同期会
2011年7月1日

塚本君は3年間同じクラスで過ごした、懐かしい友です。亡くなってもう20年になろうとしています。いつまでも多くの人に思い出してもらいたいと思い、墓碑銘のつもりでここに塚本君の生涯をご紹介します。写真は藤居さん(2組)、酒井君(4組)、久保君(6組)にご提供いただきました。
1990(H2).11.23にホテルニューオータニ大阪、鳳凰の間で卒業30年記念同窓会がありました。110人が集合し賑やかでしたが、その中でも30年振りに姿を現した塚本君の元気ぶりが今も伝説となっています。2次会でもお開きになるまで元気に騒いだ塚本君を出雲路のお宅まで送って行きました。
このときすでに膀胱がんの手術をしていましたが、同窓会であれだけ元気だった塚本君が翌年1991.11.22の夜に鞍馬口病院で亡くなりました。大将軍の妙林寺での通夜には12期生13人が集まってくれました。
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2011年7月1日
3.11巨大地震によりライフラインが断たれ、トンネル生活から半分以上抜け出して都市ガスとガソリン入手を待っていた3月下旬から始まる一つのエピソードをご紹介したい。
3月28日の朝日新聞に、岩手県陸前高田市のメインの海岸:高田松原の約7万本の松が1本を残して、すべて、津波で壊滅したことが記事となっていて、私はびっくりしました。:(図1参照)
続きを読む2011年6月27日
是非 ご参加ください。当日参加の恩師の 方々にも、お声がけしています。同窓会当日で話し切れなかった という方も多いと聞いております。
参加費は、会場費・同窓会写真(CD-R)約100枚入り・ワンドリンク付で 500円です。
参加される方は、Facebook 大阪府立市岡高校39期でお知らせください。
(Facebook でアカウント作成必要)
日時 | 2011年8月27日(土)13:00~17:00 |
参加費 | 500円(会場費・同窓会写真(CD-R)約100枚入り・ワンドリンク付) |
2011年6月1日
もう梅雨入りですね。日本の季節の移ろいとはいえ、今年は東日本大震災の被災地の皆さんのことが気になり、「やさしい梅雨」であることを祈ります。
さて、今月号のラインアップですが、以下の通りです。
- 「たまたまのこと」 4組 重松 清弘
- 「灘五郷めぐり」-第18回兵庫市岡歩こう会 6組 高見 政博
- 「第6,7回 利根川 川歩き」 4組 川合 兵治
- 「我が故郷、海老江の話・あれこれ」 8組 末廣 訂
次回で「12期の広場」も7回目の更新になります。
HP委員一同、それなりに努力していくつもりですが、なにより皆さんのご支援がたのみの綱です。ご投稿は勿論ですが、ご感想やご意見を是非お寄せください。
7月号は7月1日に公開予定です。
2011年6月1日
これはたまたまのことだったのですが、先日市岡12期のHPを見ていたときに杲田慶子さんの「東京12期会の有志新年会」という投稿記事が目に留まりました。新年会は平成23年2月22日(火)17時30分から、と書かれていました。私にはこの会合のご案内をいただいていたかどうか記憶にないのですが、私はこの時何をしていたのかなとこの日の行動記録を手帳で調べてみました。
平成23年2月22日17時30分、私はこの日、米国フロリダ州オーランド市のInternational Palms & Resort Hotel 11階の部屋で、同時間は東部標準時22日3時30分であり、4時のモーニングコールに起こされる30分前のベッドの中で爆睡中だったのです。何故そんなに早く起きるのか、とのことですが、5時にはオーランド国際空港に到着して、7時発のUA998便に乗り、シカゴ経由で日本に帰るためだったのです。 時計を少しバックさせますと、私は浦安市民15名と共に2月16日成田を出発して途中ワシントンD.C.を経由し、同日夜オーランド市に到着しました。オーランド市は私が住んでいる千葉県浦安市の姉妹都市という関係にあり、訪問の目的は市民交流のためです。従って、到着した翌日から2日間の公式行事が始まりました。17日はオーランド市庁舎に市長を表敬訪問し、午後はRetirement FacilityとDr. Phillips高校での日米文化交流。18日は地元の小学校と浦安市の小学校間での親善人形交換式に臨み、その後は図書館と歴史博物館の訪問と続きました。
ところで、最近ちょっと気になるニュースがあります。それは、現在日米間の交流がものすごく減っている、というものです。例えば、議員交流はほとんど存在しなくなっています。ですから、アメリカの議会にいる人の誰が日本に行ったことがあるのか、誰が日本を熟知しているのか、知る人がほとんどいなくなっているそうです。日本の国会議員も実はそのようです。それから、留学生の数も激減しているようです。日本からアメリカに留学する人はものすごく減っています。アメリカから日本に留学する人も減っています。このような状況なのですが、これは危機的と言っても過言ではないと思います。私たちがやっている市民交流は、それは本当に細々としたものですが、それでも継続してやっていけば、細くなっている日米関係のパイプを少しでも太くしていけるものと確信しています。
以上
彼は今も現役でお仕事をされている中、会社から地域社会貢献のため8日間の休暇をいただき、オーランドを訪問されました。今回で5回目の訪問と伺っています。
今後とも重松さんの活動を応援していきたいですね。
2011年6月1日
昔から京都の伏見と並んで酒造りが盛んな兵庫の「灘」。
今回の兵庫市岡歩こう会はそんな灘の酒蔵を巡る企画です。江戸時代には伏見、伊丹、灘の酒は「上方の下り酒」と言い、上質の酒として珍重されました。「下らない物」という時の「下らない」はこの「下り酒」からといわれます。(どうでも良い下らない話)
灘は、「灘五郷」と言われますが、それは西郷、御影、魚崎、西宮、今津を言います。今回は西郷から御影、魚崎の各郷の主だった酒造会社と、悲恋伝説の処女(おとめ)塚(づか)を訪ねる計画です。
灘の酒造会社は16年前の「阪神淡路大震災」で被災し、酒蔵の倒壊等、生産設備に大きな被害を受け、小さな酒蔵では再起をあきらめたところも出るほどの状況から再起を遂げてきました。神戸に住むものにとって今年の東北関東大震災がそのことと重なって複雑な思いですが、こんな時こそ関西が元気をださなければとの思いからの企画です。
4月17日、前日までの大雨と打って変わり、気持ちよく晴れて、少し肌寒いくらいです。阪神電鉄大石駅に午前9時30分集合。約50名の同窓生が集まりました。中には旧制中学卒の大先輩のお顔も多数見えます。12期生も末廣、吉岡、駒崎、古藤、久保田、段中、伊東、岸川、島田、畠平の各氏、畠平氏は夫妻での参加です。ちなみに今回の参加で最多は高13期の11名、次が12期の10名、3番目が旧制42期の7名でした。
遅れて来た人を少し待って、9時45分出発。10分ほどで一番目の訪問先「沢の鶴」に到着。開館時間は10時と言うことで、まだ門前の掃除中。黒板塀の中から遅咲きの桜が満開の枝を伸ばしていました。
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川合兵治(4組)
群馬名物は「かかあ天下と空っ風」とはいうが
1日目 東武伊勢崎線羽生駅AM10:00集合。今回は新たに西條(3組)が参加。泉は緊急事態発生で不参加。榎本、大石橋、山田、西條、川合の5人で決行。千葉―茨城―埼玉を踏破し、いよいよ水源のある群馬に入る。3月も終わりだというのに、寒冷前線が停滞していて、身を切るような寒さの中を出発。昼食をとった場所(熊谷市俵瀬)に地元出身、日本初の女医、女性運動家の荻野吟子(1851~1913)記念館(無料)があり、拝観する。この日の終着地「刀水橋(全長810m)」から宿への途中にある日本三大聖天のひとつで、埼玉の小日光とも言われている「妻沼聖天山」を参拝。平成15年から続いている修復中の本殿には、左甚五郎作といわれる「猿を救う鷲」の彫刻があるといわれているが、
修復費用基金として拝観料御随意にといわれ断念。夜は境内にある文豪田山花袋「残雪の家」の舞台となり、花袋も泊まったといわれる料亭「千代枡(0485-588-002)」にて恒例のうなぎ晩餐を満喫し、元気のいいかみさんのいるビジネス旅館「明治屋」へ。
2011年6月1日


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2011年6月1日
昨年3月は市岡高校を卒業して50年を迎えた。我々12期生は卒業50周年を記念して卒業式に招待され、酒井八郎君が代表して卒業生に祝辞を述べ、50年前の思い出話や後輩に激励のエールを送ってくれた。
私が同窓会会長をしている母校の小学校から子供たちに戦争体験を語ってほしいとの要望があり、ここ数年12月初めに当時学童疎開を体験された先輩に学校で話をしてもらっている。丁度3年前、ある先輩が3月の卒業式を迎えるため、広島の疎開先から全員大阪に戻ってきたが、卒業式前日の空襲で学校も海老江の町も被害に遭い卒業式が出来なくなったままだと言う話をされた。
それを聞いた子供たちから一緒に卒業式をしましょうと話が出て、早速準備にとりかかった。 昔の名簿から呼びかけ、卒業証書の作成、式典の進行等々、学校と打ち合わせを重ね、63年ぶりの卒業式が実現した。
75歳になる児童27名が出席され、感激と涙の卒業式となった。新聞、テレビで大きく報道されたのでご存知の方もおられるでしょう。
子供の頃を思い返すと、4歳の頃は太平洋戦争の終盤で、家の前に1トン爆弾が落とされ、箒で掃いたように自宅も近所の家も無くなった。避難していた近所の防空壕から見た灰色の空は子供心に焼き付いて今も忘れることができない。そして、戦後はいつも腹をすかしていて、とかく「ひもじい」思い出だけが残っている。
人生70年、自分が育ってきた地元のことをボチボチ振り返ってみるのも良いかなーと筆を持った。
私が育った町「海老江」は子供の頃チャンバラごっこやかくれんぼをした原っぱにも家が建ち、町の様子は大きく変わってしまったが、大阪のド真ん中にありながら今でもどこか都会化の波に乗り遅れたような雰囲気と懐かしい風景を残す町である。
海老江は大正の末頃まで村中に川(井路川)が流れていた。明治37年生まれの父が若い頃現在の自宅前が川で、小舟に牛を乗せて隣村(浦江)にあった田んぼに行ったという話を何度か聞いたことがある。また子供の頃、父親と一緒に町を歩いていて「この筋は川であった」とか、「この道は昔から村の地下(ジゲ)道や」とかを聞いた思い出がある。今や井路川はすっかり埋め立てられ車が通れない狭い路地となり、古い民家はそのまま残っている。
(写真説明) この写真は海老江が水郷の村であったという証左の写真です。2年前たまたま近所の方がアルバムにあったのを自宅まで持ってきてくれました。昨年の大阪歴博の「淀川100年展」にも出しました。母親が来た時は、昭和初期でこの川は埋まっていたと考える。父が浦江村の田んぼに小舟に牛を乗せて野ら仕事に行った川です。 |
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより: