思っています」と話した杲田さんの言葉に、心がぼぅと温かくなりました。
 今年は、「2020東京オリンピック・パラリンピック」の年でもあります。12期会で、萩原君から、添付写真の1964年東京オリンピックの時の役員証が披露されました。これは、彼が江の島でのヨット競技開催時に競技役員として参加し、その記念として贈呈されたものだそうです。一気にオリンピックが身近なものに感じられました。すでに、卓球、バドミントン、柔道などなど、東京五輪出場をかけての厳しいドラマが報じられています。オリンピック・パラリンピックは全世界からアスリートが集う平和の祭典。本番は、さらなる人間ドラマと鍛え抜かれた心技体の素晴らしさを目の当たりにすることでしょう。
 今からどきどき、わくわく、楽しみにしています。
 
 さてわが「12期の広場 」 2020新春号のラインアップです。市岡東京12期会の報告ほかに加え、11月16日に亡くなられた三井健司君を偲んで、酒井君が文章を寄せてくれました。
 三井健司君は12期の野球部エース、夏の甲子園にあと一歩に迫ったあの熱い夏の記憶はいまだに色褪せることがありません。心からのご冥福をお祈り申しあげます。
 新春号の記事は以下の5編です。ご覧ください。

1. 「第9回市岡高校東京12期会と熱海小旅行」  ・・・・・・・・・・・・・・8組 萩原 貞雄
2. 「東京12期会に参加して」  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7組 小原 靖夫
3. 「『 甲子園への夢をありがとう !!  』— 三井健司君を偲んで」 ・・・・4組 酒井 八郎
4. 「野球と人生」(卒業50周年記念文集からの転載)  ・・・・・・・・・・4組 三井 健司
5. 「四季の花籠 ― つれづれに ③ 」  ・・・・・・・・・・・・・・・・6組 高見 政博

以  上

第9回市岡高校東京12期会と熱海小旅行

8組 萩原貞雄

霞が関ビルへ

 今日は令和1年11月11日、東京霞が関ビル35階での市岡高校東京12期会の日だ。熱海小旅行参加組は12期会終了後熱海へ移動することになる。
この霞が関ビルからは眼下に皇居が見える。昨日は天皇・皇后両陛下の即位パレードが皇居から赤坂御所まで4.5kmにわたっておこなわれた。霞が関ビルは建設当時日本一高い超高層ビルであった。戦後日本の成長を象徴するビルだ。高層ビルが乱立する東京にあって、建設後50年が経った古いビルだがまだまだ健在だ。我々も昭和、平成を経て令和元年のこの日、卒後60年目の同窓会を迎えるのだ。
 

開会


 定刻になり榎本幹事による12期会のスタートだ。大石橋東京12期会会長の開会宣言に続き酒井12期会会長の祝辞を頂く。
長きに亘りこの会が続くのも両会長と幹事達、歴代の会長のお陰であろう。酒井会長から東京12期会の開催に当たり12期会本部よりお祝い金を頂く。今回の資金の一部とした。



 

物故者への黙とう

 2018年4月27日ご逝去の4組・野田播磨 君に対し全員で黙とうを捧げる。
 

ショートスピーチ


 司会の榎本幹事の計らいで今回は3時間たっぷりとってあった。遠来の山本さん、近くは都内在住の児玉さんから始まった。病気と付き合いながら元気に活躍している人。会社勤めを終え地域コミュニティへの貢献、孫のお世話に忙しい人。年金だけでは生活できないとして働き出した人もいる一方、趣味に旅行にと贅沢な時間を過ごしている人も居る。総じて女性達ははつらつとして活動的だ。スピーチの話題は尽きない。


 

参加者

 今回の参加した全員23名で記念撮影をする。写真の中に名前を榎本幹事が入れてくれた。このうち酒井会長、張、末廣、梶、古藤、藤井(鍋島)、段中(高田)さんは関西から、山本(古荘)さんはカナダから、柏木(後藤)さんは三重からの参加だ。遠くからよく来てくれました。
 この会を終わってそのまま熱海小旅行に参加する人は張、榎本、児玉(青木)、古藤、大石橋、山本(古荘)、段中(高田)、杲田(鵜飼)、柏木(後藤)、萩原、末廣、泉君の男性6名、女性6名の計12名だ。
 

今後の市岡高校東京12期会

 歓談とスピーチの時間もあっという間に過ぎ、今後のこの会の運営について皆さんの意見を聞く。以前にもいつまでこの会を続けるかについてこの会で話し合った。東京オリンピックは大分先と思っていたがやってきた。寿命も延びている。我々も体に気を配りながら年齢を重ねて行く。結局期限を定めず、可能な限りこの会を続けるということになった。
また会長、幹事についてもこれまでのご努力に感謝するとともに今まで通り続投していただくということを参加者一同で確認し合った。
 
 最後に皆さんで肩を組み校歌「東太湖の水受けて、溶々西に20余里・・・」を歌い、次回の再会を願って散会する。

熱海小旅行

 霞が関ビルから東京駅まで直線距離ではたったの2.5 km。虎ノ門から地下鉄に乗る。新橋駅で山手線に乗り換え東京駅に向かう。1時間半もかかった。12人の皆さんは旅慣れた人たちだ。それでも通勤客の激流にもまれ、東京駅で新幹線の特急券を買うのに手間取った。この混乱の中、とうとう12人は3つのグループに分かれてしまった。児玉さんらの第一グループ、段中さんらの第二グループ、榎本君らの第三グループだ。児玉さんらは先の新幹線で行ってしまったらしい。第二、第三グループは首尾よく、同じこだまの車内で一緒になった。最後は熱海駅の改札で第一グループの児玉、山本、杲田さんから出迎えを受け無事再会する。
 

熱海KKRホテル

 児玉さんのお世話で予約済みの熱海の海岸沿いにあるホテルで夕食を一緒にする。市岡という同じ高校で育ち、昭和、平成と比較的平和な時代を過ごしてきたが、60年の歳月にはそれぞれ違った山谷があっただろう。夕食を挟んでお互いの近況を話し、級友の消息を確かめ合い、夜中まで話は続く。
 

太平洋に朝日が昇る

 このホテルは熱海の海岸に面している。朝、カーテン越しに朝日が射す。カーテンを開けると太平洋に朝日が昇る。初島、伊豆大島は目の前だ。早速ホテルの7階にある露天風呂で一風呂浴びる。絶景である。今日は快晴だ。
貫一・お宮の像のある熱海の海岸から海抜771mの十国峠展望台までバスとケーブルカーの旅だ。我々12人は乗り合いバスの後部座席を陣取る。バスは熱海の街並みを見下ろしながら喘ぎながら登っていく。十国峠登り口でバスを降りケーブルカーに乗り換え頂上へ向かう。
 

十国峠


 ケーブルカーを降り立った我々を待っていたのは360度広がる景色だ。雲一つない快晴。展望台の係の人がいうにはこれほど視界の良い日はめったにないと。富士山はもとより伊豆半島の大室山、眼下の沼津、熱海、太平洋に浮かぶ伊豆大島。また目を東に転ずれば手前の三浦半島、はるか房総半島まで見える。横浜のみなとみらいにあるランドマークタワーが見えたのは感激だ。



 

来宮神社へ

 十国峠への往路、バスの運転手からバスとケーブルカー往復乗り降り自由の一日フリーパス1200円の紹介があった。全員これを買っていた。これで来宮神社に向かう。
身を清めてお参りする。
60年後の再会が果たせたことに感謝し、皆さんでこれからの健康と無事を祈る。

 

再び熱海駅へ


 フリー切符で再び熱海駅に向かう。熱海は、退職後の終の棲家として移り住んでくる人も多い。また観光地としても復活してきた。
その為か駅前は平日にも関わらず人出が多い。
昼時に12人の食事ができる居酒屋を見つけてここでも歓談の花が咲く。大分長居をしたがここで関西組と関東組はお別れとなった。

 

再会を約して

 これからもそれぞれ違った環境で違った道を歩むことになる。いつかまた再会し、来し方行く末を語り合うことがあろう。同窓会、英語でリユニオンという。簡単に言えば再会ということだ。
あの世での再会はまだ早い。あの世での同窓会の案内も当分来ないだろう。
それまで健康でいよう。また今回病気などで参加を見合わせた人は健康を取り戻して再会しよう。

 
 
                          

 写真アラカルト

霞が関ビルからの皇居 ♪♪東太湖の水受けて♪♪
スピーチに聞き入る フムフム、それでどうしたの?
旧交を温める イョー!待ってました
十国峠 真鶴半島、三浦半島、房総半島を望む 十国峠 上の地図の様に10の国が見える
ケーブルカーの中で 十国峠ケーブル駅から富士山
皆さん良い笑顔ですね
2020年もこの笑顔で行きましょう!

