同期会

市岡21期 Youtubeチャンネルがオープンしました!

市岡21期 Youtubeチャンネルがオープンしました!

Youtubeチャンネル

動画第1弾としてランチミーティングに参加したメンバーの自己紹介と市岡の桜散策の様子をアップしています。
是非ご覧ください。
 
🌸🌸🌸市岡の森ランチミーティング動画配信🌸🌸🌸

ワクチンが待ちどおしい今日この頃です。
市岡の森 、木々は減りましたが我が21期の桜は満開でした。
参加者13名、久しぶりの再会を楽しみ、春を満喫しました。
もちろんソーシャルディスタンス&マスク会食です。
動画配信でお伝えします。

【photo】2021年 市岡の森ランチミーティング

「12期の広場 2021 春号」のラインアップ

 春ですね。希望の春です。筆者が小学校5年生ぐらいの時に大阪市の書道大会があり、その時に書いたのが『平和の春』でした。「春の4画目と5画目は、大きく広げて書くんだぞ」と言われて、春だけが目立ったアンバランスな作品になってしまったのを今も覚えています。中学の時は、写生大会で描いた絵をブラジルに移民した人たちを励ます目的で、当地に送られました。
 そんな当時の子供たちも、今年は傘寿という節目の年です。次は卒寿・白寿と続きます。そして、百歳を迎えるわけです。どんな景色が待っているのでしょうか。楽しみに一歩・一歩を進みたいなと思って毎日のウォーキングに励んでいます。
ウォーキングコース ・城山公園では 園児が遊ぶ

 でも、筆者の勝手な思惑どおりことは進みませんでした。家内の体調が極端に悪くなり、お正月を挟んで寝込んでしまいました。食事を全くとることが出来なくなって、体重がどんどん減っていくのが目に見えるぐらい。筆者持病の糖尿病の血糖値も上がり、インスリンの量も増えました。2月になってやっと専門医が見つかり、3月の中旬には、食欲もでて体重も増え始めて現在は70%ほど回復してヤレヤレと一息ついたところです。
 「この年だから、何があっても不思議じゃないね」と挨拶代わりに言っていたのが現実になりましたが、それでも、ウォーキングだけは、毎日一万歩、3月22日現在、昨年5月27日から連続300日を続けています。体調はいいのに血糖値が上がったのは食事のせいだと勝手に思っています。
 しかし、現実に悲しい出来事が起こってしまいました。昨年の12月20日に7組・高市恒和君が、そしてこの3月19日に8組・東野節雄君が急逝されました。お元気な笑顔しか思い浮かびません。謹んで哀悼の誠をささげます。
 コロナも、オリンピックも、お花見も、食事会も、同窓会も、いつになったら治まり、出来るのか、考え方を変えなければ解決しないでしょう。賢明な市岡健児OB・12期生としては、イラついているとは思いますが、このホームページを通じて意見や考えを述べあって、発散させて、とりあえず元気な傘寿を迎えたいですね。
 
 さて「12期の広場2021春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
 
1. 「4代・125年の家業」-(1)       ・・・・・・・・・・ 8組  林 榮作
2. 近況-湖畔のラジオ体操 ・・・・・・・・・・ 3組  石井 孝和
3. 「武田尾”桜の園”亦楽山荘のこと」    ・・・・・・・・・・ 7組 張 志朗
以上

「 4代・125年の家業 」 ―(1)

8組 林榮作
 
 私達が生まれた昭和16年頃の男性の平均寿命は50歳と言われていましたが、アッという間にその50を過ぎ、今年80歳の節目を迎えようとしています。昔ならもう既にこの世に存在しない年齢になりました。最近は、持病はあっても不自由なくこの節目の歳を迎えられたことは、現代医学のお蔭かなと感謝しているところです。
 
 昨年10月末をもって約60年の現役生活に終止符を打ち、同時に4代125年に亘る時計・貴金属の家業にも幕引きをいたしました。家業の歴史の重みを考えても、また、私が携わった約60年の間に承けた諸々のことを顧みても、先人に対し大変申し訳ない思いで一杯でありました。しかし、今日の社会情勢また私の環境を考えれば、諦(つまびら)かなるかなと思い決断いたしました。
 
