12期の広場
2019年4月1日
畠平 雅生(3年6組)
市岡高校を卒業以来もうすぐ半世紀、五十年に成るのか-。多少の感慨と感傷を持って来年の卒業式への招待を聞いた一人です。
これを記念して、「卒業50周年記念文集」を発行する。こう決まった時、「人の命なんてたかだか数十年。一瞬の時でしか無く、自然の摂理には逆らえない。人生とは生まれた時から死に向かって歩む旅の様なもの。その流れの中でどの様に過ごすか。これが大切なのでは?」この様な思いを何処かに持ちながら過ごして来た気持ちを表すのに相応しい言葉は何だろう?こう思った時、
青春とは人生のある期間を言うのではなく、その様相を言うのだ。
で始まり、
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。
希望有る限り若く、失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
等々で綴られたサムエル ウルマンの詩「青春」が即座に浮かんだ。

よし、これで行こう。そう思って書き出したのだが、心の片隅でそんな格好付けて良いの?二度も癌を患い療養中の身。更に、年始には母親を見送り、初夏には会社を息子に譲った今の気持ちを本当に表している?いつも前向きに過ごしたのではなく、それ以上に挫折や迷いの中でもがき続けて来たんだよなー。心の何処かで声がします。
仕事や親のことでも一区切りが付き、これからは自分に正直に過ごしたいナーそんな思いでこれからの生き方を模索している今こそ、今日までを振り返ってみるのも一つの方法かもしれません。
市岡での高校生時代はどうだったか? 好きな学科と嫌いな学科で成績は両極端で赤点も混じる状態。何とかしようとの向学心もそこそこに大学受験の二学期になってものんびりと過ごし、進学校生としては落ちこぼれ気味でこれと言った思い出も希薄。唯一は、中学生時代から家内に竹馬の友と言われる由縁の清水君を通学途上で誘って通ったこと位か?大学受験も早々に受験会場を出よう。そんな粘りのない態度で国公立の大学に受かるはずもなく、私学へ何とか滑り込む。
入学当初は、拘束時間が多い工学部を専攻したにも関わらず、授業を適当にさぼって学内の美術クラブへ精勤。これに加えて近畿全域の大学生が集まって組織した学生ボランティア協会(略してS・V・A)には積極的に参加。日米初の衛星放送(ケネディ暗殺事件が中継される)も驚きの内にS・V・Aの活動中に見る等この活動に傾倒し、最低限しか教室や部室にも行かずに学生生活を謳歌する。おかげで教授に頼み込んでやっと卒業させてもらう始末。
大学生時代の最高のお宝はS・V・Aで共に活動した女性との結婚(彼女にとっては不幸の始まり?)と今も付き合ってくれる友の輪を得た事です。
卒業後は家業に就くが第一目標を頑固一徹な親父を乗り越えることと定めて仕事に励む。おかげで仕事に就いて数年後に結婚した彼女は夫の会社を手伝わされた上に、仕事一途の夫と子育て。おまけに天動説を地で行く姑に振り回されて結婚前の生活とは大違い。体重が前期高齢者に成った今でも結婚以前に戻らない。とても幸せな結婚生活とは行かなかった様。何とか彼女の体重が結婚以前まで戻ってくれることを願っている次第です。
30代に入って仕事一筋では視野が狭く成ると誘われてYMCAをサポートして活動する国際組織の奉仕団体、ワイズメンズクラブに入会。会では多くのことを教えられ、今も私の財産に成っています。
この会へは清水君も後日入会。22年前、彼と共に旧クラブを出て新しく大阪西クラブを設立。

ワイズメンとして活動する中で日本人の潜在能力の高さを知らされた出来事が有りました。それは阪神・淡路大震災の時です。
『収容人数と同じ数だけ同じ物が揃わないから支援物資は配れない。』
『不在で無駄と判っていても、収容人数と同数の数量と同一内容の弁当を揃えて等々、全てにおいて杓子定規な役所の人間達。』
これに対して臨機応変に現場で対処する茶髪の若者達。
不幸な震災の中でも暴動や騒動は起こらず、規律正しく粛々と復興に向けて取り組んで行く被災者達。この様子を見た時、戦後の復興がどの様に成されたか垣間見た思いがしました。
取引先や知り合いから株はやらないのかとよく聞かれます。仕事ほどリスクの大きいものは無いし、仕事は自分の身の丈で考えて対応できる。時流や投資対象会社の社業を読むと言った能力や才覚も無い上、不精者の私には向いていません。
仕事上のリスクと言えば悲しい思い出が有ります。
バブルが弾ける以前には夫婦で交際し、親しくしていた取引先の社長が自分の保険で借金を返済してと遺言を残しての自殺。あの時は自社も危なく、悩んだ末に社員のリストラを行い6kgも痩せた。100年に一度と言われる今回の不況でも取引先社長の自殺。真面目に仕事に打ち込んでいた人が自殺の心境に追い込まれるのは悲しい限りです。
中小零細企業は社会の底辺。景気が良く成ってもおこぼれは最後。その代わり悪くなったら影響は一番に受ける。高齢化と共に物づくりをする高度な技の蓄積や技能が継承されずに虚しく消えて行く昨今。これからの日本はどの様に歩んでいくのか一抹の不安を感じます。
戦後の復興期から全盛期を経て、衰退期?に入る直前でバトンタッチする我々世代。良い時代を過ごした幸せをつくづく感じています。
これから歩む時代のことを考える時、ある会合を思い出します。
アジアからの留学生達や社会人として日本で働く人達との食事をしながらの懇談会で、留学を経験した中国人との話です。
「来日して一番困ったことは?」「日本語の習得には苦しんだが努力で何とかなった。ただ、一人っ子政策で甘やかされ、自己中心の世界で育ったことを来日して初めて痛感した。相手の思いを理解するのが苦手だった。又、敬語を持たない中国人には敬語の使い方が判らない。苦労するが誠意を持って当たれば日本人は理解してくれる。それよりも親や周りへの感謝の気持ちと、どんな小さな事でも良いから目標を定めて過ごすこと。そうしないと物価の違う日本に来て生活に追われ、何をしに来日したか判らなくなる。この事を皆に伝えて行きたい。どんなに苦しくても自分に誇りを持ち続けることが最も大切だ。」この様にしっかりと現実を捕らえ、自意識を持って対処して来る中国の若者達。自分の拠り所をしっかりと持ち、目標を持って歩む中国や韓国を初めとするアジアや世界の人達。
この様な人達と交わるこれからの日本の若者達や国の政策は?
阪神・淡路大震災で発揮された若者達と日本人の隠された潜在能力の高さを信じたいと思います。
人類の歴史から見れば私の歩んだ人生なんて一瞬の内の一瞬にも当たらない。そんな中で残された時間は無に等しい。
願わくば、迷惑を掛けた奥方と仲良く過ごす時間が少々与えられ、家族や楽しい仲間達との交わりの内に自分に正直に生き、自意識の有る状態で自然に帰れたらと願っています。
2019年4月1日
8組 八島 平玐
最近は、朝ドラや、お正月の京都三十三間堂の通し矢等、テレビで、弓を引く場面が時々見られる

私の通っているのは大阪城にある弓道場で、午前、午後、夜間の3部制となっており、午前は、主に、我々のようなリタイヤ組と女性が、夜間は、勤めのある会社員や学生と、夫々稽古に励んでおり各クラブの称号者が先生として後輩を指導してくれています(ボランテアで)。
大阪城道場に席を置いているのは主として5クラブですが、クラブに属していない人も混じって練習しています。道場で、半袖の白の稽古着、黒の袴、白足袋を履き、胸一杯に自分の矢束(やづか)分を引き込みつつ体の中心で矢を放つ、カンと弦音がしてポンと的のはじける音、これが1日に1回出るかどうか? この射を求めて週2日、道場に通っています。和弓は洋弓と違い弓の中心が真ん中ではなく下から3分の1のところに矢をつがえます。このため、弓を引き絞ると非常に美しい形となり世界でも類がなく和弓独特です。諸説がありますが馬上で弓を引くためではないかと言われています。
武器としては、飛距離、的中率の面からは洋弓の方が上ですが、運動面、精神面では、和弓の方が優れていると考えます。和弓では、射位から的までの距離は、28m、的の大きさは36cmです。競技では、的中数を競いますが、稽古では、当たりだけではなく体配(たいはい)を大切にします。射場で、弓を引き絞った時、丹田と呼ばれるお臍の下に力をため、両足を踏ん張り、左右両胸、両肩、両腕、更に体から頭の上の方にと力を伸ばし(縦横十文字)、気力が充実した上で矢を放つ、体の何処かに偏りがあると矢は素直に飛ばず良い射とはなりません。息合い(いきあい)、体のバランスと精神の安定が大切であり、これが和弓が立禅と言われる由縁なのです。とは言えこのように弓を引けるのが目標であり、四苦八苦しているのが現状です。



通常、竹弓は、外・内2枚の竹とその間に両側の側木に挟まれて3~5枚の竹のヒゴが入った組合せを貼り合わせて出来ており、これにより反揆力をだすようになっていますが、最近は合成樹脂で出来た弓も使われるようになってきました。弓の強さは、10kg~24kg位あり引く人の体力に合わせて使い分けます。又、矢も引く人の体格(腕の長さ)に合わせて長さが決まり(矢束という)、特に竹矢では節の数と位置が矢に合わせて四ケ所決まっており、節の長さの合った竹を2本、4本と揃えなければならず(甲矢:はや、乙矢:おとやの2本組で一手、通常二手必要)価格的に高くなるのに対して、ジュラルミンやカーボン素材を軸とする矢が用いられるようになり道具の取り扱い性の向上や価格の廉価化と、時代の変化が見られます。更に、矢羽根に対しては、従来は鷲・鷹が好んで用いられてきましたが、希少動物保護に対するワシントン条約の点からそれらの羽根の使用に対して制約がかかるなどが問題となってきています。
弓を握って50年以上を過ぎましたが仕事による中断があり、中抜きのため若い元気のよい会員には勝てず追い越されていますが、現在五段を貰っており何とか錬士を取ろうと目下奮闘中です(錬士からは先生と呼ばれます)。
弓道はあまり激しい運動ではありませんが、前述のように、お腹に力を入れ、背筋を伸ばし、精神を集中すると言った点で、静と動を併せ持ったすばらしいスポーツと考えます。
2019年4月1日
7組 張 志朗
大阪の谷町6丁目に直木三十五記念館があるのをご存知でしょうか。この質問を同窓生6人にしてみましたら、半数がご存知でした。私はその存在すら知らず、全く偶然かつ突然のようにその場所に行きついただけに、同窓生のこの反応は驚きでした。


その時に頂いたしおりには、「直木ゆかりの地に市民の力で記念館を立ち上げました。これからも『記念館』という既成の概念にとらわれず、どんどん成長して行く予定です」とあり、オープンは平成16年10月です。明らかに、公的機関またはそれに準じる組織による文豪記念館とは異なりました。建物や展示規模、収蔵量やその目指すところ(コンセプト)などとは、あっけにとられるほど違っていました。しかしかえってそれが、直木三十五の「知られざる」文学的業績や生き様、その息使いをリアルに感じさせてくれたようです。
記念館のコンセプトとして「直木が晩年に自分で設計した家が、現在も横浜の金沢区富岡に残っています。(現在は他人が住んでいます。)直木の性格を表したようなこの家は一風変わっており、内壁は黒一色で統一され、トイレや浴室には黒いタイルが敷き詰められていたそうです。この記念館はその家をモチーフとして黒い部屋としました。また臥て書く習性のあった直木に則して畳敷きとし、みなさんに直木の視点を感じ、そしてくつろいで頂ける記念館を目指しています。」とあります。
1階に普通の飲食店が入っている小ぶりなビルで、2階に記念館があります。広さは60m2あるかなしの展示場が一室のみ。床の半分は畳敷きで黒い壁が基調、周辺に直木の作品や遺品、直木にまつわる展示物が並べられています。


明治38年 14歳、市岡中学入学とあり、「このころから書物の濫読がはじまる。図書館にもよく通った。『試験亡国論』をぶってあやうく処分されそうになる。水泳に長じ観海流で沖渡り五里の免状をものにする」とありました。
実は直木は天王寺中学への受験に失敗して市岡に来たようです。当時はそんな事ができたようですが、自宅のあった安堂寺町から市岡までは相当な距離。電車もバスも無い時代ですから通学は徒歩で1時間くらいはかかったことでしょう。母校の同窓会名簿を広げてみると、旧制市岡中学第5期生 (明治43年卒業)に直木の本名である植村宗一の名前がありました。また創立100周年記念誌のP97~102には、直木が4年級の時(明治41年)伊勢・京都方面に修学旅行した紀行文と、翌年四国・中国地方に修学旅行した紀行文(それぞれ「澪標9号、10号」に掲載 -注:澪標は雑誌部の会報、年1回発行)が収録されています。
市岡卒業後、第六高等学校を受験するも、初日の数学のみで放棄し、薬局勤めの後に奈良県吉野郡白銀村奥谷の小学校で代用教員になっています。早稲田大学英文科に入学したのが、明治44年の20歳のころです。しばらくして仏子須磨子と同棲し、長女が誕生しています。生活苦から月謝を滞納、除籍となるのですが、大学には通い続け、大学の卒業写真には堂々と顔を出して写っています。
すでにこの頃から、文学はじめ文化芸術関係の書物の編集や出版にかかわっていたようで、大正7年には出版会社である「春秋社」と「冬夏社」を創立し、「ユーゴ全集」「ドストエフスキー全集」「イプセン全集」などを出版しています。しかし、赤字が続き、年表には「多額の負債を抱え、生活困窮する」ありました。年表の下のショーケースには、年表にそった遺作や遺品の一部が展示されています。


大正14年、「心中雲母坂」が映画化になり、映画に興味を持ち、プラトン社を退社、『日本映画の父』と言われるマキノ省三と提携して「連合映画芸術協会」を設立、「月形半平太」「第二の接吻」などの映画を製作しています。これもうまくいかず、
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昭和9年に肺結核・脊髄カリエスに冒され東大病院に入院後、43歳で永眠するのですが、その7年の間に、次々と作品を発表します。(左上の写真が作品の一部)
昭和5年、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に「南国太平記」を連載し、流行作家として人気絶頂となります。
『直木賞はよく知っていますが、直木自身とその作品は知らない』と良く言われますが、私もその一人です。母校を代表する偉大な大先輩にたいしてあまりにも非礼と考え、代表作の『南国太平記』と、直木についての評伝『知られざる文豪 直木三十五』(山崎國紀 -著 ミネルヴァ書房)を読みました。
『南国太平記』が梅田の紀伊国屋書店で平積みされていたのには一寸驚きました。その理由は、どうもNHKの大河ドラマ「西郷どん」の影響のようです。幕末に島津藩で起こった“お家騒動”(お由良騒動―小柳ルミ子がお由良を演じていました)に材をとった長編時代小説です。島津斉彬とその嫡子を呪術で謀殺しようとする一派とそれを阻止し、仇討ちを果たそうとする一派の死闘を軸にした青春群像小説ですが、前近代的な「呪術」と近代合理主義の相克が背景にあり、興味深く一気に読了しました。


『畸人』(きじん)を辞書で引くと、「身体や性質や挙動が普通と変わっている人。礼儀などにこだわらぬ人。変人」とあります。
小説家がストイックな文筆表現者であるとの勝手な考えで言っても、たしかに直木三十五はユニークで、その枠に収まらない人のようです。私には放蕩無頼、波乱万丈の人、個性的でまた極めて人間くさい人としての姿が、浮かび上がってきました。
昭和10年、友人であった菊池寛が、大衆文学の新人賞として直木賞を制定しています。そしてその直木賞は第160回を重ね、芥川賞に並び、またそれを越える文学賞として世に愛されています。直木三十五の文学的業績をもっとも高く評価し、深く理解していたのは菊池寛、その人であったと思えてなりません。
「芸術は短く、貧乏は長し」(横浜にある記念碑の碑文)との直木三十五の声が聞こえてくるような、そんな「直木三十五記念館」でした。
2019年1月1日
明けましておめでとうございます。「12期の広場」も9年目に突入です。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
何ほどの迎春準備をするわけでもなく迎えた元日ですが、笑顔でかわす年始の挨拶や、ささやかでも、それなりの賀正の設(しつら)えは、新年の清々しい気持ちにしてくれます。喜寿の節目を越えての正月ですから、それを喜び、新しい心構えなどに思いを巡らせながら、この年初めを過ごしたいと思っています。
今年は平成から新しい時代へと変わっていきます。思えば、昭和、平成を生き、そして新しい時代を生きることになり、去来する感慨に期待と不安が入り混じります。
時代が大きく変貌することだけは間違いないようです。環境悪化による気候変動はさらに深刻で、世界を含めて社会の状況も混迷を深めそうです。ハイテク技術はもはや欠かせぬ生活の基本インフラになり、その覇権争いやグローバリゼーションのあだ花がクローズアップされるなど、気がかりな事はたくさんありますが、是非、夢と希望がある時代になってほしいと願っています。
そんな気持ちが強くあってか、新春号の花に梅を選びました。お正月の花と限定すると、どの花の写真にするかと撮影者、高見政博君の悩みはつきなかったようで、後でもふれますが、今年から「12期の広場」を季刊にすることから、早春の花々として6種類、7枚の写真を送って頂きました。「福寿草」「梅」「雪割り草」「馬酔木」「セツブンソウ」「スプリングエフェメラル(早春の妖精)」いずれも美しく、見事な写真です。
高見君のメールに『花は同じ縁起物、松竹梅の梅の花です。この花も早咲きの種類は1月末に咲き始めます。ただこの花は写真にするのが難しく、未だに満足出来る作品を撮影することが出来ないでいます。』とありました。どうしてどうして、寒風の中、たくましい枝と可憐に咲く薄桃色の花に魅せられました。
先に書きましたように「12期の広場」は、今月から毎月初めの月刊更新を、季刊更新にすることになります。御承知のように昨秋開催の大阪での同窓会は、最終回になりましたが、9年にわたる「広場」を閉じるのは「もったいない」と言うのが正直な気持ち。さらに、同窓生の皆さんの間にもスマホをお持ちの方が増えていることから、今しばらくは、継続しようということになりました。基本は年4回、新春号(1月1日)、春号(4月1日)、夏号(7月1日)、秋号(10月1日)の発行になります。また、従来の「HP委員会」を「HP委員グループ」にして編集を担当することになりました。
今まで通りにご愛顧くださるよう、切にお願い申しあげます。
季刊第1号の「12期の広場」新春号のラインアップです。記事は、次の6編です。お楽しみください。

今年は平成から新しい時代へと変わっていきます。思えば、昭和、平成を生き、そして新しい時代を生きることになり、去来する感慨に期待と不安が入り混じります。
時代が大きく変貌することだけは間違いないようです。環境悪化による気候変動はさらに深刻で、世界を含めて社会の状況も混迷を深めそうです。ハイテク技術はもはや欠かせぬ生活の基本インフラになり、その覇権争いやグローバリゼーションのあだ花がクローズアップされるなど、気がかりな事はたくさんありますが、是非、夢と希望がある時代になってほしいと願っています。
そんな気持ちが強くあってか、新春号の花に梅を選びました。お正月の花と限定すると、どの花の写真にするかと撮影者、高見政博君の悩みはつきなかったようで、後でもふれますが、今年から「12期の広場」を季刊にすることから、早春の花々として6種類、7枚の写真を送って頂きました。「福寿草」「梅」「雪割り草」「馬酔木」「セツブンソウ」「スプリングエフェメラル(早春の妖精)」いずれも美しく、見事な写真です。
高見君のメールに『花は同じ縁起物、松竹梅の梅の花です。この花も早咲きの種類は1月末に咲き始めます。ただこの花は写真にするのが難しく、未だに満足出来る作品を撮影することが出来ないでいます。』とありました。どうしてどうして、寒風の中、たくましい枝と可憐に咲く薄桃色の花に魅せられました。
先に書きましたように「12期の広場」は、今月から毎月初めの月刊更新を、季刊更新にすることになります。御承知のように昨秋開催の大阪での同窓会は、最終回になりましたが、9年にわたる「広場」を閉じるのは「もったいない」と言うのが正直な気持ち。さらに、同窓生の皆さんの間にもスマホをお持ちの方が増えていることから、今しばらくは、継続しようということになりました。基本は年4回、新春号(1月1日)、春号(4月1日)、夏号(7月1日)、秋号(10月1日)の発行になります。また、従来の「HP委員会」を「HP委員グループ」にして編集を担当することになりました。
今まで通りにご愛顧くださるよう、切にお願い申しあげます。
季刊第1号の「12期の広場」新春号のラインアップです。記事は、次の6編です。お楽しみください。
1. 「2018年最終の12期幹事会がありました。」 | |
2. 「12期生喜寿の同窓会を終えて」 | 7組 上野 裕通 |
3. 「もう一つの同窓会-幹事会」 | 8組 川村 浩一 |
4. 「ただいま写真に、はまっています」 | 8組 村崎 裕昭 |
5. 「シャンソン・ジョイントライブ」 | 8組 榎本 進明 |
6. 「国道2号線淀川大橋改修の見学と海老江と淀川の歴史」 | 8組 末廣 訂 |
以 上
2019年1月1日
昨年の12月2日午後5時から、大阪での最終同窓会のまとめをする幹事会が開かれました。場所は「がんこ
寿司曽根崎店」です。
恒例の幹事会ですが、今回は最終同窓会を無事終えた安堵感があって、格別の幹事会でした。
参加された幹事の皆さんは、1組、高橋さん、八島さん、鈴木さん、2組、北浦さん、山西さん、峰松さん、藤田さん、3組、石井君、小牟礼さん、4組、酒井君、原君、古藤さん、5組、稲葉君、段中さん、6組、松田君、7組、上野君、張君、柏木さん、8組、末廣君、川村君、八島君の21名です。
主な内容は、会計報告書の内容確認と同窓会参加者皆さんへの発送、同窓会当日の写真、その名前一覧の発送です。
写真は集合写真のみと計画していたのですが、楽しいスナップ写真もあって、急遽、同封することになり、名前ごとに仕分けられた写真を入れて発送しました。「この人の写真は間違いなく入れたかァ?」など、これが、手間取り大変でしたが、和気藹々です。
作業を終えて、乾杯、懇親会を始めました。
思えば、このメンバーで、13回の同窓会を開催してきたわけですから、感慨もひとしおです。お酒をついで回り、談笑する幹事さん、思い出に笑いころげながら握手する幹事さん。皆さん、肩の荷をおろした安堵感一杯で、一層リラックス、笑顔あふれる懇親会になりました。
幹事会ではホームページの「12期の広場」を月刊から季刊に変更し、いましばらく継続することが承認されました。また、「HP委員会」は解消し、いままでのメンバーを中心に「HP委員グループ」とすることになりました。
最後に、代表幹事の酒井君が、感涙にむせびながら、幹事の皆さんのご協力、幹事会を支えて下さったすべての方々への感謝を話されました。
午後9時前、すべての予定を終えて、幹事会は終了しました。これで、幹事会も一区切りをつけたわけですが、今後、全体同窓会行事や小規模の同窓会など、色々な機会を通して、交流を続けていくことになりました。

恒例の幹事会ですが、今回は最終同窓会を無事終えた安堵感があって、格別の幹事会でした。
参加された幹事の皆さんは、1組、高橋さん、八島さん、鈴木さん、2組、北浦さん、山西さん、峰松さん、藤田さん、3組、石井君、小牟礼さん、4組、酒井君、原君、古藤さん、5組、稲葉君、段中さん、6組、松田君、7組、上野君、張君、柏木さん、8組、末廣君、川村君、八島君の21名です。
主な内容は、会計報告書の内容確認と同窓会参加者皆さんへの発送、同窓会当日の写真、その名前一覧の発送です。
写真は集合写真のみと計画していたのですが、楽しいスナップ写真もあって、急遽、同封することになり、名前ごとに仕分けられた写真を入れて発送しました。「この人の写真は間違いなく入れたかァ?」など、これが、手間取り大変でしたが、和気藹々です。
作業を終えて、乾杯、懇親会を始めました。

幹事会ではホームページの「12期の広場」を月刊から季刊に変更し、いましばらく継続することが承認されました。また、「HP委員会」は解消し、いままでのメンバーを中心に「HP委員グループ」とすることになりました。
最後に、代表幹事の酒井君が、感涙にむせびながら、幹事の皆さんのご協力、幹事会を支えて下さったすべての方々への感謝を話されました。
午後9時前、すべての予定を終えて、幹事会は終了しました。これで、幹事会も一区切りをつけたわけですが、今後、全体同窓会行事や小規模の同窓会など、色々な機会を通して、交流を続けていくことになりました。
2019年1月1日
7組クラス幹事 上野裕通

13回目は参加者が12回目よりも10人も多かったのは、遠来の友が、カナダから、北海道から、東京からたくさん駆けつけてくださったこと、また、病気療養中にもかかわらず無理を押して来ていただいた熱い思いがあったからだと感じました。
13回の同窓会にすべて参加させていただき、大変大事なものをいただきました。それは、友達としての「つながり」の再確認でした。出会った友とは時間を飛び越え、すぐに昔に戻れた嬉しさです。また、高等学校時代に話したこともない女子とも気軽に話をさせてもらえたのは、年齢を重ねた証拠であったように思います。
同窓会がきっかけで12期の広場が開設され、ホームページの管理運営に関わって来られた方々にも深く感謝しています。多くの同窓生の消息が知ることができ、喜んでいます。
今後は、これまでに培った「つながり」を大切にし、自主的に連絡を取り合い、出会いの機会を設ける努力をしようと思います。体の衰えが訪れぬ前に。取敢えず、今年の4月、舞洲の市岡の森である「花見の会」には出席できるよう健康管理に努めます。皆さんも、いつまでもお元気でいてください。
終わりに、市岡高等学校の100周年記念式典に寄せて、ジェームス三木さんが寄稿された創作詩を添付させていただきます。
2019年1月1日
8組クラス幹事 川村浩一

大阪での同窓会は昨秋、33年をもって終了しました。幹事の一人として、やむを得ない面もありますが、残念に思っています。皆様、ご協力ありがとうございました。
この最後の同窓会(10月28日)の前後に幹事会が行われました。初回が4月、舞洲の花見のあとで、二回目は8月、三回目は10月で、母校・同窓会館に集まり案内状の発送や、当日のプログラム、役割分担を決めて開催当日を迎えました。同窓会開催後の幹事会は12月、会計報告や写真発送作業をしました。毎回集まるのが二十数人ほどです。この模様は「12期の広場」で紹介されています。(も一度見てください。)もちろん幹事会のあとは、懇親会も付いています。これが楽しい。
私が幹事会に出るようになったのは1995年からです。8組幹事の末廣君に誘われて参加しました。この年は、原君の協力で道頓堀ニュージャパンを作業会場に使っていました。初めて参加した時は、知らない顔の方が多かったように思います。
2000年は2組の久保(小西)さんのお世話で花見を兼ねて茨木・徳秀苑で行ったり、いつだったか、貝塚温泉「ほの字の里」に1泊の泊りがけで行ったりで、いつも幹事会は、完全にミニ同窓会。二十数名のクラス幹事さんも完全に仲間と思えるようになりました。
大阪での同窓会は終わりましたが、今後も幹事会は続くはずです。同期の仲間ならだれでも幹事会に出れば幹事です。8組の幹事は末廣君を筆頭に塩野君、谷君、川副君それに私。定員などありません。
今年も何回かの幹事会がもたれると思います。元気なうちにぜひ参加ください。
2019年1月1日
8組 村崎 裕昭

今回、同窓会で紹介したいからとの依頼を受け、お断りもできず、レベルの低い作品をお出しすることになり、恥ずかしい限りです。
まず一枚目の写真は、北鎌倉にある、アジサイで有名な明月院・本堂の通称「悟りの窓」です。

「悟りの窓」と呼ばれる魅惑的な名前と、この部屋の日本的な「和の空間」に心動かされました。「丸い窓」の向こうには庭園があり、「窓」を通して、四季折々の庭の景色の一部を切り取って眺める事ができます。何時までも眺めていたい光景です。
さて、撮影のポイントは、この「悟りの窓」をモチーフに、「和の美しさ」 ( Japanese beauty )を表現出来るかどうかです。 「写真は足し算と引き算で、背景に何を選ぶか、背景をどう切り取るかで、写真の出来の50%が決まる」と言われています。
今回は「悟りの丸い窓」を主役に、「天井のほのかな灯り(あかり)」を脇役にし、周辺を薄暗くすることで、「悟りの窓」と「天井の灯り」の二つの光を浮かび上がらせました。これにより、二つの光を対比させつつ、瞑想的な悟りの雰囲気を表現することにしました。
[ Less is more ](少ないほど、豊である)という考え方がありますが、静かで落ち着いた「和の美しさ」が伝われば良いな、と思います。
次の写真は、鎌倉八幡宮の舞殿(まいでん)です。
この舞殿は、静御前が義経を慕い、心を込めて舞った若宮廻廊の跡に建ち、「下(しも)拝殿」とも呼ばれています。
鎌倉観光の代表的スポット、鶴岡八幡宮境内のほぼ中心部に位置し、ある意味八幡宮で一番有名な場所です。運がよければ美しい巫女さんの神楽舞に出会うこともできますよ。

四面吹き抜けで、屋根は唐破風(からはふ)の入母屋造り、その美しい屋根の勾配と内部の鮮やかな朱色に目を奪われます。
広角レンズは、手前のものがより大きく、奥のものが小さくすぼまるように見えるという、「遠近感」が強調される特徴があります。 今回は、舞殿の正面の張り出し部である向拝 (こうはい)の庇(ひさし)の部分に焦点をあて、超広角レンズを使って「遠近感」を強調し、大きくド迫力で迫ってくる舞殿を表現することにしました。
建物に出来るだけ近づき、ひざをついて地面すれすれの位置から見上げるようなアングルで撮影しました。
四隅および周辺部での大きさを極端に誇張することで、繊細で美しい朱色の建物に迫力というアクセントを添えました。

これは、ホトトギスの花の写真です。
明月院の境内の隅で、ひっそりと咲いている小さな花に、目が止まりました。社務所の女性に花の名前を聞くと、「ホトトギスですよ」とのこと。ユリの花を、ごくごく小さくしたような形で、内面に濃い紅紫(あかむらさき)色の斑点がついています。暑かった夏に終わりを告げ、秋の到来を感じさせてくれる花です。小ぶりながら、存在をしっかりと主張して咲いている可愛らしい花の姿に、心動かされました。
撮影のポイントは、いわゆる「ボケ味」のきいた、雰囲気のある花の姿を表現することです。
やわらかく、とろけるよう緑を背景にして、その中から「す~っと伸びてくる茎」、その先に付いた「紅紫色の花」と「つぼみ」を幻想的に表現しました。
言い訳になりますが、あいにくの風に花が揺れて、残念ながら「しべ」のピントが甘くなりました!! ご愛嬌までに。
2019年1月1日
8組 榎本進明
今や恒例となった11月・秋のシャンソンコンサートが、11月25日(日)に行われました。大石橋宏次夫人・美沙子さん(あい美沙子)と、昨年同様マリBUNKOさんとのジョイントライブです。
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オープニングで歌う、左・マリBUNKOさん 右・あい美沙子さん |
今回の会場は、いつもと同じでしたが、補助椅子をなくして入場人数制限されたので、ゆったりとした雰囲気でオープンしました。オープニング曲は二人で、続いて、あいさん、BUNKOさん、交互で、また、トークも入って観客を楽しませてくれました。まったくのプロのコンサートです。歌はもちろん、トークもプロ、最高のエンタテナーで大満足でした。
あいさんが一部で歌われた5曲をCDに入れて、天皇陛下に献上した旨のお話がありました。皇后陛下のお好きな「パリの屋根の下」も入れ、「一本の鉛筆」「陛下お茶をどうぞ」「千羽鶴」「哀しみのソレアード」です。故吉住法子先生に師事されたご縁でこのような機会が与えられたとのことです。会場の正面の席には、吉住さんの遺影と、ギタリストの息子さんと妹さんも招かれていました。

あいさんがBUNKOさんにトリの唄としてリクエストした「ヨイトマケの唄」には涙がこぼれました。得意な曲を皆さんに聞かせてあげたいと、「あいさん」の気持ちが伝わってきました。そして、アンコールと二人のエンディング曲でコンサートは終了しました。
さて、ここからが毎年行われる12期会の宴会です。今年は村崎夫妻がハグをする番です。3年前から金婚式を迎える夫婦がハグをさせられています。おめでとう村崎夫妻。そのあとは、今日のこと、最後の同窓会のこと、話題には事欠かない仲間の長話が続いてお開きになりました。


2019年1月1日
8組 末廣 訂
見学日―平成30年4月20日(金)午前10時~11時半ごろまで。 参加人員11名

当日は久しぶりに雲一つない快晴で、絶好の見学日となった。午前10時前に会員は工事事務所のある旧中津運河ベリのプレハブ事務所に集まった。
この見学に申し込んだのは、福島区歴史研究会より総勢11名である。
事務所内は会議室になっており、各テーブルに、ヘルメットや安全ベルト・反射チョッキが置いてあり、前方には、パソコン・プロジェクター・スクリーンが準備されていた。担当の方にお聞きすると、今まで約40団体が見学に来たとのことです。
手元に説明資料が準備され、担当の方からプロジェクターを使いながら説明をいただいた。説明の内容は「淀川大橋の概要、橋の構造、淀川大橋の歴史(西成大橋から淀川大橋へ、鉄道と併用橋、大阪大空襲による被害)そして老朽化の現状と工事内容、床版取替工事、工事の日程」等であ

この大改修工事は約3年かけ、2020年3月までかかる工事というものです。
約30分の説明後、見学の準備として、テーブルにある反射チョッキ、ヘルメット等を各自着用した。
2. いよいよ工事現場の見学へ
工事事務所から現場まで約100メートル、重装備姿で一列に並んで歩き、大橋の袂(下流側の現場)にたどり着いた。
一歩工事現場に足を入れると、大型の機械や機材がおいてあり、まだ舗装ができていない橋道が続いており、右側には交通渋滞の車が並んでいる。舗装ができていない床版上を150メートルほど歩き、その後、橋脇の木組みの足場(幅は約1.5メートル)を100メートルほど進んだ。このあたりになるとほぼ橋の中心部で風が涼しい。ここで、案内の人が今度は下に降りる狭い階段の取手を開け、下に2メートルほど降りた.

一方、大橋ができて100年近くたち、床版の損傷、鋼材の腐食、また、コンクリートの剥離や鉄筋の露出があり、橋の健全度(橋単位)は4段階でレベル3の悪い状態であると説明を聴いた。
大正末期の大工事だが、建設当時、大量の鋼材を国内製造で困難であり、八幡製鉄所、神戸製鉄所の他、アメリカやイギリスから鋼材を運んできたという刻印が確認されている。当時は丁度関東大震災(大正12年)の直後で、のちに阪神電鉄の路面電車が走る等、地震に強い橋梁の施工が要求されていた。
まさに大阪は西成郡を大阪市に編入し、人口211万で日本第1位、世界でも6番目の大都市で大大阪の時代であった。

3. 淀川と地元海老江の歴史
我が家に「淀川大橋開通式記念・大正15年8月25日」の刻印がある直径15~6センチメートルの丸い鉄製の記念皿がある。祖父が竣工渡り記念式典に参列した時の記念品ときいている。
淀川や中津川は大阪の人々の日常生活を大いに潤していたが、その反面、度重なる水害によって人々を苦しめてきた。特に明治18年の台風は被害が大きく、枚方で堤防が決壊したため、大阪市内で14,000戸が流失し、死者も出た。
のちに治水翁と称賛された大橋房太郎が政府に働きかけ、明治29年に河川工事を国が行うという河川法が成立した。そして当時蛇のように曲がりくねっていた中津川を毛馬辺りからまっすぐ大阪湾に流すという大治水工事が31年から始まった。
ところが、この工事により、当時の海老江村の土地65%(90町歩・甲子園球場の25倍)が川底になり、しかも海老江新家(現西淀川区花川町)は分断されてしまった。現在でも花川町に海老江南桂寺の檀家がおられ、数10軒の方がお参りに来られている。
また、海老江村の墓は移転し、「野田福島の戦い」で織田方の陣営だった「海老江城・

新淀川の掘削で出た土砂を運ぶため、中津運河が並行してできた。土砂は当時の井路川を通じて、梅田付近、大開や海老江にあった川や池を埋め立て、そこに新しい住宅や工場が建ち、どんどん人がうつり住み新しい町ができてきた。淀川の土砂を運んだ中津運河は昭和になって埋め立てられ、新しく淀川左岸線の高速道路の予定地になっている。この治水工事を記念して海老江八坂神社裏の公園に「疏河紀恩の碑」が建っている。(写真右)
その後、新淀川に有料の橋がかけられ、「淀川の 銭取り橋や 寒習い」と詠んだ松瀬青々の句が残っている(海老江の住民は無料であった)。そして明治末に当時西成郡で一番大きな橋、西成大橋が完成した。現在その「西成大橋」の親柱が海老江八坂神社と花川町の鼻川神社の境内に残っている。大正末に、西成大橋の上流側に並行して、現在の淀川大橋が建設されることになった。

今回、淀川大橋の改修工事の見学に参加でき、親から聞いた話や街の変化、また先の大戦で1トン爆弾が淀川大橋と我が家の前に落ちたこと等を思い出し、ひとり郷愁の思いで見学した。
その後、歴史研究会の会員10名で上流側の床版取替工事と1トン爆弾が落ちた橋桁を11月末に2回目の見学をした。そして、10月頃から左岸線(阪神高速道路)の本格的な工事がはじまっている。したがって淀川河川敷の子供の遊び場や野球やサッカー・テニス場の利用、天気の良い日は、バーベキューを楽しむ家族や団体が見られたが、高速道路の完成までの7~8年間は進入禁止で、これらの風景は見ることができない。
註: この文章は「福島区歴史研究会会報 第11号」に掲載されたものです。筆者の末廣訂君に「12期の広場」への転載をお願いしたところ、一部改訂頂き、掲載となりました。ありがとうございました。
「平和の碑」の説明文にある「6月26日の死者」は、1945年のこの日、「第5次大阪大空襲」時に犠牲なられた海老江の方々のことです。( HP委員 記 )
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