12期の広場
2013年11月1日
私の生まれたのは1931年(昭和6年)所謂満州事件の起こった年であり以後中断はあったが15年間中国で戦争状態があった。
中学二年までの生活に大きく影響した。戦線は優勢だったが長引き物資は窮乏していった。打開のため米国等と新しい戦争となった。
初めは予想に反して勝利が続きあわよくばと思ったが、半年後より逆転が始まった。
国民学校六年になるとアッツ島などで玉砕のニュースが相次ぎ心中悲しんだ。日本軍は降伏は許されず最後まで戦うのが当然とされた。各地で補給が断たれ、悲劇が起ったことは後で知った。
中学では軍隊に準じた教育が行われた。校長の独断で全員が国民兵役に志願したと告げられた。同じ中学生が沖縄に於いて取った行動を見ればもし樺太(私の生地)に米軍が上陸してきたら同じ状況が生まれていたのは確実である。
しかし黙殺したはずのポッダム宣言を受諾することが14日までに決まっていた。2回の原爆の投下、ソ連の参戦が民族の絶滅をもたらすと懸念した為政者が宣言を受諾しても国体の変更はないと判断したためである。一億玉砕を叫び国民はそう思いこまされ、本土決戦を覚悟していたので全く驚いた。このようなことが出来るのか。これまでの犠牲者に申し訳ない気持ちと助かったという安心の気持ちが忘れられない。
ドイツと異なり日本政府は残った。出来たら全てもとのままにしたいと決意したようだ。
10月農地改革、婦人参政権等の指令が出て、米国の政策に賛意を表す日本人も出てきた。日本国憲法は占領軍の押しつけであるから自主憲法をと言う人がいる。しかし文章はともかく内容は第九条をはじめ当時の国民の気持ちを代弁していて、明治憲法の改正手続きをふんで天皇の裁可を得ている。
「東京裁判」は宣言の結果行われたが、判決について、後いろいろ批判がでている。しかし戦争の総括、日本人による戦争の責任検証はされていない。すべてを水に流す無責任体制は日本人の特色であろう。
昭和30年頃まで私は上京時いつも靖国神社に参拝し犠牲者に哀悼の気持ちを表してきた。しかし現在はする、しないが政治的に判断されそうで困っている。
もう一つ驚かされたのはソ連の崩壊だった。理想の国と思う人もいたがスターリンの行動などで非情な独裁国家に過ぎないと判っている人は多かった。それでも米国等に対抗して社会主義勢力の本家であり冷たい戦争の中心であり次善の希望を託する人もいた。私の卒業大学でもマルキシズム全盛だった。ソ連では幼児期、少年期、青年期と政治教育は完璧と思われていた。ゴルバチョフの出現により秘密暴露が進み米国との軍備拡張が経済を破綻させ遂にソ連は解体する。共産党は唯一の政党の地位を失いロシアの現在は如何になっているか。石油などにより成金も台頭し資本主義国と同じようだ。衛星国はあるいは瓦解し指導者は処刑や追放された。ベルリンの壁が崩壊し私は生徒より現物をプレゼントされた。領土人口は縮小したがロシアは中国と共に世界の警察として振る舞う米国に依然として抑制力を発揮している。
HP委員から:
ご多用のところ原稿依頼を快諾いただきまたご寄稿頂きましたこと、感謝いたします。原稿を拝見して先生が12期の私達よりほぼ一回り上であることを知りました。いわゆる戦前のお生まれ、多感な時期を戦時中に過ごされ、また激動の時代に生きてこられたのですね。はや一世紀に近い長い人生で経験されたことやそれにまつわる感慨や如何にと文中より拝察いたしました。
これからもお体大切に、お元気にお過ごしになられること心より祈念いたします。
2013年11月1日

小さい時から絵を見ることも、描くことも好きでした。
中でも比較的多く描いたのが仏像です。年賀状にカットとして使ったりしましたが曼陀羅状にしたケースを紹介します。
約1年かけて仏画を模写、墨絵ですので慎重かつ一気に描きます。写仏は下絵をなぞりますが、模写は真似することで別物です。
