12期の広場
2015年10月1日
10月です。中秋の名月に窓下の虫の音、すっかりの秋ですね。昨日から部屋着も長袖、長ズボンにかえました。
上原澄子さんの今月の絵手紙は「秋の花かご」。ラインアップ用のカットとしては2回目で好評、感謝、感謝です。かごの中には秋の花が一杯。上原さんの自宅の庭には今、白と赤の萩の花が咲き乱れているそうです。
小学校の授業で「秋の七草」を習いました。でもなかなか覚えられませんでした。粗忽者の私は今でも「七草粥」の七草とごっちゃです。あらためて調べると、はぎ、ふじばかま、女郎花、葛、すすき、桔梗、なでしこの七種です。ラインアップを書くようになって、花や木について少しは関心を持つようになりましたが、この中で、私が五感(味覚と嗅覚は除いて)で感じることができるのはすすきのみです。秋の七草は山上憶良の万葉の歌にその謂れがあるそうです。古人から現代人までに愛で続けられた花々なのだと考えるとこの季節の感興もひとしお。今年はしっかりと花も名も覚えたいと思っています。
10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会が銀座「三笠会館」で開催されます。1回目が平成15年の開催で今回が7回目です。関東地方には同窓生が50名以上在住しているそうで、大阪での同窓会と重ならないようにと、隔年で開催、毎回概ね20~30名の同期生が集います。
私も過去に4回ほど参加しました。大阪の同窓会では会えなかった同期生と会えることや、全員と傍に座って話が出来ること、また大阪を離れて日本の首都圏ならではの生活ぶりを目の当たりに出来ることなど、格別な感慨がありました。今回は12期同窓会代表幹事の酒井八郎君も出席の予定で、私も同窓会の横幕を持って同行しようと考えています。
一緒に行ってみようと思われる方は是非、ご一報ください。久しぶりに『花の大東京』に行ってみませんか。
さて我が「12期の広場」今月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
今月号から『リレー投稿』を掲載します。「12期の広場」は記名投稿を原則にしてきましたが、『リレー投稿』に限っては、ニックネームによる投稿記事とします。執筆者につきましては、一定期間が経過したのちに「執筆者群」として公開したいと考えています。ニックネームが誰なのかもお楽しみの一つと考えています。

上原澄子さんの今月の絵手紙は「秋の花かご」。ラインアップ用のカットとしては2回目で好評、感謝、感謝です。かごの中には秋の花が一杯。上原さんの自宅の庭には今、白と赤の萩の花が咲き乱れているそうです。
小学校の授業で「秋の七草」を習いました。でもなかなか覚えられませんでした。粗忽者の私は今でも「七草粥」の七草とごっちゃです。あらためて調べると、はぎ、ふじばかま、女郎花、葛、すすき、桔梗、なでしこの七種です。ラインアップを書くようになって、花や木について少しは関心を持つようになりましたが、この中で、私が五感(味覚と嗅覚は除いて)で感じることができるのはすすきのみです。秋の七草は山上憶良の万葉の歌にその謂れがあるそうです。古人から現代人までに愛で続けられた花々なのだと考えるとこの季節の感興もひとしお。今年はしっかりと花も名も覚えたいと思っています。
10月31日に市岡高校東京12期会の同窓会が銀座「三笠会館」で開催されます。1回目が平成15年の開催で今回が7回目です。関東地方には同窓生が50名以上在住しているそうで、大阪での同窓会と重ならないようにと、隔年で開催、毎回概ね20~30名の同期生が集います。
私も過去に4回ほど参加しました。大阪の同窓会では会えなかった同期生と会えることや、全員と傍に座って話が出来ること、また大阪を離れて日本の首都圏ならではの生活ぶりを目の当たりに出来ることなど、格別な感慨がありました。今回は12期同窓会代表幹事の酒井八郎君も出席の予定で、私も同窓会の横幕を持って同行しようと考えています。
一緒に行ってみようと思われる方は是非、ご一報ください。久しぶりに『花の大東京』に行ってみませんか。
さて我が「12期の広場」今月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
今月号から『リレー投稿』を掲載します。「12期の広場」は記名投稿を原則にしてきましたが、『リレー投稿』に限っては、ニックネームによる投稿記事とします。執筆者につきましては、一定期間が経過したのちに「執筆者群」として公開したいと考えています。ニックネームが誰なのかもお楽しみの一つと考えています。
- HP委員 -
2015年10月1日
3組 石井 孝和
宇治通信部の次の勤務地は、NHK水戸放送局であった。小学1年生の長男と、3歳の長女、それに妻を伴って京都から新幹線で東京へ、東京上野から常磐線に乗り継いで、平坦な田園風景を眺めながら約2時間の“旅”の末、水戸駅に降り立った。昭和53年の8月だった。京都に比べて顔を撫でる風が涼しかったのが、印象的だった。
茨城県は“農業県”で、特に養豚数は全国一といわれ、「すき焼き」には豚肉を使うのがこの地方の“常識”
青物店の店先で野菜を品定めしていると、折板(へぎ)の値札に墨字で「円元豆」と書かれているのに目がとまった。関西では「いんげんまめ」と呼ばれるさや付きの豆(宇治黄檗宗・万福寺の開祖、隠元(いんげん)禅師が中国の明(みん)から持って来たことからその名が付いたようだ)宇治から各地に広がった豆の名が、この地方では「い」が「え」に変わって「円元」とあて字が使われたものとわたしが勝手に解釈した。
当時、水戸放送局はテレビの電波はもたず、東京の電波を受信していた。
赴任翌年の2月の初旬、泊り勤務の明け方に局舎の窓から雪景色がぼんやり見えた。水戸地方気象台に電話で問い合わせると“午前5時現在、水戸市の積雪量は13センチ”とのこと。わたしは正午の関東のローカルニュースに映像取材しようと梅の名所で“日本三名園”の一つ「偕楽園」に向かうことにした。
