12期の広場
2017年6月1日
6月です。桜の新緑が深緑に変わり、涼しげな日陰を作っています。また大阪の近郊でも田植えの準備が始まり、小型トラクターが忙しそうに田圃を走り回っています。
日差しは夏そのもの。寒がり、暑がりの私も、ようやくの衣替え、何もかもが夏用です。梅雨入りまでにはしばしの有余があり、好天が続いていますが、たくさんの花芽を付けた庭の紫陽花は、もう「つめいろの雨」-慈雨を待ちこがれているようです。
5月の初めに、京都在住のK君から6組の久保武治君の訃報を知らせるご子息からの挨拶状が、届いたと、連絡がありました。それによりますと、4月29日に、2年にわたる病気療養のすえ、亡くなられたとのことです。またその中に「父は長らく奈良教育大学で勤務し、定年後はテニスと畑仕事に精をだし、毎日を精いっぱいに生きていました。とりわけテニスは闘病中の75才まで公式試合に出場するため、全国を回っておりました。」とありました。
御存じのように久保君は、12期同窓生の秀才のお一人で、真面目で粘り強く、また何事にも思慮深い雰囲気を持つ、スポーツマンであったと記憶しています。私がテニスにはまっていた50才半ばの頃、一度、彼の公式戦を見たことがあります。お人柄そのままのしなやかで理詰めのテニスに感じ入ったことを思い出しました。同窓会にもほぼ毎回、出席され旧交を温めて居られただけに、突然の訃報に驚いています。
心よりご冥福をお祈り申し上げ、慎んでここにお知らせいたします。合掌。
さてわが「12期の広場 」6月号のラインアップです。記事は以下の二編です。
8組の末廣訂君が「福島区歴史研究会 会報」に書いた「山錦関とはどんな力士?」を転載させて頂きました。大阪出身で優勝経験がある山錦関が、鷺洲の出身であることやそのほかの興味深いエピソードなど、お読みください。
また、奈良市岡歩こう会の春の例会、「しまなみ海道を歩く」の報告を載せました。ウォーキングは大層楽しいものでしたが、その原稿作成には悪戦苦闘、さらに期限ギリギリで大慌て。結局、コンパクトに纏まらず、拙文を垂れ流すことへの叱責覚悟で、今月号、来月号の二回に分け掲載することにしました。ご容赦のほどをお願いいたします。
1. 「しまなみ海道を歩いてきました。- ① 」 |
7組 張 志朗 |
2. 「山錦関とはどんな力士?」 |
8組 末廣 訂 |
以 上
2017年6月1日
8組 末廣 訂
昨年の大相撲秋場所で大阪寝屋川市出身の大関・豪栄道が大阪出身力士として86年ぶりに優勝した。大阪人にとって久しぶりの快挙である。
さて、新聞やTVでは大阪府出身力士では昭和5年5月に優勝した山錦以来86年ぶり、とあるものの、山錦関が具体的にどこの生れで、学校や相撲部屋がどこだったのか等々一切情報が載っていない。
山錦関の記念碑があるのをご存知でしょうか。
大正14年に発行された1846頁もの分厚い「鷺洲町史」の1795頁一面に「本町(鷺洲町)が生める角界の寵児 山錦善次郎君」というタイトルで記事があり、詳しく山錦関について記載されている。
明治31年、当時の鷺洲町北浦江(現北区大淀)の山田浅吉氏の長男に生まれ、鷺洲小学校、第二盈進小学校高等科、そして当時の関大専門部商業予科、本科に進学、大正6年東京角力協会・出羽海部屋に入門、12年に入幕した。
身長5尺7寸(188cm),体重27貫5百(103kg)という少しやせ形の力士。得意手は押手であった。最終は当時の関脇まで昇進した。 只、鷺洲町史は大正14年に発行のため、昭和5年5月場所の優勝の記事はない。