 振り返れば市岡高校在籍時は、好きなクラブ活動(体操部)に3年間取り組めて、良き時を過ごさせていただきました。今回は、人生の最終章を迎え12期生の一員として、来 し方を総括し残り少ない人生へのエネルギーを見つけたく、時計業界の事、歩んできた歴史、これからの思い、・・・を綴らせていただきました。
 
 日本の時計は、明治5年になって明治政府の太陽暦の採用により、それまでの不定時法(昼間と夜間で時刻を計る単位が異なる)による和時計から、定時法(昼夜を問わず一日を等しく分割した時間単位)による西洋時計に切り替わりました。当初は欧米から輸入された舶来時計が中心でしたが、和時計で培われた技術をもとに、明治10年代から日本でも大阪や名古屋で掛時計の製造が始まったようです。しかしいずれも小規模で本格的な国産時計の生産は、後述の、服部時計店の製造まで待たなければなりませんでした。
 後に“時計王”と言われた、SEIKO の創始者・服部時計店(現セイコーホールディングス)
の服部金太郎は、明治14年(1881年)、西洋時計の黎明期に創業し、当初舶来時計の輸入販売・修理をしていましたが、その中で培った貴重な経験の蓄積、そして2度にわたる欧米視察旅行で得た最新の技術・生産管理システムでもって、念願の国産時計の製造に乗り出し、明治25年(1892年)現在のセイコークロック株式会社の前身となる(精工舎)を設立して、国産八角掛時計を製造開始いたしました。
 これが時計メーカーとしてのスタートとなり、順調に業績を拡大し、掛・置・懐中時計生産の職工数2000人余りの大企業に育てました。
 時移り、服部金太郎翁の「一歩先を行く努力の継続」の理念を引き継いだ後継者は、太平洋戦争後いち早く復興し、一心不乱に「時」の夢を追い続け、後に国産ウォッチの名機 と称されるセイコーマーベルをベースに、昭和35年(1960年)初代グランドセイコーを発売しました。昭和39年(1964年)には、当時スイス時計の優秀さを世界に発信していたスイス・ニューシャテル天文台のコンクールに初参加、その3年後には最高の精度が証明されたクロノメーター規格のムーブメントを多数入賞させ、時計王国スイスを震撼させました。続いて昭和44年(1969年)、世界初のクオーツ時計「クオーツアストロン」を発売し、それ以後のクオーツウォッチの高精度、大衆化の流れの先頭を切ったのです。
 一方、グランドセイコー・クレドールを筆頭とするメカニカルウォッチが中心の高級ウォッチにおいても、前述のニューシャテル天文台コンクール以後、技術と感性を磨き、その精度を飛躍的に上げるとともに、ブランディングによる差別化でロレックス、オメガ等スイス高級時計に対抗して世界に羽ばたき、ワールドリー ディング企業の地位を固めました。昭和・平成に至りセイコーを筆頭に日本はスイスと並ぶ時計王国となったのです。
 
 扨、私の先祖の出所について少し述べたいと思います。
 出身は、土佐の中村(今の高知県西部の四万十川の隣接町)です。私も四国88カ所遍路をしたとき、大先祖の墓参りに立ち寄りました。太平洋に面した雄大、風光明媚な場所で、一瞬・坂本龍馬の気分になったのを覚えています。当時、血気盛んな初代は、青雲の志をもって大坂に出て来たのではないかと推察しています。
 江戸時代の安永年間(1750頃)に大阪・西区・西長堀にあった土佐藩蔵屋敷(現在の大阪市・西区・西長堀にある土佐稲荷神社・・・三菱グループの創業者・岩崎弥太郎の創業地でもあります)の南側にあった堀江川 (1960年運河の埋め立てで今はありません)にかかる黒金橋(くろがねばし)のたもとで、「土佐屋」の屋号で、土佐の海産物の取り扱いを行ったのが大坂におけるスタートと聞いております。

 以来2代後の私の祖父が、明治28年(1895年)当時和時計に代わり黎明期にあった西洋時計が勃興の時期、大阪市・西区・新町(現在の土佐稲荷神社の北側約100mの地)にて「林時計店」を創業、同一場所にて現在に至るまで営業いたしました。
 
 祖父は創業時より、後に「時計王」と言われる服部金太郎の「服部時計店」との取引を関始(その関係は閉業まで途切れることなく続くことになります)。
 当時輸入品に頼っていた掛時計・懐中時計を何とか国産でとの熱意に賛同、特に2代目の私の父の代には卸・小売りと取引量も増加いたしました。同時に、シーベルヘグナー(オメガ)、リーベルマン(ロレックス)と、日本市場に大きな影響力を持っていた外国商社と、現金による直取引を経て絶大な信用を得、店も大変賑わったと聞いています。

 
大阪大空襲で焼失した
懐中時計の一部
 しかし、太平洋戦争による昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲によって店舗も商品も全てを焼失、計り知れない打撃を受けました。当時のことについて父の無念を思うと、察するところ余りあるものがあります。
 太平洋戦争後引き継いだ3代目の兄は、ゼロからの再出発にあたり、当時、密輸ウォッチ全盛の中にあって、掛・置き時計・腕時計の卸・小売りを中心に、今で云うところのコンプライアンス順守の先頭に立って、 一歩ずつ業績を拡大していきました。
 全販売店の99%が卸店経由の商品供給の中、創業以来良好な関係のSEIKOとの直取引により、取引先に最新の商品の供給・価格・サービスを提供してまいりました。そして、昭和30年代より時計王国スイスの牙城を崩さんとする、セイコーウォッチの技術開発に協力して取引を拡大し、特に昭和40年代後半のウォッチのクオーツ化においては、その将来の可能性に着目し、開発段階より協力、そしてその普及化・販売拡大をいち早く強力に推進いたしました。私にとっても新しい時代の到来を実感し、進む道への自信が湧いたのを覚えています。
 一方、1960年代には当時未整備であった医療機器のメガネにおいて、いち早く「眼鏡士」を取得してメガネ部門を、また1980年代にはジュエリー部門を創設して業務を拡大、1990年代には「直取引の全国老舗時計店100社」と「 服部セイコー」が協力して独自ブランド「CULESTA(クレスタ)」を立ち上げました。
 1992年にはヨーロッパ( スイス・イタリア・スペイン・イギリス)視察・研修で得た先見性と永年培った信用と技術力をもとに、業績を拡大していきました。
(次号に続く)

近況 - 湖畔のラジオ体操

3組  石井 孝和
 
 滋賀県のびわ湖には、室町時代以降に名づけられたという「近江八景」があります。
▽石山の秋月 ▽瀬田の夕照 ▽矢橋の帰帆 ▽堅田の落雁 ▽粟津の晴嵐 ▽三井の晩鐘
▽唐崎の夜雨 ▽比良の暮雪 と心にしみいるような旅情がこめられています。
 この中の「唐崎の夜雨」の地に住む私は毎朝、小型の携帯ラジオとカメラを持って“唐崎の松”が立つ唐崎神社境内の湖畔に出かけるのを日課としています。
 “唐崎の松”は江戸時代の絵師・安藤広重の絵にも描かれています。また松の木の脇には松尾芭蕉が“唐崎の松は花より朧にて”と詠んだ句碑があります。
ラジオ体操の場所から見える比良山系

 午前6時半になるとNHKのラジオ体操が始まります。ピアノ伴奏にあわせて「第1」で体をほぐし、「第2」でしっかり体をはずませ新鮮な空気を胸いっぱいにします。岸辺に茂るよしや湖面に遊ぶ水鳥など四季折々、変化する風景を眺めながらのラジオ体操です。コロナ禍もあって訪れる人が数少なくなっていますが、たまに他府県から来られた人がびわ湖の風景を楽しんでいます。そんなとき、声をかけられると「琵琶湖」についての豆知識を披露しています。
 ▽水面の高さは大阪城の天守の屋根と同じ、大阪湾の干潮時からの高さ85メートルであること。
 ▽水の量は近畿1300万人の約15年間の飲み水にあたる
『令和3年2月No488 79歳』とあります
275億立方米もあり、琵琶湖は“近畿の水がめ“とも云われていることなどと説明して、観光案内人気取りになっています。 家に戻ってからは好きなジャズのCDを聴きながら50代から続けている“写真日記”を綴っており、大学ノートの数が500冊に近づいています。妻からは「収納に困る」と苦情が出る始末です。お陰さまで健康で、週に二日はNHK大津局に勤め、TVローカルニュースの制作スタッフとして、新型コロナ終息を願い、取り組んでいます。

 追伸:少し遅くなりましたが、滋賀の方でもサクラの‟開花宣言“がありました。いつものラジオ体操の場所からもさくらの景色が見られましたので写真に撮りました。
湖畔のさくら 湖畔で見る日の出

「武田尾“桜の園” 亦楽山荘(えきらくさんそう)のこと」

7組   張 志朗

 「今年のさくらの開花は早いようですね。」そんな話を聞きながら、ふと思い立って武田尾の桜の園を訪ねてみました。電車で一駅、自宅から30分。3月初めなのに陽気は4月上旬なみでした。
 武田尾駅は、JR福知山線の「生瀬駅」「道場駅」の間の武庫川渓谷にあります。いずれの名前も聞き覚えがあることでしょう。飯盒すいさんや、キャンプ、林間学校など、想い出が多い場所です。
 川の両岸を単線でのんびりと走っていた旧福知山線も今はトンネル主体の複線新ルートで、武田尾の駅の大部分はトンネルの中。一部武庫川にかかる部分だけが、橋のような空中駅です。
 駅から15分くらい。旧福知山線の二つのトンネルを越えた所の親水広場横に、“桜の園“『亦楽山荘』と呼ばれる40ヘクタールの山林への入り口があります。
 ここは明治45年、笹部新太郎氏がサクラの保存・品種改良やつぎ木などの研究のために拓いた演習林で、当時は全国から集められたヤマザクラやサトザクラが30種類、5000本以上が植えられていたと言います。亦楽山荘は笹部氏の命名。またここが“桜の園”と呼ばれるようになったのは、1999年宝塚市の里山公園になってからです。
 現在はいくつかのハイキングルートが設定されています。ただしすべて山道で、アップダウンが激しく、私の脚力では全コース踏破は無理。この日も“桜坂”を越えて、周回路の“さくらの道”に入り、“育樹の丘”の東屋で、はやばやと休憩しました。入口から1Km弱だと思いますが、急な登りに息がきれます。それだけに、“桜坂”でヤマザクラとエドヒガンザクラの巨木に出会ったときは思わずオォーッと声がでてしまいました。ほかにもオオシマザクラ、カスミザクラ、ウワミズザクラなどがあり、実に多様です。こう書くと私が桜の種類に詳しいような印象になりますが、すべて木に掲げられた銘板の助けによるものです。
 花はこれからです。サクラの早い今年でも4月に入ってからが見頃でしょうし、種類ごとに順次咲いては散って、を繰り返し約4週間程度、花が楽しめるとのことです。
 『亦楽山荘』周辺のサクラは、日本の固有種または固有種にちかい山桜、里桜が主で、ソメイヨシノは少ないようです。大量に植えられ、一斉に咲きそして散るソメイヨシノに慣れ切った私ですが、4月にまたここを訪ね、多彩な山桜・里桜を楽しんでみようと思っています。
 資料に載っている笹部新太郎氏(1887~1978)のことを少し書きます。お生まれは大阪の堂島の裕福な商家で、東京帝国大学法学科を卒業され、その生涯と莫大な私財を山桜、里桜の研究と保護・育成にささげられた方です。水上勉氏の『櫻守』の主人公のお一人、「竹部庸太郎」のモデルであり、関西は勿論、全国の名もなき桜までをも訪ね歩かれたそうです。大阪造幣局の通り抜けの桜、夙川・甲山周辺の桜の管理指導、なかでも1960年、岐阜県御母衣ダム工事で水没する樹齢400年のエドヒガンザクラの巨木二本の移植を行うなど、その業績は数えきれません。この時移植された桜が岐阜の“荘川桜”。ネットで検索すると、立派な花を咲かせて今も健在です。
 東屋周辺の見事なモミジを見ながら、周回路を“隔水亭”に向かいました。“隔水亭”は、笹部氏の研究拠点で、現在あるものは二代目だそうです。小ぶりで質素でしたが、机上研究もさることながら、フィルドワークが主で、つぎ木の技術など職人はだしであった笹部氏の人となりが偲ばれるようで、感じ入りました。
 道中、数人のボランティアと出会いました。“櫻守”と書かれたヘルメットに、山仕事用の作業服で、
周回路の“桜坂“の案内板にあった写真です
園路の整備や樹木の手入れをしていました。年齢はほぼ同じくらいですが、健脚で若々しい。楽しそうに作業する姿から、桜によせる思いが伝わります。
 美しい桜山にはそれにふさわしい美しい物語があるものですね。サクラを守り、支えるご苦労に、感謝の気持ち一杯になりました。



          

【高校21期】市岡の森 ランチミーティングのお誘い

皆さん如何お過ごしですか?
コロナ禍 お見舞い申し上げます。
大阪は緊急事態宣言が解除、でもなんだかすっきりしませんね。
気分を変えて、感染対策をしながらランチミーティングを開催します。
奮ってご参加下さい。

  • 日時:4月3日(土)
  • 集合:ロッジ舞洲 12:00
    ①市岡の森散策(桜の観賞&校歌斉唱)
    ②ランチミーティング(ロッジ舞洲のレストランにて)
  • 参加費:¥2,000
  • 参加の申込みはメールで → info☆reihyo.com(☆を@に変えて送信)
  • 締め切り: 3月28日
  • お問合せ先:幹事代行/竹内 哲(〇九〇〜八六五九〜六三一五)
    メールアドレス:s-takeuchi☆knd.biglobe.ne.jp(☆を@に変えて送信)
以上

【延期】高校36期大同窓会延期のお知らせ

高校36同窓生の皆さんへ
今年2021年5月4日に開催を予定していました「大同窓会」を昨年に引き続き、今年の開催も延期とさせていただきます。
新型コロナウイルス感染症の新規感染者数・重症者数は減少傾向にあるものの、首都圏・京阪神地区は緊急事態宣言が発出されています。
幹事会にて検討の結果、今年予定の「大同窓会」を再び延期と致します。
大同窓会の開催を楽しみにされていた同窓生には残念なお知らせになりましたが、一日も早く新型コロナウイルス感染症が収束し、平時の日常に戻れるよう願っています。

「12期の広場2021新春号」のラインアップ

 あけましておめでとうございます。今年も「12期の広場」をよろしくお願い申し上げます。
 旧年はコロナ禍一色。特に年末に感染拡大するなど、経験したことのない重苦しい一年でした。それだけに新しい年を迎えての感慨は、ひとしおのものがありますね。新年はウイズコロナであっても、一日でも早く穏やかな日常を取り戻し、笑顔で過ごせる年になってほしいと祈るばかりです。その願いを込めて、カット写真は華やかな「桜の白鷺城」(高見政博君が撮影)にしました。
 「12期の広場」も満10年が過ぎ、11年目に入りました。2011年から2018年までは毎月の1日に更新、2019年からは3か月に1回の更新になりましたから、この新春号が105回目。一寸驚きです。長きにわたって「12期の広場」を続けることができたのは、ひとえに同窓生皆さんのご協力があってこそと、心より感謝しております。
 広場開設は古希、70才になった年でした。そして開設11年目の今年は傘寿、80歳になる年であります。
 振り返れば私たちの70才代は意気軒高。同窓会には多くの学友が集い、恩師を囲んでの楽しい時間を過ごしました。また、色々な機会を作っては集まり、よく遊び、よく食べ、よく飲んで、たくさんのおしゃべりを楽しみました。一方、多くの大切な学友が鬼籍に入る悲報もありました。10年の「12期の広場」は、まさにその写し鏡であったようです。
 いよいよ80才代、文字通り人生の胸突き八丁、終着点が予感できる年齢に達しています。こんな時期にコロナ禍とは、との思いも強くありますが、この時代を生きる私たちのめぐりあわせと受け入れるしかありません。楽しみにしていた東京オリンピックの開催を含めて先行きはさらに不透明で、いろいろなことが起こってくることでしょう。
 「12期の広場」は ‟皆さんと共にありたい”を道標に、この新春号からまた新しい歩みを始めたいと思っています。重ねて、これからも一層のご協力ご支援をお願い申しあげます。
 