車はタクシー。3社に次々電話したが、どこも応答なく、むなしい呼びリンの音が続いた。6時すぎ、ようやくこのうちの一社「安全タクシー」と電話が通じ、出勤早々の運転手が局に車を着けてくれた。わたしは行き先を告げた後、午前7時34分水戸駅を出る列車に、撮影したフィルムを「電車便」として乗せることを運転手に伝え、運転手もうなずいた。
偕楽園に着くと、低い垣根を越えて庭園に入り、撮影を開始。3本レンズの「ベルハウエル」のカメラのシャッターを押し続け、真白な雪景色の梅林の小径を進んだ。片手に三脚を持ちながらの“移動ショット”を試みた。約3000本といわれる梅の木にはまだ花が見られなかった。長靴をはいたわたしは、辺りを走り回った末、偶然、白とピンク色のたった二輪が並んでいるのを発見。徳川斉昭(とくがわなりあき)ゆかりの建物「好文亭」(こうぶんてい)を向こうに見て、3分間の撮影を終えた。それからが大変—–。
車のドアを開けて待っていてくれた運転手が「10分ほどで駅につっからね」(着くからね)とスピードをあげて車を走らせ、何と7時30分すぎに駅に到着。しかし、34分発の列車が、先頭車両を上野方面に向けて停車していた。わたしはその時点で“間にあわない”と半分“あきらめ”の気持ちで小荷物掛に“電車便”(フイルムを入れた厚紙の袋)を預け、伝票を書き始めていると、国鉄職員の一人が矢庭に“電車便”を掴み取って「まだ間にあっぺ」という言葉を残し、小雪が舞い出した中を、線路を何本も跨ぎ、5~60メートル先のプラットホームに上がり、列車の後部に向かう姿を見届けたもののその時、時刻が7時34分を過ぎており、不安がよぎった。残った職員が「けさは大雪でダイヤに遅れがでているよ」と云ってわたしに声をかけてくれた通り、間もなく先程の職員が手ぶらでプラットホームを降りこちらに向かってきたのが見えた。
その時、わたしは放送局で朝の番組の“録画”を同僚に頼まれていたことを思い出した。「お礼は後ほどに」と伝え、待たせたタクシーに飛び乗って局に引き返してもらい、2階の放送部に駆け上がって、すかさず“録画”のスイッチON。7時45分からの番組に間に合って、約束を果たすことができた。それから間もなく、“雪”の書き原稿を東京に電話で送ったのち茨城県警察本部の記者クラブに行き、昨夜から県内で起きた交通事故などの取材にとりかかっていた。
さて“雪を冠った偕楽園の梅の花”の方は、無事、お昼の関東ローカルニュースで放送され、多くの“茶の間”に“花と雪”を届けることができた。
この時、しみじみ思った。1分余りのニュースが“茶の間”に届くまでに何と多くの人たちにお世話になったことか。タクシーの運転手を初めとして2人の国鉄職員、列車の車掌、上野駅の助役、“電車便”をNHK東京を出て持ち返るオートバイの運転手、フイルムを現像するNHKの技術職員、フイルムの編集者。一方、書き原稿は受稿者、ニュースデスク、TVのコメント担当者、アナウンサー、それに放送に携わる技術職員と続く。取材者としてこれらの多くの方々にあらためて深い感謝の気持ちをもったものだ。
茨城県では赴任早々の10月に日立市で、翌年2月末には守谷町で誘拐事件があるなど、凶悪犯罪をはじめ、選挙違反、交通死亡事故が相次ぎ、大津放送局に転勤するまでの4年間に92市町のうち、88市町で取材したことが後でわかった。選挙違反の中には、県議会議長を巡る事件もあり、10人ほどの県議が水戸地方裁判所で判決されることがあった。
高校1年生の時に北村先生に提出して先頃返却された作文「民主主義」のことは忘れていたが、日頃から考えていたことに挑んだ。 警察キャップをしていたわたしは地元「いはらき新聞」の他、各社のキャップに持ちかけ、 それまで許されていなかった「法廷内の開廷後の映像を撮らせてほしい」と水戸地方裁判所に全員が「記者クラブ」として申し出た。当初、裁判所の所長は、この申し出に「最高裁が許可していないので受けつけられません」と即刻断られたものの、次の日もまた次の日も“ねばった”結果、裁判長の裁量で“2分間の代表取材”の口約束で許可された。他社のキャップたちの協力あっての画期的な出来事であったと思う。
日本新聞協会(NHKも所属)と最高裁判所の間で「開廷直後の写真撮影」が正式に明文化されたのは、この“出来事”から6年経った昭和60年と記録されている。
——- この時期、関西では ——–
△ 昭和53年 → ・大阪府中央卸売市場開業 ・神戸市のバーなどで置かれたのが始
まりといわれる「カラオケ」ブームが始まる。
△ 昭和54年 → ・三菱銀行北畠支店で猟銃殺人、人質事件 ・近鉄バッファローズ
パリーグ初優勝
△ 昭和55年 → ・奈良東大寺大仏殿「昭和の大修理」終わる。 ・「上本町ハイハイ
タウン」開業。 ・漫才ブーム起きる。ザ・ボンチ、島田紳助、松本竜介ら。“赤信号、
みんなで渡れば怖くない”などの流行語を生みだす。
△ 昭和56年 → ・神戸ポートアイランド博覧会開催 ・京都大学の福井謙一教授に
日本人初のノーベル化学賞 ・大阪駅前第4ビル完成
△ 昭和57年 → ・第1回大阪女子マラソン開催 ・大阪造幣局で五百円硬貨発
行 ・大阪駅前横断歩道に日本初の信号待ち時間表示装置設置
(次号つづく)
2015年10月1日
カナダ在住の同窓生、山本久美子(5組 旧姓 古荘)さんが今年も里帰りされました。早速、柏木赫子さんから連絡があり、恒例の食事会を8月30日、京都で開きました。
山本さんはカナダに永住してすでに40年、オンタリオ州のトロントで元気に生活しておられます。毎年、日本に8月~9月初めの3週間ほど滞在して、日本におられるご家族や旧友と再会され、また日本の各地を旅行されておられます。
久々に12期の卒業50周年記念文集を開くと、山本さんが書かれた文章にこうありました。『毎年8月に帰国しているので、平面的で荒涼と広がった単調なカナダの風景に比べて、ひっそりと咲いている桃の花や春風にはらはらと散る桜、遠く春の霞に包まれた山々、目前に広がる菜の花畑、赤い夕日に照らされ色彩を深める紅葉、落ち葉と一緒に舞飛ぶ赤とんぼ・・・。そういった細やかでやさしい日本の風景がとても懐かしいです。』