描き上ったものが150枚ほどたまりましたので、”曼陀羅”を気取ってこれらを配置、巻物風の作品に仕上げました。
HP委員コメント:
作品は中央に大日如来二体を配した、横幅90cm、縦長さ250cmの寸法の大作です。写真に撮りましたが細部まではご覧になれないと思いますので幾つかをスキャンして掲載いたします。拡大してお楽しみ下さい。(下の絵の中央をクリックすると拡大出来ます。)
2013年11月1日
暑い夏の夜に 涼しげに鳴っていた風鈴
今では色もあせ その音色は秋の空に
さびしさをさそっているようだ
あの白い雲に 呼びかけているようだ
ちりちりと 忘れられた風鈴が鳴っている
- 作者 不詳 -

立ち並ぶ貨車の群が驚いて ちょっと 顔を上げた
荒い息づかいで 機関車が通り過ぎた
賑やかなスキ-列車を引いて・・・
青いシグナルが震えて立っていた
ホ-ムのにぶいはだか電球の下に 三つのベンチが体を寄せ合っていた
駅の名もぼんやり見えた 「 かしわざき 」・・・・・・・
「 ボ- ッ 」と 一人ぼっちの機関車の遠吠え
悲しい響きが雪の夜空に流れた 停車場全体が静かに移動を始めた
- 作者 不詳 -

2013年10月1日
ようやくの秋と言うのが実感です。酷暑や豪雨、突風に竜巻、加えて早々と台風の被害に見舞われるなど、「天候狂乱」とも言える晩夏をくぐり抜けてきただけに、先の中秋の名月、その煌々とした月明かりと虫の音に身も心も洗われるばかりでした。
実りの秋、紅葉の秋、スポ-ツの秋、食欲の秋、行楽の秋、読書の秋など、秋に冠する言葉は実に多種多様です。ビル群に切り取られた狭い都会の空さえこの時節は一層高く、すっきり澄みわたり、雲もバラエティ豊か。少し冷気を含んだ風が心地良く、雑踏の中でもなんとはなく気持ちが落ち着きます。タラタラ、イライラ、カリカリ、バタバタ、グズグズ、フラフラ、挙げ句に果てにただぐったりしていたことが嘘のよう。
近所の小学校から運動会の練習の元気一杯のかけ声や歓声が聞こえてきます。運動会や文化祭の季節なのですね。久しぶりに母校の100周年記念誌を取り出しました。
昭和34年、私達が3年生の頃ですが、9月27日(日曜日)の運動会が台風15号の接近で29日(火曜日)に延期されています。29日、運動会(9時から5時30分)フォークダンス、ファイヤーストーム(午後7時30分終了)とあります。思い出がゆっくりと甦ります。クラス対抗綱引き大会(私のクラス全員が柔道着姿で見事、優勝)、仮装行列、ファイヤーストームとフォークダンスはしっかり覚えていますが、鈍足の私は徒競走が苦手であった為でしよう、そのその他の記憶がほとんどありません。その鈍足は今も変わらないばかりか、人並みの運動神経も衰える一方で、最近は脳の「運動神経」さえ心もとない始末です。
10月4日が「文化祭」、10月20日午後2時から「映写会」(「鉄路のたたかい」「愛情の翼」)10月28日は「一日遠足」(3年生奈良方面、嵯峨方面)とあります。秋らしい行事が集中して続いていたようですが、11月5、6日は実力考査(国語、英語、社会、理科、数学)で、楽しい行事の後にちゃんとおそろしい試験が待っていた訳です。
思い出も途端に少々ほろ苦くなります。
さて、今月号のラインアップです。お楽しみ下さい。
- 第6回「市岡高校東京12期会」のご案内 6組 大石橋 宏次
- 「古荘さんの里帰り」 8組 川副 研治
- 「法格言にみるイギリス法の精神 3(下)」 3組 松村 勝二郎
2013年10月1日
会長 大石橋 宏次
9月も半ばに入り、やっと、やっと身体に優しい秋らしくなりました。皆さんいかがお過ごしですか。
それにしても今年の猛暑には、まことに参りました。電気代がいくら掛かろうと朝、昼、夜、ただ、ただ、クーラーに頼るのみの毎日でした。 この異常な気候はたまたま今年だけの現象ではなく、人類が吐き出したCO2、放射能、ゴミ等々により、地球の環境が徐々に、大きく変化しつつあるのがその原因かも知れません。
何はともあれ、我々全員、世間的には間違いなく老人です。気持ちは若く、久しぶりに歳を忘れ、又、猛暑や家族を忘れ、真昼間からではありますが、ワイワイ、がやがや、やろうじゃありませんか。
この案内状作成中の9月8日早朝、2,020年のオリンピック開催地が東京に決定 !! 7年後。人生2度目のオリンピック。素直に嬉しく思います。
と、云う様な訳で、下記のとおり 第6回目の「市岡高校東京12期会」を開催致したく、ご案内申し上げます。・・・・・残り少ない人生です。どうか万障お繰り合わせの上、ご参加いただきますようご案内申し上げます。
記
1.日 時 : | 平成25年11月16日(土) PM 1:00 ~ 3:00 頃 |
---|---|
2.会 場 : | 「三笠会館本館」(中央区銀座5‐5‐17 TEL 03-3571-8181) ※地下鉄 銀座線・丸の内線・日比谷線の「銀座駅」下車 B5出口上がりすぐ ※JR山手線 有楽町駅 下車徒歩5分 |
3.会 費 : | @7,000円 ( 酒代・通信経費を含みます。余剰金は2次会の補填に使います。) |
4.議 事 : | 特になし。 |
5.その他 : | 食事歓談の中で、新しく始まった「荒川・川上り」の報告があります。 |
6.2次会 : | 終了後、有志による2次会(カラオケ)を予定しています。 全員の参加を期待します。 |
7.出欠の返事: | 出欠のご返事は10月20日(日)迄に下記にお願いします。 ハガキ、TEL、FAX、携帯メール、電子メールいずれでも結構です。 |
毎回関西在住の同窓生複数名が「東京12期会」に参加しています。今回もその予定ですが、初めての方でも大歓迎。参加希望を連絡いただけましたらご案内いたします。
2013年10月1日
今年の夏は、記録的な猛暑で我々高齢者は熱中症の心配にさらされたかと思うと、一変して豪雨と竜巻で、日本列島に甚大な被害をもたらしました。
猛暑も峠を越した9月2日、この「12期の広場」でもたびたびアップされ、恒例になっている「古荘さんを囲む会」(在カナダ38年の古荘さんの一時帰国を機に開いている食事会)に今年もお声を掛けていただきました。今年は趣向を変えて、会場を京都にしようということになり、京都在住の川村君のお世話で山荘料理貴船「ふじや」で「納涼川床」(鴨川では「ゆか」、貴船、高雄では「かわどこ」と読むのが一般的だそうです)を楽しむ計画でした。
残念ながら、当日は生憎の雨模様、足早に、貴船神社へのお参りを済ませ、「川床」はあきらめて御座敷に上がり「懐石料理を頂くことになりました。
帰り際に頂いた団扇(うちわ)に 「瀬の音に 話とられて 川床 すゞし」…泊月と、一句したためてありましたが、瀬の音に、話とられることなく、部屋の中でゆっくりと歓談できました。この一句、もとは、どこぞの酔客が落書きして帰ったもんやろぅと思っていましたが、オッとどっこい、兵庫県生(明治15年)で旧姓西山伯月と言い早稲田大学前身の東京専門学校卒で高濱虚子に師事した高名な俳人でした。
「ふじや」は貴船川に初めて床几(縁台)を置き、いわゆる元祖「貴船の川床」で、川端康成も訪れたという老舗でしたので、泊月先生の俳句の件が成る程と、うなずけました。
話が少し脱線しましたが、宴もたけなわになった頃、高校時代の「合唱コンクール」に話題が移るや、後藤さんと勝原さんのお二人が立ち上がり、当時の課題曲の合唱が始まりました。…大変お上手でしたよ。
初めて聞くびっくりした話(小生が知らぬだけかも…)に「修学旅行時の飲酒」事件があったそうです。今の時代ならば大きな問題になりそうですが、もう時効ですよね。事の顛末はというと、2年生の修学旅行時、自由時間に渡邊先生(通称ギャング)が部活の柔道部員の有段者を中心とした連中を部屋に集め、ウイスキーを振舞ったということですが、先生の真意は、彼らが夜の街へ繰り出し、問題を起こされては困るという親心からの、一種の「監禁」だったことを知り安堵しました。
古荘さんは、帰国にあたり、日本の今夏は酷暑との情報を得、熱中症の心配をしながらの帰国だったそうです。「来年の夏もまた元気なお顔を見せて下さいね」という言葉を残し無事散会いたしました。来年の夏も、地球温暖化の傾向が続く限り、また猛暑になるでしょうが、この暑い季節になると「古荘さんを囲む会」を思い出し、次回またお誘いがあったら出掛けようと思います。
当日の出席者(敬称略順不同)
古荘、後藤、勝原、高田、古藤(いずれも旧姓)…5名
川村、張、末廣、別宮、塩野、川副…6名
2013年10月1日
4 陪審問題あれこれ
(1)イギリスとアメリカ
陪審は、地方住民の中から無作為で選ばれ、宣誓したのち事件の審理に関与するか、刑事事件について正式起訴の決定をするか、する(前者を判決陪審ないし審理陪審、後者を起訴陪審という)。そしてこれらとは別に、不審な死者について裁判手続をするか否かを決定するコロナー(検屍官)の陪審がある。
陪審は、12世紀後半から13世紀にかけて、民事・刑事の双方において、〈事実を知る人々〉として、同じ地域の人々の証言が証明方法として採用されたのに始まる。盛んに行なわれるようになるにつれて、その役割も見直され、証明から審理に参加して〈事実問題〉を判定するという方向へ変化してきている(from proof to trial)。しかし、イギリスではマグナ・カルタ39条(1215)に由来するものであろうか、〈人はその同輩によって裁判されるべし〉との憲法的法原則を形の上だけでも維持することが徐々に困難になるとともに、陪審の付和雷同性や腐敗堕落も指摘され、時代が進むに連れて、イギリスでは徐々に利用の低下を示して、現在に至っている。すなわち、刑事起訴陪審は1933年に廃止され、起訴するかどうかの決定は治安判事裁判所の予備審問に委ねられた。また、刑事事件については正式起訴された事件だけに、陪審が行われ(それも一部は強制的に陪審へと進むが一部は被告の同意で陪審へと進む)、民事事件についても契約違反や不法行為を理由とする損害賠償事件で当事者が請求したものに限られている。
他方、アメリカ合衆国では、刑事の起訴陪審(大陪審)と判決陪審(小陪審)ともに、必ず行なわれるし、民事陪審も盛んに行われている。その法的根拠は憲法の規定によるものであるが、同時に、独立期の職業法曹の不均質が法曹不信を招き、〈素人の判断〉を重視した点もたしかにある、と私は考えている。
(2)陪審の短所
陪審はコモン・ローにおいて発達した訴訟手続である。重要な刑事事件と当事者が陪審に付すことを要求する一部の民事事件において、行なわれている。契約の特定履行や違法行為の差止命令を求める訴えなど、エクイティ法上の手続では行われない。以下では、重要な刑事事件を想定して考える。
さて、陪審には、訴訟の費用や時間といった訴訟経済上の問題、さらに、イギリスでは一般に陪審を選択すると刑の幅が広くなるという傾向がある(結果的に刑が重くなるという恐れがある。)。これに加えて、陪審の短所ないし弱点として、次のような点が指摘されている(指摘は、主としてウィリアムズ『イギリス刑事裁判の研究』学陽書房による)。
- 偶然に選任された集団である。
- 陪審は、法廷において証言・証拠を精査した経験がない。
- 法廷という環境と法廷で使用される言葉に慣れていない。
- 感情に流された判断をしやすい(弁護人の弁論や裁判官の意のままにコントロールされやすい)。
- 陪審は名誉ある仕事ではない。
- 経済的損失をもたらす(その損失は、僅かな陪審手当ではほとんど補償されない)
- 公判を長引かせる。等々である。
(3)陪審支持論
陪審を信頼し、陪審を熱烈に支持する見解は、有力弁護士・裁判官に以外に、否、圧倒的に多い。陪審は、提示された証言・証拠と裁判官の説示に基づいて真の評決を行っている、とみるのである。これは、かれらが陪審制の下における成功者であるからかもしれない。
陪審制には、一般に、次のような長所が指摘される。
- 善良な人々による神聖な評決が期待できる。
- 国民の司法への参加が可能になる。
- 老若男女さまざまな人々から構成されている(裁判官は、多くの場合、高齢男性である)。
- 裁判官の仕事が軽減される(裁判官はアンパイアの仕事に専念できる)。
以上において、陪審の長所と短所を通覧してみた。結果として言えることは、陪審の抱える問題とは、〈陪審は証言を含む証拠にもとづいて真の評決を行いうるのか〉である。特に、自分が裁判に付されたとき、〈その陪審に、自分の有罪・無罪の決定を託せるか〉である。近年、イギリスなどで問題になっている、少数民族出身の被告が多数民族からなる陪審の構成に異議を申立てる背景には、つねに、裁判の原点の問題―その陪審が、証拠のみにもとづいて判決を下しているか、の問題が存在するといえよう。
なお本稿では、紙面の関係で、陪審に適しない事件や専門参審員といった陪審に代わるか補助する法制については、言及しなかった。
5 陪審員からみた裁判員―まとめに代えて
以上に述べた陪審(あるいは陪審員)についての議論を要約し、我が国の裁判員と比較してみよう。
〈両法制の簡単な比較〉陪審員 | 裁判員 | |
a 無差別に選ばれた人々である | ○ | ○ |
b 個性のない人々である | ○ | ?(1) |
c その事件かぎりの決定を下す | ○ | ○ |
d 自分たちだけで別室で判定する | ○ | ×(2) |
e 判断の理由を決して語らない | ○ | ×(2) |
f 事実問題だけしか判定しない | ○ | ×(3) |
(1)イギリス(イングランド)の陪審員は、個性のない人々(無個性)である。全員が、名前ではなく番号で呼ばれる。陪審長(foreman)は陪審員の1番である。
裁判員はどうか。無個性であるはずであるが、新聞やテレビで見る限り、匿名を理由にインタビューを受けたり、ある事件の担当裁判員全員で記者会見などしたりして、意見を表明している。悪を見たことのない人々の集団であるとも言える。
(2)イギリス(イングランド)の陪審は、決して判断理由を語らない。それゆえに、往時において、神判、すなわち、自然神の判断にもたとえられた。神判なる証明方法の代わりに導入されたという歴史的理由もあろうが、判断理由を語らないことは素人の法的判断に相応しい。聞くところでは、我が裁判員に似た法制に、ドイツの参審員制があり、これは審理において職業裁判官と同席して共同して判決を下す。ただし、参審員はなりたい旨希望し、許された者だけが就任するという。言い換えると、参審員としての資格がある程度考えられているということであろう。
自分たちだけ別室で協議し、評決を下す陪審制は、市民の司法への参加と言う利点とともに、裁判官の負担を軽くする利点がある。陪審が有罪か否かを決定し、裁判官は、刑事事件では量刑の問題だけを考えればよいからである。
裁判員制は、これと大きく異なる。裁判官は、一方で法廷の秩序維持・事件の進展を考えつつ、他方で法に不慣れな裁判員を指導して判決へと導き、しかもともに量刑まで考えねばならない。裁判員裁判における裁判官は、まさにスーパーマンさながらの活躍を期待されているのである。精神病を発症しないよう祈るのみである。
(3)事実問題と法律問題を分けたことは、イギリス法の法の叡智を示すものである、と私は考えている。法律問題と称する枠組みをこしらえて、〈陪審は法律問題に答えず〉とばかりに陪審を閉め出したことにより、ある種の法律問題の、あるいは一回かぎりではなく後続事件に関係する法律判断の、決定を職業法曹にとり込むことは、一面では責任の自覚を促したでもあろうが、それとは別にもっと重要なことは、職業法曹、特に裁判官にとって法の理論的考察が深められるという側面があろうかと思う。どのような問題にも〈市民目線〉と称する素人の議論が侵入してくる可能性のある、裁判員制と冷静に比較されたい。
ベイカー氏は、中世陪審において確立したと思われる法格言〈裁判官は事実問題に答えず、陪審は法律問題に答えず〉を持する法制が〈イングランドの実定法[実体法と訴訟法]を念入りなものにするのに役立った〉、と述べている(『法制史第4版』76頁)。深く味わうべき一言である。
主要参考文献
守屋善輝『英米法諺』1973年、日本比較法研究所。(『守屋』と引用・言及する)
小山貞夫『英米法律語辞典』2011年、研究社。(『小山』と引用・言及する)
これ以外のものは、必要に応じて言及する。
なお、英米法格言と言いながら、ラテン語表記のものが多い。それらについては、『小山』「序」に掲げる英米法の辞典類を、またラテン語表記の法格言の日本語訳については『小山』の該当項目か、『守屋』法諺索引から原文の日本語訳をご覧下さい。
2013年9月1日
正確には一般的な「分水嶺」ではなく、日本列島に降る雨を日本海側と太平洋側に分ける背骨部、つまり中央分水界で、それが平地に現れたものを特に谷中分水界と言うそうです。石生の谷中分水界は本州ではもっとも低いもので、その海抜は分水橋地点で101mです。
しばらく水分橋のたもとに立ち止まりましたが、どう見渡しても分水界の南北は平らな盆地、勾配がある地点とは思えません。またこの分水界が東に行っても西にいっても日本の脊梁山地(分水嶺)に連なるとはとても想像できませんでした。
石生の谷中分水界は高谷川の右岸の自然堤防に沿って東西に長さ1.25kmにわたって続いています。東は「水分れ公園」付近で山から氷上盆地に降り、海抜95.45mまで下がりながら水分橋、石生踏切付近を経て、城山の稜線をまた登って行きます。そして石生付近の盆地を南北に分け、その北側に降る雨は黒井川から由良川を経て日本海に、南側にふる雨は柏原川から加古川を経て瀬戸内海に注ぐそうです。
高谷川沿いに大和屋という立派な老舗料理旅館があるのですが、その屋根をつたう雨水は、屋根勾配によって日本海、瀬戸内海へと水分かれするのです。もっと驚いたことは、もし海面が100m程度上昇したとすれば、このあたりに若狭湾と瀬戸内海を結ぶ海峡が出現し、本州を二分することになることです。どのようにしてこの地域に分水界ができたのか、またそれは自然界や人々の生活にどのような影響を及ぼしたのかなど、自然の神秘と人々の営みへの興味は尽きません。
「水分れ公園」で豊かで美しい水の姿を堪能し、すぐ側の「丹波市立水分れ資料館」を見学しました。
夕暮れがせまり、川魚が群れる高谷川のせせらぎを眺めながらのんびりと石生駅に向かいました。1時間に1本の大阪行き普通列車に乗る頃には暑さも幾分やわらぎ、分水界である石生踏切付近を越えると列車は確かに長くて緩やかな下り勾配を進みます。すべるように軽やかな列車の加速が殊更、心地よく感じた一日でした。
さて今月号のラインアップです。今月号は記事が一つです。お楽しみ下さい。
- 「法格言にみるイギリス法の精神 3 (上)」 3組 松村 勝二郎
2013年9月1日
(Judges do not answer questions of fact, jurors do not answer questions of law. )