 さて「12期の広場2021新春号」のラインアップは以下の通りです。お楽しみください。
 
1. 「薬師岳登山とコロナ禍」       ・・・・・・・・・・ 5組  泉 信也
2. 「「マルオヒロカズ御伽草子展」に行ってきました。 ・・・・・・・・・・ 7組  張 志朗
3. 「つれづれに – 鍋が美味しい」    ・・・・・・・・・・   井 の 蛙
以上

薬師岳登山とコロナ禍

5組 泉 信也
 
 コロナ禍のなか、自粛の禁を破って、8月に古い山仲間と「薬師岳」に登った。
 薬師岳は標高2,926m、飛騨山脈立山連峰の縦走路の中ほどに位置し、岳人憧れの「雲の平」への入り口でもある。気品のある山容と氷河地形の痕跡を残すカール(圏谷)は、国の特別天然記念物となっている。昭和38年冬にはいわゆるサンパチ豪雪の中で、愛知大学山岳部の13人が吹雪にまかれ遭難した山として未だに記憶に残る。
 久しぶりの1,600mの標高差、往復14時間近い長駆は残躯にこたえたが、登頂の充足感は何ものにも代えがたい。薬師岳の雄大さと、峯雲を従えた北アルプス全山の眺望が青春時代の記憶を懐かしく甦らせ、コロナで弱った心身のリセットに恰好の処方箋となった。泊まった「太郎平小屋」は清潔で三密対策も十分、広域をカバーするWiFiアンテナでリモートワークさへできそうだ。
 北陸新幹線で便利になった東京~富山は2時間半、ローカル線に乗り換えて1時間の立山案内人の里「芦峅寺(あしくらじ)」では安全と厄除けを祈願し、立山曼陀羅の世界にしばし身をひたした。極彩色の「地獄極楽絵図」は、怖くもあり可笑しくもあるのだが、大日如来による究極の救いは、当時の人々にとって分かりやすく有難いものであったと思う。
 小林秀雄が「考えるヒント」で考察したプラトンの「国家」では、地獄極楽思想が仏教だけのものではないと教えてくれる。地獄で酷い目に遭い、極楽で結構な目に遭った者たちが一緒に野宿し、奇怪だった思い出話をするうち、運命の女神が現れて皆を「必然」の椅子に座らせ、将来の生活を選べと命ずる。結果、善悪の魂が入れ替わるのだが、「忘れ川」の水を飲んだ夫々が、生まれ変わってそれを知ることはない。高野山で見た「密教曼荼羅世界」に通底するようだが、俗人には「立山曼荼羅」のほうが分かりやすい。
 それにしても先が見えない。日々の暮らしはもとより、山登りやへぼな俳句の集まりもままならない。重苦しい気分が続く。そんなある日、知人から「感染した、すまないがあなたは濃厚接触疑い」と連絡があった。身に降りかかるとは思いもよらず、「陰性」判定が出るまでの一週間は、自分のことはともかく、家族や仲間に移してはいないかと不安が先に立ち、「いやな感じ」。初めて身仕舞いのことなども考えた。
 コロナ禍の後では世の中が大きく変わるとか、皆が口をそろえる。人類の歴史は感染病の歴史。紀元前の大昔からコレラ、ペスト、結核、天然痘、マラリヤ、チフス、エイズ、SARS、MERSと枚挙に暇がないが、ヒトはこれらを克服し、進化を遂げてきたという。この度の新型コロナ後はどうなるのか。21世紀は「未曾有の時代」の幕開けだが、自然破壊と度重なる天災、人災に、グローバル化によるパンデミックが加わり、非日常が日常となることを受け入れねばならないのだろうか。答えを見つける旅が始まる。新しい日常に適応するも、せざるも、夫々が自由で納得のいく生き様を探ることになろう。
 それにしても「薬師岳」山行に救われた。新しい年が平穏に明け、リモートでなく生身で皆さんと再会できる日が早やからんことを祈る。