「山本さんを囲んでの食事会」に私が参加しはじめてすでに十数回になりました。(情けない話ですが、記憶がはっきりしません。ただ今は鬼籍に入ってしまった山元君もいたのでそれくらいにはなるのでしょう)今年もつかの間の関西滞在ですので、それにふさわしい所ということで、京都になりました。
この日の京都は曇り、特有の蒸し暑さも一時ほどではなく、午後3時、京都南座前に集合して、食事会前のそぞろ歩きを楽しみました。
参加者は、女性が山本久美子さん、柏木赫子さん、古藤知代子さん、木本みつるさん、男性は川村浩一君、塩野憲次君、川副研治君、田端建機君と私、張志朗の合計9名です。
集合後、近くの八坂神社から円山公園へ。夏休み最後の日曜日、外国人観光客を含めての人並みは、あいも変わらない混雑です。しかし、公園に入るとその広さや、緑のせいもあってか思いのほか、ゆっくりできました。私は初めての円山公園です。繁華街から歩いて20分程度でこのような“別世界”があるのは、京都ならではのことかもしれないと一寸驚きました。そぞろ歩きとはいえ、名所や歴史のいわれもどこ吹く風のようで山本さんを囲んでのもっぱらのお喋りです。早々に知恩院前を通り、食事会場にいきました。
食事会場は「京新山」。前の道は石畳で傍に白川が流れ、振り向けば、鴨川です。『もっとも京都らしい雰囲気の場所』(川村浩一君の言葉)のロケーションでした。
料理は京料理にしました。部屋はお店の心遣いで、最上階の一番良い部屋。障子の向こうに四条界隈一帯と鴨川、その川沿いにずらり並んだ「床」の景色が見下ろせました。
暮れなずむ古都の風情を独り占めしている感じで、京都に決めた甲斐がありました。
乾杯後、早速料理に舌鼓、くつろいでのよもやま話に花が咲きます。話題は、齢相応に健康のことから始まり、近況や高校時代の思い出などです。今年も吉田先生の化学の実験でのマッチの擦り方の指導の話で笑いがはじけました。(記憶しておられますか。アルコールランプに火を付けるとき長手方向にマッチをすると、マッチ箱の消耗が早いので、短手方向で摩擦面を短くするべしと指導された事)
年齢でしょうか、食べる方や飲む方は往時の迫力はありませんが、お喋りだけは瞬時に高校生に戻るものですね。またすでに「老境」にあるようですから、彼我の想いは同じ、それだけに遠く離れている山本さんを囲んでの語らい、笑いがことさら大切に思えました。
午後9時前、名残を惜しみ、来年の再会を約束してお開きとしました。
柏木さんから9月5日、日本料理の食材を一杯買い求めて山本さんが無事、離日されたと教えてもらいました。 ( 張 志朗-記)
2015年10月1日
何か月ぶりに大阪市内にでかけ用事を済ませた後、時間があったので大阪駅周辺をぶらついてみた。いつもは大阪駅から地下鉄や私鉄に乗り換えることがほとんどで、自然と地下通路を利用するのだが、この日は晴れで暑さも一段落の夕方、地上に出てJR大阪駅の南側(阪神百貨店側)の歩道を歩くことにした。
大阪駅の北側は、昨年完成したグランフロントのビル群の商業施設で大阪一のにぎわいと言われている。もともとそこは大阪駅北口とよばれていた場所で、市バスの発着所や旧国鉄貨物の基地、ビルと言えば、大阪鉄道管理局とその職員宿舎だけの印象の「駅の裏口」だった所だ。
高校時代、梅田に行くと、帰りはもっぱらここから自宅までバスだった。社会人になって大阪を離れていた時の帰省時もここからのバス利用。雨降る夜、バスを待つ間の暗がりと自動車のヘッドライトの光の帯が何故か、強く記憶に残っている。JR大阪駅のホームを覆う長大スパンの大屋根に象徴される大阪ステーションシティとあいまって今の変わり様は驚くばかりで、往時の面影は全くない。
それに比べると駅の南側はいくつかの記憶をよびさましてくれる場所が残っている。阪急 東通り商店街(歌声喫茶や名曲喫茶の「モコ」や「田園」、お好み焼きの「起世」などがあった所)やお初天神通り、戦後のやみ市のなごりが長く残っていた阪神百貨店周辺なども思い出深い場所である。集客力で言うと新開発の北側に押されているようで、人の流れや賑わいも昔のそれではないようである。
古い話であるが、旧大阪駅の南正面に木造2階建ての「旭屋書店」があってしばしば通ったものである。高校時代はここで主に参考書を、社会人になってからは文庫本や仕事に関連した専門書などを買った。培風館の「数Ⅲ精義」(岩切精二 著)を学友に薦められて買って帰り、それだけで賢くなった気分になったのもここ。二十歳すぎの悩み多き時期に「人間のしるし」(モルガン)を求めて行ったが探せず、やむを得ず同年輩の女子店員に聞いた所、「宗教書ですか?」と言われて慌てた事もここ。よほどにやせ細って暗い顔つきをしていたのだろう。
木造2階建てから御堂筋に面したビルに店舗移転したあともたびたび通った。阪急梅田駅に「紀伊国屋書店」ができ、その後「ジュンク堂」など大規模書店が次々にできたのだが、本の探しやすさから言えば、御堂筋の「旭屋書店」は、ほどよい規模であったと今でも思っている。事実、「紀伊国屋書店」で探せなかった本が「旭屋書店」で簡単にみつかった経験が一度や二度ではない。
その店が閉店、ビルが壊されて工事中であったのは知っていたが、新ビルが完成、オープンしていたのには一寸驚いた。軽快な外装材を使ったガラスと鉄の近代的なビルではあるが、印象は御堂筋や大阪駅の北側に最近出来た商業ビルと同じ感じ。仮に商業地という与条件への最適解は一つとすると高さや外観などが良く似たものになるのかもしれないが、効率や商業主義の合理だけが今風かと思うと心寒い。当然の如く「旭屋書店」はなくなっており、その代わりに1階正面玄関横の一等地にコンビニエンスストアーが入っていて奇妙なほどに堂々とした風情である。
ビルの向かいが阪神百貨店である。見渡してみると改築なった阪急百貨店は天を衝く超 高層ビルで、高層建築物であつたはずの阪神百貨店がいやに低く見える。そのせいなのか、大阪駅前のランドマークの一つであるこの建物も建て替え工事が始まっているようだ。(これと関連して、戦後からある、地下道への階段横の串カツの立ち飲み屋が閉鎖され、あの独特のにおいが今はもうない。)