いつ頃できた法格言であるか、不詳であるが、〈裁判官が、事実問題に答えないのと、まったく同様に、陪審は、法律問題には答えない。〉という法格言が、クック『リトゥルトンの不動産保有条件論注釈』(1628)に出ているというから(『守屋』224頁)、陪審制が確立し十分に機能していた時代の法格言であることが窺われる。私は、この法格言は職業法曹に宛てたもの、否、その候補生である法学生に宛てたものであろう、と推定している。格言自体には、なんのむつかしさもないからである。そして教師も法学生も、主たる関心はその内容に、法律問題とはなにか、事実問題とはなにか、どのように区別するのか、それはなぜかといった点にあったことと思われる。
しかし、この問題に入る前に、英国の陪審とは〈似て非なる〉、我が国の裁判員に関係するある日の新聞記事を見ておこう。なぜなら、我が国の裁判員は〈法律問題にも答え、事実問題にも答える〉からである。
1 ある日の新聞記事から(2013.6.20 朝日夕刊)
東京高裁〈裁判員の死刑判決 破棄〉強盗殺人[を]無期懲役に
上記見出しに続く〈事実の概要〉は次のとおり。「東京都港区のマンションで飲食店経営の男性を殺害したとして、強盗殺人罪などに問われたY被告に対し、東京高裁は20日、一審・東京地裁の裁判員裁判の死刑判決を破棄し、無期懲役とする判決を言い渡した。A裁判長は「一審判決は、2人を殺害した[被告の]前科を重視しすぎている」と指摘した。裁判員裁判による死刑判決は19件あるが、二審で覆るのは初めて。」
以上の事実の概要に続いて記された記事について、陪審制を考えるうえで、私は次の点に関心を持った。
(1)控訴したのは誰か(被告と推定されるが、記事中に明記なし)。
陪審裁判において、英法では、控訴できるのは被告だけである。訴追側は、警察という巨大な捜査能力を持ち、国費つまり国民の税金を自由に使えるから、たとえ訴追側の不十分な立証によって無罪判決が言い渡されても、被告を拘束してはならないという人権上の配慮であろう。しかし、同時にそれは、イギリス法に存在する〈裁判は一回で完結すべし〉とする、裁判の一回性の要請が、特に陪審裁判を重視する伝統と深く結びついたものでもあろう。正しい裁判には上訴や再審は不要とみなすのである(ただし、裁判所による法令解釈・判例解釈の誤りについてだけは、検察側も上訴できる)。
(2)記事中に、一審の裁判員であった人へのインタビュー記事が、匿名ででている。
「本当ですか」[死刑が無期懲役に変えられたことに驚いている。]
Y被告の一審で裁判員を務めたある女性は、驚きを隠せない。そしてこう述べている。
「あれほど考え抜いた結論だったのに…。混乱している」と。
〈私の疑問〉一審の裁判員だった人物に新聞社がインタビューしているが、新聞社には人物名がわかっているのか。それはなぜか。裁判所が知らせたのか、それとも裁判員個人が知らせたのか。裁判員は、たとえ匿名であろうと、自己の担当事件についてインタビューをうけてよいのか…等々である(断っておくが、裁判員法にはこれらの事項について禁止する法文は存在しない)。言うまでもなく、英国の陪審には個人名はなく、全員番号で呼ばれ、全く無個性である。たとえば陪審長(foreman)は1番である。陪審員が担当事件を評釈したり、インタビューを受けるなどは論外であろう。
なお、フランスにも陪審と称する裁判員制があるが、担当事件につき意見等を表明することは、法律によって一切禁止されている。
英法の陪審の歴史から眺めると、日本国の国民は純真無垢な赤ちゃんのようなものか。もし機会があれば後述するが、陪審の歴史は陪審に対する脅迫や賄賂による陪審腐敗の歴史でもあるが、我が国の立法者は裁判員をそれらからどう防ぐかの手立てを講じていない。このことについては、手口を教えないため詳論しなかったが、裁判員制発足前の2006年の講演で一言したことがある(のちに講演原稿を記録に残した。松村「陪審の母国イギリス法が語ること」38頁。Mariners’ Law Reports, vol.6 別冊)。
なお、我が国でも裁判官や裁判所書記官の個人情報は、一般公務員に比較して、かなり慎重に守られている。その意味で、裁判員の個人情報が明らかにされた結果、有罪判決を下した裁判員が危害を加えられたりしたら、どうするのであろうか。東大教授を定年後、最高裁の裁判官になった団藤重光氏は、死刑判決を下したとき、傍聴席から〈人ごろし〉と怒声を浴びせられ、これが同氏『死刑廃止論』執筆の一動機である、と同書中に述べている(もっとも、私個人は、双方の権利の主張が激烈に対決する裁判の審判人である裁判官を、定年を迎えた学究の再就職とでも考えているらしいこんな気弱な裁判官には決して裁かれたくはないが…。刑事の名裁判官として知られた三宅正太郎氏が『裁判の書』において述べるように、裁判、特に刑事裁判は覚悟の問題である。そしてイギリス中世法では、判決非難を理由とする上訴は、申立人と〈虚偽判決〉を下したと非難される裁判官との決闘を意味したのである。松村訳『グランヴィル』164頁)。
続きを読む
2013年8月1日
自分の住んでいるところを褒められたり、敬われたりすることは大変嬉しく気持ちの良いことですね。実は6月中旬~下旬にトルコを旅行したときにそれを経験しました。120年以上前からトルコ人は日本が好きであるとガイドが何度も何度も言い、子供たちは小学校の教育で必ず日本の串本町のことを教えられているというのである。和歌山県串本町の海で遭難し多くのトルコ人が受けた恩を決して忘れてはならないということである。紙面の都合上詳細は省くが教育の重要性まで影響を受けたようであり、今日のトルコがあるのも日本と串本町のお陰とガイドさんは思っている。
それが実感できたのは二日目のエーゲ海に面したホテルに着いたあと、海岸を散歩したり写真を撮ったり膝まで海に浸かったりしていると、海に入っていたトルコの子供たちがニコニコしながらなにやら話している。「こんにちわ」と声を掛けると応えてくる。「こんにちわ。ジャポーニア?」「エベト」頼りないが会話をする。そして「バイバイ」と何度も何度も手を振りながら去って行った。
大人の人も海から出て近づいて同じように「ヤーパン」やら「ニホン」と言いながら握手を求めたり息子や娘に何か言っている。きっとこの人たちは日本人だよと言っているようだ。
子供たちもニコニコして手を握りに来る。やはり本当なんだ。ガイドさんは2002年の日韓ワールドカップでトルコ対日本の試合、串本町の小学生たちがトルコの応援をしてくれたこと。そして勝てたこと。最終的に3位になったこと。その他たくさんのお話をしてくれました。
折りしも6月のトルコでは現政権批判のデモが渦巻いていた。そのようなことを微塵にも感じない旅でした。政教分離が徹底されて国民の90%が回教徒の国と感じさせない。国民から建国の父と尊敬されている初代大統領アタチュルクが実は日本人の教え子で、日本の精神文化を学んだことが代々伝わっているのかもしれない。考えさせられた旅行になったのは確かでした。
さて、8月号のラインナップは以下のとおりです。夏本番の8月をエンジョイしてください。
- 「盛夏の思い出」 4組 寒川 詔三
- 「東京市岡会に参加しました」 8組 榎本 進明
- 「夏の地方大会3回戦(福井高校戦)観戦記」 7組 張 志朗
- 「お祭り訪問 雑感短信 ①」 8組 末廣 訂
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
吉川初恵さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより: