12期の広場

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圓尾博一君の作品を鑑賞しました

8組 榎本進明
 去る7月13日(月)東京銀座で6組の圓尾博一君を含む「アーチスト10人展」がありました。
川歩きの仲間に声をかけたら4人(左から西條、泉、山田、右端・榎本)集まりました。7年前に個展をされた会場だったので懐かしかったです。

 

その時の招待状の表面と裏面に素晴らしい趣旨説明が書かれていますのでご覧ください。



 30歳で画家になった彼の変わらぬモチーフは「創造力と想像力」というタイトルのとおりでした。

 筆者が最初に圓尾君とお会いしたのは2008年7月28日の銀座での個展でした。
初日に開会の荘厳な式典と彼の画壇仲間や師匠と思われる方のご挨拶があったのですが、あまり覚えていません。覚えているのは、きれいな奥様と大きな絵に圧倒されたことでした。特に金太郎と熊の絵が印象に残っています。それは2009年3月26日~4月4日の美術文化展で、庚申(金太郎)を発表されましたが、確かこのとき見た作品だったと記憶しています。残念ながら写真はありません。
その後も上野や銀座で所属協会の展示や個展を開くたびに招待状を送ってくださるので、いつも楽しく拝見しています。

2008年7月28日 「アーチスト10人展」と同会場・銀座のギャラリーでの個展。開会式典でご挨拶される圓尾ご夫妻
その時招待された12期の面々 左から大石橋、中柴、泉、平松、圓尾ご夫妻、平松令夫人、川合(故人)、山田

 今年は、今回の「10人展」に先立ち、5月にも上野の東京美術館で「美術文化展」がありました。
彼の所属する美術文化協会の今年の作品は「御伽草子(一寸法師)」です。(右の作品です)
 併せて2014年8月号の圓尾君の「集大成の個展」の記事をぜひご覧ください。HP編集委員が「御伽草子展」の展示物が多数ある内9点の写真を載せています。
 また、彼の経歴については「12期の広場」の2011年3月号に「人生の分岐点」として投稿していただいていますので省きます。どうぞバックナンバーをご覧ください。


 私は「12期の広場」で幾度となく彼の記事を拝見していますが、私が見たこともないパステル画の記事がありました。それは2012年4月号2014年4月号に投稿された『パステル画展』です。

 

この投稿を見て彼の作品の広がりを知りました。

 また、2013年5月号の記事にあった「古都・四季」(墨彩画)を知って「やはりプロは違うなあ」と感じ入った次第です。



 彼の制作意欲とバイタリティーに敬意を示すためにも、今まで「12期の広場」にどなたかが投稿されたバックナンバーも読んでいただきたいと願い、今回の作品鑑賞の報告とします。

「12期の広場」7月号のラインアップ

 7月になりましたが、先月のお話です。6月には株主総会のオンパレードで数社の総会に参加しました。通信会社の2社は、さすがにエンドユーザーを相手の事業ですので、株主もエンドユーザーが多数参加しています。株主の質問もユーザーの立場からの質問が多く、経営陣の説明も丁寧で「お客様」を意識した充実した内容でした。一方、BtoBが事業の根幹である大手商社では、お客様も事業会社なのでどの「分野」に力を入れるか、どの「国」を重視するか、その理由はこうです。と言った中身でした。失敗すれば大きな損失を生むし、成功すれば株価も上がるし、その見極めが難しく、株主の質問に経営陣もどこか国会答弁のような、筆者には質問に答えていないように見えました。それでも一番前で議長や回答する役員の顔もはっきり見える場所でしたので、「自信」や「不安」を間近で感じ取ることが出来ました。
 7月以降は世界的・国内的に種々難題が山積みの状況で、目を離せない日々が続きますね。
 恥ずかしながら筆者の最優先課題は、腰痛の苦しみからどう脱却するかです。現状は座っていると痛くなり、株主総会でも立つに立たれず、必死の思いで座ったままいろいろ体位を変えたり、もじもじして大変でした。行き帰りの電車では席を譲ってくれる若い女性にも「立っている方が楽なんです」と腰痛の説明をする始末。もう一度、山登りがしたいと夢見て頑張っています。そして7月には手術するしかないと覚悟を決めています。
 気を紛らわせるために、薄くなった頭を丸坊主にしたり、スキンヘッドにしたり、長さを変えてみたり、ひげを生やしてみたり、似合わないから剃ってみたり、鏡に向かう時間が長くなり、人生の中でこれほど鏡を見るのは初めてです。鏡の中の自分との対話など考えもしなかったが、なかなかいいものですね。今になって女性の気持ちがわかりました。
 そのような中、石井君の連載記事には羨望の気持ちで毎回拝見しています。今月も失敗談やら、大胆な行動、二度としない教訓、等々、よく記録も残していると感服しています。今では毎月一日が待ち遠しくなっています。次にどなたか書いていただければ長生きできるように思っています。

 さて、「12期の広場」7月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
  1. 「市岡高校同窓会総会」がありました。
  2. 思い出を綴る  (6)」               3組  石井 孝和
  3. 市岡高校OB美術展に行ってきました。」         7組   張  志朗

 以 上

 

「市岡高校同窓会総会」がありました。

 平成27年度大阪府立市岡高等学校同窓会総会が、6月14日(日)午前11時半から、NBCホテルで開催されました。例年の同窓会総会は母校の「100周年記念会館」での開催が多かったのですが、今回は毎日放送の制作局エグゼクティブである石田英司さん(高校30期)の記念講演や柴崎友香さん(高校44期)の第151回芥川賞受賞のお祝いなどもあってか、大阪の中心地-中之島での華やかな開催になったようです。
同窓会総会の全景写真です。演壇に居られるのは佐藤充利会長です。

石田英司さん(高校30期)の講演。石田さんは通称「ニュースのおっちゃん」と呼ばれる大人気のキャスターです
 参加者は来賓の上野佳哉市岡高校現校長はじめ現・旧職員の先生方、旧制中学39期から高校64期までの同窓生、総勢160数名で、参加者数は勿論のこと、世代や活躍分野の幅広さにも目をみはる盛会でした。
 定刻に総会が開会。最初に佐藤充利同窓会会長(高校8期)が挨拶され、その後、議長を選出し、議事(平成26年度決算報告、会計監査報告、平成27年度予算案報告など)が進行されました。結果、理事会提出の議案はすべて滞りなく、拍手で承認されました。
 来賓を代表して上野校長が挨拶されました。校長は冒頭、総会への招待について感謝を述べられ、現役生徒の頑張りと伝統校の歴史の重みに触れられました。また、卒業生の「市岡人材バンク」(母校ホームページに詳細紹介があります。)への登録と来年度から入試制度が改変されることについての協力を要請されました。
 続いて、石田英司さんの講演がありました。石田さんはMBSテレビの人気番組「ちちんぷいぷい」の顔とも言える人気キャスター。その講演は話のプロの面目躍如で、参加者の拍手喝采を浴びられました。石田さんは高校在学時のエピソード(自治会の特別クラス活動委員長で活躍)、上智大学から毎日放送に入社、特に毎日放送報道部に移籍以後、同時間帯視聴率の雄であったABC朝日放送テレビを向こうに回しての新方式採用やその奮闘記などについて話されました。自分の人生を決定づけたのは市岡での高校生活にあること、また民主主義は手間暇がかかり、それを省略することが出来ないと話された言葉が印象的で、心に残りました。ぶれることのない石田さんのジャーナリストとしてのスタンスが市岡で学び、培った「市岡マインド」にその源があることをかいま見たように思え、深い感銘と共感をおぼえました。
芥川賞を受賞された高校44期の柴崎友香さん。もの静かな雰囲気と語り口が魅力的。さらなる活躍に期待が膨らみます。
 次に芥川賞受賞作家の柴崎友香さんへの花束贈呈と柴崎さんのスピーチがありました。
 柴崎さんは市岡での3年間がとても楽しかったことや自由な校風の3年間があったおかげで今このように小説がかけていると話されました。またサイン会などで多くの市岡の卒業生や市岡ゆかりの方々に巡り合うエピソードを披露され、市岡への感謝をのべられました。
 生物を教えて頂いた、高校5期の小椋勝先生が乾杯の音頭を取られ、懇親会が始まりました。
柴崎さんを囲んでの記念撮影の輪。皆さんうれしそうですね
 総会から石田さんの講演会、柴崎さんへの花束贈呈へと同窓会総会の雰囲気は、一気に盛り上がり、懇親会で最高潮です。20近いテーブルは歓談と笑顔と乾杯の連続でした。特に、石田英司さん、柴崎友香さんの周りは歓談の輪、記念撮影の輪が続きました。
 今回の同窓会総会は例年に比べ参加者が多かったこと、特に旧制中学39期から高校64期(平成25年卒)まで、ほとんどの期からの出席者がおられたことが目をひきました。しかも若い世代の参加が目立ったことです。私のテーブルにも谷昇生さんら高校36期生の方々が4名おられました。実に頼もしい限りとちょっと嬉しくなりました。
 会の終盤に全体集合写真の撮影がありました。


母校吹奏楽部 OG・OBバンドの演奏です。楽しく素晴らしい演奏に拍手、拍手です

 同窓会のしめは市岡高校吹奏楽部OG・OBバンド40名の見事な演奏でした。
 午後3時頃、OG・OBバンドの伴奏で校歌を斉唱し、平成27年度大阪府立市岡高等学校同窓会総会は無事、終了しました。
(張 志朗 記)