時とともに街は変わる、人も変わるのは当たり前なのだが、来て見て、会って見ての変わり方には、情けないほど狼狽えるばかり。
この日も仕事関係の友人と会う為に大阪市内にでてきたのだが、会食のあてがはずれた。そのわけが友人の体調不良である。つい2か月前、二人で大いに飲み、食べ、歌ったのだが、一寸した風邪から気管支炎になり、今、飲酒にドクターストップがかかっているという。お酒が生きがいのような友人は酷い落ち込みようで、並みはずれたダンディさと若々しさが消し飛んで、年相応の老人然とした風貌である。
「友は鏡」、友人の姿はとりもなおさず我がことなのであろう。
『人は覚悟と心映え』とどこかで読んだのだが、歳月とともに変わりゆく街や人、さらにそれがもっとも切実な我が身をおいて、「そは如何に」と問われているようで、何とも落ち着かないのである。
大阪駅の北側は、昨年完成したグランフロントのビル群の商業施設で大阪一のにぎわいと言われている。もともとそこは大阪駅北口とよばれていた場所で、市バスの発着所や旧国鉄貨物の基地、ビルと言えば、大阪鉄道管理局とその職員宿舎だけの印象の「駅の裏口」だった所だ。
高校時代、梅田に行くと、帰りはもっぱらここから自宅までバスだった。社会人になって大阪を離れていた時の帰省時もここからのバス利用。雨降る夜、バスを待つ間の暗がりと自動車のヘッドライトの光の帯が何故か、強く記憶に残っている。JR大阪駅のホームを覆う長大スパンの大屋根に象徴される大阪ステーションシティとあいまって今の変わり様は驚くばかりで、往時の面影は全くない。
それに比べると駅の南側はいくつかの記憶をよびさましてくれる場所が残っている。阪急 東通り商店街(歌声喫茶や名曲喫茶の「モコ」や「田園」、お好み焼きの「起世」などがあった所)やお初天神通り、戦後のやみ市のなごりが長く残っていた阪神百貨店周辺なども思い出深い場所である。集客力で言うと新開発の北側に押されているようで、人の流れや賑わいも昔のそれではないようである。
古い話であるが、旧大阪駅の南正面に木造2階建ての「旭屋書店」があってしばしば通ったものである。高校時代はここで主に参考書を、社会人になってからは文庫本や仕事に関連した専門書などを買った。培風館の「数Ⅲ精義」(岩切精二 著)を学友に薦められて買って帰り、それだけで賢くなった気分になったのもここ。二十歳すぎの悩み多き時期に「人間のしるし」(モルガン)を求めて行ったが探せず、やむを得ず同年輩の女子店員に聞いた所、「宗教書ですか?」と言われて慌てた事もここ。よほどにやせ細って暗い顔つきをしていたのだろう。
木造2階建てから御堂筋に面したビルに店舗移転したあともたびたび通った。阪急梅田駅に「紀伊国屋書店」ができ、その後「ジュンク堂」など大規模書店が次々にできたのだが、本の探しやすさから言えば、御堂筋の「旭屋書店」は、ほどよい規模であったと今でも思っている。事実、「紀伊国屋書店」で探せなかった本が「旭屋書店」で簡単にみつかった経験が一度や二度ではない。
その店が閉店、ビルが壊されて工事中であったのは知っていたが、新ビルが完成、オープンしていたのには一寸驚いた。軽快な外装材を使ったガラスと鉄の近代的なビルではあるが、印象は御堂筋や大阪駅の北側に最近出来た商業ビルと同じ感じ。仮に商業地という与条件への最適解は一つとすると高さや外観などが良く似たものになるのかもしれないが、効率や商業主義の合理だけが今風かと思うと心寒い。当然の如く「旭屋書店」はなくなっており、その代わりに1階正面玄関横の一等地にコンビニエンスストアーが入っていて奇妙なほどに堂々とした風情である。
ビルの向かいが阪神百貨店である。見渡してみると改築なった阪急百貨店は天を衝く超 高層ビルで、高層建築物であつたはずの阪神百貨店がいやに低く見える。そのせいなのか、大阪駅前のランドマークの一つであるこの建物も建て替え工事が始まっているようだ。(これと関連して、戦後からある、地下道への階段横の串カツの立ち飲み屋が閉鎖され、あの独特のにおいが今はもうない。)
時とともに街は変わる、人も変わるのは当たり前なのだが、来て見て、会って見ての変わり方には、情けないほど狼狽えるばかり。
この日も仕事関係の友人と会う為に大阪市内にでてきたのだが、会食のあてがはずれた。そのわけが友人の体調不良である。つい2か月前、二人で大いに飲み、食べ、歌ったのだが、一寸した風邪から気管支炎になり、今、飲酒にドクターストップがかかっているという。お酒が生きがいのような友人は酷い落ち込みようで、並みはずれたダンディさと若々しさが消し飛んで、年相応の老人然とした風貌である。
「友は鏡」、友人の姿はとりもなおさず我がことなのであろう。
『人は覚悟と心映え』とどこかで読んだのだが、歳月とともに変わりゆく街や人、さらにそれがもっとも切実な我が身をおいて、「そは如何に」と問われているようで、何とも落ち着かないのである。
(井の蛙)
2015年9月1日
9月です。耐え難い酷暑も何とか納まり、かなり涼しくなりました。朝夕の風にしのび込んだような冷気があったりして、一寸驚いています。やはり時候の移ろいにも「潮目」のようなものがあるようです。盆が過ぎたころから今年ははっきりとそれを感じ、皆さんと同様にほっと一息をつきました。とは言っても「潮目」のたとえに「暑さ、寒さも彼岸まで」という言葉があるように、油断はなりません。ぶりかえすかもしれない残暑や連続して発生した台風などには心しなくてはなりませんね。
今月号から「ラインアップ」のカットを上原澄子(旧姓大川)さんの絵手紙に変えます。御存じの通り、上原さんは長く絵手紙を描いておられました。是非にとお願いしました。初回にあたる今月号は「酔芙蓉」で、その手紙にこのようにありました。
「9月1,2,3日は、越中富山のおわら風の盆のお祭りです。高橋治の“風の盆恋唄”を読んで、5年程前に行ってきました。胡弓と三味線だけの静かなお祭りですが、心に残りました。酔芙蓉の花が咲いていました」
私も十年くらい前でしょうか、同窓生の8名とその奥様達、総勢14~5人で行った事があります。そのいきさつを書けば長くなりますので割愛しますが、越中八尾の小さな町をつつむ胡弓と三味線と控えめな太鼓の音、その哀愁に満ちた調べに鳥肌が立ちました。また夜遅く、それに合わせての町流しの踊りの列が続くのですが、静かにそしてたおやかに踊る男女の姿に、何故かしら、ふるえるような感動を覚えた記憶が今も鮮やかです。その想い出にまつわる花が「酔芙蓉」なのですね。上原さんの話によると(直接聞いた訳ではありませんが)花は、朝方は白色、夕方から夜にかけてピンクになるそうです。これまた趣のある話で、友人のE君は「酔芙蓉とはお酒付きの花かもしれませんね。」と書き添えて送ってくれました。
言い得ての妙があります。味わいたいと思います。
また来月号はどんな絵になるのか、楽しみが増えたようです。
さて「12期の広場」今月号のラインアップですが、次の通りです。
最初は二年ごとに開かれる市岡高校東京12期会のご案内です。大阪とは隔年の開催で、また多くの12期同窓生が集います。是非、お出かけ下さい。
石井君が暑さにも負けず、ますますの健筆をふるってくれています。感謝、感謝です。お楽しみ下さい。今月号は夏枯れのこととて2編のみ、来月号でまた頑張りますのでご容赦下さい。
今月号から「ラインアップ」のカットを上原澄子(旧姓大川)さんの絵手紙に変えます。御存じの通り、上原さんは長く絵手紙を描いておられました。是非にとお願いしました。初回にあたる今月号は「酔芙蓉」で、その手紙にこのようにありました。

私も十年くらい前でしょうか、同窓生の8名とその奥様達、総勢14~5人で行った事があります。そのいきさつを書けば長くなりますので割愛しますが、越中八尾の小さな町をつつむ胡弓と三味線と控えめな太鼓の音、その哀愁に満ちた調べに鳥肌が立ちました。また夜遅く、それに合わせての町流しの踊りの列が続くのですが、静かにそしてたおやかに踊る男女の姿に、何故かしら、ふるえるような感動を覚えた記憶が今も鮮やかです。その想い出にまつわる花が「酔芙蓉」なのですね。上原さんの話によると(直接聞いた訳ではありませんが)花は、朝方は白色、夕方から夜にかけてピンクになるそうです。これまた趣のある話で、友人のE君は「酔芙蓉とはお酒付きの花かもしれませんね。」と書き添えて送ってくれました。
言い得ての妙があります。味わいたいと思います。
また来月号はどんな絵になるのか、楽しみが増えたようです。
さて「12期の広場」今月号のラインアップですが、次の通りです。
最初は二年ごとに開かれる市岡高校東京12期会のご案内です。大阪とは隔年の開催で、また多くの12期同窓生が集います。是非、お出かけ下さい。
石井君が暑さにも負けず、ますますの健筆をふるってくれています。感謝、感謝です。お楽しみ下さい。今月号は夏枯れのこととて2編のみ、来月号でまた頑張りますのでご容赦下さい。
- 「市岡高校東京12期会」開催のご案内
- 「思い出を綴る (8)」 3組 石井 孝和
以 上
2015年9月1日
前回 第6回の「市岡高校東京12期会」開催から、早くも2年経ちました。皆さんいかがお過ごしですか。
今年の記録的な夏の暑さには正直参りました。クーラーに頼りきった毎日でしたが、何とか年寄りにも優しい 「秋」 を迎えることが出来ました。
さて、本年は第7回目の「市岡高校東京12期会」の開催年です。詳細は下記の通りですが、2年振りに真昼間からではありますが、年令を忘れ、家族の事を忘れ、思い切り騒ごうではありませんか。
どうか万障お繰り合わせの上、ご参加いただきます様ご案内申し上げます。
今年の記録的な夏の暑さには正直参りました。クーラーに頼りきった毎日でしたが、何とか年寄りにも優しい 「秋」 を迎えることが出来ました。
さて、本年は第7回目の「市岡高校東京12期会」の開催年です。詳細は下記の通りですが、2年振りに真昼間からではありますが、年令を忘れ、家族の事を忘れ、思い切り騒ごうではありませんか。
どうか万障お繰り合わせの上、ご参加いただきます様ご案内申し上げます。
平成27年9月 吉日
市岡高校東京12期会 会長 大石橋 宏次
市岡高校東京12期会 会長 大石橋 宏次
記
1.日 時 : | 平成27年10月31日(土) PM 0:30~3:00 頃まで |
---|---|
2.会 場 : | 「三笠会館本館」(中央区銀座5‐5‐17 TEL 03-3571-8181) ※地下鉄 銀座線・丸の内線・日比谷線の「銀座駅」下車 B5出口上がりすぐ ※JR山手線 有楽町駅 下車徒歩5分 |
3.会 費 : | @7、500円 程度 (酒代・通信経費を含みます。) |
4.議 事 : | 特にありませんが、完了した「荒川川歩き」の件と、次回「川歩き」の抱負について報告があります。 |
5.2次会 : | 終了後、有志による2次会(カラオケ)を予定しています。全員の参加を期待します。 |
6.出欠の返事: | 出席のご返事は 9月中に山田正敏君(8組)までお願いいたします。 関西からの参加ご希望の方は酒井八郎君(4組)にお問い合わせください。 |
2015年9月1日
3組 石井 孝和
風光明媚な山水の中に、平安時代の技巧を極めた建造物「平等院」が京都府宇治市にある。寝殿造りの阿弥陀仏堂(鳳凰堂)は、十円硬貨の表面のデザインに使われ、現在は、世界文化遺産に登録されている。
大阪万博の翌年、昭和46年(1971年)、わたしが記者として新たなスタートを切った所が、この地、宇治市にあるいわば“取材基地”の一つNHK京都放送局・宇治通信部であった。当時“人口急増地帯”と言われた京都市伏見区を含む京都府南部が受け持ち範囲だが、週に一度は、京都放送局で泊り勤務についたり、京都府警本部の記者クラブに夜勤に行ったりもした。
万博会場では、“無免許”で電気自動車を運転したが、今度はそうはいかず、広い範囲の取材には、車の運転免許証は必須条件。赴任早々、取材の合い間を縫って、宇治市内の自動車教習所に通うことにした。 教習所では、教科や実技の間には、必ず受け持ち範囲の警察署に、それぞれの管内で事件や事故が起きていないか、“警戒電話”をかける。(四六時中神経をとがらせているのが記者の仕事と云われている。)この際、教習所に設置されている“赤電話” を使うのが常識で、何か“発生もの”があれば、教習所の授業を途中で抜けて、タクシーを呼び、現場に急行、取材を終えて最寄りの警察署からこれまた“赤電話”で京都放送局へ送稿(ラジオ用のニュース原稿を読んで送ること)していた。
“赤電話”に使うのが「平等院」がデザインされた十円硬貨。仕事で“赤電話”の“お世話”になっていることを家族から伝え聞いた大阪に住む義母が、宇治の我が家を訪れるたびに、「ハイおみやげ!」と言いながら、わたしに“十円玉”をどっさり入れたずっしり重い布袋を届けてくれた。当時のわたしにとっては“十円玉”が“百円玉”以上に貴重な“玉”であった。
教習所へは、取材のために行けない日もあり、またコースの“S字カーブ”で度々脱輪するわたしの“未熟さ”、“にぶさ?”もあってか、免許証取得に制限ギリギリの半年間を費やしてしまった。
転勤当時、テレビ放送は、それまでのVHF電波からUHF電波に変わり、地方局でローカル放送が開始された。このことから通信部では記者が映像取材にも力を注いだ。
映像取材は一分間で仕上がるポラロイドカメラと、16ミリフイルムを使う「ベルハウエル」と呼ばれる3本レンズのアメリカ製のカメラを用いた。映像取材についても京都放送局のデスクから折りに触れ応援を頼まれた。
京都には来日したVIPが訪れることが、しばしばある。 昭和49年11月には、アメリカの大統領としては、初めて、フォード大統領が京都を訪問した。外務省発行の「取材証」を首にぶらさげて、京都御所で取材にあたった。「紫宸殿」前の指定されたポイントで30分前から大統領の姿を他社の取材陣10人とともに待っていると、突然、身の丈2メートルほどもある黒服姿のSP3人が現われ、わたしたち全員の体を両手でタッチ、”飛び道具”などを所持していなか、チェックし、無言で立ち去っていった。間もなく姿を見せたフォード大統領は紫宸殿の正面に立ち、笑顔を見せながら右手を挙げ、すぐさま次の政所の間に移動。わたしは、この間、ゼンマイを一杯に巻いたカメラを回し続けた。撮影時間はたったの30秒間で終了した。この日、NBCなどアメリカの放送局からリポーターを引き連れたカメラマンが担いでいたのは、ビデオテープ(VTR)の大きなカメラで、2人一組であった。 翌年の昭和50年5月にはイギリスのエリザベス女王が、やはり京都御所を訪問。今度は御所南側の丸太町通りを走る市電の線路の真ん中に唯一人、アルミ製の脚立を置き、エリザベス女王の車列を待った。車が前方から近づくところから目の前で御所の門に向かうまで。やはり30秒間の撮影であった。
更に次の年、昭和51年3月、ヨルダンのフセイン国王と美しいアリア王妃が京都を訪問された時は、桂離宮で庭園を散策されている様子を撮影した。この時はフイルムひと巻きを使い切り、3分間の撮影となった。
ところで宇治では免許証取得後、他の通信部の廃車を1万円で買い取ったのが最初の”マイカー”となったが、すぐに故障し、2台目は新車の「スズキフロンテ」、3代目は中古ながら”黄色いロールスロイス”とはいかないけれども”黄色いカローラ”(トヨタ)を買い入れた。
昭和52年の冬の日曜日、宇治市の大手企業の体育館でNHKのど自慢の公開収録が行われた。ゲスト出演は、デビュー4年目、当時25歳の石川さゆりさんが白い服装で出演、“津軽海峡冬景色”を披露した。
この収録の途中、客席の後ろにいたわたしの腰につけていた例の“ポケットベル”が鳴ったので、局のデスクに”赤電話”をかけると「おとといから宇治で行方不明になっている依子(よりこ)ちゃんが遺体で発見されたそうだ」という知らせ。早速、”黄色いカローラ”のアクセルを踏み込んで現場に急行。未舗装の狭い道を”巧みな?ハンドルさばき”で走り抜けたあと、民家の近くで左にハンドルを切った際、”ガリガリガリー!?”と大きな音。道の角に置かれた大きな石がサイドミラーに映った。車の側面をこすったようだ。かまわず現場へ。構えたベルハウエルのファインダーから依子ちゃんが遺体で発見された深さ2メートルの側溝には冷たい水が流れ、小雪のちらつく中で現場検証をする捜査員たちの姿が見られた。
幼い命を奪ったのは、おととい「行方不明になった」と宇治警察署に届け出た依子ちゃんの義理父の男であることが判明、男はその日、殺人容疑などで逮捕された。
傷ついた”黄色いカローラ”の修理代約4万円は、我が家の家計に重くのしかかってしまった。
この”黄色いカローラ”、あるときは、警察のパトカーを”追跡”するように事故現場に走らせたり、運転しながらベルハウエルを駆使して前を走る”水垂れ不法ダンプ”を撮影したり、取材で大いに活躍したが、ある日、同じ型の車に正面衝突を起こされたのをきっかけに、”一台でも車を減らして「大気汚染の防止」につなげよう”と整備工場に引き取ってもらった。
ところが、後日、通信部の「公用車」を運転していると、すぐ前を走る車が何と!”黄色いカローラ”ではないか!!ナンバーもそのまま。廃車にしたわけではなく、運転する人が変わっただけのことで、何の効果もなかったことに、わたしはガッカリ!わたしと共に働いてくれた “黄色いカローラ”に、あらためてごくろうさまと感謝の視線を送った。(つづく)
2015年8月1日

雨と言えば、7月17日、18日、台風11号がもたらした雨と風で関西地方は大混乱に陥りました。台風そのものは瀬戸内を経て岡山県に再上陸、その後日本海に抜けたのですが、関西の交通機関、特にJRは17日朝から延着や運転中止が多発し、17日の夜には京阪神の全線がほとんど運転停止、多くの駅で帰宅困難者が多数出る始末でした。筆者もそのとばっちりを受けて17日夜から18日夕方まで自宅に帰れませんでした。私鉄の各線は、ほぼ通常運転。ところがJRだけは台風一過、青空に強い日差しが照りつけた翌18日夕方まで通常運転に戻らず、広域ネットワーク運行の弱点をさらけだしました。駅の電光表示板や、運転案内自動アナウンスは18日になっても無茶苦茶、アイパッド片手の駅員の対応も要領を得ません。『神のごとく』頼り切っていたマニュアルとそれによる巨大ネットワークシステムが愚かしいほどガタガタになってしまったようで、『大は小をかねるか』、『コンピューターは万能か』などと今更ながらに言ってみたくなりました。また柄にもないことですが、こういう状況になればなるほど『人間力』がものを言うと思わずにはいられませんでした。
7月のはじめにひさびさの「暑気ばらい」。阪神野田駅の高架下の居酒屋「桜百番」で同窓生(愛想のないことに野郎のみ)7人が一杯飲みました。時折ここで集まります。多い時は参加者が、10数名、さながらのミニ同窓会です。今回は急に思い立っての集まりで、広く皆さんに連絡できなかったのですが、それでも何人かに連絡したところ、所用と体調不良があって結局7名に留まりました。皆さん立派な後期高齢者、それぞれに体調の不具合をかかえながらも元気で『人間力』にあふれた魅力で一杯です。そこに参加していたT君が後日、メールをくれ、その中に以下の歌がありました。
紅顔白皙の美少年、昔日の面影愈々遠し
時をいざなう天馬、今、眼前を去りつつあるや
その馬上、少年過ぐ、これ幻か
日差し漸く陰り、夕映えは紅に染まらんとする
願わくば、我ら老残の身に静かな帳の降りんことを
ご本人は『戯れ歌』と言っていますが、どうしてどうして、美文調の見事な歌です。ただ最後の一節だけは、まだまだ早いのではと思っています。
御存じのように、旧制中学37期の菊池清大先輩が第97回全国高校野球選手権大会大阪大会の始球式で元気に一球を投じられました。御歳、92才です。多くの人々が三本線の帽子をかぶり白球を投じる菊池先輩の姿に大きな感動と刺激をうけたことでしょう。
私も『市岡健児』に連なる者、『人間力』を鍛えて、もう一頑張りしてみようと思っています。
さて、「12期の広場」8月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
- 「東京市岡会が開催されました」 8組 榎本 進明
- 「思い出を綴る (7)」 3組 石井 孝和
- 「圓尾博一君の作品を鑑賞しました」 8組 榎本 進明
以 上
2015年8月1日
8組 榎本進明
去る7月11日(土)新宿三井ビル54Fで「東京市岡会・総会」がありました。毎年開催されていますが、出席者は年配の方が多くなっていました。しかし、今回は若い人も増えて総勢100名が集まりました。昨年の柴崎友香さん(高校44期)の芥川賞受賞の吉報や、若い幹事や理事の努力の成果と三浦宏文会長(高校8期=12期三浦孝文君の兄君)のお言葉でした。
それに先立ち、毎年恒例になっています近藤太一さん(高校15期)の「ミニツアー」に参加しました。これは東京の街をウォーキングして、珍しいところを見物・見学するものです。参加費は500円ですが、同額と思われるおみやげをいただくので、全くのボランティアで案内をしてくださっています。毎回コースが違うのでマンネリにならない良い企画だと思っています。
![]() 金属探知機で検査の後、裏庭で入場を待つ
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![]() 出口は正面から。記念写真を撮る団体さん
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今回は、国会議事堂本会議場・中央ホール・正面入り口、憲政記念館(旧陸軍省本庁跡・井伊家上屋敷跡)でした。約2時間の予定だったのですが、総会が30分前倒しの開始となったので少し忙しい見物となりました。
![]() 廊下の壁や柱は化石の宝庫と呼ばれている
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![]() 階段の手すりは10円玉と同じ成分
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このコースを選んだ趣旨は、本年が太平洋戦争終戦から70年。連合軍は長期的戦略から国会建造物への進撃を中止したので、無傷で残った貴重な建物の内部を見学するものでした。時間的に忙しかったので個人的にも見学できるため改めて来ようと思っています。
午前10時に国会議事堂前1番改札を出たところに集合でした。すでに数人いらっしゃった中にひょっとして小椋先生?と思われる方がいました。恐る恐る「小椋先生ですか?」と尋ねたところ、「そうです」。びっくりしました。55年ぶりの再会でした。お元気でした。81歳とは思えません。あの名前入り写真のDVDをいただいたお礼を述べました。その後はあまりお話をする時間がなく、ミニツアーは解散となりそれぞれ急ぎ足で会場に向かいました。
![]() 傍聴席から正面をみたところ
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![]() 憲政記念館の尾崎行雄メモリアルホール
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総会は多少開始時間を遅らせていただいていました。汗が乾く時間は十分にありました。受付の机の上に置いてある名札を見ると12期生では5名の参加となっていましたが、結果的には3名でした。お互いに日にちを間違える年齢になったことなのでしょう。
![]() 司会に琵琶の弾き語りに大忙しの多田智美さん(高校44期)
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![]() 仙台から初めて参加の長谷川啓三さん(高校21期)東北大学大学院教授。
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持病の腰痛が午前中のウォーキングで発症。別室での休憩が多くなり、時々会場に行くのを繰り返したので、一部始終はわからず頼りない報告です。でも活気ある雰囲気はわかりました。
解散後は駅ビルの喫茶店で泉君と談笑して岐路につきました。翌・日曜日に財布の無いことに気が付きました。どこかに落としたか、店に置き忘れたか不明です。店の名前もわかりませんので泉君に助けを求めました。1時間もしないうちに彼から店名と電話番号を教えていただきました。電話をするとよく似た財布を預かっているとのこと。13日(月)取りに行きました。確かに私の財布でした。中身も異常なしです。謝辞を言って銀座へ向かいました。もちろん圓尾君の作品展に出席のためです。