山錦の化粧まわしが浦江八坂神社にあったが、昭和20年6月7日の戦災で焼けた。
記念碑は現在の大阪市北区大淀南にある「素戔嗚尊神社」(浦江八坂神社)に「小結・山錦善治郎」、「大日本相撲協会」と刻して、本殿前左右対の大きなくすのきを囲む玉垣(下の写真)として残されている。
この地、北区大淀地区は北区に合区されるまでは「大阪市大淀区」であった。またその昔、大阪市に編入されるまではこの一帯は鷺洲町と呼ばれ、海老江、浦江(現鷺洲)、大仁、塚本(現淀川区)が一つの町であった。
現在の淀川区塚本や西淀川区花川(旧海老江新家)が明治40年頃の淀川の開削により分断され、北浦江や大仁地区は福島区と大淀区に分かれてしまった歴史がある。
「鷺洲町史」は大正14年に鷺洲町が大阪市西淀川区に編入されたのを記念に発行された大変貴重な町史である。
なお、同神社内にある「王仁」神社横に明治45年頃まであったといわれる王仁の石棺が無くなっており、現在追及中も不明である。
豪栄道が初優勝し、山錦以来86年ぶりという快挙で、このようなことがなかったら、山錦の名前も出なかったことと、歴史の面白みの一端を紹介した。
なお、この記事を鷺洲小学校の校長先生にお渡ししたところ、鷺洲小学校では丁度「鷺洲町史」を手元にいただいき、読み始めたところだったが、ここまで気が付かなかったとお礼の電話をいただいた。また、末廣さんは何故この記事があることを知っていたのですかとの質問があり、私は「4年ほど前に、鷺洲女性会の方に旧浦江の歴史とまち案内をした時にこの山錦の記事を説明した」ので思い出したと話した。
鷺洲小学校ではその後、「学校通信10月号」に鷺洲のお宝「鷺洲町史」と山錦関(昭和5年5月場所優勝!)というタイトルで大きく載せ、鷺洲小学校の出身力士であり、鷺洲町史に記載されていることの喜びを報じている。
実はこれらの情報を産経新聞に送っていたが、11月末になって、産経新聞の嶋田記者から山錦関の取材をしたいと電話があり一緒に取材した。
翌九州場所で豪栄道が6敗をしてしまい、何かニュースの価値が落ちたかなーと思っていた矢先であったが、浦江の八坂神社や山錦関の親戚、関大のOB等関係者とお会いし、また昔の北浦江や大仁村の話を聞くことができ、大変貴重な経験をした。
その時に判明したことを記しておく。
- 山錦は兄弟が多い(5人) 父親は山田浅吉(八百屋)で体格のよい人であった。 母親は黒田了一元大阪府知事の母親と姉妹である。
- 山錦の化粧まわしが浦江八坂神社にあったが、20年6月7日の戦災で焼けた。刺繍されたまわしの金箔がそのまま残っていた。
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浦江八坂神社にある「小結 山錦善次郎」などの玉垣は、昭和13年に本人がくすのきと共に奉納した。
- 現役時代は押しの一手で鼻の骨を折ったことがある。たいへんまじめな性格の相撲取りであった。
- 昭和7年、天龍関らと一緒に相撲取りの待遇改善を求め、決起した。(会場の名前を取って春秋園事件といわれる)翌年、大日本相撲協会を脱退して関西角力協会を立ち上げた。一時は人気を博したが、昭和12年に解散し、山錦は引退した。
- 引退後は旅館「山錦」を開業。初めは大正駅の北側で、二度目は土佐堀の常安橋付近で。その後廃業した。
- 二人の娘さんは現在福島区と西区のマンションにお住まい。山錦時代、大学での相撲取りが少なかったので、昭和47年五月場所で輪島関(日大)が優勝した時、病床ではあったが、涙を流して喜んでいた、と娘さんの話。
- 昭和47年に死亡した山錦の墓は服部緑地公園内の大阪市墓地にある。
年末12月26日の産経新聞の夕刊に大きく「山錦・波瀾万丈の人生」というタイトルで取り上げられた。
2人の娘さんが話す父親山錦関の思い出話が中心の記事であった。特に山錦が相撲協会から手を引く複雑な思いや、同じ学生出身の輪島が初優勝した昭和47年に息を引き取った時の話が印象に残った記事でした。私として少し残念であったのは、地元の歴史研究会として、山錦の出身地を大阪市北区だけではもの足らず、せめて(旧大淀区北浦江出身)を入れてほしかったと嶋田記者にメールした。
正月3日に嶋田記者より、取材のお礼と新聞記者の立場から旧町名や区の表示をすればその説明が必要になって、取材の本筋から離れてしまうので、大変申し訳なくーと、返事をいただいた。
記者と同行して取材した経験は「松下幸之助創業の記念碑」以来である。
2017年6月1日
奈良市岡歩こう会の春のウォーキングは「しまなみ海道を歩く」で、5月21日、22日の一泊二日の日程で行われました。
案内状に、しまなみ海道は「瀬戸大橋、明石海峡大橋についで最後に完成したルートです。車だけでなく、自転車やウォーキングのルートも用意された“人にやさしい”橋です。5月の薫風にふかれて眼下に瀬戸内海を眺めながら様々な橋をわたりませんか」とありました。野や山を歩くのはよくあることですが、海の上を歩く機会はそうありません。またしまなみ海道は初めてと言う事で、家内を誘って行ってきました。
久しぶりに一泊の遠出です。前日からあれやこれやと準備にバタバタ。案内状にウォーキング予定距離は6km程度とありましたが、調べてみると、尾道から今治までのしまなみ海道は、全長が70km。なにがあるのか分からないので、足回りだけはちゃんとしておこうと、少々おおげさな格好で出かけました。(結果的には大正解でした)参加者は総勢37名、12期は久保田靖子さん(1組)、古藤知代子さん(4組)、高見政博君(6組)そして私と家内の5名です。
21、22日ともにお天気は、絶好の五月晴れ、また道中は観光バスでした。
初日、バスは8時に奈良グループを乗せて出発。大阪グループが乗り込んだのが8時50分で、因島大橋の向島アンカーレイジ(吊り橋のケーブルを引っ張っている“重し”)下に着いたのが、午後1時前でした。しまなみ海道は正式な呼び名が「西瀬戸自動車道」です。尾道水道に架かる「新尾道大橋」がその下り方面の始点になるのですが、私達は「新尾道大橋」をバスで通過し、しまなみ海道の一番目の島の向島に入って「因島大橋」からウォーキングをスタートさせました。ここでは「因島大橋」の橋桁を、真下から見上げる形になります。
2017年5月1日

うららかな陽気に誘われるように、ちょっと離れた公園(「桜の広場」と呼ばれている)までカメラを持って出かけてみました。それは山の南斜面に開発されたニュータウンの裾にあたる場所にあります。一帯は北側が林立するマンション、南側が木々が生い茂る自然のままに残されています。
道すがら、メタセコイアの巨木の木立の中を通るのですが、昨冬、雨のように葉を落とした紡錘形の枝先には薄緑の若葉が見事に出そろって紗のカーテンそのものの風情です。キジバト二羽が羽根を休めていました。公園とそこへの小道は呼名のとおり沢山の桜が植えられており、もともとの雑木とあいまって視界は緑一色です。ちょっとした森の感じで、歌うような鶯の鳴き声や鳥のさえずりが響きます。足元には可憐な草花とつつじの群生。つつじは蕾が大きく膨らみ、すでにところどころで大ぶりの花を開いています。サクランボウの実を付けた桜も数本見受けられ、また桐の巨木になんと紫の花が咲いていました。下手な写真を添付しますが、ご覧ください。

5月5日の端午の節句が立夏です。立春も、立秋も、立冬もその季節感がピンとこなかったのですが、立夏はそうではないようです。1時間ほどの散歩でしたが、汗をかきました。柔らかい日差しにやけつくような初夏のそれがたしかにあります。皐月は田植えがさかんに行われ、早苗を植える月と言うのがその由縁だそうです。苦手な夏が近かいとは言え、5月は始まったばかり。原稿を書きながら、薫風に身を任せてふらっとどこか行こうかなどと考えています。
さてわが「12期の広場 」5月号のラインアップです。今月号は2編で以下の通りです。お楽しみ下さい。先日、九州の文屋久子さんから『「市岡高校12期の広場」楽しく読ませていただいております。忙しい事と思いますが、楽しみにしている私のような者がいることを覚えていてくださいね。』との葉書を頂きました。うれしい話で感謝、感謝、力が入ります。
1. 「市岡の森のお花見に行ってきました」 7組 張 志朗
2. 「美術展と東京メンバ-」 5組 泉 信也
2017年5月1日

舞洲は「舞洲スポーツアイランド」と呼ばれる人工島で、ユニバーサルスタデジオジャパンがある、此花区の桜島と此花大橋で結ばれています。此花大橋は大阪港に出入りする貨客船に配慮してか、海面から橋桁までが非常に高く、橋の上からは大阪湾全体を一望することができます。
午前10時半頃に、JR夢咲線(以前の桜島線)の桜島駅に到着し、駅前から多くも先輩や後輩とともにバスに乗りました。バスの終点である、舞洲ロッジ前のすぐそばの小高い丘一帯が「新夕陽ケ丘」でその東斜面に我が「市岡の森」があります。舞洲ロッジの玄関前で受付をすませ、準備していただいていたお弁当やビールなどを持って丘に登り、いつも食事場所として利用している東屋に向かいました。

石井君は滋賀の大津から、榎本君は神奈川県の横浜からの初参加でした。榎本君は翌日、港中学の同窓会が予定されていて、それに合わせて1日早めに来阪しての参加でしたが、2月に腰の再手術をしたばかりで、頑丈なコルセット着用していました。しかし元気一杯、市岡の森でのお花見を十分に楽しまれたようでした。
肝心の桜ですが、満開の見事な咲きっぷりでした。このお花見は、毎年の4月第2日曜日の固定開催ですので、いままでは満開に間に合わなかったことの方が多かったようです。しかし今年は絶妙のタイミングで、満開の桜の花一色でした。12期が記念植樹した桜も立派な花を咲かせていました。

特に、この日会場にきていた吹奏楽部のみなさんが、入学希望の中学生へのプレゼンテーションに積極的に一役買ったとの校長先生の話が印象に強く残りました。
お花見は、卒業年次ごとに車座になって盛り上がりました。満開の花の下、高校19期でしたか、ギターを持ち込んでの合唱が始まるなど大賑わい。12期の私達も美味しいお弁当とビール、原君が差し入れてくれた焼酎を堪能しました。
やはり、同窓生が集まると、その元気な姿とお喋りがなによりもうれしいことです。
話題は健康を含めての近況や最近の関心事、趣味など、つきることはありません。12名全員とじっくり話をしたかったのですが、そうも行かず、石井君とはいまも仕事に頑張っている話、竹田君からは外国旅行者が急増したお蔭で、生け魚など鮮魚を扱う家業が大忙しになった話、
榎本君とは、二回目の腰の手術で体から取り出した長いビスとチタン製の支持具を前にしての話など、大笑いしたり、真剣に耳を傾けたりしました。後日、末廣君からお願いしていた資料を送って頂いたのですが、その中の書信に「昨日の市岡の森の花見—見事に満開、はじめてでしたね。横浜から榎本君が来てくれた。またいつもの顔がある。しかし、年々、一寸ずつ、変化していますね。いつまで続くか、会うたびに生きているよろこびを感じます。」とありました。
お花見では母校現役吹奏楽部の皆さんの楽しく素晴らしい演奏が披露されました。

「前日までの雨模様もみんなが集う場所には何の心配もなく、原君の焼酎に勢いを得て、いつも通り、ワイワイ言いながらのお弁当にブラスバンド演奏、大判の歌詞プレートを見ながら声を張り上げ校歌を歌う。あっという間の宴でしたね。今年は横浜から榎本君がコルセット姿で初参加、ありがたいことです。」と酒井君が送ってくれたお花見写真の手紙に書いてありました。
お花見が終わったあと、バス停前の「浪速津焼陶芸館」の喫茶コーナーでコーヒーを飲み、またそこでひとしきりお喋り。
お喋りは「中年女性の専売特許」ではないなーなどとつぶやきながら、午後3時過ぎ、充実した気分で市岡の森を後にしました。
2017年5月1日

去る4月12日、このところ恒例となった圓尾兄の美術文化協会への出展作品を見る会がありました。場所は上野の東京都美術館、集まったメンバーは画伯を囲んで西條、中柴、萩原、平松、森重、山田、泉の8名。なかでも圓尾、平松、森重の三兄は梅香中学以来の仲良しと云う。またいつもなら居るはずの榎本、大石橋の両兄の不在は都合とはいえ残念でした。

圓尾兄の所属する美術文化協会は1939年に前衛的な画風の作家41人により創設された会で、全国各地での公募展など活発に新人の発掘、育成を行ってきています。今度の77回展も289点の力作がそろい、見て回るだけでも相当のエネルギーを必要としました。写真にあるように出展作は「手品師」、どこかトランプ、安倍似のあやしげな手品師の背景にいろいろな寓意が隠されているようだが、作者はどうぞ見る人が好きなように解釈してほしいと云う。日頃芸術には縁遠い面々ですが、ここは萩原兄の鑑賞コメントが的を射ているので骨子をご紹介します。
「先の読めない現下の社会情勢を映したような絵柄で、危うい時代を予感させるテーマが描かれている。にもかかわらずユーモアを感じさせるタッチと明るく多彩な色使いで、良い将来を暗示する楽観性に共感させられます」
皆さんも「金太郎シリーズ?」など多くの作品を目にされたことと思いますが、常に「明るさの希求」が通奏低音のように流れている圓尾兄の絵を、門外漢ながら応援し続けたいと思いました。
難解な前衛作品の数々の鑑賞に疲れた後は軽く一杯、これが楽しみで展覧会は口実という筆者のような輩もふくめ、駅前で早めの飲み会が始まりました。


近況など参加者の「ひとこと」をご紹介してこの稿を終わります。
圓尾:東京も会を重ね、こう云う懇親のきっかけにしてもらえるのは幸せ。
平松:花の名所、目黒川散策の日々を楽しんでいます。実は川は汚い!
森重:公開のコメントは敬遠、久しぶりに顔を合わせるのは歓迎。
西條:そろそろ川歩き、5月後半で案内するので乞うご期待。
中柴:家の建て替えを計画中。画伯の大作を飾れるような部屋を!
萩原:永年の翻訳業をリタイヤ、「TIMEを読む会」を始めました。
山田:芸術は分からん!と云いながら作陶三昧。10月に作品展で飲もう。
泉:未だ娑婆に片足をとられながらも、山登り三昧です。川歩きも!
2017年4月1日
春がゆるやかに動き出し、街も人も華やかに色どりを取り戻して行くようです。新年度、新学期が始まり、入社式、入学式に向かう新入社員や新入生を見かけましたが、りりしい若人の姿や着飾った親御さんとピカピカの学生服に身を包んだ新入生の姿は、眺めるだけで心が温かくなりますね。
週に3回ほど早朝、通学生の多い阪急電車で大阪や神戸にでかけます。車窓から見えるバス停に列をなす学生達も3月は、そのほとんどがノートや教科書を開いていました。しかし今、その姿はありません。燦々と輝く陽光を浴びて楽しそうに談笑しています。
先月、私達の入学60年の節目の年に母校への入学志願者が定員割れを起こすのではないかと大層心配しましたが、市岡高校の入学志願者率は115%で、320名の第72期生が無事、入学を果たしました。希望を胸に新しい旅立ちに臨む72期生の皆さんの前途に幸多かれとエールを送りたいと思います。
先日テレビを見ていましたら、「4月は出会いの月」とのコピーが目にとまりました。月並みと言えば失礼かもしれませんが、その言葉がストーンと私の胸におちました。
振り返れば、60年前に市岡高校に入学し、多くの素晴らしい恩師と多彩な学友に出会いました。そして今、それがささやかな自身の人生の貴重な糧の一つであったと思っています。代表幹事の酒井八郎君が卒業50周年記念で参加した母校の「第62回 卒業式 」で話した「人は人の中にあって磨かれる」との言葉がありますが、これも得難い出会いがあってこそのこと。72期生の皆さんにもそんなすばらしい出会いに恵まれることを願わずにはおれません。
残念ながら老境にある私達には、老化に向き合い、出会いよりむしろ、別れに向き合う方が多いのが日常であるようです。9日、舞洲の市岡の森でお花見がありますが、同窓生との旧交を温め、元気に楽しく4月を満喫したいと思っています。
さて、我が「12期の広場」4月号のラインアップです。とは言いましても記事は一篇で、それなりにお楽しみください。
1.「豚汁会に行ってきました」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7組 張 志朗
2017年4月1日
久しぶりの母校で、在学時通いなれた当時の裏門(現在はここが正門)から入ると懐かしさがこみあげてきます。3月初旬にしては暖かい日でした。正門から会場の「100周年記念会館」までは縦長の運動場の横を通るのですが、野球部の練習風景はなく、代わりに女子ソフトボール部の皆さんが一生懸命に練習していました。キビキビとした練習風景を見るのは心地よいものです。男子生徒と女子生徒の比率が逆転し、女子生徒が多いせいなのかな、などと思いながら敷地の南西にある会場に到着しました。

定刻の12時、全体同窓会の佐藤会長の挨拶から会が始まりました。
冒頭、佐藤会長は、明治37年から始まった「豚汁会」について「一時中断がありましたが、新制高校なった戦後からは絶えることなく続く、市岡高校独特の恒例行事であると」と紹介され、続けて6日の入学願書締め切り日を前に、入学志願者数が定員をオーバーしたことを報告されました。参加者は勿論、市岡にゆかりのある皆さんが、心配していた問題だけに、安堵の溜息が広がりました。
続いて旧制中学45期の益正行大先輩の乾杯の発声で、会食が始まりました。

豚汁会に参加していつも思う事ですが、80才を越えた旧姓中学の大先輩から、つい最近卒業したての若い同窓生まで一堂に会することが出来るのは、まさにこの会ならではのことで、この行事を絶えることなく続けてほしいと言うことです。
会も一段落したところで参加者の皆さんのショートスピーチがありました。このスピーチは参加者の皆さんが学ばれた時代と学校生活の一端をうかがい知ることが出来るもので、古い校歴を持つ市岡ならではのもの、大変興味深いものでした。
戦時中の「住友伸銅所」(住友電工の前身)の防空壕で空襲に曝された話や、旧制中学から新制高校への移行で男女共学になり、市岡高等女学校(現在の港高校の前身)などから女子生徒が入って来た話、旧制中学43期で入学し、新制高校第1期での卒業した話や、「窓ガラスは割れ、ボロボロの校舎」で勉学とクラブ活動にいそしんだ話など、話題は尽きませんでした。スピーチはさながら市岡の歴史を俯瞰するよう展開して、一筋に連なる言葉と想いを通して、校歴とは、伝統とは何であるかを考えさせられました。
12期の皆さんもショートスピーチをしました。酒井君は彼の教え子が姪にあたる11期の先輩との出会いに人の縁を痛感した話をし、川村君は現在の関心事が「古都としての『京都』と時代としての『昭和』です」とますます盛んな好奇心について話しました。豚汁会の会場で「タカラジェンヌ誕生」と書いた、資料をもらったのですが、演劇と映画鑑賞が今もっとも興味があることと言う岸川君は「ついに市岡の卒業生にタカラジェンヌが出る時代になったのか」と会場をわかせました。田端君は「先輩と持病の話を楽しんだ」と元気一杯で、古藤さんは山歩きと町内会のお世話にいそがしいとこれまたお元気です。私は役目通り、「『12期の広場』を見て下さい」とアッピールしました。
締めは恒例の市岡高校吹奏楽部OB・OGバンドの演奏でした。この日編成は29名で、参加者に合わせた選曲とアンサンブルです。「となりのトトロ」に始まり、「美空ひばりメドレー」が入るなど、会場は大いに盛り上がりました。

「アンサンブルステージ、良かったです。中高吹奏楽を聞く機会が多い中、大人の演奏を楽しませてもらいました。」
「市岡高校の大ファンです。情報が入らず、苦慮しています。市岡高校の演奏に加えて礼儀良さに感銘を受けています。今年こそ全国大会に行ってもらいたいものです。OB・OGバンドも吹奏楽コンクールにエントリーされてはいかがですか。」
「音楽はみんなの心をひとつにしてくれる。すべての曲に勇気と元気をいただき、若い皆様と一緒にたっぷり楽しませていただきました。次回お会いする日を楽しみにしております。」
定期演奏会は次回が第10回目です。次回は万障繰り合わせて必ず行って見ようと思っています。読者の皆さんも是非、ご一緒下さい。
「豚汁会」は午後2時過ぎ、OB・OGバンドの力強い伴奏で校歌を斉唱してお開きとなりました。
2017年3月1日

風が冷たい早春とは言え、やわらかな日差しはありがたいもので、そんな事にさえささやかな幸せを感じてしまうのが少々口惜しい。また今月下旬に満開の桜に再会出来ると思うと、あの厳しい寒波が別世界のことのように感じられるのが不思議です。ともあれ爛漫の春がすぐそこにあることを素直にうれしいと思っています。
お気づきの方もおれられかもしれませんが、この3月は12期の私達が市岡高校を受験して、60年の節目になります。言わば「還暦」になるわけで、過ぎ去った長い年月がずしりと胸におちます。また新年号のラインアップで初孫の高校受験について触れましたが、そのめぐり合わせの妙や、母校の入学希望者の定員割れと存続問題を考えてしまいますね。
60年前の1957年3月18日、午後の入学試験を控えての昼休みに、経験したことのない違和感を感じて母の作ったお昼弁当を半分も残したことを良く覚えています。やはり相当にプレッシャーを感じていたのでしょう。筆者の孫(岡山の県立高志望)を含めて、母校市岡高校を受験する後輩たちがプレッシャーに負けることなく実力を発揮できるよう、心から祈りたいと思います。
2月の新聞報道によると、今年の市岡高校志願者数の一次集計では定員の82%だったそうです。願書の受付最終締め切りが3月6日ですから、定員割れが回避できるかどうか、まだ不明と言うことにはなりますが、おおかたの判断は厳しいようです。
新年号に『市岡高校への入学は、まさに筆者の人生のとばくち、と同時にすばらしい恩師と多彩な個性をもった学友にめぐりあい、そして営々と培われた伝統にはぐくまれた高校生活であったようです。その市岡高校が定員割れから存続の危機にあると言いますから、あらためて、いたたまれない気持ちになります。市岡高校は卒業生である私達が拠って立つ所の母校、現役生徒にとっては大切な伝統ある学び舎です。なにがなんでも、この危機を乗り越えられるよう切に願うばかりです。』と書きましたが、受験60年の節目を思う今、尚更にこの気持ちはつのります。改めて母校の存続問題が円満に解決するよう、強くお願いしたいと考えています。
さて「12期の広場」3月号のラインアップは次の通りです。記事が一つですが、ご覧下さい。
1. 「スケッチを楽しんでいます。」
2017年3月1日

「神戸スケッチ会」のことを少し書きますと、発足して10年。絵を画くことを趣味にしている会員さん15名程度(最高齢者は83才で60才台が主なメンバー)の自由で気楽なグループだそうです。例会はその月の第二日曜日。午前10時に予定された場所に集合して、思い思いにテーマーを決めて午後2時までスケッチ、その後、出来上がった絵を並べて全員で合評会をしておられるそうです。スケッチをする場所は神戸市内が中心ですが、時には東は尼崎、西は加古川あたりまで足を延ばすとのことです。
酒井君は現役商店主。平日は午前9時から午後6時過ぎまでしっかり仕事をこなし、休日は町内会の所用やその他地域行事などへの参加があり、毎回参加と言うわけには行かないようですが、なんとか時間をやりくりして積極的に参加しているそうです。
2014年7月号の「12期の広場」で彼のスケッチ(タイトル-「私のスケッチブック」)を紹介させてもらった事があります。そこに以下の文章があります。
『「6インチの荒目ヤスリ」、「1000番の耐水ペーパー」、「0.7mmのストレートドリル」、「K18の6mm引輪」、「シルヴァー3mmのパイプ線」、「0.5カラット用Pt DIA 6本爪」などなど、小学校教員をやめて45年、毎日、ノギスと時計用ピンセットを片手に、細かい宝飾品パーツや時計部品を扱い続けています。縁あって5~6年前くらいから一級建築士の建築デザイナーの指導を受けながら、グループで街のスケッチに出かけるようになりました。「ここで」と思ったら3~4時間、座ったまま。スケッチブックと格闘していますが、いつも時間不足、技能不足で引き揚げる始末です。』
今回私が店舗兼自宅を訪れたが夕刻。奥様も同席されコーヒーを頂き、作品を拝見しながらお話ししました。
酒井君は「びっちり4時間、ただ絵を画くことに没頭できるのは、雑事に追われる日常とは全く異なった格別のものです。ただ腕前が上がらないのが残念」と笑っていました。
神戸は北が緑一杯の六甲山地、南が豊かな大阪湾、それに抱かれるように美しい市街地が広がっています。また由緒ある神社、仏閣、ポーアイと呼ばれる人工島や、異国情緒豊かな港の風景と有名建築物群、そしてそこに息づく人々の生活など、スケッチの対象には事欠かないようです。
奥様が「神社でスケッチしていると普段はめったに聞かない太鼓の音が響き、巫女さんが緋袴を風にそよがせ通りすぎます。港のスケッチでは行きかう船の汽笛がボーと聞こえます。長く神戸に住んではいますが、こんな所があったのかとの新たな気づきにちょっと驚いたりしますね」と話してくれました。あのいまわしい震災の記憶がよぎるだけに、なにげない神戸の日常をスケッチすることの喜は、ひとしおしみじみとしたもののようです。
朝早く起き、弁当を作り、スケッチ用具を肩にかついで出かけるそうです。そして現地への行きかえりもワイワイガヤガヤと楽しく、スケッチに夢中になってお弁当を食べるのを忘れることもあったそうです。また作品をポストカードにした所これが好評、作品展会場で品切れになったそうです。
無理を言って奥様の作品も掲載させて頂くお許しをいただきました。酒井八郎君の作品と併せてお楽しみ下さい。
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより: