12期の広場
2019年10月1日
6組 高見 政博

さて、秋に咲く花というと「秋の七草」を思い出します。「萩、桔梗、尾花、撫子、女郎花、葛、藤袴、秋の七草」といずれも華やかさはあまりありません。
そんな中で、一番に思い出すのは「彼岸花」「コスモス」でしょうか。昨年のラインアップの写真に選ばれたのは9月の花は「彼岸花」、10月の花は「コスモス」11月の花は野菊の仲間「ノコンギク」でした。
でも、それ以外に咲く花は多くあります。けなげに咲く姿を幾つかを紹介します。
「サラシナショウマ」です。「サラシナ」は若葉を水に晒して食したことから「晒し菜」。「ショウマ」は「升麻」 漢方で本種の根が鎮痛、沈静薬となることからの名前です。
花穂の長さは20~30㎝。小さな花が無数について1本の花穂になっています。
遠くからでも良い匂いが漂います。その匂いに誘われて蝶や虫たちが集まります。このときはアカタテハがとまって夢中で吸蜜していましたので、

「マツムシソウ」です。この花が咲き始めると高原は一気に秋の気配がただよいます。
花の大きさは3㎝ほど、高山の花としては大きなほうです。
詩人の立原道造が詩にうたっています。それでこの花にあこがれていました。初めて見たときは、大柄な花な

「カワラナデシコ」です。
日本女性の象徴のようにいわれ、女子サッカーのナショナルチームの呼び名が「なでしこジャパン」ですが、私はこのような扱いには違和感をおぼえます。今の日本女性は個性豊かで、それぞれにそれぞれの場所で活躍されています。それを一つのイメージに十把一絡げに括ってしまうのは女性に失礼ではないかという思いが消えません。
そうはいっても、繊細で細やかな表情をしておりながら、雑草の中で凜と咲いている姿は芯の強さを感じさせます。その意味では日本女性の象徴も強(あなが)ちピント外れでもないかもしれません。

通称「ネコジャラシ」
道ばたで少しでも土があれば生えてきて、雑草として厄介者です。実際抜いても抜いても、ほんの少し根が残っているといつの間にかはびこって、大群落をつくります。
でもそれが雑草の雑草たる所以で、その生命力は感嘆します。
この写真は夕方陽が傾きかけた頃、少し赤みを帯びた光を受けて「芒(のぎ)」が輝いたのを撮りました。
厄介者もこうして見ると輝いて見えます。
「キイイトラッキョウ」です。

一つの花房は1~1.5㎝で、小さな花が数十個つきます。
このほかに似た花が咲く「ヤマラッキョウ」があります。
最初に書いたように、秋の花は 概して地味です。しかし、与えられた環境の中で精一杯咲いている姿に感銘を覚えます。拙い作品でそんな姿が伝えられたか心配ですがご覧ください。
2019年7月1日

