12期の広場

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今年もどうぞよろしく

今年もどうぞよろしく
8組  末廣 訂

 昨年は戦後70年という節目の年で福島区歴史研究会では、近所に「終戦の玉音盤に関係した」93歳の元近衛兵がおられるということで記念講演会を区民センターで開催するなど多忙な時間を過ごす反面、個人としては大変な1年でした。
 1昨年の3月に自宅の階段で足を踏み外し前の壁に左肩を強打し、整形外科でレントゲンを撮ったが異常なしとのこと。しかし痛みがあり、注射やハリ灸で痛みを抑えていたが、昨年春ごろから、腰に痛みがでて、歩くことができなくなってきた。
 原因は脊柱管狭窄症ということで、実は2回目の腰の手術を3月にした。
 ところが、6月頃から、昨年打った左肩が痛みを増してきたので、再度専門医に見てもらったところ、肩腱板断裂で手術が必要ということで8月末から3週間入院し手術した。
 肩の手術は幸いうまくいったものの、固定のギブスを10月一杯までして、11月になってやっと自転車に乗れるという生活に戻った。
 短期間に腰と肩に2回メスを入れ、歩くという行為がほとんどなかったためか、今度は歩行が困難になり、何もしていないのに両足にしびれと痛みが走り、夜は寝付けず、睡眠不足の日が続いている。この間、医者を変え治療方法を変えているが一向に改善の兆しがなく弱っている。
 もちろん会社のOB会、地元の行事や市岡の集まりも失礼している。11月末に大阪フィルで大先輩・信時潔の「海道東征」を楽しみにしていたが、行けず残念であった。そんな時に突然、酒井八郎君が見舞いを兼ねて自宅に来てくれ本当にうれしかった。
 従来通りの生活ができるという新しい目標に向かって頑張りたいと思っています。
 今年は同窓会の年、みんなにお会いできることを楽しみにしています。

思い出を綴る (最終回)

思い出を綴る (最終回)
3組   石井 孝和

 関ヶ原の戦いの翌年1601年から9年の歳月をかけて完成したといわれる姫路城。
国宝姫路城(撮影:平成4年)

 わたしがNHK神戸放送局の姫路支局(放送局から支局になった年)に転勤したのは、平成4年(1992年)の夏、満50歳で、単身赴任だった。
 新しい勤務地では、各新聞社の支局をはじめ、記者クラブ、市役所、警察、県の出先機関などを巡って“顔見世”の挨拶に伺う。この中で姫路城の管理事務所に続いて、城のすぐ近くに昭和26年に開園したという市立動物園に伺ったとき、わたしの目に衝撃的な光景が映った。屋外で日光浴をしている「姫子」という名のアジアゾウの後足の一方が太い鎖につながれていたのだった。“鎖”は危険防止の為だろうが、堀もあり、私にはいらないように思えた。
 この日、園長に「初めましてどうぞよろしくお願いいたします」と挨拶したあと“鎖”について尋ねたところ、「以前から引き継いでいることなのです」とのことだった。その翌日、姫路市役所を訪ね、戸谷松司市長に2度目の“おめもじ”。わたしが“鎖”のことを話題に引き出すと市長は「そうですね。鎖といえば、
フラミンゴの卵を抱くウコッケイ
フラミンゴの卵の大きいこと
姫路市は新日鉄広畑工場があることもあって鎖の生産量が日本一なんですよ」とさらりとかわされてしまった。その後、こ の動物園では、鶏の仲間で「ウコッケイ」という鳥が自分の卵の3倍近くもある大きさの「フラミンゴ」の卵を抱いてひなを孵(かえ)したという話題や卵から孵化した「タンチョウヅル」が成長し園内を“お散歩”など、さまざまな話題をニュースに取り上げた。そして12月22日冬至の日には象の「姫子」が登場。近くの幼稚園児たちを動物園に招待し、「姫子」が地元でとれたジャンボカボチャを食べるのを見学するという催しが予定されていた。当日、動物園にカメラマンと一緒に行き、子どもたちとともに大きな「姫子」の姿を見て驚いた。わたしは感動した。「姫子」の後足からあの太い、冷たい“鎖”が消えていた。わたしはカメラマンに“後足”もしっかり撮るように頼んだ。わたしの話を心の片隅に止めていてくれた園長や市長が自ら“発信”したことであった。「姫子」は翌々年の平成6年、老衰のため昇天した。満50歳だった。
 平成5年12月(1993年)9日、姫路城と奈良法隆寺が、日本で初めて、ユネスコの世界文化遺産に登録された。
 この日に備えて姫路市の広報課と市政記者クラブの間で打ち合わせが行われた。つまり、
世界文化遺産登録の知らせを受ける戸谷市長
“演出”のことで文化庁からの知らせを市長が電話で受けるのをどこで行うか、どんな催しをその時行うかであった。わたしはテレビとしての“絵作り”を考え、しかも1台のカメラで取材できるように提案した。その結果、市長を城の管理事務所に来てもらい、そこに電話をかけてもらうことになった。事務所の横が広場になっていて、そこで催しを行うことになった。
 文化庁から「姫路城が世界文化遺産に登録された」と市長に知らせの報が入ったのは、当日の午前1時ごろであった。そのあと記者会見に続いて、広場で保存会のハッピ姿のメンバーによって樽酒が割られ、かけつけた市民に祝い酒を振る舞う催しが行われた。“暗がりの中の案外、質素な催し”だったとわたしは記憶している。
屋根の端に近づき落雷跡を撮影
 この姫路城の大天守に落雷したことがある。その日の夕刻、“落雷、屋根瓦が落下”の知らせがあり、カメラマンに現場に行ってもらった。登城閉門時刻が近かったため、映像は下に落ちた瓦の破片のみであった。翌日、わたしは城に登って屋根の様子を撮影しようと管理事務所を訪ねた。そして落雷の痕跡を取材するため城の上階に向かった。その途中、長さ1メートルほどの竹の梯子を肩に担いで階段を下ってきた人に出逢い、もう一度最上階まで登ってもらった。割れた瓦を点検に行った人だった。瓦の被害は13枚だった。わたしは梯子を使って最上階の6階の窓からカメラを担いで屋根に出た。1歩1歩急な屋根をくだって落雷の痕を撮影することに“成功”。勿論命綱をつけてもらっていた。
 ことし、平成28年(2016年)1月17日は神戸を中心に6400人超の犠牲者がでた阪神淡路大震災から21年。
 わたしはあの日の前日、新聞各社の姫路支局長らと兵庫県山崎町のゴルフ場に行き1ラウンドを楽しんだ。成績は113で、自分としては上出来であった。プレーを終えてマンションに帰り、夜は、いつものように目覚まし時計と8ミリビデオを枕元に置き、支局員の緊急呼び出しの系統図までも準備して就寝。そして明け方、グサ!ときた振動で目を覚まし、大きな横揺れの中で“山崎断層の地震か”と思いながら揺れのおさまりをまった。隣の台所では
阪神淡路大震災を報じるNHKニュース
冷蔵庫のトースターなどが大きな音をたててフローリングに転がった。“アッ撮影”と思ったところが蛍光灯の紐が揺れる様子しか目に入らなかった。続く余震の中、急いで服を着替え、上階に住むカメラマンに大声で“局に行くぞ”と言い残して、すぐマンションの隣の支局に駆け込んだ。
 兵庫県西部各地の警察、消防に順次電話して被害状況を尋ねたところ、幸い“大きな被害はない”ということだった。そこで若い記者とカメラマンを局車で神戸に向かわせた。この局車は、途中で撮影した映像を奈良生駒山の放送アンテナを中継してBKに送ることができた。わたしはタクシーで姫路市内を映像取材してまわった。電車が止まったJR姫路駅、駅周辺のことごとく割れたビルの窓ガラス、そして世界遺産に登録された姫路城の瓦が落ちるなど壊れた土塀などを取材し、次々と支局からBKへ電送した。その後の余震にも警戒し情報を神戸局に送り続けた。
わたしの寝床、ビデオカメラほかがスタンバイ
 この日から約3か月、わたしは支局のニュースの部屋で寝泊まりを続けた。この間、広島から姫路港に来ていた貨物船が明石-天保山を不定期で運航(独自ネタ)するなど被災者への救援・支援など「震災後」の取材にあたった。この間、局舎が壊れ仮住まいしていた神戸局へ泊りにも行っていた。ある日、結婚式の仲人をしてもらった元NHKの記者(当時、BK経済班キャップ)の息子さんの前田仁君がNHKの記者になってBKから応援に来ていたことを知った。別れ際“これからも頑張って!”と声をかけ、“はい”と返事と笑顔に頼もしく思った。それから10日ほどしたころだったか、大津市に住む妻から“「朝日」の夕刊を見てごらん
NHKの記者から転職して落語家になった前田仁君
”と支局に電話があった。何と彼が転職を決め、サスペンダー姿で腰にポケットベルをつけ、落語の高座に座っている写真がデカデカと載っていた。林家染丸師匠に弟子入りしたとあった。
 早速、わたしは彼に激励とポケットベルのいきさつ(ポケットベルをデスクに返上した記者のキャップがわたしの仲人)を手紙にしたためた。後日、その返事が届いた。彼は神戸大学落研出身で“今度の大震災で何人かの友達が亡くなり、その家族の悲しみがひとしおだと感じ、そうした突然の未曾有の出来事に打ちひしがれた方々に“笑い”を伝えようと転職に踏み切った”とその思いを綴っている。
 彼の芸名は林家竹丸。大阪ナンバの「ワッハ上方」や大阪天満の「繁盛亭」に出るなど芸を磨き、NHK朝のテレビ小説「あさが来た」にも出演し、いきいきした表情でお茶の間に登場していた。
 わたしは平成8年、25年ぶりにBKに戻り1年間、NHKの番組を評価する「考査室」に席をおいたのちテレビニュースの制作に就き、現在にいたっている。
―― 最終回にあたって ――
 12回にわたった「思い出を綴る」、万感の思いでペンを置くことにしました。
 市岡高校で学んだことが縁になってNHKに入り、半世紀にわたってニュースの仕事に携わってきました。
 政治・経済・社会・教育・宗教・スポーツ・文化芸術・医学・科学など、さまざまの分野で共通するのは、すべて人の営みです。ニュースは非情な表現をします。それは、物事の"事実”を客観的にとらえ、感情を交えないで伝えるためです。
 記者も人間です。平和を願い、人々の和合を願い、苦悩に陥った人の復活を願うものです。
 長い取材活動を通して、多くの方々から英知や激励をいただきました。そうしたことの"恩返し”という気持ちで放送を通じて"わかり易いニュース”を地域の方々に届けたいと思っています。
 最後になりましたが、今回のシリーズ執筆にあたりましては、同窓会代表幹事の酒井八郎君はじめ張志朗君の後押しとHP委員皆さまのお力添えをいただいたことに深く感謝いたします。また、つたない文章に目を通してくださった同窓生の方々に感謝申し上げるとともに、これからの人生をともに明るく、楽しく、エンジョイできることを願ってやみません。ありがとうございました。
2016年1月1日       石井 孝和

―― この時期の世の中の動き――
▽平成4年(1992年)
  • 7月  バルセロナ五輪競泳女子200で14歳の岩崎恭子選手優勝。女子マラソン有村裕子選手銀。
  • 10月 天皇皇后両陛下中国初訪問。"多大の苦難を与え”とお言葉。
▽平成5年(1993年)
  • 5月  サッカーJリーグ開幕
  • 7月  北海道南西沖マグニチュード7.8の大地震、奥尻島津波で壊滅的打撃。
▽平成6年(1994年)
  • 9月  大阪泉州沖人工島に関西空港開港。
▽平成7年(1995年)
  • 1月  阪神淡路大震災(淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3)神戸市などで観測史上初の震度7を記録。死者6434人、重軽傷者約1万人、被災家屋約64万棟にのぼった。
  • 3月  東京霞が関の地下鉄で5車両に猛毒のサリンがまかれ、13人が死亡、数千人が重軽傷。オーム真理教の犯行であった。
  • 4月  1ドル80円を割る。
  • 7月  ミヤンマーのアウン・サン・スーチー氏 軍事政権による自宅軟禁から解放。

「12期の広場」12月号のラインアップ

 気がつけば立冬はとおに過ぎて、いよいよ苦手な冬の到来です。近くに大ぶりの葉をつけるかえでの並木があるのですが、もうすっかり葉を落とし、その落ち葉が風に吹かれてカラカラと飛んでいきます。日没もいっそう早くなりました。夕方の5時前には陽もとっぷりと暮れて、夜のとばりの中。襟もとにしのび込む寒さに思わず、ぞくり。熱燗がほしくなりますね。
 月日の経つのは早いもので、あっという間の師走、12月です。上原さんの絵手紙にも「暦が1枚になりましたね」とあります。街のショッピングモールでは例年のようにポインセチアの鉢植えがずらりと並び、気の早い所ではイルミネーションが始まりました。これでクリスマスソングが鳴り出すと、なにかと気ぜわしい年の瀬になって行くのでしょう。
 我が「12期の広場」今月号は「市岡高校東京12期会」の報告がトップ記事です。先月号のこの欄で書いた通り、酒井八郎代表幹事と共に行ってきました。
 2年ぶりの東京。往きの新幹線は「ジパング倶楽部」の特典を使っての「ひかり」でしたが、自由席まで満席で座れない乗客が大勢。東に向かう人の多さに驚き、さらに東京山の手線のラッシュなみの乗客と有楽町、銀座界隈の人の多さ、そしてその賑わいに目をうばわれながらの会場到着でした。
 「市岡高校東京12期会」も今回で第7回を数えたのですね。今や東京12期会は大阪での同窓会とならび、12期同窓会の確固たる「車の両輪」です。大石橋会長はじめ幹事の皆さん、そして参加者の皆さんのご苦労と熱意の賜物と頭が下がります。東西の同窓会を合わせると同窓会の参加者は、概ね100名近くになりますから、実に喜ばしいことです。今回も懐かしい同窓生との再会を果たすことができました。また時空を越えてのなつかしい話はつきることがありませんでした。なにより、その話の心意気と深い味わいから、多くの共感と元気を得たようです。詳しくは記事の本文をご覧ください。
 石井孝和君の「思い出を綴る」も11回目。時代はようやく平成になりました。連載がはじまってから今や400字詰め原稿用紙で70枚を超えるボリウムです。回を重ねるごとにその健筆ぶりが際立ちます。さらに、毎回の末尾に記された「この時期の世の中の動き」には自分の記憶がフラッシュバックして思わず膝を打ってしまいます。感謝、感謝です。
 
 今年最後の号です。お楽しみ下さい。
 「12期の広場」12月号のラインアップは以下の通りです。
 
1.  「第7回 市岡高校東京12期会の報告」       5組   泉 信也
2.  「市岡高校東京12期会に参加して」         8組   萩原 貞雄
3.  「思い出を綴る (11)」              3組   石井 孝和
 
                                以 上

第7回「市岡高校東京12期会」の報告

第7回「市岡高校東京12期会」の報告

大阪と隔年で開催される「東京12期会」も今年で第7回。つまり2003年、皆が還暦の峠を越えてさらに一回りの長い行事となっている。ひとえに発足以来の山田・榎本両大幹事の人柄と肝いりのおかげである。
10月31日(土)、このところ恒例となっている会場の銀座「三笠会館」に20名が参集、座が乱れる前にとさっそくの記念撮影となる。榎本君が用意してくれた第1回以来の各会の集合写真を見比べ、各々時の経過に思いを巡らせる。
10年前の2005年11月11日「第2回東京12期会」は27人。お元気な亡き顔も懐かしく。

開会に際し、前回の集まりから先立って逝った村木雅章(8組)、川合兵治(4)、吉岡宏(4)君、北村彰一先生に黙祷をささげた。
開会あいさつは大石橋会長。
 『市岡高校同窓会が開かれると、いつも、戦争の傷跡が随所に残る原っぱや道を通り、渡し船を利用して通学した情景を思い出す。あのころの日本はまだまだ貧しく、誰もが豊かさと平和を求めて懸命に頑張っていた。あれから半世紀以上が経ち、そこそこの成果が得られたのかな、とおもいたかったのだが・・・
 昨今の世界の情勢を見ると、相変らず戦争あり、テロあり、飢えや大災害ありで、思わず目を覆いたくなるような有様である。この50年以上にわたる人々の努力は一体何だったんだろうと考え込んでしまう今日この頃である。
 それはともあれ、12期生の我々は74歳を迎え、こうして元気で集えることに感謝し、今後も精一杯前向きに進んでいきたいと思う。今日は一日楽しく過ごしましょう。』
 つづいて来賓として関西から駆けつけてくれた、酒井12期会代表幹事から大阪での同窓会幹事会の様子や、北村先生の思い出を交えた愉快なご挨拶をいただく。同じく張幹事には毎回持参いただく重い12期のバナー(横幕)とともに、昨今の杭打ち不祥事の話など専門家としてのエピソードの披露もあり、榎本幹事長の名司会で会は和やかに滑りだす。
 参加の各自からは近況や随想、趣味、病気自慢、孫自慢、そして市岡の懐かしく、うれしく、辛い思い出などいつもながらの愉快な歓談にお酒が加わっておおいに盛りあがる。
 西條君からは川歩き報告。「12期の広場」に掲載してきた「荒川歩き、源流点到達」を発案者の故川合君へのオマージュとする。次は多摩川?

 広島から遠来の辻君の特別講演は大阪の会に続いて皆さんの関心事、「健康」。一番大切なのは人間が本来備えている「自己治癒力!」と、万病を克服してきた辻君に云われると説得力がある。それにしても誰かの「たよりにしてまっせ」の声は切実。
 名残をおしみつつも、大阪での再会を期し、皆で校歌を斉唱して中締めとなる。
いつもの通り二次会はカラオケ、会場は銀座とは思えぬ古びた「千里馬」に大半が移動して歌合戦となる。女性陣の「花は咲く」は市岡の乙女の時代の復興でもある。男性陣は現役時代にクラブに支払った投資に見合った力量か。大詰めは関西Duetの「涙をふいて」。しみじみ聞かせるが、この息の合ったところが

上原澄子さんが絵手紙に書いてくれた文書

「市岡高校12期会」をまとめてくれる所以だと思い、皆の感謝を合わせ報告としたい。


第7回 市岡高校東京12期会 参加20名の顔ぶれです。下記の名前と一致しますか?

参加者:
1組:上原澄子
2組:坂野雅子(集合写真のみ)、高谷尚江、佃富江、杲田慶子
3組:西條軍蔵
4組:児玉恭子、重松清弘、酒井八郎
5組:阿部清二(集合写真に間に合わず)、泉信也
6組:大石橋宏次、中柴方通
7組;張志朗
8組:榎本進明、緒方宏文、辻紘一郎、萩原貞男、村崎裕昭、山田正敏
(泉 信也 記)

市岡高校東京12期会に参加して

市岡高校東京12期会に参加して
8組  萩原 貞雄

1. 銀座の三笠会館へ
 開始時間を確認するため「市岡 12期」でグーグルを検索した。「10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会
 
三笠会館前でニコニコ顔のみなさんです。
が銀座三笠会館で・・・」が出てきた。しかもトップに。これはすごい。HPのメンテがよく、多くの人がアクセスしているということだ。自宅最寄り駅から銀座へ50分。黒いマントを被り、猫のメークをしたハロウイーンの人々の間を抜けて地下鉄駅から地上に出る。三笠会館まですぐだ。エレベータ内で児玉さんに会う。会場のロビーに着く。すでに大石橋、張、山田、榎本、泉、西条、重松君らが歓談中。次々と集まり12時半より別室にて集合写真。三笠会館は、今年で30年連続地価日本一の銀座鳩居堂前とは目と鼻の先だ。贅沢にもロビー、集合写真室、宴会室と3つの場所を占拠。亡くなった川合君からここを何かの縁で紹介してもらったお蔭だ。13時より宴会用の円卓テーブル室へ移動。

2. 北村先生、村木君、川合君、吉岡君に黙とう。
初めての二次会で熱唱された北村先生。
最後のお姿となりました。
 生前、北村先生より「萩原の読書感想文が手元にない」趣旨のお詫びのメールをもらった。天国で気にして いるに違いない。「先生、そんなことは気にしなくていいですよ。感想文を出した記憶が本人にないのですから」と伝えたい。 川合君、前回会った時、ウイスキーをストレートで飲(や)っていました。ミラノの話をしましたね。またひょうひょうとしておっとりした印象の村木君。以前三重県から家業の合間を縫ってこの会に来られましたね。

3. 同窓会代表幹事のあいさつ
 酒井12期同窓会代表幹事挨拶。はるばる神戸から駆けつけてくれた代表幹事の身ぶり、手振りの挨拶。関西での同窓会幹事会報告と北村先生のお話。一期一会はこの歳になれば実感する。張同幹事挨拶。今年も12期の垂れ幕持参ありがとう。日頃のホームページの維持にも感謝。ビルのくい打ちの深さなど建物の安全に関する書類の審査をしているという話に聞き入る。

4. 榎本幹事長の司会により遠い所から来た人の順番に近況報告。そこでの話題。
  • 東京12期会をいつまでやるか
輪になって「校歌」を歌おうで大騒ぎ。
 80歳までとの意見の一方、酔った勢いもあり90歳までという意見も出た。東京オリンピックは2020年、まだ80歳前だ。僕は1964年の東京オリンピックではヨット競技のお手伝いで1週間ほど江の島に来ていた。その時の記念のメダルは大事にとってある。僕にとっては2度目のオリンピック。東京大阪間のリニアーモーターカーの開業は2027年だ。その年は86歳、それまでは無理かもしれないが、東京オリンピックまでは12期会に参加したい。
  • 川歩きの話。
 今回は西条君の荒川の最終報告だ。テレビ番組収録の為、たけし軍団のダンカンらの撮影隊と一緒になった由。僕はたまたまテレビでこの放送を見た。我が12期隊はテレビには登場しなかったが荒川の上流は奥秩父の北側に位置し簡単には行けないはずだ。さすがの12期隊だ。次会は多摩川の源流?いずれにしても荒川源流と反対側だ。
 
  • 仕事の話。
 僕は精密機械の英語のトリセツ(取扱い説明書)作りを始めて10年目になる。皆さんも経験のとおり、最近のカメラや電気製品は機能てんこ盛り。そのためトリセツは分厚くて、わかりにくい。読めば読むほどわからない。僕もその一人。そこでやさしく、間違いなく、簡潔を旨としているがこれがなかなか難しい。ましてや英語となると猶更だ。ジャンルは違うが亡くなった川合君も翻訳をやっていたと後で知った。一度話を聞きたかった。
  • 同窓生の思い出
 半世紀以上も前の話でうろ覚えで間違っているかも知れない。容赦願う。卒業1年後、川村君、上山君らと四国を旅行した。高知県の後免という所だったと思う。川村君の親御さんの実家?で高知名物の皿鉢料理を御馳走して貰った。大きなお皿にお寿司を盛ったものだ。そのあと小豆島に渡りユースホステルで関西の女子大生の一行と一緒になった。どんな話をしたか覚えていない。これも市岡の思い出だ。

市岡という場で我々は出会った。語り、学び、遊んだ。心の中にある市岡の記憶は永遠だ。でも今を生きている人間は変わって行く。だからこそこの同窓会が永く続いて欲しい。
やはり最後は「万歳三唱」でお開き 元気な74歳を感じるなぁー

思い出を綴る (11)

思い出を綴る (11)
3組  石井 孝和

 
びわ湖の出口の一つ。瀬田川の洗堰(あらいぜき)上がびわ湖です。
びわ湖の水は2つの方向に分かれて流れ出ている。1つは自然の流出口、瀬田川の洗堰(あらいぜき)で、瀬田川から宇治川、そして淀川を経て大阪湾へ流れ出る。このことはよく知られている。もう1つの大津市三井寺から明治時代に大規模工事で造られた「琵琶湖疏水(そすい)」が、京都東山区の三条蹴上(けあげ)で浄水場と「哲学の道」の脇を流れて京都市内を経由したのち宇治川に合流することは広くは知られていない。
 わたしがNHK大津放送局から京都放送局へ、今度は単身で転勤した翌年の昭和63年(1988年)の夏、宮内庁の京都事務所を訪れたところ、京都御所にある池にびわ湖と同じ“淡水赤潮”の現象が見られることを知った。
 京都事務所によると、京都御所にある3つの池には、
 
南北朝時代から京都市内を北から南に流れる鴨川の水を引き入れていたが、明治時代に琵琶湖疏水が完成したことからびわ湖の水を取り入れるようになったという。京都御所の池は、びわ湖の水位に関係することも知った。このことは早速ニュースに取り上げた。びわ湖の水位がマイナス1メートルになった前の年の夏、近江八景の一つ「堅田(かたた)の落雁」で知られる大津市堅田にある「浮御堂(うきみどう)」周辺のびわ湖が干上がり、わたしが湖底に立ってリポートしたことを思い出した。こんな思い出を京都事務所で話していると、偶然にも事務所の人が「近く、地下水を汲み上げる工事に入る」と言ったことから、これまたニュースで取り上げることにした。
 
重いテレビカメラ。これを肩にかつぐ。
工事は予定通り翌年の春には完成。京都御所の池はびわ湖の水と地下水が混じることになった。
 この取材を続けている途中、今度は「オランダの女王が“おしのび”(非公式)で御所においでになる」という話を耳にした。“おしのび”の当日、わたしは“NHKの赤い腕章”をつけ、重さ約10キロのテレビカメラを担ぎ取材に駆けつけた。他社の取材者はいなかったようだ。
 女王のお名前は「ベアトリックス」。昭和55年(1980年)にユリアナ女王から生前に王位を継承されたという。(“生前”は日本と違うところ)
 当日はおだやかな日和に恵まれ、一行約20人が御所の散策を楽しまれた。テレビカメラはビデオテープで撮影しながら音声も収録できるため、わたしは、女王に“散策の感想”をひと言いただけたらと思って、近くにいた“おつきの人”にお願いした。するとその人は女王に近い別の人に順々にそのことを伝えてくれて、間もなく“答え”が戻ってきた。はらはらした気持ちで返事を待っていたわたしの目に入ったのは、さきほどの“おつきの人”のクロスさせた“人差し指”であった。しかし、ベアトリックス女王は、終始にこやかにほほえまれて御所の佇まいを楽しんでおられるご様子で、あえて“お声”はいらなかった。
 京都は伝統産業と先端産業がともに盛んなところ。 わたしが産業界の情報が集まる「経済記者クラブ」に所属していたこの頃、西陣織のネクタイの柄にコンピューターを導入したり、立石電機(現在のオムロン) が“ファジー推論”
 
ジャイロコンパスの役割を果たす小さな電子機器の部品
(ゼロ・イチの数値とは違って「もう少し強く」とか「もう少し弱く」といった人間に近い表現・感知が可能な考え方)を活用したロボットを開発したり、更には村田機械が家庭用のファクシミリの生産を始めるなど、京都に本社を持つ企業が活発な動きをしていた。
 わたしが放送局にいたある日の夕方、精密機械メーカー村田製作所の若い広報マン2人が来局した。2人は「経済記者クラブ(京都商工会議所内)に行き、弊社の新製品の説明をしてきましたが、あなたの顔が見えなかったので、会社に帰る途中、寄せてもらいました」と言って、配布してきた資料と一緒に“小指”ほどの大きさの“製品”(部品)を見せながら説明に入った。
 「この製品は大型船舶に用いられる船のバランスを保つジャイロスコープの役割を果たすものです」と得意満面で話してくれた。この製品の用途は、海底開発や宇宙開発など、幅広い分野で
 
ジャイロコンパスを搭載し、ロボットが自転車を運転する。
活用されることが予想され、ニュースにする価値があると思ったが、「こんな小さな“製品”だけをテレビで紹介するのは難しいよね」というと、「弊社まできていただければ、この製品を搭載した“自転車”をお見せしますよ」という返事。わたしはカメラマンと一緒に会社に行くことにした。
 辺りがうす暗くなった時刻に会社に着くと、構内にあるテニスコートに照明が灯された。そしてそこに登場したのは、遠隔操作で走る人形が乗せられたおもちゃのような自転車だった。人が歩くくらいのゆっくりした速度で走る自転車は、ハンドルが右に左に操られ、バランスを保っていて倒れることがなかった。その様子をカメラマンが追いかけて撮影し、翌朝、私のリポートでBSニュースの電波に乗せられた。
 時代が昭和から平成に移る頃も京都勤務が続いた。平成に入り、街は華やかさをとり戻し、伝統文化を紹介する織物や染物などの展示会が盛んに開かれた。わたしは京都で伝承されている伝統工芸にも関心をもっており、その都度、本職のカメラマンと共に取材に行き、“茶の間”にニュースとして紹介した。
 平成3年5月には、宇治市で“京都みどりの祭典”と銘打った「第42回全国植樹祭」が開かれた。この祭典には天皇皇后両陛下が臨席された。祭典では両陛下が北山杉としだれ桜をお手植えになり、午後からは、京都府南部に建設中の関西文化学術研究都市の研究施設を視察された。この施設は精華町に完成した「国際電気通信基礎技術研究所」で、先端産業につなげるための実験が行われていた。
 両陛下の行幸啓(天皇・皇后が外出すること)に同行している宮内庁詰めの取材陣とは別に、地元京都府庁担当のわたしたち取材陣は、一行の現地到着より一足先に行き、待ち受けていた。“NHKの赤い腕章”をつけたわたしは、両陛下とおつきの人が施設に入られるのを見計らってその列に加わり、ちゃっかりと、両陛下の真後ろに並ぶ形になってしまった。
 
ユーロコンピューターの実験をご覧の両陛下(真後ろで赤いNHKの腕章がずりおちているのが私)
  この実験室で両陛下は「自動翻訳電話」と「ニューロコンピューター」(手書き文字認識)の実験に参加され、お二人とも大変ご満悦の様子であった。この内「ニューロコンピューター」の実験では、天皇陛下がコンピューターの前に座って“電子ペン”を手にされた。この時、天皇陛下が“「平成」にしようか、「平和」にしようか”と小さな声を出され、思案されたご様子。ほんの少しの間を置いてから「平和」の文字を机上のプレートに記されたのが見えた。するとすぐさま「ピース」と英語で男性の音声が流れたため、部屋いっぱいに、どっと驚きの声と拍手が沸き起こりそれまでの“緊張”から解放されたようになごやかな雰囲気が漂った。そうした中で、わたしが両陛下の真後ろで目にしたのは、お二人のほほえましいやりとりであった。実験を終えられた天皇陛下が皇后陛下を見上げられて、“あなたもやってみますか”とゆったりとしたやさしさに満ちた静かな声で尋ねられたのに対し、皇后陛下は周りの人たちに気遣われて、声をたてず、慎ましい笑顔を見せながら、右手の人差し指を軽く立て、顔の近くで、そっと左右に動かす仕草をなさった。天皇皇后両陛下の5日間にわたる行幸啓に同行取材をした中でもお二人の短いやり取りは印象深いものであった。
 ことしは戦後70年、NHKが放送した戦後を綴ったドギュメント番組を視聴した。この中で、天皇陛下が小学生だった時に習字で「平和」「建設」という文字を力強く書かれたのを見て、あの時の電子ペンで書かれた「平和」の文字がわたしの脳裏に重なっていた。

―― この時期の世の中の動き――
▽昭和62年(1987年)10月
 ・利根川進米マサチュウセッツ工科大学教授がノーベル医学生理学賞を受賞。
▽昭和63年(1988年)3月
 ・青函トンネル開通、同10月瀬戸大橋開通
▽昭和63年(1988年)9月
 ・昭和天皇病状悪化。111日に及ぶご容体報道のため終日放送。阪急ブレーブス、オリ
  ックスに球団売却。
▽昭和64年(1989年)1月7日
 ・吹上御所で昭和天皇崩御。在位史上最長の62年。
▽平成 元年(1989年)6月
 ・衛星放送第1テレビ、第2テレビ本放送開始。8月 イラク軍クエートへ侵攻。11月
  官民労組大同団結「連合」発足。
▽平成 2年(1990年)4月
 ・大阪花の万博開催。半年間に2300万人入場。11月「即位の礼」。NHK・民放各社中
  継放送。12月バブル絶頂期。株価1年で約8900円上昇。
▽平成 3年(1991年)1月
 ・湾岸戦争始まる。4月牛肉・オレンジの割当制度撤廃、自由化。5月滋賀県で開かれてい
  た「世界陶芸祭」に向かうJR快速電車と信楽高原鉄道が正面衝突。42人死亡、600
  人以上が重軽傷。6月南アフリカ大統領がアパルトヘイト(人種隔離)政策終結宣言。
▽平成 4年(1992年)3月
 ・東海道新幹線「のぞみ」運転開始。

                            (次号につづく)

「12期の広場」11月号のラインアップ

 11月です。秋が深まっています。関西のテレビや新聞の紅葉便りもこれからが本番のようです。
 先日テレビで大山隠岐国立公園の紅葉が映し出されていたのですが、それを見て、何年か前、同窓生とバス旅行したことを思い出しました。書き置いた文章にこんなくだりがありました。
 『鏡ケ成(かがみがなる)から鍵掛峠(かぎかけとおげ)に行く道路は、ブナ林のまっただ中を通っているのですが、ブナの木々がうっそうと道路に張り出し、さながらブナのトンネルのようになっています。その中を右に左に蛇行しながらバスが進むわけですから、眼前もブナ、両側もブナ、天蓋もブナ、当然背後もブナです。そのブナが紅葉し始めており、木漏れ日が葉裏にきらめきながらひときわその鮮やかさを際だたせ、それはそれは見事な絶景です。紅葉のさらなる絶頂期にここを通れば身も心もまっ黄色、真っ赤に染まる事でしょう。』
ここにある鍵掛峠とそれに続くこの辺りは大山の紅葉の絶景ポイント。最盛期の紅葉が見られなかったのがよほど口惜しかったようです。今年はなにがなんでも、息を飲むような紅葉に出会いたいと思ってしまいます。
 今月号の上原(旧姓大川)さんの絵手紙は「もみじとセキレイ」です。もみじは紅葉の代表樹でセキレイは秋の季語。タイムリ-で秋ぴったりの絵手紙にうれしくなりますね。
 絵手紙に『10月31日の同窓会、楽しみにしています』とありました。このラインアップを読んで頂いている前日の10月31日に第7回「市岡高校東京12期会」が開かれています。残念ながら、その詳細な報告は、今月号には間に合わず、12月号の掲載です。
 代表幹事の酒井八郎君と一緒に私も参加しますのでこの原稿をかいている今から、保管しているグリーンの同窓会横幕と新幹線のキップを前にうきうきしています。どこまで盛り上がるか、またどれだけ楽しい報告ができるか、是非ご期待下さい。

 さて我が「12期の広場」11月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。

1.「同窓会幹事会を開きました」4組 酒井 八郎
2.「思い出を綴る (10)」  3組  石井 孝和
3.『リレー投稿』「つれづれに(2)」 玉 手 箱
以 上

12期同窓会幹事会を開きました

4組 酒井八郎(同窓会代表幹事)

 9月27日(日)、1組から8組までのクラス幹事が京都にあつまり、来年予定されている12期同窓会について話し合いを行いました。
 参加者は、高橋、八島(1組)、北浦、山西(2組)、清水、石井(3組)、原、古藤、酒井(4組)、段中(5組)、畠平、武田(6組)、張、上野、田端(7組)、川副、川村、塩野(8組)の皆さんの18名です。
 当日は京都東山の「中秋の名月」を眺めることも期待しながらの集いでした。また、時間の余裕のある人は、翌28日(月)から始まるNHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデル「広岡浅子さん」に関する資料館があるということで、午前11時、肥後橋の大同生命本社ビルに集合し、2階メモリアルホールで、人物像と時代背景の知識を仕入れました。淀屋橋から京阪電車で京都へ。車窓からの眺めを楽しむより、おしゃべりの切れ間のないうちに、祇園四条に到着。
 南座前午後2時に5名が合流し、京都在住の川村君の案内で、花見小路通りを「一力亭」、「歌舞練場」を横に見ながら、海外からの観光客の間をすり抜けるようにして「建仁寺」へ。
「建仁寺」は京都最古の禅寺。「〇△□乃庭」や「〇△□」の額の前では、北村彰一先生のお名前が一斉に飛び出しました。この「〇△□」は、禅宗の四大思想「地水火風」を象徴したものと言われるものだそうです。北村先生のご冥福をみんなでお祈りしました。
 「風神雷神図屏風」、天井に描かれた「双龍図」に圧倒された後は、「六波羅蜜寺」で閻魔様に手を合わせ、「安井金毘羅宮」ではびっしりと貼りめぐらされた絵馬の多さに目を奪われました。みなさんの疲れたようすから予定より早めのティータイムとなり、その後、会場である「ロシヤ料理の店―キエフ」に入りました。
 午後5時前に所用のあった4名も到着。出席予定であった全員がそろったところで、早速、話し合いに入りました。酒井より、昨年の同窓会の後の会計報告、写真、DVDの発送、追加依頼の処理等、今までの経過報告をしました。
 次に、塩野君から今春、逝去された北村彰一先生のご様子を話してもらいました。先生からの同窓会出席のおはがきに『一期一会とかいうそうですが、市岡で会えたのは深い因縁です。限られた生命のなかで仲良く楽しくやって行きましょう』とあったのが思いだされました。北浦さんからも北村先生が初めて同窓会二次会に参加して楽しかったこと、「12期の皆さんによろしく」と北村先生から礼状が届いたことの報告がありました。
 献杯後、食事をしながら、本題の来年の同窓会に向けてのいろんな意見を自由に話し合いました。その結果、来年の同窓会の枠組みを下記のようにすること、またより具体的には来年4月の舞洲のお花見会後の幹事会で決定することになりました。
 幹事会の後、会場のビルの屋上で、見事な「中秋の名月」を鑑賞しました。
 皆さん、お身体にくれぐれもお気をつけ下さい。
- 記 -
 日 時: 平成28年10月の日曜日
 会 場: 前回と同様に「ホテルクライトン 新大阪」を予定
 費 用: 前回と同程度


思い出を綴る (10)

3組  石井 孝和

 大阪城天守にかがやく鯱(しゃちほこ)は、大阪湾の最低潮位(O.P)から約85メートルの高さにある。その高さから、ずーと北方に線を引いていくと滋賀県のびわ湖の湖面に達することは、あまり知られていないことだと思う。(滋賀県の調べで湖水面の標高は85.614メートル)
 近畿1400万人の「水がめ」といわれるびわ湖が、県土の6分の1を占める滋賀県のNHK大津放送局に転勤したのは、昭和57年(1982年)の夏のこと。前の年の夏、茨城県の霞ケ浦の水問題を企画ニュースに取り上げ、びわ湖の取材に訪れた所に転勤するとは思いもよらないことだったが、このことはわたし自身も家族も「関西に戻れて」ラッキーな気分であった。
 272億トンもの水(大阪市民が飲み水にすれば300年超分)を湛(たた)えたびわ湖では、夏になると「富栄養化」(水中の窒素やリンが増え、臭いがでる)に伴ってプランクトンが発生し、“淡水赤潮”と呼ばれる現象がみられ、その都度、現場にカメラマンと駆けつけて取材するなど、放送を通じて“びわ湖の環境悪化”に警鐘を鳴らし続けた。また周辺住民が、“石けん運動”など水の浄化を呼びかける様子なども度々放送で伝えた。
南方上空からのびわ湖。手前にJR東海道線や名神高速道路がみえます。
 昭和59年(1984年)には、湖や沼の環境問題を考える「第1回世界湖沼会議」が大津市で開かれた。国連はじめ欧米諸国、国内各地から識者や住民代表が集い、様々な意見が交わされたことを連日、ニュースで伝えた。
 この会議の最終日、大津市内の琵琶湖ホテルを会場に、皇太子ご夫妻をお招きしてレセプションが開かれた。会場には会議に出席した100人以上の人達の他にメディア記者、カメラマンも大勢参加した。立食パーティで飲み物のグラスを手にした人たちが歓談していた。その夜の会場では、カメラマンの撮影場所は指定されておらず、会場内を自由に動き回ることができた。わたしは、歓談されている皇太子殿下の後方にいて会場の様子を見渡していた。その時、NHKのアルバイト学生のライトマンがバッテリーを入れたリュックを背負い、両手にライトを握りしめて、わたしの前を駆け抜けようとしたところ彼の前にいた警護の担当者が“危ない”と声をかけ、咄嗟に彼の両肩に手をかけ押さえつけると、彼はペシャンと四つん這いなってしまった。彼はすぐにムクッと立ち上がり、警護の人にピョコンと頭を下げ、妃殿下の傍で彼の到着を待つカメラマンの後ろに行き、妃殿下の方にライトを灯した。会場では、何もなかったかの様子で、両殿下も全くこのことにお気づきではなかった。しかしそのままで済まなかったことがすぐに知らされた。レセプションが終わって大津放送局に戻ると、少し後から帰ってきたカメラマンが、「関西写真記者協会」の幹事社・朝日放送の報道カメラマンから“今夜の突然の出来事を宮内庁に報告しなくてはならないのでよろしく”といわれたと相談を受けた。
第1回世界湖沼会議の分科会の会場でリポート
 わたしは即座に“ぼくが書きます”と返答して、その場で「顛末書」と題して、便箋に宮内庁宛てとして“出来事の経緯(いきさつ)と謝罪”を書き記し、幹事社に託してもらった。この「顛末書」は、翌日には宮内庁の“出先”にあたる京都御所に届けられたと聞いたが、その後、宮内庁からは何の音沙汰もなかった。彼はその後、大手の証券会社に就職がきまった。
 それから2年後の昭和61年(1986年)7月には、史上2回目の衆参同日選挙が行われた。この選挙で関西で話題になったのは参議院議員選挙の大阪選挙区に立候補した漫才師だった西川きよしさんが、102万票を超える大量得票で初当選したことだろうか。
「選挙報道」はNHKにとっては「災害報道」に次いで重要な使命を担っている。公職選挙法に基づいて行われる選挙は、“固い法律の中でも人間社会の営みが反映しているものだ”と、取材を通して多くを知った。
西川きよしさん(ヘレンさんと)
 この衆参同日選挙で衆院滋賀全権区には、7人が立候補した。
 高校卒業時、成績表がオール1ながら東京大学に入り、通産省の役人を経て滋賀県知事を3期務め、のちに新党さきがけの代表となり、大蔵大臣も務めた武村正義氏。一方、中学中退後、15歳で「専検」(専門学校入学資格の検定試験)に合格、東京大学を卒業、大蔵省の官僚歴任後、国会議員となって防衛庁長官を務めた山下元利氏。山下氏と鎬(しのぎ)を削り、この選挙の3年後にわずか69日間というごく短命ながら首相を務めた宇野宗佑氏。このほか、連続当選を続けている社会党の野口幸一氏、共産党の瀬崎博義氏、現・衆議院副議長の民主党新人川端達夫氏、国鉄時代、びわ湖の西を走る湖西線を高架で建設することに携わった新人の川島信也氏。
 選挙戦は、これら7人の激しい争いとなった。告示日は雨だった。わたしはこの日の朝、滋賀県庁前で、カメラマンと一緒に、立候補の届出を済ませた7人の候補者が勢ぞろいするのを待ち構えていた。そこに順次、届出た名前の入った大きな選挙用のタスキを肩に候補者が集合した。めいめいの傘をさしていた。色のついた傘や黒いこうもり傘など様々だった。
候補者の揃踏み(全員が同じ傘)
滋賀県庁前
わたしは“選挙報道は中立・公正”ということ念頭に置きながら候補者一人ひとりと挨拶を交わしたあとで、“皆さん、そこで暫く待っていてくださいね”と言い残して、脱兎のごとく県庁内の売店へ走り「透明の傘」を調達。約5分後に戻って“仕切り直し”。“では皆さん傘をさし上げてくださーい”。こうして県庁前の“揃(そろい)踏(ぶ)み”は、全候補者が同じ条件の下、顔も明るく映像におさまった。
 記者の仕事はこのあとが重要。わたしは、投票日に向けて連日、選挙事務所や候補者と同じように全選挙区を回り、組織や団体の代表ら数多くの人たちと出会って取材を進め、候補者の得票を予測する“票読み”会議に臨んだ。当時は“出口調査”(投票所で投票を済ませた有権者にアンケート)というものはなかった。投票日、NHKの開票速報の放送が始まると、開票結果が出る以前に“最終的に当選間違いなし”と判定した候補者を“当確
この時の衆院選滋賀全県区開票結果
”と紹介していく。この日の“速報”で衆院選挙で全国で最初に“当確”となったのは、滋賀全県区の山下元利氏であった。東京の選挙班との打ち合わせ通りであった。山下氏には選挙事務所の控室で“当確”を待ってもらい、一部団体からのクレームを避け、目に墨を入れる前のダルマを舞台の脇に離してもらっておくことも事前にわたしが連絡しておいた。この選挙の3年前の昭和58年12月、京都から乗った湖西線の車中で、偶然出会い、秘かに“衆院解散は一週間後ですよ”とささやいてもらったのが山下氏であった。山下氏は当時、田中角栄首相の側近中の側近であった。この「特ダネ}を東京政治部へ“速報”したことは言うまでもない。

―― この時期の世の中 ――
▽昭和57年 ・テレビアニメ「機動戦士 ガンダム」爆発的ブーム ・歴史教科書「侵略」
        から「進出」にの表現で内外で問題化。
▽昭和58年 ・ロッキード事件判決公判で田中元首相に実刑判決 ・NHK朝ドラ「おしん」
        の視聴率62.9% ・劇団四季のミュージカル「キャッツ」のロングラ
        ン始まる。
▽昭和59年 ・グリコ森永脅迫事件社会的な注目集める。 ・ロス五輪山下選手金メダル
▽昭和60年 ・日本電信電話公社が「NTT」、日本専売公社が「JT」として新発足。 
       ・プロ野球阪神が日本シリーズで西武を下し、球団史上初の日本一。バース、
        掛布、真弓らが活躍。 ・日航ジャンボ機墜落
▽昭和61年 ・「男女雇用機会均等法」施行も批判高まる。 ・社会党に初の女性委員長
▽昭和62年 ・ゴッホの作品「ひまわり」が58億円で保険会社落札。 ・国鉄が分割民営化。

                             (次号に続く)

『リレー投稿』  - つれづれに -  ②

 ボウリングといえば誰でも一度はした経験があるはずだ。
 ボウリングの歴史は意外に古くて、紀元前5200年頃エジプトで子供の墳墓よりボウリングの原型とされる石製のボールとピンが発見され、これがルーツとされている。日本に最初のボウリング場がオープンしたのは、1861年のことで場所は長崎の出島である。
 我々が高校を卒業して10年後の1970年は、大阪万博が開かれた年で吹田市のあの広い会場に世界各国の展示館が立ち並び、とりわけアメリカ館はその前年にアポロ11号が持ち帰った月の石を展示していて、それを見るために連日長い行列ができていた。その同じ年にボウリング史上では、中山律子プロがテレビ中継の決勝戦で、女子プロ第一号のパーフェクトゲームを達成したのである。美人の彼女が毎日のようにテレビに登場していわゆるボウリングブームと言われた時代で、誰もが少し上手くなるとプロになろうかと冗談をいうほど手軽で身近に思える競技だった。
若い頃そんな時代にも全く興味を持たなかったのに、今年の春からボウリングを始めることになったのは、「ボウリングは怪我が少なくて、なおかつ適度な運動量がありマイペースで一人でも遊べる年寄には最適のスポーツだ」という友達の言葉についふらふらと乗せられてしまったからである。
ボウリングを始めるといってもとにかく会場を覗いたこともないので、友達と一緒に行きボール選びから持ち方、基本の動作は4歩で投げるなど色々なルールまで教えてもらってから初めての投球だった。言われたようにとりあえず投げた球が転がると思ったのにスルスルと滑って行くと、いきなりピンを7本も倒したのには自分でもびっくりする予想外のことであった。ボウリングって面白いと、料金の安い早朝や別の店の日曜夜の投げ放題に、時々通うようになったのはこの時からである。下手でもまぐれでストライクが取れるのもボウリングの良さで、スコアが100を超えたときにはヤッタ!と嬉しいし、5ゲーム終わって帰る時にはまだデパートも開いていないというのも何か朝から時間を得した感じである。通勤ラッシュ時の電車に乗るのも物忘れが多くなった脳を活性化するような気がしてくる。
先日ある新聞に“ボウリング団塊世代に人気”というタイトルで、安くて手軽に楽しめて仲間もできて健康維持になるので、この10年間で40万人もボウリングをする人が急増していると載っていた。お店のほうも来た客が長続きするようにスタンプをためると靴やボールを安く買えるようにしたり、初心者のための健康ボウリング教室(6週連続で毎回2時間半、ゲーム代,貸靴代他参加に必要な費用すべて込みで2000円)を開いて終了後は同好会を作ってくれるので、その雰囲気は本当に賑やかで楽しそうだ。
 私の行った教室は少し遠い別の店だったので同好会に入らなかったのは少し残念で、友人達にそれとなく話をしても若い頃にしたよ・・と関心がないので今でも一人遊びをしている。 上手くならなくて嫌になる時もあるからいつまで続くかわからないが、せっかく始めた事だから長く続くためには頑張るより面白いと思える程度にしとくのがいいようだ。
若い頃に色々なことを経験していればハードルも低いが、今からでも新しい事を始めるための時間だけはあるはずなのでまだまだ知らない世界を広げたいと思っている。
(玉手箱)