 
写真提供:榎本幹事、萩原

東京12期会に参加して

7組   小原靖夫
 2019年11月11日東京霞ヶ関ビル35階で開催された同窓会には、関西地方の方始め全国から参集され、和やかな中に各自の人生から湧き出た情報の交換で学びの多い大変幸せな3時間を共有することができました。
 思い起こしますと1960年3月に卒業して60年目になり、この継続を支えられてこられた方々のご尽力には並ならぬものを感じ、敬意を表し感謝申しあげます。私は今回が2回目にすぎず、この貴重な会報に載せて頂くには相応しくないと心得ておりますが、おゆるしくださいますようお願い申しあげます。
 
 歴史(人生)は過去を包含しながら現在を突破し未来に向かっていますが、私は過去を振り返る勇気を長い間、持つことができませんでした。惨めな過去に存在を見出せない自分にある種の嫌悪感を持ち続け、学生時代は劣等感との戦いの毎日であり、社会に出てからは人間関係が上手くゆかず悪戦苦闘の連続で少数者意識に逃げていました。それ故に、ひたすらに未来に向かって邁進するほかありませんでした。同窓会の案内を頂く度に、心が痛み、それを無視する自分の二面性を自覚していました。
 
 今回、私にとっては驚くべき出会いがあり、大いなる過去を気づかせて頂き感謝に耐えません。それは柏木姉(旧姓後藤姉)が、私が市岡高等学校に存在していたこと、私が全く忘却の彼方に追いやっていた時を鮮明に語ってくだり、過去の一点に火が灯されました。柏木姉は、「あるとき席が前後であったこと、私が卒業式には受験で出席できなかったこと」を思い起こしてくださったのです。そのことから鮮明に思い出したことは「人の5倍努力していた自分」でした。
 入学した最初の試験が220番でした。担任の吉田先生との個人面接で、厳しい指導を頂き、素直に従いました。次の試験では8番になり、吉田先生自慢の生徒になりました。それは範囲のある試験でしたから、人の5倍努力すれば可能なことでした。しかし、実力は低く、次の試験では98番になりました。その後も激しい変動が続き、どんなに努力しても物理と生物についていくことができなくなり自己嫌悪に陥りました。今ならそれを受け入れられる知識もあります。
 「この世に生まれる一人一人は、何か今までに存在しなかった新しいもの、独自なものを表している。一人一人は彼と同じ存在がいまだかって世になかったことを知る義務がある。一人一人は彼にしか果たせない使命を果たすべく、この世に存在している。もし、彼と同じ存在が過去においてあったとしたら、彼はこの世に今いる必要はないのだ」(マルチン・ブーバー)
 
 次に、大切なことを想起しました。内向的で暗い性格を丸出しにしていたので、同期のM君が「君には聖書があっているよ」と助言してくれました。同じ時期に川村君が何かの集会に私を誘ってくれたような記憶があるのですが。
 これを確かめたく来年は同君に会いたいと思っています。その何かの集会で私は聖書を読もうと決心しました。読んでも分かりません。M君が教会いけば、と言われ場所まで探してくれました。音楽が苦手な私に讃美歌を歌うのが辛く長続きはしませんでした。この聖書への芽がこのとき、私の中に植えられたと感じたのはずっと後のことでした。とても大事な出会いを忘れ過去を否定し続けた自分が過去の一瞬に助けられていたことに気づいたのは、今回の同窓会に出席して、柏木さんから声をかけて頂いたお蔭です。張兄は現役時代にお助けと励ましを頂いてずっと私を見守ってくださっていました。
 47歳の時に仏教詩人で有名な坂村真民さんと出会いました。最も有名な詩は「二度とない人生だから」で、多くの方の知るところです。もう一つ抜きんでているのが「念ずれば花ひらく」でこの言葉が700近く国内のみならず5大陸に建てられています。私はイスラエルの平和を願い、この仏教詩人の言葉をヘブライ語と英語に訳して、キリストの教えに従い、ヘブライ大学の植物園に建立しました。(1994年3月31日)
 今はひたすら母が残した「希望に目覚め、使命を果たし、感謝に眠る」日の来たらんことを願っています。
 この拙文にお目通し頂く皆さんに感謝いたします。

「 甲子園への夢をありがとう !! 」 — 三井健司君を偲んで

4組  酒井 八郎
 
 市岡高校の野球部エースだった三井健司君が、昨年の11月16日、彼岸へ旅立たれました。
 11月11日、東京で市岡東京12期会の同窓会が開催されて5日後のことでした。ご冥福をお祈りいたします。
 2月、6組の畠平雅生君に続いてのお別れです。お通夜、お葬式には二十人近い12期の同窓生が参列し、三井君を偲び、お見送りしました。京都から7組の別宮君が来ておられたのですが、三井君とは幼稚園、小、中、高校、そして大学まで20年近く同じ学舎で、共に過ごされた間柄だそうです。お二人がまだ幼い頃、三井君の父上が、馬車で荷物を運搬されておられたお姿を憶えておられます。
 荷車と言えば、私にも想い出があります。桶作りの職人であった父の手伝いで、子供の頃、西区の材木問屋へ行ったことです。「すしはんぼ」(ご飯を冷やし、すし飯にする時などに使う“半切り”)や「おひつ」などの木桶を作る材料の「さわら」という木材、ひとかかえもある太くて、長い原木を大八車にくくりつけ、川口町、玉川町、野田、西九条、千鳥橋を経て四貫島迄、汗びっしょりになりながら、何度も運んだことでした。
 別宮君の想い出話を聞かせていただいた後、祭壇横に置かれてある、三井君がコツコツ整理されたアルバムを拝見させてもらいました。
 息子さんや娘さん達と、そしてお孫さん達とのなごやかな家族写真と共に、川西君が撮影された写真が、笑顔の写真が何枚もありました。
 添付の写真は、昭和62年、市岡高校が第59回の春の選抜に出場した時、甲子園からの帰路、応援に行った12期の皆さんで、三井君を中心に撮ったものです。
 高校三年生の夏、藤井寺球場での大阪大会準決勝戦、彼はピッチャーズマウンドで、力投を続け、私はスタンドで、手を振り、声をはりあげ応援、八尾高校を相手に一つになっての試合でした。「もし、あの時八尾高校に勝っていたら !」の想いは、この春の選抜出場で実現されました。
 平成7年、阪神淡路大震災の年にも、市岡高校は春の選抜で甲子園に出場しています。「 甲子園出場 !! 」が、どれだけ多くの人を勇気づけ、元気づけたことでしょう。後輩のプレーに一喜一憂しながら応援し、みんなで校歌を歌い、ふたたびの夢の実現を喜び合いました。
 阪神淡路大震災の当日、三井君の運送会社の車両が貨物運送中に神戸で被災、その救援にご苦労された話を聞かせてもらいました。自宅と商店が全壊した私へも「ハッチャン、がんばりや !!」と声をかけてくれました。
 母校同窓会の佐藤会長から、12期生からも同窓会役員を出すように要請された時、心よく引き受けてくれたのが三井君です。副会長として、野球部の支援のみならず、母校同窓会の運営にも、力を注いでくれました。
 舞洲のお花見には、奥様とお孫さんと一緒に、市岡の森まで登ってこられたこともあり、やさしい「オジイチャン」でもありました。
 三井健司君、本当に長い間、甲子園への夢をありがとう !!   合掌