夏至の日にこの文章を書いています。夏至は太陽の南中高度がもっとも高くなる時期で、太陽が真上から照り付け、そして日照の時間がもっとも長くなります。容赦のない強い日射と、どんどん貯えられる地熱で、今年も猛暑・酷暑とうだる熱帯夜は避けがたいようです。またその先ぶれにじめじめ、むしむしの梅雨の洗礼を受けるわけですから、少々気分が滅入ります。すでに梅雨入りし、先日激しい雨に見舞われた関東地方のそれは、梅雨と言うより"雨季”の豪雨と言った感じです。
さてさて“この一夏”をどう切り抜けるか、何が出来るわけではない思案に今から心が細りますね。元気に、心健やかに、何事もなく、“この一夏”をすごしたいものです。
今月号は季刊更新の二回目の夏号ですが、編集記事の内容やそのペース配分は、いまだ手探り状態です。月更新と異なる“よそおい”があるはずと思いながらもそれがはっきりしません。当面はこの状態が続くと思いますので、宜しくお付き合いください。
今号で初めて母校のクラブ活動紹介に類する記事を掲載しました。母校への応援も実状を知ってこそとの考えから言えば、もっと早くに扱うべきであったと思っています。できれば、これからも多角的に紹介できたらと考えています。
さてわが「12期の広場」2019年夏号のラインアップは次の5編です。お楽しみ下さい。
1. | 「舞洲市岡の森お花見会」 | |
2. | 「第34回 兵庫市岡歩こう会」がありました | |
3. | 「母校吹奏楽部の第57回定期演奏会に行ってきました」 | ・・・・7組 張 志朗・上野 裕通 |
4. | 「今しか出来ないこと」 | ・・・・大阪府立市岡高校吹奏楽部部長 森下 遼 |
5. | 「四季の花篭 ― つれづれに ①」 | ・・・・6組 高見 政博 |
以 上
2019年7月1日
4月14日(日曜日)、恒例の「舞洲市岡の森お花見会」(此花市岡会主催)が開かれました。
残念ながら当日は、朝から曇天、開会時の11時頃には小雨がパラ付くあいにくのお天気。舞洲でのお花見が始まって以来、初めての雨天でした。
それでも全体の参加者は、150名程度おられたと思います。12期の参加者は、酒井八郎君、末廣訂君、川村浩一君、上野裕通君、松田修蔵君、八島平玐君、上山憲一君、武田博君、清水清治郎君、石井孝和君、段中文子さん、八島節子さん、柏木赫子さん、古藤知代子さん、嶋田ハル子さんの皆さんと筆者の私、張志朗の16名でした。
肝心の桜ですが、駆け足の桜も寒の戻りがあったせいか、なんとか持ちこたえたようで、十分に名残の桜を楽しむことができました。
宴が始まる頃には小雨模様で、肌寒さがつのります。あらかじめ準備されていた舞洲ロッジの2階和室を利用しての宴会となりました。
お花見の会終了後、ロッジの1階喫茶店でお茶をしながら、お喋り。舞洲を後にして大阪駅前まで行って、またお茶とお酒を楽しんで解散でした。
残念ながら当日は、朝から曇天、開会時の11時頃には小雨がパラ付くあいにくのお天気。舞洲でのお花見が始まって以来、初めての雨天でした。
それでも全体の参加者は、150名程度おられたと思います。12期の参加者は、酒井八郎君、末廣訂君、川村浩一君、上野裕通君、松田修蔵君、八島平玐君、上山憲一君、武田博君、清水清治郎君、石井孝和君、段中文子さん、八島節子さん、柏木赫子さん、古藤知代子さん、嶋田ハル子さんの皆さんと筆者の私、張志朗の16名でした。
肝心の桜ですが、駆け足の桜も寒の戻りがあったせいか、なんとか持ちこたえたようで、十分に名残の桜を楽しむことができました。
宴が始まる頃には小雨模様で、肌寒さがつのります。あらかじめ準備されていた舞洲ロッジの2階和室を利用しての宴会となりました。
お花見の会終了後、ロッジの1階喫茶店でお茶をしながら、お喋り。舞洲を後にして大阪駅前まで行って、またお茶とお酒を楽しんで解散でした。
2019年7月1日
第34回兵庫市岡歩こう会が、5月12日(日曜日)に開かれました。コースはJR大久保駅(大阪からいえば、西明石の次の駅)を出発し、屏風が浦から江井島・なぎさ海道を歩いてJR魚住駅にいたる8Kmです。
お天気は快晴、五月晴れを通り越して一足先の夏日で、今年最初の日焼けをしました。
行程のほとんどは、播磨灘を左に海沿いの道を行くコース。遠く淡路島を眺めながら海風に吹かれてのんびりと歩きました。陽光に光る初夏の海と行きかう船は、それだけでも美しいもの。さらに整備されて延々と続く砂浜や、係留されている漁船群、なぎさに遊ぶ家族づれや釣り人の姿には自然と心がなごみます。そしてここはまた、明石原人の腰骨発見の地と言いますから驚きです。海に向かって建てられた大小の住吉神社が何か所にもあり、そこに万葉歌碑もありました。
豊かな自然とその恵みの中で営々と続けられてきた人々の営みが深く刻み込まれた所でもあるようです。
参加者は36名、最高齢は高校2期の大先輩です。最多参加は13期の11名、12期は、古藤知代子さんと私、張志朗の二人でした。
お天気は快晴、五月晴れを通り越して一足先の夏日で、今年最初の日焼けをしました。
行程のほとんどは、播磨灘を左に海沿いの道を行くコース。遠く淡路島を眺めながら海風に吹かれてのんびりと歩きました。陽光に光る初夏の海と行きかう船は、それだけでも美しいもの。さらに整備されて延々と続く砂浜や、係留されている漁船群、なぎさに遊ぶ家族づれや釣り人の姿には自然と心がなごみます。そしてここはまた、明石原人の腰骨発見の地と言いますから驚きです。海に向かって建てられた大小の住吉神社が何か所にもあり、そこに万葉歌碑もありました。
豊かな自然とその恵みの中で営々と続けられてきた人々の営みが深く刻み込まれた所でもあるようです。
参加者は36名、最高齢は高校2期の大先輩です。最多参加は13期の11名、12期は、古藤知代子さんと私、張志朗の二人でした。
2019年7月1日
4月28日(日曜日)、29日(月曜日)の両日、母校吹奏楽部の第57回定期演奏会が大阪市立住吉区民センター大ホールで開催されました。28日は午後6時開演、29日は午後1時30分の開演で、二日間にわたっての演奏会は、第53回以来、4年ぶりのチャレンジだったそうです。常々、母校吹奏楽部の活躍に注目し、またそれを是非「12期の広場」に掲載したいと思っていたこともあって、28日の初日公演に出かけました。
「満員の観客に支えられて」
梅田から難波に出て、南海電鉄高野線に乗るのは久しぶりのこと。会場の最寄駅である沢ノ町駅までは何故か落ち着きませんでしたが、下車後、演奏会に向かうと思われる人並みにすっかり安堵しました。会場に到着し、開演まで40分もあるのに、すでに400人くらいが行列しているのを見て、今度は大いに驚きました。
開場は5時30分、定員数800の客席は、すぐにほぼ満席状態になり、6時の開演時には、両側に立ち見の観客がいるなどの盛況ぶりでした。
観客は子供から高齢者まで実に多彩です。やはり多いのは部員の家族や同窓生・友人、吹奏楽部のOB・OGの市岡の関係者のようで、一般観客の中には他校の吹奏楽部部員と思われる人や、市岡の吹奏楽部に憧れて来たと思われる中学生が目立ちました。後日確認したのですが、二日目もはかったような満席だったそうです。
定期演奏会は年に1回です。今回が57回目ですから、第1回は1962年ということになります。創立100周年記念誌によると、音楽部の中にブラスバンド部が出来たのが、1960年で、そこから独立してブラスバンド部として創部されたのが、1963年となっています。
実質的には音楽部内のブラスバンド部が、独立し創部する以前から演奏活動を始めていたとするのが自然で、その第1回を1962年としても矛盾はありません。私達12期の卒業が1960年です。その時に初めてブラスバンド用の楽器を卒業記念品として贈呈しており、翌年13期が同様に楽器を贈り、それらが現吹奏楽部の出発点になったのは間違いないようです。一寸嬉しくなりますね。
創部以来、概ね60年、吹奏楽部はブラスバンドからウインド・オーケストラに成長してきました。筆者もはじめて知ったのですが、ブラスバンドは主として金管楽器(トランペットなど)による編成で、ウインド・オーケストラは、金管に加え木管楽器(クラリネットなど)が入った編成だそうで、そのぶん緻密で多彩な音色を持つ合奏形態になるのだそうです。
「『聴く人の心に響く音楽を!! 』と、楽しんでこそ」
公演は2,3年生中心、楽器種別11パート、72人編成と、それに元気一杯の新1年生43名を加えた115人編成で行われました。
第1部は3曲、(『音楽祭のプレリュード』― A・リード 作曲、『管弦楽と打楽器のためのセレブレーション』― J・スウエアリンジェン 作曲、『Requiem』― G・ヴェルディ 作曲)第2部は企画ステージ 『平成最後の市岡ヒットショー』、第3部はディズニー映画曲に乗せてのパート楽器紹介とほか3曲(『Merry-Go-Round』― P・スパーク 作曲、『心の瞳』― 三木たかし 作曲、『富士山-北斎の版画に触発されて』― 真島 俊夫 作曲)でした。
いずれの演奏も部員の皆さんの心と練習の成果が一つになった音楽性の高いもので、個人的には、第一部の『音楽祭のプレリュード』と第3部の『富士山-北斎の版画に触発されて』に魅了、圧倒され、鳥肌が立ちました。
プログラム構成全体も、よく工夫されています。『聴く人の心に響く音楽を!! 』との合言葉と客席と一体になって音楽を楽しもうという気持ちがみなぎったものです。
特に第2部の企画ステージ 『平成最後の市岡ヒットショー』はその真骨頂で、懐かしのメロディの数々に加えて、ダンスあり、コントあり、パロディありのアンサンブルでした。客席からの手拍子と歓声、笑いが一杯、そして大盛り上がり。吹奏楽の生演奏ならではの大迫力と醍醐味に溢れていました。
会場の入口でプログラムを配布していたのですが、そのすべてに名刺大の手書きメッセージカードが付いています。私が貰ったそれには「第57回定期演奏会にお越しいただきありがとうございます。最後まで楽しんでお聴きください。」との言葉と名前、担当楽器が書かれており、部員皆さんの熱い気持ちが直に伝わります。
「多彩な吹奏楽部の活動」
定期演奏会は、毎年、この時期に行われていますが、新1年生にとっては、初ステージへの挑戦、2年生には吹奏楽部主力への自立、3年生には引退を前にしての総仕上げなど、それぞれの課題への号砲ともなるようです。この後、吹奏楽部の活動の中心は、6月の「全日本吹奏楽コンクール」の地区大会、大阪府大会への出場に移って行きます。地区大会をクリアーした大阪府大会では、近年、金賞を連続受賞するなど、安定した好成績を残していますが、関西大会への出場は、出場枠の数の制限に阻まれ2015年以降、実現していません。関西大会の先に全国大会があるわけですから、コンクール出場のハードルは非常に高いようです。また部内でも、ブラインドオーディションを行うなど、コンクール出場者55人枠決定のための厳しい選抜があります。
コンクールを終えた後の8月に、「ファーストコンサート」(昨年は淀川区民センター)、9月に3年生を送り出すための「ファミリーコンサート」(昨年は住吉区民センター)を主催し、それを縫うように、各種行事への招待出演や賛助出演を10回程度こなしています。昨年度の記録を見ると、10月28日の「天保山まつり」に始まり、11月27日の「第3ブロック音楽会」までの一か月の間に、さらに2回の演奏を行うなど、息を付く暇もないのではと思われるほどの活躍です。また、これらを学校や、指導スタッフ、OB・OGの支えがあるとは言え、すべて吹奏楽部の部員自らの力で計画・組織し、実行・運営していると言いますから驚きです。
「全員が奏者、マネージャーなしの自主的運営」
定期演奏会の後、お願いして吹奏楽部部長の森下遼君(トロンボーン担当)、副部長の菅原ひかりさん(打楽器担当)、同じく副部長の河口莉緒さん(サクソフォーン担当)、金管セクションリーダーの松野美妃子さん(トランペット担当)、木管セクションリーダーの上原誠実君(クラリネット担当)の5人の3年生から色々なお話を聞かせてもらいました。
そのすべてをここには書けませんが、そのどの言葉も115名の部員と共に市岡の吹奏楽を作る自負と喜び、そして責任感にあふれるものでした。
二日にわたる定期演奏会は、このメンバーでは初めての経験です。練習は勿論、気持ちと体力への負担が相当大きかったはずですが、それを「満席のお客様に楽しんで頂き、また自分たちも楽しんで最後まで吹けました」と笑顔で言い切る姿が清々しく印象的です。
吹奏楽部はピッコロ、フルート、オーボエ、ファゴット、エスクラリネット、ベークラリネット、アルトクラリネット、バスクラリネット、テナーサクソフォーン、アルトサクソフォーン、バリトンサクソフォーン、トランペット、ホルン、トロンボーン、ユーフォニアム、チューバ、コントラバス、パーカッションなど、20余種の楽器と100名を越える大編成です。部員の出身中学を見ても南は和泉市、北は池田市などの大阪府下全域に広がり、楽器経験も当然のように様々です。さらに言えば、学業とクラブ活動の両立が原則の公立高校ですから、練習時間をはじめさまざまな制限があります。楽器の数も十分とは言えないようで、クラブ所蔵の楽器を中心に、個人所有の楽器や一時借用した楽器でまかなっているそうです。専用施設や有名楽器を潤沢に揃え、専用バスまでを持つ有名私学吹奏楽部との環境のハンディキャップは実に大きいと言わざるを得ません。
このような条件をクリアーしながら、府下公立高校で、トップクラスの吹奏楽部として活動している訳ですから、練習や演奏会とその運営での自主的努力と創意工夫やチームワークは、大いに称賛されるべきものと言えそうです。演奏活動の運営と大部隊を動かす手法やノウハウは、代を継いで先輩から教わり、それを確実に体得してきたはずです。
しかし、新入生を迎え、絶えず 変化する部員の人間関係やチームワークだけはその都度、愚直なまでのコミュニケーションとぶつかり合いを繰り返すことによって築いているようです。そしてそれが、深く貴重な"生きた学び”として実を結んでいるようです。
「“生きた学び”を通して」
インタビューでの一言を下に紹介します。
「これだけ部員がいるといろんな意見があって、ぼくらが予想もしていなかったような意見が出てきたり、全然違う方向を向いている新入生もいたりして、それをまとめて行くことは大変だなと思いました。しかし、部長になって思った事は、1年生の頃には全然そういうところが見えていなかったことです。先輩方もいろんなことがあって頑張って来られたのだなと思い、最後まで頑張ろうと思っています。」(部長:森下君)
「副部長の立場で、練習以外に定期演奏会プログラムに載せる協賛の広告をもらいに回る仕事や、演奏会のホ-ルの予約等、外部の人との関わりを持たせていただきました。将来のために良い経験をさせていただいたと思っています。」(副部長:菅原さん)
「中学校の時から、人に指示をするようなことがありませんでしたが、今は、自分が変わって
きたことを実感できています。演奏会を見に来ていただいた人で、よかったよと涙を流してくれる人がおられ、“あぁ聞いてくれる人に届けられる演奏ができているのだ”と思い、そこに携われているということが嬉しいなと思っています。」(副部長:河口さん)
「セクションリーダーになって一年とちょっと経つのですが、定期演奏会まで、特にこの春前ぐらいまでの期間が一番しんどかったように思いました。でも、自分達が引っ張って行く初めての定期演奏会であったので、今ものすごい達成感があります。自分一人ではできない演奏会なので、
自分にこれだけの人が手を貸してくれているということに気付きました。17年生きてこれほど感謝の気持ちを強く感じたことはありません。」(金管セクションリーダー:松野さん)
「セクションリーダーとしてよくミーティングをしましたが、部活全体をどう動かしていくかという立場で物を考えることができるようになりました。集団でしているのだから複雑な形で良い経験をしています。」(木管セクションリーダー:上原君)
最後に“めざす市岡サウンドはあるのでしょうか”などと、余分な言葉を付け加えてこれからのことを聞きました。
森下君は「コンクールへの出場と、そこでの成績も重要ですが、部員全員が存分に楽しむことを大切にしたい」と言い、菅原さんは「モチベーションが下がることがあります。その時こそつながりが重要で、人としてのつながりをより大切にしていきたい」と話してくれました。
また河口さんは「心を動かせるような演奏をしたい」とめざす音楽について話し、松野さんは「あと4か月で引退ですが、今後につながる何かを残したい」と、これからを見つめています。上原君は「毎年、変わるのでゴールはありません。吹奏楽が生きてゆく糧になれば、自然と演奏も厚みが出るのではないでしょうか。楽しんで行けたら良いなと考えています。」と、ぶれがありません。
部長の森下君をはじめ5人の皆さんから返ってきた的確で冷静な言葉は、自主・自律的に部活動に精進してきた人だからこそ出てくる言葉だと、少々たじろぎながら、感じ入りました。同時にまた、その言葉は、吹奏楽部の部員全員がともに市岡の吹奏楽を作る過程で育んだきずなを示すものとして心に響きました。
吹奏楽部創部57年の歴史が脈々と受け継がれているようです。
そして、市岡高校の代表的クラブ活動の一つになった吹奏楽部は、新しい伝統につながる確かな足跡を残しながら、今日も、コンクールや演奏活動、その練習にと猛暑の中、頑張っているようです。
(取材: 張 志朗、 上野 裕通)
「満員の観客に支えられて」

開場は5時30分、定員数800の客席は、すぐにほぼ満席状態になり、6時の開演時には、両側に立ち見の観客がいるなどの盛況ぶりでした。
観客は子供から高齢者まで実に多彩です。やはり多いのは部員の家族や同窓生・友人、吹奏楽部のOB・OGの市岡の関係者のようで、一般観客の中には他校の吹奏楽部部員と思われる人や、市岡の吹奏楽部に憧れて来たと思われる中学生が目立ちました。後日確認したのですが、二日目もはかったような満席だったそうです。
定期演奏会は年に1回です。今回が57回目ですから、第1回は1962年ということになります。創立100周年記念誌によると、音楽部の中にブラスバンド部が出来たのが、1960年で、そこから独立してブラスバンド部として創部されたのが、1963年となっています。
実質的には音楽部内のブラスバンド部が、独立し創部する以前から演奏活動を始めていたとするのが自然で、その第1回を1962年としても矛盾はありません。私達12期の卒業が1960年です。その時に初めてブラスバンド用の楽器を卒業記念品として贈呈しており、翌年13期が同様に楽器を贈り、それらが現吹奏楽部の出発点になったのは間違いないようです。一寸嬉しくなりますね。
創部以来、概ね60年、吹奏楽部はブラスバンドからウインド・オーケストラに成長してきました。筆者もはじめて知ったのですが、ブラスバンドは主として金管楽器(トランペットなど)による編成で、ウインド・オーケストラは、金管に加え木管楽器(クラリネットなど)が入った編成だそうで、そのぶん緻密で多彩な音色を持つ合奏形態になるのだそうです。
「『聴く人の心に響く音楽を!! 』と、楽しんでこそ」
公演は2,3年生中心、楽器種別11パート、72人編成と、それに元気一杯の新1年生43名を加えた115人編成で行われました。
第1部は3曲、(『音楽祭のプレリュード』― A・リード 作曲、『管弦楽と打楽器のためのセレブレーション』― J・スウエアリンジェン 作曲、『Requiem』― G・ヴェルディ 作曲)第2部は企画ステージ 『平成最後の市岡ヒットショー』、第3部はディズニー映画曲に乗せてのパート楽器紹介とほか3曲(『Merry-Go-Round』― P・スパーク 作曲、『心の瞳』― 三木たかし 作曲、『富士山-北斎の版画に触発されて』― 真島 俊夫 作曲)でした。
いずれの演奏も部員の皆さんの心と練習の成果が一つになった音楽性の高いもので、個人的には、第一部の『音楽祭のプレリュード』と第3部の『富士山-北斎の版画に触発されて』に魅了、圧倒され、鳥肌が立ちました。
プログラム構成全体も、よく工夫されています。『聴く人の心に響く音楽を!! 』との合言葉と客席と一体になって音楽を楽しもうという気持ちがみなぎったものです。
特に第2部の企画ステージ 『平成最後の市岡ヒットショー』はその真骨頂で、懐かしのメロディの数々に加えて、ダンスあり、コントあり、パロディありのアンサンブルでした。客席からの手拍子と歓声、笑いが一杯、そして大盛り上がり。吹奏楽の生演奏ならではの大迫力と醍醐味に溢れていました。
会場の入口でプログラムを配布していたのですが、そのすべてに名刺大の手書きメッセージカードが付いています。私が貰ったそれには「第57回定期演奏会にお越しいただきありがとうございます。最後まで楽しんでお聴きください。」との言葉と名前、担当楽器が書かれており、部員皆さんの熱い気持ちが直に伝わります。
「多彩な吹奏楽部の活動」
定期演奏会は、毎年、この時期に行われていますが、新1年生にとっては、初ステージへの挑戦、2年生には吹奏楽部主力への自立、3年生には引退を前にしての総仕上げなど、それぞれの課題への号砲ともなるようです。この後、吹奏楽部の活動の中心は、6月の「全日本吹奏楽コンクール」の地区大会、大阪府大会への出場に移って行きます。地区大会をクリアーした大阪府大会では、近年、金賞を連続受賞するなど、安定した好成績を残していますが、関西大会への出場は、出場枠の数の制限に阻まれ2015年以降、実現していません。関西大会の先に全国大会があるわけですから、コンクール出場のハードルは非常に高いようです。また部内でも、ブラインドオーディションを行うなど、コンクール出場者55人枠決定のための厳しい選抜があります。
コンクールを終えた後の8月に、「ファーストコンサート」(昨年は淀川区民センター)、9月に3年生を送り出すための「ファミリーコンサート」(昨年は住吉区民センター)を主催し、それを縫うように、各種行事への招待出演や賛助出演を10回程度こなしています。昨年度の記録を見ると、10月28日の「天保山まつり」に始まり、11月27日の「第3ブロック音楽会」までの一か月の間に、さらに2回の演奏を行うなど、息を付く暇もないのではと思われるほどの活躍です。また、これらを学校や、指導スタッフ、OB・OGの支えがあるとは言え、すべて吹奏楽部の部員自らの力で計画・組織し、実行・運営していると言いますから驚きです。
「全員が奏者、マネージャーなしの自主的運営」

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二日にわたる定期演奏会は、このメンバーでは初めての経験です。練習は勿論、気持ちと体力への負担が相当大きかったはずですが、それを「満席のお客様に楽しんで頂き、また自分たちも楽しんで最後まで吹けました」と笑顔で言い切る姿が清々しく印象的です。
吹奏楽部はピッコロ、フルート、オーボエ、ファゴット、エスクラリネット、ベークラリネット、アルトクラリネット、バスクラリネット、テナーサクソフォーン、アルトサクソフォーン、バリトンサクソフォーン、トランペット、ホルン、トロンボーン、ユーフォニアム、チューバ、コントラバス、パーカッションなど、20余種の楽器と100名を越える大編成です。部員の出身中学を見ても南は和泉市、北は池田市などの大阪府下全域に広がり、楽器経験も当然のように様々です。さらに言えば、学業とクラブ活動の両立が原則の公立高校ですから、練習時間をはじめさまざまな制限があります。楽器の数も十分とは言えないようで、クラブ所蔵の楽器を中心に、個人所有の楽器や一時借用した楽器でまかなっているそうです。専用施設や有名楽器を潤沢に揃え、専用バスまでを持つ有名私学吹奏楽部との環境のハンディキャップは実に大きいと言わざるを得ません。
このような条件をクリアーしながら、府下公立高校で、トップクラスの吹奏楽部として活動している訳ですから、練習や演奏会とその運営での自主的努力と創意工夫やチームワークは、大いに称賛されるべきものと言えそうです。演奏活動の運営と大部隊を動かす手法やノウハウは、代を継いで先輩から教わり、それを確実に体得してきたはずです。
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「“生きた学び”を通して」
インタビューでの一言を下に紹介します。
「これだけ部員がいるといろんな意見があって、ぼくらが予想もしていなかったような意見が出てきたり、全然違う方向を向いている新入生もいたりして、それをまとめて行くことは大変だなと思いました。しかし、部長になって思った事は、1年生の頃には全然そういうところが見えていなかったことです。先輩方もいろんなことがあって頑張って来られたのだなと思い、最後まで頑張ろうと思っています。」(部長:森下君)
「副部長の立場で、練習以外に定期演奏会プログラムに載せる協賛の広告をもらいに回る仕事や、演奏会のホ-ルの予約等、外部の人との関わりを持たせていただきました。将来のために良い経験をさせていただいたと思っています。」(副部長:菅原さん)
「中学校の時から、人に指示をするようなことがありませんでしたが、今は、自分が変わって
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「セクションリーダーになって一年とちょっと経つのですが、定期演奏会まで、特にこの春前ぐらいまでの期間が一番しんどかったように思いました。でも、自分達が引っ張って行く初めての定期演奏会であったので、今ものすごい達成感があります。自分一人ではできない演奏会なので、

「セクションリーダーとしてよくミーティングをしましたが、部活全体をどう動かしていくかという立場で物を考えることができるようになりました。集団でしているのだから複雑な形で良い経験をしています。」(木管セクションリーダー:上原君)
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森下君は「コンクールへの出場と、そこでの成績も重要ですが、部員全員が存分に楽しむことを大切にしたい」と言い、菅原さんは「モチベーションが下がることがあります。その時こそつながりが重要で、人としてのつながりをより大切にしていきたい」と話してくれました。
また河口さんは「心を動かせるような演奏をしたい」とめざす音楽について話し、松野さんは「あと4か月で引退ですが、今後につながる何かを残したい」と、これからを見つめています。上原君は「毎年、変わるのでゴールはありません。吹奏楽が生きてゆく糧になれば、自然と演奏も厚みが出るのではないでしょうか。楽しんで行けたら良いなと考えています。」と、ぶれがありません。
部長の森下君をはじめ5人の皆さんから返ってきた的確で冷静な言葉は、自主・自律的に部活動に精進してきた人だからこそ出てくる言葉だと、少々たじろぎながら、感じ入りました。同時にまた、その言葉は、吹奏楽部の部員全員がともに市岡の吹奏楽を作る過程で育んだきずなを示すものとして心に響きました。
吹奏楽部創部57年の歴史が脈々と受け継がれているようです。
そして、市岡高校の代表的クラブ活動の一つになった吹奏楽部は、新しい伝統につながる確かな足跡を残しながら、今日も、コンクールや演奏活動、その練習にと猛暑の中、頑張っているようです。
(取材: 張 志朗、 上野 裕通)
2019年7月1日
吹奏楽部 部長 森下 遼

まず一つ目は100名を越える部活動をまとめることはすごく難しいということです。一人ずつが違う意見を持っていて当然なのですが、それが分かっていてもうまくいかないのが部活動なのだとよく思います。
例えば、練習時間について、吹奏楽だけあって中学校からの経験者は非常に多くいます。中学時代にある部員は毎日練習していて、土日も朝から日が暮れるまで練習していた部員もいれば、練習は平日と土曜日の朝のみで、日曜日は休みでしたという部員もいます。現在市岡高校の吹奏楽部は、前者に近いようです。しかしながら、今まで後者だった部員にとっては毎日、厳しい練習するということは大変だと思います。どうしたら大変であっても楽しむ事が出来るのか、未だ、私たちも答えは見つかっていません。それを見つけようとするのが部活動の良いところだと思うので、色々なことにチャレンジし見つけたいと思っています。
二つ目は、人間関係について学ぶことが出来るということです。私は部活に入って良かったなと思う理由に、先輩や同期、後輩、大人の方と接する機会が多いというのがあります。例えば、「あいさつをする」というのは当たり前のことですが、一年生の時に、学校の先生方や先輩には立ち止まってあいさつをするという風に教わりました。社会に出てあいさつが出来ないとなると常識のない人だと思われても仕方がないところ、部活動で身に付いているとあいさつが自然と出来るようになり、そう思われることもありません。これも、先輩や大人の方との関わりがあるから身に付くものです。目上の方には敬語を使う、メールを送る際にも文面に気を付ける、最初は面倒くさいと感じた部員もいると思いますが、それでも大切なことだと私は思います。年下の人と付き合うのも同じです。

二つのことについて取り上げましたがまだまだ感じたことは沢山あります。すべてに共通していることは、部活動をしていないと経験できないということです。演奏をすることは大事ですが、吹奏楽を通して部員一人一人が何か一つでも学んでくれたら良いなと思っています。
2019年7月1日
6組 高見 政博
写真を趣味の一つにしています。元々、気が多い「材木屋」を自認していまして、そのため、どの趣味も道楽の域を脱することが出来ず中途半端なものばかり。
そんな写真を昨年1年間、HP委員の依頼で「広場」に掲載して頂きました。掲載は、月更新の「ラインアップ」のカット写真として1枚のみでしたが、その時に候補写真として送った複数枚の写真を、「夏号」から、『四季の花篭―つれづれに』 と題したコラムに掲載することになり、それに添える文章の執筆依頼を受ける羽目になった次第です。

今回は夏の花です。
1番目は「ハナウド」
「ウド」と名がついていますが、葉がウドに似ているところからの命名でいわゆる「ウド」の仲間ではありません。
近畿でも郊外に行けば見る機会がある花です。この写真は長野県の白馬村で撮影しました。長野県の白馬村に姫川の源流となる湧水地があります。そこへのアプローチの途中で撮りました。同行の皆に遅れないように急いでカメラを構えて撮ったものですが、思いの外旨く撮れたと自画自賛しています。

花を見たときの第一印象は「レース編み」。そんな雰囲気を感じて頂けたら嬉しく思います。
次の花は「クルマユリ」、栂池自然園での撮影です。
栂池自然園は北アルプス後立山連峰の白馬乗鞍岳の山腹、標高1,880mに位置する高層湿原です。
10年以上毎年夏に訪れています。10年以上も通っても飽きることがありません。広大な湿原に木道が整備され、高山植物であふれています。全ての花を紹介出来ないのが残念です。昨年は高山の人気者「オコジョ」に出会いました。
クルマユリの名前は葉が輪状についていることが由来です。
夏の花というと欠かせないのが蓮の花です。奈良の藤原京跡の蓮田で撮影しました。7月末の猛暑の中、遮るもののない陽射しの下での撮影でした。俗に、蓮は花が開くときに「ポッ」と音がするといわれていますが、どうもそんな音はしないそうです。もし音がするのなら、聞いてみたいものです。

まるで、小さなランタンのような花姿です。北海道の大きな「ラワンブキ」の下に住むという小人、「コロボックル」。そのコロボックルが持つランタンをイメージして、「コロボックルのランタン」と名付けて、市岡写真クラブの作品展に出展しました。
ここ数年、この花を目指して六甲高山植物園へ行きますが、早かったり、遅かったりで、きれいな花姿の花になかなか出会えません。このときは少し早くて開花している花は数輪しかなかったのですが、やっときれいな花姿の花を見つけました。
2019年4月1日

4月です。今日、新しい元号が発表され、5月1日から年号が変わりますね。
昭和に生まれ、平成を生き、そして新しい年号を迎えるわけですから、皆さん、さまざまな感慨をお持ちのことと思います。
私達の昭和が、産声をあげてから壮年期を迎えた時代であって、戦後の貧しい時代から高度成長へ、そしてその絶頂から混迷への時代とすれば、平成は、壮年から老境への時代であり、バブル崩壊に始まり、

新しい元号がどうなったのか、この文章を書いている時点では、知るよしもありません。ただ社会や生活が激しく変貌するだろうとの予感だけが強くあり、とにもかくにも穏やかで希望や夢がある時代であってほしいと切に願っています。
今月の「12期の広場」は、季刊更新の第一号にあたる春号です。
この文のカット写真には高見君が送ってくれた7枚の写真から、一面ピンク色の「桜の群生」と風に揺れる可憐な「つつじ」の二枚を選びました。
そのコメントに、桜は「曽爾村の屏風岩の桜です。屏風岩の上から見下ろしたアングルです。」とあり、つつじについては「『コバノミツバツツジ』です。この花もこの時期に咲くツツジ類の中で私の好きな花です。」とありました。いずれもこの春の百花繚乱を代表する花で、じっくりと見入ってしまう程、素敵な写真です。
高見君はこの欄に都合10回、60枚以上の写真を提供してくれましたが、今回が最後になります。そのご苦労に皆さんと共に心から感謝申し上げたいと考えています。
広場が季刊になったことで、編集に時間的な余裕が出来るだろうと思っていたのですが、どうしてどうして、あい変わらずのスロースタート、納稿が近くならないとエンジンがかかりません。結局は月更新とおなじような感じで、ペース配分にも慣れません。これから夏号、秋号と、3か月毎の更新が続きますが、今後とも宜しくお願い申しあげます。
同窓会幹事でもある6組の畠平雅生君が、2月12日に病気で亡くなられました。通夜に酒井八郎君はじめ、8人の同窓生が出席して、お見送りしました。
畠平君は同窓会の幹事としてその運営に大きく、そして長期にわたり貢献してくれた人物の一人で、特に会場の設定やその折衝では中心的役割を果たして頂きました。御子息のお話によると、仕事が好きで、家族が好きで、奥様が大好きであったとのことです。いつもニコニコ、何をするのもフットワークが軽やかで、社会奉仕にも積極的でした。東日本大震災後の支援に何度も東北地方を訪れたと聞いています。
慎んでここに哀悼の意を表し、お知らせいたします。また今号に、無二の親友である、清水君が書いてくれた「畠平雅生君とともに65年」と、畠平君が「卒業50周年記念文集」に投稿された文章、「今日までを振り返って。これから願うこと」を掲載し、彼を偲びたいと思います。合掌。
「12期の広場 」 春号のラインアップは以下の5編です。ご覧ください。
1. 「豚汁会に行ってきました」 | |||
2. 「畠平雅生君とともに65年」 | ・・・・・・・ | 3組 | 清水 誠治郎 |
3. 「今日までを振り返って。これから願うこと」 | ・・・・・・・ | 6組 | 畠平 雅生 |
4. 「私の趣味 - 弓道 」 | ・・・・・・・ | 8組 | 八島 平玐 |
5. 「直木三十五記念館を訪ねて」 | ・・・・・・・ | 7組 | 張 志朗 |
以 上
2019年4月1日
3月3日、市岡高校同窓会の伝統行事である豚汁会に行ってきました。この日は桃の節句。行く途中で立ち寄ったスーパーは雛祭りにちなんだ商品が並んで一足先の春の装いです。曇天でしたが、比較的暖かく、着込んだ防寒コートが重く感じるくらい。
開会は正午、旧制中学40期の大先輩から高校67期生の後輩まで、総勢70余名が参加しておられました。12期は、酒井君(4組)、田端君(7組)末廣君、川村君、塩野君、岸川君(以上8組)と筆者の張(7組)の7名です。
佐藤充利同窓会会長の挨拶で始まりました。佐藤会長はこの時期の関心事の一つである市岡高校の受験志望者数が3月1日の受付初日ですでに定員を20名越える340名に達していることに触れて、関係者皆さんのご苦労に感謝の意を表されました。
この数年、定員割れと関連した母校の存続問題が浮上していただけに、参加者の皆さんから、安堵の声と大きな拍手が起こり、雰囲気は一気になごやかなになりました。
続いて旧制中学40期の浅見忠彦さんが乾杯の音頭をとられ、歓談が始まりました。
豚汁会に参加して一番うれしいことは、同期生との再会は勿論ことですが、卒業年次を越え一堂に会して
歓談できることです。明治36年に生徒と教職員が一つの家族のように豚汁を食したことに始まるこの会のメインデッシュはやはり豚汁です。時を経て、1年に一度、こうして母校に集い豚汁をおいしく頂くのはまた格別です。
自己紹介を兼ねたショートスピーチがありました。その幾つかを紹介します。
旧姓中学卒業でただお一人参加された40期の浅見さんですが、浅見さんが入学されたのが、昭和15年、12期生である私達が生まれる前で、現在91才。大層お元気で、さらに明晰、“市岡健児意気高し”の面目躍如の感です。
9期は、もっとも多い15名が参加されていました。現在も同窓会を続けておられ、古希には文集形式の立派な記念誌を発行されました。編集を担当された女性はいまでも枕元に記念誌をおいて休まれるそうです。19期も同窓会活動が活発のようで、此花市岡会の会長である大山泰正さんから、『4月14日、舞洲市岡の森でのお花見に是非おいで下さい』とのお誘いがありました。
30期は豚汁会では“若手”になりますが、在学時の仲の良さは現在も続いているそうで、なんと同窓生同士の結婚が20組にもなるとのスピーチ、皆さんにっこりです。
12期は酒井君が代表してスピーチしました。昨秋の最終同窓会について話し、今後、豚汁会、舞洲のお花見、6月の同窓会総会などに積極的に参加することになりますので宜しくお願いしますと挨拶しました。12期の皆さんは元気です。白内障の手術をしたとか、大事にいたらなかったが入院したとか、相変わらず腰痛が改善しないとなど、体調の不具合があるようですが、近況のよもやま話は楽しいものでした。
最後に母校吹奏楽部のOG・OBバンドの演奏がありました。総勢30名。最高齢は18期のトロンボーン奏者の高橋正憲さん、もっと若いOB・OGは67期です。先日、第11回定期演奏会を東成区民ホールで行い好評をはくしたばかりで、この日の演奏もすばらしいものでした。
生バンドの迫力ある伴奏で校歌を声一杯に歌い、午後2時過ぎに散会となりました。
開会は正午、旧制中学40期の大先輩から高校67期生の後輩まで、総勢70余名が参加しておられました。12期は、酒井君(4組)、田端君(7組)末廣君、川村君、塩野君、岸川君(以上8組)と筆者の張(7組)の7名です。

この数年、定員割れと関連した母校の存続問題が浮上していただけに、参加者の皆さんから、安堵の声と大きな拍手が起こり、雰囲気は一気になごやかなになりました。
続いて旧制中学40期の浅見忠彦さんが乾杯の音頭をとられ、歓談が始まりました。
豚汁会に参加して一番うれしいことは、同期生との再会は勿論ことですが、卒業年次を越え一堂に会して

自己紹介を兼ねたショートスピーチがありました。その幾つかを紹介します。
旧姓中学卒業でただお一人参加された40期の浅見さんですが、浅見さんが入学されたのが、昭和15年、12期生である私達が生まれる前で、現在91才。大層お元気で、さらに明晰、“市岡健児意気高し”の面目躍如の感です。
9期は、もっとも多い15名が参加されていました。現在も同窓会を続けておられ、古希には文集形式の立派な記念誌を発行されました。編集を担当された女性はいまでも枕元に記念誌をおいて休まれるそうです。19期も同窓会活動が活発のようで、此花市岡会の会長である大山泰正さんから、『4月14日、舞洲市岡の森でのお花見に是非おいで下さい』とのお誘いがありました。
30期は豚汁会では“若手”になりますが、在学時の仲の良さは現在も続いているそうで、なんと同窓生同士の結婚が20組にもなるとのスピーチ、皆さんにっこりです。
12期は酒井君が代表してスピーチしました。昨秋の最終同窓会について話し、今後、豚汁会、舞洲のお花見、6月の同窓会総会などに積極的に参加することになりますので宜しくお願いしますと挨拶しました。12期の皆さんは元気です。白内障の手術をしたとか、大事にいたらなかったが入院したとか、相変わらず腰痛が改善しないとなど、体調の不具合があるようですが、近況のよもやま話は楽しいものでした。
最後に母校吹奏楽部のOG・OBバンドの演奏がありました。総勢30名。最高齢は18期のトロンボーン奏者の高橋正憲さん、もっと若いOB・OGは67期です。先日、第11回定期演奏会を東成区民ホールで行い好評をはくしたばかりで、この日の演奏もすばらしいものでした。
生バンドの迫力ある伴奏で校歌を声一杯に歌い、午後2時過ぎに散会となりました。
(張志朗 記 )

2019年4月1日
3組 清水 誠治郎
今から約12年ほど前、見た事のない真剣な顔つきで、話があるとの事で聞くと検査の結果、前立腺ガンを患っていると、私は彼から聞かされます。
それから12年間、壮絶とも云える彼のガンとの闘いが始まりました。前立腺ガンを初め、すい臓がん、肺ガン、骨ガンと次々と転移を繰り返し、ガンは彼の肉体を蝕んでいきます。そして2年前、彼自身が、自分の末期を知った時、“私の為に壁となり盾となってくれ。”と、私に最後の頼みを云って来ました。
どう言う事かと本意を聞きますと、“実を云うと俺は3分間の電話もしんどいし、会うのはもっと辛い。君の処に容態を聞いてきたら、正直に良い事はないと言ってくれ。そして君も来るな!やつれていく俺を君に見られたくない” と云うことです。それで、私は電話を頂いた人には奥様に電話をしてあげて下さい、会いに行くのは遠慮して下さい、と話させて頂きました。この彼の頼みは、“奥様にも内緒で!”とのことでしたので、生前の彼に会う事が出来たのは、これが最後となり、亡くなった直後、彼の自宅を訪れましたが、彼の言っていた通り、私の目には随分と痩せて、闘病の苛酷さを感じるばかりでした。彼は、2月12日、生のともし火を消し、黄泉の世界へと旅立って往かれました。
初めて、私が彼と知り合ったのは、昭和29年(1954年) 4月7日の中学一年生の始業式だったと記憶しています。
昭和25年9月3日のジェーン台風の強風と高潮で、大阪市内は壊滅的被害を受け、港区や大正区は殆どの区域が水没しましたが、すぐさま大阪市は、港区や大正区を、大阪湾や安治川からサンドポンプで土砂を汲みあげて、1.5メートル程のかさ上げ工事を行いました。
3年の月日は経っていたものの、市岡中学校付近は風の強い日には、砂塵吹きすさぶ砂漠の様な状態でしたので、皆一様に “市岡砂漠” と呼ぶようになっていました。普通の学校であれば、桜が咲き誇り、校舎の日陰や樹木の木蔭で語り合って、交友関係を築きあっていったのでしょうが、私達の環境はそんな甘いものではありませんでした。プレハブで造られた平屋の校舎は、屋根はあるものの、断熱材が入っていなかったので、夏は地獄の釜ゆでの様な暑さで、今で言う熱中症で倒れる仲間も多くいました。
市岡中学校は、1学年で13組もあり、1組55人、700人を超える生徒がいたので、あまりにも生徒数が多いのと、私が越境入学(本当は西中学へいかなければならない)だった為、半数ぐらいの学友としか知り合う事は出来ませんでした。
彼と特に仲良くなったのは、一年生の二学期を過ぎたころ、彼の家が浪速区桜川町に転宅となり、一緒に通学するようになってからです。365日、雨の日も、風の強い日も、朝・夕の登下校はいつも一緒でした。二人とも取っ手の壊れた、汚い薄い汚れた帆布製の重いカバンを小脇に抱えて、通学していました。(幼いころに父親を亡くした私の家の経済事情に彼が合せてくれたのかもしれません)
中学二年生の始業式の日、又彼と同じ学級になったことを知りました。そして中学三年生の始業式の日もそうでした。
三年生の進学指導を受けた時、彼がこっそり話しかけてきて、”清水君や-俺と一緒に市岡高校へ行こうや” と誘ってくれました。母に高校に行ってもいいかと相談をすると、市岡やったら良いから行きなさい、との温かい言葉をくれました。私は端から高校をあきらめていたので、受験勉強を始めたのは、年の明けた正月を過ぎた頃です。彼はその為、使い古しではあったものの、貴重な参考書や辞書等々を次から次へと持ってきてくれて、勉強を助けてくれました。私にとってはこれ程有り難いものはありませんでした。どうしても受験しなければいけなかった滑り止めの桃山高校(彼も受けさせられた)も無事合格して、本命の市岡高校も合格する事が出来ました。
高校入学式の日、学級発表を見ると、なんと彼と同じクラスになっていました。四年連続です。けれども同じクラスだったのはここまでで、彼とは違う道を、歩み始めます。
彼は大学へと進学し、私は二人の妹を高校へ進学させるために大学を諦め、高校卒業と同時にE物産と云う中小企業の会社に就職せざるを得ませんでした。
この会社は若き二代目社長で、私を大変可愛がってくれました。就職して四年たった5月の父親の命日の日、久しぶりに我が家に帰ると母から “頼むから家業(父は由緒・歴史ある木材業を営んでいた)を再興してくれんかね” と云う、たっての願いを伝えられました。後ろ髪をひかれる思いで5月一杯を以って会社を辞め、6月から家業を再興させる為頑張り始めました。勿論彼にも報告すると、どれだけ喜んだ事か、こちらが驚くぐらいでした。
彼の商売は木工機械販売業でしたので、私の家業とは深いつながりがありました。ところが人生は上手くいかないのが常で、家業が動き始めた十日目に、私は左手の第一指・第二指・第三指と左手の半分以上を製材機で失くしてしまう事故が起きました。それでも彼の助けを借りて、脇目もふらず我武者羅に働き続けました。初めて革靴を履き背広を着て、繁華街へ遊びに出たのは、27歳になる前のお正月でした。
彼は大学時代から学生ボランティア・リーダーとして活躍していましたし、私はボーイスカウト運動の奉仕者として、社会奉仕活動の事をよく理解していました。彼の奥様は、彼の大学時代からの社会奉仕活動の良き理解者であり、協力者だったと聞いています。
私達二人とも若くて金のない時代は、実働の奉仕者として奉仕を実践する事にお互い共感を覚えて、無二の親友として付き合うきっかけになりました。
阪神淡路大震災の時は、労働の奉仕者であり、金銭の奉仕者であったような気がします。
二人が60歳の還暦を迎えた時、何か未来に残せる事業をしようと相談し思い立って “21世紀の杜”運動を立ち上げました。
丁度その頃、台湾・台中で大地震があり、多くの人々が亡くなり困難に直面している事を知り、そこで一番困っている少数山岳民族(有名な民族はアミ族等々)にハーブ(ニッキ等は成長が早く、売ればすぐお金になる)の樹(百万円相当)を、送る事に決めて樹を送りました。それから2年の月日をかけて、募金運動(約六百万円を集めました)をし、台中の三か所の公園に植樹(台湾桜等々)をする事が出来ました。この公園の台湾桜は、台中の桜の名所の一つとなっていて、過日(平成31年3月16日土曜日毎日放送4チャンネルの世界不思議発見)で放映されたそうです。
私達は毎年のようにこの桜を見に、彼と一緒に台湾を訪れていましたが、
今年は彼の悲しい日があったので訪問することは叶いませんでした。
次の運動はカンボジアに学校を創ろうと、彼と一緒に決めましたが、その時彼から告白されました、“俺は海外へ行ってお前と一緒に活動できへんのや”。 理由は抗癌剤治療による免疫の低下で、海外渡航は医師からきつく禁止されていたそうです。それでも彼はバックアップに徹しようと病気を押して資金集めの為、大変な努力を重ねて奔走してくれ、2年がかりで七百万円のお金を集めようとチャリテー寄席、ピアノ演奏会、ワンワールドフェステバルの参加等々、大変な努力をしてくれました。
そして翌年カンボジア政府から、タイ国境に近いトールポンロー(ポル・ポトが一番覇権していた場所)の広大な土地を提供するから、この地に学校を建てる事をお願いしますとの要請です。2007年にタイを経て、60時間ほどかけてかの地を踏む事が出来(行けないかもしれないと言われた)ました。
二日間をかけて地域の公聴会を開き、村民達が教育に対してどれほどの熱意を持っているか等を見聞きしました。彼等や彼女たちのほとばしる熱情を感じて、これは絶対建てなければと心の底から思い、日本に帰って彼にも報告しました。
私達のOKが出ると同時に、カンボジア政府は、1年をかけて250発の対人地雷と、5発ほどの対戦車地雷の処理を行ってくれました。
学校建設中は、私達と思いを同じくする若き日本人の明君(私達のクラブ仲間)が、現地に滞在して、見守ってくれて完成にこぎつけました。が、紆余曲折は多くあり、一番大きな問題は、あまりにも人気が出て入学希望者が倍増し、教室が足りないので倍の学校の大きさにしてほしいという要望でした。一生懸命努力しましたが、建設資金は半分(約三百五十万円)しか集まりませんでした。
最後の手段として、ユネスコに泣きついてお力を借りる事が出来ました。完成は少し遅れましたが、二校舎十教室の堂々たる学校が、立派に出来上がり多くの卒業生が巣立っています。昨年の秋、私と明君と2人で学校を訪問して来ました。凛とたたずむ学校を見て、何回も来て苦労した当時を思い出し、喜びと嬉しさで自然と笑いが浮かびました。彼はいま日本政府のカンボジア駐在員です。
今やっている運動は、“うなぎの森“ と云う運動です。この運動も病魔を押して畠平君がきっかけを作りました。大阪府木材連合会と一緒に始め、今年で4年目に入りますが、淀川にウナギを復活させようと、淀川の支流がそばにある高槻の神峯山寺の山林で、毎年5月に植樹を行っています。植樹したらなんで鰻が取れるか?不思議ですねー。“森は海の恋人と云うスローガン” を掲げて養殖に取り組んでおられる、気仙沼のカキ養殖者の畠山重厚氏(世界的に有名)の著書を読めば、その謎が理解できます
私達のこの運動の成果は、20年、30年後に判ると思います。
皆さんはご存じないかもしれませんが、江戸や明治時代の昔、淀川の伝法や天神さん界隈は鰻屋さんが一杯あったそうです。
彼と共に始めたこの運動は、彼のお葬式などで少し“休憩”しましたが、今年も 5月12日(日)午前10時から植樹を始めます。参加費は2000円(苗木代共)です。参加ご希望の方は清水までご連絡下さい。
共感者は一杯います。だからこの運動も又動き始めています。前よりも、もっともっと多くの共感者を巻き込んで、大きくなっています。
畠平雅生君がこの世を去り、また、いつの日か私が去ったとしても,植えた木々は少しづつ大きくなって大木となり、又種をまいてくれるだろうと思っています。
今はただただ、65年の長きに亘って友人として支えてくれた畠平雅生君に感謝、友として私に彼を巡り会わせてくれた神様に感謝の気持ちで一杯です。
それから12年間、壮絶とも云える彼のガンとの闘いが始まりました。前立腺ガンを初め、すい臓がん、肺ガン、骨ガンと次々と転移を繰り返し、ガンは彼の肉体を蝕んでいきます。そして2年前、彼自身が、自分の末期を知った時、“私の為に壁となり盾となってくれ。”と、私に最後の頼みを云って来ました。
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初めて、私が彼と知り合ったのは、昭和29年(1954年) 4月7日の中学一年生の始業式だったと記憶しています。
昭和25年9月3日のジェーン台風の強風と高潮で、大阪市内は壊滅的被害を受け、港区や大正区は殆どの区域が水没しましたが、すぐさま大阪市は、港区や大正区を、大阪湾や安治川からサンドポンプで土砂を汲みあげて、1.5メートル程のかさ上げ工事を行いました。
3年の月日は経っていたものの、市岡中学校付近は風の強い日には、砂塵吹きすさぶ砂漠の様な状態でしたので、皆一様に “市岡砂漠” と呼ぶようになっていました。普通の学校であれば、桜が咲き誇り、校舎の日陰や樹木の木蔭で語り合って、交友関係を築きあっていったのでしょうが、私達の環境はそんな甘いものではありませんでした。プレハブで造られた平屋の校舎は、屋根はあるものの、断熱材が入っていなかったので、夏は地獄の釜ゆでの様な暑さで、今で言う熱中症で倒れる仲間も多くいました。
市岡中学校は、1学年で13組もあり、1組55人、700人を超える生徒がいたので、あまりにも生徒数が多いのと、私が越境入学(本当は西中学へいかなければならない)だった為、半数ぐらいの学友としか知り合う事は出来ませんでした。
彼と特に仲良くなったのは、一年生の二学期を過ぎたころ、彼の家が浪速区桜川町に転宅となり、一緒に通学するようになってからです。365日、雨の日も、風の強い日も、朝・夕の登下校はいつも一緒でした。二人とも取っ手の壊れた、汚い薄い汚れた帆布製の重いカバンを小脇に抱えて、通学していました。(幼いころに父親を亡くした私の家の経済事情に彼が合せてくれたのかもしれません)
中学二年生の始業式の日、又彼と同じ学級になったことを知りました。そして中学三年生の始業式の日もそうでした。
三年生の進学指導を受けた時、彼がこっそり話しかけてきて、”清水君や-俺と一緒に市岡高校へ行こうや” と誘ってくれました。母に高校に行ってもいいかと相談をすると、市岡やったら良いから行きなさい、との温かい言葉をくれました。私は端から高校をあきらめていたので、受験勉強を始めたのは、年の明けた正月を過ぎた頃です。彼はその為、使い古しではあったものの、貴重な参考書や辞書等々を次から次へと持ってきてくれて、勉強を助けてくれました。私にとってはこれ程有り難いものはありませんでした。どうしても受験しなければいけなかった滑り止めの桃山高校(彼も受けさせられた)も無事合格して、本命の市岡高校も合格する事が出来ました。
高校入学式の日、学級発表を見ると、なんと彼と同じクラスになっていました。四年連続です。けれども同じクラスだったのはここまでで、彼とは違う道を、歩み始めます。
彼は大学へと進学し、私は二人の妹を高校へ進学させるために大学を諦め、高校卒業と同時にE物産と云う中小企業の会社に就職せざるを得ませんでした。
この会社は若き二代目社長で、私を大変可愛がってくれました。就職して四年たった5月の父親の命日の日、久しぶりに我が家に帰ると母から “頼むから家業(父は由緒・歴史ある木材業を営んでいた)を再興してくれんかね” と云う、たっての願いを伝えられました。後ろ髪をひかれる思いで5月一杯を以って会社を辞め、6月から家業を再興させる為頑張り始めました。勿論彼にも報告すると、どれだけ喜んだ事か、こちらが驚くぐらいでした。
彼の商売は木工機械販売業でしたので、私の家業とは深いつながりがありました。ところが人生は上手くいかないのが常で、家業が動き始めた十日目に、私は左手の第一指・第二指・第三指と左手の半分以上を製材機で失くしてしまう事故が起きました。それでも彼の助けを借りて、脇目もふらず我武者羅に働き続けました。初めて革靴を履き背広を着て、繁華街へ遊びに出たのは、27歳になる前のお正月でした。
彼は大学時代から学生ボランティア・リーダーとして活躍していましたし、私はボーイスカウト運動の奉仕者として、社会奉仕活動の事をよく理解していました。彼の奥様は、彼の大学時代からの社会奉仕活動の良き理解者であり、協力者だったと聞いています。

阪神淡路大震災の時は、労働の奉仕者であり、金銭の奉仕者であったような気がします。
二人が60歳の還暦を迎えた時、何か未来に残せる事業をしようと相談し思い立って “21世紀の杜”運動を立ち上げました。
丁度その頃、台湾・台中で大地震があり、多くの人々が亡くなり困難に直面している事を知り、そこで一番困っている少数山岳民族(有名な民族はアミ族等々)にハーブ(ニッキ等は成長が早く、売ればすぐお金になる)の樹(百万円相当)を、送る事に決めて樹を送りました。それから2年の月日をかけて、募金運動(約六百万円を集めました)をし、台中の三か所の公園に植樹(台湾桜等々)をする事が出来ました。この公園の台湾桜は、台中の桜の名所の一つとなっていて、過日(平成31年3月16日土曜日毎日放送4チャンネルの世界不思議発見)で放映されたそうです。
私達は毎年のようにこの桜を見に、彼と一緒に台湾を訪れていましたが、

次の運動はカンボジアに学校を創ろうと、彼と一緒に決めましたが、その時彼から告白されました、“俺は海外へ行ってお前と一緒に活動できへんのや”。 理由は抗癌剤治療による免疫の低下で、海外渡航は医師からきつく禁止されていたそうです。それでも彼はバックアップに徹しようと病気を押して資金集めの為、大変な努力を重ねて奔走してくれ、2年がかりで七百万円のお金を集めようとチャリテー寄席、ピアノ演奏会、ワンワールドフェステバルの参加等々、大変な努力をしてくれました。
そして翌年カンボジア政府から、タイ国境に近いトールポンロー(ポル・ポトが一番覇権していた場所)の広大な土地を提供するから、この地に学校を建てる事をお願いしますとの要請です。2007年にタイを経て、60時間ほどかけてかの地を踏む事が出来(行けないかもしれないと言われた)ました。
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二日間をかけて地域の公聴会を開き、村民達が教育に対してどれほどの熱意を持っているか等を見聞きしました。彼等や彼女たちのほとばしる熱情を感じて、これは絶対建てなければと心の底から思い、日本に帰って彼にも報告しました。
私達のOKが出ると同時に、カンボジア政府は、1年をかけて250発の対人地雷と、5発ほどの対戦車地雷の処理を行ってくれました。
学校建設中は、私達と思いを同じくする若き日本人の明君(私達のクラブ仲間)が、現地に滞在して、見守ってくれて完成にこぎつけました。が、紆余曲折は多くあり、一番大きな問題は、あまりにも人気が出て入学希望者が倍増し、教室が足りないので倍の学校の大きさにしてほしいという要望でした。一生懸命努力しましたが、建設資金は半分(約三百五十万円)しか集まりませんでした。
最後の手段として、ユネスコに泣きついてお力を借りる事が出来ました。完成は少し遅れましたが、二校舎十教室の堂々たる学校が、立派に出来上がり多くの卒業生が巣立っています。昨年の秋、私と明君と2人で学校を訪問して来ました。凛とたたずむ学校を見て、何回も来て苦労した当時を思い出し、喜びと嬉しさで自然と笑いが浮かびました。彼はいま日本政府のカンボジア駐在員です。
今やっている運動は、“うなぎの森“ と云う運動です。この運動も病魔を押して畠平君がきっかけを作りました。大阪府木材連合会と一緒に始め、今年で4年目に入りますが、淀川にウナギを復活させようと、淀川の支流がそばにある高槻の神峯山寺の山林で、毎年5月に植樹を行っています。植樹したらなんで鰻が取れるか?不思議ですねー。“森は海の恋人と云うスローガン” を掲げて養殖に取り組んでおられる、気仙沼のカキ養殖者の畠山重厚氏(世界的に有名)の著書を読めば、その謎が理解できます
私達のこの運動の成果は、20年、30年後に判ると思います。
皆さんはご存じないかもしれませんが、江戸や明治時代の昔、淀川の伝法や天神さん界隈は鰻屋さんが一杯あったそうです。
彼と共に始めたこの運動は、彼のお葬式などで少し“休憩”しましたが、今年も 5月12日(日)午前10時から植樹を始めます。参加費は2000円(苗木代共)です。参加ご希望の方は清水までご連絡下さい。
共感者は一杯います。だからこの運動も又動き始めています。前よりも、もっともっと多くの共感者を巻き込んで、大きくなっています。
畠平雅生君がこの世を去り、また、いつの日か私が去ったとしても,植えた木々は少しづつ大きくなって大木となり、又種をまいてくれるだろうと思っています。
今はただただ、65年の長きに亘って友人として支えてくれた畠平雅生君に感謝、友として私に彼を巡り会わせてくれた神様に感謝の気持ちで一杯です。
最近のコメント
- 「同窓会ホームページ・名簿システムをリニューアルしました」について
林芳子(リム パンジャ)さんより: - 「ひろばリバイバル」について
川村 浩一さんより: - 「市岡高校18期生同窓会」について
堀義昭さんより: - 「【高37期】2024年市岡高校37期生同窓会のご報告」について
中間 實徳さんより: - 「市岡高校卓球部OB会「市卓会」 第27回会長杯卓球大会開催」について
水谷晴信さんより:
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