12期の広場

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カナダ在住の山本(旧姓:古荘)さんの歓迎食事会 

 カナダ在住の山本久美子(旧姓:古荘 5組)さんが昨年9月末に来日され、それを迎えて同窓生有志による食事会が11月8日の午後6時からに開かれました。
 
( 会食後の集合写真です。前列左の白いセーター姿が山本さんです。)

 ご存知の通り、山本さんはカナダにご夫婦で移住されて半世紀をこえ、現在の国籍はカナダ、日系カナダ人としてトロントで暮らしておられます。コロナ感染拡大時を除いて毎年、日本に里帰りされ、食事会も恒例になっていました。“今年は無理かな”と思っていた所、お元気に帰国。嬉しくて楽しい歓迎食事会になりました。
 場所は「がんこ曽根崎本店」。参加されたのは酒井八郎(4組)、末廣訂(8組)、川村浩一(8組)、塩野憲次(8組)、上山憲一(8組)、福積康光(4組)、上野裕通(7組)、張志朗(7組)の各君と、柏木赫子さん(7組)、古藤知代子さん(4組)の皆さん。山本さんを含めて11人でした。今までの例から言いますと、あと4人ほどが参加されていたのですが、体調や所用のために欠席。少し寂しい感じはありましたが、同期生の集う機会が少なくなっている現状での久方ぶりの再会は、また格別だったようです。
 カナダのトロントは遠く、帰国するのも大変な体力・気力勝負。そのことに加えて9月から11月の日本の天候不順が最初の話題になりました。山本さんは機内15時間を無事こなし、また防寒用の衣服は、急遽日本で買い揃えたと笑っておられました。年1回の帰国が山本さんの元気の源で、その強い想いからでしょう、さらに若返られたのではと思える程でした。
 歓迎の言葉と乾杯の音頭は酒井君が。その後、愉快な山本さんの挨拶と皆さんの近況報告がありました。名にし負う“市岡健児・健女”のこと、流石に内容は多彩です。
 留学や海外駐在員時代のエピソード、高校時代の思い出から日々の暮らしの話、病気と健康の話や旅行の話など、わいわいがやがやです。山本さんからは、カナダ在留日本人を中心に源氏物語の勉強会や歴史勉強会をやっているとのお話がありました。会は日本語でやっておられるそうで、とても前向きで愉しそう。この調子なら来年の帰国も期待できるのではと思ってしまいます。
 2時間ほどの会食でした。名残りはつきません。再会を約束してとなるのですが、なにしろ皆さん“立派な高齢者”、果たして来年もこのように集えるかどうか分かりませんが、是非、またお会いしたいとの思い一杯で散会しました。         
(記:張 志朗)

圓尾君の講演会に行ってきました。

 11月24日午後2時から此花歴史研究会の例会として圓尾博一君の「女性画家—島成園(しませいえん)を知っていますか」と題した講演会がありました。
     
 会場は此花区民ホール3階会議室。講演会は、研究会会員はじめ一般参加者、市岡の同窓生で大盛況。参加者数を聞きもらしましたが大きな会議室ほぼ一杯でした。同窓生は口コミで、酒井八郎(4組)、末廣訂(8組)、松田修蔵(6組)、上野裕通(7組)、張志朗(7組)の各君と北浦昌子(2組)さん、段中文子(5組)さんの7名、ほかに此花区酉島在住の濱崎洋子(1組)
(凛とした島成園写真)
さんが来ておられたようでしたが合流できませんでした。
 講演会はたいそう雰囲気が良く、興味津々、集中した2時間があっと言う間でした。
 講演は「島成園を知っていますか」との問いかけから始まりました。ほとんどの参加者は知らなかったようです。講演の流れは①「島成園の紹介」②「上村松園について」➂「黒髪二題–松園(39歳)の『焔』と、成園(24歳)の『おんな』」④「大正デモクラシ-の女性活動家」⑤「成園の自画像」⑥「アフガニスタンの女性の今」の順序でわかり易く進められました。
 たくさんの話がありましたが、呆けぎみの筆者にはすべては頭に入りません。配布された資料(A4—13枚の労作です)に基づいて印象深いことがらを以下に書きます。
 島成園は堺市の生まれ。13歳で大阪の島之内に転居しています。父と兄は共に『町絵師』、幼い頃から絵に親しむ環境にあったようです。大正元年(1912年)19歳で『6回文展』に『宗右衛門町の夕』を出展して初入選。一躍注目をあびています。以降関西の女流画家としての画業を重ね『三都の三園』の一人と呼ばれるようになります。『三園』とは同時代に活躍した大阪の島成園、京都の上村松園、東京の池田蕉園の三人を指すのですが、池田蕉園は早世。『序の舞』の上村松園は後に『文化勲章』を授与されています。時は大正デモクラシ—の時代、島の生き方とその画業はそれとからみあったものであったようです。「日韓併合」「大逆事件」「世界大戦」と揺れ動く社会情勢の中で、与謝野晶子、平塚らいてふ、山川しずえ、菅野スガ、伊藤のぶえ、市川房枝など、家父長制と男尊女卑による不平等、良妻賢母であることだけが強いられるなど、これにあらがう女性活動家が活躍しました。特に成園は堺生まれの歌人・与謝野晶子への敬慕の想いが強かったようです。「私の模範とする方はあの方・・・その見識ありすべてに通じ、その神髄をよく穿たれるに感服の外ありません」との言葉が残っています。講演で全文紹介された晶子の歌–『君死にしたまふこと勿れ』が、昨今の状況とも重なり、胸に響きました。「黒髪二題」として上村松園の『焔』(大正7年)と島成園の『おんな』(大正6年原題は『黒髪のほこり』)が紹介されました。双方とも画幅いっぱいに「黒髪」が描かれています。『焔』は能の「葵の上」の六条御息所の生霊、『おんな』は鶴屋南北の「東海道四谷怪談のお岩」になぞらえたところは、画伯である圓尾君の深読み、興味深く聞き入りました。さらに島成園についての話がありました。資料に『わかき先駆者』とあり、如何に大阪をはじめ関西の女流画壇に影響を与えたかをうかがわせています。
 成園は大正7年に『無題』として、左目にあざを持つ女性像を発表しています。この作品は結婚前のもので、左目の痣と『無題』とした題名など、恋愛や結婚などについて根拠のない誹謗中傷に苦しめられたこともあったそうです。この絵から圓尾君は清元の名曲『かさね』を連想し、四世鶴屋南北作の「法懸松成田利剣」(けさかけまつなりたりけん)にふれました。
(左) 「無題」(大正7年) (右) 「自画像」(大正13年) 
 また『自画像』についてはその背景の役者絵からでしょうか、「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の「源氏店」(げんやだな)まで飛びます。この作品は結婚後の大正13年に発表されたものです。生活につかれた女を演出し、髪を乱し目のまわりの隈を強調して描いているとあり、心身ともに疲弊した自身の姿を第三者的に突き放してとらえているともあります。たしかに時代と封建的家族制、女性差別などに翻弄されながらも自嘲するかの如くまでの自省と強い自我を感じさせてくれます。圓尾君は「この自画像は『源氏店』のお富ではないか」と笑いながら言いましたが、不勉強の筆者としてはその思いまでには至りませんでした。
 最後にアフガニスタンのタリバン支配下での女性の自由、権利の現状について触れられました。39歳の時、バーミヤンの石仏遺跡を見るためにアフガニスタンに行かれたそうです。
 講演は予定通りきっちり二時間。論旨明瞭で、分かり易く、興味深くかつ有意義なもので、参加された同窓生の感想は一致して好評で楽しかったとのことです。
    
 講演会終了後、同窓生7人だけで会食しました。一寸した手違いで当日の主人公である圓尾君はお誘いできなかったのが返す返すもの心残りです。
(記: 張 志朗)
 
 追記:紙幅の関係で成園の作品数を絞りました。またそれらも「資料」からのスキャンで不鮮明であることをお詫びいたします。是非、インターネットなどで検索、ご鑑賞ください。

ひろばリバイバル

「一枚の写真」  昭和の大阪駅前旭屋書店付近


 この写真は昭和38年頃に大阪駅前旭屋書店付近を撮影したものだそうです。6組の井東一太郎君が、メールでわざわざ送ってくれました。そのメールに以下の文章が添えられていました。
 「『市岡12期の広場』で古荘さんの歓迎会で旭屋書店の話が出ていましたが、我々の時代では懐かしく感じる場所です。その時代の大阪駅前の写真を高校10期の先輩からいただいていました。ご本人の了解を得ましたので、広場に掲載していただいてもOKです。写真は、高校10期玉井信之氏の提供です。」
 この文章にもあるように、ここは実になつかしい場所で、今はその面影を探すすべが無いほど変わってしまった場所でもあります。市電がまだ走っていた頃で、自動車やバスもあの時代の古い形です。三輪トラックで荷積みをしている姿まで写っています。
 映画の広告用看板は、ペンキで描いたこんな看板だったのですね。左はピーター・オトゥル主演の「アラビアのロレンス」、右は看板の上のマークから推測すると、松竹映画の邦画のようです。題名が「真っ赤な恋の物語」と読めますが、どんな映画だったのか、全く記憶にありません。
 4年前の「12期の広場」10月号に、ニックネーム「井の中の蛙」さんがこの付近の想い出を書いています。そのくだりを一部抜き出して下に添付します。
 『古い話であるが、旧大阪駅の南正面に木造2階建ての「旭屋書店」があってしばしば通ったものである。高校時代はここで主に参考書を、社会人になってからは文庫本や仕事に関連した専門書などを買った。培風館の「数Ⅲ精義」(岩切精二 著)を学友に薦められて買って帰り、それだけで賢くなった気分になったのもここ。二十歳すぎの悩み多き時期に「人間のしるし」(モルガン)を買い求めて行ったが探せず、やむを得ず同年輩の女子店員に聞いた所、「宗教書ですか?」と言われて慌てた事もここ。よほどにやせ細って暗い顔つきをしていたのだろう。』
 皆さんにとっても思い出の多い場所でしょう。また写真に写っているものが何か分かる方も居られる思います。是非、それを投稿して下さい。      
(HP 委員 記)

「12期の広場」2024年秋号のラインアップ

 10月神無月です。いつもなら「秋になりました。涼しい風が心地よいですね」などと書き出す所ですが、今夏の残暑の長さと厳しさからでしようか、すんなりその言葉がでてきません。実に酷い猛暑と残暑。加えての台風、竜巻、集中豪雨災害に落雷、南海トラフ地震警報など、身も心も休まりませんでしたね。インバウンド客が『日本は災害大国ですね』と言ったとそうですが、今更ながら、この先の日本列島とその四季はどうなるのかと不安が一層募ります。友人から『毎日、これでもかとの暑さ』とのメールがありました。前日の暑さに充分弱っているのに今日またその上を行く暑さになる状況はまさにその通りで、言い得ての妙があると考えてしまいました。
 この文章を中秋の名月を眺めながら書き始めました。『暑さ寒さも彼岸まで』のならい通り、ここに来て朝夕が秋色に変わり、残暑もあと少しのようです。
 10月がごく普通で、本格的な秋到来となるよう期待するばかりです。
 
 訃報です。
 6組の駒崎雅哉君が亡くなられました。4月中頃に脳梗塞を発症、その後入院治療をされておられましたが、そのかいもなく8月1日に亡くなられたとのことです。
 同窓会が始まったころ、「仕事は何してんのん」との質問に、笑いながら「大手家電メーカーに勤め、アフリカで電気炊飯器を売っている」と話してくれたのが今も鮮やかです。アフリカ、特に南アフリカは長かったようで、退職の直前はアメリカのシカゴ駐在だったと記憶しています。バイタリティー一杯、何事にもその探求心と行動力は一貫していました。退職後ピースボートに乗りさらに見聞を磨いたこと、長崎の生月島に単身移住したこと、原発再稼働反対の座り込みに参加していたとバッタリ出会い立ち飲みで話し込んだことなど、実に彼らしいと感じ入っています。酒も麻雀も強かったですね。
 また一人、得がたい学友が私たちのもとから去りました。慎んで哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。合掌。 
 
 「12期の広場」2024年秋号のラインアップは「ひろばリバイバル」のみです。
 駒崎君を偲んで、「12期の広場」2012年12月号に投稿された『生月島漂流記』を再揚載します。ご覧ください。記事中の顔写真が不鮮明なため、ここに卒業アルバムの写真を貼り付けます。
 
1.『生月島漂流記 3年6組   駒崎 雅哉
以 上

ひろばリバイバル

生月島漂流記

6組 駒崎雅哉
(一)
 
50cmのコチをつり上げた。
 2001年9月11日の米国での事件を駐在先のシカゴで経験した私は、ひたすら米国旗を車の後ろに結び付け街中を走り回るアメリカ人を見てやるせ ない気持ちになった。つまりグローバリズムの名の下に世界中に害毒を振りまく米国に対するアラブ側の自爆攻撃に直面していささかの自省することもなく、自 国旗に自らの正当性を求めるアメリカ国民に暗澹とせざるを得なかった。同年12月に米国で定年退職を迎え、会社に残ることなく退社し、2003年ピース・ ボートにて世界1周し(途上計画していたイスラエル訪問は、紛争ぼっ発の為実現しなかったが)翌2004年5月より、橋で繋がった島としては、日本最西端 に位置する生月島での一人暮らしを始めた。

 家を出る経緯については、省略するが、当初は、鴨長明又は吉田兼好の生活スタイルが目的で「方丈記」と「徒然草」を持って出たものの爾来8年半、今や島の生活にドップリ浸かってしまいミイラ化している自分に呆れている。

(二)
 島での生活は、先ず歩くことから始めた。1日約2時間距離にして4~5キロ、春夏秋冬夫々に美しい景色の移り変わりを楽しんでいた。毎年9月の最終土日には、平戸ツーデイウオークが開催され全国から3千名程の参加者が有り、初日の土曜日にはこの島を歩くことに成っている。

 自炊の為料理も学んだ。この島の北端では、東シナ海と玄界灘が合流する為、多品種の魚が生息しており、毎日新鮮な魚を味わえるのが素晴らしい。やがて船外機付きのボートを買って釣を楽しみ、クエまで釣りあげた。4キロほどのクエにしては小形で在ったが、鍋にして食うと地元の漁師連中から「バカだなあ、アラ(クエ)ならキロ1万円で売れるのに」と揶揄された。島では娯楽の1部としての祭事が多い。春・夏・秋の祭礼には、必ず鯨が売りに出される。盆と正月には、若者の帰省が多い。全国の他の離島同様年年過疎化が進み、私が滞在した8年半で1/4の人口減と成った。最近では団塊の世代が定年を迎えUターンしてくるのと田舎暮らしにあこがれてのIターンも見られるが、人口流失のスピードにはとても追い付けない。

 しかも残念ながらこうした移入者に対して行政から何の生活支援も見られない。

(三)
 
島のバンド「デラ・ルンナ」のボーカルとして
「スタンド・バイ・ミー」を歌う
 そうした中での島おこし作業は、非常に難しい。存在するのは、美しい自然と古い因習位なもので、どちらも島おこしには余り役に立たない。それでも 私は永年止まったままに放置されていた風力発電の風車を動かす運動を個人的に、又行政と共にオランダ市民との交流、オランダ商館運営企画、ボランテァガイ ドと結構多忙な生活を送っていた。兎に角島おこしの為には、島外の人々にこの島の事を知ってもらうのが先決と考えての活動であった。




  生月島には、「古式捕鯨」と「カクレキリシタン」の二大伝統文化が有り、今も継承されているが、今後も守り継承し続けるには、新しい文化(血)との融合を 図る事によって初めて可能と成ろう。幸い宣伝の影響で最近は、関西からの観光客も増え、学生達の体験学習を通じて島の文化は、徐々に伝播しつつある。従い これからの課題は、I・Uターンの人々を如何に積極的に受け入れ共存するかである。

 私の場合、企業年金の減額により家賃が払えな くなり10月末で島を引き上げる結果と成ったが、もし行政からの何らかの支援が得られたならば、多分この島を終の棲家に出来たのでは・・・。しかし現在 は、一介の漂流者でしかなかった事を残念に思う。毎年税金と家賃を入れると120万円近く行政に支払っているにも拘わらず。

(四)
 
水耕栽培で甘いトマトを作る。
 カナダでグランプリを取った高倉健主演の最新映画「あなたへ」の舞台も生月島であったが、撮影に際し監督がこの島の港を見て余りにもコンクリート で近代化されているので急遽向かいの平戸に舞台を替えたと聞いている。ストーリーは、亡くなった妻の手紙により散骨する話だが、永年この島での暮らしにあ こがれやっと実現したものの二カ月でガンを発症し亡くなった奈良の友人も又私の義父母もここで散骨した。

 この島での漂流生活を終 え、新たな漂流生活を求める旅を続ける今年71歳の私も75歳に成れば断食修行を始めようと思っている。その目的は、自然死において西行法師の様にその到 来時期を感知したいからである。「願わくば桜の下で春死なん・・・・」の歌の通りに3月の満月の夜に死んだのは断食修行の結果と聞いている。


(五)
 引っ越しに際し全ての荷物を人に譲ったので、10年近く付き合った家具類が徐々に引き取られて行くのを見ているのは、寂しい。荷物だけでなく、身ぐるみも心さえも剥がれてゆく感じだ。考えるに次の世代に語り継ぐべき何物をも持ち合わせない現状に不安・恐怖を感じる今日この頃である。

 しかし唯一云えることは、原発だけは断じて子孫に残すべきでない。その為大阪にて毎週金曜日夕方6時から7時半まで関電本社前で叫んでいるので時間と興味のある方は合流下さい。待っています。(完)

「12期の広場」 2024夏号のラインナップ

 7月、いよいよ夏です。この月は私の誕生月ですが、加齢に比例するように苦手度は募り、酷暑をどうしのぐかと身構えてしまいます。
紫陽花の さまざまに咲く 同じ株
(同級生の近況を思いつつ)
メディアは既に夏日や猛暑日が何日記録したとか、今夏は記録的な暑さになるとか、またそれに関わる熱中症対策など、はやし立てるがごとく繰り返して、すでに気分は盛夏の酷暑を想像してげんなり。温暖化を通り越しての“地球沸騰化”、身に危険な暑さになるのは間違いないようです。
 先日漸く関西その他の地方の梅雨入りが発表されました。今年の梅雨は「短期集中型」だそうです。先に梅雨入りした沖縄・九州ではすでに豪雨土砂被害が報道されており、今後更にそれを上回る災害が予想されるようですから、これまた気持ちが落ち込みますね。

 訃報です。5月15日、6組の武田博君が亡くなられました。武田君は同窓会発足以来の幹事さんで常に主要メンバーとして同窓会の活動に尽力してこられました。同窓会開催時に舞台正面に掲げる「大阪府立市岡高等学校第12期同窓会」の大きな横幕も制作から発注、完成まで武田君のご苦労で出来上がったものです。「12期の広場」にも投稿して頂きましたが、2012年7月号の「ジェーン台風の写真」は評判を呼びました。温厚で真っ直ぐ、優しい語り口と物腰、にこやかな笑顔は今も鮮やかです。また一人、私たちの側からいなくなりました。寂しさが身をつつみます。心から武田博君のご冥福をお祈りすると共にお知らせいたします。合掌。 
 さて「12期の広場」2024夏号のラインアップです。残念ながら今号の「巻頭コラム」「掲示板」は休稿です。「ひろばリバイバル」は、武田博君の「ジェーン台風の写真」(2012年7月号からの転載)です。彼を偲んでお読みください。
 
「12期の広場」2024夏号のラインアップ
1.巻頭コラム、及び、2.掲示板・・・(今号は休稿)
3.“ひろばリバイバル”
「The あの頃」 ジェーン台風の写真
(2012年7月号から)
6組 武田 博
以 上

ひろばリバイバル

「The あの頃」 ジェーン台風の写真

6組  武田 博

 今年、「福島区災害展」の開催にあわせて町内の方々から災害写真を集める機会がありました。

 その時に、私が親しくしていた方から頂いたのが、このジェーン台風時の写真です。

 私はその時は吉野小学校の3年生でした。その日は日曜日で学校は休みでした。2階の洗濯物を干す場所に通じる4畳半の部屋に3人の兄弟で震えながら外の風雨のビュービューと唸る音を聞きながら眺めていました。

現在の北港通りの写真です。左に「江成町」の住居表示が見えます。


 
左の写真でさらに西側を撮ったものです。玄関扉を横板で打ち付けていますが、如何に風が強かったかを示しています。
ジェ-ン台風の時は瓦が紙のようにペラペラと飛びガラス窓を壊しました。
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「12期のひろば」2024春号のラインアップ

 4月卯月、春です。山も川も草木も、勿論空も春色にあふれ早々と鶯の声を聞きました。遅れていた桜も見事に咲きました。友からのSMSに「もう逢う事のできない友達のことを思い出しながら花見をする」とあり、年年歳歳、花によせる想いは実にさまざまと、この短文が心に沁みます。
 先日、仕事を通じて知り合い、50数年お付き合いさせてもらった友人をなくしました。二つ年上の師匠格、得難い友人です。さだめと言えばそれまでですが、半世紀の長い時間とその折々にめぐり合った方々との記憶も重なり、“私の時代も終わるのか”と思ってしまいます。同時に、別れに向き合い、老いに向き合うことが日常になった今にあっても、その段になるとまた狼狽えてしまいます。
 
 そんな中、同級生の酒井政子さんが、NHKラジオ体操一級指導員になったと聞きました。ラジオ体操にそんな資格があったことを初めて知り、また一級指導員の資格があるとラジオ体操を主導できると聞き一寸驚きです。雨の日も、風の日も、一日も欠かさず、早朝4時半に起床、大阪城公園まで30分かけて歩いて行き、300人を前に“指揮台”に登って掛け声を掛けているそうです。昔から“元気印”は彼女の持ち前ですが、その来し方の一端を知るだけに、思わず「人生の達人」ではと言ってしまいました。“なんでもやってみたいから”と若々しい声で彼女は笑うだけです。
 
 さて今号のラインアップです。コロナの5類移行がありましたけれども、集まることへの抵抗があるのか、豚汁会も、舞洲のお花見も中止。そんなこともあり、『掲示板』の記事はありません。また『ひろばリバイバル』は人恋しい季節にあわせて、3組の高橋要君が投稿してくれた「日曜日の尋ねびと」(2012年12月号掲載)にしました。お楽しみください。
 
  1. 巻頭コラム
    「終活?・奥神鍋にスキー」 8組 榎本 進明
  2. “ひろばリバイバル”
    「日曜日の尋ねびと」 
    (2012年12月号から)
    3組 高橋 要
以 上

巻頭コラム

終活?・奥神鍋にスキー

8組 榎本 進明
 2月13日横浜を出発して奥神鍋に向かいました。
天気は良く途中の富士山は今までになく素晴らしくきれいでした。
 京都で山陰線に乗り換えて、福知山で大阪からの列車に再び乗り換えて江原駅に。そしてバスで山田に到着しました。
 バス停からすぐの「ニューみちや」が今日の宿です。荷物を置き早速レンタルスキーを借りてゲレンデに。リフトを2本乗り継ぎさっそうと滑降する・・・というイメージでしたが、1本目のリフトを降りたとたんにスッテンコロリン。20年ぶりとは言え、「こんなはずではなかった」と頭の中は真っ白。起き上がるにも滑って起き上がれない。まるで初心者と同じ格好でショックをうけました。
 リフトのおじさんも切符を買うのにもたついていると「いいですよ」と言ってタダで乗せてくれました。2本とも。よほど爺サマに見えたのでしょうね。
 もう何時間も滑ったかのように疲れたので、そのままスキーを返却して宿に戻りました。泊り客は一人だったので大浴場にはお湯はなし。近くの温泉まで送ってくれて疲れを癒すことに。
 散々なスキーとなったが、やはり温泉が似合う自分を再発見。1時間ほどで迎えに来てくれました。
 宿に戻り、奥神鍋まで来た目的である「猪太郎いたろうさん」にお線香をあげることができました。
中学、高校、大学と永きにわたりお世話になりました。当時は民宿で、ご主人の名が猪太郎さんでした。最後に訪れたのが昭和39年の1月か2月でした。4月から大阪を離れて長野県に就職するので、これが最後だと思い一人で出かけたのでした。
 市岡の山岳部では、スキー合宿の時に興梠君がスキーの先端を折ってしまいました。部員全員で雪を掘ってその先端を探したのですが見つかりません。そして雪解けの頃に猪太郎さんが見つけてくれて興梠君に届けてくれました。当時は宅急便もなく、その親切に感謝したことも思い出です。
 今は、お孫さんが旧母屋は取り崩し、少し離れたところにロッジを経営しています。夕食は広い食堂で、ご主人とお手伝いに来た親戚の人と3人ですき焼きを囲みました。懐かしい話にお酒も美味しく時間の経つのを忘れてしまいました。
 翌14日も滑る予定でしたが、急遽、引き上げることにしました。ご主人が江原駅まで送ってくださったので、大阪までの特急に乗ることができました。そして、西宮名塩で途中下車。張君が迎えてくれました。
そのまま旧福知山線廃線跡を案内してくれました。約5キロの道は武庫川に沿って武田尾まで続いています。景観もさることながら、ズーッと話し通しでした。昨日は単独行で口数が少なかったので、楽しい散策でした。

武庫川がこんなに奇岩が多く急流であるとは思いもしなかったです。
 そして宝塚で夕食をごちそうになり、彼のご自宅で一泊させていただきました。大変お世話になり有難うございました。 
 
 そして、大阪では難関の“終活”がありました。和歌山県にある「墓じまい」です。頭が痛い相談となります。
弟と妹に了解を得る必要があるからです。遠くてお墓をお守りするのが困難になっています。でも、原則賛意を得たのでやれやれ。妹宅で泊り、翌16日に横浜に帰りました。
 しかし、終活はまだ残っています。満州時代からのお付き合いの方が富山に居ます。「早く行かないと」と思いながら、もう何十年もお会いしていません。書類等を捨てる終活は一人でもできますが、一言お礼を言いたい人に会うことの終活は春以降に行おうと思っています。

ひろばリバイバル

日曜日の尋ねびと

3組   髙橋 要

 久しぶりの同窓会でした。

 先生方がそれぞれにお元気そうで何よりでした。北村先生からはわたしも読書感想文を返していただき、思いがけないプレゼントにびっくりいたしました。先生の授業中は、申し訳ないことによく寝込んでしまっていて「僕の授業、フランス革命あたりでおもしろくなります」というお声も夢のなかに残ったようです。

 西田先生の訃報に接し、バレーボール部で3年間お世話になったさまざまな記憶が頭の中を駆け巡りました。また同期の部員であった池上昇君についで、林清矩君が亡くなったことも知りました。池上君の死を連絡してきた彼の電話口での声が鮮明に蘇ります。

 

 「12期の広場」のことを最近になって知りました。寄稿された文章を読むにつけて感慨もひとしお、とりわけ武田博君の「the あの頃―ジェーン台風の写真」(12年7月号)のインパクトは、60余年前の災害と時代の空気とでもいうべきものをいっきに目の前に手繰り寄せてくれました。当時西淀川区の姫島小学校3年生だった私も武田君と同じような体験をしたのです。

 
現在の香蓑小学校 正面

 わたしは小学校時代に3度転校をし、姫島小学校に続く4校目が同じ西淀川区の香蓑(かみの)小学校で卒業まで在籍しました。今もクラスの同窓会が続いて いるのですが、古稀を前にした先年の集まりのようすを拙い文に書きとめてみました。同窓会ってなんだろう、同窓ってなに?そんなことをとりとめもなく考え ていたような気がしています。うまくお伝えできればいいのですが。


「タカちゃん、挨拶は短めェにしてや!」
 

「では幹事として挨拶させてもらいます。お知らせにも書きましたように、私たちも古稀を迎える歳に近づき、今回が初めてやったんですが、1泊でゆっくりしてもらおういう企画を立てましたところ、こんなに参加してもろて、幹事として喜んでます」

 しっかり者の多賀子が話し始めるとすぐに「タカちゃん、堅苦しい挨拶は短めェにしてや」と田中の声がとびました。

 タカちゃんはそんな声を無視して続けます。

「今日は敬老の日やのに早い時間から、それもこのあいにくのお天気のなかを京都まで出てきてもろた、千葉の加藤さん、高知の林さん、お疲れさんでした。また、この旅館の予約に便宜を図ってくれた横浜の伊藤さん、ありがとう。開宴に先立ちまして昨年お亡くなりになった担任の北尾先生のご冥福を祈って、みんなで黙祷をささげたいと思います」

 香蓑小学校6年4組の3年ぶりの同窓会が始まりました。聖護院に近い宿に集まったのは22名、京都在住はわたしひとりで、多くは大阪と兵庫です。

 撮影係の斉藤が着席したところで乾杯。かしこまった雰囲気はいっさいなくて、座はいっきに盛り上がるのですが、それには訳があります。わたし自身は4校目の小学校として4年生で転校してきたのですが、この学年は入学から卒業までの6年間、担任は変わってもクラス替えがなかったのです。そのことを知ったのは卒業後30年以上過ぎてからでしたが、親どおしの付き合いも親密だったのは、そのせいでもあったのでしょう。

 

 順に立ち上がってそれぞれの近況報告が始まりました。

 本屋の中田は2つあった店の1つをたたみ、大手の鉄工所で営業部長だった斉藤は、会社の倒産後、タクシー運転手などを経て今も建築現場の監督のようです。失業、リストラ、転職そして病気療養と、男たちの近況は明るい話ばかりではないのですが、不景気な話題を取り上げてしゃべっても、彼らはその場を盛り上げてしまいます。

 隣にいる木村の番になりました。同窓会に初参加らしい彼は、突き出た腹をゆさぶりながら、吠えるように挨拶を始めます。

「みなさん、お久しぶりです。後悔と反省ばかりの長い歳月を過ごしてきた木村です」

いくらか事情を知っている者の間から笑いが起きます。

「結婚5年で離婚し、子供もあっちへ行ってしまい・・」

「そら、奥さんに先見の明があったんや!」と田中の大声。

「・・その後、付き合うた4人目の女とも3年前に別れました」

「逃げられたと正確に言わんかい!」これは北村。

「・・今はエレベーターのメンテナンス業に首を突っ込んでいますが、不眠症と高血圧に加え、ここんとこ痛風が出て食事にも気ぃつかう情けないことになってます」

「おまえ、どない気ぃつこうてんのか知らんけど、その体重、はよなんとかせんとしまいにころっといてまうでぇ」森河のツッコミ。

「いや、これでも努力して4キロ減らしたとこやで。さっきかて、隣のカナメにおれの御膳のサイコロステーキ、みなやったとこやで。嬉しそうに食うとったわな」

 

 こんな調子の「近況報告」が一巡するのを待ちかねるように、カラオケのマイクを握ってスタンバイしているのが森下で、今も生まれ育った町で小さな会社を経営しています。その彼が、だしぬけにカラオケ大会の開会宣言をしました。

「ではみなさん、この辺でカラオケ大会と参りましょう」

「こらあ森下ァー、お前の歌、2曲までは許したるけど、3曲目歌うたら承知せんぞォ」と野原。

「だいたいお前の演歌は長すぎるんじゃ。2番まででやめとけよォ」これは中井。

 20年のアメリカ暮らしから数年前に帰国した篠田がマイクを持った時もいっこうに静かにはなりません。

「篠田ぁー、英語の歌なんか歌うなよォ、分かりやすい歌にしとけェ―」

「ではリクエストに応えて、ビートルズナンバーから1曲」

「アホかぁオマエ、なに聞いとんねん!」

 ヤジを飛ばしながらも手拍子を打ち、ともに歌って騒然としては来るのですが、座には不思議な調和が保たれています。

 

 広間での宴会が3時間半を経過したところで、仲居さんに追い立てられるようにして2次会の部屋に移りました。さすがに少し疲れが出始めたか、先ほどのような騒ぎにはなりません。

 壁にもたれて足を伸ばした原が、水割りを飲み続ける馬込順二に

「ジュンさん、手元の名簿に載ってるのは40人やけど、クラスは何人やったん?」

「50人くらいちゃうか・・おーいタカちゃん、わしらのクラスはみんなで何人やったん?」

「54人のはずやけど・・」と浅原。

 では、所在の分からない14人は誰やろうと指を折ってみるのですが、思い出せるのは8人まで。そのなかのひとり、悦子は卒業と同時に引っ越してそれっきりです。成績がよく、際立つかわいい顔で、はきはき発言したというのが共通した印象のようです。

「急におらんようになったなあ。なんでやったんやろ」と野田。

「さあ・・知らんなあ」とそっけないタカちゃん。悦子の父親が何かまずいことをやらかしたため、一家は夜逃げ同然に姿をくらましたというのが当時の噂だったはずです。

「熊谷啓ちゃんはみんなも憶えてるやろ」と、美代子が話を振りました。とびぬけて絵がうまく、父親が映画館の看板描きで彼もそのあとを継ぎたいということでした。

 学校の裏門前の空き地に建つ、小屋のような家に住んでいた恵子が飲んでいたヤギの乳のこと、病気がちだった克平の名前などがあがったものの話は途切れがちになり、夜更けの急な雨音が耳を打つなかで「みんなはいま、どこで、どうしている・・」と、尋ねびとをする気分だけが残りました。

 


「焼けた鉄と塗料の臭いの中で・・」

 

 夜が明けて日曜日、青空が広がっています。昨夜の雨に打たれて庭にこぼれているのは萩の花です。

 朝食のあと都合で帰るわたしは、定期観光バスに乗るみんなより早く宿を出ました。きょうも暑くなりそうな日差しのなかを、西に向かって丸太町通りを歩いていた時のこと、昨夜はどうしても思い出せなかった男の名前がいきなり浮かんだのです。

 金村隆一。彼はクラスのガキ大将でもなければ、格別の腕力を持っていたわけでもないのですが、言うこともすることも荒っぽくて、ときどきの感情をむき出しにする彼が、わたしは苦手でした。あるとき、何が原因だったのでしょうか、道に落ちていた馬の糞をつかんで何かを叫ぶ彼に、わたしはどこまでも追いかけられたことがありました。

 

 大阪市立香蓑小学校は、大阪府と兵庫県とを区切るように流れる神崎川沿いにありました。阪神工業地帯のどまんなかに位置する労働者の町で、のちに西淀川公害訴訟で知られる地域ですが、当時は公害という言葉もありませんでした。零細企業が寄り集まった街の通りには、朝から晩まで鉄を打ち、削り、切断するカン高い音が漏れ、焼けた鉄や塗料の臭いが流れていました。
 

 ある放課後、年配の担任がプリントを配って保護者に渡すよう言ったあと、「君たちのなかでまだ給食をとらずに弁当を持ってくる人がいるが・・」と話し始めました。そして学校の給食が栄養的にどれほど優れているかを説明したあと、給食代が安いことを強調しながら「1日の給食代はご飯と卵1個分なんだよ」とにこやかに言ったのです。卵が今ほど安い時代ではなく、卵1個がまるまる入っている弁当などわたしは見たこともありませんでした。みんなは黙ってその話を聞いていました。

 弁当でも給食でもなく家に食事に帰る者もいましたから、隆一も昼食は家でするのだとわたしたちは思っていました。ところがある日、鋼材置き場になっている雑草の茂った広い空き地で所在なげにしている隆一と克平の姿を、たまたま上がった屋上からわたしは見たのです。二人はそこで時間をつぶしていたのです。その頃のわたしの弁当は、コッペパンと小さなマーガリンだけという日が続いていました。

 

 日差しが高くなって、次第に焼けてくるアスファルトの道を歩きながら、あの隆一は今どこで何をしているのだろうと昨夜と同じ気分に浸りそうになりつつ、しかしわたしは別の思いにも捉えられていました。

 所在のわからない男の子、女の子がいまどこで何をしているのだろう、そんなことがもし分かってみたところでそれが何ほどのことだろう。幼くて、貧しくて、傷つきやすかったり、強かったり、辛いことやうれしいことや、そしてたくさんの分からないことや知らないことどもを、それぞれがいっぱい抱えていたあのころを、肉親ともまた違ったところで、わたしたちだけの空気が流れていたあのころをいまも54人が共有している、それでいいのではないだろうか。

 丸太町通りはしだいに車の往来が増してきました。「おーい、おまえはいま・・」と呼びかけるべき尋ねびとは、汗をかきかき歩いているわが身の内にあることにそのとき思いあたったのでした。