野球と人生

三井健司  4組
 
 名門、市岡高校卒業50周年を祝して発行される記念誌の1ページに、投稿させていただく事に感謝いたします。

 私の人生は、市岡高校公式野球部に始まり、諸先輩方の激励とおだてに乗せられて、母校の甲子園出場を夢に青春の情熱を傾けてまいりました。今振り返ってみましても、先輩、監督・コーチの怒鳴り声が絶えることがなかった厳しい練習風景が脳裏に焼きついております。
 真っ黒になったユニホームと、縫い目の切れたボール、所々裂けたグローブに、ひたすら甲子園を目指した青春の思い出ばかりの、市岡高校イコール野球の学生でした。
 紅顔の悪がき大将も、今は老眼の「皺お爺さん」。しかしこの投稿を機に、若かりし頃の思い出に浸ることが出来ましたことに感謝を致します。高校生活最後の、夏の高校野球大阪予選で、市岡高校の野球部員の一人としてマウンドに立ち、仲間達の応援歌「東大湖の水受けて・・・・・・」を聞き、私が母校の主役になったような気分で、元気百倍の勇気を背に受けてマウンドに立ちましたが、準決勝で力及ばず八尾高校に無念の敗退、甲子園への夢は叶うことができませんでした。
 しかし早稲田大学野球部に入部し一年の秋リーグ戦の早慶六連戦に勝って優勝を果たし、石井連蔵監督の胴上げには加わることができました。
 ひたすら野球に専念した高校・大学時代、先輩・後輩の秩序、縦横の教え、社会に出てからの諸先輩方のお助けも、スポーツをした者ものではないと解らない有難味を頂きました。社会人となり、後輩をもう一度甲子園へ出場の一念から、母校市岡高校野球部員に、野球の楽しさと厳しさ、そこからは無尽蔵に汲みだされる人生の喜びを伝えたく思い、昭和62年及び平成7年、河合監督の手助けをして、子供たちを念願の甲子園に連れてゆくことができ、伝統ある三本線の入った野球帽を全国高校野球ファンの前に34年振りに思い起こさせることができました。
 齢68年を数える今、私には汗と埃にまみれた苦労はもうできようもありませんが、その思い出だけは心に深く残っております。野球から学んだ人生、仕事から学んだ野球人、厳しさの連続の中から出会った先輩方からの教えが、現在の未曾有の不況に立ち向かう私の、力の原点となっていると申しても過言ではありません。私の心には、市岡高校のために頑張った青春、今社会から助けていただいている人生も、野球からの教えの賜物との思いが常に溢れております。  
 社会人として認めて頂ける人生も市岡高校に入学をさせて頂いたから現在の私があります。
 若い後輩たちに一言申上げるとすれば、それは、「青春は二度と戻ってこない!今、君達は何を目標として頑張り、また何を思い出として残そうとするのか?」です。
 
 卒業50年を顧みれば、私にとりまして野球だけが青春の思い出となりました。
 市岡高校の益々の発展と、何か伝統あるスポーツ殊に、私にとりましては野球部が全国制覇を果たすのを、見果てぬ夢として筆を擱きます。

四季の花籠 ― つれづれに ③

6組  高見 政博 
 冬の花々です。
 「山眠る」は冬の季語ですが、高い山は厚い雪に覆われて静かに眠っています。高山植物は当然雪の下です。里山でも冬に咲く花はほとんどありません。思うに、この時期は虫たちも冬眠中で大切な花粉を運んでくれるものが居ないのですから、花を咲かせても無駄だということを知ってのことでしょうか。
 そんなわけで、冬に咲く花と言えば山茶花、臘梅(ロウバイ)くらいしか思い浮かびません。昨年の12月のラインアップに掲載されたのは温室の花、洋蘭のデンファレでした。
 しかし、冬を12月から2月とすると選択肢が広がります。
2月も節分を過ぎると陽射しも幾分力強くなってきて、春の気配を感じる日があらわれます。春1番が吹く頃になると先駆けて咲き始める花があります。「スプリングエフェメラル(春の妖精)」と呼ばれる花々です。
 此処ではそんな花のいくつかを紹介します。
 


 「フクジュソウ」です。漢字にすると「福寿草」。めでたい名前から正月の縁起物として、松竹梅の盆栽飾りの下草としてつかわれますが、自然界では2月下旬頃に咲きます。六甲高山植物園で撮影しました。
この日は前日に冷たい雨が降り、標高の高い所にある高山植物園は雪になったようで、花には雪が積もっていました。それでも春を思わせる陽射しを受けてけなげに咲いています。その姿には感動をおぼえました。


 「ミスミソウ」です。この花の近縁種の「スハマソウ」とともに園芸店では「雪割草」の名前で売られています。しかし、「雪割草」という名前の花は高山植物にあって、全く違う花です。ちなみにミスミソウは「キンポウゲ科」雪割草は「サクラソウ科」です。
 直径1㎝に満たない花ですが、色や姿の変化が非常に多く、まるで別の花のように見えるものがあったりします。群落で咲いているところは、まるで昔、女の子が遊んでいた「おはじき」を撒き散らしたようで、たのしい光景です。

 「バイカオウレン」です。この花も2月下旬頃に咲きます。直径1㎝くらいの花で、一面大群落になります。2月下旬、先のフクジュソウと同じ日の撮影です。フクジュソウの項で述べたように前日雪が降って木々にはつららが下がっていて足下は凍結していました。そんな寒さの中で少し力強さを増した陽光を精一杯受けて咲いています。

 


 「セツブンソウ」です。名前のとおり節分の頃に咲きます。
 先のミスミソウやバイカオウレンと同じように、花びらに見えるのは萼が変化したもので、花は蘂(しべ)の根元にある黄色い部分で、蜜腺になっています。直径が2㎝弱の地味な目立たない花ですが、寒風の中、凜とした花姿が印象的です。


 
 
 これらの花々は冬の終わり頃、春に先駆けて咲く花々ですが、木々が葉を落として、林下は太陽の光が一杯にふりそそぎます。木の葉に覆われて薄暗くなる前にいち早く花を咲かせる。その知恵には感心します。
 
 

 

 最後に温室の花も一輪紹介します。「パフィオペディルム」です。
 洋蘭の一種で一見食虫植物の様な姿をしていますが、食虫植物ではありません。
 ヨーロッパでは「貴婦人のスリッパ」と呼ばれているそうです。








 

「12期の広場」2019年秋号のラインアップ

 10月、秋号、たけなわの秋です。身がやせるほどの猛暑と厳しすぎる残暑がようやくのように納まり、真っ青な空と吹ききわたるさわやかな風が実に嬉しい。
 盆前から9月上旬まで筆者は、ぶり返した熱帯夜とムシムシ、ジトジトの猛暑の中、左足の激痛と腰の痛みで動けず、汗みどろの自宅養生を強いられただけに、この秋空と涼風の有難味は、身に沁みての実感です。
 先日所用で丹波篠山方面に行ってきました。福知山線の両側に広がる田圃は黄金色、穂頭を深く垂れた稲穂が風に波打ち、そこかしこで野焼きの煙が薄紫にたなびく様は、まさに実りの秋、豊かで風情のある里山風景そのものでした。ささやかですが、団地の南斜面に残された自然林の栗の木もたわわに実を付けて揺れています。
 一方、秋は台風のシーズン。東アジアモンスーン地帯に位置する日本は、その禍から逃れられないとは言え、先頃、関東地方を襲った台風15号の被害は甚大で、瞬間最大風速50mを越える激しい風や雨には驚くばかりです。慎んで、関東在住の同窓生皆さんへ、心からのお見舞いを申し上げます。
 「市岡カレンダー」で秋は、同窓会の時期でもあります。昨秋、大阪での同窓会は終了しましたが、二年隔年で開かれている、「市岡高校東京12期会」は来月、11月11日に、東京霞が関ビルで開かれます。それも9回目を数えます。
 今号の広場ではその「ご案内」と東京12期会の足取りを振り返っての写真アラカルトを掲載しました。楽しい同窓会になるよう、盛会を期待したいと思っています。今回は、同窓会本会後、熱海に移動、一泊泊りの観光を予定して頂いていますが、現在、関西からも6名が出席する予定です。同行を希望される方は、クラス幹事に是非、ご連絡下さい。
 
 さて、「12期の広場」2019秋号のラインアップは以下3編です。秋号らしく、6組の高見政博君に「四季の花篭 つれづれに ②」として秋の花々を書いて頂きました。あわせてお楽しみください。
 
1.「市岡高校東京12期会のご案内 東京12期会会長   大石橋 宏次
2.「東京12期会の記録写真アラカルト 8組  榎本 進明
3.「四季の花篭 ― つれづれに ② 」 6組  高見 政博
以 上

第9回「市岡高校東京12期会」のご案内

市岡高校東京12期会 会長 大石橋 宏次
 
 残暑ではありますが、皆さまお元気でお過ごしのこととお喜び申し上げます。
早いもので、あれから2年、第9回目の東京12期会開催の年であります。第8回の時には時間が足らず、アッと言う間に2時間が経ち、皆さまからせめて3時間にしてほしいとのご要望がありました。今年はそのご要望にお応えしましたので、ごゆっくり歓談してください。
 東京は、来年のオリンピック開催で盛り上がっています。我が12期会も、今回は少し趣向をこらしてみました。それは、大阪から多数の参加を見込んでいて、彼らと長時間過ごせる「小旅行付き」の企画です。以下に素案を示しますので、どうぞご検討いただきたいと思います。
 今年は全員が喜寿を迎え、大方の人は78才です。よく長生きしてくれました。多少の不便を感じる病の後遺症もあるでしょうが、皆さん同期の戦士。「会えば元気が出る」「話せば楽しくなる」そのような会にしたいと考えています。
1.日 時 : 令和元年11月11日 (月) 12:00~15:00 (3時間)
2.会 場 : 千代田区霞が関3-2-5  霞が関ビル 35F
東海大学校友会館 「霞の間」(※ 前回の会場です)
TEL 03-3581-0121
(東京駅→JR新橋駅→地下鉄銀座線虎ノ門 (1駅)・・・11番出口、徒歩3分)
3.内 容 : 12期会本会は上記の通り・・・・会費@8,500円程度
企画小旅行参加者・・・・・・・・・1泊2食付き@13,000円+飲物+交通費
12期会終了後、現地に向かいます。
前回は同窓会の翌日にスカイツリー、浅草寺を同行・案内しました。
今回は熱海で温泉を楽しみ、翌日観光をします。

東京12期会の記録写真アラカルト

8組 榎本進明
 
 ホームページ委員から表題の依頼を受けました。
まず、手順として東京12期会が創設された経緯が、どのように醸成されて来たかを説明しなければならないと思います。その機運が高まり誕生いたしました。
 
《東京12期会が生まれるまで・醸成期間》
1987年3月7日 市岡野球部の34年ぶり10回目の選抜出場を記念して、山田正敏君(8組)が招集をかけて、東京駅八重洲口「ざくろ」にて開催された。筆者は初めて「同窓会」に参加。これまで小・中・高・大、どの同窓会にも参加していなかったので、顔がわかるか不安だった。しかし、市岡の山岳部で一緒だった松永康雄君(7組・故人)がわざわざ平塚から川崎市麻生区の自宅まで来てくれて、誘ってくれたので参加しやすかった。同窓会の楽しさを教えてくれた彼には感謝している。 



1990年11月23日 市岡卒業30周年同窓会に参加するため、青森から大阪まで行った。初めてだったので緊張した。1989年5月~1992年5月までの3年間は、青森とつくばでの勤務で、そして仙台勤務になった。それを知った佐藤裕久君(6組)籠谷登志夫君(6組)寒川詔三君(4組)の仙台在住組3人が、歓迎飲み会を開いてくれたのが嬉しかった。30年近く会っていないので、おたがいに卒業アルバムの写真を見て待ち合わせ場所の仙台駅に向かった。似ても似つかない顔になっていたのは言うまでもない。市岡12期生と会うのは2回目だったがその楽しさは、今に繫がる思い出になった。
 



1994年7月2日~3日 大阪から松永君と興梠十七郎君(5組)が仙台まで来てくれて、栗駒山登山に誘ってくれた。慌てて軽登山靴を買ってそのまま麓の温泉宿に行き、翌日登山した。彼らとは市岡卒業後も山やスキーに行っていたので普通の再会だった。
  
1995年10月21日 転勤で仙台から東京に来たと同時に、大阪・堂島で35周年の12期同窓会が開催され、参加した。余りの大人数にびっくりした。でも、5年前に参加したので名札を見てすぐにわかった。ドキドキ感はそんなになかった。「東京組」としてではなく、寒川君と一緒に「仙台組」として紹介された。


1997年6月5日 東京に来て初めて「第38回東京市岡会」に出席した。また2000年の第41回では12期も10名参加。山田君から当日職場に電話が来て「今日はなぜ来ないんだ」と怒鳴られて跳んで行った記憶がある。