以上、頼りない総会出席のレポートになってしまいました。申し訳ありませんでした。
2015年8月1日
3組 石井 孝和
「貴社」の「記者」が「汽車」で「帰社」したという言葉で例えられるように同音異義語は枚挙にいとまがない。
報道部の部屋には一冊の大学ノートが置かれていた。ニュース原稿を電話で受けたのちに他の人が、間違った文字を見つけては、この大学ノートに書きうつしていた。そしてその横には赤い文字でコメントが加わっていた。その中の一つにこんなのがあった。
“暴力団〇〇組準更生員が・・・”正しくは、“暴力団〇〇組準構成員が・・・”で、その脇に“一日も早く暴力団から離れ更生してほしい”と赤字で記されていた。ラジオではアナウンサーの話し言葉では間違いが分からないが、テレビでこんな文字が出てしまったら大変なことになる。あらためてラジオに加え、テレビ時代到来を意識する日々であった。
“内勤”の仕事は、原稿を受ける他は、先に書いたように“天気予報”、“株式市況”もあるが、NHKの役割として大切な“災害報道”、“選挙報道”などがあり、それらも“内勤”の仕事に属している。ニュースの重要度が上がれば上がる程、わかりやすい言葉や文字の使用にこまやかに神経を使わなければならないわけで、今でもあの大学ノートのことが懐かしく思い出される。
ことしは高校野球百年の年。市岡高校が旧制中学時代から「名門」「古豪」とならした時代が続いたが、わたしたちが甲子園球場で取材していた時期には、残念ながら我が母校のチームを紹介することはなかった。
夏は暑く、春は寒いネット裏での仕事は、スタンド下の格納庫に運び込んだテレタイプを通じて全国に原稿を送った。
甲子園球場での仕事は、芦屋の竹園旅館を宿舎にしていた。この旅館は、当時、読売ジャイアンツの定宿になっていた。もちろん高校野球期間中はお休み。夏の大会のある日の夕食時に宿の主人が「皆さん、長嶋選手はうちのビフテキを二枚食べました。挑戦してみてください」と食べ放題を宣言したのです。肉は「神戸牛」のしもふり。全国から取材応援にかけつけていた10人余りの記者、カメラマン、アナウンサーたちが、日焼けした顔を見合わせながら「よっしゃー」と出てきたビフテキをパクついたことがある。結果は、二枚達成はただ一人。わたしは一枚も満足に食べられず残してしまったもったいない話。このビフテキは目方が一枚250グラムほどあったと記憶する。
25歳になった昭和42年、遅ればせながら“後輩のお手本に”との思いで大阪住吉区の関西外国語短期大学の夜間に通い、英米語を学んだ。けれども英語はしゃべれない。
30歳になる直前、大阪天満の天神さんで結婚式を挙げ、新婚旅行は7組の新田隆三君が、福島県に行くことをすすめてくれて、スケジュール一を組むなど大変お世話になった。お蔭さまで、紅葉と雪景色の東北地方を満喫させてもらう貴重な思い出となった。
ことしはイタリアのミラノで食の万博』が開催されているが、昭和45年(1970年)大阪万博が竹やぶを切り開いた大阪・吹田市の会場で開かれた。(3月~9月)
会場には世界各国の展示場(パビリオン)が建ち並び、少し離れた所にNHKや新聞各社が取材基地とする「プレスセンター」が設けられた。
万博開催直前、わたしは、当時の電電公社が貸し出しを始めた「ポケットベル」のことが頭に浮かび、全国から応援に来る記者に会場で持ってもらうことにした。それは会場に取材に行った記者にプレスセンターにいるデスクから緊急時に連絡するためだが、わたしの思いは、“記者が取材を終えて原稿を送ったのち、ポケットベルを持っているので、会場内で事件や事故が発生した場合、デスクから知らせが入るため安心してゆっくりパビリオンで見物が楽しめるように”ということであった。記者たちに好評であった。
期間中、会場内で使う「電気自動車」が各社に貸し出された。この「電気自動車」は丸いハンドルの横に付けられたスイッチで、前・後・OFFを操作し、動かす時にアクセルを踏むだけの極簡易なものだった。スピードは。最速で時速5キロ(下り坂の所で15キロ)に制御されていた。
わたしは、丸いハンドルを握るのは、子どもの頃、阪急百貨店の屋上でゴーカートに乗って以来のことだった。当番で万博会場に出勤すると、会場北端のバッテリー充電の基地に車を借りに行き、プレスセンターまで運び、夕方5時すぎに、また元に戻すのも仕事の一つであった。会場内での運転なので、運転免許証は必要としなかった。 この車を運転するのもその日の楽しみのひとつであったが、ある日、駐車場から出ようと気ぜわしく思っていたところ、スイッチの前進と後進を間違って入れてしまい、アクセルを踏んで“ドーン”と後の側壁にぶつけ、車を破損させてしまい、充電所に謝りに行ったことがある。(会場の広さ約330万㎡-甲子園球場80数個)
日本万国博覧会運営本部によると、日本を含め77か国が参加し、183日間の会期中に入場した人は6400万人余り、一日平均約35万人にのぼったという。(当時「町」が「市」に昇格する条件に「人口3万人」以上が含まれていた)
万博が終わって、ポケットベルを返却することになったが、警察や経済の担当記者には引継いで持ってもらうことになった。
ある日の夕方、ニュース部屋に上がってきた記者が「預かったポケットベルを返します」とデスクに差し出すのを見たので、傍に近づき、事情を尋ねたところ、記者は口早やに「日銀大阪支店の記者会見中に“ピーピーピー”とポケットベルがけたたましく鳴ったため、他社の記者たちが“何や何や”と騒ぎ出したので慌ててスイッチを切ったけれどはずかしい思いをした」と言うのである。
この記者は竹園旅館でビーフステーキ二枚たいらげた人物であった。
他社に先んじてポケットベルを採用したことにまつわるこの思わぬ出来事に、わたしは少なからず驚かされた。(つづく)
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