思い出を綴る (6)

3組  石井 孝和

1963年(昭和38年)本格的なテレビ時代に対応するためNHK大阪放送会館新館が完成
 入局3年後の昭和38年(1963年)BKに新館が完成するとともに、本館と“渡り廊下”で結んだテレビスタジオが増設された。このテレビスタジオでは、藤本義一脚本の連続ドラマ「法善寺横丁」が制作され、放送が始まった。
 わたしの“にがい思い出”がこのテレビスタジオを結ぶ“渡り廊下”にあった。
 ニュースに中にあって、大事な位置を占めているのが「天気予報」。固いニュースの中で、見る人の気持ちをやわらげ、何よりも日常生活に欠かせないものだ。「天気予報」の出し方に二通りあった。 一つは、スタジオに立てた大きなボードに“晴れ”や“雨”など、予想される天気の手作りの絵図を貼り付け、それをスタジオカメラで撮り、放送する方法。
新館完成で新しくなった報道部 略図
もう一つは、風景や草花を撮影した映像の上に、府県名や予報の文字をスーパーするのがあった。(現在ではボードに貼り付けていたやり方を電子化している)
 “泊り勤務”のある日のこと、夜遅くになって、靴をスリッパに履き替えて仕事についていた。午前0時の放送終了直前の「天気予報」の時間が迫っていた頃、技術部から電話がかかった。「お天気5分前ですよ」と。すでに用意していた音楽を録音した円盤を「お盆」のようにして、フイルムを巻いたリールや府県別のテロップ(鉄の枠に入っている)10枚を載せ、小走りでテレビスタジオに向かった。
現在のCGを使った天気予報です。
 報道部からテレビスタジオまでは2分くらいで行ける距離で「まだ放送まで余裕がある」と思っていた。ところがこの思いに反して“渡り廊下”でアクシデントが起きた。—– その頃、屋外はかなりの激しい雨が降っていた。本館から鉄の扉を押し開けて“渡り廊下”に足を踏み入れようとした途端、入り口の段差に蹴つまずき、前のめりになって、持っていたものすべてを床の上に投げ出してしまった。テロップはばらけ、リールはアレヨアレヨと転がって、側面の20センチ余りのすき間から音をたてて落下、地面の暗がりに消えてしまった。“フイルム”を失ったわたしは、何はともあれ、散らばったものをかき集め、スタジオに持ち込んだ。
当時のアナウンサーブースです。
放送まであと2分ほどしか残っていない。アナウンサーは“アナブース”でスタンバイ。その時、技術陣から「大阪城の写真が一枚あるよ」との声。即座に「それでいこう」と決定、オンエアースタート。技術陣の咄嗟の機転で3分間の放送に“穴”を開けずに済んだ。放送終了後、雨に濡れたフイルムも回収、修復でき、上司からのきついお叱りも受けなかった。ただ不十分な放送を出したことに反省し、この出来事以降、局内でスリッパに履き替えることはピタッとやめた。
 この年のほかの出来事と言えば ―――。
▽ 名神高速道路が一部(滋賀県栗東市から兵庫県尼崎市)開通。ハイウエイ時代の幕開け。
▽ 日本最大の高さ186mのアーチ型ダム「黒四ダム」が完成。経済復興による電力不足解消へと、大きな役割を果たした。
事件前ダラスに向かうケネディ大統領夫妻
▽ アメリカのケネディ大統領がパレード中に狙撃され死亡。NHKが人工衛星を使った初の日米リレーの実験放送が行われていたため、即座に暗殺のニュースが伝えられ日本の視聴者に衝撃を与えた。
 ついでに小さな出来事として、私の家も月賦で四ッ足のテレビ受像機を買い入れた。
 全国のテレビ受信契約数1500万台を突破したのもこの年だそうだ。(つづく)

「2015市岡高校OB美術展」に行ってきました。

7組  張 志朗
 6月14日(日)から6月20日(土)の一週間にかけて「2015市岡高校OB美術展」が大阪現代画廊・現代クラフトギャラリー(大阪市北区西天満)で今年も開かれました。主催は市岡の美術部OB有志ですが、出品者は美術部OBに限らない幅広い市岡OBの方々です。

辻君の作品 ノルウェイの灯台

 5月に13期の中務さんからメールで案内状を頂き、また直前に8組の辻紘一郎君からも連絡をもらい出かけてみました。私が「OB美術展」に行くのは、昨年に続いての2回目ですが、「OB美術展」はもう10年以上も続けられているそうです。(正確な開催回数を確かめるべきところでしたが、失念。次回はきっちりと確認いたします。)
 今回は昨年に比べると少し出品数が少ないような感じでしたが、それでも絵画26、陶芸5、写真3、キルテイング1、狂言面1、竹細工1の総数37作品で、会場のギャラリー展示スペースの壁面は一杯でした。
 同期の辻紘一郎君は昨年に続いての出品。その作品はノルウェイの灯台を描いた作品と広島の平和橋付近を描いた作品の二点でした。(写真をご覧ください)国内外の出張など、現役バリバリ
のいそがしい身でありながらも、こうして絵筆をとる元気、迫力には感服の一言です。13日の土曜日に作品持ち込みと展示ため、広島から来阪したそうですが、残念ながら会えませんでした。

辻君の作品 平和橋付近
辻君の奥様である辻純江さんの作品も出品されていました。奥様も市岡の13期で美術部OGです。
辻君の奥様の作品です

 久々に卒業アルバムを開いてみると、美術部の同期は9名で、部長は辻紘一郎君、顧問の先生は江口先生(書道)と梶野先生(美術)のお二人だったようです。
 梶野先生は現在もいたってお元気で、会場におられていろいろとお話しすることができました。梶野先生の作品も展示されていました。作品名は「ILLUSION」とありました。(写真をご覧ください。)
 「OB美術展」に行く前、美術部のOBでもある田端建機君を誘ったのですが、予定が合わず、別行動になりました。後日、連絡した所、私が行った後に、見に行ったようです。無理を言ってコメントをメールして貰いました。一部省略していますが、その中に以下の文章がありました。
 「私自身、身の回りで何の変哲もないちょっとした光景や場面が美しいとか、この世も捨てたものではないか、思うことが結構よくあり、絵筆を捨てていなければこういう絵を画いていたかもしれない、という思いがわいて来る。その場合、良い絵を画きたいと言う前に自分が感じ入っているものが何なのか確かめ定着できればと言う気持ちで画こうとするだろうと思うのである。
 この美術展を見て思うのだが、高校現役の頃に美術部の部屋にあった絵の印象からすれば、皆、穏やかだなあ、という感じである。だからと言って生ぬるいなどと言いたいわけではない。自分自身が随分と遠くまで来てしまったなあ、と言う感慨があるのである。」
梶野先生の作品「ILLUSION」
 また美術部の同期についても以下のようにありました。
 「ここに同期の皆さんの作品がないのは寂しい。徳本は圧倒的な存在感のある絵を画いていたのだが、陶芸に心を移し、作陶に専念できる日を待ちつつ、その日が来る前に倒れてしまった。早川はマッチ棒に墨をつけて画き、軽く彩色する技法を駆使して洒脱(しゃだつ)な風景画を得意としていたが、それらを見ることはもうできない。・・・・・この美術展について書けと言うことだったが、その昔のことばかり書きすぎたようである。耄碌(もうろく)に免じてご容赦」
 美術展への出品者で言えば、梶野先生を除くと、高校12期の辻君がもっとも「古い」OBになるようです。会場に高校13期はじめ幾人かの同窓生がおられ、梶野先生を中心に美術展の事や展示作品について話をしておられました。その仲間にいれてもらったのですが、美術には全くの門外漢ながらも、おおいにリラックス、格別に楽しい一時を過ごすことができました。また来年を楽しみにしたいと思いながら会場を後にしました。
 12期同窓生では4組の黒田任子(旧姓 松山)さんも来られたそうです。

「12期の広場」6月号のラインアップ

 6月です。先月末から日差しは一気に真夏のそれ、初夏の情緒もどこへやら、汗を拭き拭き「夏は来ぬ」を実感しています。
ヤマボウシ 撮影は5月21日 6月~7月の花であるが、今年は早く咲いていた
老齢の意気地なさから、いまだ半袖デビューはしていませんが、クールビズからスーパークールビズへとネクタイをはずす程度の工夫ではとても追いつけない感じです。
 この季節の小学唱歌で思い出されるのがまずは「茶摘み」、それから「夏は来ぬ」です。「茶摘み」は「夏も近づく八十八夜」とありますから、立春の2月4日から数えると5月初め頃。6月とは約ひと月ずれになり、やはり「夏は来ぬ」がぴったりかなと思います。歌詞が短く、憶え易く美しい旋律であったので私は大好きでした。
 改めて調べてみると歌詞が5番まであるようです。1番と2番は記憶があるのですが、3~5番は全く記憶にありません。少し長くなりますが、書きだしてみます。
  1. うの花の匂う垣根に 時鳥 はやもきなきて
                  忍び音もらす 夏は来ぬ
  2. さみだれのそそぐ山田に 早乙女が 裳裾ねらして
                  玉苗ううる  夏は来ぬ
  3. 橘のかおるのきばの 窓近く 蛍とびかい
                  おこたり諫むる 夏は来ぬ
  4. おうちちる川辺の宿の 門遠く 水鶏声して
                  夕月すずしき 夏は来ぬ
  5. さつきやみ蛍とびかい 水鶏なき 卯の花さきて
                  早苗うえわたす 夏は来ぬ
 なんと見事で美しい歌詞でしょう。この季節の風物を鮮やかに切り取っていることや奥深く風雅な情緒にあふれていることに驚きさえ感じます。「今、小学唱歌を読んでいます。」と便りをくれた友の気持ちが腑におちます。人生いろいろ、しみじみと生きてはどうかと言われているようです。ちなみに「夏は来ぬ」の作詞者は佐佐木信綱となっていました。
 もうすぐ梅雨ですね。今年の梅雨がやさしい恵みの雨であることを願いたいものです。

 さて、「12期の広場」6月号のラインアップは以下の通りです。お楽しみ下さい。
  1. 第6回 荒川・川歩き (平成27年4月28日~29日)」   5組   泉  信也
  2. 思い出を綴る  (5)」               3組  石井 孝和
  3. 奈良歩こう会に行ってきました」            7組   張  志朗
以 上

第6回 荒川・川歩き (平成27年4月28日~29日)

5組 泉 信也
 昨春以来の川歩きを再開した。
今回は奥秩父の「甲武信岳」に発する荒川の源流をめざす最後の行程である。
メンバーはいつもの西條(3組)、山田(8組)、大石橋(6組)、榎本(8組)、泉(5組)の5人。川歩きの発案者であり、利根川の全行程を歩き通し、荒川も第4回の「長瀞」までをリードしてくれた川合兵治君(4組)に昨年末に先立たれてしまったのが、全員の心に重い。
 4月28日10時、「いつまでもグズグズするな!」という川合君の声に励まされるように西武秩父駅に集合。今回は体調が万全でないメンバーもいて、榎本君の提案でレスキュー車を用意することにした。折角の芝桜の季節でもあり、先ずは駅前の羊山芝桜公園へ。ゴールデンウィーク前と云うことで大勢が訪れ、多彩な色のグラデーションを愛でているが、あまりに整い過ぎた花壇より、周りの林の新緑の方が目に沁みる。すぐに秩父往還道にもどり、前回の到達点の大滝温泉までドライブ。いざ歩行開始、の予定であったが近くに最近話題になっている「太陽寺」という天空の禅寺があるというので寄り道することとなった。700年の歴史を偲ばせる本堂の佇まいが、あたりの自然に溶け込んで、咲き残った山桜がアクセントを添えている。ここでバッタリ、タケシ軍団のダンカン、伴内のタレント登場。
 
BS日テレの旅番組の取材で、秩父の「癒しのパワースポット」として紹介される由だが、ダンカンさんは川歩きの老人パワーにも驚いたようだ。
 
 うまい秩父うどんで腹ごしらえの後、更に山道にレスキュー車を乗り入れ、源頭に突き上げる支流の「入川」の偵察に向かう。どうやら昔の木材伐り出し用のトロッコ道が取りつき点のようで、明日の歩行計画が固まる。安心して今夜の宿、「中津峡・彩の国ふれあいの森」のコマドリ荘に到着16:30。山中に小さく開けた盆地に、百名山の「両神山」を借景にした素晴らしい所だが、連休前というのに泊り客は我々だけの貸切のようだ。コテージを1棟借りてアウトドア合宿気分を味わい、その上夕食は宿屋並みの豪華版。川合君に献杯の後、市岡時代の話に花が咲いて、せせらぎの音を枕に遅めの就寝となる。
 29日、爽やかな山の空気に早起きして散歩、今日も好天に恵まれそうだ。
いざ入川へ、勇んで車を発進させると何やら赤ランプ。オイルの警告のようだ。
 

 
昨日のダート道でオイルパンを傷つけたようだが、漏れは少量なのでそろそろと走る。9時に入川の「夕暮キャンプ場」、標高780メートルから、最後の行程を歩きはじめる。山道とはいえトロッコの廃道なので歩きやすく、渓谷を上から覗くと魚影が見えそうなほど透きとおった流れで、釣り人が先を行く。
汗ばんだ肌に緑の薫風が心地良く、のんびりと景色を楽しみながら歩くと、これまでの体調不良がうそだったかのように回復して行く。
いくつかの小沢を渉り、山すそを回り込むと、突然けわしい山道があらわれる。
 
どうやら「甲武信岳」(標高2475メートル)に至る「真の沢」への取りつき点のようで、ここに荒川源流の起点があるはずとみて探してみる。ほどなく崩れたコンクリートの護岸ブロックの上に「一級河川荒川起点」の碑を見つける。4月29日10:20、標高920メートル、ここから173キロメートル先の川歩き出発点「東京湾ゲートブリッジ」に至る起点に到着、バンザイ。源流の水で川合君の好物のウイスキーの水割りを作り再び献杯。平成19年10月31日に犬吠埼からスタートした利根川の322キロメートルとあわせ、足かけ8年、合計495キロメートルの長い川歩きも大団円をむかえたわけだが、達成感と云うほどのこともなく、ひたすらこの間の自然と人とのふれあいが懐かしく、とりわけ市岡の仲間と楽しく充実した時間を過ごせたことがうれしい。
 
 下り道は足取りも軽くスイスイと、往復7キロメートルを3時間足らずで歩き、車に戻ったところで再びバッテリー上がりのハプニング。若い釣り人の助けで事なきをえたが、レスキュー車で楽チンを試みたことにお灸がすえられたかのようだ。それでもいつもの駅前居酒屋で飲んだビールのうまかったこと。
 「源流をたずね分け入る緑かな」
 さてこれからどうする。

思い出を綴る(5)

3組   石井 孝和
 「キャップかサブキャップのどちらか手のあいている方一人、すぐ局に上がってきてくれたまえ」木村部長はこう“号令”して、受話器をガチャンと置いた。そしてまた例によって「クンクン」その様子がわたしには、とても滑けいに見えた。それから10分ほど経って——-。
 「部長!唯今到着しました。私に何かご用でしょうか」駆けつけたのはサブキャップの岡本幸男さん。直立不動で“赤城の子守唄”を歌っていた流行歌手の東海林太郎そっくりの人だった。それにしてもしゃべり口調がなにか兵隊さんみたいと思った。あとで気づいたことだけど、木村部長は“元帥”。
 その“元帥”が岡本サブキャップにあらためて号令した。「石井君に字を教えてやってくれたまえ」と。岡本サブキャップは「ハイ」と応えたものの「何を教えてあげようか」と首をひねっている様子だった。丁度、運良くというか、NHKと契約している共同通信社から送られてきているロール式のファクシミリーのニュース原稿の中に、その日、大阪国税局が新聞発表した近畿地方の“長者番付”があった。ニュースが帯状に出てくることから、これを部内では“ふんどし”と称していた。
 “岡本サブ”は、「いいもの見つけた」とばかりそのニュースの部分を破って、原稿をひらひらさせながら机に向かい、わたしの向かい側に腰をおろし、「ほんなら石井くんいくでー」と、気のやさしい先生が「書き取りを始めるよ」といった雰囲気だった。
 わたしは、「また試験を受けるみたいや」と内心思い、“岡本サブ”の“出題”を待った。
すると“岡本サブ”は長者番付1位の松下電器(現在のパナソニック)の社長、「まつしたこうのすけ」と名簿を読みあげたのに続いて漢字一文字ずつの字解きを始めた。「しょうちくばいのまつ」「うえしたのした」「こうふくのこう」「これ ひらがなのえやなあ」「次はすけべえのすけや」
昭和36年頃の報道部。目の前に電話がずらりと並んでいます
 わたしは、最後の「助」を書き終えてから「下品なことばやなあ」、「たすける」と言えばいいのにと思っていた。こうして次々と人名の字解きを習うことになった。「助」以外に「かいすけ(介)」「くるまへんのすけ(輔)」があることや「よこいち(一)たていち(市)」「はしごだか(髙)」などなど。
 この日のお勉強は、記者が電話で原稿を送る時に受け手に理解しやすくするためだった。
 日が経って、記者からの原稿を受け取ったり、テレタイプで原稿を他局へ送ったり、先輩諸氏の指導も受け、徐々に仕事を覚えていくようになっていった。
 その頃は、電話事情が良くないうえ、部屋がテレタイプのガチャガチャという音などで騒々しいため、堺市や岸和田市など、NHKの取材拠点である通信部などから加入電話や公衆電話を使い、しかも、放送局にある「電話交換台」を経由して原稿が送られてくる為相手の記者の声がなかなか聞き取れず、遂に机の下に潜ってしゃがみ込み、ひざをついて受話器の口を手でふさぎながら「はあ?」「はい」とワンフレーズずつ聞いては、体を起こし、原稿用紙に書きとることもしょっちゅうあり、その都度「ええ運動になるなあ」と言いあって部屋はまた明るく活気づいていた。
 わたしの職場は、総勢10人で、“内勤”と呼ばれていた。勤務は週1回“泊り”がある。“泊り”という勤務は、NHKを退職するまで、1年間の「考査室」所属を除いてずっと続いた。“内勤”の泊りは午後5時から翌日正午までが通常の勤務だった。
昭和35年、国会議事堂を取り囲んだ安保条約改定阻止の全学連デモ
 ニュースというのは「正確・迅速」が基本である。事件・事故などに該当するが「そんなに急がない」のを“ヒマネタ”という。そんな“ヒマネタ”が夜に京都・神戸・奈良・大津・和歌山の各局からドッと送られてくる。それをすべて一人で対応するものだから若いくせに“慢性肩こり症”にもなった。
 ことしは戦後70年、「日米新安全保障条約成立」55年という節目でもある。
 その安保条約改定阻止の学生運動が激しい折り“内勤”で働いていたわたしが大きなショックを受けた日があった。条約成立 昭和35年6月15日夕方、全学連主流派約4千人が国会構内に突入し、警官隊と激突する事件があり、この事件で東大文学部4年の学生一人が死亡した。
 翌日の午前10時すぎ東京からテレタイプでこのニュースが短い文章にして送られてきた。
その一部で「しぼうしたのは、とうきょうだいがく4ねんせいのかんば みちこさん(きへんにちゅうかみんこくのか しょうだみちこさんのみちこ)22さいで・・・」と打たれてきたのをわたしが、 原稿用紙に「死亡したのは、東京大学4年生の樺美智子さん(22)で」と楷書で書いて、デスクに渡すと、デスクはその原稿に目を通し、「下読み」を待ち構えるアナウンサーへ。 ラジオ第一放送の“一分ニュース”の放送時刻の10時30分、わたしはモニターのため壁に掛けられたスピーカーの下の机に向かって耳を傾けていた。
樺美智子さん(当時東大文学部4回生でした)
この年ローマオリンピックの実況を担当したアナウンサーが「かしわみちこさん・・・」と発音!わたしは「間違いやー」心で叫んだとき胸の内がキューと締まり胃袋に何か重い物がズシリと落ちた。すぐデスクへ謝りに、頭を垂れた。デスクの小林隆樹さん「石井君でなく僕の責任だよ」と。そして「ラジオは大切だからね」とも。
 小林デスクは今のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の吉田松陰に学んだ坂本龍馬が大好きなやさしい人だった。もちろん正午のローカルニュースで訂正してもらった。 (次号につづく)

「奈良市岡歩こう会」に行ってきました。

7組  張 志朗

 5月17日、奈良市岡歩こう会主催の春の例会に行ってきました。コースは生駒山上から生駒縦走コースを経て奈良側の近鉄生駒線元山上口駅までの約11キロです。案内状にこうありました。「春の歩こう会は、役行者の開いた元山上千光寺を訪ねます。生駒山上までケーブルカーで登り、下りの多いコースです。新緑の生駒山を下ります。足元が悪い所があるのでしっかりした靴でご参加下さい」
 久々の山歩き、それも11キロです。前日からリュックやトレッキングシューズその他、念をいれて準備し、朝7時半に家内ともども家を出ました。
緑のトンネル。私はへばってしまいかくのごとく最後尾です
 前々日まで雨が続いたのですが、この日は文字通りの五月晴れ、視界は極めて良好。初めて乗ったケーブルカーからはるかに見下ろす町並みや両側の新緑が実に美しい。スタートは生駒山山上遊園地です。
 参加者は32名で、お世話をして頂いている13期の中務さんが先頭、同じく13期の倉光さんがしんがり。10時すぎに出発です。12期は久保田靖子さん(1組)、古藤知代子さん(3組)、私の3名と家内です。関西の各テレビ局の鉄塔群を右に左に見ながら徐々に下って行くのでのんびり青空を見ながら歩いていたら、いきなりの急な下りです。先の雨ですべり易くなっていたため、足元には細心の注意が必要。20~30分も歩いていると膝と太ももに負担がかかっているのがよく分かり、先行きが心配になりました。
 生駒山は海抜642m、大阪平野の眺望を楽しめるだろうと思っていたのですが、ひたすら足元のみを見なければならない状態で、それどころではありません。
 日頃、見慣れている生駒山はなじみ深いなだらかだけの山ですが、やはり山は山、分け入ると木々は高く深く、また登り下りは一筋縄では行きません。ひたすら黙々と下ります。私は普段からスポーツらしきものはなにもしていないのですぐにへばりますが、久保田さん、古藤さんはじめ参加者の皆さんは健脚で、いつのまにか私が最後尾です。
 しかし、さかんに鶯が鳴き続け、さながらその鳴き声のトンネルを歩いているよう。見上げれば木漏れ日と透け見える薄緑が優しくそして美しい。存分に森林浴を楽しみます。
 ようやく平地に出て、暗峠への分岐あたりで小休止。谷筋の細長い棚田では農家の人が田植え前の準備を忙しそうにしていました。山でマラソンなのか、ランニングスタイルの人達が駆け足で追い越していきます。若い人達だけだろうと思っていたら、40歳くらいの女性までおられたようで、頑張っているなあと感心することしきりです。
 昼食場所の休憩所まであと少し。その直前の長い登りがこの日のコースで一番きつかった。コンクリート舗装の道を前かがみでひたすら登ります。山ですから登り下りは当たり前と思いながらも身の程を思い知らされました。
 昼食はこじんまりとひらけた休憩所でとりましたが木立が取り囲み、その新緑が一段と瑞々しい。(集合写真をご覧ください。)ようやく座ることができました。またペコペコのお腹におにぎりが大層おいしい。驚いたことにここで今年初めての蝉の鳴き声を聞きました。
 恒例の参加者皆さんの自己紹介です。最高齢者は高校2期の方、もっと若い方が高校22期でもっとも多く参加されたのが、中務さん、倉光さんと同期の13期でした。13期は昨年、思い出の高校修学旅行コースを30数名で再訪したそうです。
2015春「奈良市岡歩こう会」全員集合です。

 昼食後、千光寺に向けて出発です。またしばらくきびしい下りが続きました。食後で元気は回復しているとは言え、腰に疲れがたまります。ようやく緩勾配になった頃から右手に渓流が出てきてその沢の音に励まされながら下ります。気分は一気に清々しくなり、朽木を拾って杖替わりしたのも幸いしたのか、快調です。

ようやくたどりついた千光寺のお堂です。

 千光寺は開基が役行者。大峰山(山上)を開くまでここで修業をしたそうで、行場は今も残っているそうです。そういえば途中の立派な竹林の傍に行場を示す道しるべが幾つかありました。山門は石造の階段を登ったところ、境内はそう広くはありませんが歴史を感じさせる佇まい、ここで参拝をかねて小休止です。休憩中、山門下の小さな滝で、これも今年初めてトンボが群れ飛ぶのを見つけました。

トンボを見つけた小さな滝
清滝石仏群付近です。
磨崖仏の貝吹き地蔵。

 ここから清滝石仏群を右に左にしながら、ゴール地点の近鉄元山上口駅に向かいます。この付近は道もなだらか、石仏と清流と豊かな緑で独特の雰囲気があります。八尺地蔵、五智如来、はらみ地蔵、ほら吹き地蔵などの磨崖仏や小さな石仏がみられました。特に苔むした磨崖仏の貝吹き地蔵には感動の一言。出発時にもらった案内図によると八尺地蔵は鎌倉期だそうです。
 いよいよゴールの元山上口、全員無事に完歩です。足や腰に痛みはありますが、ゴールは素直に嬉しい、またその達成感格別のものでした。再会を約束してここで解散となりました。

「12期の広場」 5月号 ラインアップ

 5月、新緑が本当に美しい時期です。朝の散歩で少し足をのばし、通学路の傍の見晴し台付近まで行くと目の前になだらかな山並みが続いているのですが、今はまさに清々しい緑の「山笑う」です。深い常緑樹の緑の中に一かたまりや帯状に新緑がかぶさりながら連なるさまは例年とはまた違う格別の印象。耳をすませば笑い声さえもきこえるのではと思ってしまいます。先月は「菜種梅雨」の言葉通り、雨がよくふりました。お天気もほとんどが雨または曇り、時には嵐のような風と「花冷え」の寒気がありましたがここにきてやっと一段落。晴天がつづきで気温もぐんぐん上がっています。立夏目前で、野も山も貯めに貯めた力をあわただしく爆発させているようです。
 真新しいランドセル姿の一年生たちが目の前を通りすぎます。聞くとはなしに聞こえるお喋りはたわいもない話題、笑いといたずら声がはじけて微笑ましいかぎりです。朝日を背中に光らせながら、歩いては走り、走っては歩いて学校に向かう姿に気持ちが暖かくなります。
 我が家の庭でも、今年も駄目かなと思っていたきりしまつつじが、見事な花をたくさんつけ、追いかけるように小でまり、大でまりが今盛りです。
 以前この欄で、5月がゴールデンウイークから始まることについて皮肉っぽいコメントを書いたことがあります。しかし今年は素直に喜んでいます。その訳は二つです。4月から一年だけ某法人の委嘱職員になり週4日のサラリーマン勤務が始まった事と岡山から孫が来る事です。今まで自営であっただけに通勤や仕事の時間は自由になったのですが、サラリーマンになるとそうは行かないようです。当たり前のことながら、出勤、退勤は勿論、昼食休み時間の1時間も皆さんに合わせてのきっちりです。そうなるとカレンダーの連休はありがたい骨休めになります。有給休暇を上手にはさむと何日連続して休めるかなど、ほとんど初体験の「サラリーマン的思考」が新鮮です。とは言っても、今どきの若者のように豪華なレジャーの計画があるわけではなく、行きあたりばったりの休日を過ごすだけのゴールデンウイークになることでしょう。
 
 さて「12期の広場」5月号のラインアップは次の通りです。お楽しみ下さい。
 
  1.  「市岡の森 お花見会
  2.  「韓国語の入門コースを終えて」             4組   藤田 勝利
  3.  「思い出を綴る(4)」                     3組  石井 孝和
  4.  「寒川君のオンステージを聞きに行きました」       7組  張  志朗
 
以 上