2001年9月29日~30日 「気仙沼に戻りカツオを食べに行きたい」と言う山田君に付き合って総勢5人+夫人2人が旅に出た。


これらを踏まえ、東京での12期同窓会結成の機運が高まり、年月不明だが山田君が音頭をとって「東京12期会」設立準備の会合を横浜中華街で行った記憶がある。15~16人が集まったと思う。 
 
《東京12期会が発足》(会長は泉信也君・5組)
2003年11月7日 第1回東京12期会・設立(東京駅・ルビーホール)2年毎開催で決定
2004年5月12日~13日 伊豆小旅行

 
2005年7月21日~22日 箱根小旅行
2005年10月16日 東京都日中友好囲碁大会に参加(市ヶ谷・日本棋院)
 

2005年11月11日 第2回東京12期会(銀座・三笠会館)
2006年3月28日 皇居北の丸公園でお花見
 
  
2006年7月20日~21日 初島小旅行
2006年9月30日 東京探索 浜離宮~遊覧船~浅草寺・ほか
 
  
2007年11月14日 第3回東京12期会(銀座・三笠会館)
2009年11月28日 第4回東京12期会(銀座・三笠会館)
 
  
2011年2月22日 有志・新年会(京橋・美々卯)
2011年7月14日 有志・高尾山納涼登山
 
  
2011年11月19日 第5回東京12期会(銀座・三笠会館)
2012年3月17日 JAXA見学(つくば・宇宙航空研究開発機構)
 

2013年11月16日 第6回東京12期会(銀座・三笠会館)(会長は大石橋宏次君・6組)
2015年10月31日 第7回東京12期会(銀座・三笠会館)
 

2017年11月11日 第8回東京12期会(虎ノ門・霞が関ビル35階)
2017年11月12日 スカイツリー・浅草寺・東京探索


《川歩き》
利根川(リーダーは川合兵治・4組)
第1回 2007.10.30~11.1 山田、川合、榎本が犬吠埼で前夜祭。泉は所用で、潮来の宿で落ち合う。2日目は4人で歩く
第2回 2008.5.12~5.13 榎本が不参加。大石橋宏次・6組が参加。
第3回 2008.11.3~11.4  榎本が不参加。4人で歩く。
第4回 2009.3.21~3.23 榎本復帰。5人で歩く。121キロ達成。帰路、川合宅でスパゲッティをごちそうになる
第5回 2009.9.30~10.1 マドンナ参加=泉の山仲間。途中、昔住んでいたところを歩くので同行を依頼された。150キロ達成。
第6回 2010.3.28~3.29 西條軍蔵・3組が参加。合計6人に。181.5キロ達成。
第7回 2010.7. 10~7.11 暑さ対策をして219キロ達成。
第8回 2010.10.31~11.2  今回より2泊3日となる。259キロ達成。
第9回  2011.5.9~5.11 完歩。推定300キロ達成。打上げ式は震災で自粛した。

荒川(リーダーは西條)
第1回  2012.3.11~3.12 利根川6人衆でゲートブリッジを出発。23キロ達成。
第2回 2012.5.27~5.28 広い河川敷で支流方向に迷い、雷雨に遭って終了した。
第3回  2013.4.21~4.22 山田、二日目欠。西條・川合も途中棄権で3人となる。
第4回  2013.10.18~10.19 (川合君最後の川歩き。12月に肺がん宣告された)
第5回 2014.4.20~4.21 1月に山田に打明けた。川合君体調不良で欠席。
(川合君逝去 2014.12.2 11月27日に転院した矢先に。残念でならない。惜しい。)
第6回 2015.4.28~4.29 5人で荒川起点に到達 現地で川合君に献杯。完歩。

多摩川(リーダーは西條)
第1回 2016.11.9 (榎本の腰痛で中断している  途中)
 以上、市岡高校・東京12期会の活動を簡潔に記しました。読んで戴き有難うございました。
なお、来る2019年11月11日に第9回東京12期会を開催します。大阪の同級生で、東京の同級生に久しぶりに会いたいと思われる方のご参加を期待しています。会の終了後希望者は、熱海温泉で1泊という企画もあります。翌日は熱海の観光とグルメ・スイーツを楽しみます。大阪への帰途の途中下車ですので、気軽にご参加ください。